歩I︒r出I酢・1日I
1
裁判上︑名誉殻損として問題とされるものには︑誤報龍たは誤った邪実にもとずく批判を理由とするものが比較的
多い︒刑法は名誉穀損の椛成要件として︑﹁公然事実ヲ摘示シ人ノ名誉ヲ肇損シタル者ハ其事実ノ有無ヲ問ハス﹂︵同
二三○条︶としており︑人の社会的評価を低下せしめるには必ずしも虚偽の事実を報道しまたはこれにもとずく批判
をなしたことを必要としないとされているのである︒しかし今日のマスメディアを中心として発生する名誉穀損耶件
の多くは︑他人を故意に陥れ排勝したがために起るというよりも︑誤報や誤った小実にもとずく批判を通してなされ
る娚合に見られることは周知の聯実と言える︒されば刑法も右条文に引統いて︑﹁Ⅲ条卵一頂ノ行為公共ノ利害二間
スル瓢英二係り其目的聯ラ公益ヲ図ルー出テタルモノト認ムルトキハ小実ノ真否ヲ判断シ翼実ナルコトノ砿明アリタ
ルトキハ之ヲ罰セス﹂︵二三○条ノー第一項︶とし︑また﹁前条第一項ノ行為公務員又ハ公選二依ル公務員ノ候補者
− −
1 五︑むすび 四︑英米法における邪火舐肌の原則 三︑民法における堺爽証明の取扱い 二︑刑法と那実舐明 一︑はしがき 誤報の責任と事実証明
一︑はしがき
三
島宗彦
−了、圭一 − −
2
したがって今日においては報道機関は︑典災な蛎実をキャッチしてこれを報通しあるいは正確な審観的な珈災にも
とずいた批判をなすならば︑それが他人の純然たる私生活に触れまたはこれを無露するものでない限り︑名誉致損罪
に問われることはないのである︒けれども︑概して報道の迅速性を生命とするマスメディアの常として︑報道の正確
性という要請は言うに安く行うに難いということも否定できないところである︒かかる傾向は︑寸秒を争って他社に
さきがけ︑スクープ記事で他社の鼻をあかそうとする日刊新聞やラジオの場合に著るしいし︑週間誌同志の間の競争
激化によってこの方面にも波及しつつある︒本来報道の正確性ということは報道溌関にとっての前提条件ともいうべ
きものであって︑現代の新聞の地位を築き上げるための原動力でもあった︒しかし新聞を中心とするマスメディア一
般が︑その企業的性絡に忠されて企業競争に勝抜くための必要条件として︑迅速性の嬰荊に主たる関心を移し始めて
以来︑ともすれば報道の正確性に対する関心は薄れざるをえなかった︒晄者や聴取者は不正確な報通であっても︑そ
れが直接わが身に関するものでない限り何の反応をも示そうとしないのが術であるから︑売れる新聞雑誌であろうと
する以上︑他社よりも半日でも一時間でも早くという要諦は言わばその至上命令たる性格をもつに至るのも当然と言
えば当然と言える︒そこでは︑多少の誤報は成行上やむをえないという考え方が︑報道人の共通した潜在意識として
芽生えているのではないかとさえ思われるのである︒誤報に対する責任が明確な形で問題とされない以上︑そういっ
た傾向を生むのも弱い人間の常としてまた致し方のないところであろう︒そしてかかる傾向をある意味では放任して
いるものに︑名番穀損法理の現状があることを忘れてはなるまい.
すなわち帥妃刑法二三○条の二の解釈として判例学鋭の脱ぐところによれば︑翼実性が十分立証されない場合でも
事実を真実であると信ずるにつき相当な理由があるときは犯意が阻却されるのである︒しかも民事の名誉穀損蛎件に 定しているのである︒ 二関スル事実二係ルトキハ事実ノ真否ヲ判断シ真実ナルコトノ証明アリタルトキハ之ヲ罰セス﹂︵同条第三項︶と規
F
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二︑刑法と事実証明
さきに引用した刑法二三○条の二は︑戦後に刑法の一部改正︵繩謹壺蓉法︶として新しく設けられたものであるが︑
同様の規定は旧新聞紙法︵郵麺︶や旧出版法︵顎塞︶にもあったところである︒ただそれらにあっては︑﹁私行にわたる
ものを除くほか﹂というかなり広範な限定が付されていたが︑右新設規定では︑名誉殿損行為が公共の利害に関する
事実にかかり︑かつ︑もっぱら公益をはかる目的によるものと認められるときは︑私行にわたるものであっても真実
性の証明を許すということになって︑より一嗣蛎実の祇明が認められることになったわけである︒ところで旧法︵岬痢
睡酔趣獅拙︶と新規定との問では︑実体法上および脈訟法上かなり砿要な相異が見られるが︑民鞭法上の問幽を論及し
ようとする本穂では︑必要な限りで触れることとして他はこれを省略することとする︒
