■弘前大学哲学会 (公開講演)
ニーチェ哲学 と過去の問題
‑ 人はいかに して今あるところのものになるか
湯 浅 弘
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問題の所在ごく一般的に言って、誰であれ現在の 自分 について何かを語ろ うとする とき、 自分の過 去に言及す ることな く語ることは稀であるように思われる。通常、人は今の自分 を言い表 そ うとして思いをめ ぐらす とき、なにが しかの過去の経験 を含めて今の自分のことを考 え るoそ うした消息は、例えば、 自己紹介 をしなければな らないような場面を顧みれば自ず か ら明らかであって、そのような場合 に人は、対面する相手やその場の状況に照 らして 自 分の過去の一部 (例えば、 どこで どのような ことをしてきた といった事柄)を語ることに よって、自分が どのよ うな人間であるかを紹介するのが通例であると思われる。
この 日常的な事実から浮かび上がって くるのは、現在の 自分の成 り立ち と自分の過去 と は切っても切れない関係 にあるとい う、当た り前 と言えば当た り前の事態である。むろん この ような関係は、現在の自分 と自分の過去 との間に限 られたものではな く、単 に自分 に ついて自ら他者に向けて語 るときや 自己理解 にのみ関わる事柄ではない。他者を誰か別の 人に紹介 した り自分 に対 して或る他者が誰か別の人によって紹介 された りす るときのこと や、 日常の社会生活 における履歴書の役割 といったものを想起すれば明 らかなように、同 様の関係は現在の他者の成 り立ち と当の他者の過去 との間にも成立 している。 自分のこと に限 らず他者の場合でも、 自己 とい うものの現在 と過去 とは、 このよ うに不可分離の結び 付 きにおいて存立 している。
むろん、現在の 自己の成 り立ち と自己の過去 との不可分離の結び付 きと言っても、その 結び付 きは、さまざまな質、 さまざまな様相において存立 していると見なければな らない。
強 く記憶 に刻み込まれ、当該の過去の出来事 と現在の自分 との関係が明白に意識 されるよ うな場合 もあれば、それ として気付かれなかった り忘却 された りして、当該の過去 との関 係がほ とんど意識化されない といった場合 もあ り得 る。 この うち前者 について言えば、誇 らしい過去の記憶 もあれば、懐か しく甘美な思い出もあ り、また逆 に、思い起 こすだけで も強い嫌悪 を感 じるような過去 もあれば、今なお悔恨 を禁 じ得ないような過去 もある。誰 にとっても、過去はこのように実にさまざまな色合いをもって現在の 自分の意識 に現れ、
現在の意識 を色付 けるものの ように思われる。また、後者の ような場合 について見れば、
例えば、肉体が病んだ り老いた りしてゆ く過程のよ うに普段はさほ ど意識 されないまま歴 然 と進行 していた といった過去の過程 もあれば、特定の文化的伝統の中にいて 自分 には全 く意識 されぬまま自己の成 り立ちがその伝統 に強 く制約 されているといった事態 もあ り得
る。容易 には意識化 され得ない こ うしたアスペ ク トまで含めれば、現在の意識 を色付 ける 諸々の過去 といった次元 をも越 えて、過去はま ことにさま ざまな脈絡 において現在の 自己 と結び付 いている と言わなければな らない。
以上は人間の過去 との関わ りの一端 を素描 したに過 ぎず、また上述 した ような現在の 自 己と過去 との関わ りの どれ一つ についてす ら、その一つ一つの事態をここで詳 しく論 じる ことはできない。ただ、誰にとって も共通す ることとしてあ らためて確認 しておきたいの は、 自分の過去の一連の経験や出来事の累積の結果 として現在の 自己があるとい うこと、
現在の 自己には さま ざまな過去がま とわ りついてお り、それを抜 きにして現在の 自己はな く、また現在の 自己について語 ることもできない とい うことである。 自己の成 り立ち と自 己の過去 との問には こ うした本質的な連 関が認め られ るが、 こ うした問題 につ いてニー チ ェは どの よ うな論点を提示 し、 どう考 えたか。 これが、以 下本稿の主題である。
