飛鳥井の姫君の位置づけ
著者名(日) 倉田 実
雑誌名 大妻国文
巻 31
ページ 29‑44
発行年 2000‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001397/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
飛鳥井の姫君の位置づけ
p、
店
田
実 は じ
め に
﹁狭衣物語﹄における飛鳥井の君の遺児飛鳥井の姫君は︑生後百日で一品の宮の養女となって生長することになるが︑物
語における位置づけや境遇・立場のありように関してはまだ検討の余地は残されているようである︒この小論では︑その
成育過程をたどりつつ︑こうした点に触れていきたい︒なお︑テキストは新潮日本古典集成本を使用している︒
生い立ち
飛 鳥
井 の
姫 君
が ︑
一品の宮に引き取られていく次第 は︑飛鳥井の君の叔母常盤の尼によって次のように狭衣に語られて
い る
︒
﹁ ・
: 世
に 知
ら ぬ
御 う
つ く
し さ
を 聞
か せ
た ま
ひ て
︑
一品の宮のいみじうゆかしがらせたまひしかば︑ 百日の折に参らせ
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
九
。
たてまつりたりしを︑やがてとどめたまひて︑乳母たちなどあまたしておぼしかしづくさまなどは︑
いまおのづから
聞 か
せ た
ま ひ
て む
︒ いとあはれに恋しきものに思ひきこえたまひながらも︑かかる山がつの垣根に生ひ出でたまはむ
も い
と 口
惜 し
き を
︑ いかがはせむなどぞおぼいたりしが︑宮にも︑なかなか知る人などや出で来て︑知り顔に言はむ
も 忍 ば せ た ま ふ な り ﹂
巻 二
了 日
叩
1
却 頁
常盤の尼が︑かつて一品の宮の母︑后宮の女房であった関係で︑飛鳥井の姫君の﹁世に知らぬ御うつくしさ﹂が知られ︑
出生後の百日の祝いの折にまず対面し︑そのまま一品の宮の養女として引きとどめられたことになる︒﹁やがてとどめたま ひて﹂は︑通説どおり養女にしたということであり︑﹁乳母たちなどあまた﹂付けられたのもこのことを裏付けよう︒﹁後 官職員令﹂︵日本思想大系﹃律令﹄に拠る︶
では︑﹁凡親王及子者︒皆給乳母︒親王三人︒子二人﹂とあるが︑﹁あまた﹂と
あ る
の で
︑ 一品の宮の子︑すなわち女王の待遇に相応しい数以上の乳母が付けられたのである︒飛鳥井の姫君は︑こうし て一品の宮の住む一条院で成育することになる︒物語第二年の六月ごろのことであり︑狭衣がこの情報を知らされた時点 では︑姫君はすでに四歳になっている︒母飛鳥井の君は︑姫君三歳の冬十二月にすでに常盤で死去しており︑姫君が母と いたのは生後百日だけでその面影もわからないことになる︒
一品の宮側では︑姫君の素性をはっきりと確認しておらず︑後に狭衣の実子と悟った時点で︑﹁さらばこの稚児は︑なに がしの少将のと聞きしはあらざりけるにこそは﹂︵巻三・
ω 頁︶と判断している︒母親は︑後にも触れるが︑常盤の尼の縁
唱EA
者ぐらいの把握はあったことであろう︒身分的には劣る素性と判断したのであり︑飛鳥井の姫君に対して﹁なかなか知る 人などや出で来て︑知り顔に言はむも忍ばせたまふなり﹂とされるように︑素性を詮索させないように深窓で養育するこ とになったのであろう︒
一品の宮が養女を迎えたのは︑母后宮の合意もあったはずであり︑それは皇女独身主義を貫く尊 貴性を確認するものでもあったことになる︒結婚や降嫁が考えられていたとしたら︑養女を迎えることなどは考慮のほか
で あ
る ︒
一品の宮は養女との生活で無柳を慰められたであろうが︑その仕合せは︑その養女の実父によって︑二重に探閥される
︵l︶
ことになる︒すでに触れたように︑﹁忍ぶ草﹂に託された飛鳥井の姫君見たさに因を発する︿濡衣の恋﹀によって︑独身皇
女の尊貴性が媛小化されて狭衣に降嫁することとなり︑当初から馴染めなかった結婚生活も養女が目当てと知るに及んで︑
養女との生活も慰められないものとなっていく︒夫婦生活も養女との生活も破綻するのであり︑その次第は次のように語