さて事実の真実性が不可罰の原由となることの法律的性質については︑邪実の証明不可能が可罰条件であるとする あっても︑不法行為法中に別段の規定があるわけではないから刑法の解釈と異にすべき理由はないとして︑興実性の証明のない場合でも典実であると価ずるにつき机当の理由があったときは不法行為上の責任を免れるものと解するのが相当であるとされている︒換言すれば︑真実であるかどうかについて相当の注意を払って確かめた以上︑もはや過失は認められないとするのである︒このような判例通説の結果として︑誤報またはそれにもとずいてなした批判によって籍誉を穀損されたとしても︑被害者は身の不通だとしてあきらめるほかに手はないのである︒かかる結果ははたして是認さるべきものであろうか︒交通堺故や天災と同じように災難だとして被害者は甘受するほかないのであろうか︒だが交通事故には今日社会保険が幾場して︑ひき逃げによる泣寝入の問題はある程度︵金額が少い点に問題は残るとしても︶解消するに至った︒名幣殴批にこのような解決策は考えられないものであろうか︒社会保険化の問題はしばらくおくとして︑民堺資価の強化というようなことはその前にもう一座再考して然るべき問題ではなかろうか︒
己P
−−−
4
説︑事実の真実性が違法阻却原因であるとする説︑および事実の真実性は櫛成要件該当性を阻却するという説の三つ
︵︒&︶の見解が対立している︒判例は︑
﹁刑法第二三○条の二は川条所定の要件をみたす名芥設掻行為については真実なることの証明があったときはこ
れを刑しない胃規定しているから︑当骸摘示那実が典実であることの脱明がなされたときは行為の進法性を阻却
するものといわなければならない︒﹂︵緬堪噸郷釧蜘起郭垂三・︶
としており︑他にも同趣旨のものが見られる︵蛙唾綱岬亜一壷二一一・一乏窄嘩蝿錘一五一.卿電︑︶︒学説としてもこれに賛
成するものが多いが︑有力な学説として櫛成要件該当性阻却原由たることを主張するものがある︒
そしてこの両説の対立は︑行為者が事実を真実だと信じて︑その事実を摘示して他人の名誉を殿損した場合に︑そ
れが予期に反して真実でなかったというようなとき︑すなわち誤報またはそれにもとずく批判がなされたときに頚著
になる︒柵成要件骸当性阻却原由脱をとられる剛藤教授は︑﹁行為者が典爽と思ったというだけで犯罪の成血が阻却
されるとすれば︑法神が﹃典爽なることの椛明ありたるとき﹄に限ってこれを刑しないものとしている趣胃に反する︒
しかしまた︑真実と侭ずるに足りるだけの相当の涛料があったにかかわらず︑さいごにそれが証明できなかったため
︑︑
に処罰を免れないのでは︑行為者はつねに大きなかけをしていることになり︑言論自由の見地から那実証明を認めた﹃2︺趣旨に反する︒﹂という立場から︑﹁構成要件該当性阻却原由としての事実の真実性は︑実は︑事実が重要な点で証
︵のう︾明が可能な程度に真実であることである︒したがって︑故意の成立を阻却するために必要であり︑かつ充分であるの
錘鰍蹴一に︑事実が亜要な点で真実であることの認識であり︑第二に︑証明が可能な程度の真実性の認識である︒﹂
﹁証明の可能な程度の真実性の總識とは︑行為肴の表象した内容を髄全な附識によって総合的に判断するときは︑蛎
実の翼実性を縄定することができる珊合であることを必要とし︑かつそれで足りるのである︒いいかえれば︑噸純に
真実と僧じただけでは足りないので︑他全な術識によって真実と判断するに足りるだけの容観的な資料を同時に縄識
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していなければならない︒そしてそのときは︑﹁柵成要件該当性阻却原由を認識したものとして︑故意の成立が阻却
される︒その客観的資料は行為者が認誠した範朋についてみなければならない︒客観的資料について誤認たとい
過失による誤認lがあってもさしつかえない︒他に反対の資料があることを春過した場合にも︑ただ認識した施囲
の涜料だけについてみなければならないのである︒・・⁝︒これに反して︑鰡搬した掛料からはたして小実の典実性を認
定することができるかどうかの槻那は容観的であるべきである︒行為者が雌卒に堺災の典爽性を撰偏しても︑健全な
術繩によって判断して︑行為打の總倣した審観的盗料から邪実の典実性を断定することができない場合には︑故怠の
成血は阻却されない︒たとえば︑恥なる風説から鞭実の真実栓を偏じたり︑偲頼に値する人だということを砿かめな
いで︑僑川のおけない人から聞いたことを真実と傭じたりした場合には︑故意がないとはいえないと考える︒﹂
これに対k違法性阻却説に立つ中武教授は︑﹁剛藤教授が客観的資料を行為者の認識した範囲︑すなわち主観的
にみなければならないとするのは正しい︒しかし何故その価値判断を客観的にみなければならないのか理解できない
のである︒その価値判断を主観的に誤り︑ひいては行為の違法性を意識しなかった場合にも︑規範的責任論の立場か
