はじめに
中村研一(1895-1967)は明治に生まれ、大正、
昭和の時代に生きた画家である。福岡県宗像市 に生まれた中村は、東京美術学校西洋画科を卒 業するとフランスに渡り、帰国後は帝展で受賞 を重ねた。戦後の日展にいたるまで審査員を歴 任し、日本の近代洋画壇の中心的な画家として 活躍し、確実なデッサンと端正な筆致で造形さ れた大画面を得意とした。中村については、『没 後50年 中村研一展』(2018年、福岡県立美術館、
宗像ユリックス、新居浜市美術館)が開催され るなど、近年研究が大いに進められている1。 これらの展覧会では、作品のさらなる分類が行 われると同時に新たな資料も提示され、中村作 品の全貌がかなり明らかとなってきた。しかし ながら、先行研究においては、中村の真骨頂と される戦争画を中心に議論がなされてきたもの の、同時期に描かれた女性像については必ずし も十分な議論がなされているわけではない。そ こで本稿は、中村の《安南を憶ふ》(北九州市 立美術館蔵)(図1)を中心に民族服をまとっ た女性像の作品について、近年の研究を踏まえ つつ、本作品の中村の画業における意味ととも に、美術史上における意味についても考察を行 うものである。
1 作品概要と先行研究
具体的な考察を進める前に、まずは作品を概 観しよう。
《安南を憶ふ》(以下、原則として本作品とす る)は昭和17(1942)年に制作された。本作品 では、柔らかな光に満ちた室内に、中村の絵に しばしば登場する妻・富子がベトナムの民族衣 装であるアオザイをまとって椅子に腰かけてい
*駒沢女子大学 非常勤講師
〔駒沢女子大学 研究紀要 第25号 p. 211 ~ 220 2018〕
中村研一《安南を憶ふ》についての一解釈
鈴 木 伸 子* An Essay on Kenichi Nakamura’s Reminiscence of Annam
Nobuko SUZUKI*
図1 中村研一《安南を憶ふ》1942年、油彩・カ ンヴァス、100.3×80.7cm、北九州市立美術館
る。富子は椅子に身をゆだね、こちらに向かっ て視線を送っている。富子の背景にあるクラシ カルな木製の椅子やタイル張りの床、そして赤 と黄の文様の絨毯から構成される室内の描写は、
中村の代々木初台のアトリエで制作された作品 とモティーフを共有する。それゆえに、本作品 は代々木初台のアトリエで制作されたものと推 察されよう。画面左上から右下に向かって対角 線をなすように人物が配されているが、画面手 前を大きく描くことによって、カメラのレンズ でとらえたような視覚上の歪みが意図的にもた らされ、印象的な作品である。また、親密な雰 囲気を醸し出す室内の女性像は、中村が留学中 に私淑したフランス人画家、モーリス・アスラ ン(1882-1947)の女性像の影響を感じさせる。
本作品は、昭和17年の第5回新文展に出品さ れ、昭和奨励賞を受賞したが、後に北九州市立 美術館に移された。この年、中村は陸軍および 海軍の従軍画家に選任され、藤田嗣治(1886- 1968)、宮本三郎(1905-1974)、向井潤吉(1901- 1995)らとともに南方、すなわち現在の東南ア ジアを訪れ、戦地の取材を重ねた2。本作品の タイトルの安南とは現在のベトナム北部から中 部の地域を指す。本作品は、中村が南方に赴い た際に目にした色彩や風景を追憶して描かれた ようである3。
本作品については、「中村研一、中野和高(少 女像)の明快な感覚と達者な筆さばきが注意を ひく4」、「…中村研一は共に手堅い技法を持っ てゐる5」などと評されているように、既に当 時の美術批評家によって一定の評価を得ていた ことがわかる。また、同戦地取材をもとに制作 された昭和17年の大作《コタ・バル》(東京国 立近代美術館蔵、無期限貸与作品)は、大東亜 戦争美術展に出品され朝日賞を受賞した6。《コ タ・バル》は凄惨な場面を黒い色調でまとめあ げたドラマティックな作品で、柔らかな明るい
