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環境倫理学の倫理性

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環境倫理学の倫理性

越部良

れぱならない。人が生き延びること、そのこと が善であるのかと。これによって、生き延びる ことは善であるという、我々が陥りがちな可倫 理的に問題含みの想定に対して、反省の眼が向 けられる。

こうした反省は、自然破壊に、ごく自然にソ クラテス的な悪しき意志を感じ取る人にとって は、ことさらのことと思われるかもしれない。

しかし、環境倫理学は主としてアメリカ発の学 問であり、アメリカの倫理思想には功利主義的 傾向が強いのである。倫理を功利主義的に考え るなら、ソクラテスの言う意味での善く生きる ことと単に生きることの区別は消滅する。そこ では快適に生きることを目指す思考が倫理学と 呼ばれるのである。こうしたことがあるので、

環境倫理学の倫理性について、反省の眼を向け る必要もまた強く感じられるわけである。

「-番大切なことは、単に生きることそのこと ではなくて、善く生きることである」(クリ74)。

これは、倫理の根本原則である。そして、善く生 きることには、次のような姿勢が含まれる。「ど んな真似をしてでも死を脱れんと図ることは、私 も、また他の何人も、なすまじきことだ゜…だか らどんな危険に際しても、もし人がどんな事で もしたり言ったりするつもりでさえいるならば、

死を脱れる方法はなお他にいくらでもあるので ある。否、諸君、死を脱れることは困難ではな い、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なの である。それは死よりも速く駆けるのだから」

(弁明55)。人間は、必ずしも生き延びることが 至上の価値とはならない。そのことがソクラテ ス以来、超感性的なものを見やる倫理学の根本 命題であった。環境倫理学も、倫理学である以 上、生き延びるための倫理学ではなく、善く生

きるための倫理学であるはずである。

環境倫理学が、「環境を破壊することは悪しき ことである」と想定する場合、倫理の命題とし て、人はこれにほとんど違和を覚えまい。それ は「環境破壊」や「自然破壊」に、古典的な(ソ クラテス的な)意味における人間の悪しき意志 を想定して、反倫理的なニュアンスを込めるこ とができるからである。しかし、倫理の命題で あるはずのこの命題を、「地球環境が悪化するこ とは悪しきことである」と言い換えられると人 が単純に考えるなら、それは倫理的に問題であ る。なぜなら、それは、人が生き延びることに とって悪しきことである、というニュアンスを も帯びてくるからである。ここで人は立ち止ま って問わねばならない。なぜ我々は環境が悪化 することを悪しきことと考えているのかと。人 が生きられなくなるからと答えるのなら、先の ソクラテスの言葉を見やりながら問い返さなけ

[-]二つの異なる倫理学(超越的なものに連関 する倫理学と連関しない倫理学)

(1)感性的なものを超える倫理学

「どんな行為に際しても、試金石として人がそ の道徳的な内実を吟味するにちがいない、純粋 な倫理性とは一体どんなものか、ともし人が問 うなら、この問いを疑問とするのは、ただ哲学 者たちだけであると言わねばならない。この問 いは、普通の人間理性で鼠、抽象的普遍的に定式 化されていなくとも、日常的なやり方によって、

いわば右手と左手の相違のごとくに、とうの昔 に答えられているのである。だから、まず初め に、純粋な徳を見分ける標識を-つの実例のも とで示してみたい。…[少年に]ある正直な男 の人の物語をしてみよう。この男の人を、純真 無垢であるが、他にこれといった力をもたぬ人 物…を誹譲中傷する一味に加えようとする。-

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味の人はまず利益を、派手な贈答の品々や高位 を提供するが、彼はそれを拒絶する。…さて次 に、一味は脅迫を始める。無実の人物を誹誘す るこの一味の中には、とても親しい友人たちが いて、この男の人に絶交を言い渡し、また親類 縁者がいて、彼(財産がない)に遺産を分け与 えないと脅し、権力者がいて、彼がどこに、ど んな状態でいようとも迫害し、困窮させること ができ、領主がいて、彼を監禁し、それどころ か生命すら奪うと威嚇する。…にもかかわらず、

心をぐらつかせず、迷うことなく、正直な志を 曲げない、そうした有様を物語る。これを聞い た少年は…この上ない尊敬の念と、自分もその ような人でありえたら(無論そうした境遇にあ りえたらというのではないにしても)という生 き生きとした願いを強くもつことであろう。だ がここで徳は、それほど大きな犠牲を払う、た だそのゆえに、そのような大きな価値があるの であって、何かを得させるから価値あるのでは ない。どんな賛嘆も、この人のようであろうと する努力も、ここではすべて倫理的原則の純粋 さに基づくのであって、この純粋さが正しく眼 前に想い描かれることができるのは、人間たち が単に幸福に数え入れるものはどんなものであ れ、行為の動機から取り去る、ということによ ってだけである。…倫理性は、苦しみのうちで

最も見事に自らを示すのである」(KPVl77)。

倫理が何であるのか分からなくなっているの はある種の哲学者くらいのものだと皮肉めかし てカントが言うように、実際、哲学の世界にお いて倫理は一義的でなくなっている。現代で倫 理学と呼ばれるものには、原理を異にする二つ のものがある。それは、超越的なものに連関す る倫理学と連関しない(単に内在的な次元にと どまる)倫理学である。超越的なものとは、超 感`性的なものと言い換えることができ、それ自 体は、見たり、聞いたり、触ったりといった感 覚の対象ではない。プラトンの「善のイデア」、

カントの「神」、「来世」、あるいはヤスパースの

「超越者」といった概念は、そうしたものを示し ている、。こうした超越的なものに連関する倫理 学においては、超感`性的なものが倫理の基準と

なり原理となる。人間の魂の善は、ここでは超

越的なものに関連することのうちにあり、悪は それから離反することのうちにある。これに対 して内在的なもの(感性的なもの)にとどまる 倫理学の代表例は、功利主義である。そこでは、

快という世界内の感性的なものが倫理の根本原

理であり、究極目的である。ベンサムは言う。

「自然は人類を苦と快という二君主の支配のもと においた。我々が何を為すべきかを指示し、な らびに我々が何を為すであろうかを決定するの は、ひとえに快と苦のためである」(Pll)。「快 はそれ自体として善である。それは苦を免れる ことを除けば、唯一の善である。そして苦はそ れ自体として悪であり、実際に例外なしに唯一 の悪である」(P100)。ミルもまた言う。「究極目

的は、できるだけ苔を免れ、できるだけ楽しみ

多い生存であり、(我々が自身の善を考慮するに せよ他人の善を考慮するにせよ)他のあらゆる ものが望ましいのは、この究極目的に関連する からであり、この究極目的のためなのである」

(U11)。

(2)超越的なもの(超感性的なもの)に連関す

る倫理学の特徴

超越的なもの(超越者)が、見たり触ったり できるものでなく、本質的には個人の内面性を 通じてしか近づくことができないものであるの に対して、内在的なものが感覚の対象としてあ るのに応じて、超越的なものに連関する倫理学

(それをここでは「超越倫理」と呼ぼう)と連関

しない倫理学(それを「内在倫理」と呼ぼう)

