イデオロギー的ジヤンル としてのユー トピア
高 橋 史 朗
*Utopia as an ldeological Genre
Fumiaki TAKAHASHIキ
Abstract
A large number of studies have been given to the deanition of literary utopia in the last fe、 、′ decades However the boundary of the genre still scems to be ambiguous For the 都/ord,
coined by Sir Thomasふ
/1ore in the early sixteenth century,has a quite clear image as a signiner, M/hile,at the same time,it does never bring forth epistem01ogically concrete ideas ln this brief paper l would like to overview the historical change of the generic deFinitions and then verify itsideological function in the postmodern context
rて
9υttortJ̀,: utopia,idcology,genre,postmOdernism
I
個々の作品 をどのジャンルに帰属せ しめるべ きか とい う分類 の問題 と文学 ジャンルが どの よ うに して成立 して きた のか とい う歴史 の問題 は
,そ
の両者 ともに本質的な帰納性 を有 してい る。一般 に,個
々の作品は,成
立の年代,用
いられている言語
,主
題,影
響 を受 けた他の作品, 作家の好 み,そ
の他作品にまつわ るあ りとあ らゆる情報が
,網
羅的 に収集 されて,そ
れ ら複数 の要素が似通 つた作品の最 も多 く含 まれている ジャンルに属す るもの と判定 され る。 それ と同 時 に,作
品が分類 されている類型 は,は
じめは性格付 けが判然 とせず
,隣
接 した類型 との境界 が曖味であつた として も,ジ
ャンル批評家が十 分 な仕事 をしていれば,歴
史 を経 るごとにその 類型 に属 す るべ き と評価 され る作 品数が増加 し,そ
の結果,各
類型の特質 はより包括的で具 体′l生
を帯 びるようになって,やがては,文学 ジャ ンル として確立 され る。個々の作品の帰納的な平成
14年12月 26日 受理 率 総合教育 セ ンター・講師
分析が
,帰
納的に成立 している類型 を発展 させ て きた過程 の具体化がジャンルなのである。しか し
,こ
のような帰納的ジャンル論 は,極
めて大 きな方法論上の問題 を内包 している。作 品を分類す る際
,作
品にまつわ る情報の収集の 根拠 とそれ らの解釈 に,絶
対的な正当性 を付与 することはで きない。 ジャンルが芸術作品を取 り扱 うものであ り,芸術 が どの ような形であれ, 記号 と解釈 を要求す る以上,主
題や意味 を限定 す ることな ど不可能である。 これ と同様 に,文
学 ジャンル とは
,本
質的に決定不可能な もので あって,歴
史的に変形 され続 けなければな らな い。例 えば,類
型 としてのジャンルは,そ
こに分類 される作品の数が増 えれば増 えるほど
,一
方でそれ ら「正統的」な作品の正統性 をぶ りか ざしてそこに含 まれたか もしれない「異端的」作 品を排除 している。 この歴史的な排除の繰 り返 しが
,他
のジャンル との境界が明 白なジャンル を形成す る動因 となってい る。 この事実 は,歴
史的なジャンルの比較論的な正当性 を示 しては いるけれ ども
,同
時 に,ジ
ャンル とは解釈 の集 合体であって,作
品の分類 と同 じ く,絶
対的な 価値 を付与で きない とい うことも指 し示 している。
ジ ャンル とは
,文
学作 品 と批評 活 動 に対 す る 価 値判 断 の歴史 的 な累積 で あ り,そ の意味で,そ れ を利用す る批評 とともに,本
来社 会 的 で,そ
れ故 政治 的で あ る。例 えば
,ノ
ー ス ロ ップ・ フ ライ(Northrop Frye)が
,「 ジ ャンル批評 の 目 的 は,分
類 よ りもむ しろ…伝統や 同族 関係 を明 確 にす る こ とにあ るJと
述 べ る とき,そ
の主張 の背景 には,ジ
ャ ンル論 が本質 的社会性 を帯 び た 批 評 理 論 で あ る とい う前 提 が あ る1。 ゲ イ リー・ ソール・ モ ア ソン (Gary Saul Morson) は,そ
れ故,文
学 ジ ャンル は種 々 の テ クス トと それ らを分類 す る批評家 との間 にあ る相 関的活 動 に よって生 み出 され るので あ って,「形式 的 な 特徴 とい うよ りは,解
釈 の慣 習 が,作
品 の ジャ ンル を決定 す るJと
述 べ て,ジ
ャンル批評 が批 評 家 の恣意性 に影響 され る とい う批判 を回避 す る と同時 に,文
学 ジ ャンル の根源 的社会性 と政 治性 を強調 してい るので あ る2。
II
ユ ー トピア を文学 ジャンル の一 つ として