図2 中村研一《王妃》1942年、油彩・カンヴァス、
53.0×41.0cm、小金井市はけの森美術館
図3 中村研一《マラヤの装い》1946年、油彩・
カンヴァス、90.5×73.0cm、東京藝術大学大 学美術館
色彩に溢れた本作品とは対照をなす。
さて、本作品において注目されるべきは、富 子がまとったピンク色の上衣と白のズボンによ るアオザイであろう。上述したように、アオザ イとはベトナムの伝統的民族服であり、中国の 伝統服をベトナムの風土と民族性に同化させて 生み出された。中国服風の襟と前開きから成る 丈長の上衣チョーサンとゆったりしたズボンの クアンから構成される7。
「民族服を着る女性像」という主題は、戦前 から盛んになされ、藤島武二(1867-1943)、満 谷国四郎(1874-1936)、梅原龍三郎(1888-1986)
などの多くの画家に描かかれた。これは宗主国 と被支配国のいわゆるオリエンタリズムの問題 とも関連するものであるが、この主題において、
女性はチャイナ・ドレス、チマチョゴリ、アオ ザイといったアジアの様々な民族服をまとって 描かれていたのである。本作品に留まらず、昭 和17年の《コタバルの娘》(中村研一・琢二生
家美術館蔵)、同年の《王妃》(小金井市はけの 森美術館蔵)(図2)、そして、昭和21(1946)
年の《マラヤの装い》(東京藝術大学大学美術 館蔵)(図3)、昭和22(1947)年の《サイゴン の夢》(福岡県立美術館蔵)(図4)など、戦中 から戦後にいたるまで、中村はマレーやベトナ ムの民族服をまとった女性像を繰り返し描いた。
それゆえに、アオザイをまとった富子を描いた 本作品は「民族服を着る女性像」という文脈に おいて理解されるべきであるだろう。そこで、
次章では本作品成立の背景となった「民族服を 着る女性像」の主題から考察する。
2 民族服を着る女性像
既述したように、東南アジアの「民族服を着 る女性像」は日本近代美術では関心が寄せられ、
しばしば描かれた主題である。これについては、
稲賀繁美氏、ジョン・クラーク氏、西原大輔氏、
貝塚健氏をはじめ、多くの先行研究が蓄積され ている8。
先学によれば、「民族服を着る女性像」は、
フランスのアルジェリア支配を背景とするオリ エンタリズム絵画を意識するなかで、日本がア ジアに目を向けた格好の具体例であるとされて いる。すなわち、日本は当初、西洋オリエンタ リズムの視線にさらされ、あくまでオリエント の一部であったが、工業化・近代化を進め、植 民地を獲得し帝国化としての体裁を整えた。今 度は、オリエンタリズムの視線をアジアへ向け、
多くの日本人画家が植民地や占領地域を訪れ、
朝鮮や台湾や満洲などの風景が日本美術に取り こまれ、日本版のオリエンタリズム絵画が形成 されるという図式が想定されるという。そして、
日本人がアジアを描出するにあたって、とりわ け民族服の人物像はその最も適切な表現材料と なったのであった。明治維新から第二次世界大 戦での敗戦に至るまでに制作されたアジア関連 図4 中村研一《サイゴンの夢》1947年、油彩・
カンヴァス、99.0×79.2cm、福岡県立美術館
作品の多くが、チャイナ・ドレス、チマチョゴ リ、もしくは東南アジアの民族衣装をまとった 女性像で占められている。そして、ジョン・ク ラーク氏によれば、「日本人の理想化した『東 洋の美』又は日本婦人の美を出させるためにこ の異装した女たちの肉細さを主題とした」とい う9。
民族服をまとう人物像は明治期より現れたが、
大正期に入ると民族服の肖像画は広く描かれる ようになった。すなわち、明治44(1911)年の 第5回文展に出品された結城素明(1875-1957)
の《囀》は、チャイナ・ドレスを着た男性像で、
