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マルティン・ルゼルケの視座と実践〔上〕 −ドイ ツ改革教育運動の副奏曲−

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

マルティン・ルゼルケの視座と実践〔上〕 −ドイ ツ改革教育運動の副奏曲−

著者 岡本 定男

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 48

号 1

ページ 107‑115

発行年 1999‑11‑10

その他のタイトル The Viewpoint and the Practice of Martin Luserke [I] −The Accompaniment of German Reform‑pedagogical Movement−

URL http://hdl.handle.net/10105/1465

(2)

奈良教育大学紀要 第48巻 第1号(人文・社会〕平成11年 Bull. Nara Umv.Educ ,Vol.48, No KCult. &Soc), 1999

マルテイン・ルゼルケの視座と実践〔上〕

;・ 蝣IV‑Y一蝣?''!'い!・軒、'・I. '・・.ih

I.I‑ ト ・蝣:・']

(奈良教育大学教育学教室) (平成11年4月30日受理) キーワード:ドイツ改革教育運動、素人演劇、 「海の学校」

は じ め に

人間の生き方や社会全体の理解に関わる知の領域にあっ て、 1 960年代後半以降、アメリカの社会学的な批評 活動の中から起こったとされるいわゆる「ホスト・モダ ン」概念は、現代フランスの代表的哲学者ジャン‑フラ

ンソワ・りオク‑ル(Jean‑Francois Lyotard. 1924‑)

の言うモダンの根底にあった「大きな物語」の権威失墜 の指摘に象徴されている。

人々の気分や雰囲気までをも構造的に規定しうる資本 主義的「技術」や「システム」の生む「実効性」や「効 率」の現実的貫徹の中で、真理や自由や人間解放にその 社会的表現をみるモダンの「普遍的価値」が、例えは文 化や知の拠り所と関わっては、その多くの局面に於いて 根拠と実現可能性を失ってしまった、という指摘であ

^H

こうした把握は、 1 980年代後半以降のドイツ教育 学界に於いても一つの潮流として現れ、とりわけ、ドイ ツ教育史にあっての「改革教育運動」 ′ドイツ新教育運 動ノJ,の意義評価を一つの核として今日尚その議論の最 中にある。

こうしたドfツ教育学昇にあってのポスト・モタンを 巡る論議と積極的に関わっているディークー・レンツェ ン(Dieter Lenzen)は、ポスト・モダン論議を「教育 科学にあっての挑発」と捉え、自らの「反省的教育科学」

(reflexil‑e Erziellungswissenschaft)構築の道程に於け る̲封昌を以 トのように述べている。

「我々は、これ以上教育学にあっての新たな行為のあ りようなどを必要としているのではなく、認容 (zu‑lassen)のあり方を必要とLているのだ。 ・‑ (略)

‑・教育の領域においてはこれを『反省的教育科学』

と呼ぶことができようが、これは、 ‑ (略) ‑・科学者 や芸術家を、対象の上に立っものではなく、その意味 するものを把握するべく二重のことを行わしめるもの

107

としてたち現すO別ち、確証された教育的英知(pad‑

agogischesWissen)を壊そうとするのではなく、振 り返り、より良い知への態度を回避するべく身を屈め るということなのである。」(:;'

ドイツ教育学会前会長でもあるレンツェンのこの立場 は、教育史にあっての‑ルバルト(J・F・Herbart, 1776‑1841)以来の「美的なものの再現実化」し'Iという 理論的課題ともなり、例えば、レンツェン編で刊行され た著作『芸術と教育学』(1990年)のサフタイトル を「美学の道への教育科学つと題しているように、教 育と芸術との新たな関係への模索となって現れていると 考えて良い。こうしたレンツェン的志向は、先の 1980年代以降の「ドイツ改革教育運動」への新たな 視点からの研究の積み重ね51の機運を、今後一層高めて 行く一つの契機になるものと思われる。

ところで、ポスト・モダン‑の教育的対応論議の中で、

一つの関心として浮かび上かってくるのは、教育と神話、

或いは神話的なものと関わる芸術的なものの扱いに於け る教育(学)認識についてである。そもそも、モダニズ ムを人々の意識や言葉に最初に浮かひ上がらせた分野こ そ、他ならぬ芸術運動であった。芸術は、時代を先駆け るとともに、時代をテフ寸ルメする力を併せもっからで ある。しかし「芸術的表現は、存在や存在しつつあるも のの外見てはなく、生成しつつあるものの外見の更新」lY, てあり、わけても、それは、シンホルや象徴にあっての 神話的なものと関係してくる。「新たな状況を説明する ためには、新たな論f里ではなく、新たな神話と美学の現 実か必要なのであり」、「分析的理解の論理に対して、神 話は、全体としての生の過程と関わった様々なf解

(Einverstandms)を保持している」LT、からである。

一方、近年、ドイツ改革教育運動についての教育的関 心、わけても芸術教育運動に関する歴史的研究機運か高 まっている<8i

。こうした過程で、主として今日的な学校

(3)

108

圏 gサi 盟

改革の方向との関連で、本稿の主題であるマルティン・

ルゼルケ(Martin Luserke, 1880‑1968)への研究も重 ねられてきていると見て良いくリー。

以下にみるように、マルティン・ルゼルケは、ドイツ・

ワイマール期の芸術教育運動の一つの典型である「素人 演劇」の中心的開拓者であった。そして、今日的なポス ト・モダンの教育的論議の主題と関わって言えば、ルゼ ルケの教育実践の中心的課題は、人間の「生命力」