られている︒飛鳥井の姫君は︑︿濡衣の恋﹀の要因となり︑さらに夫婦仲を破綻させることにもなる︒
いとあなづらはしくおぼしつるゆかりなれど︑ただ︑つつくしかりつる人によりてこそ︑﹁つれづれなるに︑をかしき
さまに生したてて持たらむ﹂とおぼしかしづきつれ︑﹁かばかり見えま憂くつらき人と思ひつるに︑ いとど︑これがゆ
かりばかりにて︑心は空ながら見え過ぐさむこそ﹂などおぼすに︑﹁人わろくいと口惜しき身の宿世かな﹂と︑いとど
お ぼ し 嘆 き け り
︒
︵ 巻 三
−
m l
m 頁 ︶
引用前半は︑飛鳥井の姫君を養女とした次第の回想になる︒姫君は︑今現在の把握では﹁いとあなづらはしくおぼしつ
るゆかり﹂ではあるが︑かつては﹁ただ︑つつくしかりつる人﹂であったので︑ つれづれを紛らわして養育しようと思った
とする︒この部分は︑大系本の﹁いとあなづらはしくおぼしつる人のゆかり﹂とした方が分かりゃすく︑引き取る時には
母親の劣った素性もそれなりに聞いていたことになる︒父親が﹁なにがしの少将﹂とすれば﹁いとあなづらはしく﹂とす
るのは言い過ぎであろう︒ここは母親のことであり︑その素性からすればマイナスであったが︑その可愛らしさによって
養女としたのであった︒そして︑今となってその父親も知ったわけであり︑その父子関係が自身の結婚の理由であったこ
とを理解するに至っている︒次の傍線部﹁これがゆかり﹂の﹁これ﹂は飛鳥井の姫君を指し︑﹁ゆかり﹂はその父親の狭衣
一品の宮にとって︿ゆかり﹀は懐かしいものであるどころか︑拒否・拒絶へと作用している︒﹁これがゆかり﹂が
に な
る ︒
結婚生活の意味なのであり︑ 一品の宮は﹁人わろくいと口惜しき身の宿世かな﹂と嘆かざるをえない︒夫婦生活も養女と
の生活も早々に破綻しているのである︒この破綻は繕われることなく︑先の引用は次のように続いている︒
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
一 一 一
その後は︑姫君をも制せさせたまはず︑常に渡らせたまひて︑わが御身はありしよりもけにうとうとしくなりまさ
りたまふ︒まれまれ見えたてまつりたまふ宵々もまたいとけうとくもてなして︑いとわりなきことのみまさりゆけど︑
内裏などの聞きおほしめさむことをおぼすにより︑宮のおぼし寄りもしるく︑ただこの忍ぶの露にかかりで︑見知ら
ぬきまにてぞ過ぐしたまひける︒姫君は︑いみじう馴れ睦ぴきこえたまひて︑ただこの御かたにのみおはすれば︑抱
き う つ く し み た ま ふ
︒
︵ 巻
−
m
一品の宮は﹁姫君をも制せさせたまはず︑常に渡らせたまひて﹂とあるように︑飛鳥井の姫君が狭衣のもとに行くこと
を容認し︑放任している︒しかし︑この文脈は︑飛鳥井の姫君が依然として一品の宮の子であること︑すなわち︑親権が
一品の宮にあることを提示している︒親権は放棄・委譲されたのではなく︑姫君の行動を自由にさせただけである︒だか
ら︑実質的に狭衣が養育に携わっても依然として姫君は一品の宮の子であり︑袴着を執り行なう責任者も一品の宮である︒
大将も若宮の御迎へに昼より御暇なけれど︑︵姫君の袴着に︶あまり見入れざらむも人目あやしければ︑︵一品の宮
や 后 宮 と
︶ 同 じ さ ま に ぞ 扱 ひ も て な し た ま ひ け る
︒
︵ 巻 三
−
m
袴着は姫君四歳の折に行われたが︑それは一品の宮主導であり︑女二の宮所生の若宮と一緒に堀川邸で行いたいとの狭
衣の意向は無視されていた︒若宮は臣籍降下して狭衣の養子であり︑その袴着に一品の宮はかかわらない︒また︑飛鳥井
の姫君は一品の宮の養女であり︑その袴着を主導するのは狭衣ではない︒夫婦関係にあるので︑﹁あまり見入れざらむも人
目あやしければ﹂とあるように︑協力のポ
lズをとって世間体を取り繕うだけである︒養子女は︑夫か妻かにつくのであ
り︑夫妻のものではないのである︒﹁家﹂の成立はまだ未成熟な時代である︒だから︑狭衣も飛鳥井の姫君の袴着の仕方に
ついて希望は述べられでも︑その希望どおりに強引に実施することはできない︒夫婦関係にあるから一品の宮の意向を尊
重するということもあるが︑そもそもこの袴着の時点では︑実施の権限はないのであった︒飛鳥井の姫君は︑こうした両
