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近世阿波国の修学僧に関する基礎的考察

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近世阿波国の修学僧に関する基礎的考察

― 西本願寺学林の事例から ―

梶井 一暁

 日本の近世社会に発達した教育機関の一形態としての着目から,仏教諸教団が設置した僧 侶教育・仏教研究機関をとりあげ,修学僧に関する基礎的考察を行う。とくに西本願寺の学 林(京都)を扱い,修学僧の地方事例として阿波国の寺院から学林に学んだ僧侶について,

学林の学籍簿にあたる史料『大衆階次』にもとづいて把握する。学林の安居制を検討すると ともに,阿波国の学林修学僧の出身寺院,修学期間,身分などを考察する。そして,この作 業をふまえ,学林修学僧を近世私塾の学習者との関係において位置づける視点を提示する。

Keywords:阿波国,修学僧,西本願寺,学林,僧侶教育・仏教研究 1.問題関心

 近世は「教育爆発」の時代といわれる1。教育が 社会に広く普及し,人びとが学問や学習を行うさま ざまの場が発達した。周知のように,武士の教育の ための昌平黌や藩校のような公的性格の機関のみな らず,士庶が学ぶ私塾や寺子屋(手習塾)のような 私的性格の機関が民間に発達した。手習塾は主に読 み・書き・算盤を学ぶ基礎教育施設であり2,私塾 は漢学,国学,蘭学,医学などの専門学を学ぶ学問 塾である3。武士のための教育機関だけでなく,庶 民にも門戸を開く多様な内容,規模,形態の教育機 関が民間に生まれたのが,近世であった4

 本稿では,このような近世社会の教育状況に関し,

僧侶が仏教学を学ぶ僧侶教育・仏教研究機関の展開 もあったことに着目したい。

 本末制と寺請制の確立にともない,17 世紀中頃 から,仏教諸教団は宗門の僧侶教育と仏教研究のた めの機関を,本山や由緒寺院に附設するようになる。

たとえば,西本願寺(京都)の機関は学林,東本願 寺(京都)の機関は学寮,浄土宗の増上寺(江戸)

などの機関は檀林,日蓮宗の飯高寺(飯高)などの 機関は檀林,時宗の清浄光寺(藤沢)などの機関は

学寮などといった5。名称,場所,規模などは異同 があるが,仏教諸教団はそれぞれ宗門僧侶の養成教 育や仏教研究のための機関を整備していった6。  さきに私塾について言及した。海外の研究者から も ‘

private academy

’ として検討が加えられる私塾 は7,多様な専門,課程,規模,形態において社会 に普及し,人びとの学習熱や時代の要求に応える教 育機関であった。その門戸は士庶に広く開かれ,近 世の教育の発展を支える存在であった。

 私人が開く専門の学問塾が狭義の私塾であるが8, 如上の学林や学寮について,仏教教団という私的な 組織が開く私塾として,広義に捉えることはできな いであろうか9。仏教学を専門とする私塾の一形態 として学林や学寮をみると10,これまで仏教史や教 団史の視点からの考察が中心であったそれらについ て,教育史の側面からも光を当てる視角が拓かれな いであろうか。

 近世僧侶教育・仏教研究機関に関し,以上のよう な問題関心を有しつつ,本稿では,事例として西本 願寺の学林を扱う。そして,とくに阿波国寺院から 学林に学ぶ僧侶をとりあげ,近世阿波国の修学僧に 関する基礎的考察を行う。

岡山大学大学院教育学研究科 学校教育学系 700−8530 岡山市北区津島中3−1−1

A Study on Buddhist Learned Priests in Awa Province in the Early Modern Period: With a Focus on Case of Their Entrance into Gakurin, a Training Facility for Priests Belonging to Nishi Hongan-ji Temple

Kazuaki KAJII

Division of School Education, Graduate School of Education, Okayama University, 3-1-1 Tsushima-naka, Kita-ku, Okayama 700-8530

に対する全校的な教育支援体制を構築し改善する力 を備えた,スクールリーダーとしての成長が期待さ れている。

 本学教職大学院は,平成 28 年度より岡山県教育 委員会による「政策課題研究派遣」制度を開始して いる。派遣院生は「政策課題研究派遣生」としてミッ ションを課され,その解決策の産出に向けて,大学,

岡山県・各市町村教育委員会,現任校がチーム指導 をしていく体制となった。院生はこれまで以上に,

県や各地域の教育課題や教育政策・施策を意識した 実践研究を展開することが可能になっている。この 点で,所属長が最も低く評価した一つ目の項目につ いては,克服しやすい教育環境が整っている。現任 校の「今,ここの実践」を創造する営みを各個人や 学校に閉じず,それを規定する背景や構造的な仕組 みから捉え,再考・再構築する力の育成に向け,教 育行政を含めた教育資源を積極的に活用するカリ キュラムへと一層の改善が求められる。

 また,所属長の教職大学院への期待・要望として は,先進的な内容や県下のニーズに応じた取組への 期待や,人材の積極的受入や派遣人材の慎重な人選 など,教職大学院を活用した計画的な人材育成に期 待する内容が見られた。さらに,教職大学院での研 究成果のウェブなどでの公開や管理職等・修了生と 教職大学院教員との連携の会など,学校現場との連 携による研究成果の還元やその発信,継続的な研究・

学校支援を期待する声も挙げられた。これらのこと から,教職大学院での研究成果とその還元について,

これまで以上に広く公表していく必要性がある。ま た,修了後のフォローアップや研究支援を(教員個々 人だけでなく)教職大学院として組織的に行い,そ して派遣元である教育委員会との関係において,派 遣教員のキャリアや研修履歴等の全体を見通した上 での戦略的な人材育成を支援すべく,連携を強化す る必要性が指摘できるだろう。

7.おわりに

 岡山大学教職大学院は,領域やキャリアステージ などによる厳密なコース分けを行わず,教科等,校 種が多様な院生による協働的な学び合いを通じて,

すべての教員に求められる基幹的な資質・能力の育 成(=アクション・リサーチャーの育成)を図って いること,それらを学校現場での実践を通じた省察 的学びを通じて実現しようとしていることが,大き な特徴である。それは,特定の職位(各種主任や各 種管理職,指導主事等)に求められる具体的な職務

行動を学んで即戦力を養うという近視眼的な育成で はなく,修了後の校務分掌や立場の違い,学校の異 動等を見据え,その時々で置かれた文脈・状況の中 で実践力として発揮できる中・長期的な資質・能力 の育成を目指しているからである。その点で,様々 な立場にある修了生と所属長の双方から本学教職大 学院での学びが肯定的に捉えられ,5つの高度実践 教育力及びアクション・リサーチャーとして望まれ る資質・能力が概ね向上していたという結果が得ら れたことは一定の評価ができる。また,今回,本学 教職大学院が目指す資質・能力の内実に対して調査 を行い,学修成果を見える化して共有したことは,