,文
学 史上 に位 置付 ける際 には
,そ
の特異 な性格 を 考 慮 しな けれ ばな らな い。 ジャンル としての始 原 が 明確 で あ る とい う点 で あ る。 ユー トピア と は,
トマ ス・モ ア(Thomas MOre)が
自 らの作 品 にその名称 を付 したその瞬間 に,創
生 された ジ ャンル なので あって,例
えば,「 悲劇」や「叙 事 詩 」 の ようにその始原が推測 で きな いほ ど古 くか ら類型 の分類 が進 め られて きた,い
わ ば 自 然発生 的 とい って もよい他 のジ ャンル とは まっ た く異 なってい る。Eu topos「よ き場所」で あ りou―tOpos「 どこに もない場所Jで
もある とい うユ ー トピアの言語的 な特質 を抜 きに して,こ
の ジ ャンル を語 る ことは不可能 で あ る
3。
ジ ャン ル としての始原 もまた,作
品 同様 この言葉 の創 造 に負 ってい る。この始 原 の明晰
1生
は,
しか し,ジ
ャ ンル としてのユー トピア に奇妙 な性格 を付与 す る ことに
な った。例 えば
,
この言葉 が持 つ文学作 品 のタ イ トル として の始 原性 は,多
くのユ ー トピア批 評 家 が そ う して きた よ うに,そ
の ジ ャンル を文学 とい う特定 の芸術領域 に限定 す る傾 向の動 囚 となってい る
4。
また,始原 が明確 で あ るた め に,モ アの
Fユ
ー トピア』 には特権 的 な地位 が付与 され,い
わ ば この ジ ャンル に分類 され るべ き作 品 のモ デル とな って い る。 す なわ ち,ユ
ー トピ ア に関 して は,他 の文学 ジ ャンル とは異 な って,演繹 的論 理 が始源 的 モ デル の方 向へ収叙 す る方 法論 を要求 す る と同時 に
,帰
納 的 ジ ャンル論 が ジ ャンル の拡 大 的解 釈 を要 求 して い るの で あ る。従 って,ユ
ー トピア は,演
繹 的論 理 に よ る 収 叙 と帰納法 的論 理 に よる拡 大 を同時 に実現 す る こ とを求 め られて い る とい う点 で,極
めて特 異 な ジ ャンル とな って い るので あ る。この帰納 と演繹 とい う思考 方 向の差異が もた らす第一 の錯綜 は
,そ
の原 因が非常 に単純 で あ るに もかかわ らず,重
要 な ジ ャ ンル論上 の問題 を もた らしてい る。始原が明確 なた めに,む
しろ
,ジ
ャ ンル を決定 す るテ クスチ ュア リテ ィの 境 界 が 曖味 になってい るので ある。 われわれが ユー トピアの ジャンル を確定 す るた めに考慮 す べ き関連 す るテ クス トの多 くは,文
学 として の ユ ー トピアの始原 に よる制 約 を受 けて い ない。他 の ジ ャ ンル で あれ ば
,始
原 が明確 で ないた め に,
どの よ うなテクス トで あって も,あ
る作 品 の テ クス チ ュア リテ ィを構 成 す る こ とが で き る。正確 には,そ
う認識 して もか まわない と社 会 的 に認 め られ得 る。 しか しなが ら,始
原 が 明 確 で あ るが故 に,ユ
ー トピアの ジャンル論 を試 み る批評家 た ちは,テ
クスチ ュア リテ ィの始原 か らのずれ を避 けて は通 れ な くなって い るので あ る。この ようなずれ は
,通
時 的 な帰納法 を用 い よ う とす る ときに最 も明 らか にな る。形式 として のユー トピアの成立以前 に も,ユ
ー トピア,あ
るい は
,理
想 の地 をめ ぐるテ クスチ ュア リテ ィ が存在 していた。 モア以前 に,い
わ ゆ る「 ゴール デ ン・エイ ジ」 や「地上 天 国 (Earthly Para‐
―
‑100‑―イデオ ロギー的 ジャンル としてのユー トピア
(高橋
)dise)」 を描 い た 作 品 は数 多 い し,「 コ ケ イ ン (Cockaigne)Jと よばれ る作 品群 も存在 す る。こ れ らの多 くは
,モ
アの作 品の影響 を受 けていな いが,理
想 的 な生活 の状態 を描 いた テ クス トと して,ジ
ャ ンル論 上 の背景 に取 り込 まれ な けれ ばな らない。 当然 の ことなが ら,文
学 的 ユ ー ト ピアが始原 を持 ってい る以上,モ
ア以 降 について も彼以前 について とこの ような事情 は変 わ ら ない。 モ ア以 降 のユー トピア的 なテクス トの大 半 は,文 学作 品 として描 か れた もので はあ るが, ユー トピア的 な思想 を含 む社会 的 あ るい は政治 的論 文 は
,め
ず ら しい もので はない。 エ ンゲル ス (Fredrick Engels)が サ ン・ シモ ン (HenriSaint SimOn)や
フー リエ (Charles Fourier), オー ウ ェ ン(Robert Owen)の
社会 思想 をユートピ ア 的 と批 判 す る とき
,そ
れ は比 喩 で は な ぃ5。
それ らの主張 が社会主義 の理論 的発展 を目 指 すエ ンゲル ス に とって あ ま りに も理 想 主義 的 で あ り,実