らは︑当然故意がなかったとしなければならないのではないか︒⁝⁝われわれは故意責任を過失責任から区別せしむ
る特色は︑その行為者が当骸の行為に対して当然反対勤磯となるべき事怖を蝿諭しながら︑しかも思いとどまらなか
ったという点に求めるのであるから︑故意は櫛成要件的雅実の紹識のほか︑その進法性を意識することが必要である
と解し︑刑法二三○条の二の賜合も︑行為者が﹃躯実の真実性﹄という進法肌却脈因に被る邪笈を誤秘してその結果︑
︵︑心︶〃為の違法性を意搬しなかった勤合には︑故意が肌却されるものと解するのである︒﹂とせられる︒
もっとも︑このように理紬としては対立しながらも︑実際的結果としては両者の間にさほどの懸隔はないもののご
とく︑中武教授自身も︑﹁しかしこのように考えたからといって︑決して判例のいう善意の思い過ぎを許容すること
にはならない︒何とならば︑事実の冥実性を信じ︑ひいては行為の違法性を認識しなかったということは被告人に挙
l 卜
− = 。 ■ 一 ■ − − − − − ■ 画 一 = 一 一 一 一 − 一
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報一五・九五︑k﹁かく考えてくると︑真実性の証明をもって可罰性阻却事由と解しこれを犯意の外におこうとする所論にはたや
すく賛同し難く︑むしろ真実性の証明もまた犯意の対象として検討すべく︑これに関する認識の欠訣が犯意を阻
却するものとする原審の見解に左たんせざるをえない︒
すなわち︑かく解することにより事実証明の面においてもまた認識の有無が問題とされるのであって︑かりに
証明不十分の場合でも摘示者においてこれを真実なりと侭ずべき相当の理由があれば犯意を阻却するものとし犯
罪の成立を否定し︑もって実際上における証明の困雌︵真実と証明との間に存する不可避的なⅢ隙︶との調和を
図る.ことがむしろ法益保護均衡の目的に合致するものと解しうるからである︒︵中略︶
摘示邪実が典実なることにつき相当な理由があるということは︑按上脱明にてらし推知しうるごとく公投者の
叩なる普意の思い過ぎを許容する趣厨ではないのであって︑正明は不十分ではあったが典拠性の点につき摘示者
がしかく侭ずることは鼬全な術識にてらし腿容される程度の容観的俄況のあったことが必要とされる︒﹂
︵Pひ︺と述べており︑以後の判例は右見解を踏襲するに至っている︒
判例学説は右に概観したように︑二三○条の二の解釈については徹妙な対立を見せているから︑公表者が過失によ
って誤信していた場合になお犯意を阻却するかの点に関しては︑いずれの蹴をとるかによって程度の差を生ずる結果 征資任があるとしなければならないからである︒事実の真実性について︑被告人に挙証責任が負わされている以上︑典実性の誤銘による故愈の阻却については︑より一肘強い理由をもって被告人に挙征寅任が負わされることになるの矩一垂三沁蔬︶は︑ 判例は︑さきに記したように︑真実性の証明をもって違法阻却眼因となると解しているようであるが︑誤僧の点についてはむしろ団藤説に近いようである︒すなわち︑二三○条の二について最初にその解釈を示した大喚局裁銅唖一一 である︒﹂と述べられている︒
一︲︲・邸や
ー ‐ ̲ 矛 一 一 一 一
7
となろうが︑典爽と誤傭することが健全な術湖にてらして無理のないところと思われるようなときは︑一様に故意が
阻却されるものとしている︒そしてこのことは刑小賀任の本質からしても当然のことであり︑さらに二三○条の二が
日本国悲法の保障する言論の自由の緋神に沿って設けられた規定であることを考慰するとき︑より一燗妥当な解釈だ
ということができよう︒したがって問題はそこにはない︒問題は︑刑邪責任を問わないということが︑民事責任につ
いてもそうでなければならないということに直ちに結びつくかどうかの点にある︒わが国の判例通鋭は︑この点に関
し何ら疑問をさしはさまないものg﹂とくである︒それはいかなる根拠にもとずくのであろうか︒節を改めて検討を
加えることとする︒
躯実証明に関し刑法一三○条のこのような規定を欠く民法として︑この間燭をいかに考えるかは一個の砿要な論点
であるが︑学説は一般に次のように解して刑法の趣旨にならっている︒すなわち︑あるいは︑
﹁神ならぬ人間のなす事実認識や判断は時として客観的真実と合致しないことがありうるし︑塙誉殿損について ㈹これらの学説を慨観したものに︑中武司名誉敦損と事実証明﹂︵判例評鎧二号一三頁以下︶がある︒わが国の刑法学説が
ドイツ刑法学界の見解に多く影響を受けていることは言うまでもないことであるが︑この条項制定の由来を券えれば当然と言