親の思惑がある中での生い立ちがまず提示されることになる︒
かすがいの役割
飛 鳥
井 の
姫 君
は ︑
一品の宮の子であり続けながら実質的には狭衣によって養育されていくことになるが︑生長が進むに
つれて狭衣自身はその美質を自ら東宮などに吹聴することになる︒
︵東宮は︶大将殿のいたうほめきこえたまふ姫君の御事を︑今より御心に入れさせたまへど︑まだいと待遠なるほど
と 聞 か せ た ま ふ に
︑ 心 も と な く お ぼ さ れ け る
︒
︵ 巻 四
−
m 頁 ︶
狭衣は︑﹁自分も養育にかかわっている妻一品の宮の養女﹂ということで︑飛鳥井の姫君の美質を東宮に吹聴しているこ
とになる︒だから﹁いたうほめきこえたまふ﹂との言われ方がされている︒この吹聴は︑飛鳥井の姫君の東宮入内を期待
させることになり︑宮の姫君の兄宰相中将も︑﹁この殿の御女とて一品の宮に生ひ出でたまふ姫君︑今よりことに思ひきこ
n δ
えたまふめる︑いま二三年過ぎば参りたまひなむとすなり﹂︵巻四・
3頁︶と予測している︒ここでの姫君の指示の仕方は
ワ 山
暗示的であり︑﹁狭衣の御女という形で一品の宮のもとで生長されている姫君﹂ということになり︑こうした言い方で飛鳥
井の姫君の立場が了解されて︑その美質を言い立てていることになる︒また︑この予測が宮の姫君の東宮入内ではなく︑
狭衣との結婚に作用しており︑飛鳥井の姫君の機能的役割となっている︒
一品の宮と狭衣の夫婦関係の破綻は依然として腰着したままであるが︑それもほぼ限界に近づいている︒
一品の宮に生ひ出でたまふ姫君︑おとなびたまふままに︑げになべての人のゆかりとはいふべくもあらず︑大将殿
にもうちおぼえたてまつりたまひて︑なのめに人の思ひきこゆべくもおはせぬ有様なれど︑宮は心づきなきゆかりと
おぼせば︑心一つにまかせてあはれにおぼし扱ふべきことともおぼさず︑﹁かばかりまでほのめきたまふも︑ただこの
ゆかり﹂と心得たまへば︑﹁世を背きなむ後まで名残もとどめま憂きを︑ただあらはして渡しゃしてまし﹂とおぼすを
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
一 一
四
も知りたまはず︑何心なきさまのうつくしさを︑さすがにあはれにも人知れずおぼしけり︒
︵ 巻
四 ・
1 測
m
一品の宮にとって︿ゆかり﹀は懐かしいものであるどころか︑拒否・拒絶へと作用 ここでも巻三の用例と同じように︑
している︒﹁心づきなきゆかり﹂で指示されるのは飛鳥井の姫君であり︑そのために﹁心一つにまかせてあはれにおぼし扱
ふべきことともおぼさず﹂とされて︑姫君を大切に養育しようとする気持ちも起こらないとされる︒また﹁このゆかり﹂
のせいで結婚に至ったと思うと︑﹁ただあらはして渡しゃしてまし﹂と思案する次第となる
o︿ゆかり﹀は︑拒否・拒絶の
記号以外のなにものでもないことになる︒
一品の宮のこの思案の前提にあるのは︑飛鳥井の姫君がまだ自身の養女であることである︒夫婦関係が破綻しても︑飛
鳥井の姫君は一品の宮の養女であり続けていることになる︒しかし︑夫婦関係や親子関係を継続することは︑そろそろ限
界 に
近 づ
い て
い る
︒
一品の宮が先の引用のように﹁ただあらはして渡しゃしてまし﹂と思案するのは︑まず﹁あらはして﹂
が飛鳥井の姫君の素性を公表することであり︑さらに自身の子としてではなく︑狭衣の子としてしまおうと観念している
ことになる︒養育権・親権を委譲しようとするのである︒しかし︑それは夫婦関係の解消と同義であり︑安易な決断は許
さ れ
な い
かやうなるうちうちの御気色を︑御乳母たちなどは見知りたれど︑殿︵狭衣︶にもつゆ聞こえさすべき御様にもあ ︒
らず︑恥づかしげなる御気色なれば︑ただあはれに心苦しき御事をおのおの言ひあはせっつ過ぐしける︒大将殿も︵一
品の宮の意向を︶少しは心得そめたまひにし御気色なれば︑﹁げに︑いかにせまし﹂とおぼす折々はありながら︑今さ
ら に
︑ い か に し て か は 外 様 へ も も て な し き こ え た ま は む
︒
︵ 巻 四
・ 制 頁
︶
狭衣は︑この段階に至ってもまだ一品の宮に自身が飛鳥井の姫君の実父であることを告げてはいない︒袴着の折に︑
