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一九二〇年代の中国における日本文学の受容 : 田 漢の映画『到民間去』を視座として

著者名(日) 閻 瑜 

雑誌名 大妻国文

巻 43

ページ 127‑142

発行年 2012‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001277/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

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大妻国文  第

43

号 二〇一二年三月

一二七一九二〇年代の中国における日本文学の受容

一九二〇年代の中国における日本文学の受容 │ 田漢の映画﹃到民間去﹄を視座として

閻         瑜

はじめに

一九一九年の五・四運動の数年前から始まっていた中国文学革命の一環として︑外国文学が大量に紹介されていた︒外

国から留学して帰国した文学先駆者は積極的に外国の文学作品と思想を紹介していた︒その先端に立つのは︑日本から帰

国した魯迅 ︑周作人 ︑郭沫若 ︑茅盾 ︑田漢などである ︒文学結社や文学雑誌も数多く現れ ︑一九二一年から二五年まで ︑

全国では文学結社が百社あまり︑文学雑誌が三百種類以上あった︒最も影響力が強い文学結社は︑郭沫若︑田漢などによ

る 創 造 社 と 魯 迅 ︑ 周 作 人 などによる 語 絲 社 であった ︒ 郭 沫 若 によると︑ ﹁ 中国文壇の大半は日本留学生 によって 築 かれたの

である︒創造社の主な作家はみな日本留学生であり︑語絲派もそうである︒そのほかに︑欧米から帰国した彗星と国内で

頭角を現した新人もいたが︑主に上記の二社の影響を受けていたのである﹂

という︒

1

一九二〇年代の中国は外国︑特に日本の文学・芸術・文化を積極的に取り入れた時期と思われる︒その影響は文壇にと

どまらず︑映画界にも広がっていた︒洋画全盛の当時の上海では︑日本から相前後して帰国した田漢︑夏衍らが映画のシ

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一二八

ナリオや評論を発表し︑当時の低俗的なムードに新しい息吹を吹き込んだのである︒ところが︑映画製作に挑戦した文学

者は田漢だけであった︒ 田 漢の映画製作へ の試みと彼が監督 ・ 製 作した映画 ﹃ 到民間去 ︵ヴ ・ ナロード︶ ﹄ は 日本文学の影

響を受けているのではないかと思われる︒これから︑田漢の最初の映画﹃到民間去﹄に焦点を絞り︑一九二〇年代の中国

における日本文学の受容を見てみよう︒

一︑中国映画界の先駆者的な存在である田漢

中国における最も早い映画上映は一八九六年である ︒最初はフランス映画がほとんどであったが ︑第一次世界大戦後 ︑

アメリカ映画の上映率が一気に増加した︒中国人自身による映画撮影の試みは︑一九〇五年の北京豊泰写真館主の個人資

本による︑京劇の立ち回りを撮影した京劇映画であるが︑一九二〇年から二一年にかけて︑中国最初の劇映画が上海で撮

影された︒一九二二年︑上海で中国最初の本格的映画会社﹁明星影片公司﹂が設立され︑中国人による映画製作が盛んに

行われはじめた︒当初の作品は︑歴史物語を取り上げた粗製濫造の古典シリーズ︑カンフー映画の元祖といえる時代劇お

よび鴛鴦胡蝶派

と呼ばれる才子佳人の感傷的な恋愛映画が主流であった︒

2

田漢は一九一六年から二二年まで日本に留学していた時期からすでに映画に魅了されていた︒一九六七年六月︑文化大

革命の初期︑牢獄に入れられた時に書いた自伝

には︑日本での映画体験を次のように書いている︒

3

  私は東京で勉強を始めた頃から Cinema  Fan であった︒六︑七年の間︑百部以上見たことがあるが︑ほとんど印象

に残っていない︒谷崎さんの言い方を借りれば︑昔の夢が見つけにくいことであるが︑まだ夢が見つかり︑印象に残

るのは﹃靴﹄なのだ!

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一二九一九二〇年代の中国における日本文学の受容

田漢が東京に来た一年目の一九一六年︑フランス映画﹃靴﹄を見たが︑十年を経ってもあらすじから細部まではっきり と覚えている︒一九二七年一月から雑誌﹃銀星﹄に連載を始めた彼の映画に関するエッセイ﹃銀色の夢﹄においては︑こ の映画が詳しく紹介されている︒これは西洋の有名映画を見るのがはじめてであるほかに︑奇抜な着眼点と主人公の涙に 関係性があると記されている︒

