﹃ 和 漢 朗 詠 集
﹄
緯補訂 所牧唐詩
﹁ 揚 白 書 の て 後
︑ 夏 日
︑本習の楊待蕗を招いて同に行くい
︑水鑑風涼不待秋い
︿八
﹀の夏︑存者六九歳︑諮揚での作(花房四
O
太子
少得
分一
一可
在住
︒楊
向書
とは
吏部
向世
間の
2 4 4
議之︑七人四年生てまた楊侍部とは吏部侍郎の楊
︿学
慕巣
︑白
居易
の棄
の克
で︑
自居
易よ
りも
六︑
七歳
年下
の盟
本曹とは品分
二人はともに告書省吏部
は 本 年 二 月 六 岳
︑ り
︑ し た が
︑ 一 一 一 か の 五 見 西 司 に
会史
部告
書は
その
まま
在在
﹀︒
詳し
くは
︑ 自のハ五一一
O
京﹀や羅をい
う︒
ていたからである︒携嗣復
︿替
相﹀
とな
吋和
議議
一致
集﹄
所牧
唐詩
柱蒋
稽信
一一
向(
植木
﹀
争直
木
行 久
諮問﹄
十
h ︑
ところ
慢 の 饗 化 と 密 接 本 年 の
ると︑臣官の員土史と魚弘志は勢力
る︒彼らは︑皇太子の成美ハ敬宗の第六子﹀を
した文宗の遺志を退け︑宰拐の李荘や楊嗣復ら
きって︑文京の弟︑のちの武宗青即位させたQ
資治
泊鑑
﹄巻
一 一
六﹀︒かくて揚招復らは︑新た応部位した武宗一涯の数m m
意な招いて宰相鞍を解かれ︑代りに準高から李徳裕が呼ばれ
た﹀
(吋
蕗府
議
b巷一七六︑楊制使縮問﹀︒本詩は︑その解在を患め
る 意 園 を も っ ハ 主
﹃ 系 年
﹄ 奉 照 可 ち な み に
︑ 構 は 牛 借
・ 李 宗 関 一 メ ン バ
i
の 一 人 で あ れ ソ
︑ 一 波
2
中 園 詩 文 論 叢
(2
)
と鏡
く針
立す
る(
いわ
ゆる
牛李
の黛
手﹀
︒
O︹永安水亭︺都長安域内の西南部︑永安坊にあった楊
に わ
嗣復の別邸(別荘﹀を指す︒この﹁亭﹂は︑園亭をそなえた
亭館・別邸を意味する虞義の用法︒孟浩然の﹁陳大の水亭に
過る﹂詩は︑一に﹁夏日舟を浮かべて陳逸人の別業に︑過
る﹂と題主犯
o
吉川幸次郎﹃杜甫詩注﹄第二珊(筑摩書房︑一九七九年﹀は︑﹁重ねて鄭氏の東亭に題す﹂詩に封して︑﹁︹亭︺
ちんは和語の小さな亭ではない︒和語で寮というほどの規模にあ
ろう﹂という︒
とこ
ろで
︑
第 十 一 集
楊嗣復の水亭のある永安坊の西端部には︑終南
山から流れ出る清流を引き入れた永安渠が北流していた︒永
(4
)
安渠は︑唐の長安城の前身︑惰の大興城建設とともに︑開皇
(5
)
三年(五八三﹀に造られ︑﹁交水を導き︑大安坊の西街より
(長安﹀城(内﹀に入り︑北流して(宮﹀苑に入り︑滑(水﹀
に注ぐ﹂︑柳のしだれる御水であった︒郭聾波﹁惰唐長安的
(8
)
に わ
水利﹂によれば︑こうした水渠は︑主に園林の用水(閏池ヘ
の給水﹀と生活用水(特に洗い物﹀とに用いられていたという︒
都域内の庭園の基本は︑苑池の開撃と築山(偲山﹀の建造で
あり︑竹や木々を植えて自然の風趣を再現しようとしたが︑