②団藤﹁刑法と刑鞭訴訟法との交錯L九○頁以下︑また以下同様︒
③ドイツ刑法第一八六条︵誹殴罪︶に﹁⁝⁝この覗実が真実であることが証明できないときは︵重の竃自国︺・言堅厨の嵐冨:言
︒﹃篭・昌号電号昌島:⁝.Lにいわゆる臘・2・昌呂君昌﹃急に当る︒
側中武前掲讃文︵判例評論一言豆四五頁︒
⑤商松商判昭和二八・三・九︑刑災六巻六三五頁︑東京商判昭和三一・二・二七︑刑兆九巻一○九頁︑大阪地判昭型一三・三
・一︑時報二八号二四頁など︒ ︾える︒
三︑民法における事実証明の取扱い
。
鍔暉﹄・叩.I蕊叩Ⅲ山師︑岬川叩叫Ⅱ辞.咄 I
13
っても︑加害者の行為の結果として生じた損害については︑加害者たる報道機関に損害賠償責任を問うことも許され
てよいはずである︒裁判所は一般に︑﹁真実であると信じるに足る相当な理由﹂があったかどうかについて︑こまか
く詮議して過失の有無を認定し︑民邪責任適用の蕊単たらしめているが︑現代の不法行為理論に照してやや時代錯誤
の感なきをえない︒もっとも下級裁判所としては︑判例法の発展のためには従来の判例理論の上に血って一歩一歩を
進めるほかなく︑過失責任理諭の体系と密若しながら︑実質的に内容を改変して行くという技巧を必要とするであろ
う︒そういった意味では︑報道機関の側において︑﹁当局からの取材および第三者からの悩報に基いて︑みずからその
興否を確かめることなく原秘を作成した﹂ことや︑﹁怖報の正砿性について何ら洲査をすること﹂がなかった点︑ある
いはまた﹁当局からの取材についてもその怖報が疑う余地のない程度に正硴であったと繩めるに足りる証拠がない﹂
︵ぬ︶ことを理由に︑典拠性の誤泌に過失があったと總定しているⅢ妃判決などの立斯も納得されるところである︒
しかし︑自動車の交通邪故についてはほとんど術に迎娠手の過失を脇める︵したがって実質的な意味では無過失蛍
︵皿︶任を脇めるのと変りない︶行き方と照し合せて考えれば︑このような判例の巧え方はもっと広く裁判所の支持を得て
もよいのではないか︒数判所が一般に報通機関の寅征を問うのに憶胸であるのは︑ペンの威力を恐れてのことであろ
うか︒あるいはそれとも︑誤報の場合の被害者は犯罪容疑者であることが多いことによるものであろうか︒いずれに
しても正義の擁護者たる裁判官として妥当な態度とは筒い難い︒交通蛎故の場合には︑被害者自身にも多少の過失や
不注意︵過失相殺の事由とはならない程度のものであるにしても︶があるのが大部分の場合である︒これと異なって
報道機関の誤報については︑誤報による被害者の側には全く何の責任もないのである︒たとえ犯罪者の場合であって
も︑犯罪の事実は誤報された内容に何らの資を負うわけではない︒そういったことが混同されて平気であるとしたな
ら︑人格や名誉の尊重ということは無視されたに等しいであろう︒取材源たる捜査織関に誤報の由来する根源があつ
︵噸︶たにしても︑誤って報道したのはあくまで報道擬関であって︑捜査機関自身ではない︒だとしたら︑誤報の結果与え
I雄
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た被害について何らかの溌を負うべきは当然ではなかろうか︒報道織関の誤報は決して天災のように不可抗力的なも
のではないからである︒わたくしはさらに︑英米法におけるこの間趣の取扱いを検討することによって理解を深めた
いと思う︒
③誤報に続いてすかさず取消広告や謝罪広告が原文にほぼ粗当するスペースをもって掲戦されるとしたなら︑被審考の失われ
た翁祷もほとんぎ完全に個彼されることになろう︒迩切左取加広告によ里し砿依稚務が鯉減または免除されるとする立法例
︵イギリスの︒昌固冒昌︒旨シ凰嘩忌認がその適例︶は︑こういった訴備を考腫しての措世である︒
側損筈賠償したがってまた民邪武任の木礎が耽袖賠償にあるとすることは通説の一致するところである︵例えば加藤﹁不法行
為L法神学全染二二巻三瓦以下︶︒しかしこのような立場に反対する学挽として戒能﹃債椛各崎﹂四二三瓦があり︑不法行為
法の最も水源的︑古典的な部分に関しては︑扣稚の瓶怖ということよりも︑反社会倫理的な行為に対する一つの反梁というこ
との方が耐きをなすべきであるとして︑その制城的性賛を強淵する︒私も従来からかかる見解に伺捌しており︑﹁慰謝料の木
鷺﹂︵金沢法学五巻一号︶において私兄を我明した︒もちろん︑そうだからといって賠償の樋能として脱怖賠償を否定するわ
けではない︒のみならず︑この場合︑取材紀考や繍築背に杵通の意味での過失がないときでも︑製報の結果として及ぼした被
害については︑斌補すべき武任があるのではないかと考えているのである︒禍害賠償を命じたら︑報道槻間がい縮して報迩の
