「趣味の規準」に関する若干の考察
石 川 徹
ヒュームが1757年に発表した少し長めのエッセイ「趣味の規準について」(µRIWKH6WDQGDUGRI
7DVWH¶1が、ヒューム哲学を理解する上で、重要な文献であることに疑問の余地はない。ただしその
重要性がいかなる意味であるかに関しては、ヒューム哲学全体をどう見るか、またヒュームの哲学 の変遷の過程をどのようなものと解釈するかによって様々である。本論文はこの大きな問題に関し て正面から取り組もうとするものではない。そうではなく、このエッセイの解釈に必要なヒントを ヒュームの体系的著作である『人間本性論』との関係から取りだすことができないかを考察してみ ようというのが、本小論の目的である。しかし、もちろんこの試み自体がヒューム哲学体系の解釈 に踏み込むことになるが、それは可能な限り最小限にとどめ、今回「趣味の規準」を理解する上で のポイントが、ヒューム哲学の他の部分とどのように関係づけられるのかという点に注意を払っ て、このエッセイの整合的な読解を試みたい。
1
このエッセイの主題はヒュームが『人間本性論』序文において提示した人間学の構想の内の文芸 批評(&ULWLFLVP)に相当する2。したがって、ヒュームはこの主題を当初から自らの哲学的探究の視 野に入れていたことになる。また同時に、その主題を探究するにあたって、『人間本性論』の諸議 論を、その基礎的理論としての役目を果たすものと考えていたことも明らかである。しかし、その 内実をどの程度『本性論』執筆時に明確に思い描いていたかは不明であるし、『人間本性論』の商業 的失敗3という事件を経て、ヒュームが自らの哲学の性格にどのような変更を加えたかということ も、解釈の一致をみているわけではない。体系的著作から種々多様なエッセイへという著述のスタ イルの変更が、どれほどヒュームの哲学の内容に影響を与えているかは、本人が述べている通りな のか、それともはるかに大きな含意を持つものかは簡単には答えを出せない問題である。そこで、
このエッセイの議論を検討することで、これらの問題に取り組むための一つの手がかりが得られる のではないかということも、このエッセイの幾つかの論点を検討する理由の一つである。
さて、このエッセイの主題は、広く言えば美学の領域に属するものであるが、「趣味の規準」と いう語が示す通り、ヒュームはすでにいくつかの前提を置いている。
まず趣味(WDVWH)という語だが、18世紀のイギリスにおいては、芸術に関する判断は趣味という 言葉で語られていた4。当然のことながらこの語は味覚を示す語でもあり、美を感受する能力は、
身体の諸感覚の内、味覚とのアナロジーで語られていたのである。このことは美という性質が他の
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感覚的性質よりも主観性を帯びていることを、当然の前提として置いていたことを意味する。実 際、ヒュームもこのような芸術作品の評価は、それを味わった個々の人間の心情に依存しているこ とを当然の前提としている。これは道徳的価値判断の理論において、それらが理性ではなく情念に 基づいていることを主題として擁護している5ことと比較すれば、扱い方に相当な相違がある。こ の相違をもたらしたものは、ヒュームの内的な必要からというより、道徳に関しては、その源泉を 理性に求める立場が強力に存在していたことと、美がある意味で個人の感じ方に依存するというこ とが当時の共通理解であったことから生じていると言える。そして、そのような趣味判断の理解 は当然ながら、ヒュームの道徳論と強い親和性を持つ。(もちろんヒュームだけでなく一般に道徳 感情説を唱えたとされる哲学者たち一般に言えることではあるが)6しかしながら、趣味判断の多 様性が単なる好き嫌いを超えて、芸術作品の評価、いわゆる批評として機能するべきであるとする と、単に趣味判断は個人の心情(6HQWLPHQW)に端的に依存すると言って済ませるわけにはいかない。
