◎論説帝国の周辺
支 配 の 連 続 性 と 断 絶 性
満州国期における満鉄附属地の視点から大野太幹
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はじめに
一九三一年九月一八日︑関東軍は軍事行動を発動し︑時
を経ずして中国東北地域全域を占領下に置き︑一九三二年
三月には﹁満州国﹂を成立させる︒これにより︑張作森・
張学良政権によって統治されていた中国東北地域は︑日本
の全面的な支配下に入った︒このことは︑それまで関東州
と満鉄附属地という狭小な地域に限定されていた日本の支
配領域が︑中国東北全域へ拡大されたものと解釈されてい
る︒
それでは︑満州国成立以前と以後では︑中国東北の社会
はどのように変化したのだろうか︒つまり︑満州事変以前 と以後では︑社会のさまざまな側面においていかなる連続
性と断絶性が存在したのだろうか︒この部分を明らかにし
なければ︑日本の中国東北地域における支配の本質を理解
することはできない︒
例えぼ︑その内実はともかく満州国という﹁独立国﹂が
成立した後も︑日本人の治外法権と日本の絶対的排他的行
政権が行使される満鉄附属地が存続するということは︑い
かに理解すべきなのだろうか︒
筆者はこれまで︑満州事変以前の満鉄附属地において居
住・活動していた華商︑あるいは彼らによって組織された
商務会について研究を進めてきた︒管見の限りでは︑満鉄
附属地華商は日本の行政権が行使されるという附属地の特
性を利用し︑経済利益を追求していた︒具体的に言えぼ︑
支配 の連 続性 と断絶性
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満鉄附属地華商は附属地では日本の行政権が行使され︑中
国側権力が干渉できないという現状を利用し︑中国側税摘
ハロ の納税を回避していた︒つまり︑彼らにとって満鉄附属地
における日本の行政支配は︑経済活動を行う上での優位性
に他ならなかったのである︒
それでは︑満州国の成立により︑満鉄附属地華商を取り
巻く状況はどのように変化したのか︑あるいは変化しな
かったのか︒本稿はこの点に着目し︑主として満鉄附属地
華商の視点から満州国における支配の意味を考察しようと
するものである︒なお︑対象とする満鉄附属地は︑当時満
州国の二大都市であった奉天(藩陽)と新京(長春)に限
定する︒
本稿の構成としては︑まず第一節で満州国期における奉
天・新京両附属地の状況を概説し︑さらに満鉄附属地を含
めた両都市の全体的な変遷を概観する︒第二節では満鉄附
属地華商に対する満州国側税指の課税状況から︑張作森・
張学良政権期と満州国期との政治支配面における共通点と
相違点を明らかにする︒そして︑第三節では奉天と新京の
附属地華商について︑満州事変以前から満州国期にかけて
の連続性と断絶性という視点から比較・考察する︒ 満州国期における都市の変遷
H満州国期における満鉄附属地
中国東北地域における都市の状況に関して︑満州国期に
なっても変わらなかったのは満鉄附属地の存続であった︒
つまり︑満州事変以前と同様︑中国東北地域南部(長春以
南)の鉄道沿線都市においては︑日本の行政権が行使され
る地域が存在し続けたのである︒満鉄附属地の存続には︑
関東軍・外務省・関東庁・満鉄の間の既得権益争いが関係
していたが︑そうした政治的背景は先行研究に譲るとし
て︑ここでは満鉄附属地存続の意味を都市の変遷との関わ
りから考察してみたい︒
満州国成立後︑最も顕著に表れた奉天・新京両附属地社
会の変化は︑日本人居住者の急激な増加であった︒表1は
奉天・新京両附属地の居住者戸数および人口を挙げたもの
だが︑両附属地ではいずれも日本人居住者が急増している
ことがわかる︒
奉天附属地は満州事変以前から︑関東州以外に暮らす在
満日本人の最大の居住地域であったが︑それでも満州事変
以前は中国人人口と日本人人口はほぼ同数程度であった︒
しかし︑満州国成立後は日本人の人口が急激に増加してい
ることがわかる︒一九三四年には奉天附属地に居住する日
表1奉 天 ・新 京 附 属 地 の 戸 数 ・人 口
単 位:上 段 戸 、下 段 人
奉 天 新 京(長 春)
中国人 日本人 朝鮮 人 外国人 中国人 日本人 朝鮮 人 外国人
1928年 12月 末
2,839 4,620 93 327 3,612 2,520 217 142