教職大学院内・外の共通理解を深める一助となった と考える。

 しかし,修了生と所属長の回答にズレも見られた。

たとえば,「学力に課題がある児童生徒や不登校児 童生徒等に対して,個別の支援プログラムや校内支 援体制を構築すること」【実践的展開力】の項目は,

修了生の入学前の期待が低く,学修を通じて身につ いたという実感も低い。所属長による学修成果の評 価も最も低かった。つまり,所属長が学修を期待す る資質・能力と修了生のそれにはズレがあるとも考 えられる。両者の回答の比較を通じて,教職大学院 の役割や育成すべき資質・能力に対する認識の違い を検討するまでには至っていないが,今後,学校現 場との一層の連携・協働を考えると,こうしたズレ に基づく成果観の丁寧な吟味・共有が必要である。

 なお,本調査は回答者の「実感」を問うたもので あり,学校現場で資質・能力が実際に発揮されてい るかどうかを明らかにしてはいない。今後,修了生 へのインタビュー調査,学校訪問での観察や同僚ら へのインタビュー等の質的調査を通じて,2(1)

年間の学修プロセスや学修成果・課題をより実践レ ベルで明らかにし,教職大学院の教育課程と授業に 係る課題の抽出とその改善を図るとともに,修了生 へのフォローアップの機会の提供など,学修成果の 質を高める手立てを継続的に検討していく必要があ る。

注・引用文献

1)

RVPDCA

とは,現状把握(

Research

R

),ビジョ ン(

Vision

V

),計画(

Plan

P

),実施(

Do

D

),

評価(

Check

C

),改善(

Action

A

)を指す。

2)秋田喜代美『教育研究のメソドロジー』東京大 学出版会,2005年。

(2)

2.西本願寺の学林

 ⑴仏教諸教団による僧侶教育・仏教研究機関の設 立

 幕藩体制が確立し,本末制と寺請制が整う 17 世 紀中頃となると,仏教諸教団は宗門の僧侶教育と仏 教研究を行う機関を,本山や由緒寺院に設置するよ うになる。前述の学林,学寮,檀林などである。

 本末制により,町や村の寺院はそれぞれ本寺(本 山)をもつ末寺として編成され,寺院の本末関係が 制度化された。そして,町や村の寺院に住持する僧 侶は,寺請制により,宗旨人別張の作成,宗教儀礼 の執行,教化の活動などを通じ,町や村の人びとと の関係を深めていくようになる。末寺僧侶は信仰,

儀礼,教化などを介し,檀那寺住職として人びとの 生活に関与する機会が増すのであった。

 諸教団は学林や学寮など,いわば中央機関を本山 や由緒寺院に設置し,末寺僧侶となろうとする者に 一定の教育を与え,宗学を中心とする仏教学を学ば せ,宗門人材を養成するようになった。

 諸教団のこれらの機関に学ぶ僧侶は,全国から参 集した。たとえば,西本願寺では,教団が末寺に住 持するために必要と定める原則3年間,学林に学び,

末寺に住持していく者もいたし11,さらに修学を継 続して学問研鑽し,学僧としての名声や力量を形成 していく者もいた。

 以下,近世私塾全体のなかでの僧侶教育・仏教研 究機関の位置づけや,修学僧の個々の活動の詳細な どについては,まだ具体的に検討する準備が整わな いが,その作業に向けた基礎的考察のひとつとして,

西本願寺の学林を事例に,阿波国の修学僧の状況に ついて紹介してみたいと思う。

 ⑵学林の特色

 ①教育組織―勧学制

 西本願寺の学林は,東本願寺の学寮や他教団の機 関と諸点で異同がある。学林の基本的性格をまず整 理しておく。

 学林の創建は寛永 16(1639)年と把握され,西 本願寺の堂僧の教育研究機関として出発した12。当 初は本山堂僧や畿内の好学の僧侶が学ぶものであ り,宗内全体の中央機関というには,限定的な役割 を担う機関であった。東本願寺の学寮も 17 世紀の 創設であり,寛文5(1665)年の設置である。学寮 も学林と同様,当初から宗門全体の中央機関として の役割を果たすものではなかった13

 西本願寺の学林が宗門機関としての機構を確立さ せるのは,承応の鬩牆,明和の法論,三業惑乱と呼 ばれる大きな3つの異安心事件を経て,19世紀前半,

文政7(1824)年に新しい教育組織として,勧学制 を整えるにいたることにおいてであるといえる14。  学林は従来,能化制を採っていた。勧学制は,こ れまでの能化個人を頂点とする集権的な組織を廃 し,発足したものであった。

 勧学制は,教育組織として第一教授者に勧学,第 二教授者に司教を定め,教授者の権限と責任を明確 化した15。天保3(1832)年以降,定員は勧学6人,

司教10人に定着した。

 勧学と司教は,それぞれ学林での講義として,本 講と副講を担当した。加えて附講も設定された。附 講は所化(学生)のうち16,修学11年以上の者が担 当することができた。

 勧学制下,本講,副講,附講の三講制が整った。

勧学による本講と司教による副講は,いわば共通的 な必修科目である。所化が担当できる附講は,専修 的な選択科目にあたった。本講と副講は主に講義形 式であり,附講は演習形式であったと把握される17。  勧学の本講は,「御代講」と呼ばれ,宗学を代表し,

三講の中心であった。勧学は『仏説無量寿経』『仏 説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』『教行信証』などの 真宗聖典をはじめ,主に浄土教(宗乗)関連文献を とりあげ,内容を講じた。本講は期間に1講が開講 された。

 司教の副講は,勧学の本講に次ぐものである。同 様に浄土教関連文献が主に扱われたが,余乗,すな わち華厳,天台,密,禅,三論,法相,具舎など,

他部の文献もとりあげられた。副講の開講は,はじ めは1講であったが,嘉永3(1850)年以降,2講 に変更された。

 所化が開講できる附講は,宗乗関連文献に加え,

余乗関連文献も広く扱われ,内容が考察された。篤 学の中堅・若手僧による研究発表形式や講読形式の ものであったと把握される。附講は5講の開講を基 本としたが,開講数は年によって幅があった。

 安政2(1855)年の学林の夏安居(夏講)を例に みてみよう18

 本講は勧学の玄雄による『往生礼讃』であり,4 月 15 日開繙,6月 23 日講竟であった。副講は司教 の南渓による『浄土和讃』と,学心による『阿毘達 磨倶舎論』であり,4月 16 日開莚,6月 22 日満講 であった。

 附講は4講あり,助教の昇天による『阿弥陀経』,

得業の響流による『浄土論』,得業の大為による『金 錍論』,上座の明朗による『玄義序題門』であった19。 附講の開講期間はそれぞれで異同があるが,4月9 日から5月3日までのように,およそ20 ~ 30日が 一般的であった。