したがって、「趣味の規準」という主題について、ヒュームの論点は本来、個人の主観的な感じに 依存する判断に関して、いかに規範が成立するかという問題になるように思われる。またヒューム の議論も一見したところそのような規範を描き出すことが目的であるように見える。しかし、その ように単純に言い切れるかどうかは、彼の言うところの規則に関する考察を因果判定の規則や、道 徳の規則に関する発言と照らし合わせると疑問が生じる。本稿ではその辺の微妙な事情に焦点を当 て、ヒュームの哲学における規範性に関する手がかりを考える材料としたい。
2 まず このエッセイの概要をまとめてみよう。
趣味の多様性という誰もが認める事実の確認からこのエッセイは始まる((226‑8)。さらに、実 際に普通人が考えているより人間の間の相違は大きいということが主張される。しかも、それは、
倫理的判断を情念(心情)7に基礎を置くものとする主張する哲学者たちの主張に託して語られる。
その内容は、倫理の客観性を主張する立場が一つの論拠とする、異なる文化における倫理的語彙の 共通性に基づく議合への反論という形をとる。例えば何を正義と見なすかに関しては時代や文化に よって異なるにしても、正義という語で異なる他者同士で共通理解が得られるのであるから、正義 という概念を完全に相対化することはできないという議論に対する反論を行う。この場合、異なる 文化が共通の概念を持っているように見えるのは、語の用法が価値判断を意味として含んでいるか らであり、他文化において、その語が指している行為や性格は決してわれわれの道徳的是認や批難 を生み出さないような場合に適用している場合がある。従って異なる文化間でも一致しているよう に見えるのはそのような語の用法から生じているとする。この批判は、ヒュームのように道徳的是 認や否認が個人の心情(情念)に基盤を持つとする限りにおいては、それなりの説得力を持つ。な ぜなら道徳的区別の基盤はあくまで個々人の心情であり、語の使用法の規則がそのような情念のあ り方を超えて、自らの心が否定するものを徳という語を持って呼ばれていることに自ら気付いたと したら、それを拒否する権能、つまり、より基礎的な根拠は個人の心情の側にあるはずだからであ る。このような議論は当然それぞれの個々人の感じ方は、それ自身一つ一つの事実であり、どれが 正しいとか間違っているとか、あるいは優劣を論じられるようなものではないという相対主義をそ の論理的帰結として持っているように思われる。
しかし、ヒュームの話はそのようには進まないで、われわれの日常が確証するもう一つの事実、
すなわち、われわれの芸術作品の評価には確たる基準があるように思われ、それを著しく逸脱した 評価は他者から嘲笑を持って迎えられるという事実である((230‑1)。すなわち、人の好みは多様 でその間に優劣はないという主張をしておきながら、芸術作品の評価に関しては、一定の基準が存
在するという事実をともに認めているのである。このように一見矛盾する事態を摘出しておいて、
それを調停する理論を探すというのかヒュームの議論のよくある形ではあるが、今回はそこのとこ ろは曖昧にしたままで、趣味の基準自体の考察へと進む。
エッセイはこのような事実確認の次に、唐突に作品の規則は経験によって得られると宣言され る((232)。その理由は趣味判断は知性の抽象的な推論によられるものではないからである。そし て、作品の制作や批評の過程などにおける指針などの事例を自説の補強材料としたうえで、一方で 規則といいながら必ずしも厳密なものではないという((233)。このような判断に影響を与える諸 条件が多くあることがその理由である。ただ、このような諸条件を取り除いたら趣味の判断がきわ めて正確なものになるのか、あるいはそれでも蓋然的なものにとどまるのかに関しては明言してい ない。批評は、事実問題として個別の作品に対する価値評価に主眼を置くものであろうから、この ようなメタ美学的な問題にではなく、このような規準をより適切に適用するにはどうしたらよいか という方向に議論は進んでいく。その際に使われるのが美の知覚と第二次性質の知覚との類推であ る((233‑4)。第二次性質の印象は感官の状態や周囲の状況によって変化する。それ故同じ対象を 見ていたとしても、色の感覚印象は刻々と変化している。にもかかわらず、われわれはその対象の 本当の色について語る。その場合知覚表象としての資格においては、各人が持つそれぞれの色の表 象は同等であるが、コミュニケーションにおいては、最も標準的な状況での知覚内容を本当のもの とするという一種の規約が成立している。これを引き合いに出して、美の感覚もこのようなもので あるとする((233‑4)。ヒュームは様々な阻害要件を取り除いていくことで、このような一様性に、
