期間計算の擬制性
(1)
−−−一期間計算の兵実性に.関するリーガーの所説によせて一一
馬 場 理 代
Ⅰは じ め に
期間計算が全体計算と異なり自らの真実性を主張しえ.ないということは,も
(2)
ほや周知のこ.とがらに.属するであろう。そして,このような期間計算の真実性
の問題紅ついて,〔良正面から積極的蒜)取り扱った先覚中人として,われわれ
は,リーガー・の名を思い起こすことができる。企業計算を−−「改革的提案を結
(4)
びつけることなく」一理論的に.解明することを意図したリ」−ガーほ,はかならず 全体計算の轟実性と期間計算のそうならざる性格を特徴づけている。そうであ れば,いまさら,期間計算の真実性に関するり−ガーの所説をひもとく要はな いかも知れない。
しかしながら,期間計界の真実ならざる事実とその根拠を浮き彫りにするり
−ガL−・の論調を入念に跡づけるならば,その所説にはあらためて検討を要する 重要な問題が蔵されていることに気付くであろう。すなわち,なに.よりもま
(1)ここに「期間計罫の真実性紅関するリーガーの所説」とは,リ−・ガ−・の主許『私経
済学入門』(Wilhelm Rieger,Elnjdhrungin die Privatu)iri.schajislehre,N批n−
beIg,1928.)のなかで展開されているものを取り上げた。リ−・ガーは期間計算の真 実性の問題を別稿(,,Wasist Bilanzwahrheit? Tmirttembergi.sche mrtscha.fisze・−
よ才5Cカγ∠メ■f,1937,S…951ff.)紅おいて直裁に.論じているようであるが,それがどう しても入手不可能なので,こうせぎるをえなかった。
(2)かかる論及は,わが国では谷端長博士によってとりわけ精緻にかつ体系的に展開さ れている。その意味で,いま小稿でこのような問題を取り扱うことに,なお,遼巡す るものがあるが,ここではいちおう谷端博士の労作から離れて,もっぱらリー・ガ一紅そ って考察を進めることにする。しかしながら,博士の深い洞察から多くの点で教示を うけたことはいうまでもない。なお,博士の労作は,大著『−(増補版)動的会討論.』森 山書店1968年の第2部紅まとめて納められている。
(3)周知のように,リーガーはBilanzwahIbeit(貸借対照表の真実性)ということばを 用いて,期間計算の真実性の問題を積極的紅考察している。
(4)W.RiegeI,α.α.0.,S.203.
期間計静の擬制性 −.97−・
545
ず,リ一升−ほ真実性の問題を認識的側面からでほ.なくて評価的側面から取り 扱っており,このことほ,期間計算の異実性に.ついての見解としてきわめて特 異であると思われるのである。そ・してさらに.,期間計算の真実性の問題が評価 的側面から取り扱われることによって,その見解の基底には,いわゆる期間計 算の意味についての規定が潜在し,彼自身の期間計算像が結ばれるに至ってい ることを見過ごすことほできないのである。現今,企業会計のあり方をめぐる さまざまな思量のただなかにあるのであってみれば,企発会計の根本問題を形 成する期間計算の意味を問い,期間計算のあるべき姿〔とり−・ガ一に.よって考えら れている像〕に.触れてみることは,あながち無益なことではないであろう。
それではいったい,ジー・ガ一に.よれば,期間計算の呉実性とはどのように解 されるのであろうか。そうして−,そもそも期間計算の意味とほなにであり,し たがって期間計算ほどうあるべきだと主張されるのであろうか。小稿ほ,かか
る考察を直接的に論議の対象とすることによって,−−−その意味で,期間計算の真 実性に関するリー・ガーの所説をできうるかぎり忠実紅跡づけ,同時にできうるかぎり自由 に解釈するこ.とに.よって−,きわめて\素朴に℡ 期間計算の性格と意味にンついて 省察を願った−・文である。
ⅠⅠ期間計算の成立とその限界
期間計算の真実性に関するリ1−ガ−・の所説が,学ぶべき多くの教示を蔵して いることほ上で触れたとおりである。われわれほ.,なによりもまず,このこと をあらためて明確にし,リーガー・の所説を理解するよすがとしよう。そのため 紅いま,事業の終結と完全なる換金が企業成果決定の唯・−・の基準であるとする 伝統的な見解を,必要なかぎりで概観することにする。