(Lebenskraft)の促進にあったのであり、さらには、

彼の創設になる「海の学校」の中心的カ1)ヰユラムは、

ルゼルケ言うところのまさに「神話的領域」としての絵 画であり音楽であり、そして何よりも「素人演劇」であっ たのである。

本稿は、今日では、教育者としてよりも物語作家とし て知られているというルセルケ′n',を、改めて創造的開拓 的教育実践家として捉え直し、その視直と実践を、今H 的学校改革と教育の在り方を探るための‑道標とするた めの試みであるLl

ここで、予め、本稿の構成を示しておくO

は じ め に

第l章 ルゼルケの軌跡と「海の学校」前史 第1節.軌跡

第2節.ウィッカースドルフでの教育実践 一以上本巻、

第日章 「海の学校」の意義と芸術教育 第1節. 「海の学校」の特質と意義 第2節. 「海の学校」の芸術教育

第日章 「素人演劇」の視座と実践 第1節. 「素人演劇」とルゼルケ

第2節.ルゼルケの「素人演劇」実践とその視座

お わ リ に

‑以上次巻(予定)

第l章.ルゼルケの軌跡と「海の学校」前史

第1節.軌 跡

前世紀末から始まるドイツにおける広範・多様な教育 改革運動を、初めて統一した発展的相のもとに傭撤する 契機を与えた‑ルマン・ノール(Herman Nohr, 1879‑

1960)は、その主著『ドイツにおける教育運動とその理 論』 (1 935年、第2版)の中で、 「教育改革運動」の

「第1節」を芸術教育運動にあてた。

ラングベーン(A・J蝣Langbehn. 185ト1907)によっ

てセンセーショナルな形で人々の耳目を集め、次いでリ ヒトヴァルク(AI fred Lichtwark, 1852‑1914)らによっ て引き起こされた今世紀初頭以来の学校内外に亙る芸術 的教育改革運動の時期を「芸術教育の第‑‑ゥ階」として 位置づけたノ‑ルは、青年運動によって始まり、それに 続く「芸術教育の第2段階」の代表的運動として演劇を 挙げ111、以下のような同時代的総括を試みていた。

「この運動もその源泉である芸術教育運動と青年運動 のI 二つが共に成長してきたことをはっきりと示してい る。ここでも他者の芸術に対する感受性と理解力を養 う教育にとってかわって、より高度の芸術を理解する ための基礎としても、自発的なものへの方向転換がお こなわれ、自分自身の表出が豊かに現存することへの 方向転換、また同時に、学級共同体レベルでの表出へ

向けての方向転換が行われる。 ‑ (略) ‑ しかし貢の狼煙が上ったのは素人演劇からであっ た。それは青で口重動のグルーフが彼らの仲間つき合い の新しい形式として再発,FlL、劇団を組んで国中を演 じてまわったような素人演劇であり、あるいはマルテ ィン・ ′レゼルケがその学校共同体においておこない、

その広範L#Jな教育的意義において思想性豊かにかつ情 熱的に首唱したような素人演劇であった。そしてここ でもまた重要なのは、あの発展、すなわち、単なる主 観的な突発や戯れ的な創作からはなれて個人をある客 観性の中‑と結びつけ、ばらはらになった生活をふた

たび新Lい態度において結ひ合わせるような法則へと 突き進もうとする発展であるoJllJI

1 9 3 0年前後における同時f‑舶勺証言としてノ‑ルが 指摘Lたドイツ芸術教育運動の第2段階の最も新著かつ 独白の蝕域としての「素人演劇」を主導したのか、他な

らぬルゼルケてあった。

このように、ルセjL,ケは、ワイマール期を主舞台とL た芸術教育運動の代表的存在の一人として名をなした 一 方、それから約60年後の今日のドイツに於て、 「現代 的体験教育学の開拓者」11Lの一一人であり、 「改革教育学の 最も特徴的な代表者」I]'Iという見方をされるようになっ

ている。

しかし、翻って、わが国のドイツ改革教育運動(ない し新教育運動)史の同時代的ないし今Ejにそる研究では、

ルゼルケその人とその活動や視点へのつぶさな紹介・評 価は、全く存在していない蝣15'。従って、まず、その軌跡 から始めることには、充分な意義か認められて良いだろ

つ。

以下では、年表風に、そのライフヒストリ‑の節目と 主な活動を素描しておこう。

1880年3月3日 マルテイン・ルゼルケは、 L1人

(4)

マルティン・ルセルケの視座と実践〔 Ll

兄弟の次男としてベルリンに生まれた。まもなく、

両親の信仰の関係で、公立学校ではなく、当時まだ 存在していたベルリンのヘルンフ‑クー派の私立男 子校に入れられた。この学校の自由な空気に支えら れ、友人達との話、詩、読書、そして遊びの中で、

ルゼルケの個性的性格が助長された。

一方家庭は、両親、とりわけ母親の強い信仰心に よる宗教色濃い環境の中にあり、 「どこから見ても 権威信仰に取り込まれ、厳格な信心に冷たく固めら れた楽しみ少ない小市民的世界」'lbiであった、とい う。親しく読み耽っていた文学書を母親にひったく られ、そのままかまどの火の中に投げ入れられると いう体験をしつつ、ルゼルケは、早くからゲーテや シェイクスピア等の古典文学に没頭した。

「私は、既に10歳からこっそりとシラーの戯曲 にのめり込み、 14歳でシェイクスピアの全集を内 的世界の嵐とLて味わった」117'、という。知的で自 由な学校と、頑固で粗野な家庭環境という捻れが、

かえって彼の芸術と教育への強固で創造的な意志と 資質を養う源となったものと思われる.