19,698 20,570 494 1,239 26,538 9,543 992 509 1930年
12月 末
3,383 5,059 148 332 3,905 2,714 256 118
21,873 22,480 760 1,163 27,621 io,soo 1,174 446 1932年
12月 末
3,244 7,238 204 228 3,834 3,639 525 118
20,225 32,379 1,051 823 26,570 16,232 2,518 446 1934年
12月 末
3,067 11,874 244 220 3,760 6,644 433 95
21,415 54,161 1,664 pis 31,004 30,739 2,738 377 1937年
12月 末
2,562 15,726 213 170 3,375 8,201 558 75
21,217 70,073 1,727 513 27,448 34,115 3,180 280 出 所:満 鉄 編 『統 計 年 報 』 各 年 度(復 刻 版 、1991年 、 龍 渓 書 舎)。 満 鉄 総 裁 室 地 方 部 残 務 整 理 委 員 会
編 『満 鉄 附 属 地 経 営 沿革 全 史 』 上 巻 、1939年(復 刻 版 、1977年 、 龍 渓 書 舎)151頁 。
表2奉 天 ・新 京 の 人 口
単位:人
奉 天 新 京(長 春)
中国人 日本人 朝 鮮人 外国人 計 中国人 日本 人 朝鮮人 外 国人 計 1934年 403,378 8,779 10,916 712 423,785 136,917 7,424 1,563 38 145,942 1936年 430,903 7,348 7,664 767 446,682 172,773 25,050 4,527 504 202,854 1938年 651,785 88,522 17,377 1,172 758,856 239,748 58,407 6,620 916 378,242 注:1934年 と1936年 は満 鉄 附 属 地 を 除 い た 数 字 。1938年 は満 鉄 附属 地 撤 廃 後 の た め 、 附 属 地 人 口 も含
め た 数 字 。1934年 は12月 末 現 在 の 数 字 。1936年 は具 体 的 な 月 は 不 明 。1938年 の 新 京 は12月 末 現 在 の数 字 、 奉 天 の1938年 は5月 末 現 在 。 「中 国 人 」 は史 料 中 で は 「満 洲 人 」 と記 載 。
出 所:満 鉄 地 方 部 商 工 課 編 『満 洲 主 要 都 市 商 工 便 覧 』1935年 。 満 鉄 地 方 部 庶 務 課 編 『昭 和 十 一 年 版 満 洲 主 要 都 市 要 覧 』1937年 。 新 京 特 別 市 長 官 房 庶 務 科 編 『国 都 新 京 康 徳 九 年 版 』 新 京 特 別 市 公 署 、1942年 、46頁 。 奉 天 商 工 公 会 調 査 課 編 『奉 天 経 済 事 情 康 徳 五 年 版 』 奉 天 商 工 公 会 、1938年 、
7頁 。
本人は五万四一六一人を数
え︑一九三七年には七万七
三人にまで達している︒奉
天附属地外に居住する一九
三四年当時の日本人人口八
七七九人︑一九三六年当時
の七三四八人と比較する
と︑大部分の日本人が附属
地内に居住していたことが
わかる(表2参照)︒
新京(長春)は︑もとも
と"大豆の都"と称された
中国東北特産物の一大集散
地であり︑満鉄長春附属地
内には多くの﹁糧桟﹂(中
国人特産物商)が居住・活
動しており︑またそれに
伴って比較的規模の大きな
中国人社会が形成されてい
た︒しかし︑満州国成立
後︑新京が国都に選定され
たことから︑多くの日本人
が流入し︑彼らのほとんど
21一 支配 の連続性 と断絶性
は満鉄附属地内に居住することとなった︒そのため︑満州
事変以前には中国人人口の三分の一程度だった日本人人口
は︑一九三四年には中国人とほぼ同数の三万七三九人︑さ
らに一九三七年には中国人人口を上回る三万四一一五人ま
で増加している︒新京における附属地外居住日本人人口が
一九三四年当時で七四二四人だったことからわかるよう
に︑新京においても日本人の大多数は満鉄附属地内に居住