ところで,かかる伝統的な基準に基づいて成果決定がなされるぺきことを主
張して,ギルマンほつぎのように述べている。すなわち,まず,中世の個別的
な冒険事業(single venture)に関してほ直戯に,「個別的な冒険事業の利益計
算において正確性が達成されるのほ,それが終結して完全に換金されるときで
寛45巻 第4号
−・9β− 546
(さ)
ある」と。ついで,反復的な冒険事業(successive venture)に関して述べて一 いる。反復的な冒険事業に従事している組合員には,いつかは商品が完全にそ の手許からなくなり,船が処分されてしまうときがくるであろう。かかると き,まさに.かかるときにのみ,組合員ほ一・連の冒険的事業に関する実現利益を 正確に.決定しうるのであるが,貨幣の全循環過程の途中において行なわれる個
、lミ\
々の航海紅ついての利益見積りの正確性ほ検証されえないであろう,と。
そして,このような中世の冒険事業に.あっては,実際に.,事業の終結と完全 なる換金という基準に基づいて\成果の決定をなすことが可能であった。冒険事 業の完了どとに成果を引算して共同出資者に配分できるようにするととが,成 果引算に課せられる要請であり,しかもそれが,冒険事業は当座的であってそ の存続期間は短いゆえに.,可能であったからである。
これに.対して,今日支配的な継続企業になると,伝統的な成果決定基準は問題 が生じる。ギルマンに.よれば,「…当座的な冒険事業においては真実の会計上 の利益が決定されるのに対して,永続的な生命をもつ大規模な良く管理された
(7)
株式会社では,それと同じような簡単で正確な利益の決定ほ不可能である」こ とになるのである。もっとも,窮極的な企業の終末時に,事業の全存続期間に わたって行なわれる全体計算を考えるならば,それは,伝統的な成果決定基準 紅かなうものだといえるであろう。だが,継続企業がなかば永続的な生命をも つものであってみれば,そのような全体計算ほ現実にははとんど不可能であ
る。また,継続する企業活動の途中において−は,伝統的な成果決定基準に.かな う成果の決定ほなるはど不可能であろう。繰り返していえ.ば,伝統的な基準と は,事業の終結と完全なる換金を成果決定のための前提となすものであるゆえ
Pこ…・・い
しかしながらそれ紅もかかわらず,継歳企業にあってほ,企業活動の途中に
(5)S.Gilman,Accountirng Conce♪tS qf PYqfit,New York,1939,p・71.片野一郎 監閲・久野光朗訳『ギルマン会計学(上巻)』同文舘,1965年,93ぺ一一汐。
(6)∫∂jd.
(7)S.Gilman,♂♪。ど∠J.,p.75.片野一部監閲・久野光朗訳『前掲昏』99ぺ一汐。
期間計界の斑制性 ー.99−
547
おいて,換言すれば企業の存続中に,いわゆる期間計算の形態で成果を決定す ることがどうしても要請されるようになるのである。
たしかに,期間計算の発生は,継続企業の成立を契機とする必然的かつ不可
(8)
避的なものであった。なかは永続的な存続期間をもつ継続企業に.あっては,そ の存続期間中に業績の程度を知り,経営管理や利益配当をなしうる要があり,
そのためには,継続する企業活動を人為的に切断して−・定期問の成果を封算す る期間計算がぜひとも必要とされるからにはかならない。はるか後年になって ほじめて−,−一企業の創設から終末に至る全存続期間の一成異な計算する全体計算 でほ,企業ほそ・の間に自らの業績の程度を知りえずして,それは企業の役にた たない無意味なものとなる。しかも,それがはとんど不可能であるのは,叙上 のとおりである。
こ.のような期間計算発生の由来について,シュマ−レンバッハほつぎのよう に要言している。すなわち,「社員たち(Gesellschafter)は企業の解散に至る までにすでに,その事業がいかに.発展しつつあるか,うまく管理されつつある か,売上や価格がどのような成果をあげているかということを知りたいのであ る。営業の遂行自体が,営業上の処理をきめてゆかねばならないために,こ.れ らの計算を用いる。これに,税法上の規定と商法上の貸借対照表規定が付け加 わる。要する紅,全存続期間の終わるまでに,全存続期間ではなくて,その1 部分の期間の利益計算を行なわなければならないのである。ここに,全存続期