(3)

 この年の夏安居には,都合422人の所化の懸席が あったことが認められる20。基本的には所化は,本 講と副講に出席し,講義を受け,また附講について も関心のある主題を選んで参加し,文献を読んだり,

考察を交えたりしたものと把握される。

 ②運営形態―安居制

 ここで夏安居というのは,夏に一定期間,学林で 開莚される講座のことである。夏講ともいう。

 西本願寺の学林では,安居制が採られた。学林の 運営は4月から6月まで開かれる一夏九旬の夏安居 を中心に行われ,加えて春,秋,冬の安居が時宜に 応じて開かれた21。つまり,学林は年中開講型の機 関ではなく,定期的に年間何日かにわたり,いわば 長期の集中講座が開かれる型の機関であった。

 東本願寺の学寮も同様に,安居制を採る機関だっ たが,たとえば,浄土宗の檀林(増上寺など)は年 中開講型の機関であり,他教団でも多くは年中開講 型であった。集中講座的な安居制は,浄土真宗教団 で採られる特色的な開校の仕方であったといえる。

 安居制の採用は,両本願寺の学林と学寮が,これ から末寺住職となろうとする者(新発意)を入学さ せ,新たに僧侶として養成するだけでなく,すでに 末寺住職として寺坊をもち,住持する者にも入学を 促し,いわば現住職の再教育(現職教育)を行う機 能も有していたことによる。

 この点はのちにあらためて言及するが,年中開講 型の機関は,これから一人前の僧侶となることをめ ざす新規人材が在籍し,通年的に修学を行うのに適 する。しかし,現住職は寺坊で日々,法務に従事す るものであるから,一年中,寺坊を空け,上京し,

学林に在籍しつづけることは困難である。よって,

一年の一定期間,集中的に講座が開かれる学林の安 居制は,現住職にとって,寺坊の繁務期を避けて上 京すれば,修学の都合を得やすい形態となる。

 これに対して,年中開講型の浄土宗の檀林では,

所化は住持する寺院を得ることが決まれば,檀林で の修学をやめ,下山するのが原則であった。学籍を 抜くことを「消帳」といい,とくに住持する寺院を 得て下山することを「成就消帳」や「寺持消帳」と 呼んだ22。このような檀林などの機関は,末寺住職 となろうとする新規人材を対象に年間継続的な研鑽 を求め,僧侶の養成の機能を果たす機関であった。

 以下において阿波国出身の修学僧をみていく西本 願寺の学林は,新規の僧侶人材だけが在籍するので なく,末寺への住持が決まったのちも修学を継続し,

長期修学におよぶ者や,すでに末寺住職となってい る者も混じりあって在籍し,経歴の異なる者同士が

修学を進めるものであった。このような学林などの 機関は,僧侶の養成(

initial education

)の機能と ともに,僧侶の再教育(

recurrent education

)の機 能も担う機関であったといえる。

3.学林における阿波国出身の修学僧  ⑴学林の『大衆階次』

 学林の学籍簿にあたるのが『大衆階次』である。

龍谷大学において天保6(1835)年以降のものが保 管され,近世学林に関する研究のための基礎史料の ひとつとなっている。慶応4(1868)年までで,都 合16

,

481人の修学僧の記録が確認される。

 全国の末寺から上京し,学林の夏安居に懸席する 修学僧は,『大衆階次』に登録される。席順,名前,

寺院名,寺院所在地,身分などが記される。そして,

夏安居への懸席の継続(続席)が確認される年には,

印が押される。

 図1は天保6(1835)年の『大衆階次』における 書式について,慈弁(西福寺)の例を示したもので ある。この年の新入の修学僧,すなわち所化は 670 人であり,慈弁はそのなかのひとりであった。慈弁 はその後も上京をつづけ,17 年にわたり,夏安居 に懸席したことがわかる23

 阿波国寺院出身の修学僧は,『大衆階次』では,

今回筆者が調査した天保6(1835)年から文久3

(1863)年までの記録において,慈弁をはじめ,計 85人の記載が確認される24。阿波国の寺院から学林 に学んだ修

学僧につい て,つぎに 一覧(表1) に 整 理 し,

若干の考察 を 加 え た い。

 なお,『大 衆階次』に は改名,移 住,転国な ど,新入時 の内容から 変更があっ た場合,一 部に書き入 れ が あ る。

備考に記し

た。 図 1 慈弁の例

2.西本願寺の学林

 ⑴仏教諸教団による僧侶教育・仏教研究機関の設 立

 幕藩体制が確立し,本末制と寺請制が整う 17 世 紀中頃となると,仏教諸教団は宗門の僧侶教育と仏 教研究を行う機関を,本山や由緒寺院に設置するよ うになる。前述の学林,学寮,檀林などである。

 本末制により,町や村の寺院はそれぞれ本寺(本 山)をもつ末寺として編成され,寺院の本末関係が 制度化された。そして,町や村の寺院に住持する僧 侶は,寺請制により,宗旨人別張の作成,宗教儀礼 の執行,教化の活動などを通じ,町や村の人びとと の関係を深めていくようになる。末寺僧侶は信仰,

儀礼,教化などを介し,檀那寺住職として人びとの 生活に関与する機会が増すのであった。

 諸教団は学林や学寮など,いわば中央機関を本山 や由緒寺院に設置し,末寺僧侶となろうとする者に 一定の教育を与え,宗学を中心とする仏教学を学ば せ,宗門人材を養成するようになった。

 諸教団のこれらの機関に学ぶ僧侶は,全国から参 集した。たとえば,西本願寺では,教団が末寺に住 持するために必要と定める原則3年間,学林に学び,

末寺に住持していく者もいたし11,さらに修学を継 続して学問研鑽し,学僧としての名声や力量を形成 していく者もいた。

 以下,近世私塾全体のなかでの僧侶教育・仏教研 究機関の位置づけや,修学僧の個々の活動の詳細な どについては,まだ具体的に検討する準備が整わな いが,その作業に向けた基礎的考察のひとつとして,

西本願寺の学林を事例に,阿波国の修学僧の状況に ついて紹介してみたいと思う。

 ⑵学林の特色

 ①教育組織―勧学制

 西本願寺の学林は,東本願寺の学寮や他教団の機 関と諸点で異同がある。学林の基本的性格をまず整 理しておく。

 学林の創建は寛永 16(1639)年と把握され,西 本願寺の堂僧の教育研究機関として出発した12。当 初は本山堂僧や畿内の好学の僧侶が学ぶものであ り,宗内全体の中央機関というには,限定的な役割 を担う機関であった。東本願寺の学寮も 17 世紀の 創設であり,寛文5(1665)年の設置である。学寮 も学林と同様,当初から宗門全体の中央機関として の役割を果たすものではなかった13