品の宮から姫君が実子だと匂わされても︑正直に告白はされていなかった︒だから︑ 一品の宮の親権委譲の意向を付度し
ている﹁御礼母たち﹂は︑それを狭衣に伝達することもはばかられている︒また︑狭衣としても︑ 一品の宮の意向をその
まま受け入れることもできないでいる︒
狭衣が姫君の実父であることを告白することは︑結婚生活そのものを否定することになり︑皇女を預かる身としてはで
きない相談である︒だから︑﹁今さらに︑いかにしてかは外様へももてなしきこえたまはむ﹂と思うように︑今さらに姫君
を一条院から連れ出す手立てはないのである︒姫君の実父であることを告白すれば︑ 一品の宮は親権を狭衣の手に渡さざ
るを得ない状況になり︑親権を委譲されてもなお姫君を一条院にとどめるのは一品の宮に酷薄となろう︒また︑夫婦関係
きないのである︒飛鳥井の姫君は︑ の破綻を正式に公表する事態となる︒狭衣は︑姫君の父と名告ることはできないのであり︑
一品の宮の養女であり続けながら︑破綻しきった夫婦関係における﹁子はかすがい﹂ 一条院から連れ出す算段はで
の役割を必然的に担っている︒夫婦関係破綻の要因でありながら︑親達の立場にも左右されて︑完全に破綻させないとい
うあやにくな存在なのである︒
狭衣即位とのかかわり
一品の宮との関係は五年目になって
いる︒この即位には間接的ながら飛鳥井の姫君が作用していることはすでに指摘されている︒すなわち︑﹁一品宮が象徴す 物語第九年目に︑狭衣が即位する事態となる︒すでに宮の姫君との結婚も果たし︑
ることによってその尊厳を高めてきたともいえる一条院皇統そのものが︵結婚によって|筆者注︶狭衣の前に媛小化され︑
狭衣の内部に取り込まれてゆく動き﹂となって狭衣即位の道を切り開き︑﹁狭衣と一品宮の接近を促した姫君の出現は︑実
︵4︶
に狭衣を帝位へ導いた要素の一つ﹂とされており︑この指摘は追認されてもいる︒飛鳥井の姫君の機能的役割として首肯
すべきであろう︒
狭衣即位にあたっては︑当然のことながら女君たちの参内が要請されてくる︒﹁一品の宮﹂の尊貴性により︑まず最初に
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
五
̲̲̲L.
ノ、
狭衣帝のもとに参内すべきなのが一品の宮になるが︑しかし︑自らは参内拒否の方途を選択し︑乳母たちをつけた飛鳥井
の姫君だけを参内させることになる︒
﹁いかがはせむ︒かくまでおぼし譲りければ︑ いとどおろかならずこそは思ひきこえさせめ︒住む人なくて︑内裏わ
たりいとつれづれげなるべきを︑心やり所にも人の思ふばかりにも︑もてなして候へ﹂など︑御乳母たちにものたま
は せ
て ︑
いと心苦しげにぞ思ひきこえさせたまへる︒かく宮の留まらせたまひにけることを︑ 一条の院も聞かせたま
ひてければ︑﹁いとものしう︑思はずなる御心﹂と︑返す返す聞こえさせたまひけれど︑ いかにもいかにもおぼしそめ
つることをばなほらぬ御癖なれば︑﹁御心地いとなやましうおほされて﹂などぞ聞こえさせたまひける︒
︵ 巻
四 −
m
狭衣は︑飛鳥井の姫君︑だけの参内に対して︑﹁かくまでおぼし譲りければ﹂としている︒これは︑姫君の親権を正式にで
はなく︑内々に譲られたと判断していることになる︒この引用部に対して︑集成本頭注は︑﹁﹁いかがはせむ︒:::もてな
して候へ﹂のところ︑ 一応狭衣帝の会話として一括したが︑狭衣の心中思惟から独り言のような舷き︑肢きから乳母たち
への下知へと移っている﹂と指摘しているが︑極めて適切な読みであろう︒﹁かくまでおぼし譲りければ﹂は︑事の内容か
ら乳母たちへの伝達ははばかられるのであり︑この部分はまさに﹁心中思惟﹂とすべきであろう︒
一品の宮が参内を拒否したことは︑狭衣帝の皇妃となることを拒否したことにもなる︒一品の宮としては︑﹁憂き世の中
も︑かるついでにこそは思ひ離れめ﹂︵巻四− m 頁︶と思案しており︑いはば離婚が密かに意識されている︒一品の宮のよ
うなあり方が︑史実としであったかどうか未調査だが︑異常な事態であることは動くまい︒しかし︑形式的には︑参内拒
否は﹁御心地いとなやましうおほされて﹂が理由とされて︑拒否ではなく遅延として処理されたのであろう︒とにかくこ
