奈良教育大学学術リポジトリNEAR
大和高原奈良盆地間の役牛の移動
著者 堀井 甚一郎
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 4
号 3
ページ 63‑77
発行年 1955‑03‑19
URL http://hdl.handle.net/10105/5017
大和高原奈良盆地間の役牛の移動
堀 井 甚 一 郎 目 次 A 序 説
B 役牛の飼育数移動数
C 移動牛の所有者糾とその変化
1所有者奈良盆地の斗(預け年・借年)
甘.所有者高原のヰ(賃牛・野牛・箕ヰ)
D 役牛の性別とその変化 E 移動の季節と期間 P 移動の範囲と通過碑遭 G 貸賃と土産物
A 序 説
本県の北部て蚊天和高察と奈良免職とが東西に並んで位し、両者は自然環境社会環壁によって 夫々興った職域性を示している。天和高原且笠違山脈の南部を占め海技4C0−500mの高原をな
し気障やや冷掠な地域で、気温は盆地より数要低く、地形は高原性でその緩慢な起伏を利用して水 田畑地山林を併せ経営する山間農地区の特徴を示している。これに対して奈艮魚地は40〜10cm の沖積層よりなる低乎な盆地で−一般に地味肥沃克検温和で.占 釆我が国文化の中心をなし、交通集 落も早くより発達し人口密度大で栖度の集約的巣業が営まれている地儀である。
かくの如く農葵経営様式に葺橙のある・大和高原の山間農地区即ち通常象地より東山中と呼んで いる地域と奈良盆地の平坦奥地F即ち通常高原より国中(くんなか)叉は平坦と呼んでレ、る地域と の間には気峡等による農繁期のずれを巧に利用して従来より種々の労力の移動が行われて来た。
明治時代、大和高察に製茶薯が盛んに.営まれていた頃にはその労働力の不払を補う為め奈良象.地 から多数の茶摘女や茶姉が季節的出様に移動したものである。しかし大正時代養蚕業が盛となり、
製茶も根城を利用する手こ及んで.この移動は姿を治すに至った。一一・方奈良盆地の農繁期特ンこ6月の 田板塀には労力が不足する故現在に於で可志摩半島の海女の他天和高原よりも多数の労働力を提 供している。(昭和27年度高原よりの移動級数430人の内盆地へは389人90.4%)卦こ両地域の 農繁期の差麓を利鞘して畜力の不足を補う為め役牛の移動が盛んに行われ、・一頭の牛を両地域で 交互に使用する具象の経済生活に注意すべき現象が行われている。わが国として昔から「鞍下制 度」と称せられたので、香川県の「かりこ隼」徳島県の「米牛」、石川県の「田馬」、富山県の「手間
塙」、長軸県のH乍馬」等各増に行われていた制度である。今帆披圭として∵大和良尿を中心とし て高原と儲地間の役牛の移動に就いて詳しい考察をする尊lJこした。
声†役牛移動の調査は本県教育要員会≒健の昭和26年変綜合文化調査を天和高原部介野付地区 に行われた際に始めたもので、その後高原全地域に亘り調査を打った結果である。この調雇に当
り資料を梶供して∵下さった高原の各中小学棟の関係二桁こ感謝の意を未する攻第である。
B 役牛の飼育数と移動数
天和高炉を中心に役牛レり飼育数を見るに高原の13付、(註、特言巳するものゝほか昭和27年瑛在の行 政区画による、その他の地方に於てもまた同r〕即ち山辺郡部介野、耐性、針が桝所、東里、豊原、波 多野、添上郡田原、東山、東里、狭川、天柳生、柳生、月瀬の各村の餉青年つ合計汚.2629頭
〔昭和27年7月調香 第1竜参照〕に及んでいて県下の農相としては他地方よりせ、こ盛んである。
これは高原は奈良魚地の平坦地区や吉野山地の山岳林業増区より地形に緩かな起伏をなし革寮が 割合多く家畜の飼料が豊富なる故攻第に飼育が増加するに至ったのである。
第1衰 大和高原の役牛 昭和27年7月 x移動午なき村
註 昭和二七年初賓の移動を基鞄として調香︑行政区画も同年現在とする︒
