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近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって―

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Academic year: 2021

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一一五 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ― 写真2 東光寺 山門 写真3 「安楽寺文書」 「東光寺一件」文書の内「東光寺跡職に付一札」

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一一四 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ―    ﹁安楽寺様     東光寺         要書       ﹂       強署之砌、御安禅之由珍喜之至ニ奉存候、然ハ御尋候趣、北方配末之寺方ハ 今秋下旬頃迄御断相成候、寺町法中南方ハ御巡寺ニ相成候、則昨日慈船寺 ニ而御書御披露并法談有之候、尊光寺ハ貴寺御帰院之翌日帰寺仕候、御書面 ハ幸便ニ相達候、 先ハ右抔御承知可被下候、 繁用故用事計申上度、 早々、 謹言、      ︵文政十二年︶      六月廿日        東光寺        安楽寺   関連文書に一〇一 −三などがある。 [付記]   本稿は 、 美馬市のミライズで開催されたみま学講座 ﹁安楽寺の古文書を読む﹂ 第一 −三回︵二〇一九年一二月六日︵金︶ ・二〇二〇年一月一〇日︵金︶ ・同年二 月七日︵金︶一三時三〇分 −一五時︶の講義内容をまとめたものである。特に第 三回の ﹁﹁東光寺一件﹂を読む ︱ 本末論争から見る江戸時代の安楽寺 ︱ ﹂が中 心である。   本講座の資料を作成するにあたって、安楽寺御住職千葉昭彦様をはじめお寺の 方々には大変お世話になった。深甚の謝意を表する次第である。   また、本稿は科学研究費基盤研究︵ A ︶課題番号 1 9 H 0 0 5 2 9﹁地方基幹 寺院に於ける文献資料と経蔵ネットワークの研究﹂の一部であることを付記して おく。 ︵四国大学文学部日本文学科日本文化史・博物館学研究室︶ 写真1 安楽寺 本堂 国登録有形文化財