現 不可 能 な「 どこに もない場 所 」 が 描 か れ てい るか らだ。また,ク リシャン・クマー(Krishan Kumar)が
ユ ー トピア文学 の通 時 的 発 展形 態 を論 じるにあた って,ベ
ー コ ン(Francis Bacon)の
科 学 思想,カ
ン ト(Immanuel Kant)や
ヘ ーゲル (Georg Wilhelm FriedrichHegel)の
歴 史哲 学,ロ
ック(John Locke)等
に よる ヒュー マニ テ ィーの発展性 の発 見,コ
ンドル セ (Marie」ean Antoine Condorcet)の 未 来観 の影響 を挙 げ るの は
,ジ
ャ ンル論 が帰納論を背景 の一部 とす る以上
,的
確 で あ る といわ な けれ ばな らな い6。
これ ら始源 か らずれた諸作 品 が,ユ
ー トピア とい うジャンル の枠組 み を形成して い るので あ る。
社 会
,歴
史,政
治 と文 学,そ
のすべ ての要素を包含 してい るが故 に,ユ ー トピアの定義 は,揺 れ動 いて い る。例 えば,OED(0カ ク′″
E堅
施カDゲθ励%α9)は
,ユ
ー トピア を こう定義 す る。1.サー・ トマス 。モア に よって描 か れた空想 上 の島で
,完
全 な社会 的,法
的,政
治 的 シ ス テム を享受 してい る。b あ る
i重
空 想上 の,決
して た ど り着 け ない ほ ど離 れた地域,国 ,も し くは,地方。2 政 治
,法
律,習
慣,お
よび,条
件 の各観点 か ら見 て,理
想 的 に完壁 な場 所,国
家,あ
るい は,条
件。b,実現 不 可 能 な理 想 的計 画 の こ と。特 に
,社
会改 革 に関す る計 画 につ いて用 い る7。
ダー コ・ スー ヴ ィン
(Darko Suvin)の
よ うな 批評 家 た ち は,
この定義 が文学 としてのユー トピアの輪郭 を全 く示 していない と批半」す る
8。
と い うの は,彼
らは「文学」 としてのユー トピア の定義 を精 密 に構 成 しよう として い るか らだ。しか しなが ら排他 的な演繹 モデルの導入 にユー トピアの ジ ャ ンル論 の特徴 を見 出 し
,そ
れ を批判 しよ う とす るな らば
,こ
のOEつ
の定 義 に見 られ るユ ー トピア の多義性 は,Fユ
ー トピアJと
い うモデルが 内包 す る言説 の可能性 を示唆 して い る とい う点で,む しろ着 目すべ き もので ある。引用 した
4つ
の定義 は,確
か に曖味で厳密性 を 欠 いて はい るが,曖
味 で あ るが故 にユー トピア の広義性 を明確 に示 して い る。それ に もかか わ らず
,ス
ー ヴ ィンの ような文 学 ユ ー トピ ア の研 究 者 は,文
学 的 要 素 だ け を ユ ー トピアか ら抽 出 して,文
学 として のユー トピアの ジャンル を確定 しよう と試 みて きた。 し か しなが ら
,長
年 の努 力 に もかか わ らず,文
学 的ユ ー トピアの輪 郭 は必 ず し も明確 にな って き てい ない。その理 由 はい くつか あ るだ ろ うが,ラ
イマ ン・ タ ワー・サ ー ジ ェ ン ト(Lyman Tower
Sargent)は,ポ
ス ト構造 主義 にいた るユー トピ ア に関す るジャンル批評 の潮流 を以下 の ように 批半Jし
てい る。あ ま りに も多 くの批評家 た ちが単純 に この
(文
学的ユー トピアを定義づ けるという)問題 を無視 してきた。あるいは,こ
のジャンルの「メインス トリーム」をなす諸作品についての み考察 を行 っただけで
,
この問題が解決 したか の ようなふ りをしてい るか
,膨
大 な文 学作 品 を無視 して解決 したかの ように振舞 って い るか の どち らか の態度 を とって きた とい って もいい。その結果 は,実
に不幸 な ことに,ユー トピア文学 を定義づ けようとした ほ とん どの 研 究者 が「メイ ンス トリーム」 の諸作 品以外 に は全 くな じみが ない といった ことにな って い る9。
サージェン トは,「膨大 な文学作品Jを無視す る 結果 となった ジャンル批評家 を批判 してい る。
しか し彼の意見 をポス ト構造主義以降のコンテ クス トに置 き換 えて もあながち的外れ とはいえ ないだろう。少 な くともユー トピアは
,広
大 な 周縁 を包合するジャンルであることを,わ
れわ れ は今確認 し,「ユー トピア文学Jと
は何か,あ
るいは,「ユー トピア文学以外のテクス ト」とは 何か
,
もしくは,そ
のような弁別 の可能性 の有 無 を再考 しようとしているか らだ。歴史的 にみて も
,多
くの批評家達 に とって,ユー トピアの定義 は困難であった。ユー トピア 文学 を取 り扱お うとした
,ニ
ュー・ ク リティシ ズムの潮流 を汲んだ構造主義以前の定義の多 く は,文
学的ユー トピア と政治的社会的思想 との 弁別 に困難 をきた した。例 えば,文
学ユー トピ アの最 も初期 の定義 は,ネ
グレイ (Glenn Neg‐ley)とパ トリック(J.ふ/1ax Patrick)による力ゞ,
彼 らは,「ユー トピアは人類が理想 を表現 した形 式 として
,他
の諸形式 と弁別 しうる」 と論 じた 上で,こ