うして︑飛鳥井の姫君だけが参内し︑弘徽殿がその局となっている︒これは︑参内が遅延している一品の宮の︑その所生
の皇女と同等の資格が飛鳥井の姫君に与えられたことになる︒飛鳥井の姫君が一品の宮の代償となっているのではなく︑
子のみが先に参内を果たして弘徽殿が与えられたということであり︑ 一品の宮の参内は表向き遅延なのである︒
この飛鳥井の姫君のもとに狭衣帝は﹁弘徽殿には日々に渡らせたまひっつ︑琴など教へたてまつらせたまふ﹂︵巻四−
m
頁︶とされ︑﹁若紫﹂巻の光源氏と紫の君のような親密な﹁親子関係﹂をより発展させることになる︒これ以前にも﹁姫君︑
懐に臥させたてまつりたまひ﹂︵巻四・捌頁︶ともされており︑﹁若紫﹂巻の引用であることは確かである︒この時点では まだ飛鳥井の姫君の実父が狭衣であることは公表されていないので︑この両者の関係は特異である︒﹁若紫﹂巻の引用であ ることで納得される関係性ではあるが︑世間での認識は擬制的親子である︒狭衣帝の博愛ぶりとして人々には納得される
﹂ と
に な
る ︒
一品の宮は実質的に参内拒否︑宮の姫君は不例のため参内不能となり︑狭衣帝後宮には皇妃不在という異常な事態が出 来する︒その異常さを辛うじて糊塗しているのが︑飛鳥井の姫君になる︒飛鳥井の姫君は︑狭衣帝後宮を取り繕う働きも しているのである︒やがて︑宮の姫君の不例は懐妊のためとわかり︑狭衣はその様子見たさに参内させることになる︒局 は藤壷であり︑これで後宮の異常な事態は何の問題もなく解消されている︒狭衣即位は物語第九年の八月二十日︑藤査参
内はその年の十月であり︑約二ヶ月の皇把不在であった︒
四
裳着の意味
一品の宮は参内しないまま密かに出家の準備し︑狭衣即位の翌年にそれを果たすことになるが︑日ならずして莞去する︒
飛鳥井の姫君の素性は︑藤査︵宮の姫君︶出産の折に﹁一品の宮の姫君の御事だに世の人は知らねば﹂︵巻四−
m 頁︶と
されていたように︑依然として一品の宮の養女のままであった︒そして︑この莞去によって飛鳥井の姫君は狭衣帝の養女
になったことになる︒しかし︑
一品の宮亮去の翌年︑飛鳥井の姫君が十一歳になって裳着を行った際に︑正式に狭衣帝の
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
七
J ¥
実子︑皇女として認知されることになる︒裳着準備に入る次第は次のように語られている︒
弘徽殿に一人住みたまふ姫君の御事は︑心苦しうおぼし扱ひっるに︑宮失せたまひて後は︑堀川の院にも︑大宮も︑
常に渡らせたまひっつ見たてまつらせたまふに︑いとはかなう聞かせたまひし道芝の露の形見と紛らはすべうもあら
ず︑なまめかしうをかしげなり︒御かたちは︑似たりけむ母君のさまさへおぼしやられて︑いとあはれにかたじけな
う御覧ぜらるれば︑今まで軽々しき御名ざしをもあるまじきことなるを︑ 一の宮の御元服あるべきに︑やがて御裳着
のことおぼし急がせたまひけり︒何事も︑おほやけざまにあらず︑堀川の院の御いそぎなれば︑世の例にもすばかり
な る 御 い そ ぎ の 有 様 な り
︒
︵ 巻 四
・ 紛
i
制 頁
︶
飛鳥井の姫君は︑﹁弘徽殿に一人住みたまふ姫君﹂とされている︒本来なら母一品の宮とともに住むはずであったが︑参
内しないまま莞去したのでコ人住みたまふ﹂とされるのである︒また︑裳着の心づもりに対しては︑﹁今まで軽々しき御
名ざしをもあるまじきことなるを︑・:やがて御裳着のことおぼし急がせたまひけり﹂とされており︑素性不明の故一品の
宮の養女としての﹁軽々しき御名ざし﹂を改めようとして裳着が考えられている︒姫君の美質が︑それなりの待遇を要請
しているのである︒そして︑裳着とはその素性を正しくして成人とする儀礼である︒﹃源氏物語﹄で︑玉量の裳着に際して︑
その藤氏としての出自ゆえに︑実父内大臣に認知させる必要があったように︑飛鳥井の姫君もこの裳着において正式な素
性が公表され︑正しくされたことになる︒このことは︑次の引用部で明確である︒
﹁いとしもなかりし宮の御思ひなりしかど︑刷別封の御事をさでかくもてなしきこえさせたまふこと﹂と︑
一 条
