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『 和 漢 朗 詠 集 』

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(1)

所牧唐詩注裡補訂側

‑一五

O

番白居易一江棲にてタ望し︑客を招く﹂一風吹枯 木晴天雨︑月照平沙夏夜霜﹂

O

長慶三年(八二三)の夏︑作者五二哉︑杭川での作(花

房・朱・王)︒杭州刺史在任︒一江棲﹂とは︑杭州城の南郊を

流れて海へとそそぐ銭塘江(前江)のほとりに立つ高棲の意︒

三に望海棲と筒︑一ノく︒喜治(鳳恩山下にあった唐代以来の杭川の役所)の中和堂の北に在り︒(北宋の築史)﹃太平嚢宇記﹄

(在九三)に︑望潮棲と名づく︒銭塘燃の南一十三里に在り︒

棲の高さは一十丈(約三

0

メートル)︑唐の武徳七年(六二四)

に置く

l ﹂とあり︑本詩などを引いていう︑

案ずるに︑白公(居易)の︑郡(杭州品開杭郡)に在りしと

きの詩︑多く此の棲に子いてこれを設す︒査くは載せず︒

187 

﹃和漢朗詠集﹄所牧唐詩注樟補訂帥(植木)

と︒南宋の潜説友﹃成淳臨安志﹄巻五二︑府治の候も参照︒

要するに︑江棲とは︑東棲・望海棲・望潮棲などとも呼ば

れ︑杭州城の南端にある鳳嵐山の東側︑銭塘江を術敵する杭

州の川聴内にあった高棲らしい︒白詩﹁杭州春望己(巻初︑後

5 )

の自注に︑一城東の棲を望海棲と名づく﹂という︒白

居易はまた︑﹁東棲南望八韻﹂詩(者初︑後集在

5 )

﹁郡中の登棲の慮︑此の東軒(東棲)に勝るもの無し﹂と歌う︒

標高一七八メートルの鳳嵐山の中腹にあり︑しかもその場所

(3

) 

は現在よりもかなり銭塘江や海に近く︑それで特に眺望にめ

ぐまれていたのであろう︒

ちなみに︑北宋の蘇賦にも﹁望海棲晩景五絶﹂の作がある

が︑南宋の初期になると︑すでに慶されていた(周蒜﹃乾道臨

安士宣告二︑東棲の保参照)︒なお︑唐代の杭州域については︑

(2)

188 

中園詩文論叢

周峰主編﹃隔唐名郡杭州﹄(淵江人民出版社・杭州歴史叢編之二︑

年)の専著があり︑巻末に付載する﹁唐時期杭川園ー一

O

も参照に値する︒

本句は東棲から銭塘江付近を怖敵しつつ︑聴血児(上旬)と

硯費(下旬)を通して夏の夜の﹁清涼﹂(本詩第八句)感を歌

う︒﹁タ肇﹂のタは︑ここでは﹁夜﹂と同意︒夕方をも含ん

だ夜全躍を意味する言葉である︒

︒︹風吹枯木晴天雨︺類似した護想は︑すでに﹁遺愛寺の

前の渓♂持に題す﹂詩(告げ︑四七歳の作)に﹁暑天風慧意︑晴夜雨凄凄﹂と見える︒また﹁秋タ﹂詩(巷印︑四十歳の作)