 西本願寺の学林が宗門機関としての機構を確立さ せるのは,承応の鬩牆,明和の法論,三業惑乱と呼 ばれる大きな3つの異安心事件を経て,19世紀前半,

文政7(1824)年に新しい教育組織として,勧学制 を整えるにいたることにおいてであるといえる14。  学林は従来,能化制を採っていた。勧学制は,こ れまでの能化個人を頂点とする集権的な組織を廃 し,発足したものであった。

 勧学制は,教育組織として第一教授者に勧学,第 二教授者に司教を定め,教授者の権限と責任を明確 化した15。天保3(1832)年以降,定員は勧学6人,

司教10人に定着した。

 勧学と司教は,それぞれ学林での講義として,本 講と副講を担当した。加えて附講も設定された。附 講は所化(学生)のうち16,修学11年以上の者が担 当することができた。

 勧学制下,本講,副講,附講の三講制が整った。

勧学による本講と司教による副講は,いわば共通的 な必修科目である。所化が担当できる附講は,専修 的な選択科目にあたった。本講と副講は主に講義形 式であり,附講は演習形式であったと把握される17。  勧学の本講は,「御代講」と呼ばれ,宗学を代表し,

三講の中心であった。勧学は『仏説無量寿経』『仏 説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』『教行信証』などの 真宗聖典をはじめ,主に浄土教(宗乗)関連文献を とりあげ,内容を講じた。本講は期間に1講が開講 された。

 司教の副講は,勧学の本講に次ぐものである。同 様に浄土教関連文献が主に扱われたが,余乗,すな わち華厳,天台,密,禅,三論,法相,具舎など,

他部の文献もとりあげられた。副講の開講は,はじ めは1講であったが,嘉永3(1850)年以降,2講 に変更された。

 所化が開講できる附講は,宗乗関連文献に加え,

余乗関連文献も広く扱われ,内容が考察された。篤 学の中堅・若手僧による研究発表形式や講読形式の ものであったと把握される。附講は5講の開講を基 本としたが,開講数は年によって幅があった。

 安政2(1855)年の学林の夏安居(夏講)を例に みてみよう18

 本講は勧学の玄雄による『往生礼讃』であり,4 月 15 日開繙,6月 23 日講竟であった。副講は司教 の南渓による『浄土和讃』と,学心による『阿毘達 磨倶舎論』であり,4月 16 日開莚,6月 22 日満講 であった。

 附講は4講あり,助教の昇天による『阿弥陀経』,

得業の響流による『浄土論』,得業の大為による『金 錍論』,上座の明朗による『玄義序題門』であった19。 附講の開講期間はそれぞれで異同があるが,4月9 日から5月3日までのように,およそ20 ~ 30日が 一般的であった。

(4)

表 1 西本願寺学林『大衆階次』にみえる阿波国出身修学僧

新入年 西暦 席番 名前 郡 町村 寺院 身分 懸席年数 備考

1 天保6 1835 129 紹津 板野郡 西分村 法泉寺 二 男 11 2 天保6 1835 184 慈弁 麻植郡 川田村 西福寺 二 男 17 3 天保6 1835 604 宝蔵 三好郡 井内谷 恵海寺 新発意 9 4 天保7 1836 3 宝輪 那賀郡 今津浦 マ マ円寺 11 再入

5 天保8 1837 121 空我 板野郡 西条村 延寿寺 9

6 天保8 1837 384 実言 麻植郡 牛島村 西覚寺 現 住 7 7 天保8 1837 523 順誓 麻植郡 三島村 蓮光寺 現 住 5 8 天保8 1837 663 流情 麻植郡 山路村 善正寺 現 住 15 9 天保8 1837 664 教了 名西郡 鬼籠野村 真光寺 現 住 7 10 天保8 1837 724 恵玉 板野郡 西分村 法泉寺 現 住 7 11 天保8 1837 882 竟道 板野郡 古城村 専勝寺 現 住 7 12 天保8 1837 1136 達恵 阿波郡 成当村 円光寺 現 住 17 13 天保9 1838 28 浄天 板野郡 川崎村 東光寺 現 住 9 14 天保9 1838 73 到岸 美馬郡 郡里村 西教寺 新発意 3

15 天保9 1838 371 勧随 三好郡 川崎村 正賢寺 3

16 天保9 1838 372 乗英 三好郡 足代村 教法寺 3

17 天保9 1838 373 秀山 三好郡 井内谷 福成寺 現 住 5 18 天保9 1838 374 観流 美馬郡 郡里村 常念寺 現 住 5 19 天保9 1838 375 円乗 三好郡 東山村 徳泉寺 現 住 5

20 天保9 1838 376 恵海 三好郡 井之谷 西福寺 1

21 天保9 1838 377 秀情 名西郡 瀬部村 円行寺 現 住 3 22 天保9 1838 378 天随 三好郡 池田村 浄光寺 現 住 3

23 天保9 1838 379 了諦 三好郡 井内谷 法名寺 1

24 天保9 1838 380 正珍 三好郡 井内谷 法名寺 1

25 天保9 1838 409 探玄 那賀郡 今津浦 信楽マ マ 現 住 5 26 天保11 1840 76 賢明 那賀郡 黒津地浦 常光寺 二 男 17 27 天保11 1840 103 南海 名東郡 徳島 願行寺 新発意 13 28 天保12 1841 29 祐善 海部郡 宍喰浦 正法寺 新発意 15 29 天保12 1841 36 祐浄 海部郡 鞆浦 善称寺 新発意 9 30 天保12 1841 146 真乗 板野郡 市場村 福泉寺 新発意 11 31 天保12 1841 321 弗外 板野郡 明神村 明泉寺 新発意 17 32 天保13 1842 38 喜海 板野郡 矢武村 蓮教寺 二 男 9 33 天保13 1842 285 常海 名西郡 瀬部村 円行寺 二 男 15 34 天保13 1842 368 福導 美馬郡 郡里村 林照寺 現 住 3 35 天保14 1843 365 乗誓 名東郡 徳島 慈船寺 弟 子 5 36 天保14 1843 956 一音 名東郡 徳島 潮見寺 現 住 17 37 天保14 1843 963 聞正 那賀郡 富岡町 円長寺 現 住 1

38 天保15 1844 5 覚応 那賀郡 富岡町 円長寺 新発意 17 転住板野郡市場村福泉寺 改真雄 39 天保15 1844 9 高海 名西郡 石井村 西法マ マ 新発意 17 改名僧淳

40 天保15 1844 20 渓潭 勝浦郡 小松島 光善寺 新発意 11 41 天保15 1844 102 大願 那賀郡 富岡町 円長寺 弟 子 5 42 天保15 1844 226 教覚 板野郡 斎田村 西福寺 弟 子 1 43 天保15 1844 252 南暁 麻植郡 鴨島村 常教寺 四 男 9 44 天保15 1844 255 升海 麻植郡 山路村 善正寺 二 男 17 45 天保15 1844 320 流十 美馬郡 郡里村 立光寺 3 改聞十