その際︑清流や水池が特に重視された︒村上嘉賞﹁唐代貴族 の応即﹂によれば︑池を中心とする池館蓋樹式の庭園は︑貴族のなかでも特に栄華をきわめた人々が多く造る都曾型の庭園であり︑﹁自然美を取入れながら︑なほ人工において勝ってゐたものが多いやうである﹂と指摘する︒
永安坊のある都域内西南部は︑じつは住民の少ない閑散と
した﹁圏外﹂の地である︒妹尾達彦﹁唐代長安の街西﹂は︑
この付近の環境を共のごとくいう︒
唐代中期以降の街東官僚街の形成に件い︑街東高年燃の
西側に住む高官たちは︑水に恵まれて閑静な街西中南部の
清明渠・永安渠沿いに︑渠水を利用した庭園をもっ別宅
を︑相次いで建築していった︒
街西中南部は︑皇城の南を東西にのびる交通幹線や市場
からも離れていたため︑唐代中期でも︑比較的閑地であっ
た︒街西の繰濃い水渠沿いのこれらの関坊に︑唐代後半期
に至ると︑街東の高官の別荘の建設が績き︑その庭園に
は︑樹木・草花・石組・池亭を配し︑水禽が集い彩舶が浮
かび︑城内においてなお山岳渓谷の趣きを備えていたので
ある
c
官人達は︑ここに寄って︑長安の暑気を避け︑宴舎を聞いては交流を︑深め合った︒
楊嗣復の水亭は︑詩の内容によれば︑﹁高欄ありて水に臨
み︑且つ竹林ありて之を譲れる﹂忠実苦﹀池舘である︒
弘 吉 ん
この形態誌︑昭行坊にある壬析の地爵が︑閉じ﹁永安渠を引っ く ひ ろ さ は す あ 事 ざ
いて
池を
魚り
︑議
一日
一頃
敵︑
竹・
本環
布し
︑荷
・脊
掛一
誠一
芳す
﹂
ハ宋敏求宮沢安士立春十﹀るさまを患わせる︒楊刑復︒本宅は︑
前掲の妹尾論文の表ーでは﹁不明﹂とするが︑おそらくその
ハ ロ ﹀
︒楊
於凌
ハ七
五三
!八
一一
一
O
)
の住んでいた新昌坊の器宅む
て い た て よ い だ ろ う
c
この
﹁︑
水安
の
民ゆ
ずり
受け
たも
ので
為る
︒⁝
いい
対
⁝正月﹀に成る韓愈の﹁早春︑
の林事に遊び︑第三関者ハ第
兼ねて台ハ府易﹀・鴻(宿﹀の そのま
二盟老v
﹂ キ
z
也 ︑
i i の春渠ハ宮苑を貫く渠求︑永安渠﹀に入る 初めて破れて渠に満ちて浮かぶ
⁝広々と歌われている︒これに唱和した由一
﹁韓侍郎ハ態﹀の︑場合人ハ腕複﹀の林治に
るに和す﹂とい︿幸四﹀も簿わる︒
にすで
の同
年の
作︑
て 寄 せ ら る
の林亭・林誌は︑
るご
とく
︑
の妹
日結
論文
の
﹁ 永 安 の の 前 身 を 指
? と 考 え て
楊於設はすでに死波﹀︒つまり︑水亭は掠
3
町和漢焼︑散集﹄既設唐詩法務補訂伺(植木﹀
亭
・ 林 地 な ど と も 呼 ば れ
︑ の
﹁ 竹 亭
L
もこれらと類似する表現である︒永安の水亭は要するに︑︑氷安︑渠
入れた池宮中心とした︑竹林の茂る亭舘・
なみに︑朱定剤投いに︑
一広々と為るが︑これは都
全く無関係である
c
組方︑楊汝士は︑楊誠
(炉作)恭坊の自に︑弟の
去と
同居
し︑
北宋
‑漢
ハ円
唐南
京域
坊考
記裕
一一
一﹀
白
には
︑
大和
ハ八
一一
七
i
⁝ 一 一 五
γ
開成
ハ八
日中
ハ
1 1
問︒
)の
問︑