大正元(1912)年には山本鼎(1882-1946)の《志 那の女》、川崎小虎(1886-1997)の《黒衣の志 那の女》が現れ、藤島武二は、大正4(1915)
年の第9回文展に《匂い》を出品した。大正8
(1919)年第1回帝展に広島広甫(1889-1951)
が出品した《青衣の女》は特選を受賞する。そ して昭和期になると、民族服像の量はますます 増加し、安井曾太郎(1888-1955)《金蓉》など、
枚挙にいとまながないほど、実に多くの作品が 描かれてゆく。そこでは、チャイナ・ドレスの みならず、チマチョゴリ、インド風の衣服といっ た様々なアジアの民族服を着る女性像、アジア 的女性像が大量に描かれた10。
本作品に戻れば、アオザイというベトナムの 民族服を着た富子の坐像であり、アジアの民族 服の肖像画という類型に属するものである。そ れゆえに、本作品は「民族服を着る女性像」の 流れに置かれるべきであろう。富子の背後の開 口部には、生い茂る椰子の葉が覗き、南国風の 印象を強めることになっている。本作品は代々 木初台のアトリエで描かれたが、《安南を憶ふ》
というタイトルが示すように、アオザイをまと う妻の姿を通して、従軍画家として訪れた地で 目にした風景や色彩の記憶を描き出そうとして いると推察されよう。また、中村は《王妃》を
描いた際に、マレーの王妃より伝統的な民族衣 装であるサロン(腰布)を貰ったという11。戦 後の《マラヤの夢》においても、マレーの民族 服であるロングスカートと長袖の上着(バジュ クロン)を着た富子を力強く描いている。アオ ザイやマレーの衣服を描くことは、中村が一時 期アジア趣味に耽溺していたとも、言えるかも しれない。
さらに、富子の後ろの開口部からは光が差し 込み、室内は明るい色彩で表されているが、こ れは、近代日本美術が西洋オリエンタリズム絵 画から受けた影響から説明することもできるだ ろう。西原大輔氏が記されているように、西洋 においてオリエントは明るい光と結びつけられ、
フランスの画家たちは中近東の強い光と色彩に 魅せられていた。ヴィンセント・ヴァン・ゴッ ホ(1853-1890)は日本を陽光に満ちた楽園の 国としている。そして、日本においては明るい 色彩は日本の内地ではなく、むしろ植民地とい う外地にあるとする言説が広まっていた。西洋 においてオリエントに向けられた色彩は、日本 においてアジアに向けられた。つまり、西洋の 画家たちが中近東やアジアにしたことを、今度 は日本人がアジアに行ったのである12。実のと ころ、フランス帰国後の中村の作品では、灰色、
茶褐色、黒という重厚感のある色彩が多用され、
光と影の明確なコントラストで画面が纏め上げ られている。これは戦中期までの中村の造形的 特徴で13、《コタ・バル》にも認められる。そ のように見ると、本作品の柔らかで明るい色彩 は戦中期までの中村の作品とは異質なもので、
新たな色彩は当時の日本のアジア表象から説明 できるかもしれない。しかしながらこの問題は さらなる考察が必要である。
さて、ここで注目すべきは、富子の足が乗せ られた赤いオットマンの下に認められる赤いス リッパである。足下に置かれていることから、
このスリッパは富子が脱いだものであろう。上 述したように、画面は右上から左下へと対角線 をなすような構図で、そこにスリッパが揃えて 置かれることで、鑑賞者の視線が自ずとスリッ パに導かれる14。このように、赤いスリッパは 構図のうえで極めて特権的な位置に置かれてい るのである。さらに、中村が脱いだ靴というモ ティーフを、民族服の女性を主題とする一連の 作品に繰り返し描いたという点にも、留意せね ばならない。《サイゴンの夢》での富子は片足 だけ素足で、その下に脱いだ白い靴が置かれて いる。《マラヤの装い》ではマレーの民族服を まとった富子の足下に脱いだ赤いハイヒールが 置かれている。中村が描いた民族服の女性は脱 いだ靴とともに描写されているのである。筆者 が確認した限り、中村が描いた民族服の主題以 外の女性像には、脱いだ靴が描かれることはな く、他の画家による同じ主題の作品においても、