高原中その北部に伍する狭川、柳生、月瀬の三村は役牛の移動を見ない故これを陵き、移動午 を飼う10村に就いて見るに〔第1去象照〕その飼育数2244頭の内各村内特牛は1921頭(金 銅青年の85.7%)村外特牛即ち盈嘘よりの借隼323頭(14.3%)で以前は後者が多かった が近年前者の数が増しつ1ある。攻に各村内特牛中貸年は531頭(郎司育牛の23・7%)貸さ
ぬ隼は1390頭(62.0%)で賢帝は貸さぬ生の半ばに満たないも、移動の盛んな高原南西部の 都介野、幅任、針ガ別所の3村では質草の方がはるかに多数を占めている。更に移動する借年の 合計は864頭(38%)の多数に達している。移軌隼の総数に就でも蹄記の都介野、福住、針ガ 机所に多く、夫々347頭(移動年総数に対し4ぐ・5%)198頭(23・1%)、118頭(13・8
%)を占めている。この3相は凍豆腐の生産地でその宜席粕を飼料とする故早くより飼育され規 轟に於ても飼育の壇んな原因の一一一となっている。(註、上言巳の移動は初夏の移動せるもので秋季移動は やゝその数を減ずる)
奈良盆地吃於ける役牛飼育は盈地全域に行われるも、天和高原との間に移動する役牛を飼育す る地域は魚地の東部で高原灯接する町村に密で攻第に偏地灯放って分布している。〔第5表筍2 図第3図参照〕
第2衷 都介野村の役牛 昭和26年I2月 都介野中学糧調香
持
数
高原中飼育!i移動ヰ共シこ′第−1位を占める都介野村に就いて史に詳しく見ること1する。〔第2
表傘照〕本村の患家ノコ盈646月中役牛飼育戸数457戸に達し70.8%で当っている。飼育戸 数457戸中村内持主305戸(67%)村外(童として奈良象地)持章牛(借生)を飼う豪152 戸(33%)となり、更シこ村内持キ中村外に年を曙す豪194戸(43%)で硬さぬ家111戸
(24%)で、移動隼(曙牛、借年)を飼育する戸数払合計346戸で寒に簸農家且数646声 の54%、役牛飼育戸数の76%に達している。これを飼育頭数に就いて見るに、その数466 頭で飼育戸数とほゞ同数なるも少し多いのは一戸に2頭以上飼育している家が含まれているから
である。飼育頭数申村内持ノト314頭(67%)村外持主の借年152頭(33%)で村内特牛中 野牛‖摘頭(42%)貸きぬ隼ユ19頭(25%)である。搾って移薪辛く貸牛、借牛)は347 頭(75%)の多数に達している。更に村内大字別に飼育戸数飼育頭数並に移動状態を詳しく見
るに夫々の鼻票戸数の多少と大体比例し大字白石、吐山、針が多く甲岡、来迎寺、相河は少ない。
C 移動牛の所有者別とその変化
移動する役牛は∵頭を天和高原と奈良盈地の両地域で交互に使用して100%打利用するもの であるが、その所有者は奈良盆地の鼻象に有り大和高原へ預けるものと、反対に高原に所有者が あり、盆地へ貸すものと二種籾に分かれる。締着は古くより行われた型で明治20年頃より攻第に 盛んになったものと言われている。後者は大正時代の終り頃よりその数を増し現在揉前者をしの
ぐに至った。
I 所有者奈良魚地の牛(預け半、借牛)
・ヽ
奈良僚地の農家では年を飼育する場合一年中通じての飼料が不足する故、大経営の貴家の他多 くは山間部乃草地乃多い地方へ預ける習慣が生れた。象地とその東接する天和高原との問に長も 感んなるも、東南の宇陀山二地(初瀬谷牛と言う)南部の吉野郡野迫川村地方(野迫川隼)等にも
この種の移動が行われた。この原因は両地域の間に気候の影響等により農繁期に牛カ月より・一カ 月葺が生するのを巧に利用したもので、象地の農紫期(初夏と秋と二期)のみ耕作に使用しその 他の期間は高原に預けおくものぜ、現在も拇この形式が確っている。持主と預り主との関係は窺 顆とは限らず、むしろ知己として古くから知り合った同志が年々習慣的に続けているものが多い。
この棟頬の牛を奈良盆地では「預け′卜」と呼び、大和高原では「預りノト」「借年」と呼んでいる。
