﹃和 漢朗 詠集
﹄ 所牧唐詩注裡補訂側
‑一五
O
番白居易一江棲にてタ望し︑客を招く﹂一風吹枯 木晴天雨︑月照平沙夏夜霜﹂
O
長慶三年(八二三)の夏︑作者五二哉︑杭川での作(花房・朱・王)︒杭州刺史在任︒一江棲﹂とは︑杭州城の南郊を
流れて海へとそそぐ銭塘江(前江)のほとりに立つ高棲の意︒
南宋のは批判恥﹃淳一肺臨安志﹄巻五︑奮治古蹟・東棲の僚には︑
三に望海棲と筒︑一ノく︒喜治(鳳恩山下にあった唐代以来の杭川の役所)の中和堂の北に在り︒(北宋の築史)﹃太平嚢宇記﹄
(在九三)に︑望潮棲と名づく︒銭塘燃の南一十三里に在り︒
棲の高さは一十丈(約三
0
メートル)︑唐の武徳七年(六二四)に置く
l ﹂とあり︑本詩などを引いていう︑
案ずるに︑白公(居易)の︑郡(杭州品開杭郡)に在りしと
きの詩︑多く此の棲に子いてこれを設す︒査くは載せず︒
187
﹃和漢朗詠集﹄所牧唐詩注樟補訂帥(植木)
植
木
行 久
と︒南宋の潜説友﹃成淳臨安志﹄巻五二︑府治の候も参照︒
要するに︑江棲とは︑東棲・望海棲・望潮棲などとも呼ば
れ︑杭州城の南端にある鳳嵐山の東側︑銭塘江を術敵する杭
州の川聴内にあった高棲らしい︒白詩﹁杭州春望己(巻初︑後
集を
5 )
の自注に︑一城東の棲を望海棲と名づく﹂という︒白
居易はまた︑﹁東棲南望八韻﹂詩(者初︑後集在
5 )
のな
かで
︑
﹁郡中の登棲の慮︑此の東軒(東棲)に勝るもの無し﹂と歌う︒
標高一七八メートルの鳳嵐山の中腹にあり︑しかもその場所
(3
)
は現在よりもかなり銭塘江や海に近く︑それで特に眺望にめ
ぐまれていたのであろう︒
ちなみに︑北宋の蘇賦にも﹁望海棲晩景五絶﹂の作がある
が︑南宋の初期になると︑すでに慶されていた(周蒜﹃乾道臨
安士宣告二︑東棲の保参照)︒なお︑唐代の杭州域については︑
188
中園詩文論叢
第 十 集
周峰主編﹃隔唐名郡杭州﹄(淵江人民出版社・杭州歴史叢編之二︑
一九
年)の専著があり︑巻末に付載する﹁唐時期杭川園ー一九
O
も参照に値する︒
本句は東棲から銭塘江付近を怖敵しつつ︑聴血児(上旬)と
硯費(下旬)を通して夏の夜の﹁清涼﹂(本詩第八句)感を歌
う︒﹁タ肇﹂のタは︑ここでは﹁夜﹂と同意︒夕方をも含ん
だ夜全躍を意味する言葉である︒
︒︹風吹枯木晴天雨︺類似した護想は︑すでに﹁遺愛寺の
前の渓♂持に題す﹂詩(告げ︑四七歳の作)に﹁暑天風慧意︑晴夜雨凄凄﹂と見える︒また﹁秋タ﹂詩(巷印︑四十歳の作)
には︑﹁葉聾落ちて雨の如く︑月色白くして霜に似たり﹂と
いう︒この﹁秋タ﹂詩を踏まえての護言であろうか︑﹃私注﹄
きうぼく
に﹁枯木とは朽木なり︒其の葉の落聾︑雨に似たり﹂とい
い︑﹃抄注﹄にも﹁枯木トハ︑モミチ(紅葉)タル木欺︒落葉
ノ一音ハ︑ハレ(晴)ノソラニモ︑雨ノフルトキコ(聞)ユル意
也一とある︒つまり︑風に吹かれて舞い散る落葉の一音を︑そ
ぼ降る雨のそれに見たてた設想︑と考えたわけである︒しか
し︑盛夏の情景として揺落の秋の﹁落葉﹂する一音を思い描く
ことは︑やや飛躍しす︑ぎているようである︒しかも﹁枯木﹂
の場合︑一木﹂字が狭義の一孤灰﹂を犯すことになり︑一層 好ましくない︒やはり︑﹃白氏文集﹄の各テキストに従って﹁枯木﹂を﹁古木﹂に校改すべきであろう︒柿村﹃考詮﹄にも﹁枯字作v古︑是﹂という(金子・江見﹃新津﹄も同じ)︒穆
蒼と生い茂る︑ものふりた大木の枝や葉が︑風にざわめいて
設する﹁清涼﹂な一音の形容と見るべきであろう︒晩唐の方干
﹁龍泉寺の絶頂﹂詩(﹃三種詩﹄巻二)にも︑﹁古樹は風を含ん
で常に雨を帯ぶ﹂と歌う︒
ところで佐藤保﹁古木考﹂は︑詩語としての﹁古木﹂のイ
メージを失のように分析する︒
か し ょ こ う む
川﹁古木ー一の語の初出は︑六朝末︑陳の何膏﹁使を被り