自由が失われるのではないかと考える通悦の立場こそ︑損智賠償を刑乖壷任と同様に制裁的に見ている蝿いがある︒側前註㈲の判決︒ 佃幾代﹁不法行為としての名答殿祖﹂︵法抑時報二九巻六号︶一七面︒②徳本﹁名誉敦批﹂︵民法楓稗Ⅳ︶二二三瓦︒③稲岡尚判昭和二八・一・一六︑商民災六巻一江︒例東京地判昭和三一・五・一二︑下民築七巻三二四頁︑判例時報八凹号一四頁︒⑤京祁地判昭和二六・三・八︑下民集二巻三五三頁︒⑥東京地判昭和三○・七・二︑下民集六巻一三九七頁︒切前註倒と同一訴件︒なお前註倒の那件で東京地裁はほぼ同趣旨の判旨を述べており︑福岡高裁の立場を踏襲したものと
推定される︒亜皐地裁が前註側の那件および昭和三○・一○・一判決で折角見せた好ましい傾向は︑この蕪件で破られてし 前註③と同
推定される︒亜一
まった感がある︒ や●
= マ マ = → → 一 一 一 一 一 一 一 −−
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わが刑法筋二三○条の二はドイツ法・英米法その他多数の立法例における小爽紙明の原則にならったものであると
︵G8︶言われる︒しかし英米法では︑洛排殴捌については民邪的貴任の追求が主体であって︑刑耶責任を問うのはきわめて
︹ゆ︒︾限られた場合である︒しかも民事務醤敦捌における邪実証明の取扱いはわが国の場合と異なっていること以下に記す
通りである︒われわれはしばらくその取扱いを見ることとする︒
まずイギリス法について検討しよう︒名番殴描事件において︑他人の名排を穀損する記述の誤りであることを立祇
する責任は原告の側にはない︒法は原告の方に対して好意的である︒しかしながら他方では︑名誉を穀損するおそれ
のある非難もそれが真実である限り︑名脊殴損の訴えに対しては完全な抗弁となるとされている︒したがって原告は︑
他人の非難から全く自由な名誉権や人格椎をもつものではなく︑それが否定されたからといって直ちに損害賠償諭求
権が認められるわけではない︒このような意味での抗弁︵記述が真実である旨の︶は︑イギリス法上︑正当理由︵言︲
晩蚤青畠目︶の抗弁と言われている︒そしてこの場合︑抗弁を成立たせるためには非難の事実が真実であると信じた
だけでは不十分であって︑正に真実であることを立証しなければならないとされる︒たとえば︑
﹁私がもし︑湛は原告が人殺しをしたと信じていると言ったとしたなら︑私がほんとうにそう信じていたと言明 伽加藤削掲杏八○八一頁参照︒脚誤報の原因が主として捜充機関の誤断にもとずいていたようなときでも︑捜交樋関日身が軽卒に公表したときを別とすれば︑・この方に蛍任はない︒誤った逮捕や匂研に対しては同家賠償法による賠償蛍任の間町が生ずるであろうが︑それとこれとはも
とより別問題である︒報遊槻関が競争患撤に昭られ妃那を急ぎ過ぎるところに誤報の大部分の原因がひそんでいるのである︒
硴定した邪実を報過ばかりしていては報通機関の使命が失われるかも知れないが︑迅速性の要求が生んだ被害は自分の手で刈
取るべきが当然であろう︒
四︑英米法における事実証明の原則
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﹁君がもし他人についての噂を広めるなら︑噂が現に存在していたという立証によっては真実性の証明とするこ
︵︒︺とはできない︒君は噂の内容が真実であるということを立証する責任がある︒﹂
とも判示されている︒さらにまた被告は非難の事実︵訴えの対象とされている︶の一切について正当化の理由付けを
しなければならない︒したがって︑総体的に性行が良くないという非難をした場合には︑その一︑二の蛎例を立証す
るだけでは正当化されない︒たとえば︑﹁原告は好んで人を中傷するジャーナリストだ﹂と誘ったとの訴えに対して
︵︽⑥︶は︑原告が蝋に一度だけ翁芥殴揃の黄征を問われたことがあるとの血征だけでは十分な抗弁とはならないのである︒
従米コモンロー上の抗弁の原則によれば︑被告はラィベルの那件では訴えの対象となっている一切の妃述について
真実性の立証をなさなければならないとされていた︒だからもし︑記述された事実の一部でも真実であるとの立証が
なされなかったときは︑その部分︵真実であるとの立証の成立たない︶だけで十分に潴誉穀損の訴えを成立せしめる
に足る内容のものである限り︑当該部分に関し損害賠償が認められたのであった︒したがって︑
﹁人がもし︑数多くの犯罪をなしたとか︑特定の方法で犯罪をなしたとの記述をしたときは︑その人は抗弁とし
︵0︶て︑犯罪の度数または犯罪行為のなされたやり口を立証する必要がある︒﹂
︵8︶というように︑きわめて厳格に解されてきたのであった︒ところが一九五二年の名誉穀投法節五条では︑これが幾分