とでは、善悪の境界線を、根本的に内面のうち に見、個人の内面に絶対的価値を置くか、それ ともその境界線を外面(ひいては社会)のうち に見て、外面的なもの(社会)へ個人を吸収する 力、の違いがある。さらには、内在的な超越者(超 越的なものの現象)という思考があるか、ない かという違いがある。超越的なものに連関する 思想では、この連関する場はやはり内在(世界)

なのであるから、世界がいわば二重化するわけ である。例えば、ヤスパースの言う超越者の「暗 号」2)という思想がそれである。また、この世界 の二重化に応じて、超越倫理では人間の存在様 態のうちに根本的区別を立てる。たとえばカン トの感性一(純粋実践)理性、プラトンの肉体一

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強くもつことになる。ミルの言う「社会的な自 由」(L65)とはこれである4)。そこでは社会の (法などによる)強制や束縛からの解放は、超越 的なものへと連関するためにあるのではなく、

快という内在的なもののためにある。「たとえば、

密通[姦淫]は許されなければならぬし、賭博 もそうである」(L154)とミルは言う。ここでの 自由はただ、同意しない他者を害するという点 にのみその限界を認める。だから、売春斡旋人 や賭博経営者の自由まで認めるべきかの点では 疑問の余地はある(それを欲しない他者を巻き 込みかねないから)が、少なくとも、「自分の家 や他人の家で[私的に]、あるいは会費で建てら れた、会員と会員の招待客だけが入れる集会所 で、賭博をするのは自由である」(Ll55)5)。

(3)倫理と伝統(歴史)および(歴史的な)共 同体

超越倫理は、超越者一内在者の二重構造をも つ。この倫理では、完全な普遍性は超越性のレ ベルに置かれる。このことによって、この倫理 は内在者の特殊性、多様性を超越者の現象であ り、超越者への道として位置づけることができ るのであり、それは内在者の特殊性を、根本的 にはいろいろな個人を、積極的なものとして位 置づけることでもある。これに対して、単なる 内在倫理が普遍性(それは善そのものを目指す 倫理にとって避け得ない表象である)を目指す なら、それは内在から取り除き得ない特殊性と 必ず衝突しよう。この衝突において普遍性を無 理に貫こうとすれば暴力的になる。衝突を避け ようとすれば相対主義(普遍性の放棄〉に陥っ て、他の善を信仰する者あるいは共同体と関係 を断とうとする。いずれにしても、倫理に反す ることにならざるをえないであろう。

さてところで、現象(内在者)のうちに、特 に超越者に関連する手掛かりとなるような内在 者はないだろうか。そうしたものを、二つ指摘 できよう。一つは伝統であり、もう一つは(伝 統的な)共同体である。超越者とはいかなるも のか、超越者が超感性的なものであれば、当然、

それ自体としては掴めない。だから、倫理はつ ねに暖昧なところを残し続ける。こうした倫理 にとって、手掛かりを与えてくれるものが、歴 魂、ヤスパースの現存在一実存といった区別が

それである。

超越倫理と内在倫理とでは、いかなる自由を 道徳的とするかも異なってくる。超越倫理にお ける道徳的自由とは、肯定的に表現するならば、

超越的なものに連関すること、であり、否定的 に表現するなら、感性的な欲望(性欲や金銭欲、

そして生存欲)の克服である3)。「我々自身の理 性が…あることをなすべしと命ずるが故にその ことをなし得るという意識をもつことは、いわ ば感性界そのものを超え出ることを意味する」

(KPVl82)。これがカントの言う自由である。ヤ

スパースは同様のことを、次のように表現する。

「最高の自由は、世界からの自由のうちにあって 同時に超越者への最も深い結びつきとして知ら れる」(Em36)。なぜ人が道徳のうちで死ぬこと ができるのか、その秘密がここにある。それは プラトンが「死の学び」と表現した事態である。

「魂が清浄な状態で肉体を離れるばあいを考えて みよう。この魂は肉体的なものは何一つひきず っていない。これは、魂が一生のあいだ、自分 からすすんで肉体と協同したことはなく、肉体 を避けて、自分自身へ集中してきたからであり、

このことをいつも練習してきたからである。こ れこそ、真に哲学することであり、真の意味で 平然と死ぬことを練習することにはかならない」

(パイドン529)。

超越的なものは超感性的なものであるという ことが、人間が自らの内的な行為を通じて超越 者に連関するという、こうした意味での自由の 前提となっている。なぜなら、カントが言うよ うに、「神と永遠性とが、その恐るべき威厳とと もに我々の眼の前に不断に現前する」(KPV168)

としたら「人間の振る舞いは、単なるメカニズ ムへと変えられるであろうし、そこでは人形劇 におけるように、あらゆるものがうまく身振り をつけられるであろうが、しかし登場人物たち にはいかなる生命も見出されないであろう」

(KpV169)から。

これに対して、内在倫理において、自由とは 自らの欲求が他者によって抑圧されぬことであ り、この自由は外面的なもの(内在者を欲求す るもの)として、法規制からの自由という面を

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史、古典であり伝統的な共同体である。古典と 伝統的な共同体には、言葉をはじめとして、超 越者に関わる多くの物事が存在しているのであ

る。

ヤスパースは、人間にとって超越者が明断に 自覚された時代を、紀元前5世紀ごろの前後数 世紀の時代に見る。このころ、ギリシャではソ

クラテスやプラトンが、インドでは釈迦が、中 国では孔子や孟子が、イスラエルではエレミヤ やイザヤが出現した。「この時代の新しさ」は、

そうした世界のいろいろな場所で、「人間が、存 在の全体、自己自身、および自己の限界を自覚 するようになったということである。…人間は 自己存在の深みにおいて、超越者の明噺さのう ちで、無制約性[=自由]を経験した」(G20)。

「このとき生じたもの、このとき創造され思惟さ れたものに基づいて、今日に至るまで人類は生 きている。人類のどの新たな飛翔においても、

人類は想起しつつかの枢軸時代に立ち戻り、そ こから新たに魂の炎をともされるのである」

(G26)。このゆえに、その時代をヤスパースは

「枢軸時代(Achsenzeit)」と呼ぶわけである。

現代は「内面的に、枢軸時代と何か明らかに まったく別なものが問題なのである。当時は充 実が問題であったが、今日では空虚が問題なの である」(G179)とヤスパースは言う。こうし て、現代の課題が、枢軸時代を顧みながら、内 面を立て直すことと捉えられる。それは伝統、

古典を規準にしながら考えるということである。

「我々の課題は、今日、ニヒリズムのこれ以上な い高まりのうちにあって、なお一なる永遠の真 理を確信するということである。これは、外面 的に知ったり、単に考察したりするのではなく、

自己を投入し、内面的に伝統のもとにいるとい う仕方で~伝統を我がものとすることを前提と する」(PG129)。

伝統(古典)の尊重(例えば孔子におけるよ うに、それは枢軸時代の思考に既に見られる)

は、伝統というものがそれぞれの地域の伝統と いう面ももつのであるから、歴史的な共同体、

歴史的な国家の尊重と結びつくものである。ソ クラテスは「人間社会のもっとも長久にしても っとも賢明なものである国家および国民は、神

を敬うこと最も厚きもの」であると言う(思い

出54)。こうした考えからすれば、国家は神関係

における手掛かりを与えるものとなりうるので ある。国家に限らず、長い歴史をもつ共同体(宗 派、大学など)には、超越的なものとの関連の

手掛かりとなるものが伝えられていよう。神関

係が内面的なものである限り、そうした共同体 のうちでは、共同体と相対時し得る個人の大切 さが根拠付けられることになるにしても、伝統 的共同体の尊重は、超越倫理にとっての一つの 姿勢であろう。