帰国後の一九二五年八月︑田漢は映画シナリオ﹃翠艶親王﹄を書いたが︑映画化はされなかった︒二六年三月︑神州影

片公司の依頼で書いた映画 ﹃ 到民間去﹄ のあらすじを ﹃醒獅週報 ・ 南国特刊﹄ ︵ 第二十三︑ 二十四号︶ に 掲載した︒ 同公司

では映画撮影の予定がないため︑ 同年夏︑ 田 漢は ﹁純真な態度を持ち︑ Film を通してわが国民の深い苦悶を晴らそう﹂

4

趣旨にする﹁南国電影劇社﹂を創立し︑ ﹃到民間去﹄を監督・撮影した︒

﹃到民間去﹄ の 主人公は社会改革を志す二人の青年︑ 張秋白と郭其昌で あ る ︒ 二 人 にはそれぞれ親に決められた婚 約 者 が

いるが︑ 喫茶店の女中廬美玉に引かれる︒ 大学卒業後︑ 二 人は違う道を歩んだ︒ 秋白は家業を受け継ぎ︑ 投資活動も始め︑

新しい資本家となり︑美玉と結婚した︒しかしその後︑事業が傾きはじめ︑元婚約者の家の援助を求めるために︑美玉と

離縁し︑ 元婚約者と結婚する︒ 一方︑ 其 昌は同志らと新し い村を作り︑ 社 会の不合理を変え ︑ 理想的社会を作 ろうとした︒

美玉は新しい村へ其昌を尋ね︑其昌と一緒に村で働きながら幸せに暮らすようになる︒事業が完全に失敗し︑乞食に成り

果てた秋白は新しい村を訪れ︑其昌と美玉に再会したが︑二人の幸せの邪魔になりたくないため︑自殺してしまう︒

田漢はこの映画を製作する時︑資金不足のため︑多くの借金をかかえていた︒この経緯は︑前に挙げた自伝に詳しく記

されているが︑以下のように要約される︒

  資金難のため︑製作作業は何度も中止することもあったが︑あきらめることはなかった︒一九二六年︑北伐戦争に

参加するよう広州にいる友人に勧められ︑広州に行く機会もあったが︑結局製作を手離すことはできなかった︒その

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一三〇

友人に援助された旅費まで映画に注ぎ込んだので ︑広州に行くことはなかった ︒翌年 ︑やはりこの映画製作のため ︑

南京国民党政府の政治部宣伝処芸術課顧問として映画事業に関する仕事を二ヶ月した︒この間︑映画撮影の技師を探

すため︑日本を訪問したこともある︒しかし︑結局﹃到民間去﹄を完成することはできなかった︒

そして︑撮影・現像を手伝ってもらっていたある日本人の借金が返済できないため︑この映画のフィルムは田漢の手に

残らなかったのである︒

この﹃到民間去﹄のために︑これだけの労力・財力をかけたにもかかわらず︑映画を完成するこ

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とができず︑ フィルムさえも残っていないことは︑ 真に残 念なことである︒ 田 漢の言 葉を借りれば︑ ﹁ 一 年 間を通して力を

尽くし︑皆がさんざんな目に遭ったのに︑結局やはり成功直前で失敗してしまった﹂

のである︒

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ところが︑映画﹃到民間去﹄は﹁当時の軍閥統治下に苦しむ民衆生活に同情を寄せ︑実際的な行動をとるように求めて

いた﹂

ものであり︑ 当時の 投機商人や資産階級が活 躍していた映画界において︑ ﹁非常に限 られた資金と一台の旧式カメラ

7

のみで彼らの求める映画芸術運動を興したのは︑大きな意義を持つもの﹂

である︒

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一九二七年秋より︑田漢は私立上海芸術大学分科主任︵のち学長︶を担当する傍ら︑映画︑演劇の教授と創作活動を続

けていた︒ 任期中︑ 映 画 ﹃ 湖辺春夢﹄ ﹃ 断笛余音﹄ を 編集 ・ 監 督した︒ 二八年春︑ 上海芸術大学は資金不足のため︑ 運営が

続けられなくなった︒田漢は南国電影劇社を﹁南国社﹂に再編し︑上海芸術大学を離れ︑文学・演劇・絵画という三つの

学科からなる﹁南国芸術学院﹂を発足した︒その後も映画のシナリオを十本ほど創作した︒

一九二〇年代︑中国映画の草創期にすでに映画のシナリオや映画評論を発表し︑映画製作に挑戦していた田漢は︑中国

映画の先駆者的な存在と言っても過言ではなかろう︒彼の映画観の形成には田漢と親しい交友関係を続けていた谷崎潤一

の影響を見過ごすことはできない︒

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一三一一九二〇年代の中国における日本文学の受容

二︑田漢の映画観と谷崎潤一郎の影響

前 述 したように︑ 田 漢 は 一九一六年か ら 二二年ま で 日本 に留学 していた 頃から︑ 映 画 についてすでに 興 味 を 示 していた︒

その映画についての理解は 谷崎潤一郎の影響を無視できないと思われる︒ 前に述べた ﹃ 銀色の夢﹄ の連載初回の ﹁ 白昼夢﹂

の文頭に︑谷崎潤一郎の﹁映画雑感﹂ ︵﹃ 新小説﹄一九二一年三月号 ︶

の一節をほとんどそのまま引用・翻訳して載せてい

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る︒

  西洋の映画は︑永久的の価値ある物を除いては︑中途半端なものよりも寧ろ俗悪な物が大好きである︒いかに俗悪

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な︑荒唐無稽な筋のものでも︑映画となると不思議に其処に奇妙なフアンタジーを感じさせる︒それ全体を一個の美