46 天保15 1844 345 桑殿 板野郡 矢武村 蓮教寺 五 男 11 転和州葛下郡疋田村光林寺 47 天保15 1844 488 日雲 板野郡 姫田村 円勝寺 新発意 13

48 天保15 1844 906 心造 板野郡 奥野村 徳善寺 新発意 11

49 弘化2 1845 419 龍音 板野郡 奥野村 法順寺 3

50 弘化2 1845 491 大蔵 麻植郡 麻植塚村 西円寺 現 住 3 51 弘化2 1845 514 乗音 美馬郡 郡里村 西教寺 新発意 17 52 弘化3 1846 175 大了 那賀郡 黒地村 道浄寺 弟 子 17 大亮 53 弘化3 1846 226 龍渕 三好郡 足代村 教法寺 二 男 3 54 弘化3 1846 240 教順 阿波郡 成当村 教覚寺 現 住 7 55 弘化3 1846 252 普現 板野郡 市場村 福泉寺 弟 子 1

(5)

 ⑵『大衆階次』にみえる阿波国出身の修学僧  ①修学僧の送り出し寺院

 『大衆階次』に載る修学僧をみると,ほぼ毎年,

阿波国の寺院から学林への修学僧の懸席がある。

 阿波国から修学僧を送り出している寺院は,都合 54寺が認められる。寺院は移転や統廃合を経て現在 にいたっている場合があり,現存寺院との異同はあ るが,阿波国における西本願寺末寺のおよそほとん どから,修学僧が出ていると把握されるであろう25。  表1をみて気づくのは,一寺院から複数の修学僧 が送り出されていたり,親子二世代あるいは兄弟で 夏安居に懸席したりする例もあり26,寺院により学 林修学事情が異なることである。

 前述のように,西本願寺教団では末寺住職となる ためには3年の学林修学が原則求められていた。し かし,上京して学林で懸席をつづけるためには,相 当程度の修学費用(旅費や滞在費などを含む)を要 する。その額を明確にはできないが,末寺は修学費 用を工面できなければ,学林修学は成立しない。末 寺による修学僧の送り出しは,心がけや忠誠の問題 もあるだろうが,現実的問題として,寺院の社会経

済的背景が関係してくる。

 このことは,別のいい方をすれば,伝統寺院や大 規模寺院が経済的余裕をもって,修学僧を京都に送 り出すことがあるだけでなく,新興寺院や小・中規 模寺院にとっても,檀信徒の理解と協力を得て,修 学費用を工面し,修学僧を送り出すことができれば,

いわば学僧の寺としての評価を得ることにもつなが る。学林修学の実績によって得られるこの学問上の 評価や名声は,寺格などの従来的序列とは異なる新 しい威力を付加するものと考えられるのである27。  学林修学に熱心な寺院がある一方,修学をはじめ て3年未満で終えている者もいる。3年未満の修学 僧がどのような進路を歩んだのかも気になるところ である。

 阿波国の諸寺院における修学僧の学林への送り出 しの事情,換言すれば,修学僧の送り出し側として の諸寺院における学林利用の実態について,より理 解を深める必要がある。そのため,今回の全体的状 況に関する基礎把握のうえ,寺院や修学僧に関する 個別事例の追跡調査が必要であることを,あらため て覚えるものである。

56 弘化4 1847 129 覚潭 那賀郡 今津浦 マ マ円寺 弟 子 3 57 弘化4 1847 168 証歓 那賀郡 富岡町 光円寺 二 男 3 58 嘉永1 1848 48 浄識 那賀郡 富岡町 円長寺 現 住 13 59 嘉永1 1848 329 証英 那賀郡 富岡町 光円寺 現 住 11 60 嘉永2 1849 31 円舜 板野郡 矢武村 蓮教寺 弟 子 9 61 嘉永2 1849 48 泰含 名西郡 覚円村 光明寺 新発意 13 62 嘉永3 1850 126 觴雲 三好郡 川崎村 正賢寺 二 男 3

63 嘉永3 1850 225 津梁 名東郡 徳島 慈船寺 新発意 11 転国伊予宇摩郡金川村教順寺住 実応 64 嘉永4 1851 61 謙忍 名東郡 徳島 円徳寺 新発意 17

65 嘉永4 1851 187 顕乗 阿波郡 大野島村 尊光寺 新発意 9 66 嘉永5 1852 91 消雲 麻植郡 鴨島村 常教寺 二 男 3 67 嘉永6 1853 124 哀婉 名東郡 徳島 願行寺 現 住 1 68 嘉永6 1853 154 義門 板野郡 大寺村 専光寺 新発意 15 69 安政1 1854 297 響流 那賀郡 椿泊浦 等覚寺 新発意 9 70 安政1 1854 597 得浄 板野郡 西分村 法泉寺 11

71 安政1 1854 675 教存 名西郡 瀬部村 明照寺 3

72 安政2 1855 99 暢実 板野郡 斎田村 西福寺 二 男 11 73 安政2 1855 130 周遍 三好郡 昼間村 春音寺 新発意 1 74 安政2 1855 131 恵教 三好郡 井内谷 唯教寺 新発意 1 75 安政2 1855 234 台嶺 名東郡 徳島 円徳寺 弟 子 5 76 安政2 1855 293 浄信 三好郡 足代村 教法寺 現 住 1 77 安政3 1856 29 大号 那賀郡 黒地村 道浄寺 新発意 11 78 安政3 1856 69 大心 板野郡 鍛冶屋原村 光源寺 現 住 13 79 安政3 1856 312 徹照 海部郡 日和佐浦 浄光寺 現 住 3

80 安政4 1857 107 覚恵 名東郡 徳島 東光寺 現 住 17 慶応元丑年移住和州吉野郡高原村高原寺住 81 安政4 1857 236 到岸 名西郡 瀬部村 明照寺 新発意 11

82 安政6 1859 437 最勝 板野郡 東中富村 光善寺 現 住 9 83 万延1 1860 131 真空 麻植郡 鴨島村 常教寺 新発意 5 84 万延1 1860 668 大可 板野郡 鍛冶屋原村 光源寺 二 男 3

85 文久1 1861 368 天龍 名東郡 徳島 正福寺 現 住 1 改宗帰参ニ付賜三夏    出典:『大衆階次』(龍谷大学所蔵)より作成。

表 1 西本願寺学林『大衆階次』にみえる阿波国出身修学僧

新入年 西暦 席番 名前 郡 町村 寺院 身分 懸席年数 備考

1 天保6 1835 129 紹津 板野郡 西分村 法泉寺 二 男 11 2 天保6 1835 184 慈弁 麻植郡 川田村 西福寺 二 男 17 3 天保6 1835 604 宝蔵 三好郡 井内谷 恵海寺 新発意 9 4 天保7 1836 3 宝輪 那賀郡 今津浦 マ マ円寺 11 再入