1 894年. この学校を終えて、 ‑ンフルクや北海 の島‑ルゴラントへ船で旅行する。ここで初めて海 をみて,強い感動を覚えるO 間もなく、オ‑バーラ ウジッッのニ‑スキ‑にあるへルン7‑クー派の全 寮制学校であるブ.]ユ‑ダ‑ウニテート(統一兄

弟)に入り、共同体のもつ友愛的雰囲気を知るo ここでの体験が、後の彼の共同体概念の源になっ たものと考えられるQ

1 900年. 2 0歳で、小学校教員試験に合格。ニ ースキ‑のペダゴギウム(ギムナシウム的な教員養 成大学予備学校)で、小学校教師としての実践に入

る。

1 90 1年.  1年間の兵役につくため、教育活動を 離れる。その後、先のペダゴギウムに復帰する。

これ以後、独学で、哲学と数学の勉強をする。

1 9 0 4年. より一層世界観的哲学的問題に取り組 むため、イエナに赴く。

ここでは主に、ドイツ新珂想主義の哲学者で、

「内観」を適した精神的生を全体として把握するル

ドJレフ・オイケン(Rudolf Ercken.1846‑

1 9 2 6)、人格に関する精細な心理学的体系的考 察を行ったルートヴィッヒ・クラ‑ゲス(Ludwig Klages, 1872‑1956)と深く交わり、か つ学問的議論を行った。

1905年. ゼミ休暇の3ケ月間に、ノルマンディ

‑を経て、ブルターニュへの徒歩旅行を行う。海の 経験体験か、ここで、ルゼルケにとっての世界観人 生観となる。後の舞踊・体育、そして、とりわけ音

109

楽との不可分のつなかりにおいて創造されることに なるルゼルケ独自の「素人演劇」の根本原理に、こ の内海的律動運動や海洋的ダイナミズムか据えられ

る決定的契機となったもの、と言って良い。

1 906年. 「イエナ大学では、オイケンか私を魅 了した。それに比し、へッケルの一元論は私を深く 失望させた。しかし、研究を発展させるには、私は 既に全体に年が行き過ぎていた。」、lPl

こうして、ルゼルケは、大学での研究に見切りを つける。そして、この年の春、 7週間のイタリア旅 行に出かけ、旅の間中、芸術と宗教に恩いを巡らせ、

しばらく中断していた教師としての本格的な将来を 考えた。

その際、イギリスのセシル・レディ(Cecil R‑

eddie)から直接のヒントと経験を得て、ドイツ最 初の「田園教育舎」 (Landerziehngsheim,イルセ

ンブルク所在)を開設し、新しい教育改革の成果を 上げつつあった‑ルマン・リ‑ツ(Hermann Lietz.

1868‑1919)の実践に期待を寄せ、友人への手紙を この旅先から書き送った。

「はっきりとは言えないけれど、悩みを克服する 新しい道かそこにある」′1りl

と。

旅から帰ると間もなく、実際、すぐにリーツの

「田園教育舎」 (‑ウビンダ所在)の教師となり、こ こで約半年間、ギムナジウム第4学年の数学教師と して勤めた。

しかし、この年の夏、グスタフ・ヴィネケン (Gustav Wvneken, 1875‑1964)、バウル・

ゲへ‑プ(Paul Geheeb, 1 8 70‑1 96 1)、

アウゲスト・‑ルム(August Halm. 1869‑

1 9 29)、そして、ルドルフ・エッシュリマン (Rudolf Aeschhmann. 1884‑196 1)とと もに、チュ‑リンゲンの森の中に、上級実科学校

「ウ、ィ ッヵ‑スドルフ自由学校共同体」 (Frビ1e Schulgememde Wickersdorf)を則るべく、リーツ から離れる。

1 910年. ヴィネケンとともに「ヴィッカースド ルフ自由学校共同体」の共同指導者であったゲ‑‑

プが、ヴィネケンと対立し、ウィッカ‑スドルフ自 由学校共同体から去り、オーデンヴァルト校を建て る。これを契機に、この学校所在の官庁であるザク セン・マイニンゲンの文部省が、ヴィネケンから指 導性を奪ったので、ルゼルケが最も若い教師として

「ヴィッカースドルフ自由学校共同体」の校長に昇 進する。時にルゼルケ、弱冠30歳であった。

1 9 1 4年. 第1次世界大戦が始まり、ルゼルケも

兵役につく。しかし、彼は、やがて、フランス軍に

(5)

110

岡 本 定 男

捉えられ捕虜となる。

1 91 7年6月. それがもとで、神経衰弱となり、

休養のためスイスへ送られた。その効あって、病気 から回復し、この年の秋には、再び、ウィッカース

ドルフに戻ることが出来た。

1921年. 一時ヴィネケンに譲っていた「ヴィッ カースドルフ自由学校共同体」の指導権が、ヴィネ ケンの男色的理由で州政府から再び剥奪されたこと で、ルゼルケの再三の校長就任となる。