(8)周知のよう紅歴史的にみると,期間計算は,口別計界の不都合を補う方法として生成 したものである。すなわち,中世の当座的・冒険的な組合企業においては,その主たる企 業活動である冒険取引の性格に規制されて,取引の終了の都度,取引別にあるいは取
扱商品別に損益を計算するいわゆる口別封算法が招来された。大規模な冒険取引のた めに共同出資した仲間に,当該取引から生ずる利益を配分することが必要であり,し
かも当座的な冒険取引にあってほ,それが可能であったからである。そして口別計静 はかかるものであるゆえに,一層の全体計罫であることはいうまでもな
ところが,17世紀以後企業活動が継続的に.なり,永続的ないわゆる魅続企業が成立
してくる,と,もはや口別計算法は不必要となり,かつまた不可能となった。ここに期
間計静の発生する歴史的必然性がみられるのである。
第45巻 第4号
一J∂0− 548
(9)
問の引算にかわって,期間計算が発生する」と○
このようにして,期間引算が現実に∴−一企業活動の途中に.おいて叫行なわれる のであってみれぼ,事業の終結と完全なる換金を成果決定の基準となす見解 は,したがって企業活動の途中において成果決定は不可能であるという見解は,
この期間計算をどのように説明するのであろうか。伝統的な見解の正当性を主 張し,あくまでもこの見解に立つのであれば,期間計算を,生まれながらにし
て逃れえぬ限界を蔵する成果計算として特徴づけるほかないであろう。
そしてニ,期間計算の限界を指摘する主張ほ,実に多くの論者によって−なされ て−きて:いるのである。一伝統的な成果決定基準紅かなうー全体計算が決定的な 計算であるのに・比して期間計算は暫定的な計算であり,その意味で,全体計算 に.は絶対的な計算の正確性が保証されるに比して期間計算に朋そ・れが望みえな いというかたちで……。
たとえば,ぺイトン・リトルトンは,期間計算は暫定的な「試験的な鑑定
(10)
(test readings)」にすぎないと指摘する。すなわち,「企業活動の流れは長く継 続するのをつねとする。諸活動の最後の結果は未来にかかっている。しかし(現 在の)いろいろの決定ほ最後の結果を待ってからというわけに・はV、かない○経 営者,出資者,政府,すぺての利害関係団体ほそ・の進捗度を測定するため紅折 に触れて『試験的な鑑定』を必要とする。(そこ・で),会計によってわれわれ は,ある期間内に『メーター(meteI)』を通って流れる費用と収益との期間的
(10) 対応を通し,かかる試験的な鑑定をおこなおうと努めるのである.」と。
そうして,そのような期間計算にほ絶対的な計算の正確性は不可健であると
(11)
指摘きれるのである。経済学の観点から会計理論の再吟味を企てたキャニング
(9)E.亭Chmaledbach,DγnamischeEγlanz,11・A鱒/ l,,K81nundOpladen,1953,
SS.49−50.土岐政蔵訳『十一版・動的貸借対照表論』森山昏店,1956年,亜−′45ぺノー
ジ。
、(10)W.A.Paton&A.CいLittleton,An ZntY Odawiion to CoY boraic Acc Siandards,AmericanAtcountingAssociation,1940,pp.14−15.中島省吾訳『(改 訳版)会社会計基準序説』森山書店,1958年,23−24ぺ一汐。
(11)キヤニソグは,彼の主著(J。B.Canning,The Economics qfAccountanqy,New
YoIk,1929.)の序文において,経済学と会討学における静態論の立場から経済学徒
期間計簸の擬制性
549 一JOJ一
は.,つぎのようにしてとりわけ鮮明に,この限界を露呈する。すなわち,
(1)企業の解散前に行なわれる総所得(g工 OSSincome)の測定は,その企 業の歴史に鳳する正確紅決定された事実ではなく,またそれを意図するもので
もない。