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一一三 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ― れる江 戸 時 代 中 期 には、 そ の地 位 を 得て い た よ う で、 寛 政 年 間 ︵ 一 七八 九 − 一八〇一︶の本願寺触頭名簿にその名を連ねている。   東光寺が触頭の地位を得ることによって、本末制における安楽寺と東光 寺の関係も次第に不明確になり、天保一四年︵一八四三︶の﹁安楽寺末寺 明細帳﹂ ︵上巻︶には﹁只今、半離末﹂と記している ⑻ 。   触頭制の強化、本末制崩壊への危機を感じた安楽寺は、末寺の離反に対 して、合意の上で、上下関係を断絶する方法をとるようになった。   宝暦七年 ︵一七五七︶ 、安楽寺は讃岐国高松の安養寺と 、安養寺配下の 二〇ケ寺の離末証文 ︵下巻 1 3 5 頁   第五箱 −一︶ ﹁高松安養寺離末状﹂ を出して、安養寺の支配を離れることを認めている。その後、安永 ・ 明 和 ・ 文化の各年に二一ケ寺の末寺を手放しているが、いずれも本末合意の上に なされたようである。 おわりに 本末論争再び   以上、江戸時代前期阿波における浄土真宗寺院の本末論争について、安 楽寺と東光寺を事例に考察をしてきた。城下町の有力者を檀家に持つ末寺 東光寺と遠く離れた郡部にある本寺安楽寺との本末論争は、江戸時代前期 の本末論争の実態の一齣を知る上で興味深い事例と考える。   今後は 、﹁西教寺一件﹂に関する史料の検討から 、安楽寺と隣接する末 寺の西教寺との本末論争について考えてみたい。古文書を読み解くことに より、阿波の地域の歴史の事実、真実に迫ってみたいと考えている。 [註] ⑴   ﹁ 安 楽 寺 文 書 ﹂ は 、 千 葉 乗 隆 編 ﹃ 安 楽 寺 文 書 ﹄ 上 ・ 下 巻 ︵ 同 朋 舎 出 版   一九九〇年一〇月・一九九五年一〇月︶に翻刻されている。本稿の史料引用は すべて本書による。また、編者の千葉乗隆氏により、巻末の解説で﹁東光寺一 件﹂について簡単に紹介されている。本稿はその成果に多く学んでいる。 ⑵   安楽寺 に つ い て は 、 平 凡社 地 方 資料 セ ン タ ー 編 ﹃ 日 本 歴 史 地 名 大系 37   徳島県 の地名﹄ ︵平凡社   二〇〇〇年二月︶ 、﹁角川日本地名大辞典﹂編集委員会編﹃角 川日本地名大辞典 36   徳島県﹄ ︵角川書店   一九八六年一二月︶ の﹁安楽寺﹂ の項、 郡里町史編集委員会編﹃郡里町史﹄ ︵郡里町   一九五七年三月︶ 、美馬町史編集 委員会編﹃美馬町史﹄ ︵美馬町   一九八九年三月︶ 、千葉乗隆﹁四国における真 宗教団の展開﹂ ︵﹃龍谷大学論集﹄ 第三五八号   龍谷学会   一九五八年一月︶ 、﹁ 近 世の一農村における宗教 ︱ 阿波国美馬郡郡里村 ︱ ﹂︵ ﹃龍谷史壇﹄第四四号   龍谷大学史学会   一九五八年一一月︶などを参照されたい。千葉乗隆氏の論考 は 、﹃千葉乗隆著作集二巻 ﹁地域社会と真宗﹂ ﹄︵法蔵館   二〇〇一年一二月︶ に再録されている。 ⑶   戦国時代の安楽寺については 、橋詰茂 ﹃瀬戸内海地域社会と織田権力﹄ ︵思 文閣出版   二〇〇七年一月︶所収の﹁四国真宗教団の成立と発展﹂ 、﹁ 石山戦争 と讃岐真宗寺院﹂に詳しい。 ⑷  須藤茂樹編﹃千葉山安楽寺の文化財﹄ ︵四国大学   二〇一九年二月︶ 。 ⑸   前掲註⑴ ﹃安楽寺文書﹄ か ら引用 。 本末論争 の 研 究は 阿波 で は 少なく 、 松永 友和 ﹁資料紹介   四国遍路札所寺院 の 本 末争論関係資料 に つ い て ︱ 雲辺寺所 蔵文書 の 紹介と 翻 刻 ︱ ﹂︵ ﹃徳島県立博物館研究報告﹄ 二 六号   徳島県立博物館   二〇 一 六 年 三 月 ︶、同﹁ 四 国 遍 路 札 所 寺 院 と 徳 島 藩 ・ 江 戸 幕 府 ︱ 元禄期 の 本末 争論を通し て ︱ ﹂︵ ﹃ 四 国 遍路と 世 界 の 巡礼﹄ 二 号 、 愛媛大学法文学部附属 四 国遍路 ・ 世界 の 巡 礼研究セ ン タ ー  二〇 一 七 年 三 月 ︶ を あ げ て お き たい。 ⑹  前掲註⑵﹃日本歴史地名大系 37   徳島県の地名﹄ ﹁東光寺﹂の項。 ⑺   ︵史料 2 ︶ を訂正したものが ﹁東光寺一件に付安楽寺尊正書状写﹂ ︵﹃安楽寺 文書﹄上巻 10頁   第一箱 −一 五 ︶である。 ⑻  文政年間の安楽寺と東光寺との関係を示す史料をあげる。   東光寺書状︵ ﹃安楽寺文書﹄下巻 2 3 2 頁  第五箱 −一〇一 −一︶      ︵包紙裏書︶