て闘を出ずる詩﹂の︑﹁古木上って天に参わる﹂であるD
ω
詩語一古木﹂は盛唐以降愛用されるが︑なかでも劉長卿は︑この言葉を多用する(国例)︒士口闘や古廟における
悠久の時の流れや荒慶の感鹿児︑違境の寂察︑庭園・山野
の雅趣などを博える働きをもち︑それを使用する場所も
多様化する︒かくて中晩唐期には︑詩語﹁古木﹂のイメ
ージが完全に定着する︒
ω
﹁士口﹂は永遠の時の流れを意味する歴史感費をもつが︑﹁老木﹂﹁老樹﹂の﹁老﹂は時間の限定された生命感賓の
言葉である︒他方︑﹁木﹂は樹木の線韓︑または樹木の
樹 木 た る 特 性 を 抽 象 的 か つ に 捉 え る と き に 用 い ら
れ︑﹁樹﹂は逆に個々兵種的な生命鰻としての樹木を
に用
いる
︒ る に
︑ に 最 も 影 響 を 輿 え た で あ ろ う 作 品 は
︑ 同
論文にも引く路賓王の﹁張平子︿後葉の張衡﹀の墓に過る﹂詩
の︑一日藩ちて盟碑培く︑風来りて古本吟る﹂の句であろう
Q酪臨海集護法﹄巷二所牧﹀︒ただその荒涼・ と
木 の 鳴 る 衰 の 暑 さ を 忘 れ さ せ て く れ さ せ た と こ ろ に
︑ の 工 夫 が 為 る わ け で あ る
︒ とは︑銭塘江の
詩(前掲﹀に明るくし
護江提は向くして晴沙を踏むLとあるちによ れば︑あるい護岸の白い沙堤を指ずか︒白沙の水建が佼絞
たる月光に賊らされて︑より一層白くきらめくのであろう︒
一 設 に
︑ こ の 卒 沙 は
﹁ 卒 地
﹂ の ( 顧 皐 額
・ 馬 汝 品 吋 臼
や王汝弼門出活易建築﹄
など
)︒
一九
八
C
年 ︺
沙の擦には︑抄には
地を産く
袋 一 一 一
︑
を意味する用法があるとし︑
と表現することができる︑2
巻 四
︑ の 僚 に も
︑
閣の
一一
演﹂
189
叫和
漢弱
詠集
﹄所
歌麿
持法
難補
訂駒
(植
木﹀
ナト一五コト
一一
議診
・平
沙ナ
ド武
ヘル
モ︑
ハアラズ︒
ス
雨意を含ませたかたちで︑水
えてよいだろう︒
一百
韻:
・﹂
詩ハ
経路
﹀の
なか
で︑
﹁設
く れ な ゐ し
紅 に し て に 浸 し
︑ 沙 自 く し て 月 卒 ら か に 錨 く
﹂ と 歌
う︒これは長江の岸ベにある江州︿江酒者九江)での作︑なか
でも後句は一面に降りそそぐ丹光のために白くきらめく沙地
を歌い︑本匂のイメiジともれ似かよう︒月の光を霜げいたとえ
る比喰は︑李自の﹁静寂思﹂の用例が特に有名である9白賠
易の場合は︑前鶏の﹁月色白くして霜に似たり﹂のほかに も︑﹁丹は新霜の色を帯と歌っている句酬夢得霜夜艶月見
懐﹂
詩︑
器部
︑後
集在
日持
﹀︒
謹 と
の い
しかし︑本匂の ハマト
トナ
リノ
︒
‑ 一 五 自 居 易
﹁風生竹夜窓関臥︑問
︒長慶二年(八一一二﹀の初憂︑作者五
内 の 自 宅 で
︿ 花 房 ふ
・ 託
﹀
︒
︑蘇試は本匂を︑﹁白
(6
﹀して紹介する︒
に贈
る﹂
190
中国詩文論叢
第 十 薬
本詩作成時に
なお︑川口まには︑︿文集
を還り慮る﹂詩﹀とあるが︑これ
ない
︿﹃
文感
知本
も同
じ
Y
誤解な招きやすいの で 八年後のはな
い︒
為ったかどうか
朝よ
り鯖
り︑
の
るべきで
あろ
う︒
を 措 寓
い す
て
る
て 行 の 一五々とあるのはよれば︑三とは︑
ったコ堂﹂内の北警のもとにある︑
紙を貼らないをいう告なお︑向詩にはさらに︑炎熱の一一一
決のとき︑朝廷から野ると︑﹁竹窓﹂のもとで衣裳をお︑き︑
し や た か
hULろ紗の頭巾をかぶる︒そして六尺の小さな竹聾の上に臥すと︑
風があって一晩中涼しいと歌う︒本詩ハ一一九一番)作成の年の
紋︑都長安から杭婦へと赴任する途中で得った﹁竹窓を閉山
ハ を 8﹀