(2)したがってまた,企業に関係していることから生ずる個人の総所得 は,その関係がなくなるまでは.けっして事実として決定されない。このこと は,その人が所有主であれ,あるいは株主であれ,債権者であれ,誰であって
もかわることほない。
(3)これに.対して,英美に.して,あるがままに事態を叙述する総所得の最 終的測定ほ,/欝1に・,個人の企業紅対する関係がなくなる場合における,欝2 に,企業が解散する場合における会計士の手続から必然的に生ずる。
(4)企業に関係している全期間よりも短い期間,もしくは企業の全存続 期間よりも短い期間に関するいかなる所得の測定も,単なる近似的な指標
(approximateindexes)にすぎないのである。(そのため,このような指標紀要誇 されるものは,それが当該期間に関する真実の総所得であるはずの測定紅近似しているこ
(12)
とではなく,むしろそれによって将来の所得を確実に.予測できることである,)と○
ケスターもまた,この限界を簡明に指摘している。「利益とほ,企兼が終止す るか清算される場合にのみ,正確に・そして明確に決定しうるものである。継
(13)
続企業の利益はつねに見積り(estimate)に・すぎない」とo
こ.のよう紅みてくると,伝統的な企共成果の決定基準紅立脚するならば,企 業活動の途中において成果決定は不可能であり,それゆえに・現実に・行なわれて いる期間計静は暫定的な計静であって,絶対的な計算の正確性を望みえないと 限界づけられることに問題はなtl、であろう。問題ほ,そもそも,企業成果の決 定基準が事業の終結と完全なる換金でなければならない根拠はな紅かというこ
紅理解できるような会討理論ないし会封実践を構築せんことを意図していることを述
べている。(PI・eface p.iiiL)
(12)).B.Canning,0♪.cit,pp・123−1240
(13)R.B.Kester,AdvancedAccouniing,NewYork,1933,pい494・
籍45巻 第4号
−・J∂2− 550
とである。そして,伝統的な見解に立つならば,現実に行なわれている期間釘 算は叙上のように限界づけられるのであるが,その場合,もともと期間引算ほ 存在しえないはずであってみれぼ,その現実の存在は理論上どう説明されるの かということである。そしてさらに,伝統的な見解に立つならば,それに理論 的にかなう期間計算とはどうあるべきなのかということである。
もはや,期間計算の美嚢性に関するリーガーの所説が,いかに多くの学ぶべ き教示を威しているか明らかであろう。すなわち,.リーガー・の所説は,後に・明 らかとなるように,企業成果決定のための前提が企業の終末時にJ投入貨幣がす べて回収貨幣に立ち至っていることであるという見解に立脚する。かかる見解 に立脚するからにほ,しかも論理を好んで自らの武器とするリーガー・ほあくま でもそうするであろうからに.は,.リー・ガ一においては,必ずや叙上の問題に対 する解明が与えられ,そうして.期間計算の性格があらわにされていると思われ
るのである。
ⅠⅠⅠ期間計算の真実性−リ−ガ−の見解
そこでつぎ紅,期間計算の真実性に関するリーガ−・の所説をできうるかぎり
(14)
忠実に跡づけていくことにしよう。
ところで,リ−ガ−は,企業成果計算せ企業それ自体の本質に基づいて解明 しようとする。それゆえに,リ、−ガ一によると,企業成果引算は,現在の企業 のもつ資本主義的資質と継続企業的資質紅よって規定され特質づけられていく のである。
リーガ−ほ,なによりもまず,資本主義経済および資本主義的企業の本質に
基づいて,企業計算は貨幣計界であると特質づける 。一名・の出発点ほ,「計算
(15)
制度は全体経済の制度から規定される」という思考である。なればこそ,企業
(14)リ−ガ−の期間計乱の共実性の問題ほ,いうまでもなく彼の成果計算論のなかで展 開されるのであってみれば,この跡づけにあたって,必要なかぎりでつぎの拙稿と−
部重複がみられるが,御了解をお願いしたい。拙稿「リ・−ガーの成果計算論一名日 貨幣資本維持思考のひとこま−」『香川大学経済論叢』第43巻第4号(1970年1q月)
35−68ぺ−ジ。
(15)W.Rieger,a.a.0.,S.181.