叉はがき一夜で移動する故「はがき隼」とか「一重五度牛」(今では五円午)とか呼ばれたり、
盆地から高原へ上る時土産にそら豆を着けて行く放「豆牛」とも称せられている。
1 所有者高原の生(堵半・野ヰ・賃斗)
所有主が高原にあり盆地の農繁期に貸す牛で、この形式の役牛の移動は盆地が所有の年の移動 形式のものより比較的新しいもので:々正の末期より盛んになったものである。即ち近年農相に.於
ける有畜農業の喫励で県下の牛の飼育は増加するようになり、鳥原や山地では細料豊富の為め 白から所有して飼育する数が増して乗で、従来からの預り年の習慣にならって逆に魚地へ移動を 始めるようになった。一一方盆地の辛坦貴家でも広面積を耕作している農家、又は多角的に経営す る貴家では勿論生の飼育を白からすることが瞥ましいが、食地の普通の具象で小経営のもので は、貴紫朗初夏6月秋11月計二カ月の使用の為めに、半を相当の費用を出して買い永めそれを農 閑期に高原へ預けることは不経済である。それよりも必要な期間だけ借用料を出してもその方が 有利であるし、更に零細農毅では二、三戸で一頭借りて共用すると一骨都合が良い理由で、従衆 とは避佗高原より借りる形式か増して来た。高原ではこの方法によって貸費も得ることが出来る 故、預り牛より条件がよレ、こと1なり、両者の利害が重く一致して、最近ではこの形式の婆のが 預り午に代り多くなるに至った。この間形式の役牛の数は第−・嚢第二表に示す如く、高原盆地 間の移動牛854の申倍牛(盆地所有主)323項に対し貸牛(高原所有:主)531頭で38%と 62%の此となり、後者が非常に多くなっている。両者の関係は轟原の各村別に見るもほゞ同様 の傾向を示し、移動数の貴も多い都介野村は倍牛152頭(44%)対蟹牛195頭(56%)、攻 の福住村は夫々88頭(44%)対110頭(56%)となるも、第3位の針が別所村は借ヰなく 全部付内持宅となっている。これは飼料である草砂地凍豆腐製造の中心確でその粕を利用する放
飼い易いのが原因の−一つとなっているようである。
このように高原から食地に賃す年を高原側では「貸隼」「野牛」と言い免職では「質草」と称 している。この年の移動の場合は中間に仲介者(ぱくろう)がいて貸借の世話をなし盆地の倍章 より高原の貸主へ貸賃を支払う。〔G「塔質と土産物」の項蓼照〕従って持毒借毒間の親密変は 少なく重く相互に知らない場合もある。
D 役牛の性別とその変化
天和高原を中心に盆地と盛んな移動が行われて1ハる役牛は性別に就いて見るに雌嫁の数が昔と 今と重く逆になっている。従来永らく役牛として飼育していたのは牡牛であったが天正年間より 攻寄に牝年が多くなり、昭和10年境はゞ同数となり更に貴址では殆んど牝年となり、免前と逆の 状態となっている。例を移動牛の巌も多い都介野村にとってその変化を見ると、第三喪の如くで ある。即ち
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ノ・こiE6年本村役牛飼育数338頭中牡牛33 頭に対し牡牛6域で98%対2%で、重く牡隼の みと言ってよい状態が、昭和の初頃より牝牛の数が増し昭和22年総数370頭の内牝午346頭牡 ノト24頭で92%対8%となっている。か1る変化が起った原関と考えられるのは、牝牛は牡牛に
此し労働力に於でやや劣るぜ、、性質がおとなしくて飼い易く、又飼育期間も牡牛より長く「青命 が長い」と言ってその長所を軍んぜられ、更に輯(こうし)を産ませて繁殖させる場合もあり、
輯々好条件である為め牝牛が多くなったと言われている。
E 移動の季節 と 期間
役牛の移勒ま高原と盆確聞′C・農繁期毎に一一・年間に二回行われ、笥一回は初夏の麦秋(五月秋と も呼んでいる)の季節、第二回は秋季稿の収穫期で高原盆確聞を二往復する。その原閑をなすも の且高原が確形上気温は盆地よりも数壁低く都介野村甫之庄では年平均(午前10時)13.90であ