1 924年. ルゼルケは、リーツの‑ウビンダ校以 来の共同実践者であるルドルフ・エッシュリマン夫 妻、さらには、ライナー、 ‑フナ‑、そしてマリ‑

フランケらの教師と共に、年来の独自的学校改革ブ ランを実現するため、はは18年間に亙った「ヴィ ッカースト、ルフ自由学校共同体」を去った。

1 925年5月1日. 「ヴィ ソカースドルフ自由学 校共同体」からの6人の教師、 3 0人の生徒と共に、

北海のユ‑スト島に「海の学校」を建てる。

1 92 9年. プロイセン文部省と「中央教育教授研 究所」の支持のもと、ルゼルケの「海の学校」に大 規模な劇場ホ‑ルの建設が始まるo ホール建設のた

めの宣伝旅行をかねて、ルゼルケの素人演劇は、ド イツ各地にその披露の場を得た。

さらにこの年、 「海の学校」を効果的に支えるた めに、 「海の学校外部共同体」が寄付金によってつ くられたO

「外部共同体雑誌」やユースト島の毎年の聖霊降 臨祭会議、さらには、ルセルケのしばしばuj講演旅 行か、 「海の学校」を外部社会と結ひつけた。, 1 930年. 初頭来、ヒトラー・ユ‑ケントと地方

ナチ党員の扇動の結果、ユダヤ人生徒と教師達が、

「海の学校」を去ったO

1 934年 「プロイセン国家政策教育会」によっ て、学校の建物や施設の引き継ぎが座礁したことで、

ルゼルナは、 「海の学校」を閉鎖することを決める,J 同年6月、彼の小運送船「クラーケ」で、北海やバ ルト海を廻った。その後5年間、 「船の夕べ」や冬 の港で、物語の語り手及び作家として船上生活をす

る.その間、最初の夏航海と最初の冬の仕事として の『‑スコ ゴイセン同盟水軍戦士物語』を書く。

これが、後に物語作家としてのルゼルケの地位を不 動のものとすることになる。

1 939年. シュレスヴィヒ・ホルシュタインの西 海岸にあるメルドルフに移住。戦争末期にウィルへ

ルム・フリットナー(Wilhelm Fhtner∴ 1889‑1990)

の招きで‑ンブルクに招かれ、学生演劇(シェイク スピアの『嵐』など。)を行う。

1 9 4 6年. 初頭以来、演劇活動を再開。キールの

教授部局が、ルゼルケにメルドルフ・ギムナジウム で素人演劇の為の特別教授委託を行う。ここで、素 人演劇という呼称を「メルドルフ演技法」へと変更。

こうした実践的活動は、 1 0年来継続された。

1 954年1月30日. メルドルフでの素人演劇活 動への特別な貢献に対して、 「連邦功労十字勲章」

(Bundes\erdienstkreuz)を受ける。また、シュレ スヴィヒ・ホルシュタイン州政府より、終生に及ぶ 謝金を受けることになった。

後に、バート‑ルツブルグ近くのヒュント‑イム (BunLIheim)で、青年指導者学校講座を主宰する。

1 957年. シェイクスピア舞台様式に関する彼の 最も重要な貢献である著作『ノヾン‑アポロン‑プロ ベロ シェイクスピア演劇のドラマツルギーについ て』を著す0

1 968年6月1日. 88歳てメルドルフに死す。

そのメルドルフ時代には、波の劇場人間学的考察に 関わる様々な遺稿集か年̲まれ、それは、彼の演劇理 念の継承者ヒルベルト・ギファイによって、 『アキ トゥル エ'L/ゴ ズム?』の表題のもとにまとめら れ出版されている。,

翻って、マルティン・ルゼルケは、 「現在では、教育 者としてより、むしろ作家として知られて」lルおり、 「い くつかの彼の物語作品は、今[]尚ii¥版され購入されて いる」J1,という。, Lかし、上記(略歴)に見る如く、

1 9 ∩ 6年春、研究志向を冊送LJ)末断ち切り、ヘルマン・

り‑ツの「目脂腰丈育舎」 (ノ、ウビング所在)に入り、本 格的な教師として歩み始めて以来約3 0年間、 ′レセルケ は、その生涯の若く実り多い時期をドイツの最も先進的 なI、if:校改革実践uTj渦中で、 I‑一貫して「教育者」としての アイデンティティーを保持しつつ、何よりも改革的教育 実践の主たる担い手として活動したのである。

従って、以下では、専門的な文学的創f竹舌動と、学校 演劇や素人演劇の創作・指導の活動を、卜‑タルとLて の改革的教育実践の中に位置づけた主たる場である「ウィッ カ‑スドjL/フ白山学校共同体」と自ら建設+̲導した「海 の学校」での「教育者」としての活動に視点を当て、そ の概要を捉えることにするO

第2節 ヴィッカ‑スドルフでの教育実践

1906年9月1日、リーツと快を分かって、新たな 地で、パウ>l ゲへ‑プとの共同経営を条件に「ヴィッ カースドルフ自由学校共同体」を設立したのは、ダスタ フ・ヴィネケンてあった。

ヴィネケンはやがて、ここでの実践を一つの足場とし、

1913年のホーエンマイスナー大会(Fest auf dem

Hohen Meiβner)にその象徴をみるドイツ自由主義舌

(6)

マルティン・ルセタレケの視座と実践〔上1

年運動に大きな理念的影響力を発揮することになる。彼 によって命名かっ新たな意味をもたされ一般に流布する こととなるいわゆる「舌年文化」 (Jugendkultur)概念 は、言うまでもなく、成人に対しての、そして社会に対 Lての固有な要求・生き方を求める独自の青年把捉を基 礎にしている。

例えば、ヴィネケンの青年把握と時代認識は、こうで ある。

「青年はその本質において、身体性(LビIblichkeit) と肉体感情の原理の担い手である。しかもこの感情は 今日、ひとっの歴史的発現を体験しているかゆえに、

現在はとりわけて青年の時代であり、青年と青年運動 の出現の時代でもある」:」

さらに彼は、当時のドイツの青年と教育、わけても青 年と学校との関係実態を次のように捉えていた。

「学校はもはや、青年の生活全体を支配していない,.