2 " Wi emanwi r d,wasmani s
t." とい う言葉 をめ ぐって" Wi emanwi r d,wasmani s t . "
とい う言葉はニーチ ェの 自伝的著作 『この人を見 よ』の 副題 として よく知 られた言葉である。 この言葉は、 自己の成 り立ち と自己の過去 との本質 的連関を凝縮 して表現 しているが、類似 した表現 はニーチ ェの他の著作中にもあ り、ニ チェが比較的若い頃か ら創作活動の最終局面まで強 く意識 していた言葉である と解 され る。本稿の副題 「人はいかにして今あるところのものになるか」 も、 自己と過去 との連関に関 す るニーチ ェの思索 を扱 う本稿 に相応 しいもの として この言葉の 日本語訳のつ も りで付 し たものである。
「今ある ところのもの」 とい う表現 を 「現 にある自分」 「現在の 自己」 に置 き換 えること も可能だが、 こ うした置 き換 えをして翻訳 して もほぼ同様 の意味の 日本語 になる と考 え ら れ る。 ところが、翻訳す る うえでは厄介な ことに、
" Wi emanwi r d,wasmani s t . "
とい う 言葉 にはも う一つ別系続の 日本語訳が可能である。それは、「今」とい う言葉 を脱落 させて、例 えば、 「人はいか にしてある ところの ものになるか」 とい うよ うに翻訳す ることもで き るとい うことで、 こ うした系統の訳 としては 「ある ところのもの」 とい う表現 を 「本来あ る ところの もの」 「本 当の 自分」 「真の 自己」 「本来的 自己」等々 に置 き換 えた訳 も考 え ら れ る。ちなみ に、理想社販 (筑摩学芸文庫版)ニーチ ェ全集では、 「人はいか にして 自分 が本来 ある ところの ものになるか」 (川原栄峰氏訳) とある。
以 上の よ うな二系統 の 日本語訳 が可能 なのは、文法的 には
" Wi emanwi r d, wasman i s t ・ "
の" i s t "
(英語で言 えば、" Ho wonebe c ome swhatonei s. "
の" i s
")が現在時制 を 強 く表現す る と解釈す ることも、 またそ うではない と解釈す ることもできるか らである。それゆえ、どち らの訳語が よ り相応 しいか とい うことは、この言葉 に関わ るニーチ ェの諸々 の言説 に照 らして判断す る他はな く、実はこの言葉 を どう理解す るかは、自己をめ ぐるニー チ ェの思想の理解 の うえでは一つの分かれ 目となると見ることもできる事柄なのである。
むろん、 これは 日本語訳 をす る過程で顕在化す る問題であって、 ドイツ語で書いていた ニーチ ェは 日本語 に訳せ ば以上の二系統 に訳せ る意味を重ね合わせて使 っていた とい うの
が、実状 に近い と思われる。ただ、仮説的に次のよ うに言 うことはできると思われ る。す なわち、比較的若い時代のニーチェの文章では 「本来ある ところのもの」「本当の 自分」
「真の自己」「本来的 自己」 といった言葉 (本稿では これ以降、 これ ら一連の言葉 を 「真 の自己」で代表 させることにす る)で言い表せ るような思想が明白に語 られていた。例え ば、『反時代的考察』 の第
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論文第1
節では 「大衆 に属 した くない人は自己に対して安易 であることをやめさえすればよい。<君 自身であれ !( s e idus e l bs t ! )
君が今な し、考え、欲しているもの、それはすべて君ではないぞ>と呼びかける良心の声 に従 うべきだ」 と言 われていた ようにである。だが、 これに対 して
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年代の成熟 したニーチェの思想におい ては「真の 自己」といった言葉で言い表せ る思考は少な くとも背景 に退いている。つま り、若 い時代ほ どナイーヴにそ うした思想が語 られることはな く、したがって、" Wi ema nwi r d, wasma ni s t . "
の訳語 としては 「人はいかにして今あるところのものになるか」の方が相対的に妥当ではないか、 と。