しい夢だと思へばいいのである︒或る意味に於いて︑映画は普通の夢よりは稍〻ハツキリした夢だとも云へる︒人は

睡つて居る時ばかりでなく︑起きて居る時も夢を見たがる︒我等が映画館へ行くのは白昼夢を見に行くのである︒起

きて居ながら夢を味はうと欲するのである︒そんな関係からかも知れぬが︑私は映画を見に行くのに夜よりも昼間を

好む︒時候も冬や秋よりは春か夏がいい︑殊に五月の末から六月へかけての初夏の頃︑ホンノリと体に汗の湧く時分

が︑一番いろいろの幻想を起させる︒さうして家に帰つて来て︑夜枕に就いてからも︑その幻想がいつ迄も脳裡に往

来して睡りの中の夢に通ふ︒果てはそれが夢であつたか映画であつたかも分からなくなつて︑一つの美しい幻影とし

て長く記憶の底に残る︒まことに映画は人間が機械で作り出すところの夢であると云はねばならない︒科学の進歩と

人智の発達とは我れ我れに種々の工業品を授けてくれたが︑遂には夢をも作り出すやうになつたのである︒酒と音楽

とは人間の造つたものの中で最大の傑作だと云はれて居るが︑映画もたしかに其の一つである︒⁝⁝

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一三二

そのうち ︑特に映画は ﹁ 人間が機械で作り出すところの夢﹂であり ︑﹁ 酒と音楽とは人間の造つたものの中で最大の傑

作﹂であるという谷崎の考えに対し︑田漢は﹁これはなんとすばらしい見解であろう﹂と高く評価している︒前に触れた

南国電影劇社の設立趣意書には︑ ﹁ 酒と音楽と映画 │ それは人類が作った三つの最もすばらしいもの﹂であり︑そのう

ち︑ 映 画 はどれよりも魅 力 的 であり︑ 映 画を通して︑ ﹁白 昼に夢を見る﹂

ことができると田 漢は記している︒ これは谷 崎 の

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映画に対する見方と全く同じである︒

次に ︑谷崎潤一郎が ﹁ 活動写真の現在と将来﹂ ︵﹃ 新小説﹄一九一七年九月号︶において映画の大衆性 ・芸術性 ・将来性

を絶賛しているという見方に大いに賛同し︑原文をピックアップして中国語に訳して引用している︒

  もし映画は将来演劇︑ 絵 画と同じような本当の芸術になる可能性 があるかどうかと聞かれたら︑ 谷崎は勿論 ﹁ある﹂

と答える︒彼は演劇や絵画が永久に滅びざるが如く︑映画も亦︑不朽に伝はるであらうと信ずる︒芸術に甲乙はない

としても︑その形式が時勢に適応するものは益〻発達し︑時勢に背反するものは自然と進歩しないやうになる︒今日

はデモクラシーの時代であるから ︑貴族趣味の芸術はだんだん範囲を狭められて行くに違ひない ︒此の点に於いて ︑

演劇よりも更に一層平民的な映画は︑最も時勢に適合した芸術として︑まだ大いに発展改良の余地があると思ふ︒

  彼はまた映画のいくつかの特長を取り上げている︒これらは誰にでも分かることであるが︑彼にはその独特な見解

を持っている︒彼によると︑第一︑舞台劇の生命の一時的なのに反して︑映画の生命の無限に長い事である︒今日で

はまだフイルムの寿命が永久不変ではないが ︑将来は必ず ︑其処迄発達するに違ひない ︒舞台劇と映画との関係は ︑

恰も言語と文字︑若しくは原稿と印刷物との関係に匹敵する︒舞台劇は︑限られた観客を相手にして︑其の場限りで

消えて行くのに︑映画の方では一本のフイルムを何回も繰り返して︑至る所に無数の観客を呼ぶ事が出来る︒此の特

長は︑観客の側から云ふと︑居ながらにして各国の俳優の演技を︑極めて廉価に而も甚だ簡便に見物し得る利益があ

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一三三一九二〇年代の中国における日本文学の受容

る︒さうして俳優の側から云へば︑殆んど世界中の見物を相手にして︑絵画や文学のやうに複製だの翻訳だのと云ふ 間接の手段を待たず︑自己の芸術を直接に発表し︑而も後世永遠に伝へることが出来るのである︒古代の偉大なる詩 人や画家や彫刻家が︑自己の芸術に依つて永遠に生きて居る如く︑彼も亦フイルムに依つて不朽の生命を保つことが 出来る ︒俳優に此れだけの覚悟がつくと云ふ事は ︑その芸術をどれ程高尚にさせ ︑真剣にさせるか分らないと思ふ ︒