う述べている。ユー トピア以外 の文学 の諸形式 な らび に思想 形 式 とユ ー トピア を弁別 す る特徴 は以下 で あ
る。
1,ユ
ー トピア は,虚
構 的 (nctional)で あ る。2 ユー トピア は
,特
定 の国家 あ るい は共 同 体 に関す る叙述 で あ る。3 ユー トピアのテーマ は
,そ
の虚構 的 な国 家,あ
るい は,虚
構 的 な共 同体 の政 治構造 で あ る10。
この ような定義 は
,ユ
ー トピアの文学 としての 特質 に焦点 を当て,伝
統的なユー トピアの定義 か ら拍象論 に踏み込んではいるが,「文学ユー トピア」 とは何か を求 める研究者 にとっては
,そ
れで もなお著 し く厳密性 を欠 いている。例 えば,
彼 らはこの定義で
,ユ
ー トピアの「 どこに もな い場所Jと
しての特性 を虚構 的 とい う言葉 に置 き換 える。虚構 と小説が等価でないの と同様 に,虚構 とユー トピアの持つその特質 は必ず しも一 致 しない。加 えて
,虚
構 とい うジャーゴンは,そ れ 自体が曖昧な意味 しか持 っていないので,混
乱 はさらに増 して しまっている。とい うのは,虚 構の定義 それ 自体が
,ジ
ャンル と同様歴史的に 揺れ動 いているか らだ。 ジャンルの社会性・政 治性 を認 めるモアソンは,こ
う述べている。虚構性 (ictionality)は
,文
学性(literariness)
と以下 の2点
か ら同種 の概 念 で あ る と判 断で きる。(1)あ
るテ クス トをノ ンフ ィク シ ョン で はな くフ ィクシ ョンで あ る として読 む こと は,そ
のテ クス トの記号論 的′性格 につ い て あ る種 の仮定 を してい る ことにな る。また,(2) 虚構性 は,形
式上 の特質 の問題 で はな く,む
しろ
,そ
の よ うな判 断や仮 定 の根拠 と結果 を 支 配 して い る一 連 の 慣 習 とい うべ き で あ る11。
構造 主義以前 のナ イー ブな批評家 の 目指 した限 定 的 なユー トピアの定義 が
,オ
ー ウェンや コンドル セのテ クス トを排 除す る こ とにあったのだ とすれ ば
,ネ
グ レイ とパ トリックは,こ
の曖昧 な虚構性 を根拠 に,そ
れ らの テ クス トを虚構 で はない と論 じな くて は な らな くなって し ま う。それ故
,ス
ー ヴ ィンは,「彼 ら(ネグ レイ とパ ト リック)は
先駆 者 として の限界 か ら免 れ ていな い」 と指摘 し,以
下 の よ うに批判 す る。虚構 の実現 によって いった いなにが生 ず るの か彼 らはそれ以 上 立 ち入 った話 を しな い し,
その うえ実際 の ところ彼 らは文学構造 とは関
‑102‑
イデオ フギー的 ジャンル としてのユー トピア
(高橋
)係 の な い社 会 政治 的概念 や構造 ばか りに注 目 し
,せ
っか くの定義 が,ど
こか宙 に浮 き,あ
ま りよい成果 をあげていない
12。
ネグレイ とパ トリックは,「特定の国家 あるいは 共 同体」の政治構造 をテーマ とす ると述べて,確 か にユー トピアか ら
,モ
ア以前の「ゴールデン・エイジ」「地上天国J「コケイン」の うち
,あ
る種極端 にファンタステ ィックな作品 を弁別 して はいる。 しか し
,モ
ア以降の正統的ではないか もしれないユー トピア的なテクス トの文学性 を 評価す る契機 についてはもちろん,結
果 として 彼 らの定義 は,プラ トン (Plato)の 『国家』の ようなテクス トと向 き合 う術 を放棄 している。構造主義以降の批評家 あるいは構造主義的な 思想 を先取 していた批評家たちは
,こ
の文学 と 非文学 の差異 を明確化す る意図をもって,ユ
ートピアの多面的な表層 と根源的に言語的な文学 ジャンル としてのユー トピアを対立 させ ようと 試 みた。構造主義 にあって
,文
学 とは,「
言語的 体 系 の中 に人生 と現 実 を包摂 す るJも
ので あ る13。
それ故,こ
れ らの批評家たちは,言
語構築 物 として,文
学以外の文字表現 と文学 を弁別 しようとす る。 その際 に最 も重視 され るのは
,社
会的で政治的な「虚構サ
l生 Jで
はな く自律 的存在 としてのテクス トの修辞的効果でなければな ら ない。 それ故,彼
らは,ユ
ー トピア的諸作品 を 文学 としての特定の修辞的 目的 を有 しているか 否かによって,文
学 と非文学 に弁別 しようと試 みた。すなわち,ユ
ー トピアには,『聖書』の言己述か らジ ョージ・オーウェル (George Orwell) の『
1984年
』のような作品に至 るまでの きわめ て広範 な表現形式が存在 しているが,それ は,文 学のいわば「虚構 の実現 によっていったいなに が生ず るのか」 とい う修辞的効果の有無 によっ て二重化 されていると主張 したのである。例 えば
,フ
ライに とって,文
学 としてのユー トピアは諷刺 の効果 と密接 に関係 している。彼 によれば文学ユー トピアは「メニ ッポス的諷刺」もし くは「アナ トミー」 に分類 されるべ きもの
であって
,ア
ナ トミー とは,単
一の知的パ ター ンに よる世界観 を提 示 す る散文 フィク ション(フ ライはいやいやなが らこの言葉 を用 いてい る)である