このように考えられるのは、端的に言えば 「真の 自己」といった措辞は成熟 したニーチェ の思想には馴染まない と解 され るか らでもある。そ うした表現は、伝統的真理概念に対す る批判や独立 した実体的な自己とい う観念に対する批判 とい う
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年代のニーチェ思想 における基本的な論点 と鮎酷をきたして しま うため、その意味で この言葉を訳語 として使 用 しにくい とい う事情 もあるのだ。「真の自己」 といった表現 を使 う場合、
" Wi emanwi r d, wasmani s t . "
は、 「真の自己」が既に明確な内容を持つ ものとして存在するとい う想定を前提 とし、その うえで 目標状態 としての 「真の 自己」‑いかにして到達するかを語っているかのようにも解 されかねない。
だが、ニーチェにおいては発見 されるべきもの としての 「真理」ではな く、創造 されるべ きもの としての 「真理」が強調 されていたの と類比的に、「真の 自己」 とい う言葉を仮 り に使 うにしても、それは発見 されるべきものではな く創造 されるべ きものとして存立する。
したがって、敢えて 「真の自己」 とい う言葉を使 う意味はあま りない ように思われるが、
これが 「真の自己」 といった言葉を用いて訳す場合の第一の難点である。また、第二の難 点 としては、「真の 自己」 とい う措辞がニーチェの 「主体」概念 と齢酷 をきたす とい う点 が挙げられ る。ニーチェは、まず従来の 「主体」概念、つま り諸々の作用 (活動) とは区 別 され、それ らの原因 としてある自体的存在 として 「主体」 (「自己」)を構想す る伝統的
「主体」概念 を否定する。それに代えてニーチェが提示するのは、諸々の作用 (活動)の 総体 としての 「主体」(「自己
」)
、すなわち相対立し得る諸々の思考、諸々の欲望、諸々の 行為が取 りま とめられたもの としてフイクシ ョナルな性格 を持ち、不断に変化してゆ くも の としての 「主体」(「自己」)であって、不変の特性 を持つかの よ うな 「真の 自己」 という措辞はこうした 「主体」概念 とも同じく敵酷をきた して しま うのである。
以上の よ うな理 由か ら、筆者 としては
" Wi emanwi r d, wasmani s L"
の" wa sman i s L"
を 「今あるところのもの」 と訳す ことが相対的に妥当だ と考える。だが、 「今あるところのもの」 とい う表現を使 うか らと言って、ニーチ ェが この言葉で現状の自己の無差別 的な追認、無差別的な肯定を意図していた と言お うとしているわけではない。事態は、む
しろ逆で、 「真の 自己」 といった言葉で表現す るのは不適切だ として も、ニーチ ェが 自己 の望ま しいあ り方に関 してきわめて厳格 に思考 していたのは否定すべ くもない。その文脈 で主題化 されるのが過去の問題 に他な らない。
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望ま しい自己のあ り方 と過去 という問題前節で若干触れた よ うに、現 にある自己、 「今ある ところの もの」は諸々の相村立 し得 る思考、欲望、行為が取 りまとめ られる限 りでの、つ ま りニーチ ェ流の術語 を使えば諸々 の力‑の意志の組織化 と協同 としての統一性 を備 えている。だが、その統一性は、言い換 えれば 「今ある ところの もの」は絶 えず暫定的な性格 を帯びている。 したが って、「人は いかにして今あるところのものになるか」 とい う言葉の強調点は 「今あるところのもの」
(存在)それ 自体にではな く、む しろ 「今あるところのもの」 に 「いかにして ・・なるか」
(生成の過程) とい う点 にある と見なければな らない。 「今あるところのもの」は どこか の時点で一度限 りで達成 され る目標状態ではな く、絶 えざる生成の過程 にあるものなので ある。 「今ある ところの もの」は絶 えず次の 「今 ある ところの もの」によって乗 り越 えら れてゆ くのであって、 ここで主題化 している言葉の意味す るところが、現状の自己の無差 別的な追認、無差別的な肯定でない ことは既 に触れた通 りである。