期間計算の擬制性
551 ーJ∂β−
計算咋現在の資本主義経済の本質に制約されることになる○でほ資本主義経済 の本質はなにかといえば,それは貨幣経済たることにはかならないという。自 給自足経済の下では起こりえない貨幣麓得の努力こそ・,資本主義経済への改革
の決定点であるとみなすからである。そこでは,貨幣さえ取得しておればいつ でも欲望の充足が可能となるのであるから,財の生産ほ貨幣獲得のための単な る手段でしかなくなる。そして,リ−ガ一によると,この生産を貨幣獲得のた めの手段とする組織体として登場したものが企業である。その意味で,企業は 資本主義経済とともに.生まれたその最たる代表者である。企業とほ.,「経済生活 における活動を通して.,貨幣所得−これが利益と呼ばれる−を獲得するた
(16) めの設備」に.はかならないのである。
ふえんすると,企業は,生産のための技術的施設として−の経営をそのなかに 有して,それを貨幣獲得のため紅使用する。それゆえに.,リーガーに.あって.ほ,
〔企業の〕経営ほ,ただ単に.「 貨幣から回収貨幣への転換(eine Umwandlung
(17)
VOn Geld zu WiedeトGeld)」をなすもの,換言すれば「貨幣を生み出すため
に貨幣を消費する−L施設(eine Einrichtung,die Geld verbraucht,um Geld
(lS\
Zu e工Ze11gen)」とみなされる紅すぎず,経営そ・れ自体が関心の対象となること はない。
資本主義経済すなわち貨幣経済の下では,「すべての企業に.ついて−それが 技術的にどれはど異なっていようとも−一共通なことは,つねに.貨幣転換過程
(19)
(Geldumwandlungsprozeβ)ということ」である。資本主義的企業に.とって 問題となるのは,いつの場合紅もただ単に貨幣獲得の魂であり,貨幣思考だけ である。
そうだとすると,「貨幣すなわち価格という針の孔(Nade16hr des Geldes,
(20)
der・P工・eise)」を通らなければ,どれひとつとしてかかる企業の計算の問題とな
(16)W巾Ri喝er・,α巾α.0,S..44.
(17)W.Ri喝eI,α小α..0,S.155.
(18)E∂β形dα一.
(19)W小Rieger,a..a…0,S.157.
(20)W.Rieger,a.a.0.,S.183.
籍45巻 欝4弓
−・封拍− 55:三
りうるものは存しないはず∴である。企業に.とって,貨幣計算.以外の考盈はすべ て無縁であり,企業引算は貨幣計算の域に終始するのである。
このようにして,企業計算が貨幣計算として特質づけられるからには,企業 計算の根本問題を形成する企業成果計算もまた,けっしてこの例外をなすもの では.ありえない。では,具体的にどのような貨幣計算が企業成果計算であると いわれるのであろうか。リー・ガ一にあっては,企業成果計算ほ,企業に.おける 投入貨幣と回収貨幣との単なる比較によって行なわれる貨幣比較計算である。
企業成果計算の対象をなす企業成果ほ,一企業者のそれ紅等しく一役入貨幣 と回収貨幣との差額たる貨幣余剰にほかならず,しかも「貨幣は,概念上,変
(21)
勒可能性のかなたにある」からである。(なお,こ.のような見解が,私的企業観と金
(22)
本位制度に潰えられた貨幣観という2つの前提を基調とするちと紅ついては,すで紅別稿 において詳しく論じたので,ここでは触れないこ.とにする。)
そ・こで,このような企業成果計算ほ,企業において実際には,いかにして,い つ行なわれあるいは行なわれうるかというこ・とについて検討を進めていこう。
リーーガ−・によると,資本主義的企業に.おいて−ほ,いうまでもなく,営業の出 発点は貨幣の費消でありその終結は貨幣の収入である。すなわち,「取引は,支
(28)
出から,支出を越えて,収入に立ち至る」のである。その間払おいて商品在高 等の価値物として存在するものはすぺて,乗り越えられ処分されなければなら ず,全営業は貨幣化(Geldwerdung)の過程とみなされる。「経営的出来事のす
(24) ぺては,個別的にもまた全体としても,貨幣化への成熟に.すぎない」のであ
る。
したがって,どのような営業においても,それが終結したときに咋.,ただち に貨幣に.よる成果計算を行なうことができ,当然に企業成果の決定も可像であ る。だから,一・皮的かつ短期の個別・当座・組合営業(einmalig・飴und ku工Z・
(21)W.Rieger,いa.a.0一,S.,203.
(22)前掲した拙稿の(わけても)第ⅠⅤ節を参照いただきたい。
(23)Wu Rieger,a.a.0‖,S小203.