には︑﹁葉聾落ちて雨の如く︑月色白くして霜に似たり﹂と

いう︒この﹁秋タ﹂詩を踏まえての護言であろうか︑﹃私注﹄

きうぼく

に﹁枯木とは朽木なり︒其の葉の落聾︑雨に似たり﹂とい

い︑﹃抄注﹄にも﹁枯木トハ︑モミチ(紅葉)タル木欺︒落葉

ノ一音ハ︑ハレ(晴)ノソラニモ︑雨ノフルトキコ(聞)ユル意

也一とある︒つまり︑風に吹かれて舞い散る落葉の一音を︑そ

ぼ降る雨のそれに見たてた設想︑と考えたわけである︒しか

し︑盛夏の情景として揺落の秋の﹁落葉﹂する一音を思い描く

ことは︑やや飛躍しす︑ぎているようである︒しかも﹁枯木﹂

の場合︑一木﹂字が狭義の一孤灰﹂を犯すことになり︑一層 好ましくない︒やはり︑﹃白氏文集﹄の各テキストに従って﹁枯木﹂を﹁古木﹂に校改すべきであろう︒柿村﹃考詮﹄にも﹁枯字作v古︑是﹂という(金子・江見﹃新津﹄も同じ)︒穆

蒼と生い茂る︑ものふりた大木の枝や葉が︑風にざわめいて

設する﹁清涼﹂な一音の形容と見るべきであろう︒晩唐の方干

﹁龍泉寺の絶頂﹂詩(﹃三種詩﹄巻二)にも︑﹁古樹は風を含ん

で常に雨を帯ぶ﹂と歌う︒

ところで佐藤保﹁古木考﹂は︑詩語としての﹁古木﹂のイ

メージを失のように分析する︒

川﹁古木ー一の語の初出は︑六朝末︑陳の何膏﹁使を被り

て闘を出ずる詩﹂の︑﹁古木上って天に参わる﹂であるD

ω

詩語一古木﹂は盛唐以降愛用されるが︑なかでも劉長

卿は︑この言葉を多用する(国例)︒士口闘や古廟における

悠久の時の流れや荒慶の感鹿児︑違境の寂察︑庭園・山野

の雅趣などを博える働きをもち︑それを使用する場所も

多様化する︒かくて中晩唐期には︑詩語﹁古木﹂のイメ

ージが完全に定着する︒

ω

﹁士口﹂は永遠の時の流れを意味する歴史感費をもつが︑

﹁老木﹂﹁老樹﹂の﹁老﹂は時間の限定された生命感賓の

言葉である︒他方︑﹁木﹂は樹木の線韓︑または樹木の

(3)

れ︑﹁樹﹂は逆に個々兵種的な生命鰻としての樹木を

輿

論文にも引く路賓王の﹁張平子︿後葉の張衡﹀の墓に過る﹂詩

の︑一日藩ちて盟碑培く︑風来りて古本吟る﹂の句であろう

Q酪臨海集護法﹄巷二所牧﹀︒ただその荒涼・

とは︑銭塘江の

詩(前掲﹀に明るくし

護江提は向くして晴沙を踏むLとあるちによ れば︑あるい護岸の白い沙堤を指ずか︒白沙の水建が佼絞

たる月光に賊らされて︑より一層白くきらめくのであろう︒

(

や王汝弼門出活易建築﹄

)

C

年 ︺

沙の擦には︑抄には

地を産く

袋 一 一 一

を意味する用法があるとし︑

と表現することができる︑2

189 

麿

(

ナト一五コト

ハアラズ︒

雨意を含ませたかたちで︑水

えてよいだろう︒

:

う︒これは長江の岸ベにある江州︿江酒者九江)での作︑なか

でも後句は一面に降りそそぐ丹光のために白くきらめく沙地

を歌い︑本匂のイメiジともれ似かよう︒月の光を霜げいたとえ

る比喰は︑李自の﹁静寂思﹂の用例が特に有名である9白賠

易の場合は︑前鶏の﹁月色白くして霜に似たり﹂のほかに も︑﹁丹は新霜の色を帯と歌っている句酬夢得霜夜艶月見

謹 と

の い

しかし︑本匂の ハマト

﹁風生竹夜窓関臥︑問

︒長慶二年(八一一二﹀の初憂︑作者五

︿

︑蘇試は本匂を︑﹁白

(6

して紹介する︒

(4)

