Title パウロの「信仰義認論」再考 : 「パウロ研究の新しい視点」との対話を とおして
Author(s) 関, 智征
Citation 2014年度 博士論文 要旨
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2014 年度
博士論文 [要旨]
指導教授 片柳榮一教授
パウロの「信仰義認論」再考
ー「パウロ研究の新しい視点」との対話をとおしてー
聖学院大学大学院
アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科 博士後期課程
学籍番号 112DC003 関 智征
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論文要旨
本論文のテーマ、目的、主題
(1)テーマ
本論文は、パウロを彼と同時代の「ユダヤ教」の文脈の中で捉え、その文脈の中でパウ ロ神学を考える視点に立つ。近年ホロコースト問題などを契機とするキリスト教のユダヤ 教に対する偏見への反省という文脈から、また死海文書や外典などの研究の進展から、パ ウロ時代のユダヤ教に対する見直しがなされている。また、第二バチカン公会議以後、宗 教間対話が促進され、キリスト教「絶対主義」から、「多元主義」「包摂主義」への流れの 中で、キリスト教とユダヤ教の間の対話も生まれている。さらには、新約学において、「ゲ ルマン神学」対「アングロ・サクソン神学」という 18 世紀以降の対立の中、「信仰義認論」
をパウロの中心思想とする大陸系神学者に、英米研究者が対峙するという図式が続いてい る。当時のユダヤ教の「律法達成の功績によって救いに与る」という考えに対して、パウ ロがその中心思想である「信仰義認論」を唱えたと長く理解されてきた。しかし、この従 来のパウロ解釈を根本的に再検討する研究が、ここ三、四十年間、精力的に続けられてい る。
プロテスタントは長く、パウロの上にアウグスティヌスやルターの内省的な良心の探求 を二重写しにしてきた。これは、パウロの論敵の上に、功徳を重んじた中世教会の救済理 解を重ね合わせたパウロ理解である。そして、「律法主義(自己義認)」対「信仰義認論」
という図式でパウロは長く理解されてきた。すなわち、ルターの時代以来、プロテスタン ト神学は、ガラテヤ書、ローマ書のテキストのうちに、「個人が義とされるのは、善き行い を実行することによってではなく、イエス・キリストを信じることによる」という教理の 古典的な証拠聖書箇所を見出してきた。しかし、その後の研究によって、これはパウロと 同時代のユダヤ教は偏狭で律法主義の宗教である、という誤った前提に立っている可能性 のあることが、明らかになった。
この点、E.P.サンダース(E.P.Sanders)は、ユダヤ教をキリスト教の対局におく考え方 に疑問をもち、ユダヤ教は律法の行いによって義認を追求する宗教ではない、と論じた。
ユダヤ教も、キリスト教と同様に、神の恵みによる選びと救いに基づいた宗教である。ト ーラーを守ることで神との契約を維持する、という「契約遵法主義(covenantal nomism)」
はあっても、律法の行いによって神の前に義と認められるという思想はない、とサンダー スは言う。サンダース以降、「律法の達成で救いを得るユダヤ教」対「信仰のみによって義 とされ救われるキリスト教」という枠組みを問い直す「パウロ研究の新しい視点(The New
Perspective on Paul)」と呼ばれる研究が進められている。
サンダースの「初期ユダヤ教=契約遵法主義」という文献学的・歴史学的な主張を前提 とすると、「パウロが、論敵の律法主義、行為義認主義、業績主義を批判して、信仰義認を 唱えた」という伝統的な図式は成立しなくなる。このように「パウロの時代のユダヤ教は 律法主義的なわざ(行い)の宗教であり、パウロはそれを批判していた」という従来の解 釈がもはや自明のこととできなくなっている中で、ガラテヤ書やローマ書にみられるパウ ロの激しい「律法批判」、「ユダヤ主義批判」、そして「信仰義認論の主張」の真意はどこに あるのか。この点からパウロの「信仰義認論」「福音」を問い直さなくてはいけない。
以上、本研究のテーマは、パウロと同時代のユダヤ教という文脈の中にパウロを置き、
パウロの「信仰義認論」「律法批判」を再考することである。もっとも、パウロが初期ユダ ヤ教の枠組みを超えなかった、パウロの教えが当時のユダヤ教と何も変わらなかった、と 主張するものではない。むしろ、どこでユダヤ教の枠組みをパウロが越えたか、という問 題に、資料的な裏付けのない「律法主義としてのユダヤ教」を持ち出し、それとパウロが 対決したというのは、パウロの独自性を正しく捉えることにならない、という筆者の問題 意識の基に、論じていく。
具体的には、「神の義」「キリストの信」「トーラーの行い」の3つの概念に限定して論じ る。なぜなら、「福音のうちには、神の義が、ピスティス(信)からピスティスへと啓示さ れている」(ローマ書 1:17)とあるように、「神の義」は、人間を義とすることによって、
世界を正しい状態に至らせる神の働きでありパウロ思想の中心である。また、「イエス・キ リストのピスティス」による「神の義」について述べたローマ書 3:21 以下の部分では「人 が義とされるのは、トーラーの行いによるのではなく(コーリス・エルゴーン・ノムー)、
ピスティス(信)による」(ローマ書 3:28)と言明している。とするなら、「信仰義認論」
を再考する上で、「神の義」「キリストの信」「トーラーの行い」の意味を相互の関連で問う ことは互いに不可分の問題である。そして、この3つの概念を問うことは、パウロの「ト ーラー批判」の真意やパウロの「福音」の意味を問うことにもつながる。さらに、「信仰義 認論」を再考することは、教会論や伝道論など実践神学的な議論にも関わる重要な問題で ある。
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(2)目的、主題
本論文では、伝統的に「信仰義認論」の中心とされてきたガラテヤ書 2:16 およびローマ 書 3:20-22 を、主として扱う。"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"(イエス・キリストの信実)と"ἔργα
νό2ου"(エルガ ノムー)を、「義とされる」ことの根拠としてパウロは対照させる。そこ