到達することができれば、法則の実在性を証明することができるとし、実際、長い年月にわたり変 わらず高い評価の作品が、このような趣味判断において規準となりうるような人間本性における規 則の存在を証明しているとする。((234)
そして、この規則の発現を個々の人間の心情において妨げているのは想像力の繊細さの欠如で あるとして、その文脈において身体の味覚との類比を持って趣味の規準の働きを説明するために、
『ドン・キホーテ』からあるエピソードを引用する((233‑4))。
このエピソードはドン・キホーテの従者であるサンチョ・パンザの親戚の話であり、彼らはワイ ンに関してすばらしい舌を持つと言われている。あるワインの貯蔵樽の品質を確かめるために、彼 らに試飲を求めると、一人はいいのだが少し革の味がするといい、もう一人は少し鉄の味がすると いう。周囲の人はまったく感じとれないので彼らを嘲笑するが、ワインの樽が空になってみると革 ひもの付いた鍵が出てきて、彼らのワインの識別力がすばらしいものだということが分かったとい う話である。ヒュームはこれを精神の趣味(味覚)における規準と対比させ、彼らの証言が、判定 者の決定にあたり、ひも付きのカギが規則に当たるという((235)。
ヒュームはこの後、趣味判断において、サンチョの親戚のような目利きとなるためにはどのよう な条件が必要になるかに考察の対象を移していく。
このような意味での優れた判定者になるためには、そもそも対象の微細な相違を見分ける能力 がいる。そのための条件をヒュームは以下のように列挙していく。1そもそもの生まれつきの 感覚の鋭敏さ2広範な実践による洗練3幅広い比較の経験4公平性5良識(知性)8の5つである
((237‑40)。
1はいわゆる素質ということになろう。2はそのような能力を実際に働かせることによって能力 それ自体を鍛錬していくことであろう。3は項目だけで見ると2と区別が難しいように見えるが、
ヒュームがここで考えているのはただ美的な経験を感受するというだけでなく、それを評価すると いうことまで含んでいると考えれば、この意味も理解できる。すなわち、ここでいう比較は、作品 同士の優劣の決定という目的のために必然的なことであると理解することができよう。とすれば、
4の公平性も同じ文脈で理解できる。単に美的な感覚の享受のためなら、公平であることは必ずし も必要が無いからである。そして、5はヒュームの対象として考えているのが文芸作品であること を考えれば、当然のこととも言えるが、もし、ヒュームがここで真の判定者の仕事を単なる黒白の 決定だけでなく、その根拠を他者に示すことまで含めて考えているのであれば、そこに健全な知性 としての良識が含まれてなければならないことを理解するのはそれほど困難ではなかろう。
このような条件がそろった人が正しく芸術の価値を見出すことが本当であれば、正常な視覚の持 ち主が、標準的な条件のもとで標準的な見えを証言できるのと同様の意味で規準となるような美の 感受ができるという主張も可能であるかもしれない。しかし、このような主張は必ずしも説得力を 持たない。なぜならば、ドンキホーテの事例における革ひも付きの鍵のような万人に訴えることの できる客観的証拠がこの場合には存在しないからである。ヒューム自身の言葉を借りれば、真の判 定者と偽の判定者をどのように区別できるのかという問題が起こる((243)。視覚の問題であれば、
圧倒的多数が標準的見えの色に対して同意するであろう。しかし、美の場合はそもそも真の判定者 が限られた少数の人間であることが前提とされている。それゆえ、この問題は、本来はヒュームに とってきわめて重大な問題となる可能性のあるものである。