靴のモティーフは認められなかった。それゆえ に、脱いだ靴はこれらの作品において一定の意 図をもつものと推察される。それでは、中村は いかなる理由で脱いだ靴の選択と表現をおこ なったのであろうか。次章では、脱いだ靴のモ ティーフに目を向け、考察を進めたい。
3 脱いだ靴のモティーフと象徴性
結論を先取りすれば、こうした脱いだ靴の図 像の淵源は、15世紀の初期フランドル絵画、ヤ ン・ファン・エイク(1395-1441)の《アルノ ルフィーニ夫妻の肖像》(ロンドン、ナショナ ル・ギャラリー蔵)(図5)にまで遡る。こち らに向かって、右手を胸の前に掲げた男性の足 下に、脱ぎ捨てられた木製の靴が認められる。
そして室内の奥のベッドの前にも赤い木靴が脱 ぎ捨てられているが、この靴は聖なる場所を意 味するものであるとされている。これは、『出 エジプト記』(3:5)「…ここに近づいてはな
らない。足から履物を脱ぎなさい。あなたのたっ ている場所は聖なる土地だから。…」というシ ナイ山で神がモーセに述べたことに由来する。
すなわち、《アルノルフィーニ夫妻の肖像》に おいて、手をとる男女は、七秘蹟のひとつであ る結婚の儀礼の最中であり、したがって場面は 聖なる場所であることを示すと解釈されている
15。そしてこの脱ぎ捨てられた靴のモティーフ は、15世紀の初期フランドル絵画のみならず、
近代の絵画にも認められる。例えば、19世紀の ラファエル前派のウィリアム・ホルマン・ハン ト(1827-1910)による《シャロットの女》(マ ンチェスター市立ギャラリー蔵)では、タピス リーを織っていたシャロット姫が立ち上がった 足下に、脱いだ靴が描かれている。ここでもシャ ロット姫のいる室内は外界とは隔てられた、い 図5 ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ 夫 妻 の 肖 像 》1434年、 板・ 油 彩、82.2×
60cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
わば聖なる空間であった。このように、脱いだ 靴は西洋美術において聖なる場を象徴するモ ティーフで、伝統的に描かれた。中村は東京美 術学校在籍時より、オールド・マスターなどの 西洋の様々な美術を熱心に研究し、美学者の矢 崎美盛とともに美術に関する広範な知識を示す 書籍を刊行している16。だとすれば、中村がエ イクをはじめとした靴のモティーフに関心を寄 せ、画面に導入した可能性は高いのではないだ ろうか。
ここまで確認したうえで、中村の作品に立ち 戻ろう。本作品ではこちらを見つめる富子の足 下に配置された赤いスリッパはエイクの作品に 較べてより大きく画面に描かれ、鑑賞者の目を 引き付ける。光に満ちた場面は穏やかで、戸外 の喧騒とは隔てられた聖なるものすら感じさせ ることから、中村は選択的にこのモティーフを 入れたものであると考えられないだろうか。実 のところ、中村は《コタ・バル》、《マレー沖海 戦》(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)、
《シンガポールへの道》(小金井市立はけの森美 術館蔵)他の戦争画に取り組む傍ら、本作品の ような人物像を、風景などとともに同時期の文 展や光風会に出品し続けていた。戦争記録画と 不可分の関係にあるように、「民族服を着る女 性像」の表現がなされていたのである。中村の 戦中期のもうひとつの側面として見逃すことが できない本作品は戦争画とは異なるジャンルで あり、脱いだ靴のモティーフは重要な意味を 持っているといえるだろう。