級和されて︑ 尋4︶したことになる︒﹂
と言われている︒また︑
﹁名答敗祖の訴えにおいては︑脈告に対して向けられた二つもしくはそれ以上の相異なった非難から成る紀述に
関して被告のなすべき正当理由の抗弁は︑非難の鞭実のすべてについて真実性の立証がなされなくても︑その他 したり立征したりするだけでば正当理由となすに足りない︒殺人の率実をも立証して初めて私は十分な抗弁をな
三 一
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とされるに至った︒紀述された鞭爽があらゆる此細な珊頂についてまで典実であるとの立賊は必要としないとの趣斤
である︒たとえば犯罪把邪について蘭うなら︑犯行の側時が正硫に典実に付合する必要はないだろうし︑犯人や被諜
者の住所年令職堆などが多少邪実と棚災するからといって述法性阻却の抗弁とならないわけのものではないというの
であろう.そして︑﹁その他の非難すべき聯爽の翼実性によって下される醸告の社会的評価を︑それが爽髄的により
︵Q亟︶以上低下せしめる﹂かどうかの問題は︑陪稀のなすべき邪実判断であるとされている︒もっとも︑五二年法第五条の
規定を別にしても︑コモンロー上の正当理由の抗弁では︑妃述された邪実のすべてについて典実であるとの立証をな
す必要はないとされている︒被告が︑主な非難すなわちラィベルの骨子となる部分が真実であるとの立証をなすなら︑
非難の向けられた主要蛎実に何物も加えることのない陳述や批判についてまでいちいち違法性阻却の抗弁をなす必要
︵︶はないし︑それ自体訴えの対象とされるような事項を蛎新しく公表する必要もないとされている︒だから五二年法は
右のようなコモンローの原則をより明確にするという意味をもつわけで︑これを全く変更したというわけではない︒
アメリカ法でも事実証明の問題はイギリス法と大して変っていない︒ただ連邦国家である関係上︑州によって憲法︑
︵皿︾法律および判例法はかなり異なっている︒これを一応分類すれば次のようなことになる︒
帥民事の名誉設損事件において︑真実の立証があればそれだけで抗弁となるとされるのは︑アラバマ州以下三四
㈲民事においても︑それが公共の利害に関するものであり︑しかも善良な動機にもとずいていて︵乱昏moa
g昌鳥晩︶害意がない場合︵量昏◎昇凰農吊︶︑またはその場合の状況に応じて誠実に︑かつ正当な目的のために
公表された場合に限って真実が抗弁となるのは︑デラウェア州以下一三州である︒︑ の非雌すべき邪実の輿実性によって下される脈告の社会的評価を︑それが実質的により以上低下せしめるのでな州である︒ い限り︑認められる︒﹂
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ところで事実証明の資任は︑イギリス法同様きわめて厳格である.すなわち︑正当理由の抗弁が蝿められるために
は︑訴えの対象となった名誉設損事実について正確な真実性の立証がなされることを必要とする︒被告たる公表者は︑
誹講の事実が現に存在すること︑換言すれば記述された内容に関する限りの正確な非難珈実の立証が必要とされるの
である︒もちろん公表された記述と事実証明との間に存在する些細な差異は︑それが記述の実体に影響を及ぼすもの
でない限り︑抗弁の成立に支障はない︒たとえば︑会見記躯を受持つ新聞記者が︑﹁AがXを泥搾だと言った﹂との
記事を番いた場合には︑被告として抗弁するためにはAがそのような言明をしたという酬実を立証するだけでは不十
分であって︑Xが真実に泥機だということも立証しなければならない︒さもなければ︑新聞社はコモンロー上与えら
︵蛇︶れる特梅または﹁公正な批判﹂にもとずく抗弁を提出しない以上︑損害賠償の資任を負わざれることになる︒同様に︑
一般の噂によればXは泥棒だと言われているということを血証するだけでは︑十分ではない︒Xの犯罪性に関して新
聞が侭用したといっても戦勝は変らない︒新川が︑﹁BはYを殺した﹂と記したのなら︑﹁BがZを殺した﹂という
立証では不十分である︒﹁AがBからトラックと数個の家具を盗んだ﹂との記事を書いたときは︑Aが中古の自動車 例刑事上も真実の立証だけで十分な抗弁となるとしているのはコロラド以下五州である︒㈲同様に刑事事件で真実性の抗弁を恵法上保障している州として︑アラバマ州以下七州がある︒㈱最後に刑事名誉穀損において真実性の抗弁が認められるためには︑公表が善良な動機に出てかつ正当な目的の
ためになされたことを要するとしているのは︑アリゾナ州以下三八州の多きに達している︒
このほか︑コロンビヤ特別地区においては︑民事・刑事ともに︑善良な動機と正当な目的とを具有することが事実