ハ機
﹀汝
と 日 ふ 者
︑ 農 卿 '
・ 漢 公 と
︑ 叉 た 名 を 以 て 唐 に 額 試 し
︑ 大 だ そ の 族 会 る を 以 て 著
楊氏
はる
︒
とい
う︒
︹ 竹 亭
︺ 竹 耗 に か こ ま れ た
・ 別 露
︒ に 件 以
﹁竹
掠ノ
ホト
リノ
ナル
家
L
という︒章腰物の詩句袈軒流壁作﹂﹀民︑﹁月一暗くして竹亭趨なり﹂とある︒持は本来︑植樹や蓮
の花︑橘などとともに︑南方の愛すべき楠仏あるが︑庸 代
︑ 竹 の 努 ま れ て
︑ 北 の 都 長 安 で の 欝 蒼
4
中舗詩文論叢
集 第十
として線濃き竹林を始めとして︑寺誌や私患に多く植えられ
てい
た︒
﹃抄
在﹄
に
ハ︑ソノカケノ︑ヒマモナク︑
の白詩︿誌出の⁝五
り ︐
L
とい
う︒
﹁合
﹂
O
︹偏
宜夏
︺
しろ
︑
モ︑夏ハ新
シケリノアへん シケルモノナレ
とい
う︒
る︑集ま
ここでは限定ハ範鴎﹀というより
最も︑とりわけ︑特に︑などの
以 太 田 辰
は︑﹁ナツノス
︒ 水 撤 は の 部 精 子
﹂ ハ 佐 久 注
﹀
G杜甫の詩
句江上龍水如海勢︑朝銀述﹂﹀に︑﹁新たに水機を添へてに
供す﹂とあり︑津波孝縛吋社律集解﹄巻中にほ︑﹁
ゎノ︒水擦は於てこれを震る︒故に水鑑と臼ふいと注
掲の孟浩然の詩句端練大本亭﹂﹀に﹁水亭涼気多
れノ
︑吉
詩ハ
﹁榊
知事
興行
簡宿
﹂巻
口﹀
にも
﹁水
櫨虚
涼に
し
し﹂
とい
う︒
て ︑
耕欄
葉戦
求問
料涼
﹂
一年ハ入ニ一一一﹀︑二歳︑杭州での作(花房・朱﹀︒
杭舟刺史在任︒四潟は︑杭舟域の四郊にあ﹃
﹁山川秀麓にして︑罵ハ特に中農﹀より以来︑
持太平賀宇記﹄告白﹀ったが︑麿代の
ハ 翁
﹀のなかで︑m m
詩(
巷お
︑
よれば︑この湖ム
初めて罷湖と呼んだ詩人は︑ほかならぬ吉岩易島身であるら
しい︒その六例
Q
索 引 わ の う ち
︑ 本 詩 も 早 く
︑
ハ長慶西年﹀の四部がこれに護く︒
で︑一此の題︑日
た本
てよい︒南栄の
︑﹀門ノ
0
3LV﹀iと名づく︒源は武林泉に出
おのづ山を浮かべ︑8から相ひ瑛援す︒
して︑模寓すべからず︒朝暮・四時︑四
辻︑の景物︑此に千いて濁り棄まるがごとし︒
公
? y }
︒ 拙 著 風 土
﹄ 一 七
O一
良以
下参
照
c
戸 り
J
︑︒︹孤山寺︺孤山にある永福寺の通稽︒本詩の一年後
(長慶四年四月)に成る元棋の﹁永福寺石壁法華経記﹂(﹃元槙
集﹄
在日
)に
いう
︑
永一
幅寺
は︑
の上
に在
り︒
一に孤山寺と名づく︒杭州の銭塘湖心の孤山
と︒孤山は︑湖中の西北部にそびえたつ島で︑高さは三十八
メートル︒ただし︑孤山寺路(白沙堤︒今の白堤︒この北端部に
断橋がある)と西林橋(西冷橋)によって湖岸とつながるD白
居易は︑この松の島に咲く梅の花や山石橋の花も好んだ︒前
掲の﹃淳一防臨安志﹄巻八︑孤山の僚に︑
湖中濁立一峰︒固法師銘日︑﹁群山四組︑秀出波心﹂0
・ ・
白唐以来︑題詠特甚D
とい
う︒