留意すべきは、本作品に描かれた窓越しの風 景である。富子の背後の開口部には椰子の葉が 見えるが、中村は南方滞在時に室内の開口部か ら広がる風景をしばしば描いた。例えば、中村 の《宿泊先(昭南のわが宿)》(小金井市立はけ の森美術館蔵)では、中村が滞在した宿のバル コニーが開口部より捉えられ、《サイゴン》(小
金井市立はけの森美術館蔵)では、開口部から 見える室内の一場面が表されている。本作品で は開かれた扉の外に生い茂るヤシの葉が色鮮や かに描き込まれ、南国の情緒を高める。外界と 室内とを明確に仕切る「窓枠、開口部」を通じ て、植民地支配の影や戦争の様子とは無縁の長 閑な世界、一種のアルカディアのごとき世界が 表現されているかのようだ。そして、このよう な開口部の表現はフェリックス・ヴァロットン
(1865-1925)などフランスの象徴派をはじめと した室内表現を想起させる。開口部の表現は、
西洋美術において絵画空間を構成する重要な要 素とされていた。しばしば指摘されているよう に、象徴派の開口部とは、外に開かれているの ではなく、むしろ内向的なものであり、室内に 見出せる平穏や安寧を享受することのできるも のとされている17。ならば、本作品における開 口部は、靴のモティーフとともに、内的で平穏 なものを象徴させるために導入されたと見るこ とはできないだろうか。
もっとも、本作品はアジアの民族服が描かれ ているがゆえに、「占拠地へのエキゾティック な憧憬をかきたてる戦争画の一ジャンルと共通 する質がそなわっている18」ことは否定できな い。とはいえ、直接の政治的な描写が現れてい ないことを踏まえるなら、本作品は必ずしも明 確な政治的メッセージを伝えていないとも考え られる。こうした脱いだ靴という聖なるものを 暗示するモティーフが画面にもたらされたこと は、本作の制作理念に本質的にかかわるものと 解釈できるのではないだろうか。
中村は1920年代にフランスに留学し、ヨー ロッパ各地を訪れ、多くの美術作品を目にして 膨大な知識を身につけたことは、残された作品 のみならず、著書『絵画の見方』をはじめとし た様々な記述から窺い知れる19。1937年には、
海軍の依頼によりイギリス国王ジョージ6世の
観艦式を記録するべく、戦艦「足柄」に乗艦し てイギリスへ赴いた。中村はこの時ロンドンを 訪れて街中が国旗で埋まる戴冠式の様子をス ケッチに残しているが、その際ナショナル・
ギャラリーに足を運び、そこでエイクの《アル ノルフィーニ夫妻の肖像》を見る機会があった と推察される20。
一方で、中村が書籍を通じて上記の作品を 知った可能性も見逃してはならない。既に指摘 されているように、大正8年1月号の『白樺』
には、ヷン・エックの「聖母と開祖」、すなわ ちヤン・ファン・エイクの《ロランの聖母子》
(パリ、ルーヴル美術館蔵)が掲載された。そ して2年後の『白樺』は、フランドル絵画の特 集であり、巻頭の「ヤン ファン エックの真 蹟と鏡」、すなわち《アルノルフィーニ夫妻の 肖像》、「受胎」すなわち《受胎告知》(ワシン トン・ナショナル・ギャラリー蔵)を含めて、
計13点のエイクの図版が掲載されたのである。
さらに、丸善では当時、西洋美術の書籍が輸入 され、印象派のみならずフランドル絵画などの 北方美術の書籍が販売されていた。その中には
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》が掲載された 書籍も含まれていたようである21。中村は丸善 より洋画集を購入していたことを併せて考えて みるなら、これまでの議論は不自然ではない。
それゆえに、中村が当時の書籍などから脱いだ 靴の図像や開口部の表現に親しんでいた可能性 は除外できないだろう22。