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一一二 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ― 不明瞭の場合があり、結果、末寺が本寺に不満を抱き本末論争に発展する ことがあった。   安楽寺においても、 東光寺や西教寺との間に本末論争が起こっているが、 本稿では江戸時代前期に行われた安楽寺と東光寺との本末論争について検 討を加えた。寛永三年︵一六一七︶の﹁四ケ国末寺帳﹂に阿波国徳島の東 光寺は安楽寺の末寺として記されているが、東光寺はこのことを不服とし て、寛永一一年︵一六二五︶に安楽寺からの離脱を試みたのである。   東光寺は、徳島藩主蜂須賀家の拠点徳島城のある徳島城下に位置してい た 。 武士や商人層を門徒に擁していた 。﹁ 東光寺跡職に付一札﹂に慶長六 年︵一六〇二︶東光寺講中が安楽寺に対し、東光寺の後継住持に正信を推 挙する連署状を提出している 。それに東光寺講中一四人が署名している 。 そのうち武士と商人がそれぞれ六人、 その他二人という構成になっている。 特に商人たちは、 近世初期の徳島城下町発展に関係したものたちであった。   このように、東光寺の門徒は武士・商人層であり、同寺は経済的に豊か であったといえる。そのため、城下町徳島の発展と共に東光寺の基盤は確 固なものとなり、そのことを背景に同寺はその地位向上を図ることになっ ていくのである。一方で、東光寺の本寺である安楽寺は、阿波国の西北部 の農村地帯に位置し、これら農地を耕す農民層を門徒にしていたので、経 済的基盤は東光寺に比べて劣弱であったといえる。   このように、東光寺はその豊かな経済力によって、本願寺教団における 地位向上を図り、寛永一二年には余間一家︵本願寺における着席の席次に 基づく格式の一つ︶の位に進んだ。この官位に昇進するには、多額の謝礼 金が必要で、寛保年間には銀五〇〇枚であったという。東光寺が任命され た頃、 余間一家は全国でわずかに三一ケ寺で、 四国では東光寺以外はなかっ た。こうして、東光寺は寺格を高め、阿波真宗教団における発言権を強く するとともに、安楽寺の支配下から離脱を試みたのである。   はじめ東光寺は安楽寺と話し合いの上で本末関係を解除し、本山の直参 になろうとしたようである。 ﹁東光寺一件に付口上書草案﹂ ︵﹃安楽寺文書﹄ 上巻 11頁   一箱 −一六︶によると、 東光寺は安楽寺への鐘を寄進するので、 それと引き換えに本末関係を解消して欲しい旨を申し入れてきたが、安楽 寺の拒絶によって話し合いは落着しなかったようである。その後、東光寺 では安楽寺の末寺ではないと申し立て、争論が始まった。   寛永一九年︵一六四二︶五月に至り、本寺興正寺の調停によって、安楽 寺と東光寺の本末争論はようやく終結し 、両寺は約定書 ︵﹁東光寺一件裁 許に付取替証文写﹂上巻 18頁   第一箱 −二三︶を交換し、東光寺は従前通 り安楽寺の末寺であるということなった。   このことは、寛永一三年︵三年︶の本末帳に、東光寺は安楽寺下として 届出ており、本末の規式を乱してはならないという幕府の方針に基づいて 東光寺の敗訴に終わった。安楽寺はこの問題が解決したのを契機に、末寺 に対して本山に申請書を出すときは、必ず本寺安楽寺の添状を付して提出 するように通達し 、これについての末寺の連判を求めた ︵﹁ 東光寺一件裁 許に付回状并連判﹂上巻 19頁   第一箱 −二四︶ 。   その後、安永元年︵一七七二︶に東光寺は興正寺本堂造立の時に﹁御本 山﹂と書いた幟を寄進した。本願寺は興正寺が本山と称するのは許さない ということで、東光寺寄進の幟が本願寺と興正寺の本山号使用をめぐる問 題を引き起こす契機となった。   徳島藩に触頭を設定するにあたって、東光寺はその経済力と藩庁所在地 に位置しているという地理的条件の良さによって、触頭の地位を得た。   本末制は法流に基づいて構成された寺院の統制組織でそれは安楽寺の場 合のように、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがっていた。こ れに対し、触頭制は一国一地域を区画する大名領国あるいは藩体制に則し て醸成された寺院統制機構で、江戸時代中期以後の寺院統制は主に触頭制 によってなされた。   東光寺が触頭に任命された年時は不明であるが、全国的に触頭が設置さ