証明の前提条件とされているが︑アメリカ各州全体の傾向を概して言うなら︑民事では真実の立証が十分な抗弁とな
るとする州が比職的多く︑刑耶ではそのほかに響良な動機と正当な目的との二要件が加えられている州が大多数であ
羊ると葛うことができる︒
一一■− 一 ー 一 一 一 一 一 − 一一
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︵昭一→と三着の服とを盗んだという立証だけでは正当理由の抗弁とならない︒
しかしながらまた︑非難的言辞についてはその主要事実に関する真実性の立証に成功すれば︑被告の抗弁は認めら
れるのである︒裁判所はこのことを次のように判示している︒
﹁名誉設損的な非難については︑その主要事実が正当化される限り︑その言辞のすべてを繰り返し︑または正当
化することは不必要である︒しかし名替設損であると訴えられた事項が不可分のものであり︑主張された事実が
非難を成立たしめる上に相互に関連しているときは︑訴えられた全事実について真実性の立証が必要であるし︑
︵M︶さもないときは原告は立証されなかった部分のために被った損害の賠償を請求できるであろう︒﹂
したがってもし︑名誉穀損的非難を栂成するすべての蛎項に関する完全な正当理由の抗弁が成立たないときでも︑
現に存在する事実は賠償額を減ぜしめる理由とすることができる︒また︑中心的な事実について正当理由の立証がな
された場合︑記述の中で訴えられた事実と実質的に異ならない事実は︑賠償額を最低限ならしめるのに十分となろう︒
ところで事実の真実性に関する信念は︑名誉殿損訴訟にとって十分な抗弁となるものではない︒もし新聞が自己の
調査にもとずいて︑ある個人が公務員を買収したということで責任ありと信じそのようにコラム欄に記した場合︑そ
れが事実と相違したときは︑それを真実だと傭じたからといって抗弁とすることはできない︒他人を排読しょうとす
る悪意の動機︵目農8︶はなかったということでも抗弁とはならないのである︒たとえば︑この原則に関する判例法
の先例となった事件において︑裁判所は次のように判示している︒
﹁真実であるとの信念にもとずいてなされたと称する公表について︑違法性を阻却するためには︑被告はそのよ
うに信じたということだけではなく︑事実の真実性を立証しなければならない︒もしある人が殺人罪または放火
罪を犯したと信ずると公表したときは︑公表者は誠実にそのように信じたということを立証しても違法性は阻却
されない︒そのためには公表者は︑原告がほんとうに殺人罪または放火罪を犯したという事実を立証しなければ
ー − ¥ 一 ロ ー ー ー ー
.
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削紀イギリス法の原則と全く同一であることを知ることができよう︒もちろん真実だと侭じていたことに相当の理
由︵g巨且制88口目胃◎冨匡⑦喝Ogeがあるときは︑輿実性の立征がなされなかったときでも梱害貼憤額を減額
せしめる根拠とされることがある︒しかしながら︑わが側の裁判所のように民躯資任を全く免除することはない︒あ
くまで賠償額の算定に当って巧眼される諦般の那梢の一つとなるに過ぎないのである︒
側この灰に関ずろ比較法的検吋をしたものに︑小野︑刑法に於ける窮播の保捜L四四五頁以下がある︒
②河脈﹁英米法における瀦排棄損﹄法祢時報二九巻六号二四頁参照︒
英米法ではい旨且貝は原則として犯罪とされることがないし壼亙の甥合も悪意の動機に出て︑それが公安を轡する傾向を
︑もつときに限られるからである︒屡驚国需ロの﹃堅旦①寧弓①侭胃g⑤﹃言目昌一胃一尉蚤⑦冨乱g昌皇色目画言さ陽号昏目色g量
冒冨8号冒82局画胃8号O胃胃罵肖①3︵句.弓言滞﹃・弓言F①恩貢ぎ具﹃o一.胃胃勺﹃8画ママ誤P︶
③旨い昌冒号回の沢としては︑呰通﹁迩法性阻却L︵たとえば英米辞典二五八頁参照︶とされているが︑この場合脈語の意に
近いように﹁正当理由Lとした︒以下においては︑聯合によって述法性阻却としたところがある︒
倒宍︒﹃﹃ぐ.3﹃8台忠e︒﹃自警璽昌?塁.
⑤o8爵8目ぐ.霞﹃衛電︒且︵愚罵︶函宍・国●雪鱈ご︺・おい
⑥弓鳥島ぐ.no島合霞e幸同撰号&筐ゞ臼?弓.
㈹雷の厚毎ョぐ.里園烏君81台駅ら旨○・国・亨昌菖陪.
⑧ロの冒冒号ヨシ2s馬は従来厳格に過ぎて言鏡の自由を妨げるおそれがあるとされたイギリス法の延前を緩和するため制
定されたもので︑故意を伴わない名誉致損などにつはて被告の黄任をかなり軽減した︒
側○.留壹く自陣国3毛s雪弓言唇老呈ロ・雷ョ員︒●雪亨駅.
凹司.弓言罵門己ご匙・・弓函誤あ雪.