現在の俳優が︑他の芸術家に比較して︑品性に於いても見識に於いても多く堕落して居るのは︑主として其の使命の

一時的であると云ふ事実が頭に沁み込んで居る結果に相違ない︒若し自分の演技がゲエテの詩の如く︑ミケランヂエ

ロの彫刻の如く︑永く後世に認められ︑千載の後までもクラシツクとして尊重せられる所以が明らかになつたら︑彼

等も必ず其れ相応の抱負を持つやうになるであらう︒

  彼はそれ以外︑またたくさんの事を述べている︒しかし︑中国の﹁映画関係の仕事をする者﹂は彼の上記の言葉だ

け覚えれば十分である︒

上記の長い引用のほかに︑田漢は﹃銀色の夢﹄の中に︑谷崎の映画に対する見方を時々引用し︑自分の映画論を展開し

ている︒ 谷崎潤一郎は早い段階から映画に興味を示し︑同時に魅力を感じ︑映画に関する評論やエッセイを数多く書き残し︑さ

らに一九二〇年代初頭︑自ら映画製作に乗り出し︑映画界に新風を送ったのである︒映画製作に携わる初めての日本作家

の一人と言われている︒一九二〇年五月︑谷崎は同年四月に創設されたばかりの大正活動映画株式会社︵すぐに﹁大正活

映﹂ と改称︑ 略称 ﹁大活﹂ ︶ に 脚本部顧問として招聘 され︑ 直接映画に関わりを持 つようになった︒ 第一回作品として製作

されたのは谷崎潤一郎原作︑ 栗 原ト ーマス監督による日本最初の海 辺喜劇 ﹃アマチュア倶楽部 ﹄︵ 一九二〇年一一月一九日

有楽座にて公開︶であった︒

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一三四

鎌倉にて﹃アマチュア倶楽部﹄の撮影現場に偶然に遭遇した田漢は︑映画が封切られた時にわざわざ有楽座へ見に行っ

たのである︒そのため︑谷崎が一九二六年の第二回訪中時︑上海において当時の中国文人との顔つなぎの会で田漢と初対

面する際に ︑田漢に ﹁ 谷崎さん ︑僕はあなたにお目に懸るのは二度目ですよ﹂ ︵﹁ 上海交遊記﹂ ﹃ 女性﹄一九二六年五 ︑六 ︑

八月号︶と言われたのである︒ここから︑田漢の谷崎の映画活動に対する関心がうかがわれる︒

谷崎潤一郎と長年にわたる交友関係を持ち︑しかもその唯美的作風から影響を受けていた

田漢は︑その映画評論をよく

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読み︑その映画製作の試みにも啓発を受けていたと考えられる︒