14。
当然の ことなが ら,フ
ライは,諷
刺 の機 能 をユー トピア に求 め る こ とにな る。
従 って, Varieties of Literary Utopia"と 題 した論文の中で
,フ
ライは,ユ
ー トピアその ものである理想社会 と作者 自身が属 している社会 の間にある価値観 のコン トラス トに「作者 自身 の社会 に対す る諷刺が内包 されている」 と主張 す るのである
15。
このフライの定義 は
,文
学作品が 自律的であ ると仮定す るな らば決定的である。諷刺 という 修辞 概念 を導入 す る ことで,わ
れわ れ はオーウェンや コンドルセのテクス トを文学か ら排除 す ることができている。 とい うのは
,確
かとこそ れ らは理想社会 を提示 す るけれ ども,作
者 に とっての現実社会 に関す る諷刺 を目的 としては いない,あ
るいは,少
な くとも第一義的な目的 としてはいないか らである。 また,ネ
グレイ と パ トリック以 降,厳
密性 を増 して きた定義 に よって,「ゴールデン・エイジ」「地上天国J「コ ケイ ン」な ども文学ユー トピアの領域か ら排除 されてきた。その結果,フ
ライにいたって,文
学ユー トピアの領域 は確定 したかのように思わ れる。
しか しなが ら
,言
語的な構造 に注 目するユー トピアの定義 は,ジ
ャンル としての始原 に,矛
盾 を持 ち込 まざるを得 なかった。帰納論である ジャンル論 は
,ひ
とたび演繹的な定義が前景化 すると,よ
り広範 なテクスチュア リテ ィを要求 す るか らである。すなわち,目 的論的定義 は,モ アの『ユー トピア』以降のモダン・ ユー トピア 文学 とそれ以外 の非文学 と位置付 け られ得 る ユー トピア的諸作品を,目
的論的に完全 に弁別 しな けれ ばな らな くなった ので あ る。モ ア は「ゴールデン・ エイジ」「地上天国」「コケイ ンJ に代表 され る諸作品が なかった ら,『ユー トピ ア』を描 き得たのであろうか。モ リス (William
Morris)の
『ユー トピアだ より』は,そ
のような諸作 品 の伝 統 を無視 して描 か れ た牧 歌 的 な ユ ー トピアなので あろ うか。 この ようなテ クス チ ュア リテ ィは
,ユ
ー トピアの修辞 的効果 に対 す る認識 を高 め られ るほ ど,読
者 に とってユー トピア的 な もの になってい る。モアの作 品以 降,その よ うな伝統 的で あって も正統 的 なユー トピ アで はな いテ クス ト
,例
えば,プ
ラ トンや啓蒙 思想家 た ちのテ クス トか ら,わ
れわれ はある作 品が ユ ー トピアで ある と読 む機会 を,む
しろ与 え られ てい るので ある。換言すれ ば,目
的論 的に文学性 が認 め られな くて も
,ユ
ー トピア という ジャンル の 中 に組 み入 れ られ る こ とに よっ て
,す
なわ ち,そ
れ らが ユ ー トピアで あ る こと に よって,必
ず し も正統 的で ないユー トピア的 作 品 は,他
の作 品 にユー トピア性 を付与 で きて い る。構造主義 は,こ
の よ うなジャンル の還元 的性質 を軽視 してい る。 この問題 を解決せず に 演 繹 モデル に収叙 しか けた 目的論 的定義 は,特
定 の修辞 的特長 を もってユー トピア とい う広大 な ジ ャンルの中 に
,
もうひ とつ男」のユー トピア を こし らえた に過 ぎないので あ る。III.
ナ イー ブな構造 主義者以外 の批評家
,
と りわけ
,ポ
ス ト構造 主義者 な らば,構
造 主義 的定義 が もつ排他的姿多勢 をさ らに厳 し く批半」す るだ ろ う。文学的ユー トピア と非文学 のユー トピアの 領 域 は,再
び それが厳 密で あ るが故 に,構
造 主 義 以 降 の批評 の対 象 にな りうるので あ る。 とい うの は,作
品 のテ クスチ ュア リテ ィが広範 に認 め られ るほ ど,二
頂対 立 的 なユ ー トピア批評 理 論 に限界 を見 出 さ ざ る を得 な くな るか らで あ る。 その最 も明 白な限界 点 は受容 の問題 として 現 れ る。「諷刺 Jは サ ン・シモ ンのテ クス トに とっ て 目的 にはなっていない けれ ども,そ
れ は,サ
ン・ シモ ン自身 に とってそ うで あ るだ けなので あ って
,テ
クス ト自体 が そ う読 まれ な けれ ばな らないので はな い。 プラ トンの 『法律』 を常 に 文 学 と対立 的 に読 む必要 はない。 この ような議論 は単純 に過 ぎる嫌 いが あ るが
,文
学 的 ユ ー ト ピアが非文学 にない何 か を持 って い る とい う観 点 で この両者 を弁別 しよう とすれ ば,
この両者 の相補性 に常 に付 き纏 う問題 を内包 してい る。この問題 を解決 す るた め に
,文
学 ユ ー トピア の定義 は,目 的論 を排除す る方向へ と進 む。スー ヴ ィンは,フ
ライ に倣 って虚構 とい う言葉 を用 いぬ よう気 を使 いなが ら,ユ
ー トピア を以下 の よ うに定義 づ けてい る。ユー トピアは
,個
別的な擬似人間共同体 に関 す る言語構築体であ り,そ