そして彼らn身の組織した生活か、学校に対抗してい るのである。学校は青年の関心を失い、彼らにと‑,て いよいよどうでもよいものとなった。」

こうした学校と青年との疎遠かつ閉塞状況を転換し、

「現在の青年の生活に代えて青年の新しい生活形式 (LebビnSf'onllen)をっくりたすこと」Jl、そのためにウィ

ネケンか創設したのかrヴf・ソカーストルフ自由学校共 同体」てあった、と言って良いO

そして今や、この「貢の完全な青年文化がしだいに発 見され形成される」J場とLてのウィ ソカ‑スドルフは、

青年が内発的かつ悼惜の念さえ覚えうる「指導者」を得 て、 「人格的な感性的交わり(pげsonhC・hビ Horel und Sehビn工 人格的帰依(pch1、sonhc・11ヒGefolgschaft)、さ らに人格的な信頼や愛や信奉」感を抱きながら、 「単な るH的同体や組織を越えて、人格的な生の共同体 (Lヒbens酢melllschaft)の新しい形式を求めて」‑"'L」々 の実践を積み重ねていたのである。

しかL、こ\て拝日すべきは、先の略歴で記したよう に、この「ウィッカースドルフ自由学校共同体」は、創 設数年後には、その共同指導者てあったゲ‑‑プが新た な独自の学校改革ブランを抱いてこゝを離れることとな り、それ以降、実際の学園運営や青年達との廿常的接触 の中心にいたのは、ウィネケンではなく、マルティン・

ルゼルケであったという点である。少なくともルゼルケ か、 「海の学校」 (Schule am Mビer)を則るべくこゝを 離れる迄のおよそ15年間、よりl上確には、 (1 9 1 4 年  917年秋迄と191 9年 1921年を除く) 実質約1 0年間、 「ヴィッカースト′レフ白山学校共同体」

の校長として名実ともにその中心にいたのは、ルゼルケ であった点である。ルゼルケ白身も興隆しっつあったド

ill

イツの改革的教育運動の一大推進力であった青年運動と 関わったが、ウィネケンが、青年運動を主とした社会一 般に対して肯するこの学園の意義・理念を対外的に代表 したのに対して、実際の日常的なこの学園は、ルゼルケ の指導と責任で運営されていたのである。

「ウィッカースドルフ自由学校共同体」の日課は、時 代によって多少の変化はあるが、極めて大雑把にみて、

午前は、朝食前の駆け足や体操、冷水浴、早朝音楽、朝 食後は、午後1時の昼食まで、各科の授業と全校作業。

午後は、自由時間やスポ‑ツ、グルーブに分かれての 活動(木」二金上製本、塑像、図画、理科実験、農業、

園芸等)。

夕食後は、談話、朗読、討論、音楽などの自主活動で あったIJTl。

以下に、この学園の実際とLて、アメリカの研究者か、

直接参観訪問したときの様子の一端を見ておこうo

「毎H夕方の数時間は、学校全部が、殆ど音楽で満た される。生徒が自ら歌を歌い楽器を奏して楽しむもの もあれは、教帥仲間のr二部四部の演奏用もあるO 或い は教師/口走と一緒になってコ‑ラスやタンスをする。

音楽はどれもレベルの高い高尚なもので、ややもすれ ば生徒は、巷の低調なンヤズ的なものを好みがちだが、

教師はそれを禁止しない。それでいて、かれらの音楽 的情操は、いっのまにか醇化され、高尚なものか釦ざ れるようになる。こ、に彼らか成功を収めている証拠

aia聞

この観察記にも、一種の驚きと感銘の響きか込められ ている感があるか、実際、この学園の特質てあり中心を 為したのは、サィネケンの言う「青年文化」の中核とし ての芸術活動であった,J 「芸術はまさLく、精神世界の 核心十11である、と捉えたり、ィネケンのこの学園創立の 理念は、校長ルゼ,Lケや一級LD音楽教師であったアウク スト・‑ルムという優れた教師を得て、初めて現実のも のとなったのである。今口に於けるドイツ改革教育運動 の包括的研究者を代表するへ′レマン・レ‑Jレス(H c.rmと1nn Re‑Lhrs, 1915‑)も、この点に触れ、

「‑′レムやルゼJL,ケのような 二人の偉大なミューズ的 青年教育者が互いに補い合って青年の学校の形成に協 力したということ、このことは疑いもなく幸運な出来 事であった」l小l

と評価しているか、 「ヴィッカースドルフ自由学校共 同体」は、真体的内実を支えた中心にマルティン・ルゼ ルケかいたことによって、その歴史的意義を一層大きな ものとしていた点を見落してはならない。

この点をルゼルケとの関わりで、いま少し貝休的に捉

(7)

ill匹 用 木 蝣a '')

えておこう。

今日的時点に立って振り返ったとき、 「グィッカース ドルフ自由学校共同体」の際だっ特質ないし優秀性は、

教育内容としての「学校の全生活にあってのその緊密な 絡み合いにおけるミュ‑ズ的教育」当こあり、さらに言 えば、 「身体とミューズ的活力との結合によって初めて 可能となった精神的なものの実現」1,3ノという志向性にあっ た、とされている。このことを学園は、先に記したよう な日々の日課によって、即ち、朝食前の持久走、午後の 球技を含む各種スポーツ、夕食後の語りや苫楽などによっ て証した。学園全体が、いわばイベント的に催した音楽 会、わけても歌や踊り、そして即興的な「素人演劇」の 競演で盛り上がった祭りや祭典の中に、その「ミュース 的活力」を凝縮的な形で発揮した。そして、言うまでも なく、こうした活動の中心にいたのが、校長マ1レティン・