190 

中国詩文論叢

本詩作成時に

なお︑川口まには︑︿文集

還り慮る﹂詩﹀とあるが︑これ

︿

Y

誤解な招きやすいの 八年後の

為ったかどうか

るべきで

一五々とあるのはよれば︑三とは︑

ったコ堂﹂内の北警のもとにある︑

紙を貼らないをいう告なお︑向詩にはさらに︑炎熱の一一一

決のとき︑朝廷から野ると︑﹁竹窓﹂のもとで衣裳をお︑き︑

hUL紗の頭巾をかぶる︒そして六尺の小さな竹聾の上に臥すと︑

風があって一晩中涼しいと歌う︒本詩ハ一一九一番)作成の年の

紋︑都長安から杭婦へと赴任する途中で得った﹁竹窓を閉山

ハ を 8

ι

も︑その決遁さななつかしんで︑こう歌う︑

新昌ハ坊﹀の堂の︑薫粛ハ駄の一音﹀たる北窓の下

枕鰻在り︑来後何人か寄る﹂と︒

の間は︑ほとり︑そば︑

. b  

(

6

レ ら

は態く

4

ハ 其

露関

︿

む存んだらしい︒

(5)

ち な み に

︑ 岳 居 易 の 竹

との部には︑陶淵嬰と弟︑

一「

林:林三

平日な竹こ

‑ R

JJih

ー ヲ

dBhu

か り で な く

︑ 議 藁 と 玉 っ た て る 竹 眠

︑ そ

れとともに醸し出す静関をも野んだようで島る︒

と ハ

二 八

一 一

良 ﹀

︒ さ

ら に

ヲ も︑

J

h u

一 っ と し て の 樹 石

﹂ を あ げ

︑ の よ う に い う

過去げいおいては︑多く﹁調底﹂とか一山曲﹂の松や竹が︑

文思?の題材であり︑取り上げるのは︑倫理的な構感︿四季

官通じて襲らぬ綾を保つ欝操への共感 i 引用者注)であった︒し

か し

r

日岩易が頻りに歌うのは︑震前の転と討であり︑しか も そ の 松 籍 や 竹 韻 が 動 機 で あ っ た

︒ 白 居 間 に お け る

︑ 訟 竹 の の で あ る

と (

四 七

一 一

一 頁

) ︒

h

の 場

合 も

そ の

υ

ためであろ

↑近くして臥せば︑数風

191 

)

枝に聾るを﹂︿﹁新栽竹﹂議 9

﹀ と 申 の

﹁ ス ス ミ ツ シ タ竺意辻︑この重要な貼を見逃しているようである︒なお

︑在﹄は︑一!風生竹夜;一の生を﹁来ル義邑﹂とするが︑和

(珪生する)のままでよい︒

然 の

詩 ハ

i

業 部

山 一

局 ︑

待 了

日 仏

品 不

革 ﹂

) に

と あ

る ︒

︿ 吋

文 産

﹄ 本

で は

︑ ﹁

m m

方を観望できるように作った高い建物︒高どの﹂と注する﹀︑

争品︑

造 根

;

般 的

て の

一 刑

者 の

あろう︒しかし︑

年 ︑

品 川

村 則

仔 執

筆 ﹀

かえれば︑この蓋は

心重量)をいう

c

戸 ‑ ︑

o

︐ ず

l uv

するに青瓦を以てし︑之を白沙の は︑現らかに松の生える白沙の中

首﹂ハ其二︑を初︑後集餐叩)にも︑

(6)

192 

cこの蓋も

自宅内の中誌を指すことは疑いないcこのほか︑﹁大兄

たてまっ

M

日は西にして愁ひ立って黄昏に到れり

ハ 日﹀

荒れはでた高豪をいい︑決して

ん︑建物な沖るときの

︿ ロ ﹀

用保として︑﹁新たに

の⁝卒去高さ数尺︑

も︑じつはこの

ペ コ

の自宅のは︑じっ

はなく︑自然のまま

ているらしい︒新昌坊一内の

L

の一角を占めていたむ繁遊原とは︑

西年在位﹀合同る紫遊患のあっ

つ︑そのハ新日日・昇道・

ハ 標

高 約

四 五

C

i

J

の東北龍を中心としつ

・宣千など﹀にも農がる高原で

︿日

)