5 天保8 1837 121 空我 板野郡 西条村 延寿寺 9

6 天保8 1837 384 実言 麻植郡 牛島村 西覚寺 現 住 7 7 天保8 1837 523 順誓 麻植郡 三島村 蓮光寺 現 住 5 8 天保8 1837 663 流情 麻植郡 山路村 善正寺 現 住 15 9 天保8 1837 664 教了 名西郡 鬼籠野村 真光寺 現 住 7 10 天保8 1837 724 恵玉 板野郡 西分村 法泉寺 現 住 7 11 天保8 1837 882 竟道 板野郡 古城村 専勝寺 現 住 7 12 天保8 1837 1136 達恵 阿波郡 成当村 円光寺 現 住 17 13 天保9 1838 28 浄天 板野郡 川崎村 東光寺 現 住 9 14 天保9 1838 73 到岸 美馬郡 郡里村 西教寺 新発意 3

15 天保9 1838 371 勧随 三好郡 川崎村 正賢寺 3

16 天保9 1838 372 乗英 三好郡 足代村 教法寺 3

17 天保9 1838 373 秀山 三好郡 井内谷 福成寺 現 住 5 18 天保9 1838 374 観流 美馬郡 郡里村 常念寺 現 住 5 19 天保9 1838 375 円乗 三好郡 東山村 徳泉寺 現 住 5

20 天保9 1838 376 恵海 三好郡 井之谷 西福寺 1

21 天保9 1838 377 秀情 名西郡 瀬部村 円行寺 現 住 3 22 天保9 1838 378 天随 三好郡 池田村 浄光寺 現 住 3

23 天保9 1838 379 了諦 三好郡 井内谷 法名寺 1

24 天保9 1838 380 正珍 三好郡 井内谷 法名寺 1

25 天保9 1838 409 探玄 那賀郡 今津浦 信楽マ マ 現 住 5 26 天保11 1840 76 賢明 那賀郡 黒津地浦 常光寺 二 男 17 27 天保11 1840 103 南海 名東郡 徳島 願行寺 新発意 13 28 天保12 1841 29 祐善 海部郡 宍喰浦 正法寺 新発意 15 29 天保12 1841 36 祐浄 海部郡 鞆浦 善称寺 新発意 9 30 天保12 1841 146 真乗 板野郡 市場村 福泉寺 新発意 11 31 天保12 1841 321 弗外 板野郡 明神村 明泉寺 新発意 17 32 天保13 1842 38 喜海 板野郡 矢武村 蓮教寺 二 男 9 33 天保13 1842 285 常海 名西郡 瀬部村 円行寺 二 男 15 34 天保13 1842 368 福導 美馬郡 郡里村 林照寺 現 住 3 35 天保14 1843 365 乗誓 名東郡 徳島 慈船寺 弟 子 5 36 天保14 1843 956 一音 名東郡 徳島 潮見寺 現 住 17 37 天保14 1843 963 聞正 那賀郡 富岡町 円長寺 現 住 1

38 天保15 1844 5 覚応 那賀郡 富岡町 円長寺 新発意 17 転住板野郡市場村福泉寺 改真雄 39 天保15 1844 9 高海 名西郡 石井村 西法マ マ 新発意 17 改名僧淳

40 天保15 1844 20 渓潭 勝浦郡 小松島 光善寺 新発意 11 41 天保15 1844 102 大願 那賀郡 富岡町 円長寺 弟 子 5 42 天保15 1844 226 教覚 板野郡 斎田村 西福寺 弟 子 1 43 天保15 1844 252 南暁 麻植郡 鴨島村 常教寺 四 男 9 44 天保15 1844 255 升海 麻植郡 山路村 善正寺 二 男 17 45 天保15 1844 320 流十 美馬郡 郡里村 立光寺 3 改聞十

46 天保15 1844 345 桑殿 板野郡 矢武村 蓮教寺 五 男 11 転和州葛下郡疋田村光林寺 47 天保15 1844 488 日雲 板野郡 姫田村 円勝寺 新発意 13

48 天保15 1844 906 心造 板野郡 奥野村 徳善寺 新発意 11

49 弘化2 1845 419 龍音 板野郡 奥野村 法順寺 3

50 弘化2 1845 491 大蔵 麻植郡 麻植塚村 西円寺 現 住 3 51 弘化2 1845 514 乗音 美馬郡 郡里村 西教寺 新発意 17 52 弘化3 1846 175 大了 那賀郡 黒地村 道浄寺 弟 子 17 大亮 53 弘化3 1846 226 龍渕 三好郡 足代村 教法寺 二 男 3 54 弘化3 1846 240 教順 阿波郡 成当村 教覚寺 現 住 7 55 弘化3 1846 252 普現 板野郡 市場村 福泉寺 弟 子 1

(6)

 ②修学期間

 修学期間は続席印にもとづき,計出している。慈 弁の場合,17 年というぐあいである。2年以降に 続席印がない者は,修学は初年のみで,懸席の継続 はなかったと考え,1年としている。

 最長は 17 年の修学であり,12 人が認められる。

慈弁は嘉永6(1853)年,得業の学階を得ている28。 学階は得業→助教→司教→勧学と進む。

 学林での位階は,16 年以上の修学で最上位の臈 満となるから,17 年は長期修学にあたる。長期修 学で優秀な者は,得業から,助教や司教に選ばれ,

講者として附講や副講を担当する場合もある。たと えば,今回調査した『大衆階次』には載らないが,

天保6(1835)年以前の新入であったと思われる霊 潭(光善寺,小松島)が司教に進んでおり,勇勤(円 勝寺,姫田村)も助教に進んでいる29。霊潭と勇勤は,

知事,看護,監事など,学林を運営する役職にも就 いている。なお,霊潭は光善寺9世であり,その子 の渓潭(40)は同寺10世である30。勇勤は円勝寺10 世であり,日雲(47)は同寺11世である31。  最短は1年の修学であり,11人いる。

 85 人の平均は,約8年2月である。阿波国の修 学僧の修学期間が傾向として長いのか,短いのか,

他国の場合をまだじゅうぶんに検討していないので 判断しがたいが,たとえば,調査中の美濃国の修学 僧307人について,仮に算出すると,平均約9年9月,

飛騨国の修学僧72人は約7年6月であった。

 ③身分

 修学僧を身分別にみると,現住28人,新発意24人,

二男12人,四男1人,五男1人,弟子8人,不明(記 述なし)11人であった。

 現住は,『大衆階次』では「住」や「現」とも略 記される者であり,末寺の現住職である。たとえば,

実言(6,西覚寺)は「住」と記されている。現住 の修学僧の存在について,前述した学林における僧 侶の再教育(現職教育)機関としての性格が,阿波 国の寺院から学林に向かった修学僧の結果からも確 かめられる。