るに対し急増の八木ではユ6・20であり、この冷涼気障が鼻作物の生育に影響し農業慣行は末々少 しづつずれを生じ、一般に半月から一一カ月位の葺を生じていることによるもので、巧ここの農繁 期のすれを利用したと言うべきである。〔第一一国蓼照〕
第一一回は5月末高原(ノ)田植が一毛作の関係で早く終り攻第、6月初旬盆機等の平坦農区へ移動
第 一 図
大和鳥原
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動 図
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′月 2 3 4 ∫ 6 7 8 9/0//72 7月 第4表 大和高原素足盆地問の段隼移動季節期間とその頭数(天理市布佐一旧桁住持)
昭和29.7.18 瞞件 中学校調査
一と\表 大和高原より奈良盆地 H表 票艮盆地より大和高原 への移動季節とニーの頭数 への移動季節とその頭数
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註 この茹主調華中移動季節期間の明なるものを基乾として算出せるもの、従って合計数は福住の 移動数全数よりやゝ少ない。
するものである。丁変盆地に於て二毛作田の麦刈田根期に入るので耕作に約一カ月使用し7月上 旬高原へ上ネ。徳地では飼料が少ない他、そのま1飼うと小額常の農家で且邪健になり、且つ
「はえ」が多くて困る等の点より不必賓になれば移動させるものである。天理市旧編位相の詳細 な洞蚕によれば〔筍4表A表参照〕初茸の麦の収穫及び田柵期に高原より盆地に下る時鞠は6月上 旬特に5日(43%)を中心に約10日間佗の短日時に移動を終るのがこの期の特色で、これは高原 と盆地の巣東胡のずれが相接し且つ両君貯こ畜力む太いに利瀾する必要あ名による。それに対し 7月盆地より高原に上る移動は7月上旬の3日(30%)を中心にその前後約一一カ月にや1分散的に 行われる。〔第4表B表蓼照〕その内高原持主で盆地に貸す牛は比較的移動期間が短いが、持主が 免職にある牛は移動が前者に比し除々に行われる。攻に盆地に於て使用される期間は約−一・カ月な るも例を福住にとって詳しく見るtと〔第4表C表参照〕28日間(36%)を最高として短いのは 20日間位より長いのは40日を噛えるものも僅かにある。特C嶽鞄持主の場合長くなる傾向があ るの軋肝有者で借賃も不要であるからであり、高原より借りている牛は借賃を支払わねばならぬ 故多くは一一カ月以内である。
第二回は10月下旬高質の稿刈が済み攻第(一毛作たる故田へ麦噂は行わない。)再び合地へ 下り精の収穫及び麦蒔朗に使用するもので、12月中旬多くは高原に上る。この場会は仕事の関係 で第一回の時よりもや1急を要せ手長靭乞亘るのが普通である。持竜が盆地にある車は一骨ゆっ
くりし12月下旬或は稀仁は翌春3月迄で盆地で養っておくものさえある。
この様に年二回高原と盆確聞を往接して一頭の隼は100タ 有効に使塙する有畜農業として非 常に経済的な経営法を行っているのである。しかし、ヰの所有主が盆地にあると、高原にあると によりその利用度にも若干相連あり、持主盆地にある場合は自分の所有車なる敢二回とも完垂に 上下するも祷童高原にあるものは盆地へ賃貸をするもので、筍二回目の移動は箔∴回目より移動 数が‡一手程度に減じ叉象触こ離する期間も一般に蝮かいのが普通であるo
F 移動の範囲 と 通過街道
役牛の移動範囲に威いて見るに〔筍5表、・第2図筍3図参照〕大和高原と奈良盆地間匿非常に 盛んで稔移動年854頭中実に790頭(93%)を占め、魅く一部伊賀盆地京都盆地大阪平野等 との間にも行われている。高原に於ける移動役牛の飼育職域は特牛借年共にその南西部却ち奈良