以上のような超越倫理の観点(とりわけ重要 な観点は、「死の学び」という観点と歴史、伝統 という観点である)から、いくつかの環境倫理 学の思考を、以下に検討して見よう。

[二]功利主義的な動物解放論と環境倫理学(シ

ンガー)

シンガーによれば、倫理は「関係者すべての 利益を比較考量し、これらの利益を最大にする 可能性の最も高い行為を採用するよう私に要求 する」(PE13)。利益は、快を感じさせるものは 利益であり、苔を感じさせるものは不利益であ るという形で快苦に関係する。この考え方は快 苦を根本的な基礎とするがゆえに、シンガー自 身が認めているように(PEl4)、功利主義的で ある。脱あるいは苦を経験することのできる存 在の生命に価値があるとする最も明白な理由は、

それが経験することのできるその快である。も し我々が自分自身の快楽一たとえば食事、セ ックス、全速力で走ること、暑い日に泳ぐこと といった快一を価値あるものとするならば、

倫理判断の普遍性は、自分が経験するこれらの 快の肯定的な評価を、快を経験することのでき るすべてのものの似たような経験にまで拡大す ることを要求する」(PE101)。したがって、倫 理的な配慮は、人間を越えて、快苦を感ずるあ らゆる動物に及ぶ。動物を苦しめる畜産工業や 動物実験などは批判され、「動物の解放」が唱え

られることになる。他方、倫理的な配慮は感覚

能力の欠如した植物や、山川といった無生物に は及ぶことはない。

シンガーの動物の解放の考え方は、動物の権

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利を認めるものとして、人間の権利だけでなく 自然の権利を主張する環境倫理学の一つの流れ との関連で言及される。それだけでなく、シン ガーは「実践の倫理」第二版において、上のよ うな快苦に基づく倫理観によって環境倫理学を も考えようとしている。以下、こうしたシンガー の倫理観を批判してみよう。

(1)動物と人間との同一視、あるいは動物をあ る種の人間以上に見ること

超越倫理は、人間と超越的なものとの関連を 倫理の中心に据えるから、人間は倫理的には他 の存在者より優位をもつものと捉えられる。例 えば、カントにあっては、人間だけは手段とな らぬ目的自体であるし、プラトンも「人間の魂 は、どの魂でも、生まれながらにして、真実在 を観てきている。もし観たことがなければ、こ の人間という生物の中には、やって来なかった であろう」(パイドロス67)と言う。また、ヤス パースは、「最も貴重なものは、宇宙の中では人 間であり、[物質、生命、心、精神という]実在 性の段階の中では精神である…。これと違った ように判断するなら、我々は量的なものの暗示 に屈服して、人間存在の意味を放棄するのであ る」(KSl80)と述べている。

しかし、シンガーの倫理観は、快苦を感ずる 能力という点を中心にするから、この点で動物 と人間を同一視することになる。この同一視は、

彼が、チンパンジー、ゴリラ、オラウータンな どを「人格」とすることにも見られる(PEll7f)。

「人格」とは、意図をもって行動でき(それが

「理性的」と呼ばれる)、自己を意識している状 態である。また、ある種の人間(たとえば植物 状態の人間、胎児、乳児)の快苦を感ずる能力 (及びそれに連関する能力)は、ある種の動物よ り劣ると見られるから、それらの動物はそうし たある種の人間以上に見られることになる。「胎 児の生命は…理性や自己意識、感知、感覚能力 などで似たようなレベルにある人間以外の動物 の生命と同じだけの価値しかなく、また、胎児 は人格ではないのだから、胎児には生存を要求 する人格と同じ資格はない.これらの議論は胎 児と同様に新生児にも当てはまることが認めら れねばならない。…理性、自己意識、感知、感

党能力などの点で、生後一週間、あるいは-ヶ 月の赤ん坊よりもまさっている人間以外の動物 がたくさんいる」(PE169)。「たとえばチンパン ジーを殺すことは、生まれつきの知的障害によ って、人格でなくまた人格でありえない人間を 殺すより、悪いことのように思われる」(PE118)。

シンガーの以上のような見方に人が違和感を 抱かざるを得ないのは、人は人間を感覚能力や シンガーの言うような「人格」の観点からだけ で見ることをしないからである。こうした見方 以外に、第一に生命を我々は授けられたものと いう見方で見るところがある。生命というもの は人間の力が作り出したわけではないから、生 命の営みに人間の力を超えているはたらきが感 受される。超越倫理では、生も死も、根源的に は超越的なものによって与えられ、命じられた ものと見るから、人間が生死を扱う際にはそれ への配慮が要求される。プラトンは言う。「神々 が我々をみまもっておられ、我々人間は神々の もちものの一つなのだ。神さまがなにか逃れら れない運命を与えたもうまでは、自殺してはい けないということはけっして理屈にあわぬこと とはいえない」(パイドン499)。超越倫理の死の 学びは、それが超越者に連関する善き生を目指 すことと-つであるときにのみ真なるものなの であって、人間の単なる内在的な考慮だけで死 ぬことには無論反対する。第二に、聖書の神話 的表象で言うなら、人間は神の似像であるとい うような見方がある。(チンパンジーなどではな く)人間だけが神の観念をもちうる。人間を世 界の諸存在中最高位に位置づける見方は、こう

した見方をいろいろな形で表現しようとするの である。第三に、(障害などによって)自己意識 などをもち得ない人間の在り方というものは、

人間にとってある種のはたらき(力)をもって いる。我々は生命に対してある種の畏怖をもつ だけでなく、通常の生命のあり方と異なるあり 方に対しても畏怖をもつところがある。なぜな ら、(たとえ医学的に解明されようとも)運命的 な謎としての「なぜ」には、人間には答えられ ないからである。

(2)快に基づいて殺すことの是認

シンガーの動物解放論は、動物と人間との調

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和的な共存を説くものでは必ずしもない。シン ガーの倫理は、生命ではなく、あくまで快を倫 理の中心に置いており、そこから見た生命(あ るいは死)と快との関係は、原則的に言えば、

次のように表現しうるものである。「死はすべて の快の経験の終わりである。だから、ある存在 が将来快を経験するだろうという事実は、その 存在を殺すことは不正であると主張する一つの 理由となる。むろん、苦についての同じ議論は 正反対の指摘をする」(PElO1)。つまり、改善 の見込みのまったくない苦の生活を送っている 生命を殺すことは許されることがあるというこ とである。だからシンガーは積極的安楽死を認 める議論を展開する(消極的安楽死は、苔を引 き伸ばすおそれがあるとして疑問を呈する)。苦 の生命はいらないということは、快苦が生命よ り上位の観念であることを意味している。だが しかし、シンガーの観点から、苦を少なくする 選択は正当化できるが、快を多くする選択は正 当化できないというようなことはないであろう から、これはつまり、殺すことによってもたら される快が殺すことによってもたらされる苦よ り大きければ、その殺すことは正しいというこ とを含意する。つまり、より大きな快のために 動物や人を殺しても善いということになりかね ない。