 実言らは現住職であるから,日常は寺坊で法務が あるが,夏安居への懸席の都合が調整されれば,上 京し,修学を行った。実言は修学7年で平均に近い。

たとえば,流情(8,善正寺)は15年,恵達(12,

円光寺)は 17 年,一音(36,潮見寺)は 17 年,覚 恵(80,東光寺)は 17 年の長期修学におよんでお り32,現住職として末寺に住持しながら,上京し,

学林の学問の摂取に熱心であったことがうかがえ る。

 現住の修学期間の平均は,約7年2月であった。

 新発意は,略してしばしば「新」と記される。新 発意は将来の寺院相続予定者であり,世襲相続をす でに習慣としていた浄土真宗教団では,現住職の長 子(実子・養子)である場合が多かった。阿波国の 修学僧の3割弱が新発意である。安居には現住職も 懸席し,学林は現職教育機能も有するところに機関 の特色があるが,浄土宗の檀林など,他の仏教諸教 団の機関と同様,新発意という新規僧侶人材が在籍 し,僧侶養成を行うことも機軸とする機関であるこ とが,やはり確認される。

 新発意として学林に懸席しはじめ,3年,あるい は3年未満で修学を終える者もいるし,10 年をこ えて修学を継続する者もいる。新発意は多くの場合,

学林の修学後,あるいは修学を継続しつつ途中で出 身寺院の住職となった。ただし,寺院の事情や病気 などの理由により,新発意が末寺を継承しないこと もあった。

 また,新発意のなかには,覚応(38,円長寺)や 津梁(63,慈船寺)のように,他の寺院に住持する 縁を得る者もあった。

 新発意の修学期間の平均は,約10年8月であった。

 二男や四・五男は,基本的には新発意の弟であり,

現住職の第二子以降の者である。例にあげた慈弁は 二男である。二男らは新発意と異なり,相続予定寺 院が確定していない存在といえる。彼らは養子とし て他の寺院に入って住職となる機会を得たり,学僧 として身を立てていく必要がある立場にある。

 たとえば,桑殿(46,蓮教寺)は五男の身分で懸 席をはじめ,途中で和泉国の光林寺に住持している。

桑殿の光林寺への転住の経緯は詳らかでないが,新 発意でない彼らは学林修学を通じて,人的関係を広 げ,他の寺院に縁を得たり,学問を修め,学僧とし て評判をあげることで養子の誘いを受けたりするこ とがあった33。修学を進めていった結果としてその ような縁に恵まれたり,場合によっては,あらかじ めその可能性を意識して修学を行うこともあったか もしれない。いずれにせよ,学林修学は,教育と学 問を得ることが第一義であるが,その研鑽の経験を 通じ,人的関係を広げ,種々の知己を得る機会をと もなうものであったといえる34

 二男らの修学期間の平均は,約7年5月であった。

 弟子は,その寺院の生まれの者ではなく,他の寺院,

あるいは在家から入寺し,弟子となった者であると 把握される。とくに在家出身の弟子について,どの ような社会経済的背景や文化的信仰的背景をもつ家 の子弟であるか,関心を寄せるところであるが35, いずれにせよ,弟子は二男らと同様,相続予定寺院

(7)

が確約されているわけではない存在である。やはり 弟子においても学林修学を通じ,人的関係を広げた り,学僧として名声を形成したりする過程は,より 重要な側面であったはずである。門地ではなく,学 問上の能力や教育上の努力が僧侶としての将来を拓 いていくという回路が,学林を介して延びていたと すれば,学林が開くその門戸は二男ら寺院子弟だけ でなく,弟子ら在家子弟に対しても,学問や教育に よる僧侶としての出世の可能性をもたらすもので あったといえるであろう。

 大了(52,大亮,道浄寺)は修学 17 年を数える 臈満の修学僧であるが,『大衆階次』には転住の記 述はなく,学林修学の結果は判明しない。弟子全体 の修学期間は,平均で約5年9月であり,他の身分 の者に比べ,それほど長くない。しかし,修学僧個々 でみれば,大了のように,修学期間の長い者もいる が,教覚(42,西福寺)や普現(55,福泉寺)のよ うに,ごく短い者もいる。転住先の寺院がはやく見 つかる縁に恵まれたのか,修学の継続が困難な状況 が経済上あるいは健康上において生じたのか。個々 の事情があるだろう。弟子身分の修学僧の出身階層 や入寺(出家)背景も含め,彼らの学林修学の過程 と結果など,個別事例の検討がやはり重要となる。

 なお,身分が不明(記述なし)の者は,寺院名が 身分をいわば代表し,現住職である可能性もある。

また,修学僧には前住(前住職)の身分の者,現住 の弟の身分の者などもあるが,阿波国の場合はな かった。

4.今後の課題

 阿波国寺院出身の西本願寺学林の修学僧に関する 基礎的考察をふまえ,次稿以降では,下記のような 課題に取り組みたい。

 第一は,修学僧の個人にそくした事例分析である。

本稿では,『大衆階次』の調査により,阿波国寺院

から学林に向かう修学僧の存在が,一定程度あった ことを示したにとどまる。以上にもしばしば言及し てきたように,修学僧が 85 人あれば,おそらく 85 通りの修学のあり方がある。その個々のすべてを追 うことはできないが,送り出し寺院,身分,修学期 間などの分類を参照しつつ,修学僧個々がそれぞれ の寺院史のなかでどのように位置づく者であり,ど のような出自や社会経済的背景を有する者なのか,

可能な範囲で少しずつ確定していきたい。そして,

修学僧個々がどのような修学過程を経験するもので あったのか,送り出し寺院において寺院日記や上京 日記などの史料が伝存し,そこに学林での修学に関 する記述が認められる例に出会えたならば,大きな 幸いである。また,修学僧が京都から阿波国の寺院 や実家に宛てた書簡などが残れば,重要な史料とな る。学林側の『大衆階次』という中央史料と,阿波 国寺院側の地方史料との突きあわせができるよう に,史料調査を進めたい。

 第二は,阿波国の修学僧の私塾遊学状況の見取図 を得ることである。近世社会に発達した私塾の動向 のなかに寺院や僧侶の活動を位置づけたいという問 題関心を表明しながら,本稿では,学林の『大衆階 次』にみえる修学僧を把握するにとどまった。修学 僧を介した学林と私塾の関係,修学僧の入塾状況,

塾主や門人との交流などについて,言及することが できなかった。

 私塾の門人に僧侶が一定程度存在することは,こ れまで指摘されるところである。たとえば,それは 近世最大の漢学・漢詩塾として知られる咸宜園にお いても認められるものである36。急ぎ,咸宜園の「入 門簿」から阿波国寺院の僧侶を整理すると,表2の ようになる37。淡窓から林外までの享和元(1801)