しかし、ヒュームはこのような立場には与さず、この理論上の困難さは、事実によって否定され ていると述べる((244)。すなわち真の判定者は現実に存在し、見出すことそのものは困難ではな いというのである。この点ではむしろ学問のほうが難しいという。ヒュームは結局において偉大な 芸術作品が歴史の中で見いだされ、さらには永続的に評価されてきているという事実に依拠する。
しかし確かに、このような価値ある作品が存在していることを認めることはできるにしても、この ような偉大な作品でさえ、過去に常に同じ評価を受けていたわけではないことを考えれば、ここで のヒュームの議論は無理がある、と言わなければならないであろう。
ともあれヒュームの主たる議論はここで終了して、あとはいわば芸術の判定にともなう不可避 の、しかし問題のない相違を生み出す原因として、いくつかの事情を挙げる。一つは個々人の好み が年齢とともに変化するというよく知られた事実であり、また生来持っている大きな傾向として何 を好むかの相違である((246)。また時代や文化の相違が持つ影響に関しても述べるが((247)、こ れらの事実は一般には、美的な価値判断が相対的であるという主張をする際の証拠として、使われ るのが通例である。したがって論敵に対しての説得力はないように思われる。もし説得力を持つと すれば、それは、美的判断に関する各人の相違が比較的に小さく安定していることを事実的な前提 としているからであろう。例えば、現在の社会では、芸術作品の価値をオリジナリティに多く求め る。言わば既存の芸術の規則を破壊する革新者に対してより多くの称賛を与える。ヒュームの言う ように、人間本性の普遍的な規則にのっとった表現の価値はあまり認められない。このことの原理 的な是非はともかく、ヒュームが思い描いていた芸術的価値の世界は比較的安定した世界であった ろうということは理解できよう。
3
以上のようにヒュームの趣味判断の理論は、一方でそれがある意味ですべてどの当人にとって真 実であるという主張と、比較的安定した趣味の基準が存在しうるという一見両立しがたい主張を行 う。第一の主張からは、ヒュームが道徳論においてなした主張、すなわち、道徳的区別が理性に由 来するものではないという主張が連想される。そこでは道徳的判断が理性による判断とは異なり真 偽を問うものではないというということが強力な根拠となっている(7+13.1.2)。同様に美的判断 も真偽を問えるものではないことになる、そして第二の主張から、規準がすることは我々の判断を ある一定の仕方で統制することであり、かつその統制には妥当性と安定性があるという主張を読み
取ることができる。そしてヒュームはこれらの規準を規則または決定と表現している((230)。そ して先の『ドン・キホーテ』の事例では、樽の中から見出された鍵が規則であり、親戚の証言が決 定であるとする((234)。これらのみを前提として可能な解釈は、つぎのようなものであろう。こ れはあくまで身体の味覚と精神の趣味の感覚とのアナロジーからする解釈である。
ワインの味を判定するための利用可能な証拠は、基本的に次の三つである。すなわち自分自身の 味覚と、他者の証言、さらには鍵の存在のようなワインの味に影響を与えるであろう物理的、客観 的証拠である。これを美的な感覚に当てはめれば、自分自身の美的な感覚(心情)、および他者の 証言、そして物理的な証拠となる。前者の場合ヒュームが基準としている他者の決定とは、他者の 証言の内特別に鋭い味覚を持っている人間の決定である、後者の鍵は、いつも発見されるとは限ら ない証拠であり、またこの鍵がワインの味に本当はどのような影響を与えるかは、感覚器官への外 部刺激とそこからどのような感覚が一般的に生じるかに関する一般法則が知られているのでなけれ ば、厳密な意味での証拠とはなりえないが、そのような知識は確定されているとしておこう。さら には、自分自身と他者ないし他者間の味覚による判断が異なっている場合に、ある特定の人物の判 断が、このような一般的知識に照らして信頼できるということが経験的に明らかになっているとい うことも重要である。さきほど述べたようにワインの中の鍵が常に発見されるとは限らないからで ある。このような前提が成立している場合には、いわゆる目利きの人間の証言が一種の規準として 働きうると言ってもよい。