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熊本大学学術リポジトリ

シリーズ熊本大学附属図書館蔵特殊資料紹介9 重要 文化財 阿蘇家文書 (34巻36冊)

著者 工藤, 敬一

雑誌名 東光原 : 熊本大学附属図書館報 = Kumamoto

University Library Bulletin

巻 10

ページ 3‑4

発行年 1995‑02

URL http://hdl.handle.net/2298/10132

(2)

第10号 1995.2

分だけのスペースを持つことができるのは、かなり賛 沢なことでしょうが、だからこそ図書館が居心地のよ い場所となり、自然に書物に親しめるのではないでし

ょうか。

私がイリノイ大学で勉強した3年間は経済的にはぎ

りぎりでしたが、このような行き届いたサービスを図 書館から平等に受けることができたからこそ、精神的 に豊かな日々を送ることができたのだと思えます。

(マスデンまりこ文学部助手留学生担当)

シリーズ熊本大学附属図書館蔵特殊資料紹介9

重要文化財 阿蘇家文書(34巻36冊)

工藤敬一

肥後一宮である阿蘇社の造営は、国司の管理下に33 年に一度の社領の神税による正殿造営と、一国の陳別 銭による神宝の調進が、同時になされるのが原則であ

った。鎌倉時代最末期の元徳元年(1329)から正慶元年 (1332)にまたがる造営については、かなり具体的にそ の実態を示す史料が遣っており、故杉本尚雄博士によ ってその概要がまとめられている(『中世の神社と社 領』504〜511頁)。ここに紹介するのは、それから140 余年後の文明4年(1472)の「御岳本堂」(山上の上宮)

と下宮(阿蘇十二社)の修造に関する史料である。

宝徳3年(1451)の北朝系大宮司惟郷の主導による両

系の統一から20年、惟郷の子惟忠は、肥後の守護菊池 重朝に、長らく荒廃したままであった「御岳本堂上茸 井下宮」の修造を使者を遣して申し入れた。かつての 国司の権限は、南北朝期以降事実上守護に継承されて いたからである。重朝は家臣中のおもだった者(=老 者)と相談し、諒承の旨を返事した。[A]は老者の一 人城為冬が、大宮司の有力家臣である光永山城守にそ の旨を伝えたものである。この時重朝は修造の費用を 一国の棟別銭によって確保する方針を打ち出し、 0月 23日次の書状を惟忠に送った。

阿蘇十二の御社ならびに本堂修造の事、先度承わり (−,

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一角=−年タマP可 竺二=

B宇土為光書状

(幻妖切封〕

「1ドー」

(惟忠)

尚々此旨阿芭殿へも

御小避測人麟く

就阿莉十二之社井本

堂御造這、委細蒙仰候、

目出存候、即可申付候、此旨

方保田方人一一令申候、

可得御察候、恐憧謹一一一一口、

C高瀬秦朝自筆書状

(Ⅲ几ツハ肱川)(N刑)

「11一局瀬との」

隈部次郎右衛門殿秦朝」

為阿蘓御村井本堂

御修造棟別事、蒙仰候、

目出候、則申付、可致

奔走候、不可有無沙汰候、

委細御使申人候、定可

有御披露候哉、万吉、恐慢

謹一一一一口、

(災乖)(Ⅲ)

「文明二年釘」 十月十九日

限部上總介殿

[兇飛)(四]

醜婦趾 隈部次郎右術門殿

為光(花押) 泰朝(花押)

(3)

東光原

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蕊 毒

111》Ⅱ。

19.

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吋吟▲L万・。

m肥前徳鶴丸書状

一折吋ウハkU

「11肥前

隈部殿徳鶴丸」

御習趣拝見仕候了、抑就

呵蘓御宮御造栄棟別事

被仰出候、目出候、則申付、可致

結榊候、委細旨、限部次郎右衛門方

E詫磨重一房書状

令申候、定可

謹言、 本堂修造棟別事、 蒙仰候、奔走可申候、 委細之趣御使者一一令申候、 可得御意候、恐々 謹言、 為阿蘓十二宮之社丼

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部月lUI

殿A1iii8 11L

(兇乖)(Ⅲ)

..泥

「文明守年灰」 十月廿日

限部上総殿

有言上侯、

重房(花押) 』

徳鶴丸 恐慢

た。守護菊池氏の権威は大名化を指向する遠隔の有力 勢力には、ストレートには通じなかったのである。

なお、掲出した文書はすべて料紙の下部が焼けてい る。これも天保7年の火災の際に痛んだものである。

(<どうけいいち文学部教授国史学)

候、先例の様存知無きの由古老の者申候、然りと錐 も、我等別して奔走を為し、方々の催促を致し候、

返事同壁書の案、御披見のためこれを進め候、球磨・

八代・天草以下返事到来候はば、重てこれを進ずべ くⅡ美、若不沙汰の方候はば、其様より御催促目出べ

しし

<候、諸事後信を期し候、恐々謹言(原和様漢文)

老者の中には「先例の様存知無し」として難色を示す者 もあったが、重朝は「別して奔走催促」することを約し、

無沙汰の者には大宮司からも催促して欲しいといって いるのである。これまでも神宝の費用には棟別銭を充 てるのが先例であったが、社殿の修造についてはこれ が初めてであったからである。

重朝は重臣の一人隈部上総介(次郎右衛門)を修造奉 行に任命し、棟別銭の賦課を国中の国人領主達に周知 させた。[B]・[C]・[D]・[E]は、いずれもそれをう けて諒承の旨を返事した国人達の書状である。宇土為 光は重朝の叔父で、宇土を苗字とする有力国人、高瀬 泰朝も高瀬(玉名市高瀬港)を領する菊池一族の有力者、

肥前徳鶴丸は、建武政権から肥前守に補任された菊池 武澄の系統(肥前家)の名跡を継いだ菊池為安(重 朝の叔父)の子息と推定され、詫磨重房も重朝の叔父で ある。この外正文は天保7年(1836)の火災で焼失して 遣っていないが、菊池武明も同様の返事を送っている。

これら菊池一族が直ちに諒承の返事をしたのに対して、

球磨の相良為継や八代の名和顕忠はすぐには応ぜず、

大宮司惟忠の方からさらに催促を加えねばならなかつ

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本学教官寄贈著書紹介

上西川原章教授(養・独文学)

ゲーテ時代のひとつの断面 一自伝「人生の有為転変」-

上西川原章訳三修社1994.11

西成彦助教授(文・比較文学)

モダニズム研究

モダニズム研究会著思潮社 1994.3

(4)

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KumamotoUniversityLibraryBuUetin,No.10,Feb、1995

し ●イリノイ大学(アメリカ合衆国)の図書館を利用して

シリーズ熊本大学附属図書館蔵特殊資料紹介9

●重要文化財阿蘇家文書(s4巻s6冊)

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於私も目出肝要存候、委細 [AI

直被申候之間、省略仕候、恐々

謹言、 貝札令拝見致披蹄候、

御抑 造枕

一別狐)(川〉

「文明》年冊眠‐ 八月十九日

光永山城守殿 御獅本雄同下宮

営御使悦喜被申候、 城為冬書状

為冬(花押)

参照

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