この孤山寺は︑宋代︑度化寺(院)と呼ばれた︒﹃威淳臨安
志﹄巻七九︑庄風化院の候に︑﹁天嘉元年(五六
O )
建て
︑永
一喝
びゃくしと名づく﹂とあり︑同僚の貯支傍骨塔の割注には︑より詳し
〆 ︑ し 久
ノ ︑
陳の文帝の天嘉元年︑天佐万借有りて︑辞支併の鎮の骨
の舎利を持ちて杭(州)に至り︑遂に孤山に於いて永一個寺
を建て︑塔を立つ︒
5
﹃和漢朗詠集﹄所政唐詩注樟補訂伺(植木)
云々とDところが︑同書巻二三︑孤山︑柏堂の僚には︑﹁陳 の文帝の元嘉二年︑度化寺を建つD寺に首時植へし所の二柏
有り﹂とあり︑永福寺の創建を一年遅い天嘉二年のこととす
る︒﹃威淳臨安志﹄よりも先に成る﹃淳一柘臨安志﹄巻八︑士口
蹟︑柏堂の僚にも︑﹁陳文帝天嘉二年︑建康化寺一という︒
元と二の雨字は流停の過程で誤りを生じやすい
D平岡武夫
(M
)
﹁白楽天と臨安志l寺院を中心として│﹂は︑﹁天嘉二年に建 立された奮利﹂とのみいい︑文字の異同に閲する言及はな
い︒明の田汝成﹃西湖遊覧志﹄巻二︑由民化寺の僚には︑その
創建を﹁陳の天嘉の初め﹂とする︒白居易は︑寺の背後にあ
る︑竹林にかこまれた小棲﹁竹閣﹂に宿泊して詩を作ってい
る(
﹁宿
竹閣
﹂を
my
︒︹迫撃一一・諸客︺︑坦望は同室と同じく︑ふり︑返って遠望
する意︒諸客は︑一緒に孤山寺に遊んだ人々︒呂小額・孫小
昭選注﹃西湖詩詞﹄(上海古籍出版社・中園名勝古蹟詩詞叢書︑一
九八二年)には︑特に﹁随従的幕僚何﹂と注する
D
︒︹創作の背景︺顧皐韻・周汝昌﹃白居易詩選﹄には︑
本詩作成の動機を衣のように推測する︒
長慶二年の夏︑杭州の龍興寺の信︑南操は法舎を行な い︑霊隠寺の借︑道峰に﹃華巌経﹄を講調停してもらった
D
6
中議詩文論叢
第 十
問 、 の
うく、予辻
し を 一 広 々 と の み あ リ
︑ の はない︒ただ本詩の第二勾に{晩に詩農ハ蹄り舟﹀して
道場ハ寺院・併殺)を出づ﹂と歌うところから︑罷る物見遊
山ではなく︑菰山の法舎に参加した可能性が高いハ王汝弼
合同
賠易
選集
﹄な
ど﹀
︒ の 季 苗
︺ は 本 詩 を 秩 興 に 政 め
︑ さ ら に に も
﹁ 湖 寺 秋 興 ヲ セ リ
L
という︿コハ詑﹄もほぼ同じ﹀︒孤山寺な湖寺と呼ぶ例は︑白岩易の﹁杭舟春
後集
を
5﹀
の か に 見 え る
︒ 中 闘 で も
︑ 請 の
(局
番 を
中唐ののハ﹁迭武準意関前い﹀にも︑
橘 残 間 ど な ど と 歌 わ れ て い る が
︑ 具 韓 的 に ど ん な 果
物を指すかは︑きわめて難解である︒しかもその解樺は︑時
代や培法︑ひいては会詩人間においでさえも︑徴妙な異関が
あるらしい︒いちおう︑木詩に限定すれば︑
ω
和構
類︑
ω
枇かれる︒的の相穐類は︑さらにお絵客種︑@
ハ 幻
﹀
@夏蜜柑に分かれるが︑
によ
れば
︑
程︑の
金柑
︑
目﹄巻三十C
ハ和名はキンカン)の 明のはいずれも@の
‑て
いる
申と
すれ
ば︑
ω
のつに分類することが可龍であ
・ 金 子 締 村
﹃ 考