しかし場合によっては他者と異なる判断をすることが嘲笑の的となるこ ともありうるというのは例によって示されているとおりである。これについては、ヒュームが真偽 が同様に問えないとする色の感覚との対比を考えておく必要がある。色の感覚は正常な人が最も標 準的な状況で知覚する感覚を、本当の色と一種の規約によって定めている。そしてこの場合重要な のは本当の色を知覚する人が圧倒的に多数派であるということである。これは味覚の場合でも、甘 さをそのうまさと区別して考えたとき、甘いと感じるのが大多数であろうから、ワインの微妙な差 異を感じるというのがこのような知覚一般の例に当てはまるようには思えない。もし可能であると すれば、人間の識別能力そのものが生理的な要素によって同一に決まっていて、理想的状況におい ては一つに定まるというような生理的な決定論であろうが、この立場をとるとすれば、第一の前提 つまり、それぞれの人の感覚はそれぞれにおいて正しいという主張を無意味化してしまうように思 われる。つまり正しい反応が唯一あるということになりはしないかという懸念を払拭できない。し かし、おそらく、身体的な味覚と精神の趣味のアナロジーを厳密に成り立たしめようとすれば、こ のような解釈とならざるを得ないであろう。
そして、このアナロジーにはもう一つポイントがあるように思われる。例えば食の好みの場合、
どのような悪食の人がいたとしても、その人の好みそのものを変えることが可能かどうかはわから ない。それぞれの人の判断がその人の感覚であるのであれば、いくら一般的な基準から外れている と言ったところで、その人の感覚そのものが変わらないということは十分ありうる。人の好みは説 明できないと言うだけではなく、それはある点において変えられないと認めざるを得ない。趣味の 多様性が、例えば道徳的判断の多様性と類似したところもありながら異なる所は、道徳判断におい てある程度の相対性は認められるとしても、少なくとも同じ共同体においては普遍性が存在し、そ れとは異なる判断を持っている人でも、それに従わなければならないという点にある。一方趣味の 多様性はそれ自体としては、たとえ規準といわれるものがあったとしても、多数派の判断という以 上の意味を持つのかどうかに関しては、さらに考察が必要である。この点に関しては、ヒュームの 議論はあまりはっきりしない。
以上身体感覚としての味覚との対比においてヒュームの議論を理解するとすれば、ヒュームが規 則といっているものは、人間本性、特に美的感覚の一様性を仮定していて、この仮定の上に得られ
るような経験的知識である。それは具体的には文中で作品制作の規則として挙げられているような ものであろう。しかし、このような規則自体は、一つ一つをとってみれば普遍性を持っているかも しれないが、ある特定の芸術作品の価値を正確に判定するようなものではない。それ故、実際に は、このような知識とは別に、それらを理想的に具現化した真の判定者の証言が規準としての機能 を果たす。しかも、真の判定者がいつも必ず明確に選択されるとは限らず、さらに、様々な状況の 影響を受けるのでいつも正確な判定を下すとは限らない。それ故ヒュームはこれらの人々の証言の 結合9という言い方をしている、これを好意的に取れば、このような証言者の社会的交流によって 作品に関する価値判断が定まるということになるのだろうが、このように定まっていくことが可能 であるためにも、一定の基準が必要なのではないかと思う。様々な意見が収束していくのも一つの 可能性だが、当然いつまでも収束しないとか、複数の収束点を持つという可能性も残ってしまうか らである。ヒュームがこのような可能性を事実上無視しえたのは、現状認識において趣味の基準 が、大方において安定しているということへの信頼と、人間本性の普遍性への信頼ということにな るであろう。その意味ではヒューム哲学の根本をなす自然主義的立場からの解明ということができ るかもしれない。しかしながら、ヒュームの理論がそのまま芸術に関する判断の理論として十全に 役立つものかはかなり疑問がある。芸術の持つあらたな価値の創造という側面を、ヒュームの理論 では捕らえそこなっているように思われるからである。