ι
も︑その決遁さななつかしんで︑こう歌う︑新昌ハ坊﹀の堂の︑薫粛ハ駄の一音﹀たる北窓の下
枕鰻在り︑来後何人か寄る﹂と︒
の間は︑ほとり︑そば︑
﹁池
上竹
下
. b
て
あ た り 窓 護
・
(巷
幻︑
後集
脊
6
﹀の
︑巻
話︑
レ ら
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後集
巷
4﹀
の﹁
率問
ハ 其
露関
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﹀
などによれば︑
む存んだらしい︒
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︑ 岳 居 易 の 竹
との部には︑陶淵嬰と弟︑
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林:林三平日な竹こ
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﹂JJih
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か り で な く
︑ 議 藁 と 玉 っ た て る 竹 眠
︑ そ
れとともに醸し出す静関をも野んだようで島る︒
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二 八
一 一
良 ﹀
︒ さ
ら に
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︑J〆
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一 っ と し て の 樹 石
﹂ を あ げ
︑ の よ う に い う
︑
過去げいおいては︑多く﹁調底﹂とか一山曲﹂の松や竹が︑
文思?の題材であり︑取り上げるのは︑倫理的な構感︿四季
官通じて襲らぬ綾を保つ欝操への共感 i 引用者注)であった︒し
か し
r
日岩易が頻りに歌うのは︑震前の転と討であり︑しか も そ の 松 籍 や 竹 韻 が 動 機 で あ っ た
︒ 白 居 間 に お け る
︑ 訟 竹 の の で あ る
︒
と (
四 七
一 一
一 頁
) ︒
﹀h
ノ︒
の 場
合 も
︑
そ の
υ
ためであろ
↑近くして臥せば︑数風
191
﹃和 寝朗 一試 集﹄
ハ植木)
枝に聾るを﹂︿﹁新栽竹﹂議 9
﹀ と 申 の
﹁ ス ス ミ ツ シ タ竺意辻︑この重要な貼を見逃しているようである︒なお
︑在﹄は︑一!風生竹夜;一の生を﹁来ル義邑﹂とするが︑和
(珪生する)のままでよい︒
然 の
詩 ハ
一
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業 部
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局 ︑
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る ︒
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方を観望できるように作った高い建物︒高どの﹂と注する﹀︑
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造 根 謹
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あろう︒しかし︑
年 ︑
品 川
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かえれば︑この蓋は