三︑ ﹃到民間去︵ヴ・ナロード︶ ﹄の創作のヒントと石川啄木の詩

田漢が一九六七年六月に牢獄に入れられた時に書いた自伝には︑映画﹃到民間去﹄は石川啄木の詩からヒントを得たこ

とを明言している︒

  私は日本詩人石川啄木の詩からヒントを得て︑ロシア民粋主義︵ナロードニキ︶式の物語を書きたい︒数人のイン

テリ青 年は国 家の大 事について激しく議 論しているところ︑ ある人はテーブルを叩いて大きな声で ﹁ヴ ・ ナロード ! ﹂

と叫ぶ︒ これは皆の賛同を得る︒ その後︑ A のような人は本当に民衆の中へ入り︑ 革 命の道を歩み出すのに対し︑ B

のような人は ︑民衆と離れ ︑革命の反対側の道を歩む ︒ある情熱的な女性はもともと B と結ばれたが ︑ A と親しく

なってしまう︒ B は何度も努力したが︑結局失望して崖から飛び下りて自殺する︒

上 記 の 一 節 か ら 分 かるように︑ 石川啄木の ﹁はてしなき議 論の後﹂ ︵﹃ 創 作 ﹄ 一九一一年七月号︶ を読ん だ後︑ ﹃到民間去﹄

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一三五一九二〇年代の中国における日本文学の受容

を構想しはじめたのである︒

われらの且つ読み︑且つ議論を闘はすこと︑

しかしてわれらの眼の輝けること︑

五十年前の露西亜の青年に劣らず︒

われらは何を為すべきかを議論す︒

されど︑誰一人︑握りしめたる拳に卓をたたきて︑

‘ V NAROD! ’ と叫び出づるものなし︒

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る︑

また︑民衆の求むるものの何なるかを知る︑

しかして︑我等の何を為すべきかを知る︒

実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり︒

されど︑誰一人︑握りしめたる拳に卓をたたきて︑

‘ V NAROD! ’   と叫び出づるものなし︒

此処にあつまれるものは皆青年なり︑

常に世に新らしきものを作り出だす青年なり︒

われらは老人の早く死に︑しかしてわれらの遂に勝つべきを知る︒

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一三六

見よ︑われらの眼の輝けるを︑またその議論の激しきを︒

されど︑誰一人︑握りしめたる拳に卓をたたきて︑

‘ V NAROD! ’   と叫び出づるものなし︒

ああ蝋燭はすでに三度も取り代へられ︑

飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び︑

若き婦人の熱心に変りはなけれど︑

その眼には︑はてしなき議論の後の疲れあり︒

されど︑なほ︑誰一人︑握りしめたる拳に卓をたたきて︑

‘ V NAROD! ’   と叫び出づるものなし︒

眼を輝かせて︑激しく議論した後︑ ﹁誰一人︑握りしめたる拳に卓をたたきて︑ ‘ V  NAROD! ’   と叫び出づる﹂という場

面は︑仲間と一緒によく大学近くの喫茶店で社会改革や人民の中に入る重要性について熱論する﹃到民間去﹄の主人公秋

白と其昌を彷彿させる︒ほかに︑ ﹃到民間去﹄という題目も︑ ‘ V NAROD! ’ ︵人民の中へ︶

によると一目瞭然であろう︒

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自伝に書かれているあらすじは︑一九二六年に発表されたあらすじと多少違う︒一九二六年に発表された映画﹃到民間