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一一一 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ― 様之調仕候哉、    一 其段東光寺申様、右同心於無御座ハ、副状被成可被下と申候故添状 仕、式部卿様へ宜□申候処ニ、此状上不申由、式部卿様被仰下驚 入申候、 か加様迠之不届義仕候ニ付、 今度両度まて人を遣尋申処ニ、 私ハ五年三年居申者ニ而御座候ヘハ万事不存候間、旦方へ尋可有と 両度之返事ニ而御座候条、左様ニ而ハ埒明不申故、先以西教寺ヲ致 言上候間、有体ニ被仰付可被下候、以上、       寛永十三年         二月二日 安楽寺           式部卿様           まいる   ﹁寛永拾三年三月日   阿讃両国末寺帳   安楽寺乗尊﹂ ︵表紙には寛永三年 とある︶とある﹁四カ国 末 寺 帳 ﹂︵ ﹃ 安 楽 寺 文 書 ﹄上巻 11頁   第一箱 −一七 ︶ には﹁阿州徳島   東光寺﹂とある。 ︵史料 4 ︶ 東光寺一件成敗に付願書控 ︵﹃安楽寺文書﹄ 上巻 17頁   第一箱 − 二〇︶       申上ル御事     先度双方被召寄、御吟味被成候へ共、否之義於只今不被仰付迷惑仕 候、    一理非次第ニ仰付可被下候哉、    一東光寺せいしニ被仰付候哉、但私せいしニ被仰付候哉、    一私国本之奉行方ヘ御状御添可被下候哉     右之通被仰上相済申様奉頼候、此度相済不申候ハゝ、下坊主・門徒 之義不及申、 世門︵間︶へつらいだし不罷成候、 急度仰付可被下候、         安楽寺       寛永十九         四月晦日          下間式部卿様   京都の本山で安楽寺と東光寺双方が呼び寄せられ吟味がなされたが、 ﹁否 之義﹂が仰せ付けられず迷惑しているとある。 ︵史料 5 ︶ 東光寺一件裁許に付取替証文写 ︵﹃安楽寺文書﹄上巻 18頁   第 一箱 −二三︶      端裏無之    今度其方と我等出入有之処ニ、興門様致言上、双方被聞召届、如前々 之安楽寺下坊主なミニ東光寺万事馳走可仕旨被仰付候、御意之趣以 来少も相違有之間敷候、為後日如此候、恐々謹言、      寛永拾九年         東光寺        五月十四日         了寂判      安楽寺殿          参   同日付で東光寺宛安楽寺順正筆﹁東光寺一件裁許に付取替証文控﹂ ︵﹃ 安 楽寺文書﹄上巻 18頁   第一箱 −二二︶が出されており、双方で証文を出し 合い決着がついたことがわかる。その後、寛永一九年八月一一日付﹁東光 寺一件裁許に付回状并連判﹂ ︵﹃安楽寺文書﹄上巻 19頁   第一箱 −二四︶で 安楽寺の末寺に﹁当春京都江我等罷り上り、東光寺と出入、双方御御聞き 成され、前々の如く仰せ付けられ、無事に相済まし候間、御心安すかるべ く候﹂と結果を周知し、連判を求めている。 以上の史料をまとめると以下の通りとなる。   寛永の本末帳により本山・本寺・直末寺が決定され、上下関係が明確に される。中世以来の上下関係が反映されているとみてよいが、上下関係が

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一一〇 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ―         梯藤左衛門︵花押︶         馬渡市左衛門︵花押︶         森介三︵花押︶         東へや        藤左衛門︵花押︶         きの国や        与大夫︵花押︶         まふりや        四郎右衛門︵花押︶         天王寺や        善左衛門︵花押︶         ぬしやの        平十郎︵花押︶         しをや        惣右衛門︵花押︶         平田        与八郎︵花押︶         益田        橘右衛門︵花押︶         東光寺        講中    安楽寺様        まいる   ︵史料 1 ︶は 、本山安楽寺に対して東光寺の住持職について 、東光寺講 中から正念坊を推挙するという内容である。東光寺講中には梯等徳島藩士 や紀伊国屋や塩屋などの有力な城下の豪商たちが名を連ねている。平田与 八郎は金工師である。 ︵史料 2 ︶ 東光寺一件に付安楽寺尊正書状草案 ︵﹃安楽寺文書﹄上巻 10頁   第一箱 −一四︶       尚々東光寺望之儀、其元隙入不申候様ニ奉頼候、以上、     東光寺被罷上候間 、一書致啓上候 、上々様御無事ニ御座被成候哉 、 承度奉存候、去年ハ讃州へ御下向被成候処、御無事ニ御上着被成之 段、誠有難奉存候、    一 東光寺望ニ付被上候、如御存知私末寺代々事候条代々下坊主之事候 間、 其御分別被成候て、 其元ニ而隙入不申候様ニ御取合奉頼候、 扨々 御浦山敷儀御推量可被成候、不及申上候へ共、右之通可然様ニ奉頼 候、何も乗尊近日可罷上之条、其刻委可申上候間不能多筆候、恐惶 謹言、         安楽寺         卯月十六日        寛永拾弐年    進上     下間式部卿様         人々御中   ︵史料 2 ︶ は 、安楽寺尊正が 、本願寺の下間式部卿に対して 、東光寺が 望んでも﹁御存知の如く私末寺代々の事に候条、代々下坊主之事候間﹂分 別をして欲しいと依頼している。 ︵史料 3 ︶ 前欠﹁東光寺一件に付口上書草案﹂ ︵﹃安楽寺文書﹄上巻 11頁   第一箱 −一六︶     ︵前欠︶     可給 、於左様ニハ﹂ 、鐘を釣り寄進可仕と申候て 、与兵衛と申東光 寺家ノをとなヲ指越申候処ニ、中々不及覚梧ニ義、左様之取次曲事 ニ 之由申ニ付、与兵衛手ヲ失罷帰申候、末寺に□無之候ハ如何、か