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盆地寄りの都介野福住職域に密である。〔第一表、筍2図筍3図参照〕叉金地への移動先はいづ れも高風に接した盆地東部地域、二階堂村(硯天理市)を中心とする山辺邪平坦部に蜜で攻箔に 盆地登城に及んでいる。これは気障等による農繁期の中れが明瞭に異る両地域が相接している条 件の他、午が一日に歩む距離も非常町関係していて、達距醇といえども牛の一日行程の範囲を越
えない地域で、その範囲が白から限定されてる。
克づ持主盆地にあり、盆確で預け牛、高原で倍牛と私する投牛、こ就いて詳しく見るに、
第5表 役牛移動一束表
調 理−昭和27年7月、行政区画は調奄時現在のもの
市町†寸名−止.b.C.‥・…は高原のもの、1、2、3‥・・‥ほ盆地等平坦のもの 表内Cつ数字−L段は高原所有牛(貸牛)の移動数
1二段は盆坤等所有牛の移動頭数
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第 二 図 役牛の移動分布図 その−・・盆地所有牛の移動分布図
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〔筍5末、第2図第3図参照〕その奈良盆地の持′ト数306詞で高県の倍宰捻数323喝の95%
を占め、この形式の移動年は殆んど奈良盆地の特車のものである。二持士の分 ̄布に一三十五力市町村
(註、平坦部とのみしか分ちぬも(つある古文、宅配はそれ朗Lに多くなる)に及び、二階堂柑ぐ増、天理市)
44頭(13.7%)を第一とし、昭和村(硯、ソく和郡山市)34頭(10・6%ノ部材25頭(7・8%)
治還付(現、大和郡山市)23頭(7.1%)平和柑(現、大和郡山市)20頭(6.2%)梗本町
(現、天理市)17頭(5.3%)丹波市町(現、天理市)14頭(4・3%)川西村12頭(3・8%)
の順となり、盆地の内やや北恵部に核心がある。頂け充は高原ケノ都介野村(規、都祁村)幅位相
(現、天理市)が・大部分を占め、両地域の中間にある春日出断層膜に発達しノた耳西谷の堂ガ谷荷 造及び布封筒道を卓として上下する。
攻に持主が七和高原に.ある隼で象地等の平坦部へ貸す幸は総数531頭でその内奈良盆地へは 4R4頭(91%)の多数に及んでいる。その分布は四十五力市町村に鉱がるも、核心部はやはり
第 三 図 役牛の移動分布図 その二 高原所有牛の移動分布図 昭和27年7月調香 行政区画は調香時筑在.図中の記号数字は 第5表役牛移動一一億表の市町村名
に付したもの (第 5 表 参 照)
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凡例 角点 高原の所有移動牛頭数 大点10頭ノj、点1頭、円点 盆地㌫、の貸牛頭数 丸和0頭′j、点1頭
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盆地の環部昔を功、現天理市の−・部である二階骨相101頭(ユ9.0%)を第一位とし、丹波市 町45頭(8.5%)、躁本町45喝(8.5%)は第二位に、朝和村40頭(7.5%)となり、更 に奈良市(旧東市村を含む)26頭(4.9%)、川西村25頭(4.7%)川東村20頭(3.8%)
の順となる。高原の持童の都介野村、針ガ別所柑(共仁都祁付)、幅佐相(天理市)田酎寸等と の問且夫々盛んに移動するものである。
これ等の移動!トの通過する得道を詳しく見るに、大和高原の西端奈良盆地との境はいわゆる春 日山断層億が南北に嚢り移動役′封まこの斜面を必ず上下しなければならない。従ってその使耗す る道は断層崖を直角ユこ横断して発達した谷を利塙する。即ち北より奈良谷は田原と奈良問、堂 ガ茶筒道(一名高瀬構造)は両件、都介野、針ガ別所と棟木、治道方面間、布層構造は幅住、都 介野、針ガ別所と丹波市、二階堂方面問、初瀬術薄は東南で部介野と初瀬、桜井方面問の移動に