で、「義(δικαιοσύνη)」「イエス・キリストの信(!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ)」「トーラーの行 い(ἔργα νό2ου)」の各概念を「両義性(ambiguity)」という視点から再検討することが、
本論文の目的である。すなわち、「イエス・キリストの信(忠実)によって義とされる」の 句の、共同体的な信実の側面と神の前の個人の義認の側面、能動性と受動性の側面、およ びイスラエルと異邦人という対立する概念を、「参与(participation)」という概念によっ て総合することができることを示す。
本論文の構成
本論文では、上記先行研究を踏まえ、「信仰義認論」を再考する。以下、本論文で論じて いく問題の所在を構成と共に示す。
(1)
最初に、取り扱う問題は、パウロにおける"δικαιοσύνη θεοῦ"(神の義)、 "δικαιόω"(義と する)の概念である。神の義は、パウロ(特にローマ書)の中心概念である。
これまでパウロにおける「神の義」は、司法的(forensic /judical)な意味として理解さ れてきた。そして、動詞形の「義とする/される」も司法的な意味に解されてきた。しかし、
パウロの「義」の概念が、1世紀の初期ユダヤ教の影響に基づくものであるという研究が進 み、パウロの福音の中心である「神の義」また「義認」も解釈が見直されてきた。
ここでは、パウロの「義」概念における共同体的な側面と「神の前の一人の救い」とい う個人的な側面の二重性に着目する。そして、個人的次元と共同体的次元という相矛盾す る二つのことを、参与論という視点から総合することを目指す。
(第1章)
(2)
次に、パウロにおける"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"(イエス・キリストのピスティス/信)に 着目する。この"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"を主語的属格にとるか、目的語的属格にとるかが議 論されてきている。この属格をどう解するかで、パウロの「信仰義認論」の解釈が大きく 変わってくる。
伝統的に"!ίστις"は、人間側の信じる態度を表す概念であると考えられてきた。"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ "は、「イエス・キリストへの信仰」と目的語的に解釈されてきた。しかし、
主語的属格解釈が、近年盛んに主張されるようになってきた。本論文では"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"を「イエス・キリストの信」と解釈することによって、「神の義」とはイスラエル との契約における神の信・忠実さ(faithfulness)の表れであるというパウロの主張の論点 が明瞭になること、すなわち、イエス・キリストの信への参与によりキリストに似た姿に 変えられることが、「イエス・キリストの信によって義とされる」ということの意味である ことを確認する。
その上で"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の概念について、イエス・キリストとキリスト者の関係 の中での能動性と受動性の両面性に着目する。それによって、"!ίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"は「イ エス・キリストの信」と主語的に解釈できること、そしてイエス・キリストと人間の関係 における能動性と受動性という互いに矛盾する事柄を、参与論という概念で総合すること を目指す。
(第2章)
(3)
最後に、パウロの"νό2ος"(ノモス、以下トーラー)および"ἔργα νό2ου"(エルガ・ノム ー、以下「トーラーの行い」)について論じる。パウロは信仰義認論の箇所で「トーラーの 行い」と「イエス・キリストの信」とを対置している。
この「トーラーの行い」とは、伝統的には「律法主義・功績主義的」なもの、つまり救 いを自分自身の努力によって達成する行為と考えられてきた。そして、功績によって救い を得させようとすることそれ自体が人間を罪に陥らせるから、パウロは「トーラー」その ものを非難した、と考えられてきた。
しかし、当時のユダヤ教の多様性、複雑性が明らかになり、功績主義の宗教だと一括り に断じてしまうことの問題点が明らかになってきた。すなわち、神は取るに足らない奴隷 の民を選び、彼らを奴隷の身分から救い出し、契約を彼らと結んだという認識から初期ユ ダヤ教の神学は始まった。ユダヤ教は、救いはユダヤ人が達成したり獲得したりするもの でなく、初めから恵みとして与えられていた、と信じる宗教だったのである。その中で「ト
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ーラーの行い」とは、社会学的な境界線(民族的バッジ)の機能をもっていたことを明ら かにする研究が進展してきた。
ここでは、パウロが「キリストのからだ」「神のイスラエル」という新しい共同体に、ユ ダヤ人、異邦人が共に参与することを主張していたことに注目する。そして、ユダヤ人と 異邦人という対立する事柄を、参与論によって総合することを目指す。
(第3章)
以上、全体をとおして、「義とされる(義認)」と「キリストの信実」および「トーラー の行い」の句の間にある、参与論的な連関を示す。すなわち、個人性と共同体性、能動性 と受動性、ユダヤ人と異邦人の同時性というそれぞれ矛盾するようにみえる事柄を、参与 論によって総合することができることが、本論文では明らかにされるだろう。(結論)
なお、方法論として、「神の義」「イエス・キリストの信」「トーラーの行い」の各々の概 念について、1.まず、聖書内外の文献、特に古典ギリシャ語の語義、旧約聖書(七十人訳 聖書)の語義、初期ユダヤ教の語義を考察するとともに、文法的考察を行う。また、各々 の語の解釈史を確認する。2.次に、問題となるテキストの釈義を、それぞれのテキストの 置かれている文脈も適宜考察しながら行う。3.そして、パウロ思想全体の中で各々の句が どのような機能を果たしているか神学的考察を行う。
聖学院大学大学院
アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科 博士後期課程
学籍番号 112DC003 関 智征