では、 「今 ある ところの もの」は次の 「今ある ところの もの」によって どの よ うな方向 に乗 り越え られてゆ くのか ?あるいは、乗 り越 えられてゆ くべ きなのか ?こうした問いに 対する解答の一つ として一義的な方向性 はない とい う解答 もあ り得 るか と思われ るOだが、
もしそ う考 えるな らば、現状の自己の無差別的な追認、無差別的な肯定 に容易に繋が り得 ることは見やすい ところであろ う。ニーチェの思想をその ようなもの として解釈 しよ うと す る立場があ り得 ることは否定で きない。だが、 こうした問題 に関す るニーチ ェの言説を 全体 としてみるな らば、 「今あるところのもの」が乗 り越 えられてゆ く望ま しいあ り方を ニーチ ェが想定 していた ことは疑い得ない。既 に若干触れたよ うに、そ こにこそニーチェ の見る自己の望 ましいあ り方の形が示 されているのであるC
『悦 ば しい知識cll第
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節では 「一事 こそ必要だ。‑ 自分の個性に<スタイルを与える>とい うこと‑ これ こそ偉大で稀 有な芸術だ」 と言われてい るO また、『ツアラ トウス ト ラ』第二部 「救済」の章では 「断 片であ り、謎であ り、恐ろしい偶然であるものを一つ に 圧縮 し収集すること、 これ こそ私が 日夜肝胆を砕いていることである」 とニーチ ェはツア ラ トウス トラに言わせている。 これ らの言葉 に示唆 されているように、内部 に柏対立す る ものの緊張 を極度 に持ちなが らなお統一性 を保つ個人 とい う理想、あるいはデ ィオニ ュソ ス的魂 とい う理想 をニ‑チェは望むべ きもの と見定めていた。 「今 ある ところの もの」が 次の 「今あるところの もの」 によって乗 り越 えられてゆ くあ り方 には、むろん可能性 とし ては、それが より統合度の高い統一性‑向か う場合 もあれば、また逆 に統一性 を解体す る 方向‑向か う場合 もあ り得 るOだが、ニーチェの場合、 自己を成 り立たせている諸々の力
‑の意志 (自己を成 り立たせている諸々の思考、欲望、行為等々)が葛藤や対立を畢みな が らも自己の統合度 を高める方向で 「今あるところのもの」が不断 に乗 り越 えられてゆ く
あ り方が望むべ きもの として想定 されていた ことは疑い得ない。
しかも、 この想定はニーチ ェ哲学 において周辺的な位置 を占めるものではな く、む しろ その核心 に関わる想定である。それは、後述す るよ うにこの想定が 自己の肯定、自己の全 人生の肯定 に関わ る事柄 に他な らないか らだが、 こ うした文脈で議論の焦点 となるものこ そ過去の問題なのである。では、それは何故か ?
端的 に言 えば、それは、統合度 を高めつつ 「今あるところのもの」 に不断 になってゆ く 自己の生成の過程の最大の障害物が 自分の過去 に他な らないか らである。ニーチ ェにとっ て、 自己とは 自己の諸々の作用 (行為、働 き、活動等々)の総体のその都度統合 された形 に他な らない。その諸々の作用 には現在遂行 中のもの もあれば、今後生起す るであろ うも のもある。 これ ら現在 と未来 における作用 については少な くとも論理上は個々の作用を自 己‑ と統合 しつつその作用 を生起 させ ることは可能である。それ に比べてみた場合、過去 の既 に起 こって しまった ことにつ いてはそ うした可能性がない ように見 える。 言い換 えれ ば、過去 に考 えた こと、欲 した こと、行った ことは既 に起 こって しまった こととして動か し難 く、そのすべてを自らの過去 として 自己の うちに統合す るのは困難 きわま りな く思 え るとい うことだ。過去の事実性、 とりわ け自らのもの とは認めた くないよ うな過去の事実 性は消去できない重荷であるかのよ うである。だか らこそ、ニーチ ェはツアラ トウス トラ に 「意 志は解放す る。だが、 この解 放者 をす らも鎖 につな ぐものは何 と呼ばれ るのか ?