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一〇九 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ― 長政添状﹂ 、豊臣秀吉の京都大仏殿供養に関する本願寺の招集廻状など 戦国 −桃山時代の文書も含まれている。     第一一世門主顕如光佐の檄文をはじめ、多くの信長打倒の文書が各地 に発せられた。四国の主要門徒寺院・坊主衆・門徒衆に対しても出され たが、安楽寺には支援要請の廻状が二通残されている。たった二点であ るが、私たちに戦国時代における阿波での浄土真宗の活動が伝わってく る貴重な史料である。     元亀三年頃と推定される一〇月七日付で、顕如は阿波の門徒衆に対し て﹁近年信長が権威を借りて本願寺に対して度々難題をいってきて困っ ています﹂ 、この時こそ仏法興隆のため戦ってほしいと力説している ︵﹁ 阿 波慈船寺文書﹂ ︶。同日付で同様の趣旨の檄文に添えられたと推定される 本願寺坊官下間正秀・同頼廉の連署状が安楽寺に残されている。     天正六年︵一五七八︶に毛利氏が本願寺の要請を受け、二回目の兵糧 米輸送を断行したが、その際に安楽寺・安養寺に宛てられた興正寺佐超 の奏者役の下間頼亮書状が現存している 。﹁ 長々籠城によって困ってい ます。近日警固された輸送船が入ってくるので協力するように﹂と命じ ている。 ︵ 3 ︶安楽寺の文化財     安楽寺の寺宝を考える上で二つの視点、 すなわち ﹁伝来の寺宝﹂ と ﹁ 新 しい寺宝﹂で把握してみたい ⑷ 。前者では 、︵ 1 ︶浄土真宗に関する文 化財と︵ 2 ︶寄進などによる文化財であり、後者で注目されるのが、阿 波関係の作品で、吉成霞亭、湯浅桑月、鉄崖、横山天然、柴秋邨等の作 品が確認できた。また、興味深い作品に石田茂作作﹁瓦拓本并賛﹂があ る。郡里廃寺出土の瓦の拓本に、奈良国立博物館長を務めた仏教考古学 者の石田茂作博士が﹁瓦礫語らず   吾其の声を聴かんと欲す﹂との賛を 加えたものである。 三、安楽寺と東光寺の本末論争 安楽寺文書﹁東光寺一件﹂を読む   ﹁安楽寺文書﹂のなかの﹁東光寺一件﹂関係文書の検討をする ⑸ 。   天寿山東光寺は、徳島城下の寺町︵徳島市寺町︶に所在する浄土真宗の 興正寺に属した寺院である ⑹ 。   寛永一一年 ︵一六二五︶ 、本寺の安楽寺から末寺の徳島の東光寺が離脱 を図り、 結果的には離脱はかなわなかったが、 後年天保一四年︵一八四三︶ に﹁半離末﹂と記される関係性になった。   本末論争の背景は 、安楽寺の末寺である東光寺は 、徳島藩主蜂須賀家 二五万七〇〇〇石の城下町徳島の寺町に所在し、徳島藩の家臣である武士 や城下町徳島の賑わいを支えた有力商人である豪商を門徒に持っていた 。 東光寺はこのような有力者と彼らの豊かな経済力によって本願寺教団にお ける地位の向上を図り、寺格を高め、阿波における発言力を高めていった と考えられる。それでは、安楽寺と東光寺の本末論争の経過について史料 を引用しながら見ていきたい。 ︵史料 1 ︶東光寺跡職に付一札︵ ﹃安楽寺文書﹄上巻 7 頁  第一箱 −一一︶   ︵包紙上書︶    ﹁東光寺講中入院願之状﹂      以上    態令申候 、仍而東光寺諸 ︵跡カ︶職に付而 、をねゝと正真坊を申含 、 東光寺之住寺ニ相定申候、若正信坊別心候ハゝ、当島之御もんと中を ねゝ得付可申候、為後日一筆如件、      慶長六年拾月廿八日         青山積︵勝カ︶蔵︵花押︶         梯九蔵         土田彦経兵衛︵花押︶