心重量)をいう
c戸 ‑ ︑
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︐ ずれ
l uv
するに青瓦を以てし︑之を白沙の は︑現らかに松の生える白沙の中
首﹂ハ其二︑を初︑後集餐叩)にも︑
192
中 関 持 文 誰 叢 第 十 集
た に す 令 後
︑ 新 昌 豪 ょ の 七 株 の 松 を
﹂ と 為 る
cこの蓋も
自宅内の中誌を指すことは疑いないcこのほか︑﹁大兄
たてまっ
仕 上 る
﹂ 詩 ハ 巻
M
﹀の
﹁ 濁 り 荒 蓋 に し 望 一 め
日は西にして愁ひ立って黄昏に到れり
ハ 日﹀
荒れはでた高豪をいい︑決して
ん︑建物な沖るときの
︿ ロ ﹀
用保として︑﹁新たに
の⁝卒去高さ数尺︑
げる
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の自宅のは︑じっ
はなく︑自然のまま
ているらしい︒新昌坊一内の
L、
し、
は
︑ 長 安 域 内 の 高 い
の一角を占めていたむ繁遊原とは︑
西年在位﹀合同る紫遊患のあっ
つ︑そのハ新日日・昇道・
ハ 標
高 約
四 五
C
メi
トル﹀換の宣帝ハ前八七
J
前七
の東北龍を中心としつ
・宣千など﹀にも農がる高原で
︿日
)
一の自宅を︑﹁背龍南の北
経印﹀︒青龍関と ある︒白
易 は か
と歌
うハ
﹁題
新賠
︑寄
元入
﹂
四の
いで謹頂を受けた名料︑
ており︑その位震は前述の柴遊原の
(M
﹀部にあたっている己白居易の自宅辻︑その青龍帝か
を越えた巽北にあった︒自⁝口﹁新品の新吾︑事を書
あ・;﹂ハ脊印﹀には︑ハ大切宮の丹愚門﹀は後に雷り︑
望一
のも
と応
あ
ところで三
ミ
i
土 中中 、 鹿
野拙の
文 論 叢 第 集
し く
のイ'メ;
うして考えてく
しても知られた
もしく
ょう︒岡村
︑と
藷す
のは
︑ え て そ
︑ 本 詩 の 第 六 却 の
﹁
り謡えする客)無し﹂ともよく呼臨すること
送連(迭
なろうc
て
ちな
みに
︑
﹂という
松蓋に上つ の白詩に
る︒
これ
は︑
む友人︑の留守宅を訪れての作で為る︒この移業坊付近
も業議療に隣接する高葦である︒﹁松基﹂とは﹁桧が生えた
棄地い(関村吋由民文集い一一一の注﹀を意味するがより兵糧的に
は︑この松塞もおそらく︑その地が繋遊原に
あったことを措まえての措爵であろう︒要ム
ているのではない︒
‑ 一 五 九 番 白 居 易
﹁ 池 上
上錯残雨︑議樹陰部逐晩諒LO
開 成 一 克 年
︿ 人 一 二 六
﹀
︑ 作 キ の 自 宅
での作︿花房・朱﹀︒太子少縛分可在伍︒池上は池の上り︒こ
の 池 に つ い て は
︑ 一 一 回 参 照
︒ 逐 涼 は 納 涼
・ 涼 な ど と も い い
︑ 暑 さ 全 涼 し い
とをいう︒白詩応は︑﹁仇
(議
鈴︑
後集
巻
4
﹀︑﹁
油幹
類題が島る︒古くは梁の
を納る古河楊の
V C 、
〉帰 弘、明耐
の 場
正 斗 ),7'"
r::t 1'‑
な逐ふ
ハ一
一首
其
﹀﹁
青武
口地
の も
沼︑
議集
巻
2
﹀の﹁静かに掃く193
‑乗
てすずむこ
( 器
﹀m w
︑﹁
境涼
偶一
散﹂
﹂(
春日
初︑
後集
替口
﹀な
どの
つ内題にて涼を逐ふ﹂詩に︑﹁涼
落花の中﹂とあり︑梁の詩文帝
などの詩が浅る︒
の自宅での洋平朝課﹂
によれば︑
2相撲蕗詠集知所牧慶詩技韓議訂紳(植木﹀
の
( 院
﹀ は 美 し い お お わ れ て い た
9白居易は育苔のおおう
か け い
風景を特に好んだようである︒母の喪に設して退居した下郊
の自宅で︑﹁関歩す青苔の院﹂(﹁秋君︑在叩﹀と歌い︑都長