<そ うあった>意志の歯ぎしりと、その最 も孤独な憂愁 とは、 この よ うに呼ばれるのだ。
な されて しまった ことに対 して無 力なるままに、‑ 意志は、一切 の過 ぎ去 った ものに対 して、一人の悪意 を抱 く傍観者である」 (『ツアラ トウス トラ』第二部 「救済」)と語 らせ ているのである。
自らの過去の さまざまな事柄 に関す る後悔、悔恨、罪意識等々について考 えてみれば明 らかな ように、 このツアラ トウス トラの語 りは、一見す るほど大仰な事柄 を語 っているわ けではない。過去 に起 こった事柄は打ち消 し難 く、 自らの こととして認めた くない過去が あるとい うことは、確かに大方の人が承認す る人生の実相であると考 えられ るか らである。
だが、その ことの承認 にとどまろな らば、それは生 きてゆ く過程で多 くの人が会得す る人 生知以上の もので も、以下の もので もあ り得ないOニーチ ェは と言えば、その過去の事実 性の重みを承認 した うえで、そ うした過去 を自己の内‑ と統合す る方途を模索 したのであ る。ニーチ ェの永遠回帰思想は、 こ うした文脈 にお ける一種の思考実験 である、つ ま り
「人はいかにして今あるところのものになるか」 とい う問いに対する一つの解答の試みで あると解 され る。
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過去の問題 と永遠回帰思想前節の後半でツアラ トウス トラが過去の事実性の重荷 を承認す る箇所 を引用 したが、そ の同 じ章でニーチ ェは さらに次の よ うにツアラ トウス トラに語 らせている。すなわち、「意 志は創造者だ。 一切 の<そ うあった>は、一つの断片であ り、一つの謎であ り、一つの恐 ろ しい偶然である。‑ 創造者 としての意志が、それ に付 け加 えて<しか し、そ うあるこ
とを私 は欲 したのだ >と言 うまではO‑ 創造者 としての意志が、それ に付 け加 えて<し か し、そ うあることを私 は欲す るのだ。そ うあることを私 は欲するであろ う。 >と言 うま ではC」 (『ツアラ トウス トラ
』
第二部 「救済」)、 と。永遠回帰思想 に関わ るニーチェの言説はきわめて少ないが、そのなかで もこの箇所は過 去の問題 と永遠回帰思想 との連関が明示的 に示 されている とい う意味できわめて重要なテ キス トだ と解 され る。 このテキス トは、多 くの場合、 自ら認めた くない過去 も含めてすべ ての過去を自らのもの と受 け入れ られ るか どうか、その試金石 となるのが永遠回帰思想だ とい う趣 旨で解釈 されていると思われ る。過去の事実性 に手を加 えることは人間 には不可 能だ として も、過去の出来事の意味づ けを変更す ることは可能である、つま り永遠回帰思 想 を受 け入れ、<しか し、そ うあることを私 は欲 したのだ>と言 えるな ら過去の事実 は同
じまま過去 に肯定 とい う意味が付与 され るとい うふ うに解釈 されていると思われ る。
これは、文字通 りにニーチェのテキス トを解す る限 り、誤 った解釈 とい うわけではない。
だが、もしこの解釈 にとどまるな らば、それはやは り説得 力を欠 く解釈だ と言わねばな ら ない。 この解釈は、 自分の人生 を肯定す るためには、永遠回帰思想を受 け入れ過去 につい て<しか し、そ うあることを私は欲 したのだ >と言えなければな らない とい う、いわば永 遠回帰思想 を決断の問題 に還元す る解釈であるよ うに思われ るか らである。 ツアラ トウス トラが既 に起 こって しまった諸々の過去 を自ら意欲 した ことだ と考 えるよ う勧めているこ とは確かだ として も、問題 はむ しろ何故ニーチェはツアラ トウス トラにそ うい う勧めをさ せているのか、 とい う問いの次元 にこそあるよ うに思われ る。
こ うした問いの次元まで踏み込む とき、現在の 自己は 自己の諸々の作用 (行為、働 き、
活動等 々)の総体のその都度統合 された形 に他な らない とい う洞察があ らためて重要性 を 帯びて くるよ うに思われ るOつま り、 この洞察 を徹底 させれば、過去に生起 した 自らの無 数の作用の どれか一つで もなかった ことにしたい と願 うとすれば、そ う考 える自分は実は
「今あるところのもの」 とは別の存在であ りたい と願 うこと、 より強い表現 を使えば 「今 あるところの もの」 をなにが しか否定 したい と願 うことに他な らない とい う洞察 に至 り着 くと思われ る。ニーチ ェは こうした洞察 に基づいて永遠回帰思想の受け入れをツアラ トウ ス トラに勧め させたのではないか。そ う解す ることで、永遠回帰思想の新たな解釈の方向 性が浮かびあがって くるよ うに思われるのである。
(川村学園女子大学文学部教授)