4 《安南を憶ふ》以降の民族服を着る女性像 このように、中村は戦中期に「民族服を着る 女性像」を描いたが、戦後も同主題はある時期 まで継続された。昭和20(1945)の終戦の翌年、
昭和21(1946)年の春には文部省主催による日 展(日本美術展覧会)が開始されたが、中村は 同年秋に開催された第二回日展に出品し、以降
は連続して日展へ出品と重ねてゆく。このこと は、今後の画家の方向性を打ち出していくとい う強い意味合いがあったものと想像されよう。
《マラヤの装い》は第二回日展に出品されたが、
ここではマレーの民族服である、ロングスカー トと長袖の上着のバジュクロンを着た富子が描 かれている。富子はどことなく厳しい表情を見 せ、背景の生い茂る椰子の葉とあいまって力強 い印象を与えている。
昭和22(1947)年の第三回日展に出品された
《サイゴンの夢》は、本作品と同様にアオザイ をまとった富子が片膝を立てて椅子に座ってい る。逆光に照らされた富子は、まっすぐにこち らを見つめ、力強い眼差しである。タイトルも 示すように、《サイゴンの夢》は明らかに本作 品のヴァリアントであり、舞台設定を変更しな がら描いたものであろう。本作品には関連する 下描き(小金井市立はけの森美術館蔵)が残さ れているが、画面にはアオザイを着た富子がク ローズアップされ、靴を脱いで椅子に腰かけて いる様子である。基本的な構図が完成作とは異 なっていることからも、中村は完成に向けて構 図を試行錯誤していたことがわかる。
中村は「民族服を着る女性像」という主題を 戦後においても引き続き取り組んだが、それは 戦争画そのものとともに戦争画を描いた画家た ちの責任問題をめぐって混乱を極めた時期で あった。そのようななかで日展といういわゆる 公的な場で発表したのは、画家として自らの画 業を貫徹するという覚悟の表れではないだろう か23。《安南を憶ふ》を起点とした民族服の女 性という主題はもちろん戦争とは切り離すこと のできないものであるが、同時に神聖さを表す 象徴的なモティーフを取り込むことで、絵画制 作による画家の矜持を示すことにも繋がるよう に思われる。高山百合氏も指摘されているよう に、同時期に他の画家は中村のように同じ主題
に取り組むことはがなかったこと24を考慮すれ ば、中村の作品は伝統的な民族服を着る女性像 の系譜にあるものの、一方で異なる方向を向き、
そこでは画家としての意思が確かに表明されて いると思われる。このように象徴的な意味を持 つモティーフが配された中村の「民族服を着る 女性像」は、戦中から戦後を繋ぐものである。
そして戦争画を含めた近代日本洋画史の流れに 照らしても、再評価すべきであると考えられよ う。
おわりに
本稿では中村の《安南を憶ふ》を、「民族服 を着る女性像」という主題から確認し、作品に 描かれた脱いだ靴のモティーフを検討した。そ のうえで、中村が制作するにあたって参照した 文献などに触れ、中村のさらなる「民族を着る 女性像」についても考察を加えた。これまでの 議論を通じれば、先行研究では必ずしも十分な 評価がなされてこなかった《安南を憶ふ》をは じめとした中村の同主題の女性像には高い評価 を与えることができる。本作品については、ア ジア趣味や、他の画家の民族服の女性像との関 係性、そして戦後の中村の作品とともに、より 多くの議論を行うべきであるが、今後の課題と して本稿を終えたい。
【図版典拠】
図1、図3、図4:『没後50年 中村研一展』
図録、福岡県立美術館、宗像ユリックス、新居 浜市美術館、2018年、74-76、79頁。
図5:Otto Pächt, Van Eyck and the Founders of Early Netherlandish Painting, Maria Schmidt-Dengler ed. and David Britt tr., London, 1994, p. 95.