院をはじめたてまつりで︑世の人も︑ありがたきことに聞こえさせしかど︑この御裳着のほどよりぞ︑﹁州引同出制剤
引 刑 判
﹂ な ど
︑ こ と わ り に 思 ひ け る
︒
︵ 巻 四
・ 町 頁
︶
一品の宮の弟︶も世間の人々も︑飛鳥井の姫君が狭衣帝の﹁取り女﹂︑すなわち養女として理解し
一 条
の 院
︵ 後
一 条
院 ︒
ていたことを示している︒そして︑裳着によって﹁かくにこそありけれ﹂とあるように︑養女ではなく実娘であったこと
を知ることになる︒裳着で飛鳥井の姫君の︑狭衣帝の皇女としての素性が正しくされたからにほかならない︒
この後一条院は︑飛鳥井の姫君の裳着に対して︑様々な贈物をしていた︒
一条の院︵後一条院︶にも︑故宮のあはれにおほし扱ひたりしこと︑御覧じ知りにしかば︑﹁形見にも誰をかは﹂と
おぼしめして︑かかる御いそぎをも聞きはなたせたまはず︑心ことなる御装束︑扇︑薫物などゃうのものをぞ︑御心
ざ し の し る し こ と に て 奉 ら せ た ま ひ け る
︒
︵ 巻 四
・ 組
1
純
頁 ︶
皇子のいない後一条院は︑姉一品の宮の形見の人として飛鳥井の姫君を考えて裳着の贈物をしたことになるが︑この贈
与は一条院皇統に連なる人として飛鳥井の姫君を待遇しようとしたことを意味していよう︒狭衣帝は︑飛鳥井の姫君によっ
て一条院皇統を吸収したことにもなり︑姫君は︑即位だけでなく︑即位後の皇権維持にも働いていることになる︒
飛鳥井の姫君は︑裳着の日に﹁この道芝の露と数ならずおぼしあなづりし名残とも見えぬ御有様を︑今宵やがて一品に
なしたてまつらせたまひっ﹂︵巻四・必頁︶ということで︑﹁一品の宮﹂に叙されている︒限りない尊貴性が飛鳥井の姫君
円J
に付与されたわけだが︑先の後一条院の贈与と関連させてみれば︑養母であった故一品の宮の類落した﹁一品の宮﹂とし
ての尊貴性を回復することで継承していることにもなる︒養母が﹁一品の宮﹂であったがゆえに︑飛鳥井の姫君も﹁一品
の宮﹂になると理解されよう︒
裳着によって飛鳥井の姫君の素性は公表され︑﹁一品の宮﹂として最大限に待遇されたことになる︒かつて巻一一一の後半で
狭衣が出家を決意した際に︑それとなく姫君の所在を母堀川の上に打ち明けてはいた︵巻三−
m頁 ︶
︒ し
か し
︑ 今
は 公
然 た
る狭衣帝の﹁一品の宮﹂であり︑院と皇太后宮となった両親も︑藤壷腹の二の宮への心寄せには劣るものの︑できる限り
の待遇をほどこしていくことになる︵巻四・拐頁︶︒
裳着はまた︑その後の結婚を意味している︒東宮から早速の求婚が行われているが︑狭衣の選択は一品の宮の皇女独身
主 義
で あ
っ た
︒
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
九
四
0故宮の御有様などをおぼしあはするにも︑﹁いでや︑なほ︑宮たちは︑ただ心にくくてやみたまひなむのみこそ目や
す か る べ け れ ︒ ︵ 故 一 品 の 宮 は ︶ 我 が 御 心 の 程 よ り は ︑ 我 な が ら 比 べ 苦 し く ︑ 心 苦 し か り し 心 の う ち ぞ か し ︒ : ・ ﹂
︵ 巻
四 ・
溺 頁
この狭衣の判断に対して︑集成本頭注は︑﹁皇女は独身で通すのがよい︑という考え方は当時の通念︒女二の宮の母皇太
后宮などは信念ともなっていた︒これを侵し破ることによって︑いよいよ通念の正しさを実証した男こそ狭衣にほかなら
ない︒父親としての立場が言わせるにせよ︑人生の皮肉を感じさせる︒いや︑この男の言︑だからこそ重いと言うべきか﹂
としているが︑正鵠を射ているだろう︒即位以前の狭衣であったら︑飛鳥井の姫君入内は懸案事項であったはずであり︑
かつて狭衣は東宮に﹁かく何事もめでたき人︵宮の姫君︶を御覧じ初めては︑︵飛鳥井の姫君を︶おぼしおとさむと思ひた
まふるこそいとからかるべけれ﹂︵巻四・ぉ頁︶と語っていた︒臣下の身分であったからこその姫君入内を想定した物言い
つ 臼
であったが︑帝位に就いている現在は︑当然のことながら子女の行く末に関する考えも相違してきている︒帝位の尊厳と
その維持が何よりも要請されるからであり︑﹁一品の宮﹂に叙した飛鳥井の姫君の尊貴性を婚姻によって類落させて︑自ら