安の中書省において︑︹制限(閑静﹀は愛す青玄口の説一(﹁偶題
謁下聴い︑巻目﹀などと歌っている︒
誌の各テキストでは﹁残暑一に作る︒
らいえば︑﹁幾議﹂に作るべきで為ろ
是ー
一と
ある
(吋
新鰹
﹄も
向
山集
異文
考い
2
⁝ 附一 掃 ﹀ は
︑
日本的規受美応よる捉
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︹線
樹陰
前︺
には﹁陰間﹂に作る︒
祉︑一九九 C
年 ﹀
篠に
いう
︑
﹁陰
中い
とほ
(中州吉籍出版
の
であ
る︒
( を
の
194
中国詩文論叢
第 十 集
と︒﹁頭﹂字もこの中に加えてよい︒こうした現象はおそら
く︑これらの方位詞が卒灰や封句などの修辞上の制約から︑
漠然と場所を表わす軽い名詞語尾になった賓態と関連してい
よう︒ちなみに︑﹁中﹂を音
浩﹃貌E
菅日
南北
朝詞
語例
四樟
梓﹄
(江
蘇古
籍出
版吐
︑一
九九
O
年)﹁
前﹂
の候参照︒一例をあげれば︑梁の氾雲﹁︑途別﹂詩に﹁未壷樽
前酒﹂とあり︑﹁樽前﹂は﹁樽中!一の意︒
こ か げ
O︹逐晩涼︺木陰での夕涼みをいう︒﹃六注﹄に︑一逐トハ
朝ススミヲハ木隠(木陰)ノ西一一求メ︑夕涼ヲ木隠ノ東一一求ム
ル也﹂とある︒白居易はこのとき︑一軽い下駄をはき車衣を
さ し や ほ と り ふ ぢ だ な
著て︑薄い沙の帽子をかぶり︑浅い池の違の低い藤棚のあた
りを散歩し﹂ている(佐久節語)︒﹁晩涼﹂の語は︑すでに杜甫
の詩(﹁輿任城許主簿遊南池﹂)に一晩涼洗馬を看る﹂と見え
‑一六O番 る ︒
粛一
躍先
秋涼
﹂
︒大和四年(八三
O )
の夏︑作者五九歳︑洛陽の履遁里内の
自宅での作(花房・朱)︒太子賓客分司在任︒池上ば前詩(一
五九番)と同意︒詩題は金津本に﹁池上夜憶﹂に作り︑前田 白居易﹁池上の夜境﹂﹁露箪清笠迎夜滑︑
風
襟侯爵家所蔵博二候魚氏筆本や岩瀬文庫所蔵延慶本などにも
﹁池上夜憶﹂と題する(堀部正二﹃校異和漢朗詠集﹄)︒他方︑﹃私
注﹄には﹁池上夜憶人﹂に︑﹃六注﹄には﹁池上夜涼憶人﹂
に作る︒卒阿武夫・今井清校定﹃白氏文集﹄(第三珊)は︑金
津本に擦って﹁夜境﹂を﹁夜憶﹂に校改するが︑むしろ﹁憶﹂
字のほうが﹁境﹂の形詑とも考えられる︒というのは︑本詩
︹補
注︺
の重黙は明らかに﹁池上の夜境(夜景)﹂を歌うことにあり︑
﹁憶ふ﹂あるいは﹁人を憶ふ﹂要素はきわめて乏しいからで
ある
(佐
久節
の課
参照
)︒
て ん さ
O︹露箪︺箪は︑総の竹を男き︑(その表皮を)編んで作っ
た夏の敷物(竹製のござ)︒和名はタカムシロ︒熱い夏に寝牽
(株)のうえに敷き︑なめらかで涼しい肌ざわりを柴しむ︒そ
の心地よい絹感が肌寒く感じられるようになるころ︑すでに
秋が訪れている︒白詩の﹁露箪秋意生ず﹂(﹁涼夜有懐﹂︑在
5)
や﹁秋は箪上より生ず﹂(﹁夜坐﹂︑各
U )
とは︑いずれも
この音山味である︒白居易は︑特に一六尺﹂の小箪を愛用した
らしい(前掲の﹁竹窓﹂や﹁招東隣﹂(巷
7 ]
など
)︒
きし中う唐代︑斬川(湖北省東端に近い長江ぞいの地)産の箪が特に有
名︒韓愈の﹁鄭群箪を贈る﹂詩に︑﹁斬州の笛竹(十日川)天
下知る﹂とある︒白詩﹁李斬川に寄す﹂詩(巻弘︑後集在日)
な ら か い え ふ て ん
の自注にも︑﹁鞍州は好笛井びに蓮葉穫を出だす'一という︒
年 地 ら お お に ら し
産業躍とは﹁滑かなること難の葉を鋪くが如き﹂ハ出詩﹁寄
薪州輩︑興元九︑間賭六韻﹂︑奮は山)惑が為るための命名であ戸
演群芳議官在位︑竹譜・竹一︑一
i薪竹﹂の設には︑﹁色
ん薄﹀ある者者以て箪を鶏り︑節の疎らなる者もて笛を
壌を帯ぶる者もて杖を震る
7
⁝という︒いわゆる斬竹の あ る