こでは,社
会政治 的制度,規
範,個
人間の関係が,作
者 の属す る共同体 よりもより完壁 な原則 に もとづいて 組織 され,オ
ールタナテ ィヴな歴史的前提から生ず る異化が この構築体 を支 える
16。
スー ヴ ィンは,「虚構
Jと
い う言葉 の代 わ りに「言 語構築体」 といい,「 諷束JJで
はな く「異化Jと
い う表現 を用 いて いる。言語構築体 とい う表現 を用 いなけれ ばな らなか った理 由 について はす で に述 べた。 スー ヴ ィンの定義 は よ くま とまっ て いて
,そ
れ 自体有益 で はあ るが,歴
史 的 な観 点 か らす る と最 も重要 な フライ との差異 は「異 化Jと
い う概念 を導入 した こ とで ある。 その役 割 に関 して,ス
ー ヴ ィン自身,エ
ル ンス ト・ ブロ ッホ(Ernst Bloch)を引用 しなが らこう述 べ て い る。「異化 の真 の機能 は
,あ
ま りにD‖れ親 し んだ現実 の上 に,衝
撃 的 な,距
離化 をお こな う 鏡 を さ しだす こ とで あ る 一― いや さ しだ さね ばな らない」17。
ttЦ述 の Varieties of LiteraryUtopia"で ,フ
ライ はユー トピアの諷刺 的効 果を,「無意識 に行 われ てい る儀 式 的 な慣習 を同種 の もの で あって も意識 され て い る もの に変 え る
Jと
表 現 していた。スー ヴ ィンは,文
学 的 ユー トピアの効果 を明確 に示 す もの として,目
的論 的 な色彩 の濃 い「諷i刺」 よ りも修辞 的 な効 果 を 明確 に示 す表現 で あ る「異化」 を定義 の根幹 に 導入 した とい える。しか しなが ら
,こ
の スー ヴ ィンの定義 におい‑104‑
イデオロギー的 ジャンル としてのユー トピア
(高橋
)て最 も注 目すべ きなのは,異化の導入 によって,
文学ユー トピアの範疇 は
,む
しろ拡大的 に解釈しうるとい う点である。スーヴィン自身が指摘 しているように
,異
化 はユー トピア物語 にのみ あてはまる修辞 的特長ではな く,フ
ァンタジー,SF,神
話 な どにも見出せ るし,と
りわけ,読
者 に与 える効果 を明示 した ことによって,読
者の 受容 によっては,文
学の伝統の範疇外 にあるは ずのテクス トもユー トピア文学 の系統の中にい つで も組 み込 めるようになってい るので ある。修辞的効果の明示 は
,ユ
ー トピアの拡大 とつな がっているのである。ルイ・マラン
(Louis Marin)の
定義 は,ス
ー ヴィンの定義 に見た文学ユー トピアの範疇 をさ らに拡大す る。マランはイデオロギーを「系統 的かつ,『鬱屈 した』形式の意識外 にある,表
象, 信 条,思
想 の システム」18と
整 理 した うえで, ユー トピアを「イデオロギーのイデオロギー的 批判である」と定義づ けている19。
マランは,イ
デオ ロギー とい う概 念 を導入 す る こ とに よっ て,特
定 の文学的修辞 的概念 をさらに排除 した のである。構造主義的な文学 によって文学の領 域 を確定す る帰納的な方途 は,マ
ランにあっては明快 な表現 によってむ しろ演繹 的 に排 除 さ れ
,そ
の一方,常
に帰納論 を排除 しない包括性 の局いジャンル論 に移 しか えられている。ユー トピアのジャンル論 は
,か
くして振 り出 しに戻 り,モ
アの造語 に帰着 してい る。ユー ト ピアの定義 はマランにいたって,構
造主義以前 の曖味な定義 と表面的には大差 ない もの となっ ている。イデオロギーのイデオロギー的批判 と してのユー トピアは,必
ず しも「主流Jの
作品 である必要 はない。文学ユー トピアは,「アナ トミー」あるいは「異化」あるいは「イデオ ロギー のイデオロギー的批半」」 とい うコンテクス トの 中に存在 しているには違いないが
,そ
の領域 は 決 して明確 にな らないのである。 それで は,コ
ンテクス トを形成 している動囚 は何か。マラン は
,ユ
ー トピアの批判力 は,一 方 は
,与
え られ た現 実 を歴史 的 な時間のな か,あ
るい は地理 的空 間の なか に配置 させ る こ とので きない あ る「 か なた」 に投影(形
而 上 学 的 に)す る ところか ら生 じ,も
う一 方 は,移 しか え
(換
喩 的 な)か
ら,す
なわ ち,表
現 された現実 とは異 な る強調,ユ
ー トピア的な隠喩 が生 みだす こ とを可能 に した類似 のモデ ル に
,そ
の強調が与 える新 しい分節化,か
ら 生 じる20。
と述 べて
,ou toposと
eu toposと い う二 つの 性格 か ら現 れ る弁証 法 的解釈 にユ ー トピアの批 判 力 を帰 着 せ しめて い る。 それ は明 らか にユー トピア とい う造 語 の多 重 化 され た意 味 で あつ て,ジ
ャ ンル論 の歴史 的観 点 か ら見 れ ば,モ
ア ヘ の回帰 に他 な らないので あ る。しか しなが ら
,
この よ うなジャンル論 の循環 的 な 回帰 は,単 純 な出発 点へ の回帰 で はない。わ れ わ れが手 に した ユー トピアの ジャンル論 は, ナイー ブなユー トピア論 にはなか った有益 な洞 察 をす で に含 んで い る。第一 には,ユ