図2:ⓒ小金井市立はけの森美術館
注
1 以下を参照のこと。『中村研一回顧展』図録、小金井 市立はけの森美術館、2006年。高山百合「昭和期官展 洋画の研究 : 中村研一を中心に」『鹿島美術財団年報』
第31号、2013年、452-462頁。高山百合「昭和期官展に おける「現代風俗画」の展開 : 中村研一《瀬戸内海》を 中心に」『デアルテ : 九州藝術学会誌』第31号、2015年、
5-24頁。拙稿「中村研一とフランス絵画」『中村研一と その時代』小金井市立はけの森美術館、2017年、4-8頁[以 下、鈴木、2017年]。また、『没後50年 中村研一展』
図録、福岡県立美術館、宗像ユリックス、新居浜市美 術館、2018年。
2 昭和17年3月に陸軍嘱託南方派遣画家に、同年5月 に海軍省嘱託南方派遣画家に専任された。『中村研一回 顧展』図録、前掲書、18、39頁。『没後50年 中村研一展』
図録、前掲書、131頁を参照。
3 「…コタバルはそういつた所である。だから道を通る 女たちにしてもここ独自の美しさがあり色の好みがあ り、それはマライの他の地方の様に印度や華僑のこん がらがった群衆ではなくマライ人ばかりの群衆であっ た。私はその市場に行って、この群衆の一人一人を眺 めるのを毎日の楽しみとして、スケッチブック一つもっ てよく出かけた…」中村研一「コタバルにて」『理想日本』
第2巻第7号、日本文化宣揚会、1943年7月。
4 荒木季夫「文展 洋画評 思想内容の飛躍を欠如委」
『読売新聞』昭和17年10月22日、朝刊。
5 福島繁太郎「文展第二部を観る」『旬刊美術新報』第 41号、昭和17年11月、6頁。他に以下を参照のこと。
富永惣一「文展油画評(下) 大作に力作乏し 新進に 見る新しい萌芽」『朝日新聞』昭和17年10月21日、朝刊。
鈴木進「文展第二部(洋画)所感」、『旬刊美術新報』
第41号、昭和17年11月、2-3頁。江川和彦「文展洋画作 品を論ず=第二部に於ける二三の問題」『旬刊美術新報』
第46号、昭和17年12月。
6 《コタ・バル》については以下を参照のこと。「大東 亜戦争美術展 廿二日から受附」『朝日新聞』1942年11 月21日、朝刊。「天覧に輝く記録画 大東亜戦争不滅の
武勲を描いた卅九点」『読売新聞』1942年11月30日、朝刊。
「畏し展覧の栄 大東亜戦争陸軍作戦記録画の一部 コ タ・バル マレー方面従軍派遣 中村研一氏筆」『読売 新聞』1942年11月30日、朝刊。荒城秀夫「大東亜戦争 美術展(下)示された実力」『朝日新聞』1942年12月12日、
朝刊。田中一松「大東亜戦争美術展」『読売新聞』1942 年12月14日、朝刊。
7 竹内郁雄「ベトナム スカートからズボンへ、そして スカートへ?」『きもの」と「くらし」 : 第三世界の日常 着』アジア経済研究所、1993年、69-75頁。
8 代表的な文献として以下をあげておく。ジョン・ク ラーク「日本絵画にみられる中国像―明治後期から敗 戦まで」『日本研究』第15集、1996年、11-27頁。西原大 輔「近代日本絵画のアジア表象」『日本研究』第26号、
2002年、185-220頁。稲賀繁美『絵画の東方 オリエン タリズムからジャポニスムへ』名古屋大学出版会、
1999年。児島薫「近代化のための女性表象―「モデル」
としての身体」北原恵編『日本学叢書(4)アジアの 女子身体はいかに描かれたか―視覚表現と戦争の記憶』
青弓社、2013年、173-199頁。貝塚健編『描かれたチャ イナドレス : 藤島武二から梅原龍三郎まで』図録、ブリ ヂストン美術館、2014年、9-20頁を参照のこと。さらに、
以下も参照のこと。エドワード・W・サイード『オリ エンタリズム』今沢紀子訳、平凡社、1993年。リンダ・
ノックリン『絵画の政治学』坂上桂子訳、彩樹社、
1996年。ノーマン・ブライソン「フランスのオリエン タリズム絵画における他者」、島本浣、加須屋誠編『美 術における他者』晃洋書房、2000 年。
9 西原、前掲書、185-191頁。
10 註8を参照。なお、この「民族服を着る女性像」に ついては、西洋オリエンタリズム絵画のオダリスクの 問題とも関わる。詳細については、稲賀、前掲書およ び西原、前掲書、192-194頁を参照のこと。本稿では紙 幅の都合上、同問題には立ち入らない。
11 『中村研一記念美術館 開館15周年記念誌』中村研 一記念美術館、2003年。中村はこの腰布を気に入り自 らも着用していた。