していた︒ただ︑一九三六年以降は附属地外に居住する日
本人は二万五〇五〇人へと増加している(表2参照)︒こ
のことは後述するように︑国都としての都市計画進展に伴
うものと思われる︒
口満州国の首都選定
中国東北地域における都市の変遷において︑満州国成立
に伴う最も大きな変化は︑政治の中心が奉天から長春に移
されたことである︒関東軍は満州国成立に伴い︑一九三二
年二月に長春を首都とすることを決定し︑一九三二年三月
には長春という名称を﹁新京﹂に改めた︒関東軍が長春を
首都に選んだ理由としては︑旧勢力との関係︑および地価
ムヨ の低廉さがあった︒
奉天軍閥︑すなわち張作森・張学良政権の拠点であった
奉天とは異なり︑長春が属する吉林省の省都は吉林であ
り︑長春はあくまで商業都市として発展していた︒また︑ 地価の点においても︑東北の一大行政都市であり消費都市
であった奉天に比べ︑新興の商業都市である長春には︑居
住者のいない広大な土地が残されていた︒そして︑満州国
期の新京(長春)においては満鉄附属地と商埠地︑城内と
いった既存の居住域に加え︑南方に広大な土地を買収し︑
満鉄附属地の中央通から南に直線に伸びる幹線道路(大同
ムれ 大街)を中心とする巨大な都市が形成された(図‑参照)︒
さらに︑上述のような要因に加え︑新京と朝鮮半島の海
港を結ぶ京図線(吉会鉄道)の敷設に見られる﹁日満鮮一
バら 体化﹂という政治的意味もあった︒また︑一九三五年には
ソビエト連邦が経営権を有していた中東鉄道を買収するこ
とに成功し︑交通面において中国東北地域の北部と南部の
ハむ 結節点とも言える都市となった︒
一方︑満州事変以前まで中国東北地域の政治・経済にお
ける中心都市であった奉天は︑上述のような理由で満州国
の首都には選定されず︑その政治的側面を失い︑商工業都
市として発展していくことになる︒奉天においては清代か
ら都市としての骨格が築かれ︑内城と外城で形成された奉
天城内には多くの官吏や商人が居住し︑複雑に入り組んだ
胡同を有する中国人の都市として発展していた︒そのた
め︑新たな都市計画のため土地を入手するには︑膨大な費
用がかかることが予想された︒
また︑奉天においては満鉄附属地の存在が都市開発を阻
害してもいた︒国都としての
新京における都市建設が︑満
州国政府直轄の事業として国
務総理直属の国都建設局が
担っていたのに対し︑奉天な
ど他の主要都市での都市建設
は市政府の事業であった︒そ
のため︑奉天における都市建
設は︑満鉄附属地内は満鉄の
管轄︑附属地外は奉天市の管
轄というように統一した主体
が存在せず︑買収用地の管理
方法や都市計画事業の財源な
どの問題において︑奉天市側
と満鉄側の意見が一致せず︑
一向に事業が進展しない状況
ハ となっていた︒
そのため︑新たに開発され
た﹁鉄西工業地区﹂(満鉄附
属地西側)は︑日満合弁の奉
天工業土地股傍有限公司が管
理することとなり︑満鉄側が
三万株︑満州国側が二万株を
支配の連続性 と断絶 性
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保有することとされた︒比較的少ない経費で開発可能
な土地は︑奉天城側ではなく満鉄附属地の西側にしか
なかったのである︒実際︑満鉄附属地が撤廃され︑大
規模な都市開発が計画された後の一九三九年になって
も奉天城内は手つかずのまま残り︑その周囲に新たな
行政区を設けて開発するのみに止まったのである(図
2参照)︒
経済面から言えば︑奉天は満鉄線・奉山線(奉天ー
山海関間)・安奉線(安東‑奉天間)・撫順線(奉天‑
撫順間)・奉吉線(奉天‑海龍経由‑吉林間)といっ
た鉄道各線が交差する要衝であり︑物資の集散地でも
あった︒奉山線はもともと京奉線(北京‑奉天間)あ
るいは北寧線(北平‑遼寧間)と称された中国側自弁
鉄道であったが︑満州国成立により︑奉天から山海関
までを満州国側が接収したため︑山海関を境にして満
州国側と中国側に分断されてしまった︒それに加え︑
満州国成立に伴い︑それまでは国内品として関税のか
からなかった関内(長城以南)発の製品に関税がかけ
られることとなったため︑同鉄道による物資の輸送は
減少し︑ほとんどが大連経由の日本製品で占められる
ムい こととなった︒
もともと中国東北地域は︑経済的にも政治的にも華
北(とくに河北省・山東省)と関係の深い土地であ