ルゼルケであった。

ルゼルケ自身、この学校で、国語、歴史、数学、そし て宗教科を教えた。しかし、ドイツ全土にあって、既に

「創造的青年演劇の主唱者として広く世間に知られ」lL‑う,

「2 0年代には、最も有名な学校演劇・青年演劇教育学 者になった」'illとされるJL,ゼルケの「『オールラウンドな スタイル』の最初の試演が行われた」IJ^lのも、このウィッ カースドルフ時代であった。

ルゼルケは、その独自の「素人演劇」を、正規の授業 の中で、また学校生活全体のほとばしりの中で創造発展 させたのである。一方、ルゼルケは、 「ヴィッカースド ルフでは、 『祭りと踊り』で知られており、古楽的興業 を指導」く36、したO

こうしてルゼルケは、ドイツ全体の演劇教育運動の理 論的実践的指導者であったのみならず、学校運営上の責 任者であった。そして、また一万で、自らの学校に於け

る教育実践上の中心的オルガナイザーでもあったのであ る。

以Fは、そのひとっの例証とLての「ヴィッカースド ルフ自由学校共同体」にあってのルゼルケと生徒たちの 交流、そしてルゼルケの教育者としての自然な発露が描 かれた記録である。記録者は、ルゼルケのもとで、 「ヴィッ カースドルフ自由学校共同体」の教師であったアルフレッ

ド・エーレントライヒ(Alfred Ehrentreich)。

「祭りの中にあって、 3月3日、ルゼルケの誕生Rは、

特別の役割をもった。校長は、 『不在』として周知さ れ、学校共同体は集会を開いた。まだ全く朝にもなら ない3時過ぎには.もう誕生F]のチビも達にフルート のセレナーデや合唱曲が贈られた。

ルゼルケは輝いてみえ、友人達の貞ん中にいてとり わけなごやかな気分にみえた。ピッベルスドルフ谷を 遥かに眺める森の広場まで、闇と野原を縫っての静か な行進が始まり、重なる山並みの輝く舞台が現れた。

皆か静かに休み、カッコウの鳴き声と最初の烏の声に 耳を澄まし、 5時になって太陽が縦の梢を通して暖か い光を投げかけるまで、バイオリンの音色が流れた。

このとき、 ′レゼルケが、 『タニルとクークはどうし て人間になったか』という彼のインディアンと蛇の話 を語った。いずれの誕生日にも彼は彼の『テント物語』

の第1巻として出たこのシリーズ(プレ‑メン、

1 9 2 5年)の新しい作品を披露したO学校共同体は 大きな緊張を伴いっつ1年間の継続を待つのである。

暖かい光が後ろの壁を包み、音楽ホ‑ルにはバッ‑

のトッカータが響いた。もちろん食堂は、朝食ともな るとブナの縁と花とロ‑ソクで華やかに飾られた。

こうした朝の経過の後には、乍前の休憩と自由時間 が続いた。

午後5時半になって漸く2時間の大衆娯楽、闘鶏、

ソーセーシつかみ、 「オリンピアの馬車競争」といっ たスポーツ的遊びか行われた。戦い取られた賞占占は夕 食で分けられた。モーツァルトの三重奏で祝われた後、

外の開墾地で大きな火が焚かれ、降り注ぐ流星に輝く 鵜の木を映し出した。ルゼルナ白身か、その決定的記 念日に挨拶をした。」'37'

こゝにわれわれは、 1920年代初頭の、ヴィネケン のではなく、名実ともにルゼルケの「ウィッカーストル フ自由学校共同体」の生きた姿か情感豊かに描き出され ていることを明確に読みとることができるであろう。

こうして、 「ヴィッカ‑スドルフ自由学校共同体は、

1 5年の間に精神の領域にあって、より実際的な青年 の国‑と発展してきた」l粥のである。

しかし、 1921年のこの論文(「若者自身か維持す る、青年の同」、雑誌『行為』、 1 92 1年、第7分冊所 収)に、ルゼルケ白身が「実際的な青年の国」といささ か自負して位置づけたウィッカ‑スドルフも、間もなく ルゼルケにとって、必ずしも十全な教育実践の場ではな

くなって行った。

端的に言えば、その原因は、創設者であり、かつ、対 外的にではあっても、この学校を代表する立場に立とう

とする姿勢を持ち続けたヴィネケンとの葛藤にあった、

と言える。

1919年から21年まで、ルゼルケから校長の地位 を譲られていたヴィネケンは、男色的理由をもとに州政 府から「ヴィッカ‑スドルフ自由学校共同体」の指導権 を奪われた。このとき、ルゼルケは、自分の再々に亙る 佼長就任に際して、ヴィネケンが、もうこれ以Lヴィッ

カースドルフ自由学校共同体に対して外的悪影響を及ぼ

さないことを前提としていた。しかし、この前提は、結

果として保障されなかった。外側にあってのヴィネケン

の直接間接の学校への言及・影響は、良きにつけ悪しき

(8)

マルティン・ルゼルケの視座と実践〔上」

につけ、やはり無視できる程度のものではなかったから

て.fs・;.