経印﹀︒青龍関と ある︒白

いで謹頂を受けた名料︑

ており︑その位震は前述の柴遊原の

(M

部にあたっている己白居易の自宅辻︑その青龍帝か

を越えた巽北にあった︒自⁝口﹁新品の新吾︑事を書

・;﹂ハ脊印﹀には︑ハ大切宮の丹愚門﹀は後に雷り︑

ところで

i

土 中

中 、 鹿

野拙の

のイ'メ;

うして考えてく

しても知られた

もしく

ょう︒岡村

り謡えする客)無し﹂ともよく呼臨すること

送連(迭

なろうc

﹂という

松蓋に上つ の白詩に

(7)

む友人︑の留守宅を訪れての作で為る︒この移業坊付近

も業議療に隣接する高葦である︒﹁松基﹂とは﹁桧が生えた

棄地い(関村吋由民文集い一一一の注﹀を意味するがより兵糧的に

は︑この松塞もおそらく︑その地が繋遊原に

あったことを措まえての措爵であろう︒要ム

ているのではない︒

上錯残雨︑議樹陰部逐晩諒LO

︿

での作︿花房・朱﹀︒太子少縛分可在伍︒池上は池の上り︒こ

とをいう︒白詩応は︑﹁仇

(

4

類題が島る︒古くは梁の

を納る古河楊の

V C 、  

〉帰 弘、明耐

の 場

正 斗 )7'" 

r::t  1'‑

な逐ふ

の も

2

﹀の﹁静かに掃く

193 

てすずむこ

( 器

m w

(

つ内題にて涼を逐ふ﹂詩に︑﹁涼

落花の中﹂とあり︑梁の詩文帝

などの詩が浅る︒

の自宅での洋平朝課﹂

によれば︑

2相撲蕗詠集知所牧慶詩技韓議訂紳(植木﹀

(

9白居易は育苔のおおう

風景を特に好んだようである︒母の喪に設して退居した下郊

の自宅で︑﹁関歩す青苔の院﹂(﹁秋君︑在叩﹀と歌い︑都長

安の中書省において︑︹制限(閑静﹀は愛す青玄口の説一(﹁偶題

誌の各テキストでは﹁残暑一に作る︒

らいえば︑﹁幾議﹂に作るべきで為ろ

(

2

⁝ 附

一 掃 ﹀ は

日本的規受美応よる捉

O

には﹁陰間﹂に作る︒

祉︑一九九 C

年 ﹀

(中州吉籍出版

( を

(8)

194 

中国詩文論叢

と︒﹁頭﹂字もこの中に加えてよい︒こうした現象はおそら

く︑これらの方位詞が卒灰や封句などの修辞上の制約から︑

漠然と場所を表わす軽い名詞語尾になった賓態と関連してい

よう︒ちなみに︑﹁中﹂を音

浩﹃貌E

(

O

)

の候参照︒一例をあげれば︑梁の氾雲﹁︑途別﹂詩に﹁未壷樽

前酒﹂とあり︑﹁樽前﹂は﹁樽中!一の意︒

O︹逐晩涼︺木陰での夕涼みをいう︒﹃六注﹄に︑一逐トハ

朝ススミヲハ木隠(木陰)ノ西一一求メ︑夕涼ヲ木隠ノ東一一求ム

ル也﹂とある︒白居易はこのとき︑一軽い下駄をはき車衣を

著て︑薄い沙の帽子をかぶり︑浅い池の違の低い藤棚のあた

りを散歩し﹂ている(佐久節語)︒﹁晩涼﹂の語は︑すでに杜甫

の詩(﹁輿任城許主簿遊南池﹂)に一晩涼洗馬を看る﹂と見え

‑一六O る ︒

︒大和四年(八三

O )