去﹄のあらすじによると︑ A ︑ B ︑ある情熱的な女性にあたる人物はそれぞれ其昌︑秋白︑美玉と思われる︒異なる点は

主に二つあり︑一つは秋白が自殺する理由であり︑もう一つは其昌が新しい村を作ることである︒一点目については︑卒

業後︑秋白は其昌より先に美玉にプロポーズし︑しかも美玉が結婚してくれなければ自殺するということで︑美玉を射止

めてしまうが︑のちに利益のために美玉と離縁する︒薄情な秋白に捨てられた美玉が新しい村で其昌と幸せに暮らしてい

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一三七一九二〇年代の中国における日本文学の受容

る様子を目にし︑乞食に落ちぶれていた秋白はさびしく自殺したのである︒

これは︑あらすじ発表・映画製作の四十年後︑牢獄の中で記憶をたどって書いたものなので︑多少違いがあるのもあり

えることであろう︒ところが︑石川啄木の詩から啓発を受けたことを鮮明に覚えていることから考えると︑ ﹁人民の中へ﹂

というスローガンが田漢に与えた感動は確実なことである︒

﹃銀色的夢﹄を書いた二年後の一九三〇年三月︑ ﹁中国左翼作家連盟﹂が創立され︑田漢は魯迅と同じく創立者と執行委

員の一人となった︒ 同年五月︑ 田 漢は ﹁我們的自己批判﹂ ﹁ 从銀色之夢里醒転来 ︵銀色の夢から目覚める︶ ﹂ を 発表し︑ ﹁こ

の二 年 間 ︑ 多 くの映 画を見てはいないが︑ 映 画に対して抱えている考えは︑ 文 学や美 術に従い変 わってしまったのだ﹂ ︵﹁ 从

銀色之夢里醒転来﹂ ︶ と語り︑ 谷崎潤一郎が言った ﹁ 映画は夢である﹂ という見方に対して改めて考えると︑ 人々を資本主

義の恍惚の境地に導いていってしまうという認識にたどり着く︒これまでのブルジョア的なロマンと感傷的な情緒に対し

て自己批判を行い︑ 創作は民衆生活に深く入り︑ それを最も真実に︑ リアルタイムに反映すべきだと強調するようになり︑

田漢の創作生涯のなか︑ 大きな転換を見せている︒ そ れ以降︑ 戦争時代を通し︑ 新中国設立後も︑ ﹁人民の中へ﹂ と いう指

針が貫かれているのである︒この指針は映画﹃到民間去﹄のテーマと一致しているところから︑石川啄木の詩︑あるいは

このスローガンが田漢にもたらした影響がいかに大きいものであるか想像できよう︒

四︑ ﹃到民間去﹄と武者小路実篤の﹁新しき村﹂

﹃到民間去﹄の主人公其昌と秋白は実際に民間に入ってみるべきと思い︑大学の休暇を利用し︑美玉の帰省に同行する︒

そこで︑すでに五年間かけて︑山を削り︑桃の木を植え︑桃源郷を作ろうとする若い奇人と知り合う︒この奇人と意気投

合した其昌は貧民街で教 佃 をとる奇人の友人に手紙を渡すよう託される︒貧民街に入って初めて分かったのは︑この世で

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一三八

は︑働いてもご飯さえ食べられず︑いつもひもじい思いをしている人達がいることである︒其昌はそれまでいた大学の恵

まれた環境の中から︑農民たちのいる貧しい農村に入り︑不合理的な社会を改造しようと決心したのである︒

其昌は資本家になった秋白と違い︑理想的な生活スタイルを目指し︑家財を使い尽くし︑家の代々伝わる古い磁器まで

売り︑ そ の奇 人たちと一 緒に奇 人のふるさとで 社 会 改 革と人 民の中に入る実 践として新しい村を作った︒ 皆はともに働き︑

休み時間に歌ったり踊ったりして ︑楽しい生活を送る ︒秋白に捨てられた美玉は新しい村へ其昌を訪ね ︑其昌と結婚し ︑

村で皆と一緒に働き︑幸せに暮らすようになる︒

﹃ 到民間去﹄の新しい村は ︑共に働き ︑衣食住の心配がない貧乏人の理想郷である ︒名前から武者小路実篤の ﹁ 新しき

村﹂ を思い出させる︒ ﹁新しき村﹂ は︑ 武者小路実篤が人間が人 間らしく生きるための理想郷を追い求め︑ そ の同志と一緒

に一九一八年十一月に宮崎県児湯郡木城町に開いた村である︒一九三八年︑ダム建設のため︑村一番の水田が水没し︑そ

の補償額三千円を元に︑新しい土地を探し︑埼玉県入間郡毛呂山町に第二の村が作られ︑今に至っている︒残った農地を

日向新しき村として存続している︒

新しき村ついては︑武者小路実篤は数多くの論説や詩を書き残している︒それらを通してみれば︑彼は労働の分配の不

公平からこの世がどうすれば一番合理的になれるかと悩み︑すべての人がどうすれば﹁人間らしい生活﹂を送ることがで

きるのかとずっと考えていた︒ ﹁健康とか︑自由とか︑寿命とか云うものを顧みることのできない生活﹂で︑ ﹁衣食住の不

安から逃れる許りに一生を苦しむ生活﹂ という ﹁人間らしい生活﹂ が 出来ないのは ﹁まちがっている﹂ ことである︒ ﹁ 不幸

の原因たる不合理の生活からぬけ出してもっと合理的な生活をしてゆきたい﹂のである︒すべての人々が﹁人間らしい生

活﹂を送ることができるために︑ ﹁新しき村﹂が誕生したのである︒その目的を達成するには︑ ﹁お互に助けあう﹂ ︑﹁皆が

働く﹂ ということが大切である︒ 特 に ﹁ 労働問題が重大な問題﹂ であり︑ 村は ﹁衣食住の用意がある所まで出来て﹂ ︑ 村人

は﹁一緒に働きさえすれば衣食住の心配はしないで住める︑人間らしく生活出来る﹂

という理念を持っている︒

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一三九一九二〇年代の中国における日本文学の受容

﹃到民間去﹄では︑其昌は社会の不合理に気づき︑それを恨み︑さらに社会改革を目指して新しい村を作ったのである︒ 村では︑皆は一緒に働き︑踊ったりして楽しむ︒村人の詳しい生活ぶりには触れていないが︑皆が働く点ははっきりして いる︒社会の不合理をなくすという社会改革の理念︑および新しき村では皆が働くという形式は︑武者小路実篤の﹁新し き村﹂に通じていると言えよう︒

一九二三年と二五年︑ 日本留学から帰国直後の田漢は︑ 武者小路実篤の ﹁ 桃源にて﹂ ﹁仏陀と孫悟空﹂ を 中国語に翻訳し

た︒谷崎潤一郎は一九二六年第二回訪中時の中国文壇について記す一節

がある︒

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  それより七八年を経て第二回目に上海に渡つた時は︑既に武者小路氏や菊池寛氏の作品はどの翻訳があると云ふ時