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一〇八 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ―     千葉山妙音院安楽寺と号し、浄土宗本願寺派に属す。本尊は阿弥陀如 来立像。徳島藩撰の地誌﹃阿波志﹄によると、安楽寺は古くは天台宗寺 院で真如寺と号していたという。また、妙音院と号していたとの所伝も ある。     寺伝では、鎌倉時代の宝治元年︵一二四七︶の宝治合戦︵相模の有力 御家人三浦泰村一族が執権北条時頼によって滅ぼされた事件︶で三浦氏 に与して敗れた名族下総千葉氏の一族千葉常重は、 正元元年︵一二五八︶ 頃に姻戚の阿波国守護小笠原長清を頼って阿波に来て 、真如寺に入り 、 同寺を浄土真宗に改めて再興したといわれる 。﹃阿波志﹄には 、 後に長 清の子長房から寺領一〇〇〇貫と梵鐘を寄進されたと記されている。室 町時代には阿波守護細川氏、戦国時代には三好氏と姻戚関係を結んだと 言われている。 ﹃阿洲三好大状前書﹄ ︵﹁徴古雑抄﹂ ︶には、寺領一三貫文 を有し、門徒宗の触頭寺で下寺一五ケ寺を従えたと記されており、安楽 寺所蔵の由緒書覚にも同様の記載があるという 。また 、﹃阿波志﹄には 小笠原長房以来子院二五ケ寺、七三ケ寺を従えたとある。     永正一二年︵一五一五︶に火災に遭い、 麻植郡瀬詰︵吉野川市山川町︶ に移り 、さらに讃岐国財田 ︵香川県財田町︶の宝光寺に仮寓した 。同 一七年一二月一八日に三好千熊丸 ︵のちの三好元長︶ は、 ﹁郡里   安楽寺﹂ に対して興正寺殿の仰せによって元の寺地への還住を要請し、諸公事の 免除を伝えている ︵篠原長政書状   ﹁安楽寺文書﹂ ︶。元亀元年 ︵一五七〇︶ に始まった一一年に及ぶ織田信長との闘い、いわゆる石山合戦に際して 摂津大坂本願寺︵石山本願寺   大坂御坊︶から四国の主要門徒寺院、坊 主衆、門徒衆に宛てた支援要請の廻状の内、安楽寺、門徒衆宛の書状二 通が伝わっている。     天正一三年︵一五八五︶に蜂須賀家政が阿波入国し、新しい支配体制 が構築される。寛永三年︵一六二六︶に安楽寺が徳島藩に提出した﹁末 寺帳﹂ ︵﹁安楽寺文書﹂ ︶によると 、末寺は阿波に一八 、讃岐に四九 、 伊 予に四、土佐に八の合計七八ケ寺を数え、真宗の中本寺として四国最大 の勢力を誇った。寛永時代には、仏光寺派から西山興正寺派︵京都市下 京区︶末に転じた。徳島藩から寺領七五石を宛がわれた。最盛期には末 寺八四ケ寺を誇り、ほかに郡里村にある勤番寺と隠居寺合せて八ケ寺を 支配した。また、第二次世界大戦中までは専行寺、賢念寺、立光寺の寺 中寺院が寺務を執行していた。一方、江戸時代には、末寺の増加に伴い 本末紛争が度々生じ、宝暦から安永期︵一七五一 −一七八一︶にかけて 讃岐の末寺は離末金を出して末寺を離れている。これを契機とし、末寺 は一九ケ寺に減少し、八ケ寺と記した記録もある。     ﹁赤門﹂の名で知られる山門は 、享保三年 ︵一七二八︶の建立で 、国 の登録文化財。正面の本堂は一一間四方で高さ一二間の総欅造で、国の 登録文化財。ほかに書院、 鐘楼があり、 いずれも国の登録文化財である。 平成八年には庫裏玄関部分に本格的な能舞台が完成し 、﹁ 美馬能﹂が上 演されている。 ︵ 2 ︶戦国時代の阿波と本願寺 ︱﹁安楽寺文書﹂を読み解く ︱     織田信長と本願寺によるあしかけ一一年にわたる戦いは ﹁石山合戦﹂ とか ﹁本願寺戦争﹂などと呼ばれている ⑶ 。天正四年 ︵一五七六︶に 一五代室町幕府将軍足利義昭が備後の鞆︵広島県福山市︶に移って、毛 利氏を新たに味方につけると、毛利氏は水軍を遠征させ、信長の水軍を 破って本願寺に兵糧を運び入れることに成功する︵第一次木津川合戦︶ 。 塩飽諸島を押さえ瀬戸内海の制海権を収めようとする信長に対抗する意 味があった。一方、阿波や畿内で活動する三好氏一族も重臣篠原長房が 本願寺の要請もあって畿内に兵を動かすなど反信長の立場をとった。     安楽寺には、約二〇〇〇点の古文書が残されており、その大半は江戸 時代の古文書であり、江戸時代の阿波や四国の宗教史を考える上で貴重 な文書群である。 ﹁安楽寺文書﹂には、 ﹁三好千熊丸諸役免許状﹂ 、﹁篠原