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さて、このようなヒュームの趣味判断の理論を、彼の道徳論と比較して何が言えるだろうか。両 者ともそれらの判断が真偽を問うものではない。それ故、アプリオリに考えれば、どのような判断 もそれ自体をとれば優劣の差はない。しかし、そのような主張が可能であるにもかかわらず、道徳 も芸術も程度の差はあれ、一定の判断の収束を予期ないし前提とする。そもそもそのような機能が 無ければ、道徳判断や趣味判断の存在理由そのものがなくなる。情緒主義者が主張するように単な る感情表現であるとすれば、われわれがこれらの判断を通じてなしている、社会的な交流そのもの の意味がよくわからなくなってしまう。
さて、道徳的判断も美的な判断も、何かしらの基準・規則をわれわれは有している。そしてそれ らの規則の根源をたどっていけば、他者の行動や芸術作品を見たときの美醜の感覚ないし承認や否 認に到達する(7+12.1.1.1)。そして、そのような規則の持つ強制力は道徳の方が強い。趣味の規準 は、芸術作品の鑑賞において一応の目安とはなるが、だからと言って心底から芸術のよさを自分が 感じるためには、まさにその判断を支える心情を持たなければならない。しかるに道徳の場合にお いては、自分自身がたとえその心情を持たなくでも、多くの場合それに同意をしなければならな い。なぜなら、道徳の規則、少なくともきわめて基本的な原理に関しては、その規則自体が人間本 性に書き込まれているとは言えなくても、人間に与えられた条件から自然発生的に生じ、少なくと も進化論的な観点からは一定の合理性を与えられるからである10。すなわち、理性を持った動物で ある人間は、もし心底からそれを承認する心情が自ら感じることができなかったとしても、つまり 道徳感情の要求するような共感や一般的観点をとることができなかったとしても、少なくとも理性 的に道徳の要求する、例えば正義の規則などの広い意味での合理性に対しては同意を与えることが できるであろう。
芸術の規則においては道徳の規則における一種の合理的な説明が欠けている。それ故に趣味判断 においては、ワイン樽の例における鍵の存在のような客観的根拠を示すことができず、彼が規則と いっているものは根拠に乏しい経験則にすぎず、結局最終的には信頼できる判定者の証言に頼る以 外の方法は実際には存在しないと解釈することも可能である。現実問題としては可能であるとは思
えないが、美的判断に関しても、正義の規則のような一種の自然史的な説明が原理的にはヒューム 哲学の中で可能であったのではないか、その構想をどこかで示されていればという、いささか過大 な期待も抱いてしまう。いずれにしろ、道徳論との対比によって趣味判断の議論の持つ性格の一端 を明らかにしえたように思う。
そして、さらにもう一つ、ヒューム哲学おける規範性を論じるためには不可欠な因果判定のため の規則との比較を試みて、この大きな問題に関して何か言いうることが見い出せるかどうかを試み てみよう。
5
因果関係判定のための規則とは何か(7+11.3.16)。ヒュームの中心的問題である因果論に深くか かわることがらであるので、ここでは問題には深入りせず、趣味の規準との比較に必要な部分のみ を取り出して考えてみよう。ヒュームの因果論の出発点は、因果関係は直接知覚できないというこ と、しかし、にもかかわらず、因果関係は我々の経験的知識の中心的な部分であり、これなしには 世界についての認識や学問さらに日常生活に至るまで一切の人間の知的な営みが依存している。言 わば宇宙の接合剤(FHPHQWRIWKHXQLYHUVH)である。因果関係の直接知覚が不可能であるということ の証拠は、ヒュームによれば、因果関係の本質をなす必然的結合の観念を生み出す印象が対象間に 見出せないことにある。必然的結合とは、結局同種の現象が起これば、必ずそれに付随して同種の 結果が生じるということであり、言いかえれば、個々の因果関係は必ず因果法則を背後に有してい て、適切な因果法則の一事例であることが真正の因果関係の意味であるということになるが、経験 をいかに積み重ねようとも、我々はこの因果法則の認識には到達しえないことになる。