しかし、それと並んで、両者の青年観、学校運営観に は大きな隔たりがあった。

社会や成人文化と独立しつつ、その普遍的とも言い得 る位置や課題を常に根底に置くものとしての青年把握、

「指導者とともに、自己の精神的修練(innere Diszi‑

plin)」に耐え得る、 「貞に神の戦士(Kriege des Lト chts)たるに値する者」("'としての青年像。ヴィネケン

の念頭にあったのは、こうした青年観であった。

そして、その「青年文化」概念の中核を為す芸術につ いても、

「芸術は生の中にとけ込むべきものではなく、生に寄 り添い、かつ生の上にその神聖な場(Heiligtum)を 保持し、しかし同時に併せて全体的生に対して一種の 高度なる知(Gewissen)たるべきである」(41'

と捉えていた。

こうしたいわば、へ‑ゲル主義的観念的青年・芸術 把握に加えて、ヴィネケンは、理念のみならず現実的 カリスマ性をもって青年達と接していた点に、ルゼル ナとの決定的相違があった。

ペ‑クー・ベーターゼン(Peter Petersen. 1884‑

1952)は、ヴィッカ‑スドルフでのヴィネケンの印象 を捉えて、

「残念なことにヴィネケンは、 ・‑ (略) ‑青年を現実 に自由にするには余りに悪魔的な指導者である。彼は 青年を自らの理念に、催眠術的作用の力のもとに押し 込んでいる」'12i

と指摘したが、当のヴィネケンは、このカリスマ性 との関連を、以下のように積極的に肯定していた。

「指導者とは運命のたまもの(erne Gebe des Schick‑

sals)である。指導者を作為的につくりだすことはで きないし、人を任意に指導者に任ずることはできない。

指導者は、人々の選択ではなく、彼自身のか)スマに よって決定される。指導者は精神的現実である。この 精神的現実を感叙する器官をもっていることか新しい 青年の固有性であり、この固有性を認識したことが自 由学校共同体の成果なのである。」 lil

ヴィネケンが、理念的カリスマ的指導性を意識し振る 舞ったのに対し、ルゼルケは、実践的同志的創造性をもっ て教師や青年達と交わった。又、ヴィネケンの固有な把 握と命名になる「青年文化」概念に対しても、

「『[7律的青年文化』というヴィネケンの主張に対し て、あらゆる生き物の律動的発展と関わる系統発生的 個体発生的なルゼルケの概念は対立していた」′llJ

113

といわれる。

既にみてきたように、ヴィネケンにあっては、一つの 計画であった「学校共同体」の恩恵、さらには、ヴィネ

ケンにあっては一つの理念に過ぎなかった新しい「身体 感情」や「共同体感覚」を、「ヴィッカースドルフ自由 学校共同体」に実際に貝体化し根付かせたのは、音楽教 師アウダスト・‑ルムや校長マルテイン・ルゼルケであっ

たのである。

こうして両者の理論・実践、そして学校運営に関わる ずれや摩擦が次第に大きくなり、既に略記したように、

ルゼルケが新天地を求めてこの地を離脱することで、

「ヴィッカ‑スドルフ自由学校共同体」の実り多い一時 代が終わったのである。

以下〔下〕へ続く

(1)ジャン‑フランソワ・リオタール、小林康夫訳『ポ スト・モダンの条件』、水声社、 1986年. 「訳者 あとかき」参照.

( 2)「Reformpagogik」 (改革教育)の訳語を巡る平野 正久の問題提起(例えば、平野止久他、 H・ノール

『ドイツの新教育運動』明治図書、 1987*F. P P. 31‑36.参照)があるが、筆者は、その把 握を基本的に肯定しつつ、こゝでは従来の訳語「改 革教育」を用いることにする。

( 3 )Dieter Lenzen, Padagogisches Risikowissen, Mythologie der Erziehung und Padagogische Methexis. in. Dietrich Benner u.a.Chrsg.).

Zeitschrift fur Padagogik. 27 Beiheft. 1991.

S.123.

( 4 )vgl. Dieter Lenzen, Die erziehungswissen‑

schafthche Aktualitat des Asthetischen.

Sonderdruck. S.of.

(5)近年の最も代表的と思われるものとして、 Jurgen

Oelkers, Reformpadagogik. Erne kritische Dogmengeschichte. 1989. Heiner Ullrich, Die Reformpえdagogik. Modernisierung der Erzie‑

hung oder Weg aus der Moderneりin. Dietrich

Benner u.a.Chrsg ), Zeitschrift fur PAdagogik.

Jg.36. 1990. SS.893‑918.

( 6 )Cnstoph Wulf, Asthetische Wege zur Welt.

Uber das \'erhaltniss von Mimesis und Erziehung.

m. Dieter Lenzen(hrsg.), Kunst und Padagogik.

1990. S.58.

(7)ともに、 Gert Mattenklott, Gibt es erne erzie‑

hensche Dimension der Kunst nach der

Moderneワin. Dieter Lenzen(hrsg.), Kunst und

(9)

114

岡 本 定 男

Padagogik. a.a.O. S.134.

(8)例えば、こゝでは、その比較的新しいものの一つと して、 Claudia Solzbacher, Die ̀Kunsterzie‑

hungs Bewegung. Historische Einordnung und aktuelle Beziige. in. Gerhard P. Bunk u.a.

(hrsg.), Padagogische Rundschau. Jg.47. 1993.

を挙げておく。

(9)例えば、近年のうちでは3冊、 Karsten Kroger, Der Beitrag Martin Luserkes zur reformpad‑

agogischen Bewegung. 1984. Jorg Ziegenspeck (hrsg.), Martin Luserke. Reformpadagog‑

Dichter‑Theatermann. 1990. Ulnch Schwerdt, Martin Luserke. 1993.を、代表とLて示しておく。

(10)代表的長編物語だけでも5冊、小説・物語集1 1冊、

脚本(隻)約70本を書いて、今日でも、ドイツ北 部を中心に、作家としてよく知られている。

(1DH ノ‑ル、平野・大久保・山本訳『ドイツの新教 育運動』明治図書、 1987年. PP. 118‑1

2 7.