代になつてゐた⁝⁝

と武者小路実篤や菊池寛の翻訳作品

の出現を時代変化の兆しのように書いている︒二〇年代文壇における武者小路実篤の

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注目度を想像できよう︒

このような背景の中で︑田漢は武者小路実篤の﹁新しき村﹂という斬新な理念と実践について関心を示すことが可能で

あろう︒ ﹃到民間去﹄における新しい村という桃源郷は︑まさに﹁新しき村﹂という理想郷の投影と言ってもよかろう︒

ほかに︑周作人の紹介による﹁新しき村﹂の中国での大きな反響と深く関係があるではないかと考えられる︒一九一〇

年から周作人は武者小路実篤と文通を始め︑ 一九一八年十月号の ﹃ 白樺﹄ により︑ ﹁新しき村﹂ のことを知り︑ 早速資料を

﹃新し き村﹄ 社に注文し た︒ 周作人は一九一九年七月来日︑ 開村間 も な い ﹁新し き村﹂ を訪れ ︑ 村の仲間た ち と 生活を と も

にし︑また東京などの村の支部にも立寄った︒同月︑そのことを﹁訪日本新村記﹂に書きとめ︑当時中国文芸思想界で最

も影響力の持つ雑誌の一つである﹃新潮﹄ ︵第二巻第一号︶に発表した︒ ﹁ 新しき村﹂に感銘した周作人は雑誌や講演会を

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一四〇

通して新しき村の精神と理念を大いに宣伝するだけではなく︑一九二〇年二月に﹃新青年﹄第七巻第六号に﹁新村北京支

部啓事﹂を発表し︑新しき村北京支部の設立を公表した︒その後の二︑三年間に︑北京をはじめ︑上海︑天津︑長沙等で

は ﹁新しき村﹂ 旋 風 が巻き起こった︒ ﹁新しき村﹂ についての提 案が雑 誌に特 集として編 集 され︑ その問 題 点に議 論が盛ん

に行われるようになった︒そのうち︑王光祈の提唱する﹁各人皆が仕事をしながら勉強をする︒人々はそれぞれ労働の義

務を尽くすことによって生活の必需品を取る﹂を理想とする ﹁ 工読互助団﹂は ︑著名な陳独秀 ︑蔡元培 ︑李大釗 ︑胡適 ︑

周作人達の支持を得たば かりではなく︑ 寄付者には 蒋介石の名前もある︒ 結 局︑ 戦争時代 であったため︑ ﹁新しき村﹂ 運動

は中 国では結 実することはなかった ︒

18

﹃到民間去﹄ における新しい村の開拓という設定は中国社会で人々の ﹁新しき村﹂ に 対する反響と無関係とは言えない︒ ﹁ Film を通してわが国民の深い苦悶を晴らそう﹂と主張していた田漢は︑この人々の

理想郷を映画で実現させようとしたのであろう︒

一九三〇年代︑中国で左翼映画運動が起こり︑次第にプロレタリア映画が映画界の指導的な勢力に成長し︑戦争時代を

通して大きな力を発揮していた︒田漢もプロレタリア映画のシナリオを積極的に書き︑芸華という映画会社の脚本委員会

に参加し︑ そこが左翼映画製作の一大拠点となっていた︒ 田 漢の映画製作の初心は ﹁ Film を通してわが国民の深い苦悶を

晴らそう﹂とするというところにある ︒三〇年代以降 ︑方向転換後の田漢は初心と変わらず ︑依然として民衆に近づき ︑

その苦しみや悩みをリアルに反映するという指針を貫いたのである︒

終わりに

一九二〇年代︑中国では日本から帰国した留学生によって日本文学が積極的に取り入れられ︑その影響を大きく受けた

時代と言える︒田漢は日本文学の紹介および日中文学者交流の先端に立つ人物であった︒今回は田漢が監督・製作した最

(16)