御﹁公正な批判﹄︵雪﹃8ヨョ§◎の抗弁は︑公共の利害に関する事実にもとずいており︑かつその事実の主要部分について
真実性の立証があるときは抗弁となる︒ ⑨○.留壹ぐ呂
伽ご己●も●忠︒ 侭︶
ならない︒﹂一己 −−−一 P 一 一 = 一
曲
¥
21
右の考察によって得られる結論は何であろうか︒刑法第二三○条の二が英米法の継受と見るべきかどうかの点はし
ばらくおくとしても︑事実証明の抗弁は本来名誉穀損であるものを公益上免責するところにその本質があると考えら
︵■&︶れはしないだろうか︒たしかに刑法上の建前からすれば︵故意犯のみを処罰するのが原則であって︑過失犯の責任が
問われるのは例外に過ぎないから︶︑他人の名誉を穀損しようという故意のない場合︵誤報の問題がおきる通常の場合
は︑報道人は事実だと信じて報道したわけだから︑未必の故意も存在しない︶に︑その責任を問うわけには行かない
へ2︸はずである︒しかし︑何度も繰返したように民法の問題としては︑この原則を当然のこととして適川することは︑論
理の飛躍である︒民事責任の本質は︵不法行為について見るとき︶︑主として発生した損害の当駆者による公平な分
担にあると考えるとき︑事実証明に失敗した報道機関が自己のひき起した人権侵害に対して︑その損害を賠償すべき
は言わば当然のことではなかろうか︒
︸へq■︾民法の立場からすれば︑﹁名誉穀損についてだけ過失責任の原則を一般的に排除するだけの合理的根拠にも乏しい﹂
のはたしかである︒しかし不法行為の主観的要件としての過失は抽象的過失すなわち普通人の注意義務を欠くことで
あるが︑注意義務の程度はそれから生ずる危険の大小や被侵害利益の大小によって変化するものであるから︑人権侵
︵n勺︶害の危険性を包蔵することの多い報道機関の場合においては商度の注意義務ありとするのが相当であろう︒だとすれ
ば過失責任の原則に立ちながらも︑誤報がたとえ真実であると信じるについて相当の理由がある場合でも︑民事責任
脚 卿 卿
一ヶ一﹄︒︾ロ︒心P
富⑨P雲の篇﹃ぐ︒ロ28詩句制①弔届器○○.望め︑言行昏心認寧農﹈・おZ.ご戸曾函︵届巴︶.
君号◎己争司胃言虐○堅.四囲合田ら.
五︑むすび
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命
22
︵月︶︾を免れないとすべきではないか︒邪突征明ができなかったところに過失があると考えても何ら差支えはないであろう︒
谷U︶そしてこのような血場に立って被害者の救済を考えることが︑人梱と言諭の自由の適切な調和をもたらすものではな
いかと侭じている︒英米法における事実証明の原則はこのことを前提としているように思われる︒
佃英米法の継受だから︑英米法の原則を尊敢するのが筋道だとするものに︑河原﹁名誉殿損の原則とその判例L判例評論三号
六頁がある︒占頒下の立法ということを考えればそうであろうが︑系譜としてはむしろドイツ刑法の流れを汲むものではなか
ろうか︒たとえば小野前掲書︑団藤前掲書を見れば︑以前から検討されていた問題であることが分る︒
しかしドイツ民法の場合でも︑原告は主張の不真実なことを立証する必要はなく︑逆に被告が立証の責任︵真実性について︶
を負う︒そして被告は傭報提供者の信頼性に依存して︑主張事実の真実性を信じていたということも︑その責任を免れしめる
ものではないと言われる︒たとえ︑被告たる公表者には軽過失すらなかった場合でも同様とされている︒
く里.霞呈①面︒言冨号同胃恩昌︒言目星﹃の匡且号画冬冨画︒言重昏呂冒冒冒卑冒胃o胃吻.急諄
②しかしながら︑軽卒に事実の真実性を誤信したときは故意の成立は免れないとする学説︵団藤前掲書参照︶があることに注意︒なお前記﹁二︑刑法と那実証明Lの部分参照のこと︒
倒加蕊前掲香六九頁以下︑とくに七一頁参照︒ここで教授は︑可注意義務︑したがって過失を︑具体的かつ相対的に考えるこ
とは︑損害の公平な分担という不法行為法の理想に近づくとともに︑危険な聯業については危険蛍任としての熊過失費任を認
める方向に近づくこととなる﹂と指摘される︒
⑤米米法では述法性阻却耶由と考えられているわけだが︵わが刑法の場合も同級︶わが民法の立場では特別規定を欠くためと
不法行為の成立要件を個別的に検肘する行き方が従来とられなかったため︑過失一般の問題に解消されている︒しかしかかる
考え方を加提としても︑娯報即過失︵自助耶堺故即過失迎転の類推︶と考えられると思う︒
⑥救済一般の間魎およびその方法の優劣については︑かって﹁塩誉棄損に対する救済L︵金沢法学三巻二号︶において検討し
仏)(8)
︵付記︶この小稿は︑前稿﹁名誉段損とその武任﹂︵佐大法経論集四巻一号︶の続網をなすものである︒なおドイツ法における瓢実証明の問題については︑これに触れている文献が少いため︑単なる粗描を基として一応の推論をなすほかなかった︒不法行為法一般といかに関連せしめられているかなどの問題については後日の研究に待ちたい︒ たことがある︒ ︒なお前記﹁二︑刑ユ幾代前掲證文一七頁︒
争