(3)なぜ植物に対する配慮は排除されるのか

「感覚をもつ存在を越えて、納得出来る仕方で 倫理を拡張することは困難な仕事である。感覚 をもつ生き物の利益に基づく倫理は、よくわか る根拠の上に立っている。…しかし根が水浸し になってしまったために死んでいく木であるこ とが、どんなことなのか、それに対応するよう なものは何もない」(PE277)。共感不能という 同じ理由から、「樹木、生態系、種は、感覚をも つ存在に似ているというよりは岩石の方に似て いる」(PE283)と言われる。しかし、我々は、

生命が一般に何を「求める」かということを理 解できるし、したがって、生命体一般に対して、

配慮しうるはずである。

シンガーはこの「求める」に対して異議を持 ち出す。「我々はしばしば、植物が生存できるよ うに水や光を「求めている」と言うかもしれな

いが、…しかし植物は意識がなく、意図的行動 に従事できないという事実を立ち止まってよく 考えてみるなら、こうした言語がすべて隠喰的 であるのは明らかである。同じように、川は自 らの善を追求して海にたどりつこうと努力する とか、誘導ミサイルの「善」はターゲットと一 緒に自分自身を爆発させることだとか言うこと ができるのだろう。…植物は[「あこがれ」「高 揚」「快」「恐怖」といった]これらを何一つ経 験しない。さらに植物や川、誘導ミサイルの場 合、起きていることの全く物理的な説明を与え ることが可能である。意識がないところで、生 物の成長や衰退を支配する物理的な過程に対し て、無生物を支配する物理的な過程より以上の 尊敬を払うべき十分な理由はない。だから、な ぜ鍾乳洞よりも樹木に、山よりも単細胞の有機 体の方に、より大きな畏敬の念をもたねばなら ないか少なくとも明らかではない」(PE279)。

第一に、植物の活動は、ミサイルのように物 理過程のみで説明し得ない。樹木は岩石に似て いる、とシンガーが言うのは、あくまで感覚を 中心にして物事を見るからであって、樹木が岩 石とも意識をもつ存在とも異なるのは自明のこ とである。第二に、植物が「求める」というと き、それが人間や動物のものとまったく同じで あること言っているのではむろんないし、まっ たく同じなら比喰にならない。比嶮は比嶮でな く受け取られるとき非真実になるのであって、

比喰として適確なら(シンガーの挙げている例 が奇妙な感を与えるのは、それが比嶮であるか らでなく、比噛として不適切だからである)、そ れは何らかの事を言い当てうる。そして、比喰 を科学や哲学において一切使わないということ は、言葉それ自体が比喰的なあり方をもつから

不可能なことである。

(4)快に基づく倫理は自然環境の保護と同様に 環境の破壊をも主張できる

シンガーの環境倫理は、「資源を節約しリサイ クルすることを徳とし、賛沢と不必要な消費を 悪徳とするだろう」(PE285)と言う。しかし、

彼の倫理は快を根本原理としているのだから、

「倹約や質素な生活を強調することは、この環境 倫理が快にまゆをひそめることを意味するので

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はなく、環境倫理が価値を置く快は、派手な消 費からは生じないことを意味している」(PE288)

と言われ、例えば原生自然は、「科学的知識」や

「レクリエーションの機会」を提供するものなど として、人間の欲求に適合的であるゆえに保護 されるべきものとされる(PE271)。

問題は、快楽を基礎とする環境倫理が、快楽 を基礎とするという点で、環境保談と必然的に 連関するものでもないし、自然を破壊する態度 と原理的に対立するものでもないということで ある。シンガーが環境の保護を主張するとき、

保誕の対象は、人間および動物に快をもたらす ものに限定される。シンガーが「派手な消費」

とか「不必要な消費」とか言うとき、これは、

功利主義の規準からして、全体として人間と動 物に苦を与える消費のことであり、最終的には 地球環境を全体として損ない、結果として人類 の滅亡につながるような消費であろう。つまり それは、部分的、短期的には快を意味すること はあるにしても、長期的、全体的にみれば、快 をしのぐ苔を意味するがゆえに、避けられなけ ればならないというわけである。しかし、これ では、人間と動物とに全体として、そして最終 的に苦を与えず、人類と人類以外の動物の多数 の滅亡につながらないような自然破壊は否定で きない。

「[ダムを作るか否かの]決定の根拠を人間の 利益をこえたところまで広げるならば、ダムを つくる経済的利益に反対すべき理由ははるかに 大きなものになる。そこでは水没する地域に生 きる人間以外のすべての動物の利益も計算に入 れられねばならないのである。…溺れるにしる 餓死するにしろ、楽な死に方ではない。これら の死に伴う苦しみには、人間が経験する同等の 量の苦しみと同じ重みが与えられるべきである」

(PE275)。だがしかしこれは(人間以外の動物 を含む)快苦の計算からして、自然を破壊する ことが阻止される事例があるということを言っ たに過ぎない。快に基づく環境倫理は、原理か らして、ある場面では環境の破壊を主張するこ ともできるのであるから、あたかもシンガーが、

この倫理を、環境保全の倫理として通用するか のように述べるのは、一面的な述べ方である。

[三]超感性的なものへのまなざし力狸昧な環境 倫理学一デイープ・エコロジー(ネス)

人間の感性的な利益、欲求実現を必ずしも中 心にしているとはみられない環境倫理学として、

ディープ・エコロジーがある。ディープ・エコ ロジーの代表的論者であるネスは次のように言 う。「単に「生命の流れにおける滴」である我々 が、「神の作品」を好き放題にしてもよいという ようなことは、正しいことでありえないとレイ チェル・カーソンは見た。我々は、我々と区別

されるような自然の外にいるのではない。した がって、自分自身を変化させることなく、好き 放題自然を処理することなどできない。…我々 は社会の一部であるのとまったく同じような親 密さでもって、生態圏の一部なのである。しか し、「生命の流れにおける滴」という[カーソン の]表現は、もし滴の個体性が流れのなかに失 われてしまうという意味を含んでいるとすれば、

誤りとなりかねない。ここには辿るには難しい 尾根がある。この左手には有機的・神秘的眺め をした大海があり、右手には原子論的個体主義 の深淵がある」(ECLl65)。こうした引用から

も、ネスの思考の根本的な要素を取り出すこと ができる。それらは、「生態圏」、「生命」、「個体」

(自己)、「神」である。以下、「エコロジー、コ ミュニティー、ライフスタイル」におけるネス の思考を見てみよう。

(1)生態系の重視

「生態学的な研究と心理学的な研究は、我々の 展開する自己が、見渡し得ないほど多様で豊か な自然現象との間に有している結びつきについ て、圧倒的な証拠を提供する。この結びつきは、

主に生態圏の生命との結びつきだが、無機的な 自然との間の結びつきでもある」(ECL164)。「生 きそして生かせ、という格律は、全生態圏にお ける無階級社会を示唆し、次のような民主制を 示唆する。つまり、この民主制においては我々 は人間存在に関してだけではなく、動物、植物、

そして景観にとっての正義についても語ること ができるのである。このこと[生態圏全体にお ける階級なき社会の示唆]は、すべてのものの 相互関係性を非常に強調し、私たちの自我は断 片であって、それだけで孤立させうる部分では