ー トピアは「 アナ トミー
Jあ
るい は「異化Jあ
るい は「イ デオ ロギー のイ デオ ロギ ー的批判」 的 なジャン ル で あ る とい う認 識 論 上 の位 置 づ けが 明確 に な った とい う こ とで あ る。第二 は,マ
ラ ンが とりわ け強調 してい るように
,ユ
ー トピア は支配的 な イデオ ロギー を批判 す る政治 的 な言説 で あ る こ とを
,ジ
ャンル論 として告 白 しなけれ ばな らない とい う こ とで あ る。 そ して第二 は,
これ らはあ るテ クス トがユー トピア とい うジャンル に分節 され る瞬間 に,ジ
ャ ンル 自体 の弁証法的 解釈 に よって,認
識 論上 に現 れ る特質 で あ る と い う点で あ る。 これ らはニ ュー・ ク リテ ィシズ ム あ るい は構 造 主 義 の洗 礼 を経 て発 見 され た ジ ャンル の特徴 で あって,わ
れわ れ は この よ う な視 点 を もって再 びモアの作 品 に回帰 す るので あ る。IV
前 章 まで の ジ ャンル論 の歴 史 的経 過 に従 え ば
,ユ
ー トピア とい うジ ャンル を論 じる ときに は,文
学 とは何 か,社
会,歴
史,政
治 と文学 は いか に関わ ってい るのか を常 に意識 しなけれ ば な らない。そ してユー トピアが,社
会,歴
史,政
治 をいか な る場合 で もコンテクス トに持 た なけ れ ばな らない ジ ャンルで あ るな らば, また, こ れ を歴史 的 に概観 しよう とす る試 みが ジャンル 論 の 目的の一 つで あるな らば
,ユ
ー トピア を考 え る こ ととは,モ
ダニ テ ィあ るい はポス トモダ エ テ ィについて考 える ことと同義である。 とい うの は,モ ダニテ ィ とは,第一義 的 にはテ リー・イー グル トン (Terry Eagleton)が 述 べ る よう に
,真
実,理
性,科
学,進歩,普
遍 的 な解放 と い った「近代 思想 の特徴 としてみな されて きた もの をめ ぐる大 きな物語 (grand narratives)の こ と」 で あ り,ポ
ス トモダニテ ィ とは,そ
の終 焉 で あ るか らだ21。
この イーグル トンの主張が 的 を射 てい るの な ら,ユ
ー トピアは,
このグラン ド・ ナ ラテ ィブの提喩 となってい る。
ここで注意 しな けれ ばな らない ことが二 つ あ る。第一 は
,ユ
ー トピアが もっぱ らモダニズム の提 喩 で あ る よ うに考 え られ て きた こ とで あ る。確か に,ユ
ー トピア とい うジャンル には「真 実,理
性,科
学,進
歩,普
遍 的 な解放Jを
テー マ とし,そ
の実現 を目指 してい るかの ような作 品 が 数 多 く含 まれ て い る。 モ ア や ウェル ズ(HG.Wells)の
ロマ ンスか らオー ウェンや コン ドル セの社会理論 まで,
とか くモダニテ ィに密 接 に関係 してい るで あ ろう作 品 は枚挙 に暇が な い。 しか し,
この数 的 な多 さは,ポ
ス トモダ ン とい う芸術運動が,モ
ダニ ズム の時代 に比 して 単 に短 い こ とを指 して い るに過 ぎない。分量 の 多寡 に よって,ポ
ス トモダ ン的 なユー トピアの 存 在 が単純 に否定 されて はな らない ので あ る。第 二 は
,グ
ラ ン ド・ ナ ラテ ィブ とは,ィ
デォ ロ ギー的視点 か ら見 る際 には,狭
義 の グ ラ ン ド・ナ ラテ ィブ とその解釈 を抱合す るメタ的 なグラ
ン ド・ ナ ラテ ィブ を分 けて考 えな けれ ばな らな い とい う点 で あ る。 ポス トモ ダニ ズムが グラ ン ド・ ナ ラテ ィブは存在 しない
,あ
るい は,終
焉 した とい う とき,そ
れ は近代 思想 が掲 げて きた グ ラ ン ド・ ナ ラテ ィブの終焉 で あって,そ
の終 焉 を含 めたモダニ テ ィか らポス トモダニ テ ィヘ の変遷 の物語 で はない。 ユー トピアがモ ダニズ ム あるい はポス トモダニズム とい ったイデオ ロ ギ ー に関係す る以上,わ
れわれが グラ ン ド・ ナ ラテ ィブ とい う際 には,後
者 を含 む広義 の グ ラ ン ド・ ナ ラテ ィブあ るい はメタ 。ナラテ ィブ を 論証 の範 疇 に しな けれ ばな らな い。しか しなが ら
,ポ
ス トモダニズ ム とユー トピ アの関係 は,モ
ダニ ズム とユ ー トピアの関係 に 対 す る批判 に始 ま り,そ
れ は形而上学批判 とほ ぼ同義 とな ってい る。例 えばフレデ リック・ジェ イム ソン (Fredric」ameson)は
,「 ハ イデガー の よ うな哲学 は,我 々 の時代 にお いて は,フ
ァ ッ シ ョとか独善 的 とか まで はいか な くとも, 誤 り で あ り,イ デオ ロギー的,反
政 治 的 で あ る と」論 じた い とした上 で,こ
う述 べ てい る。ハ イデガー は
,形
而上 学 的 な,ま
た あ る絶対 的 な意 味,す
なわ ち,こ