ヒュームに よれば、われわれは、経験によってわれわれの内部に生み出された習慣が必然性をもっているかの ように、精神に働き、いつも同種の観念を生み出すようにわれわれを決定しているがゆえに、我々 は純正の必然的結合の印象は持ちえないが、習慣からその代用の観念を借りているというのである11。 さて、これは因果関係の意味分析とも言うべきものであるが、であるとすれば、われわれは習 慣的に同種の経験を積めば、あるいは単一の経験でさえも、そこに因果関係を見て取ることがあ る。もちろんこれは適切な場合もあれば、不適切な場合もある。その不適切な場合をヒュームは非 哲学的な蓋然的知識(XQSKLORVRSKLFDOSUREDELOLW\)と呼び、いわゆる偏見や迷信の源泉であるとする
(7+11.3.13)。そして、このような非哲学的な蓋然的知識を哲学的な蓋然的知識と識別するために 因果関係判定のための規則がある(7+11.3.15)。この規則自体は、この規則を適用した結果生まれ た知識が真正の因果的知識であることを保証するものではない。あくまで、除外すべきものを選択 するものである。なぜなら因果的知識は絶対的知識の確実性には到達しないがゆえに蓋然性と呼ば れるからである。しかし経験的な知識を学問的に洗練したものにする際にはこのような規則が必要 である。さて、次なる問題はこのような規則はどのようにして得られ、またそれを規則として適用 する根拠は何かという問題である。
前者に関しては。ヒュームはこの規則自体は我々の知性の働きの観察から得られる経験的知識で あるという(7+11.3.15.3)。規則の中身を見ればこれは経験的知識であるというよりは、因果関係 という概念の意味分析から生じる意味論的な規則であるかのように見えるが、その点は本論文では 問わないでおこう。問題は、この規則の内容は我々の知性のこれまでの働き、特に偏見や迷信では ないような一般的知識の獲得に関する知性の働きの観察によって得られるとする点である。これは 趣味の規準を経験的な知識とするということから、両者に共通する点である。この経験的知識とい う事実命題を規則という規範性をもったものに転化しているという点は、ヒュームの哲学の中では 特別な問題を引き起こしているように見えるかもしれない。なぜなら、この転化はヒュームが厳し
く批判しているように見える「である」命題から「べきである」命題への転換のように見えるからで ある。ヒュームのこの指摘が事実と価値の峻別の主張であると考えるべきでないことに関しては、
以前論じたことがあるのでここでは詳説はしない12。しかし、事実から規範への転換はより意識的 に説明の必要なことであると考えていることは間違いない。彼の道徳的規則の生成の自然史的な議 論は、彼なりのこの問題に対する回答であると考えることができる。事実命題そのものは観念の結 合によって成立する。それの真偽は経験との一致によって保障される。ところがそれが規則として 働くためには、言わば経験の保障する範囲を超えて適用されねばならない。ヒュームが因果判定の 規則に対して、これも一種の非哲学的蓋然性である(7+11.3.15.11)と述べているのはこの意味で解 する必要がある。しかし、そこで生じる規則としての規範性は道徳論や趣味の規準に関する論述か らわかるように情念(心情)を基盤とするものである。その意味では、道徳的判断や美的判断が規 範性をもつのは(それが普遍的な妥当性をもつかどうかは別として)むしろ事柄の性質上当然であ る。問われるべきは事実判断とそれら規範性がどのようにかかわるかであろう。
一方、事実判断そのものを規則として適用するときいったい何が起こっているのだろうか。事実 判断がある種の強制力をもつようになるのだとすると、ヒュームの論述に従えばこの強制力を発揮 する基盤となっているのは、一種の情念(心情)にほかならないということになる。つまり知性の 働きの基盤となる規則の規範性を支えているのは情念にほかならないという結論が生じる。知性の 働きを支える規則が情念の働きであるという、この一見して奇妙に見える解釈は、しかし、見かけ ほどには奇妙ではない。習慣の働きによってある条件下である種の観念を想起するように決定され ているというのが、ヒュームの考える因果関係の本性であった。この際に感じる内的印象が彼の考 える因果必然性の観念のもととなる印象である。これに関しては様々な解釈が存在するが、筆者は これを、一種の随伴現象的なのであるとして意志の印象と類比的に解釈したことがある13が、今回 の考察によれば、この内的印象を文字通りの反省の印象(情念の印象)として解釈する可能が出て きたと思われる。