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ないと言うのである。…大いなる全体[生態圏 全体]との一体化によって、我々はこの全体の 創造と維持とに参与する。我々はそれによって この全体の偉大さを分かち持つのである。…我々 の一体化の進展の広がりと深さに応じて、自我 はますます偉大な次元の自己へと展開するので ある」(ECL173)。

しかし問題は、第一に、生態系の保護は、個 体の保護と同一ではない。したがって、この発 想だけでは、個々の生物体の大切さは言えない (「個体」の観点は後に見る)。第二に、自然、あ るいは生命の統一(一体化)ということは、自 然の一面を取り出したのに過ぎない。一つには 生存闘争における生命間の対立がある。二つに は、生命を脅かす自然というものが存在する。

大地震、大津波、大洪水、旱魅、こうしたこと のうちで生命は滅ぼされ、それは自然の調和で なく荒廃をもたらす。三つには、生命の歴史の うちには、種の絶滅ということがある。生命の 統一があるにしても、こうした絶滅によって、

その統一は乱される。

ネスもまた、生存闘争という自然の別の面を 認めてはいる。「平等の権利という言葉でもって 定義される生命圏平等主義の原則は、人間の必 要は人間以外のものの必要に優先されるべきで はないという意味に時に誤解されてきた。しか しこのような意図はまったくない。実際におい て我々は、たとえばより近いものに対しより大 きな責務を負う。これは、人間以外のものの殺 生や傷害を時には含むような義務もあるという

ことである」(ECLl70)。しかし、こうした生命 の間にある対立は重要視されておらず、「生命の 統一性と生存し開花する権利という根本直観」

(ECL167)が前面に出ているのである。

(2)生命中心

「あらゆる生命形態の生存権は、量で測れない 普遍的権利である。ほかならぬこの生存し展開 する権利を、他の生物種より多くもつ種は一つ としてない」(ECL166)。したがって、「ある存 在が永遠の魂をもつなら、この存在は、時間的 に制限された魂をもつもの、あるいはまったく 魂をもたないものより大きな内在的価値をもつ」

ことも「ある存在が自己を意識し、そして選択

の可能性を意識するなら、この存在はそのよう な意識を欠くものより大きな価値をもつ」こと もネスは否定する(ECL167)。つまり生命は、

意識、魂といったものよりも、そして永遠性に 連関する魂よりも重視されて、ネスの観点の中

心的位置を占める。ところで既に見たように

「我々は傷つけたり殺生をせざるを得ない。言

い換えれば他の生物の自己展開を積極的に妨げ

ねばならない。潜在能力を展開する平等な権利 は…殺生を制限する指針を、より一般的には、

他の存在の潜在能力の展開の妨害を制限する指

針を示唆している」(ECL167)。「「私の方が価 値があるから、私はおまえを殺すことができる」

と言うのは、生命の統一性に対する私の直観に 反しているが、「私は空腹だから、おまえを殺そ うとする」と言うのは、この直観に反していな い。後者の場合、「すまないね。おまえを殺そう

とするのは私が空腹だからなのだ」という申し

訳なさが暗に意味されるだろう」(ECLl68)。

しかし、第一に、申し訳ないという感じをも つのは人間だけであって、他の動物および植物 の生命は、いわば無慈悲である。こうした無慈 悲さは生命の統一にくみしない。第二に、人間 の生命欲は倫理的に二義的である。ヤスパース は次のように言う。「生命欲とは…「カラマーゾ フ的な野蛮さの力」による生であるか、あるい はベッドから起きられない死期の間近な病人で あっても、ガラスの上の光の輝きを見、樹木が

ざわめくのを聞き、愛する者を目にし、くみ尽

くし得ない豊かな思い出をもつとき、生が存続 し、耐え難い苦痛がすべてを麻庫させることも なく、糖神が破壊されていない限り、生存を歓 ぷ生である」(KI209)。カラマーゾフ的野蛮さ

という側面もあるという生のこうした二重性を はっきり自覚するなら、生命は少なくとも倫理 の中心にはもってこられないはずである。第三 に、ネスは生命を中心として無機物を含む存在 の統一性を考えようとするのであるが、生命と いうものは、あくまでもろもろの存在の一つで あって、そこにすべての存在の統一を見ること には無理がある。自然界には、物質、(動植物の)

生命、(動物の)意識、(人間の)精神という少 なくとも四種の存在様態が指摘でき、しかもそ

(9)

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れら四種の間には飛躍(深淵)がある(だから、

たとえば、生命が物質からどのようにして生ま れたのか、いまだ科学的に知られない)。

(3)個体(自己)中心

ネスにおいて、生態圏中心の思考が個体を抹 殺するという批判に反論しうる思考としてある のが、「自己実現」である。自己が拡大していっ て、大文字のSelfと書かれる自己、「大いなる自 己」(ECLl68)として、生命の世界の全体と一 致する。その際に、自己はあくまで個体であり 続ける。また、小さい自己は「自我(ego)」と 呼ばれるが、この自我を基点として自己を拡げ ていけばよいとされる。「我々は自分自身を抑え る必要はない。自己(Self)を展開させることが 必要なのである。…自己(self)を拡げ展開して いって自己(Self)につながるためには、自我を 無視したり、抑圧したりする必要もない」(ECL 86)。

さてしかし「自己実現」と言っても、人間の 自己というものもまた自然と同様に多面である。

ヤスパースに即して言えば、生存欲の根源であ る「現存在」、科学的認識を遂行する「意識一 般」、芸術作品や共同体において調和の理念を追 求する「精神」、超越者に結びつく真実の自己で ある「実存」、すべての人とのコミュニケーショ ンを求める意志であると共に哲学的な思惟であ る「理性」の五通りの様態を人間存在はもって いる。これらの様態は、すべて独立した根源と して他の根源から導出され得ない。だから、た とえば現存在の生命欲が拡大して実存になると いうようなことはない。ヤスパースが生存欲を

「現存在」として実存と区別するのは、生命欲そ のものは超越的なものと連関しないからである。

ネスにおける、先に述べた自然の二面性(統一 性と分裂性)の無視、物質、生命、意識、精神 という自然の多面性の無視、およびここでの人 間存在の多面性の無視、これらは、生命(自然)

の統一性という直観を前面に維持するためにお そらくは必要となっているのである。

(4)超越者は暖昧となる

生命の一体性や「大いなる自己」とは形而上 学的なものであるであると言われ(ECL195)、

また次のように宗教に関連づけられもする。

「哲学上では、自我(ego)・自己(self)・自己

(Self:深く、包括的でエコロジー的な自己)の 諸概念は、いろいろな異なった体系に組み込ま れている。これら[哲学の]諸体系は、元来は 世界の諸宗教に緊密に結びついていた。現代の 産業社会では、こうした宗教の影響力が低下し たので、これらの一体化の哲学は、ほとんど近 づきがたいものになってしまっている」(ECL l75)。

しかし、デイープ・エコロジーは、自然と生 命という感性的な次元に基礎をすえるのだから、

超感性的なものへのまなざしは暖昧にならざる をえない。完全なる統一性は超越的である。し かし(動植物の)生命それ自体はまったく内在 的な存在であって、当然、そこには分裂と対立 もある。この二つは、同一次元では一致しえな いし、生命自体から超越的なもの(統一性)へ 直に道が通じているわけでもない。ネスの思考 は、全く異なるこの二つのものを-つにすると いう無理、自然にとどまる自然を超えたもの(形 而上学)という無理なものであろうとする。こ の無理に気付くまいとすれば、前述した自然の 分裂や生命欲の二義性、存在の多面性といった