の夏︑作者五九歳︑洛陽の履遁里内の

自宅での作(花房・朱)︒太子賓客分司在任︒池上ば前詩(一

五九番)と同意︒詩題は金津本に﹁池上夜憶﹂に作り︑前田 白居易﹁池上の夜境﹂﹁露箪清笠迎夜滑︑

侯爵家所蔵博二候魚氏筆本や岩瀬文庫所蔵延慶本などにも

()

注﹄には﹁池上夜憶人﹂に︑﹃六注﹄には﹁池上夜涼憶人﹂

に作る︒卒阿武夫・今井清校定﹃白氏文集﹄(第三珊)は︑金

津本に擦って﹁夜境﹂を﹁夜憶﹂に校改するが︑むしろ﹁憶﹂

字のほうが﹁境﹂の形詑とも考えられる︒というのは︑本詩

︹補

注︺

の重黙は明らかに﹁池上の夜境(夜景)﹂を歌うことにあり︑

﹁憶ふ﹂あるいは﹁人を憶ふ﹂要素はきわめて乏しいからで

(

)

O︹露箪︺箪は︑総の竹を男き︑(その表皮を)編んで作っ

た夏の敷物(竹製のござ)︒和名はタカムシロ︒熱い夏に寝牽

(株)のうえに敷き︑なめらかで涼しい肌ざわりを柴しむ︒そ

の心地よい絹感が肌寒く感じられるようになるころ︑すでに

秋が訪れている︒白詩の﹁露箪秋意生ず﹂(﹁涼夜有懐﹂︑在

5)

や﹁秋は箪上より生ず﹂(﹁夜坐﹂︑各

U )

とは︑いずれも

この音山味である︒白居易は︑特に一六尺﹂の小箪を愛用した

((

7 ]

)

きし中う唐代︑斬川(湖北省東端に近い長江ぞいの地)産の箪が特に有

名︒韓愈の﹁鄭群箪を贈る﹂詩に︑﹁斬州の笛竹(十日川)天

下知る﹂とある︒白詩﹁李斬川に寄す﹂詩(巻弘︑後集在日)

(9)

の自注にも︑﹁鞍州は好笛井びに蓮葉穫を出だす'一という︒

産業躍とは﹁滑かなること難の葉を鋪くが如き﹂ハ出詩﹁寄

薪州輩︑興元九︑間賭六韻﹂︑奮は山)惑が為るための命名であ戸

演群芳議官在位︑竹譜・竹一︑一

i

薪竹﹂の設には︑﹁色

ん薄﹀ある者者以て箪を鶏り︑節の疎らなる者もて笛を

壌を帯ぶる者もて杖を震る

7

⁝という︒いわゆる斬竹の あ る

︒ 白 居 易 は

︑ こ の 舟 箪

﹂ を 愛 用 し

︑ 友 人 の 光 っ て い る

︒ も

︑ 島 る い は こ り 川

Jh

に 入 っ て い う

Q

樺 ﹄

参 熊

﹀ ︒

王賛宥護婦懸﹂)に︑﹁夜深けて露議を課とある︒ところ

が 2 ハ迂﹄には︑一ー一蕗ハ︑スキトヲルトヨム色一という︒

的 注

調 伊

は ︑

白 詩

企 ⁝

則 一

掃 の

﹁ 容

鞍 苅

箪 ︑

輿 元

九 ・

: の

か 損 る む

ち な

み に

︑ し﹂の解穫と関連して興味深い︒岡村

は︑この匂を﹁露が下りたように溝らかで潤いがみめ

る﹂箪の措寓とする(一ニ八三一員)︒筆者辻︑﹁関タ︺詩(器

犯 ︑ 後 集 を

2 )