もその傷を負うことは忌避されるのである︒また︑﹁御母方などにつけても︑頼もしく思ひ後見たてまつりたまふべき人も
な く
﹂ ︵
巻 四
− m 頁︶という境遇も勘案されており︑即位がしからしめた飛鳥井の姫君に対する処遇となる︒飛鳥井の姫君
は︑﹁一品の宮﹂として独身を通すことによって︑﹁父狭衣の帝位︑また皇統そのものを荘厳してゆく﹂とする指摘は︑肯
繋に値しよう︒しかし︑﹁一品の宮﹂として独身を強いるそこには︑母の素性ゆえの否定的な契機が介在していることも否
めないようである︒この点は次章で触れていきたい︒
五
産衣と母の絵日記とのかかわり
物語はその終需を迎えようとして︑これまでの物語展開を対象化するような語りに転じていき︑その過程で提示される
のが飛鳥井の君の遺品であった︒長く常盤の尼が保持していたが︑死去に際して娘に託され︑それが飛鳥井の姫君に届け
られるという次第であり︑狭衣もその遺品を見ることになる︒遺品として重要なものは︑姫君の産衣と絵日記である︒こ
の遺品は︑﹁若菜下﹂巻で提示された明石の入道の消息や多様な願文が︑明石の女御に託されたことと見合っているが︑ま
ず産衣について見ておきたい︒なお︑絵日記の内容そのものの検討は割愛せざるを得ないが︑ここではその意味するとこ
ろだけを考えておきたい︒
産衣は祝い着であり︑そこに生年月日が書かれることは︑﹃大鏡﹄の序で︑侍から年齢をただされた大宅世次が﹁正月の
望の日生まれ﹂で﹁丙申の年﹂と納得させ得たのも﹁産衣に書き置きではべりける︑ いまだはベり﹂としたからであった
ことからも分かる︒言わば︑出生証明書の働きをしているのであり︑また︑お守りにもしたようである︒﹃赤染衛門集﹄︵
I・五四五︶に︑﹁うぶ衣をとどめたりけるを︑まもりにするものななりとてこひたりければ︑やるにかはりて﹂とあるのは
こ の
場 合
で あ
ろ う
︒
飛鳥井の姫君がこうした産衣を見ることによって︑出生証明を手にしているのであり︑自身の素性を初めて確認するこ
ととなる︒そして︑さらに絵日記を見ることで母の歴史を知ることとなる︒物語の世俗においても︑姫君の素性は︑ほか
されていたようだが︑姫君の生長と物語の終駕にともない︑ここで姫君に知らしめることになったのであろう︒
この絵日記は︑飛鳥井の姫君が﹁かたはしづっ広ぐるほどに﹂︵巻四・ ω 頁︶来合わせた狭衣が持ち去ることとなり︑結 っ
d局﹁心のどかに見︑ずなりぬること﹂︵巻四・侃頁︶と残念に思う次第となっている︒しかし︑そうであっても絵日記は確か
qJ
に飛鳥井の姫君に見られたことにはなる︒飛鳥井の姫君は︑出生証明を手にし︑さらに絵日記を見たことで︑出生の所以
を理解し︑自身の生の意味を反努していることになる︒それは母の思いや歴史を理解することであり︑お守りとしての産
衣に込められた予祝を理解することでもある︒成人した飛鳥井の姫君がこうした遺品を手にすることで︑母のまっとうで
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
四
四
きなかった父狭衣との恋を︑子において完結させていることになる︒飛鳥井の姫君が︑絵日記を見るという行為でもって
両親の恋を完結させる働きをしているのである︒
この絵日記は︑﹁我が世にありけることども︑月日たしかに記しつつ自記して︑さるべき所々は絵に描きたまへり﹂︵巻
四 −
m 頁︶というものであった︒飛鳥井の君の様々な思いや境涯が記され︑描かれているのであり︑そうなると大部分の
内容は狭衣との出会いから始まり︑生別︑出産︑出家︑辞世という次第になり︑狭衣の側面までがおおよそたどれること
にもなる︒狭衣にとって極めて重大な遺品となる︒
狭衣は飛鳥井の姫君に十分鑑賞させることなく︑次のように言って持ち去っている︒
御覧ぜむたびごとに︑なかなか涙のもよほしともなりぬベく︑また︑かの人の緋にもいとどかかりぬべきものにて
侍るめるを︑この一巻ばかりは︑涼しき道のしるべにもなしはべらむ︒今は︑とてもかくてもかひなきことを︑過ぎ
ぬ る か た の こ と
︑ な お ぼ し も の せ さ せ た ま ひ そ
︒
︵ 巻 四
・ 紡
1 1 ι
揃 頁