ものの軽視や無視が生ずるのも当然である。

生命を中心として、はたしてどのようにして プラトンの言うような「死の学び」にたどり着 くことができるのだろうか。空腹による殺生を 容認し、自我の抑圧を否定するネスの思考は、

慎重に、この死の学びを退けているのではない か。もし生命そのものがソクラテス的、プラト ン的に死ぬことに連関しているとするなら、そ の生命とは、力、の世、例えば神の国や浄土のう ちでの生命という意味を帯びるもの、つまりは、

超越的なものにならざるをえないであろう。だ がしかし、こうした意味での生命は、我々が眼 の前に感覚する人間や動植物の生命から、ただ 飛躍においてのみ近づけるものである`)。

[四]「世代間倫理」という問題

世代間倫理の主張が、環境倫理学の課題の一 つとされることがある。ここでは、この課題に 応答するものとして、シュレーダーーフレチェ ットの論文「テクノロジー、環境、世代間の公

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平」とハンス・ヨナス『責任という原理」にお ける考え方を取りあげてみよう。

(1)フレチェットの世代間倫理の捉え方

①フレチェットの立論

フレチェットは、世代間倫理を主張する基盤 として社会契約論を選ぶ。それは「容易に理解 され、常識的であり、倫理学の歴史で長い伝統 を有している」(TEE69)。社会契約論は世代間 倫理を否定する論拠としても使われているのだ が、それをやはり社会契約論でもって批判する のがフレチェットの思考法である。フレチェッ トは、契約論からする世代間倫理否定論にさま ざまに反論しているが、ここでは問題点が顕わ になっている-つの点のみ取り上げる。

世代間倫理を否定する契約論は、共同体が成 立するためには明白な契約が必要であるが、未 来世代とは当然、明白な契約、同意をかわすこ とは不可能であるから、未来世代と現代世代と の間に共同体は成立しないとする。この点に関 して、フレチェットは、明確な同意がない社会 契約の例を挙げて反論する。

一つには、親子関係である。親子関係におい ては子の同意はない。「カラハンによれば、ある タイプの契約は、得られるであろう相互的恩恵 に基づいた同意のゆえにではなくて、単純に、

契約する一方の側が義務を受け入れることを選 ぶがゆえに存在するようになる。子どもたちは 生まれたいかどうか尋ねられることはない。し かし、両親が子どもたちに対する義務のもと彼 らを引き受けるという事実は、両者間の契約が 設定されたことを意味している、とカラハンは 言う」(TEE72)。この契約において、「両親の義 務は、子供が両親のしてくれたことに報いるこ とを条件としているのではない。というのは、

思うに両親は、たとえ子がどんな仕方でも報い ることができない、あるいは報いたくないとし ても、自分たちの子の世話をする義務をやはり もっているであろうから」(TEE72)。したがっ て、「(子のように)未来世代は同意することを 望むか否かを問われることはないし、自分たち に与えられた利益を返すこともできない」

(TEE72)にしても、(両親のように)現在の世 代が、(子のような)未来世代を配慮する義務を

認めるだけで、未来世代との共同体が形成され る、と論ずることができるわけである。

明白な契約がない二つ目の例は、ロールズの 社会契約論である。「ロールズは、一つの「思考 実験」を提示する。それは社会契約が相互性で はなくて道徳的推論に基づくことを示している。

…彼の見解に従えば、人は次のような純粋に仮 設的な状況を考えてよい。(1)そこでは我々は各 自が自分に可能な利益を守ろうとするが、(2)そ こでは我々のうちの誰も、社会における自分の 特定の場所、自然的能力、資産、負債を知らな い」(TEE71)。この(2)は「無知のヴェール」と 呼ばれ、この仮説的な状況は「原初状態」と呼 ばれるのだが、こうした状況のうちで人々は、

誰にも有利にならないような、つまり平等にな るような原理(「正義の原理」)によって社会を つくることに合意するであろう。こうしたロー ルズの考え方にのっとれば、人々はいずれの世 代に属するかも知らないのであるから、未来の 世代に不利にならないような社会を形成するこ とに同意するであろう、と論ずることができる わけである。

②フレチェットの立論の問題点

a)共同体は金銭等の利益を得るためだけに あるのではない

ロールズにおいて、社会契約は、自己が利益 (富や機会など)を得るためになされる。しかし、

他方で、フレチェットは親子関係においては、

子供が親に恩恵を返さなくとも、親は子供の面 倒を見るべきであるとする。そうであるなら、

親子関係は利益を得るために形成されるわけで はない。フレチェットは、先祖から得た「恩」

と「等しく善い、あるいはより善い」ものを(先 祖の代理人としての)子孫に与えることによっ て、恩を先祖に返すことを認めている(TEE71)

から、親の同意は祖先から得た恩恵を(代理人 としての子供に)返すためであるとフレチェッ

トは論ずることができる。しかし、祖先から得 た恩恵をしのぐ不利益を得るとしても、親は親 子関係を拒否できないとフレチェットは言って いるはずである。得た利益より多くのものを返 すべきであるということになれば、これには利 益追求以外の理由があろう。ロールズの考え方

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らの利害も考慮する。だから、マッキンタイア は、ロールズの「無知のヴェール」に基づく正 義の原理を、「そうした原理を選ぶのは、そうし た[無知のヴェールといった]状況にある合理 的行為者だけである」(AV247)、「我々はそうし た無知のヴェールの背後には決していない」

(AV249)と言って、ロールズの考え方の抽象性 を批判するのである。フレチェットは社会契約 論は長い伝統をもち、常識的であると述べてい るが、家族や国家が社会契約によるとするよう な発想について言うならば、それは、アメリカ を規準とした歴史観であり、近代産業社会を基 準とした常識観に過ぎないであろう。

個人の同意が共同体をはじめて創設するのな ら、共同体は個人の不同意によっていつでも解 消しうる。この場合には、共同体は個人の価値 判断に依存するものとして、個人より低い価値 を与えられていることになろう。逆に、いつと は知れぬ昔からある共同体のうちで個人が(生 存の次元でも精神の次元においても)産まれて くると考えられるなら、共同体は個人より高い 価値を与えられうる。そこでは共同体の解消に 同意するか否かを個人に確認するという発想が そもそも起こりにくいであろう。近代の営利企 業は前者により近く、家族や国家という共同体 は後者により近いものである。前者にあっては 共同体は作られるものというニュアンスが強く、

後者にあって共同体は与えられているというニ ュアンスが強い。このニュアンスの違いは歴史 の長さの影響を受け、歴史の長い共同体ほど与 えられたというニュアンスを強めよう。そのよ うな長い歴史をもつ共同体に帰属する者が自己 を大切にするということは、その共同体を大事 にするということと切り離せず、その共同体を 大事にするということは、取りも直さず、その 共同体の過去の尊重と未来への存続をはかると いうことをおのずと含むはずである。そこでは、

なぜ未来世代を大事にしなければならないのか、

という疑問がことさらに起こることはない。

世代間倫理の問題は、世代間倫理が問題だと すること自体が問題ではないか、という視点を 含まねばならない。それは、近代における、歴 史的な共同体の軽視と、個人主義的に説明でき では、損をするような人間関係を人は大切にし