の辺地箪詰くして露有︒﹂の匂をも参類して︑

ある竹葉﹂(締村吋要解 b

に な お

に い

﹀ フ

堤留吉

15

﹂とから︑夜

︿ ﹁

送 ︑

氷 議

写参

ι結集﹄所枚謄詩草棒補お締

の持に封する愛は竹で作ったものにまでおよんで

箪・杖・務などがそれである︒青幾筆・碧箪・新

制恥・臥筆・小譲などの語ーがしばしば沼市いられている

ろをみると︑あるいは休憩に︑あるいは訊践に野んで

用いたものと思われる︒

と (

二 八

一 一

一 頁

) Q

い 守 分 ︒

)‑

( 詩 洋 一

円 ) に 一

Jb

s

ヨ︿貌)﹂︑

に﹁キヌクススシケナル完}とあるが︑本来︑費十ふれ

のごとき輝きと透明惑に満ちあふれた清潤さをいう盤韻の形 容 語

︒ 品 別 戴 涼 夜

︑ 奈

5 )

に﹁露箪色は宝に似たり一 というむの字には︑一種の涼惑もこもる︒ところが一ー清 埜 : 一 に に 作 り

︑ 鐸 譲 原 定 額 筆 山 域 切 や

に 作 る ︿ 句 校 異 和

に擦って

滑 ら か さ と 冷 や か さ が 箪 で あ る

︒ 夜 に ため広一緒省︑表面が︑すべすべする

入 る

と ︑

降 り

(10)

196 

中題詩文論叢

第十擬

江文字どおりべ水

てのつ滑らかなり﹂とあり︑

(

)

かなり﹂の匂もある︒

ことをいうQ

気があってつるつるする意︒

襟は︑い

ふさぐ部分をいう︒それで

や﹁胸襟﹂などの熟一誌が生じてくるわけであるc

辻︑風が胸もとをなでる爽涼感をこめた表現G

使

)

姪に示す﹂詩ハ前議﹀には︑﹁衿ハH襟﹀を開い

て坐せば︑一夏日も秋時の如し﹂と歌うc

a

(

(

に向かっ

辻︑宋玉の

いてこれ

の孔誰珪﹁北山移文一(刊文選﹄審制)にる出席摺の制

あり﹂とあるように︑精神的な解放感をこめて用いることが

︿

(

6

﹀氏︑﹁行止は親ち白

J

ススシキ ι

虫︑甚だ身

克 ﹂

J

こうと平︿L

す﹂⁝不是樺房無熱到︑担能心静邸身涼

F

の作︿花・朱

命酷暑︑の南意がある︒﹁苦熱喜涼﹂ハ審問﹀の

苦炎熱﹂などは①の

m m

堪建苦熱﹂などは②の用剖であろうGここでは作者を︑﹁人

出でざる有り﹂と歌われる﹁人人﹂の一人として捉え︿京匂

の﹁議﹂︹限定︺に注吾)︑ひとまず通設の舎に従うc

荷村富美子づ臼柴夫恥は﹁苦だ熱きに︑:﹂と謹む︒一組寂師

辻不詳︒合詩の問年の作﹁恒寂部﹂(﹁重判的援七紹句い其七︑巷

出﹀によれば︑彼の座簿の姉であった︒ちなみに︑白詩﹁桓

織の詩題には﹁和策天鱈雲寂借﹂とあ

(

WY

橿

︿

﹀の一人︑震上人も向m w

の一室かD

'

なお吋六詮﹄に

と芸

し、ー

ぅ実番

。}参

日召

の大江経時

(11)

闘して︑関村﹃臼氏支集﹄四は︑

提匂﹄に擾って︑

かつて我が露に博来した﹃白氏文集﹄本げいは︑﹁可是﹂

あろう︒とい

に搾る異文は︑じつは一可﹂の

を意味する径語的用法がある

ために妄改された可

{

議性がきわめて高いからであるG

は確かに通期したが︑震・五代になると︑

を意味する新しい用法が多用さ

興の裕一語的用法は後世の人々を

王じさせる要因になった︒郭

﹁ 出 回 一 ﹂

こうした新

例として︑この

そ の

話造成異文一の

例をあげれば︑呉融﹁本塔偶題﹂詩に︑

無線糞花概黄葉可ん川作須春月始傷心

とある完全庸地配容六八六﹀︒傾繋すべき設である︒

)