年から明治4(1871)年まで,阿波国出身の門人は 24人おり,そのうち9人が僧侶である。

 このなかでは阿波国寺院出身の学林修学僧と咸宜 園門人で重なる例はなく,両方に「遊学」する具体 表2 咸宜園入門の阿波国寺院出身修学僧

入門年 西暦 月 日 名前 郡 町村 寺院 身分 年齢 紹介者 紹介者備考など 1 天保3 1832 1 29 宜園 那賀郡 賀茂村 太龍寺 22 省我 備中国都連島矢柄村慈眼院資 2 天保13 1842 8 8 圭円 那賀郡 立善寺村 隆禅寺 23 徳隣 美濃国厚見郡佐波村観音寺

3 嘉永1 1848 3 7 恵亮 名東郡 徳島 観潮院 23 大戩 不明

4 嘉永3 1850 3 7 秀道 名東郡 寺町 教行寺 19 法心寺行学 不明

5 安政2 1855 4 1 堯玫 名西郡 上浦村 瑞泉寺 25 担雪 武蔵国麻布天真寺徒

6 安政5 1858 12 2 呑海 三好郡 山城谷 長福寺 23 大坂屋霞城 不明

7 安政6 1859 6 1 仁雅 名東郡 南新居村 密厳寺 25 山田輔二郎 不明,他も紹介あり

8 慶応1 1865 3 7 等温 名東郡 徳島 26 見龍 不明

9 慶応1 1865 3 12 戒定 名東郡 府中村 大坊 19 前川潤太郎 徳島藩家中,大坊は千福寺か

 出典:「入門簿」(『淡窓全集』下,日田郡教育会、1927年)より作成。

 ②修学期間

 修学期間は続席印にもとづき,計出している。慈 弁の場合,17 年というぐあいである。2年以降に 続席印がない者は,修学は初年のみで,懸席の継続 はなかったと考え,1年としている。

 最長は 17 年の修学であり,12 人が認められる。

慈弁は嘉永6(1853)年,得業の学階を得ている28。 学階は得業→助教→司教→勧学と進む。

 学林での位階は,16 年以上の修学で最上位の臈 満となるから,17 年は長期修学にあたる。長期修 学で優秀な者は,得業から,助教や司教に選ばれ,

講者として附講や副講を担当する場合もある。たと えば,今回調査した『大衆階次』には載らないが,

天保6(1835)年以前の新入であったと思われる霊 潭(光善寺,小松島)が司教に進んでおり,勇勤(円 勝寺,姫田村)も助教に進んでいる29。霊潭と勇勤は,

知事,看護,監事など,学林を運営する役職にも就 いている。なお,霊潭は光善寺9世であり,その子 の渓潭(40)は同寺10世である30。勇勤は円勝寺10 世であり,日雲(47)は同寺11世である31。  最短は1年の修学であり,11人いる。

 85 人の平均は,約8年2月である。阿波国の修 学僧の修学期間が傾向として長いのか,短いのか,

他国の場合をまだじゅうぶんに検討していないので 判断しがたいが,たとえば,調査中の美濃国の修学 僧307人について,仮に算出すると,平均約9年9月,

飛騨国の修学僧72人は約7年6月であった。

 ③身分

 修学僧を身分別にみると,現住28人,新発意24人,

二男12人,四男1人,五男1人,弟子8人,不明(記 述なし)11人であった。

 現住は,『大衆階次』では「住」や「現」とも略 記される者であり,末寺の現住職である。たとえば,

実言(6,西覚寺)は「住」と記されている。現住 の修学僧の存在について,前述した学林における僧 侶の再教育(現職教育)機関としての性格が,阿波 国の寺院から学林に向かった修学僧の結果からも確 かめられる。

 実言らは現住職であるから,日常は寺坊で法務が あるが,夏安居への懸席の都合が調整されれば,上 京し,修学を行った。実言は修学7年で平均に近い。

たとえば,流情(8,善正寺)は15 年,恵達(12,

円光寺)は 17 年,一音(36,潮見寺)は 17 年,覚 恵(80,東光寺)は 17 年の長期修学におよんでお り32,現住職として末寺に住持しながら,上京し,

学林の学問の摂取に熱心であったことがうかがえ る。

 現住の修学期間の平均は,約7年2月であった。

 新発意は,略してしばしば「新」と記される。新 発意は将来の寺院相続予定者であり,世襲相続をす でに習慣としていた浄土真宗教団では,現住職の長 子(実子・養子)である場合が多かった。阿波国の 修学僧の3割弱が新発意である。安居には現住職も 懸席し,学林は現職教育機能も有するところに機関 の特色があるが,浄土宗の檀林など,他の仏教諸教 団の機関と同様,新発意という新規僧侶人材が在籍 し,僧侶養成を行うことも機軸とする機関であるこ とが,やはり確認される。

 新発意として学林に懸席しはじめ,3年,あるい は3年未満で修学を終える者もいるし,10 年をこ えて修学を継続する者もいる。新発意は多くの場合,

学林の修学後,あるいは修学を継続しつつ途中で出 身寺院の住職となった。ただし,寺院の事情や病気 などの理由により,新発意が末寺を継承しないこと もあった。

 また,新発意のなかには,覚応(38,円長寺)や 津梁(63,慈船寺)のように,他の寺院に住持する 縁を得る者もあった。

 新発意の修学期間の平均は,約10年8月であった。

 二男や四・五男は,基本的には新発意の弟であり,

現住職の第二子以降の者である。例にあげた慈弁は 二男である。二男らは新発意と異なり,相続予定寺 院が確定していない存在といえる。彼らは養子とし て他の寺院に入って住職となる機会を得たり,学僧 として身を立てていく必要がある立場にある。

 たとえば,桑殿(46,蓮教寺)は五男の身分で懸 席をはじめ,途中で和泉国の光林寺に住持している。

桑殿の光林寺への転住の経緯は詳らかでないが,新 発意でない彼らは学林修学を通じて,人的関係を広 げ,他の寺院に縁を得たり,学問を修め,学僧とし て評判をあげることで養子の誘いを受けたりするこ とがあった33。修学を進めていった結果としてその ような縁に恵まれたり,場合によっては,あらかじ めその可能性を意識して修学を行うこともあったか もしれない。いずれにせよ,学林修学は,教育と学 問を得ることが第一義であるが,その研鑽の経験を 通じ,人的関係を広げ,種々の知己を得る機会をと もなうものであったといえる34

 二男らの修学期間の平均は,約7年5月であった。

 弟子は,その寺院の生まれの者ではなく,他の寺院,

あるいは在家から入寺し,弟子となった者であると 把握される。とくに在家出身の弟子について,どの ような社会経済的背景や文化的信仰的背景をもつ家 の子弟であるか,関心を寄せるところであるが35, いずれにせよ,弟子は二男らと同様,相続予定寺院

参照

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