の世 と自分 自身 の死 に対 す る我 々 との 関係 とい う意 味 にお い て は,真 実 を言 い当ててい る とも主張 した い。た だ し,そ
の真実 は,こ
の社会 にお ける我 々 に とって の真実 で はない。ここで言 う真 実 とは,「単純 に」形而上学 的 な もの
,つ
ま りはイデオロギー的 な もので あ る。ハ イデガーが真実 で あ りうるの は
,未
来 の社会,す
なわ ち,イ
デ オ ロギーの機能が,そ
の根源 で ある階級 区分 と ともにすで に廃止 されてい るユー トピア に おいてのみで あ る22。
ジ ェイム ソンの この ような主張 は
,ポ
ス トモダンのユー トピア に対 す る批判 を明 示 して い る。
この ような観点 か らす る と
,確
か にユー トピアは,ヒ ューマニズム
,社
会 主義,資
本 主義,ダ
ーウ ィニズム
,科
学 主義 の具体化 されたイデオ ロ―‑106‑―
イデオロギー的ジャンル としてのユー トピア (高橋)
ギーの比喩であ りつづけてきた。ポス トモダニ ズムにあって
,ユ
ー トピアは,形
而上学の機能 す る場,あ
るいは,モ
ダニズムが生 き残れ る場として批判 されてい るのである。
例 えば確かに
,ジ
ャンル論上「正統」な文学 作品 と分節 されて きたユー トピアは,啓
蒙主義 以降,一
見す る ところ必然的 に進歩す るユー トピア となっている。ユー トピアはモアやベー コ ンの作品に見 られ るように,ルネサ ンス時代 は,
ヨーロッパか ら離れた場所 に作者 と同時代的に 存在 した。 クマーはこれ らのユー トピアをプラ トン的で古典 的なユー トピア とよんだが
,そ
れ は,19世
紀以 降 のユー トピアが,よ
リダイナ ミックで動的な理想社会 を描 くにいたっている か らである。 クマーはその要因を,前
章で紹介 した よ うな啓 蒙 思 想 家 の影 響 と,メ
ル シエ (Louis Sebastian Mercier)が『2440年
』でユー トピア社会 を初 めて未来 に位置づ けた こととに 求 めている。 その結果,ユ
ー トピアは作者 の国 家の枠 を超越す る と同時 に,通
時的に発展す る よき時 (euchronia)と しての地位 を得 るにい たったのである23。 19世
紀以降のユー トピアは,決 して静的で不変の理想主義ではない。われわ れは
,前
述の定義の中でスーヴィンが慎重 に も「 より完壁 な (more perfect)Jと い う比較表現 を用 いていることに注意 を払 うべ きである。そ の意味でモダ ン・ ユー トピアは完全な社会 なの ではな くて
,将
来 に期待 されているよりよ くな り得 る社会 なのである。 この動的なユー トピア は,ユ
ー トピア自身の言語構造 によって構築 さ れた内在的批判能力 によって成立 している。す なわち,ユ
ー トピア とは第一義的に「 どこにも ないJと
いう認識論上の前提である。 この無土 地性 (placelessness)は,も
ちろん地理的,歴
史的あるいは時間的 に存在 していない とい うこ とを指 してい る。 しか し
,同
時に,ユ
ー トピアは「 よき場所Jであることを認識で きるよう
,読
者 に提示 されなければな らない。 この認識論上 の難題 を解決す る唯―の方法 は
,永
遠 に変化 し 続 けるユー トピアを描 くことである。今 この瞬間に「 よき場所」である と認識 されたある場所 は
,次
の瞬間にそうではな くなって,つ
まりどこにもな くなって
,さ
らに次の瞬間 によ りよい 場所 として認識 され る。 この繰 り返 しがモアの オキシモロンに適 うユー トピアである。 このよ うな決定 をず らし続 けるユー トピアの性質 は,それが「 どこにもないJ「よき場所」であるか ら とい う理由で,「よさ (goodness)」 を漸増 させ 続 けな けれ ばな らない こ とを示 唆 して い る。
ユー トピア作者が意図していようとしていまい と,「どこに もない」とい う条件 を満たすために は
,い
やお うな しにユー トピアは進歩主義 に加 担せ ざるを得ないように見 える。ポス トモダニズムは
,
このような進歩主義的 歴史観 を痛烈 に批半Jす
る。ポス トモダニズムは,「文化
,言
説,性 ,シ
ョッピング。モール,現
代 的 自我 の流動性,あ
るいは,社
会生活の多様性 といった現状のなかでのみ歴史 は とらえられ る と考 えてい るJか
らである24。
ジャック・アタリ (Jacques Attali)が「ユー トピアがすべての独 裁 の母 である」 とい うとき25,ま た資本主義が「歴史上最大 の生産力 によって,貧窮や重労働 の ない社会秩 序 をつ くりあげる夢 を可能 に した」
とユー トピアで あ るか の よ うに語 られ る と き26,ュ
̲ト
ピアはラディカル としてのポス ト モグニズムに刹那的な正当性 を与 えるものであ る。 自由なユー トピアは,資
本主義 の自由市場 を保障 し,拡
大 し生産 し消費 し続 ける余地 を与 えているか らだ。ユー トピアの持つ「人類的な 苦 しみ」に関す る解決のシナ リオ,「事態 はやが て解決 され るという信念」 は,ポ
ス トモダニストにとっては
,我
慢のな らない形而上学的 ドグ マなのである27。
しか し