一四一一九二〇年代の中国における日本文学の受容

初の映画﹃到民間去﹄に焦点を当て︑一九二〇年代の中国における日本文学の受容について検討してみた︒

田漢は著名な劇作家であるが︑一九二〇︑三〇年代︑映画のシナリオや評論を書き残し︑厳しい資金不足にもかかわら

ず︑最初で唯一監督として撮影した映画は﹃到民間去﹄であった︒日本留学時代からは映画に対して強く興味を持つよう

になったが ︑映画製作への試みは ︑長年にわたり交友関係を続けていた谷崎潤一郎の影響が大きいと思われる ︒﹃ 到民間

去﹄は石川啄木の詩﹁はてしなき議論の後﹂から啓発を受けて構想されたものである︒映画の趣旨である新しい村の開拓

によって︑社会の不合理をなくす社会改革を実践するところは︑武者小路実篤の﹁新しき村﹂の面影を見出される︒

一九二〇年代の映画界に新風を送り︑大きな意義を持っていた映画﹃到民間去﹄は︑日本文学の影響を大きく受けたも

のであると思われる︒ここから当時中国における日本文学受容の一端がうかがえよう︒

1

︶ 郭沫若﹁䖂子的舞蹈﹂︑初出は﹃創造月刊﹄一九二八年五月第一巻第十一期︑﹃郭沫若全集﹄第十六巻︵人民文学出版社︑一九八

九年十月︶に所収

2

︶ ﹁鴛鴦蝴蝶派﹂とは中華民国初期から五・四運動時期にかけて上海で活躍した通俗文学のグループである︒代表作家には張恨水︑

包天笑︑周痩鵑などがいる︒才子佳人の恋愛物語が多く︑魯迅が﹁佳人が才子に恋をして︑別れがたく︑柳や花の下にいる一対の

蝴蝶か鴛鴦のようだ﹂と評したことから﹁鴛鴦蝴蝶派﹂と称せられるようになった︒小市民的趣味に迎合し︑一九一四年から一九

二三年にかけて発行された週刊紙﹃土曜日﹄は影響力が大きく︑それによって﹁土曜日派﹂とも呼ばれていたのである︒一九四九

年新中国が設立後︑政治のための文学と主張する大陸ではほとんど廃れてしまったが︑香港と台湾では継続されている︒

3

︶ 田漢﹁自伝﹂︵﹃難中日記﹄の一部︑一九六七年六月九日完成︶︑﹃田漢全集﹄第二〇巻に所収

4

︶ 田漢﹁我們的自我批判﹂︑初出は﹃南国﹄月刊︵一九三〇年三月第二巻第一期︶︑﹃田漢全集﹄第十五巻に所収

5

︶ 張偉﹃談影小集

中国現代影壇的塵封一隅﹄秀威資訊科技股份有限公司︑二〇〇九年十一月

6

︶  注 ︵

4

︶に同じ

(17)

一四二

7

︶ 程季華主編︑森川和代編訳﹃中国映画史﹄平凡社︑一九八七年十月

8

︶注︵

7

︶に同じ

9

︶ 拙論﹁一九二〇年代の日中文学者交流のルーツを探る

田漢と谷崎潤一郎の交流を中心に

﹂︵﹃大妻女子大学大学院文学

研究科論集﹄第二十号︑二〇一〇年︶を参照

10

︶ 田漢は谷崎潤一郎の﹁芸術一家言﹂を引用・翻訳していると﹃銀色の夢﹄に書いているが︑記憶違いである︒

11

︶ なるべく谷崎潤一郎の原文に沿い︑田漢の文章を日本語に訳している︒以下同︒

12

︶  注 ︵

4

︶に同じ

13

︶ 拙論﹁田漢の話劇﹃古池の音﹄と谷崎潤一郎文学の唯美主義﹂︵﹃大妻国文﹄第四十二号︑二〇一一年︶を参照

14 ‘ V  NAROD! ’

︶ は一九世紀ロシアで盛んになったナロードニキが革命運動のスローガンとして用いた標語で︑﹁人民の中へ﹂ある

いは﹁人民のもとへ﹂という意味である︒ナロードニキ知識人は一八六一年に始まった不徹底的な農奴解放制度に反対し︑小作農

が君主制を打倒しうる革命的階級であると判断し︑村の共同体を社会主義の初期段階であると信じ︑しかも即時の革命を求めた︒

﹁人民の中へ︵ヴ・ナロード︶﹂という言葉通り︑都市を出て村落へ向かい︑小作農らに反乱を説得して回っていた︒一八七七年︑

ナロードニキは数千の小作農の支持を得て反乱を起こしたが︑ただちに容赦なく鎮圧された︒ところが︑ナロードニキの方針と活

動は一九〇五年と一九一七年のロシア革命への道筋を開いたものと評価されている︒

15

︶ 武者小路実篤﹁新しき村の説明﹂︑初出は﹃新しき村﹄一九二一年一月号の広告﹁新しき村の説明と精神及会則﹂︑﹃武者小路実

篤全集﹄第二十三巻︵新潮社︑一九五六年十一月︶に所収

16

︶ 谷崎潤一郎﹁きのふけふ﹂︑初出は﹃文藝春秋﹄一九四二年六〜十一月号︑﹃谷崎潤一郎全集﹄第十四巻︵中央公論社︑一九八二

年六月︶に所収

︵﹃少年中国﹄第三巻第十二期︶を翻訳︒

17

︶ 一九二二年六月と七月︑田漢は日本から帰国直前の時︑菊池寛の劇﹁海の勇者﹂︵﹃少年中国﹄第三巻第十一期︶と﹁屋上の狂人﹂

18

︶ 于耀明﹃周作人と日本近代文学﹄︵翰林書房︑二〇〇一年十一月︶を参考

※ 田漢の作品などの引用はすべて﹃田漢全集﹄︵中国・花山文芸出版社︑一九九七年︶に拠った︒原文は中国文であるが︑日本語訳

は全て引用者による拙訳である︒

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