︒ 白 居 易 は
︑ こ の 舟 箪
﹂ を 愛 用 し
︑ 友 人 の 光 っ て い る
︒ も
︑ 島 る い は こ り 川
みJh
に 入 っ て い う
Q
薪
樺 ﹄
参 熊
﹀ ︒
王賛宥護婦懸﹂)に︑﹁夜深けて露議を課とある︒ところ
が 2 ハ迂﹄には︑一ー一蕗ハ︑スキトヲルトヨム色一という︒
的 注
調 伊
は ︑
白 詩
企 ⁝
則 一
掃 の
﹁ 容
鞍 苅
箪 ︑
輿 元
九 ・
: の
か 損 る む
の
ち な
み に
︑ し﹂の解穫と関連して興味深い︒岡村
は︑この匂を﹁露が下りたように溝らかで潤いがみめ
る﹂箪の措寓とする(一ニ八三一員)︒筆者辻︑﹁関タ︺詩(器
犯 ︑ 後 集 を
2 )
の辺地箪詰くして露有︒﹂の匂をも参類して︑
ある竹葉﹂(締村吋要解 b
に な お
︑
に い
﹀ フ
︑
堤留吉
1ヲ5
と
﹂とから︑夜
︿ ﹁
送 ︑
氷 議
写参
内和
溝朗
⁝
ι結集﹄所枚謄詩草棒補お締
の持に封する愛は竹で作ったものにまでおよんで
箪・杖・務などがそれである︒青幾筆・碧箪・新
制恥・臥筆・小譲などの語ーがしばしば沼市いられている
ろをみると︑あるいは休憩に︑あるいは訊践に野んで
用いたものと思われる︒
と (
二 八
一 一
一 頁
) Q
い 守 分 ︒
)‑
( 詩 洋 一
円 ) に 一
Jb
s
ヨ︿貌)﹂︑
に﹁キヌクススシケナル完}とあるが︑本来︑費十ふれ
のごとき輝きと透明惑に満ちあふれた清潤さをいう盤韻の形 容 語
︒ 品 別 戴 涼 夜
︑ 奈
5 )
に﹁露箪色は宝に似たり一 というむの字には︑一種の涼惑もこもる︒ところが一ー清 埜 : 一 に に 作 り
︑ 鐸 譲 原 定 額 筆 山 域 切 や
に 作 る ︿ 句 校 異 和
に擦って
滑 ら か さ と 冷 や か さ が 箪 で あ る
︒ 夜 に ため広一緒省︑表面が︑すべすべする
入 る
と ︑
降 り
ノ
196
中題詩文論叢
第十擬
江文字どおりべ水
﹁秋
池二
首﹂
ハ其
一一
︑山
菅沼
︑
てのつ滑らかなり﹂とあり︑
(紅
)
かなり﹂の匂もある︒
えりではなく︑ ことをいうQ
新 制 仰 い つ ま り
︑
気があってつるつるする意︒
にも
し
︑襟は︑い て
ふさぐ部分をいう︒それで
や﹁胸襟﹂などの熟一誌が生じてくるわけであるc
辻︑風が胸もとをなでる爽涼感をこめた表現G
を含
めて
五例
使揺
する
会索
引引
﹄)
︒﹁
新た
に事
基・
姪に示す﹂詩ハ前議﹀には︑﹁衿ハH襟﹀を開い
て坐せば︑一夏日も秋時の如し﹂と歌うcよ
a黙
の賦
﹂(
﹃文
選い
泰円
以﹀
の︑
一(
楚の
議﹀
に山
富た
る﹂
に向かっ
辻︑宋玉の
いてこれ
爽 や か で い の 形 容 語
︒
と う も け い
の孔誰珪﹁北山移文一(刊文選﹄審制)にる出席摺の制
あり﹂とあるように︑精神的な解放感をこめて用いることが
ら ん に や す な は
﹁蘭
若︿
寺読
﹀の
寓岩
﹂(
在
6
﹀氏︑﹁行止は親ち白蟻藤
たる
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一と
いう
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一
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ススシキ ι
﹁ 冷 や か に 身 に 浸 と 注 す る の は
︑ 下 匂 に 密 着 さ い が あ ろ う
︒
多い
︒
虫︑甚だ身
克 ﹂ ︑
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こうと平︿L