類 金 橘 と 夏 蜜 柑 の
る︒ちなみに︑
する えない︒なおめの枇記説
(罰江人民出版社︑一九八
O
( 年 ﹀
蔀江
の砲の用例をすべて
てお
授ら
(味わい)︑山は竹枝ハ詩歌の名﹀
同路
一に
贈る
﹂︑
程日
︑一
疋和
十年
︹八
二在
︑
γれ
る地
中で
の作
﹀︒
と れツ
L
平 工
設問︑禽を開けば悉く鴎鵠﹂ハ﹁東議行
百議
・:
﹂︑
寝間
山︑
元和
十二
年︹
八一
七︺
︑江
州で
の作
﹀︒
しわ
窃﹁内は虚橘の⁝思きを嫌ひ︑皮は姦校の毅むを笑ふ﹂ハ﹁詑
︹博師了楊︹鱗復︺のニ(中書︺合入国老と関に勤践の樫桃を食
し︑物を翫びて患に感じ︑回りて十四韻を成すい︑審問︑長駿一
年︹
人ニ
三︺
︑都
長安
でり
作﹀
︒
このうち︑平期の舎と②︑特に@応︑よれば︑車橘仲
ぞい︑特に江川川ハ江西省九江主﹀付近に多く
あり︑南方特有の
都一
長安
から
江品
川へ
毛 主
のの一つとし
7
ハ植
木﹀
史相
模拐
︑詠
薬恥
て
三亨
3
識 さ れ 江 巻 て 酉 ニ い
iこ る
江
チ
H
︑ : ︑ ︐
t v
ーとをしらいえば︑歌陽惰て ︑
の
同心い
研究
﹄所
牧﹀
る︒まず戴絞倫の
の
い果物は︑たとい捕
ミカンのたぐいではなく︑ピワと
の白詩①の﹁内は度橘 ろ
りも内が厚いというので︑これ
る﹂とし︑﹁かりにミカン類としても
ナツミカンにちかいもので︑キンカンでは
﹀ つ む
と
し、
の解招待が今日もなお給料するのは︑
にみちた奇怪主珍果であったことと
の 漢
可の
枇 馬 杷 相 撚 担 椅
8
中閥詩文論叢
第 十 一 葉
︿ 初 )
こさ
れる
︒
を引
いて
︑
青鳥
之所
︑
﹂の
勾
て ︑
とい
う(
﹃史
記同
一一
円高
根刻
博の
﹃索
隠一
所引
﹀︒
これ
とよ
く川
にも
見え
る︒
じつは
の水陸の
とあ
るの
が︑
青鳥
それでおる口町山海経b
者甘
譲葉
︒ 大荒南経立よ し と い う の
可馬
括起
需の
頚師
古控
﹀︑
とされ︑直橘はまた櫨橘と
v
Qに︑司馬相如の拭の﹁墨橘夏
(李
善立
など
に引
く菅
灼の
語﹀
の っ と し て
︑ 伊 芦 設 い な ど に も と づ い 入 れ ら れ た も の 可 馬 相 如 自 身 も
︑ 重 橘 の
知っていたとは限らない︒
ょ
く‑ad: 、
々 と 並 列 さ せ て る い
ずこ
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し、、と 「も車、
い橘、
枇、
杷、
総 柿
︿M
V
う︒しかしこの指摘も︑の敷擦を特色とする賦中の であってみれば︑﹁恐らくは
魔繋雑記﹄巻上﹀という程度の詰議日
( お ﹀
唐庚などは︑﹁李氏山間記﹂のなかで︑賦中の
の関係な︑一物を二物とした例だと指揖するむかくて︑謎に
謹楠に関して︑一方では文字づらから﹁謹き橘﹂を求
︑ 旭 方 で は 黙
﹂ の 語 に 着 目 し て
﹁ 後 世 遂 に 多 く 枇