飛鳥井の姫君にその母の悲しい境涯を知らせて悲哀の種とすることは︑情操教育にとってよくないとの判断がここには
あろう︒尊貴な﹁一品の宮﹂にはふさわしくない内容との判断でもあり︑光源氏が継子いじめの物語を明石の姫君に見せ
ないようにしていたのと同じである︒また︑絵日記の存在そのものが︑﹁かの人の粋にもいとどかかりぬべきものにて侍る
める﹂と言われるように︑飛鳥井の君のこの世への執着のよすがとなることを危倶しでもいる︒亡き人のこの世への執着
は︑恐憧すべきものである︒だから︑絵日記は﹁涼しき道のしるべ﹂にすべきだとしている︒狭衣はこの時点で絵日記を
経紙に漉き換えることを決断している︒飛鳥井の君母子にとって︑絵日記はこの世では必要のないものとの判断であり︑
経紙にすることで母の執着を供養できるとする信仰がここにある︒そしてそれは︑飛鳥井の君の存在を永久に葬り去るこ
とを意味している︒狭衣は︑母親のことを思っても﹁とてもかくてもかひなきこと﹂だとし︑もうお嘆きなさるなと諭し
ている︒これは︑母の悲しい境涯を忘れさせようとしているのであり︑﹁一品の宮﹂にふさわしくないとしていることにな
る︒もし︑姫君が結婚したら︑その母ゆえに軽んじられることもあるかも知れない︒それを狭衣は恐れているのであり︑
姫君は﹁一品の宮﹂としての独身主義を道守しなければならないのである︒そして︑母の境涯を示す証拠となる絵日記は
滅却されるべきなのである︒
姫君にとってよくない方面に絵日記が働くとの判断になるが︑また︑その事情は狭衣においても同じである︒
みづからならざらむ限りは︑さすがに日放ちがたきものを︒心のどかに置きたらむも︑明日もありとは思ふべくも
あ ら ぬ 世 に
︑ 見 る ほ ど の 心 ざ し に は
︑ こ れ を だ に も 弔 は む
︒
︵ 巻 四
・ 揃 頁
︶
先に触れたように︑絵日記は飛鳥井の君にかかわる狭衣の側面までがおおよそたどれるものであった︒だから狭衣にとっ
て極めて重大な遺品︑それも人目に触れたら極めて危険な遺品となる︒すなわち︑﹁目放ちがたきもの﹂であり︑﹁心のど
かに置﹂いておいたら人目に触れて危険なものである︒威儀師に誘拐されようとしたり︑東国に流浪しそうになったり︑
受領風情の男にかどわかされて西国行きの船に乗船させられ︑挙げ句の果てに投身を計った女性が飛鳥井の君である︒そ
の詳細が︑月日とともに記されているのであり︑そうした女性とかかわった狭衣も絵姿にとどめられている︒狭衣の﹁隠
ろへ事﹂︑秘事に属する事が記され︑描かれているのが︑遺品の絵日記になる︒正史に記載されるのははばかられる秘史に
属する内容である︒狭衣帝にとっては︑人目に触れたら帝位そのものを脅かす危険を苧んでいる︒その危険は︑﹁一品の宮﹂
に当然及ぶものでもある︒だから絶対に秘匿ないし破棄されるべきものである︒狭衣が下した結論は︑供養の具としての
経紙に漉き換えて滅却し︑飛鳥井の君の執着も弔おうとするものであった︒
絵日記は︑その所在が示されるや否や︑その存在を滅却されたのは︑以上のような次第となる︒絵日記の出来栄え自体
は︑光源氏の須磨の絵日記に通じるように示されており︑﹁斎院ばかりにはいみじく御覧ぜさせまほしけれど﹂︵巻四・揃
頁︶とされているが︑須磨の絵日記を﹁絵合﹂巻で﹁中宮ばかりには見せたてまつるべきもの﹂とされた意味性とは反対
に︑狭衣皇権には否定的に働くものであった︒しかし︑この存在が語られることで︑飛鳥井の姫君に母の境涯を知らせ︑
飛 鳥
井 の
姫 君
の 位
置 づ
け
四
四 四
さらに︑飛鳥井の君の物語を相対化しつつ最後的に収拾していることは確かである︒
おわりに
飛鳥井の姫君が語られるのは︑絵日記の段で最後となる︒まだ十一歳である︒狭衣がこの世にいる限り︑﹁一品の宮﹂と
しての尊貴性のまま独身を通すことにもなろう︒静かで︑かっ︑雅やかな︑楳子内親王のような生活を送ることになると
思われるが︑そうなるまで自身の責任外のところで運命に採まれてきた前半生であった︒両親の素性と運命ゆえに︑幼く
して養女の境涯から生い立つことになったが︑そうであることによって物語の局面局面で機能的な働きをになわされてい
たことになる︒特に︑その養女性が物語展開の要所に絡んでいるのであった︒
注