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一〇七 近世前期阿波の本末論争 ― 美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって ―

近世前期阿波の本末論争

美馬郡郡里村安楽寺の﹁東光寺一件﹂をめぐって

須 

藤 

茂 

四国大学紀要, 54:107 − 115,2020

Bull. Shikoku Univ. 54:107 − 115,2020

はじめに︱問題の所在︱   ﹃徳島県史﹄をはじめ徳島県内の自治体史 ︵誌︶の多くは史料編を伴う ものが少なく、江戸時代の阿波に関する古文書はほとんど活字化されてい ない。しかし、 徳島県立文書館 ︵一九九二年四月開館︶ 、徳島県立博物館 ︵同 年同月開館︶ 、徳島市立徳島城博物館 ︵一九九二年一〇月開館︶によって 近世の古文書が収集、整理、保管されている。特に徳島県立文書館は、一 般来館者の古文書検索・閲覧・写真撮影が容易であり、便利である。しか し、藩政文書や村落文書は前述の諸機関で多くが閲覧できるものの、社寺 文書はそれぞれの神社や寺院に所蔵されており、調査はあまりなされてお らず、その概要把握にはいましばらく日時を要すると思われる。   そこで 、本稿では美馬郡郡里村安楽寺所蔵の文書の内 、﹁東光寺一件﹂ に関する一連の古文書群検討し、江戸時代前期の本末論争について考察を 加えたい ⑴ 。 一、江戸時代の寺院史料と本末関係   江戸時代の寺院史料は、寺領、造営、仏事・行事、本末関係など多岐に わたるが、本末関係の史料については、   本山 −   末寺   −直末寺     −地方末寺 −直末寺   という関係性を示すもので、本末論争に関する史料が江戸時代の寺院を 考える上で興味深い材料を提供してくれる。   本稿で取り上げる千葉山安楽寺は、浄土真宗に属し、京都・本願寺 −京 都・興正寺 −阿波国・安楽寺 −末寺という関係性となる。本稿で論述する 本末論争で取り上げる末寺は、徳島城下の東光寺である。 二、千葉山安楽寺の歴史 ︵ 1 ︶安楽寺の開創とその後の変遷     安楽寺は 、 美馬市美馬町郡里地区の西部 、吉野川左岸の河岸段丘上 、 字中山路にある ⑵ 。安楽寺の周辺には徳島県指定名勝の室町時代の庭園 ︵四国最古の庭園という︶が残る願勝寺や山門 、本堂 、経蔵が国登録文 化財の西教寺、林照寺があり﹁寺町﹂といわれている。安楽寺付近は古 代の美馬郡衙があった場所といわれており、近くには国指定史跡の郡里 廃寺跡が残されている。 研究ノート

参照

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疎開先所在地 勢多郡大胡町 群馬郡総社村 群馬郡総社村 勢多郡黒保根村 勢多郡富士見村 群馬郡古巻村 群馬郡古巻村 勢多郡北橘村

・谷戸の下流部は、水際の樹林地 に覆われ、やや薄暗い環境を呈し ている。谷底面にはミゾソバ群落