(12)同上、 PP. 127‑12

(13)Vgl. Herbert Giffei, Martin Luserke. Ein Wegbereiter Der Modernen Erlebnis一画dagogik?

1987.

(14)COrnelia Godde, Das Laienspiel als Ref‑'orrnpad‑

agogisches Element. 1990. S.15.

(15)翻訳の簡単な注釈としての紹介は、前掲, H・ノー ル、平野・大久保・山本調『ドイツの新教育運動』

明治図書の訳注(P. 230)及びF・カルゼン、

小峰総一郎訳『現代ドイツの実験学校』明治図書、

1986年.の同じく訳注(P. 266)等で為さ れている。

尚戦前に於いて、ルゼルケに触れているものは、や はり前掲,尾高豊作『独逸の新教育運動』 (刀江書 院. 1 9 3 2年)と小川正行『独逸に於ける新教育』

(目黒書店、 1928年)等がある。但し、前者は、

Thoillas Alexander and Beryl Parker, The New Education in the German Republic. 1929 の翻 案的紹介であり、後者は、ヴィッカースドルフ自由 学校共同体校長としてのルゼルケへの言及に限定さ

れている。

(16)Martin Luserke, Landnahme und Weiterfahrt.

in. Will Vesper (hrsg.), Die Neue Literatur.

1936. Jg.37. Heft.6. S.326.

(17)ibid. S.315.

(18)ibid. S.316.

(19)Dieter und Ursula Luserke (hrsg.), Nach Suden Nun Sich Lenken. 1985. S.25.

(20)ウォルター・ラカー、西村稔訳『ドイツ青年運動』

人文書院、 1985年. P. 277.

(21)COrnelia Godde, Das Laienspiel als Reformpえd‑

aerogisches Element. 1990. a.a.O. S.18.

(22)G ヴィネケン、鈴木聡訳『青年期の教育』明治図 書、 1986年. P. 169.

(23)同上、 P. 134.

(24)同、 P. 132.

(25)同、 P. 135.

(26)ともに、同上、 P. 182.

(27)M. Luserke, Em Land der Jugend, von der Jugend selbst erhalten. in. Die Tat. Jg.13.

Heft. 7. 1921 S.34.及び小川正行『独逸に於け る新教育』目黒書店、 1928年,前掲、 pp. 1 42‑143参照.

C28)Thomas Alexander and Beryl Parker, The New Education in the German Republic. 1929. P.200.

(29) G ヴィネケン、鈴木聡訳『青年期の教育』、

前掲. P. 177.

(30)Hermann Rdhrs, Die Reformpadagogik. 1980.

S.134.

(31)Erich Weniger, uber die gegemvartigen Aufgaben und Moglichkeiten der Landerzie‑

hungsheime. m. Die Sammlung. Heft.5. 1950.

S.239.

(32)Her、mann Rohrs, Die Reformpとidagogik. a.a.O.

S.134.

(33)Jdrg Ziegenspeck, Vorwort des Herausgebers in. Herbert Giffei, Martm Luserke. a.a 0. S.I.

(34)Hei、bert Giffei, Martm Luserke. a.a.O. S.22.

(35)COrnelia Godde, Das Laienspiel als Reformpad‑

agogisches Element, a.a O. S.54‑55.

(36)ibid. S.126.

(37)Alfred Ehrentreich, Padagogische Odyssee. 1967.

SS.104‑105.

(38)M. Luserke, Ein Land der Jugend, von der Jugend selbst erhalten. a.a.O. S.517.

(39)vbl. Herbert Giffei, Martin Luserke. a.a.O.

S.10.

(40)ともにG・ヴィネケン、鈴木聡訳『青年期の教育』、

前掲. P. 130.

(41)Gustav Wyneken, Schule und Jugendkultur.

3Au仕1919. S.158.

(42) Peter Petersen, Die Neueuropaische Erziehungsbewebilng. 1926. S.58.

(43)G ヴィネケン、鈴木聡訳『青年期の教育』、前掲.

P. 1 82.

(44) Herbert Giffei, Martin Luserke. a.a.O. S.9

(10)

マルティン・ルゼルケの視座と実践〔上〕

The Viewpoint and the Practice of Martin Luserke [I ]

‑ The Accompaniment of German Reform‑pedagogical Movement

115

Sadao OKAMOTO

(Department of    , Nara UnaJersity of Education, Nara 630‑8528, Japan) (Received April 30, 1999)

There has been raised the tendency to the study about the art′istic movement especially after 1980s in

Germany. I understand that it is connected with the discourse about Post‑Modern. Dieter Lenzen, the former President of The Pedagogical Society in Germany, advocates his own 'reflexive educational science' with

these arguments. He also emphasizes the relationship between pedagogy and mythology or t′he artistic in

educat′ion.

Mとirtin Luserke (1880‑1968) was one of the characteristic and influential leaders m the German artistic

movement. He has done a remarkable achievement especially m the establishment of the ̀amateur play' by the vouths. He has been holding many stages in his schools before and after the time of the World War I He has practiced , so to speak言n a mさ‑thological idea.

I think it is very important to study about Luserkes achie1‑ements for this reason, as the practice of Luserke has not been studied in our country.

Therefore I will describe his life history at first, and then I will examine his role and his position in ̀the

free‑school communitさ, vvlckersdorr in this volume.

くto be continued,、

Key Words : The German Reformpedagogical Movement, The Amateur Plal‑, ̀The school of bea'

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