・ 一 六 一 寸 熱 き に し ん で
︑ 恒 寂 姉 の
す﹂⁝不是樺房無熱到︑担能心静邸身涼
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十年
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﹀︑
昨者
四
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︑
の作︿花・朱
苦し
命酷暑︑の南意がある︒﹁苦熱喜涼﹂ハ審問﹀の
苦炎熱﹂などは①の
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例︑﹁
苦識
に詩
ハ管
錦︑
後葉
春山
﹀の
堪建苦熱﹂などは②の用剖であろうGここでは作者を︑﹁人
てら
人 馨 を 避 け て 走 る こ と 狂 へ る が 揺 し
︑ 瀦 り 捧 師 の 房 者
出でざる有り﹂と歌われる﹁人人﹂の一人として捉え︿京匂
の﹁議﹂︹限定︺に注吾)︑ひとまず通設の舎に従うc
ただ
し︑
荷村富美子づ臼柴夫恥は﹁苦だ熱きに︑:﹂と謹む︒一組寂師
辻不詳︒合詩の問年の作﹁恒寂部﹂(﹁重判的援七紹句い其七︑巷
出﹀によれば︑彼の座簿の姉であった︒ちなみに︑白詩﹁桓
織の詩題には﹁和策天鱈雲寂借﹂とあ
(﹃
元横
集旬
怒川
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また
元橿
の﹁
思議
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向・
︿明
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集﹄
巷
﹀の一人︑震上人も向m w
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﹁題
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は
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ぅ実番
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日召
の大江経時
も
四時
部・
の 冬 テ キ ス ト で は に
﹁ 可
闘して︑関村﹃臼氏支集﹄四は︑
一ー
不是
﹂
﹂ に 作 る
︒ の
提匂﹄に擾って︑
かつて我が露に博来した﹃白氏文集﹄本げいは︑﹁可是﹂
を っ て い た 本 が あ っ た こ と が わ か る
︒
うの
は︑
あろう︒とい
に搾る異文は︑じつは一可﹂の
を意味する径語的用法がある
ために妄改された可
は︑
﹁可
﹂と
{子
に
こ と に 気 づ 文 意 を 通 れ ツ
議性がきわめて高いからであるG
は確かに通期したが︑震・五代になると︑
を意味する新しい用法が多用さ
興の裕一語的用法は後世の人々を
王じさせる要因になった︒郭
一 九 輯
︑ に は
︑
﹁ 出 回 一 ﹂
こうした新
例として︑この
そ の
話造成異文一の例をあげれば︑呉融﹁本塔偶題﹂詩に︑
無線糞花概黄葉可ん川作須春月始傷心
とある完全庸地配容六八六﹀︒傾繋すべき設である︒
ハ 第 四 衣 場 訂 本 ) 韓 虚 字
︑
197
明和理鎮詠集﹄所牧藤持法輝補訂倒 ⁝の繰にも︑韓愈﹁撤樹二首﹂ハ其一一﹀の
立︑
可ん
什針
げ煩
議蔓
作交
加﹂
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浦り