197 

明和理鎮詠集﹄所牧藤持法輝補訂倒 ⁝の繰にも︑韓愈﹁撤樹二首﹂ハ其一一﹀の

i

に﹁山一去を意味する用法があることに気づかず︑(何

是 枝 傑

の人々にとっては︑より一一層理解しにくかったであろ

う︒このことは︑五七三番の﹁可濁移身敷桔見︑子孫長存隔

しばしばあひ﹁濁り身を怒ふるまでに数柏見るベし﹂一五

われる︒しか

できたことに端的広

の濁﹂辻明らかに﹁山一旦獲﹂の

Q

詩家推鼓﹄悲上審

mm

Q

ただし︑島本では﹁何﹂に作る﹀︒よりく

に懇身

;

ることになる︒

ところで特に興味深いのは︑

この﹁可濁﹂を﹁不弱﹂に作ることであpる︒中留で

を︑﹁向﹂に作る異文は多くめるが︑﹁不﹂

は︑こうした

(12)

198 

中園詩文論叢

に作る例はほとんどなさそうである︒ところが﹃和漢朗詠

集﹄に政める﹁山豆﹂を意味する二つ用例の讐方に︑﹁不﹂に

作る異文が存在するのである︒豊田穣﹁唐詩俗語放!一(養徳社

刊﹃唐詩研究﹄所牧︑一九五三年)には︑唐詩中の一可是﹂が︑

ある場合には﹁:・でせうか︑さうではありません﹂︑即

ち﹁不卦﹂﹁並不是﹂といった強い否定のひ

U

恥として用

ひられてゐる︒

と指摘し︑郭在胎﹁唐詩中的反訓詞﹂(﹃訓詰叢稿﹄所牧)に

六この例⁝相是梓房無熱到)を引いて︑﹁可是猶山豆是︑亦却不是也﹂という︒とすれば︑口語﹁可是J﹂の意味を正確に

理解したうえで︑それを意園的に﹁同義の文語表現へと書き

かえた一可能性(柳瀬喜代志﹁和漢朗詠集異文考﹂)も全く否定

しきれないが︑むしろその意味を把握しかねて文意を通りや

すくするために﹁不是﹂に妄改した可能性がきわめて高いよ

うであるc

( 幻﹀

て︑きわめて注目すべき護言をする︒

可・何・不の三字は草書の字形が似ているため混同され

(お )

やすかったc昔は完本で博承されたのだから︑異本が多い

のは必然の結果である︒ことに草書ともなれば︑可と何︑

可と不は筆勢によってはほとんど巨別がつかなくなる︒

(中略)可の字が(正しく)譲めない時は︑意味の通じやす

い︑形も似ている﹁何﹂﹁不﹂に改めようとするだろう︒

その反封に︑﹁何﹂または﹁不﹂の句は意味がよく通じる

から︑意味の通じない﹁可﹂に改めようとする者はないだ

と述べ︑﹁可﹂一何﹂一不﹂の三字間における異文部民生の原因

を鏡く分析する︒そして前掲の五七三番の詩句に着目してい

不の字は日本の寓本だけにあるのも意味深長である︒つ

まり︑一可濁終身敷相見﹂を肯定文としたのでは意味が通

じないから︑文字の誤りが有ると考え︑可の字によく似た

不の字にしてしまった︒その時の寓本は恐らく草書に近

く︑可と不がよく似てたのではなかろうか︒草書字典を見

この二字はほとんど見分けがつかないものが見受け

る ル ﹂ ︑

と︒きわめて示唆に富む設である︒筆者は現在のところ︑﹁不

是﹂は﹁可是﹂の妄改であり︑中園博来の寓本に﹁不是ー一に

緋九ものがあったわけではなかろうと考える︒ちなみに︑﹁可是﹂の是は︑副詞に軽く添えられる接尾辞(副詞語尾)であ

参照

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