庸いられる。皆に地形上高原と盆地を結ぶこ適する堂ガ谷得道と布留荷造は多く、中にも近年盛 んレこなった高原持主の躇牛は堂ガ谷に仲介者がある為め、同椅道を通過するものが多い。役幸は 貸主迄直接とゞける場合せあるが、それは稀で多くは仲組をして夫々送り迎えを行っている。仲 組地は仲介者の住む堂ガ谷、米谷(・々遭)の他、奈良高畑、奈良公園の一部、操車(馬出)、丹 波市(天理教本部前)及び横川、初灘(長谷観音前)等が夫々用いられ、移動樹にはこれ等の荷 造で土産物を積み盛装した牛の行列を見ることが出奉る。
G 貸 賃 と 土 産 物
盆地高原間の役牛の移動形式ンこ二疎輝あることけ既に度々述べた堺であるが、その内古くから 行わ紬でいる形式の盆機に持童があり、高原へ預ける昔即ち高原で借牛と称するものは貸賃を 取らない。これは古くからの慣習のままであるが持主が高原のものの如く貸賃を取るのと非常に
興っている。免職の持黄では真東期の僅かな期間のみ自家使用して、農閑期に高原へ預けて飼料 の豊富な所で飼養して且らい、その間適当に使用してもらう事になっている。−厨に知己の閥で 毎年同じ豪問で行われるのが普通であり、借主は自分の特牛の様に実朝に飼育するものである。
しかるに、高原が持主で盆地へ貴嚢拭射こ曙す午は「賃隼」「野牛」と称し必す「資質」(高原で「野 賃」とか呼んでいる)を取っている。期間は短いも、もっぱら労役に使用し、その労役量は最大 に使っているものである。この種の役牛には多くは仲介者(ぼくろう)が高県と盈地の中間、例 えば高原の都介野、福住と盆地間の場合、多く移動する堂ガ谷荷造の途中堂ガ谷、米谷に数名い て、貸借の世話する。貸賃融中介著により定められるもので、第一回日和貫の移動の際約−カ月 の貸賃は9,000円〜10,000円が衆も多く、中には6,000円〜8,000円位のものもある。
秋の第二四日は約−カ月半で5,000円〜6,000円位で、秋は期間は長いが隼の労働量が初耳
の場会に比し.少ない赦瑳質はや1安いのである。餞仲介者は約−−・勧程度の世話料を受けること 1なっている。
攻に役牛の移動する際は両者何れも土産物を積んで行くのが普通で、特に蹄者即ち持主盆地の ものは貸賃を載らず、また互に親しさ¥,多いので必ず相互に土産物を持って上下する。高原より 盆地への土産甘茶、木共が多く叉凍弄席もあり高原の特産物が多い。亀城より高原への土市はそ ら豆が壕も多く俗に「宜牛」と称するのもその為めである。その他、麦、小麦粉、桃、西瓜、き うり、野菜等の農作物が多い。その量も一定しないが茶は20)匁位、そら貰う刀〜1斗、麦5 升〜1斗の株安である。
以上の如く持主が盆地にあるものと高原にあるものと相異る二種の移動形式の中、近年後者が 蹄者をしのぎその数を増しつ1あり、或る意味の近代化された移動形式と言うべく、その変化の 起る原因は漁述した通りである。〔C「移動年の所有者机とその変化」参照〕両形式中最も相違 するのはこの貸賃を取る取らないと言う経済問題にある。攫って前者は個人間の契約なるも後者
は仲介者を通じての契約で、貸主借半間の精神的連なりも蹄者は親密なるも後者には曙主借主を 互に知らないものさえある。
要するに本県の北部天和高原と奈良盆地とが相異る地域性を持ちつつ粕接し、職域域の自然的 社会的等の諸環境の差異を巧に利用して古くより役牛の移動が行われた。しかるに社会上経済上 等の影響により括竜が泰艮風雅のぜ)のより天和高原の尊のシこ変化しつつ牛偏新旧両形式の移動が 交って両地域間に盛に行われている点、紅培地埋堂上も農葉経営問題上よりも注意すべきもので ある。 (昭和30.1.記1
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