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う︑
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可 煩
﹂ を
﹁ 侍 煩
﹂ に 作 る テ ギ ス ト 辻
︑
﹁ 可
﹂
に﹁山一去を意味する用法があることに気づかず︑(何
た も の で あ る
︒ 通 ず る け れ ど も
︑ じ つ は 本
はな
い︒
是 枝 傑
のこ う し た 俗 語 的 用 は
︑ 外 露 で あ る わ が
の人々にとっては︑より一一層理解しにくかったであろ
う︒このことは︑五七三番の﹁可濁移身敷桔見︑子孫長存隔
しばしばあひ﹁濁り身を怒ふるまでに数柏見るベし﹂一五
われる︒しか
あり
︑﹁
可﹂
できたことに端的広
の濁﹂辻明らかに﹁山一旦獲﹂の
あ ベ
は
﹁ 可 に い も し く は
﹁ 可 け ん や い と 讃 む べ き と ろ で あ る
Q
詩家推鼓﹄悲上審
mm
Q
ただし︑島本では﹁何﹂に作る﹀︒よりく
従
に懇身︺
は
﹁ た だ
;
ることになる︒
の
は令く
﹂ハ
否
ところで特に興味深いのは︑
この﹁可濁﹂を﹁不弱﹂に作ることであpる︒中留で
を︑﹁向﹂に作る異文は多くめるが︑﹁不﹂
どで
は︑こうした
198
中園詩文論叢
第 十 集
に作る例はほとんどなさそうである︒ところが﹃和漢朗詠
集﹄に政める﹁山豆﹂を意味する二つ用例の讐方に︑﹁不﹂に
作る異文が存在するのである︒豊田穣﹁唐詩俗語放!一(養徳社
刊﹃唐詩研究﹄所牧︑一九五三年)には︑唐詩中の一可是﹂が︑
ある場合には﹁:・でせうか︑さうではありません﹂︑即
ち﹁不卦﹂﹁並不是﹂といった強い否定のひ
U
恥として用ひられてゐる︒
と指摘し︑郭在胎﹁唐詩中的反訓詞﹂(﹃訓詰叢稿﹄所牧)に
六この例⁝相是梓房無熱到)を引いて︑﹁可是猶山豆是︑亦却不是也﹂という︒とすれば︑口語﹁可是J﹂の意味を正確に
理解したうえで︑それを意園的に﹁同義の文語表現へと書き
かえた一可能性(柳瀬喜代志﹁和漢朗詠集異文考﹂)も全く否定
しきれないが︑むしろその意味を把握しかねて文意を通りや
すくするために﹁不是﹂に妄改した可能性がきわめて高いよ
うであるc
( 幻﹀
大野
峻﹁
白地
ポ天
の詩
﹃放
吾一
口﹄
二則
﹂は
︑
て︑きわめて注目すべき護言をする︒
可・何・不の三字は草書の字形が似ているため混同され
(お )
やすかったc昔は完本で博承されたのだから︑異本が多い
のは必然の結果である︒ことに草書ともなれば︑可と何︑
こ の 論 黙 に つ い
可と不は筆勢によってはほとんど巨別がつかなくなる︒
(中略)可の字が(正しく)譲めない時は︑意味の通じやす
い︑形も似ている﹁何﹂﹁不﹂に改めようとするだろう︒
その反封に︑﹁何﹂または﹁不﹂の句は意味がよく通じる
から︑意味の通じない﹁可﹂に改めようとする者はないだ
ろう
︒
と述べ︑﹁可﹂一何﹂一不﹂の三字間における異文部民生の原因
を鏡く分析する︒そして前掲の五七三番の詩句に着目してい
﹀内
ノ︑
不の字は日本の寓本だけにあるのも意味深長である︒つ
まり︑一可濁終身敷相見﹂を肯定文としたのでは意味が通
じないから︑文字の誤りが有ると考え︑可の字によく似た
不の字にしてしまった︒その時の寓本は恐らく草書に近
く︑可と不がよく似てたのではなかろうか︒草書字典を見
この二字はほとんど見分けがつかないものが見受け
る ル ﹂ ︑
られ
る︒
と︒きわめて示唆に富む設である︒筆者は現在のところ︑﹁不
是﹂は﹁可是﹂の妄改であり︑中園博来の寓本に﹁不是ー一に
緋九ものがあったわけではなかろうと考える︒ちなみに︑﹁可是﹂の是は︑副詞に軽く添えられる接尾辞(副詞語尾)であ