宗 治 試 写
謬 一 一 一
日 ﹄ 巻
5﹀ に な っ た で
物 ん
﹂ ( 朱 期 日 刊 組 問
しかもたない︒
の め み
っ ち
ある
︒
時代や地域︑あるいは
るので︑問題は一麗複葉である︒
巻上
には
︑
ハ今の底東・境問地方﹀では︑枇杷のことを
牒庚は童橋と投杷を同一視するが︑
た嶺外の地での呼稽に従ったもの におい
宋の朱翌
れ
tま
と呼
ぶ︒
ただ
︑ム
とい
うハ
大意
﹀︒
也方
一 ︑
九八
二年
﹀巻
十の
皐月
民要
街校
の注
ハ五
七八
・浪
人
︒一
良﹀
に︑
漢・晋で
あり
︑
じ つ は ( 阿
s z z g
ロ与の
.宋以後に指す枇把で誌ない︒
︿ 幻
﹀
と い う ハ 要 約
﹀
︒ し か し
︑ 唐 代 で の 詩 に
直橘熟す﹂というのは︑明らかに﹁睦鑓棲橘﹂
え て お り
︑ 枇 把 で は な い た
・ 宋 期 の に花さき︑夏に
て
の典訟を踏ま
のな
かに
は︑
黄熟す
ち主
みに
︑ る ︒
︹子
器︺
﹁ 卑 き 枝 げ と あ り
︑ 蘇 捷 寓 上 巻 ハ 文 曾 堂 帯
⁝ 服
︑ 一 九 一 九 年
﹀ に は
︑ 低 の 字 を の で 更 にそれが下へ垂れる︑長ふといふ意味﹂だとハムハ一頁﹀
ο
O︹山一前重︺山部は﹁山チカクフルQ抄正
5 0
も 夕 立 ち と も と れ よ う
c
巻一
︑
立にじに︑
9
吋和議鰐一致集﹄所牧康持設轄補訂同ハ様木﹀
﹁ 一 一 一
回
とある︒つまり︑この山は︑西海
三 方 の 山 子 な い う
︒
﹁ 重
﹂ の
﹁ 戦 い
宇思である口
の字︑:
ゆ「
勾 宍 巻
島空五
るV ' ‑
院 に 全 は 如 首 る を と許 す る
︒ わ わ に 賓 ー な っ
賓の一つ一つが山の雨に
げに授をしなわせてい
事子宴﹂﹀の﹁柳枝
張尋 師向 廊潟 露い
﹀の
て味わいたい︒
シュロの
シ ュ ロ 段
︑ ヤ シ 科 の
ふ部に柄の長い
井関に引く
り﹂と形容ずる︒
10
中 園 詩 文 論 叢
第
十 集注﹄六篇上には︑﹁許書(﹃説文解宇﹄)には併有れども欄無し︒
闘は併の木芳に因りて︑これを同じうするのみ﹂という︒シ ュローまた︑捜・楼欄・綜閥とも書く︒詳しくは︑狩谷板賛
きしゅん
﹃室注倭名類緊抄﹄巻十や呉其議﹃植物名寅園考長編﹄巻二
一の礎欄の候参照︒
︒
︹ 葉 戟
︺ 戟 ぽ
︑ プ ル プ ル と ふ る え て や ま な い さ ま 口 白
そ よ し う
詩﹁生離別﹂(在ロ﹀にも﹁業梨葉戟いで風腿腿﹂とある︒
この用法は︑﹃戟園策﹄巻十七︑楚策四の﹁身瞳戟懐す﹂な
せ ん こ も ご も
どと関連しよう︒﹁顧﹂の俵借義︒清の王尭衝は︑﹁乱葉交﹀︑
相ひ動くなり﹂(﹃古唐詩合解﹄巻下﹀と注する︒戟は本句の字
眼(前述﹀︒湖面を吹きわたる雨後の風の爽やかさと涼しさ︒
そ れ を 充 分 堪 能 す る シ ュ ロ 自 身 の 姿 も 思 い 浮 か ぶ よ う で あ
( ω )
る ︒