以上趣味判断の基準を道徳の規則及び因果判定の規則と比較検討することによって、ヒューム 哲学の解釈にあらたな可能性を見出し得た。ただしまだこれらは依然として可能性の話であり、
ヒューム解釈全般にどのような影響をもつかは今後の研究をまたねばならない。今回は指摘のみに 留めて考察を終えることにする。
註
1 テキストは'DYLG+XPH Essays, Moral, Political and Literary, HG()0LOOHU(,QGLDQDSROLV/LEHUW\&ODVVLFV1987)
所収を使用した。文中の((数字)は同書のページを示す。
2 'DYLG+XPHA Treatise of Human Nature(7KH&ODUHQGRQ(GLWLRQRIWKH:RUNVRI'DYLG+XPHYRO1HG')1RUWRQ 0-1RUWRQ2[IRUG2007)(7+1,QWURGXFWLRQ5)
『本性論』の個所は最近の慣例により(7+1巻・章・節・段落番号)によって示す。
3 ヒュームはこれを自伝の中で印刷機から死産したと表現している。そして、それ以降著述のスタイルを、体 系的な哲学的著作からエッセイ等の一般読者層に向けて移している。本人はこれは哲学的な原理の変更では ないと言っているが、その言をどこまで文字どおりにとるかは、解釈者によって異なる。
4 この語の使用法に関しては日本イギリス哲学会編『イギリス哲学・思想辞典』(研究社、2007年)「趣味」の項 を見よ。
5 『本性論』の第三巻の第一部は全てこの問題に当てられている。
6 例えば、道徳感情論の主要な論者の一人であるフランシス・ハチスン()UDQFLV+XWFKHVRQ1694‑1746)の主著 の題名は『美と道徳の観念の起源』(An Inquiry into the Original of Our Ideas of Beauty and Virtues).である。
7 情念はSDVVLRQ心情はVHQWLPHQWの訳語であるが、この文脈ではほぼ同意と見なしてよい。ヒュームのこれらの 語の用法に関しては、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』第二巻「情念について」(石川徹・中釜浩一・伊 勢俊彦訳 法政大学出版局 2011年)の訳注2.1.1の(6)を参照せよ。
8 ヒュームの叙述は必ずしもこのように箇条書きのように整理されてはいない。この項目による整理は 055RZH³µRIWKH6WDQGDUGRI7DVWH¶'HFLVLRQV5XOHVDQG&ULWLFDO$UJXPHQW´LQThe Continuum Companion to Hume, HG$ODQ%DLOH\ 'DQ2¶EULHQ(&RQWLQXXP 2012)に依拠している。
9 「真の判定者の結合された決定」(-RLQW'HFLVLRQRIWUXH-XGJH)((233)
10 ヒュームが7+13.2.1以降でなしているのはまさにこの解明である。
11 7+11.3. の大半が因果関係及びそこから得られる認識について論述されている。
12 この問題に関してはかってくわしく論じたことがある。石川徹「自然主義的誤謬と「であるーべきである」問 題」(中才敏郎・美濃正編『知識と実在』 世界思想社 2004年 SS,196‑222)
13 デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』第二巻解説 石川徹(SS.330‑2)
$IHZUHÀHFWLRQVRQ³RIWKH6WDQGDUGRI7DVWH´
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