ようとは思わないからである。そもそもフレチ ェットが言及している「恩」というものが利益 の範嬬を超えるはずのものである。利益考慮の 範鴫にないこの親子関係がいかなる範蠕にある のかを、フレチェットは明確にしていない。

b)共同体はみな社会契約によって形成され るわけではない

フレチェットの立論はあくまでも社会契約論 に立とうとするから、親子関係においては、子 供の同意はなくとも、親が義務を受け入れる、

つまり親子関係に同意するということには言及 せざるを得ない。だがしかし、親子関係におい て同意をするという発想が、つまり、家族が契 約によって存立するという発想が、そもそもそ ぐわないのである。同じことは歴史的な国家に ついてもあてはまろう。

契約というものの重視の背景には、個人がば らばらに存立しているという想定がある。マッ キンタイアは、ロールズ(及びノージック)の 考え方の根にある個人主義的考え方を批判し、

それが近代社会のいわば写しのようなものであ ることを指摘する。「我々はあたかも他の諸個人 の一団と一緒に難破して無人島に打ち上げられ たかのようである。誰も私を知らないし、また 誰も知り合いでない。作り出されねばならない のは、そうした状況で私たち一人ひとりを最大 限安全に守ってくれる諸規則である。…この[個 人主義的]見解は、それ自身のうちに近代社会 についてのある種の現実主義的な調子を含んで いる。近代社会は実際しばしば、少なくとも表 面的外観では、見知らぬ者たちの寄り集まり以 外の何物でもなく、そこでは各人が最小限の束 縛の下、自分の利益を追求している。もちろん 近代社会にあっても、家族、大学、またその他 の本当のコミュニティーをこのように考えるこ とはやはり難しい。しかし、今ではこれらの共 同体についての思考でさえ、個人主義者の考え 方によって、ますます侵されている」(AV250)。

個人は現実には国家や家という歴史的な共同体 のうちに産まれてくる。そうした共同体の伝承 が善悪や正、不正の価値判断の手掛かりを提供 するのであり、それを手掛かりとして個人は自

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ないものまで個人主義的に説明しようとする過 剰な個人主義という問題と絡み合っていると見

られるからである。

(2)人類の生存を第一とする思想〈ヨナス「責 任という原理」)

歴史的な共同体が確固として存在している中 にあっては、世代間倫理がことさらに問題にな ることはほとんどない。しかし、世代間倫理が 問題になるのは、歴史的共同体の崩壊と過剰な 個人主義という、それ自体倫理的に問題のある 事態があるだけからではない。これには、環境 倫理が「地球」環境を問題にするということが ある。そこでは、世代とは「人類世代」という 面を持ちうるが、しかし、「地球共同体」、「人類 共同体」というようなものはいまだかって実質 的には存在したためしはない。ここでは、共同 体は崩壊したのではなく、初めからないのであ る。そこでは、現在、過去、未来の世代の間に 不可分の連関を見出しにくい。

人類というものが過去から現在まで存続して きたように、未来もまた存続すべきである、と いうことがもし言えるなら、それによって人類 における世代間倫理の問題も答えられよう。こ の方向の思考をヨナスは展開している。

①「人類の生存が第一である」というヨナスの 思考

ヨナスによれば、まず人類の生存が第一であ り、善く生きることは第二である。「人類の実在 が何よりもまずいつも最初に来る。…人類の実 在とは、単純に人が生きるという意味である。

人々が善く生きるということは第二の命令であ る。そもそも人類が存在するというむぎだしの 存在的な事実が…人類がこの先も存続すべしと いう存在論的命令となる」(PV186)。こうした 第一の命令は普通は引っ込んでいるのだが、「こ の根源的な命令自身がその根本要素とともに明 白にならねばならぬのには、きわめて特殊な状 況、たとえば、今日のような状況を必要とする」

(PVl86)。今日のような状況とは、人間が科学 技術の力によって自らを滅ぼすような可能性を もっているような状況である。そして、滅ぼさ れる可能性をもつような弱い存在を、存在せし めるように配慮することを、ヨナスは「責任」

と呼ぶ。

人類は存続せねばならないが、ただし「人間 として」存在せねばならない。「「人間として」

ということで…存在するように救われた実在が、

もはや人間的な実在であらぬものとなるような ことからこの[人類が存在すべしという]命令 を守らねばならない」(PV250)。存続する人類 の生命は「真正の人間的な生命」(PV36)でな ければならないが、それは、特定の人間像とし てあるのではなく、いろいろな人間像をつくる 可能性をもつ人間の生命のことであり、この可 能性がヨナスによって「自由」と呼ばれる。そ れは価値(善悪)を判断する能力であり、進化 の遺産なのである(PV72f)。

こうした自由は人間の本性なのであるが、と ころでヨナスは、「我々が世界の内部で生成した のだということがもつ本質的な十分さ」(PV73)

が思考を導くのだと言う。これはつまり、人間 の本性を指定するような世界を超えた存在の否 定を意味している。「存在論は[プラトンとは]

別なものとなった。「我々の存在論は永遠性の存 在論ではなく、時間の存在論である。…「至高 の生成」(ニーチェ)に引き渡され、そうした生 成へ向かうよう判決を受けて、超越的存在を「追 放して」しまったからには、我々は、本来的存 在をこの生成の中に探求しなければならない」

(PV226)。

この探求の根底に来るものが、生命なのであ る。ヨナスによれば、およそ生命は客観的な目

的をもつ。生命の客観的目的とは、生命が生命

を維持しようとすることである。そして目的の あるところには価値があるから、これは「根本 価値(Gmndwert)」(PV155)とも呼ばれる。そ して生命維持という客観的目的(根本価値)が 備わっているという在り方そのものが「善それ 自体(Gutansich)」、「第一の善(daserste Gut)」であるとされる(PV154f)。生命の存在 (善それ自体)があって、そこに生命維持という 客観的目的があり、そこに根本的な価値がある。

この場合に、目的も価値も善も、どれも客観的 なもの、つまり、人間主観の感情によって左右 されるようなものではない。このように考える ことによって、自然界には客観的に価値と善と

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目的が、生命として存在するとするのである。

ところで、いろいろな生命のなかで、ヨナス は人間の生命に、ほかの生命に優越した特別な 位階を与える。人間は他の生物の生命維持をも 目的とし、そのことを責任としうるのである。

実際、人間の生命維持は、他の生物の生命維持 をも目的とすることになる。それは、同じ生命 として、人間は自然の生命から生まれ、自然の 生命は人間生命存続にとって欠き得ないからで ある。「あらゆる責任の原型は、人間の人間に対 する責任」(PV184)であり、「人間の責任の対 象となる権利があるものたちの中での、人間の 優位」(PV186)があるのだが、「人間に対する 義務は、人間自身の存続の条件としての自然に 対する義務を含む」(PV246)。