︒︹水風涼︺水風は﹁湖上を吹き来る風﹂(柿村﹃考詮﹄﹀︒
ゆ梁の庚肩吾の詩(﹁和晋安王薄晩逐涼北棲同墓庭教詩﹂)に︑﹁窓
わた
に は 含 む 水 を 度 る 風
﹂ と あ る
︒
︹ 注 ︺
(1
﹀花房英樹﹃白居易研究﹄八二頁︑ウェlリl
著︑花房課
﹃白楽天﹄四二八頁以下参照︒
(2
﹀白居易の中立的な態度については︑顧皐韻﹁白居易輿牛・
李雨
黛闘
係考
﹂(
﹃町
駅早
頭文
早論
集﹄
中園
杜曾
科皐
出版
社︑
九八七年所牧﹀参照︒
(3
﹀曹永東﹃孟浩然詩集室注﹄(天津古籍出版社︑一九九
O
年 ﹀
在二
など
参照
︒
( 4 )
﹃長安士山﹄巻十︑大安坊の永安渠の僚や︑元の賂天醸﹃類
編長安士官巻六香積渠の僚など参照︒特にそのル!トについ
ては︑黄盛嘩﹁西安城市設展中的給水問題以及今後水源的利
用輿開設﹂(同﹃畳史地理論集﹄人民出版社︑一九八二年所
牧﹀や︑馬正林﹃豊錆│長安l西安﹄(陳西人民出版社︑一
九七八年﹀等参照︒
(5
﹀泣水とも書き︑今の部河にあたる︒
(6
﹀宋の程大日日﹃薙録﹄巷六︑唐都城導水︒もと日大防の長安
城園
の題
記中
の一
一一
口葉
らし
い︒
宋の
超彦
衛﹃
雲麓
漫紗
﹄巻
八参
照 ︒
(7
﹀超暇﹁宿何書記先輩延一幅新居﹂詩︒
(8
﹀史念海主編﹃唐史論叢﹄三秦出版祉︑一九八八年所牧︒
(9﹀﹃東方皐﹄第十一輯︑一九五五年︒
(叩﹀武伯論﹃古城集﹄(一二秦出版社︑一九八七年﹀﹁古城拾零﹂
八月
﹁圏
外﹂
の候
参照
︒
(日﹀北海道教育大皐史皐曾﹃史流﹄二五腕︑一九八四年所牧︒
ちなみに︑長安域内の東半分を街東︑西半分を街西と呼ぶ︒
(ロ﹀﹃唐雨京城坊考﹄在三︑新昌坊の僚や︑朱金城﹁白居易交
瀧三考﹂(同﹃白居易研究﹄所牧)の楊嗣復の篠参照︒
遷 原 因 合 文
に記す十の器密のうちの第一︑﹁世襲 ハ日﹀穣忠凱・楊希義
薄﹄一九九一年間
宅第﹂にあたろう︒
( M
凶)銭仲聯円韓日臼動公辻餐十二参照︒正月一献は久祭天随﹃韓退之詩集﹄下巻(績閤諜漢文大成﹀の設︒
ハUM﹀揚於陵は元和十五年から長慶二年間十月まで戸部告書に在
荘︒
穀耕
官官
三法
葉山
間丞
部表
い参
照︒
ハ日﹀一一説に︑第一一一は楊嗣復の排行とする︒忠7仲勉全勝人行第
議﹄
参昭
一︒
︿げ﹀弔問武夫﹁白居易とその審﹂︿司東方皐報h京蔀・第一二六
問︑一九六四年﹀や羅宕五閥均入京など参照的︒ただし︑円千
唐誌葉議誌﹄一
0
⁝一番の﹁楊府君ハ都心墓誌銘井淳い拡は︑ぺ脊子四人︒汝士"撰隣・漢公︑成著名賞︑幼白鼓士﹂
と為り︑楊汝士と虞卿は記弟でおるとする︒これは︑白居易
が詩中で一⁝人を﹁兄弟﹂と呼ぶことと紹連して興味潔いハ堤
留吉司自築天研究﹄⁝六七頁参照﹀︒ちなみに︑このほか︑
楊境則一一援の墓誌が﹃千唐誌驚識せめ﹄一一九七・二九人・
一一五五番などに攻められている︒いずれも靖恭坊で援し︑
洛楊
の北
曲山
広葬
ら︑
れた
︒
( 日 ﹀
m m
部議刊﹃鼓腸文忠公集知義六⁝︑外集第十一所設︒︿
m
w )