12 永井荷風『荷風全集』第4巻、岩波書店、1992年、
51頁。西原、前掲書、195-197頁。
13 中村の造形については、鈴木、2017年、前掲書を参照。
14 福島繁太郎「文展第二部を観る」『旬刊美術新報』
第41号、昭和17年11月、6頁。高山百合「昭和官展洋 画の寵児・中村研一―光と影を生きた画家」『没後50年 中村研一展』図録、前掲書、2018年、120-125頁。
15 「出エジプト記」『聖書 新共同訳―旧訳聖書続編つ き』日本聖書協会、2010(1987、1988)年、96頁。なお、
この脱ぎ捨てられた靴は、フレマールの画家のオリジ ナルの原作に基づくコピー《十字架降下の祭壇画》(リ ヴァプール、ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)に も 認 め ら れ る。Erwin Panofsky, “Jan van Eyck’s Arnolfini Portrait”, The Burlington Magazine for Connoisseur, Vol. 64, No. 372 (Mar., 1934), pp. 117-119, 122-127. アーウィン・パノフスキー『初期ネーデルラン ト絵画 その起源と性格』勝國興、蜷川順子訳、中央 公論美術出版、2001年、104頁。場面に描かれた様々な モティーフが結婚を暗示する象徴物となっているが、
この問題については、本稿では立ち入らない。
16 矢崎美盛、中村研一『絵画の見かた―画家と美学者 との対話』岩波新書、1953年。
17 アンドレ・シャステル「絵の中の絵」木俣元一・三 浦篤監修、画中画研究会訳、『西洋美術研究』第3号、
2000 年、pp. 14-32。中村周子「フェリックス・ヴァロッ トンの室内画における開口部の表現について」『成城美 学美術史』第16号、2010年、49-67頁。
18 丹尾安典、河田明久『岩波近代日本の美術1 イメー ジのなかの戦争 日清・日露から冷戦まで』岩波書店、
1996年、36頁。
19 矢崎、中村、前掲書。中村の自筆文献に関しては、『没 後50年 中村研一展』図録、前掲書、160-170頁を参照 のこと。フランス留学については、鈴木、2017年、前 掲書および福岡県文化会館編、『中村研一遺作展』図録、
福岡県文化会館、1972年を参照のこと。
20 拙稿「近代イギリス美術をめぐる一断面」、『開館10 周年記念 風景への視線 郡山市立美術館所蔵近代イ
ギリス風景画展』図録、小金井市立はけの森美術館、
2016年、6-9頁。観艦式における立ち合いについては、
以下を参照のこと。川井裕「軍艦「足柄」の英国観艦 式派遣及びドイツ訪問について」『戦史研究年報』第12号、
2009年、41-63頁。なお、エイクのこの作品がナショナル・
ギャラリーに移管されたのは1842年頃である。とすれば、
オールド・マスターを研究していた中村が現地で実物 を見た可能性は極めて高くなる。
21 元木幸一『ファン・エイク』小学館、2007年。蔵屋 美香「麗子はどこにいる?岸田劉生1914-1918の肖像画」
『東京国立近代美術館研究紀要』第14号、2010年、6-25 頁。田中淳「岸田劉生研究―『駒沢村新町』療養期を 中心に」『美術研究』第122号、2017年、307-354頁。『白 樺』洛陽堂、第10巻第1号、1919年1月。たとえば、
当時流通していた洋書としては、Handbook of Painting : The German, Flemish, and Dutch Schools of Painting, Based on the Handbook of Kugler. Re- modelled by the late prof. Dr. Waagen. Revised and in Part Rewritten by Sir. Joseph A. Crowe, London, 1911, vol. 2. が挙げられる。
22 『中村研一回顧展』図録、前掲書、2006年、6-8頁。
23 中村は戦後、戦争責任を追及されるなかで、自身の 日記に「kotabahru を久しぶりに見る。満足す。(昭和 22年2月8日)」と述べている。中村の制作を考えるう えで見逃すことができない記述である。宗像市史編纂 委員会編『中村研一/琢二画家日記』宗像市、1995年。
24 高山、2018年、前掲書、124-125頁。