②批判

a)生命への閉じこもり

生命活動を目的あるものととらえることは理 解で萱ることであり、生命が生命維持を目ざし、

生命をいわば肯定するゆえに、生命に価値や善 があるとすることも理解できる。しかし、ヨナ スが言っていることは、生命は生命にとって価 値があり、存在は存在にとって価値があるとい うことであって、生命と死の対比、存在と非存 在との対比は真に行われていない。「[生命が生 命という]目標をめざすということそのものの 中に…我々は、存在を非存在より絶対的に善い ものとして措定する、存在の根本的な自己肯定 を見ることができる」のも、「存在のこの宣言に 対しては、どんな反対宣言も存在しない。とい うのは、存在を否定することでさえ、何らかの 利害関心や何らかの目的が裏に隠されているこ とを漏らすからである」と言われる(PV155)の も、ひたすら存在に眼をやるからである。存在 否定が存在を目指すことがある(たとえば保険 金目当ての自殺)にしても、しかし、存在否定 が存在否定を目指し、「無」への飛躍を断行する 面をもつことは、あくまで消去できないはずで ある。そして、この断行のうちでは、非存在に 価値が置かれることは明らかであろう。「他者を 救うために、祖国のために、人類のために自分 自身の生命を与えることは、存在のための選択 であって、非存在のための選択ではない」(PV97)

と言われるが、正しくはこれは、他の存在のた めに自らの非存在を選択することである、と言 われるべき事柄である。そして、たとえ他者を 救えなかった(存在が得られなかった)として も、他者を救うために命を投げ出したことは無 価値にならない。我々は命を投げ出したという そのこと自体に心を揺すぶられる。この感動が どこに続いているのかが問題である。ヨナスは、

人間の尊厳を守るための「自死(Freitod)」も

「究極的には人間の品位が生き延びる(Uberleben)

ために生ずる」(PV97)と、あくまでも生き延 びること(世界内での何らかの持続)に固執す る。だがしかし、他人を救うことや品位ある自 死がたとえ世界の誰にも知られなかったとして も、そして世界における影響を何らもたないに しても、それは無価値にはならない。それは愛 情や品位がそれ自身を証明することであって、

そこで(世界から無へと消え去ることのうちで も)いわば完成する。世界の全き無のうちでも 完成するという、このことが超越性の自覚であ り、その表現なのである。それはヤスパースの 言う実存的なものであり、生命欲に根ざしてい るのではないから、世界において生き延びるこ とを最終的な規準とすることはない。

b)乳飲み子と人類は同じではない

ヨナスにとって乳飲み子は「明白さと内容の 点であらゆる責任の原型」(PV242)である。そ れは「端的な事実的な「ある」が、明白に「べ し」と合致する」模範となる存在であって (PV235)、「赤ん坊が息をしているだけで、「世 話をせよ」という「べし」がまわりの世界 (Umwelt)に有無を言わさず向けられる」

(PV235)。乳飲み子は原型であると同時に、ま た「萌芽」であって「その意味に従って、他の 責任の地平へと広げられる」(PV242)。そこに、

人類への責任もあるわけである。

しかし、この広がりは、乳飲み子の世話が人 類の存続につながっていくといった単純なこと にならないはずである。親子関係には歴史性(取 り替えがきかないこと)がある。ヨナスは「「世 話をせよ」という「べし」がまわりに向けられ る」と言うが、我々は泣いている赤ん坊を見た なら、世話をするだけでなく、むろん親をさが

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しもする。乳飲み子の世話は主に親の事柄であ る。人類の世話(そうしたものがあるとして)

は主に政治家がするのであろう。だから、食料 不足などのために乳飲み子の制限を人類の存続 が必要とし、その犠牲すら要求される場合、こ うした政治の命令にそむく親が出てきても少し も不思議ではない。

ここでは存在が「べし」を要求することがあ るということだけが示せればよい、とヨナスは 言うのかもしれない。しかしヨナスの議論を(単 に論理的に考えてさえも)我々は親の視点抜き では読まないはずであり、しかも、この視点で 見るほどにヨナスの議論は説得力をもつように なる。そうして力をもった事柄は、しかし人類 の世話と一致するわけではないのである。

c)善悪は二つのレベルに分断される ヨナスは、「「善」それ自身を確定しなくとも、

倫理的により善い(besser)社会体制が存在し、

より悪い(schlechter)社会体制が存在する」

(PV305)と言う。したがって、生命があるとい うこと、そのことは「善それ自体」なのである が、しかし、この「善それ自体」は、ヨナスに あって、常に倫理的な善悪の根本基準である必 要はないのである。だから、ヨナスは、自立的 な判断は、命ぜられるままに服従することより 善く、法治国家は専制国家よりも善い、といっ た言い方をする(PV304)し、「裏切り」や「冷

壽酷さ(Hartherzigkeit)」が「悪徳(Laster)」と

呼ばれ(PV229)もする(ヨナスはこのレベル では世間一般の善悪観に依拠しているように見 える)。だが、これによって、いろいろな善悪が、

「善それ自体」の内容とは関係なく善悪と呼ばれ うるということになっている。ここでは、善悪 は少なくとも二つのレベルに分断されているの である。その結果、いろいろな善悪が、なぜ善 悪であるのかは分からなくなっている。これは 以下に見るようにヨナスの自由観とも関連する。

d)選択の可能性としての自由はいかなる意 味で貴重なのか

ヨナスの自由とは(そしてヨナスは内在次元 だけで考えるのであるから、そうした自由しか ないのだが)、善悪を選択しうる可能性をもつ

(だから悪への自由をもつ)という意味での自由

である。「自由はけっして単に善への自由だけで あるのではない。どんな自由の拡大も、自由の 善き使用が、自由の悪し誉使用をしのぐであろ うという大きな賭けである」(PV304)。ところ で、自由は人間本性なのであるが、ヨナスは「こ の無限なもの[人間の自然本性]が授ける権限 には、この無限なもの自身をゆがめたり、危険 にさらしたり、「改造」したりすることは含まれ ない」(PV74)と言う。ということはつまり、自 由をもつ人間の生命(「人間として」の生命)を 廃棄するような自由はないという方向でヨナス は考えたいのである。したがって、自由は、善 それ自体(生命)ではない善(および悪)の選 択を中心とすることになる。これは前述した善 悪のレベルの分断である。

自由がかかわる善悪において、既に述べたよ うに、ヨナスは善悪の具体像に踏み込まない?)。

「人間が何であるべきかという問いは常に未決で

あって、答えは変化しうる」(PV249)。「重要な

ことは、特定の人間像を持続させたり実現した りすることではなく、なによりもまず可能性の 地平を開いておくことなのである。この地平は、

人間の場合、種の実在それ自身とともに与えら れている。この地平が…人間の本質にいつも新 たにチャンスを与えてくれるだろう」(PV250)。

「可能性の地平を開いておく」ことが人間を自由 にしておくということである。そして、自由と は善悪選択の自由であるから、自由とは、人間 が善悪の二面をあわせもつということであると も言える。人間は「高さと深さ、偉大さと惨め さ、幸せと苦しみ、正しさと責罪」という「人 間と不可分の二義性」を備えており、「この二義 性自体を取り除こうとするのは、底知れない自 由をもつ人間を破棄しようとすることを意味す る。…善あるいは悪において、ほとんど一義的 なものが、まったく人間的なこの二義性から時々 浮かび上がるかもしれない。その時我々は…人 間の聖者と人でなしとを経験する。だが、一方 は他方の可能性なしに、それゆえ時には他方の 現実性なしに、存在できると思うのは幻想であ る。…希望すべきことは…未来においても、満 足はその不満を、所有はその熱望を、平穏はそ の不穏を、自由はその誘惑を、さらには、どん

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