欝訂楠側︑一五一番参照︒
ハ却﹀拙稿﹁窟都青龍寺詩初探﹂(平河出版枇刊コ逗教と宗教文
化い︑一九八七年所設﹀蘇照︒
1 1
﹃和
義的
知一
一抹
集﹄
所設
唐詩
荏樺
補訂
ぬハ
植木
﹀
ハ幻﹀潟峰主編﹃薄膜名郡杭舟﹄一一一間頁︒
(詑
﹀帯
宋の
一浩
一夜
友﹃
威淳
銭安
志い
各お
も参
照︒
ハお)由風化寺の名橋は︑患末の大中年間以後か︒﹁患部臨安主﹄
議七九︑度化院の接参燕︒
(弘﹀叫端本博士煩書記怠併殺史暴論集﹄一九六一年所段︒
ハお﹀誕出寺は南宋の一認めに移轄させられた︒これは︑南宋の王
⁝品川一が道教を傘崇して︑弧山に西聖砥蝉観を建てたからであ
る︒
位一
沙雅
章﹁
宋⁝
冗時
代の
銃州
寺毘
と慈
思京
﹂ハ
集合
掠郁
編﹃
中
関近世の都市と文化﹄一九八凶年所設﹀参照︒ただ竹閣のみ
は︑西冷昂註の祉社に古跡として護るという︒ア十一議今コ凶器
易興
杭嬬
﹄六
九頁
参加
問︒
(お﹀吋議議臨安士心﹄巷八五︑品化韓︑千頃山龍興寺の繰に︑﹁在
結西北六十恩︒元和問︑黄葉課師閉山﹂とある︒社州市の四
方約
一
C0
キロの地である︒(幻﹀@は組・潟及び梁鑑江の吋白居易詩意﹄︑母は⁝内田泉之助
﹃白
氏文
集い
ハ明
徳出
張註
﹀︑
吋盟
代田
季風
景詩
一ニ
苔設
い︑
関村
繁円白弐文集恥問︑舎は栗斯﹃唐詩故事﹄第四葉など︒
ハお﹀佐久注も枇杷説︒
( m
m )
﹁文
選い
在八
︑﹃
史一
記﹄
程二
七︑
可馬
詔お
捕時
︑認
細川
護﹄
巻五
七上︑司馬招釦棒などに所設︒
ハ却﹀吋ハ宋本﹀自民六帖事類集﹄ハ停増期蓄綴本﹀巻一一一十︑雑果
第五には︑﹁夏熟﹂の項話があり︑﹁重橘﹂と註されている︒
ハ お )
﹃ 漢 書 亘 巻 ヨ 十
︑ 議 文 志
︑ す る
12
中 園 詩 文 論 叢
第十一集
二十七篇のことらしい︒陳奇猷﹃呂氏春秋校樟﹄'を十四(皐
林出版社︑一九八四年﹀七四二頁の注
ω
参照
︒
(辺)﹃山海経﹄の本文では︑甘櫨を﹁甘担﹂に作るが︑前注の
陳奇猷の設によれば︑甘担(甘撞)は甘櫨の妄改らしい︒
(お)﹃説文解字﹄在六上︑櫨の候参照︒清の桂複﹃設一文解字義
註﹄巻十七に︑櫨橘は慮橘に︑通じるとする︒
( M )
宋の葛立方﹃韻語陽秋﹄在十六︑﹃選皐謬一ニ口﹄を五︑陶宗
儀﹃南村鞍耕録﹄を二六など参照︒
(お)四部叢刊三編﹃眉山唐先生文集﹄を九所取︒宋の呉曾﹃能
改費漫録﹄巻十五︑直橘の僚にも引く︒
(お)﹃宋史﹄巷四四三の本博参照︒
(幻)﹁迭陸費擢第還蘇州﹂詩︒大暦八年(七七三)夏の作︒
(却)懐橘は橘を懐中に入れる意︒﹃三園士山﹄巷五七︑呉書第十
二︑陸績博参照︒﹃曲家求﹄を上の標題にもなる︒すでに﹃韻
語陽秋﹄巻十六に指摘されている︒
(ぬ﹀宋之間﹁登専王蓋﹂︑許浬﹁別表兄軍伴﹂﹁病問寄郡中文
士﹂︑子部﹁迭崖判官赴容州序﹂など︒古くは後漢の李尤﹁七
款﹂に﹁直橘是生︑白華紘葉︑扶疏各柴﹂とある(﹃全漢文﹄
在五
十)
︒
(刊﹀前掲の停経順﹁未能弛得杭州去︑一宇勾留是此湖﹂参照︒