(24)W.Rieger,a.a.0。,S.213・
期間引算の擬制性
553 −J〃∂−
fristiges Partie−Gelegenheits−Konsortialg声Sぐhaft)に.おいてほ,投入貨幣か ら回収貨幣への到達は原則として急速であり,貨幣による成果決定について問 題は起こらないであろう。
しかるに・,いわゆる継続企業にあって−ほ,事情ほ不都合に.なる。それは,な に・よりもまず,大部分の企業では,固定設備が使用せられているからである。
固定設備ほ.,普通数年さら紅ほ数十年後にほじめて再び貨幣形態へ到達するの であり,その間ほ少なくとも〔貨幣による〕成果決定は不可能であるといわな ければならない。それは,さらに・,恕続企業にあっては.,ひとつの部分営業が片 付いて−も,また新しい部分営業が始められ,絶えず個別的な営共が同時に.あい並 んで行なわれているからである。継続企業が連続的な企業活動を有するのはい
うまでもないこ・とである。そこでほ,支出の全部または・−・部ほいまだ回収貨幣の 状態に到達せヂ,たとえば,固定設備のみならず,原材料,半製品,製品,有価 証券,特許権等々の形態に・とどまることに・なる。そのような状況では,貨幣に
よる成果計算を行なうことはできず,したがってまた成果決定も不可能となる。
そこで,たまたますべての個別的な部分営業が同時に終わり貨幣に立ち至っ ている時点を想起してみよう0だが,リ−−ガ一に・よると,たとえこのような状 況にあっても,なお,企業成果の決定ほありえない。なぜなら,すぐつぎの瞬 間には経営ほ.あらためて飽け出し,営業が再開されるからである。り一−ガーほ いう0その際,「なるはど,一一・連の部分営業はおそらくすでに−・定の成果紅到達 しているが,新たに危険が負担され,そのことを通じて以前の諸取引の成果も 脅かされるのである◇りり(このような状態では.,)最終的な成果に.ついて語る
(25)
ことは,差し控えねばならないであろう」と。
劇連の部分営業が同時に終わり貨幣に立ち至っているとしても,なお企業成 果の決定ほありえないという叙上の主張は,少なくともわれわれにほ.奇異な感 を抱かしめる0それでは,り一−ガ−をしてかかる主張に導いた因由ほなにであ ろうか。それは,企業をもって「時間において不可分離の統一傭(untrennbare
(25)W.Rieger,a.a.0.,S.205.
籍45巻 寛4弓 554
−−JO6−
(26)
Einheitin der Zeit)である」と解するリーガhの企業観にはかならない。彼 がこのような企業観に立つのほ,現在の企業ほ継続企業であってたえず生起し
て−くる企業活動をもち,したがって部分営業ほ相互に依存し制約しあって,時 間的にかかわりあうこ.とになるからである。ここにおいてわれわれほ,リ−ガ
−が,現在の企業のもつ資本主義的資質の上に.,さらにそのもつ継続企業的資 質に.よって,企業成果計算を特質づけていることを知るのである。
既述のように,継続企業に・おいてほ,経営の特性に応じて,たえず多くの部 分営業があい並.んで生起している。リーガーほ,いみじくも,この姿をさまざ
まなリズムからなる合同演奏にたとえるのである。あるリズムが終わったとし ても合同演奏はいまだ終わらず,その時点でこの演奏について感銘を語ること は不可能である。このようなリズムにも似て,あるもしくほ.−・連の部分営業が 終わったとして.も企業活動ほいまだ終わらず,その時点でこの企業について成
(27)(28)
巣を語ることは不可能である,と。
かくして1継続企業においては,全営業が完了し経営が活動を究極的に停止 した解散状態においてはじめて,すなわら全支出が再び貨幣収入に立ち至った
ときにはじめて,成果決定が可能となることに・なる。ヅ−・ガー・に.あ って,企業 成果決定のための前提とは,全営業が完了する企業の終末時に投入貨幣がすべ
て回収貨幣に.立ち至っていることであるといえよう。企業成果の決定ほ.,より
(29)
正確には「全的かつ確定的な貨幣形態(restloserunddefinitiver Geldzustand)」
紅おいて行なわれねばならない。企業成果は「最終的貨幣性のメルクマ−ル
(26)W.Rieger,a・a・0り,S・219・
(27)現象学の創始者フッサールは,このような考え方について精緻なる検討をなしてい る。フツサ−ルも述べている,「∴各瞬間ごとに1個の音を所有し,また2個の音 が鳴る中間の時間におそらく1個の空虚な位相を所有することに.なろうが,しかしメ ロディ一の表象はけっしてもちえないであろう」と。(エドムント・フツサ−ル著,
立松弘孝訳『内的時間意識の現象学』みすず書房,1967年,19ぺ一汐。)
(28)それゆ.えに,ムレヤイドは企業が時間的に不可分離の統一体であもかぎり,部分営 業の完了紅よって企業成果を把え.えないのは,部分営業の「企業にとっての体質的な 意義」であると述べている。(W..Musc王Ieid,∫cゐ∽αJβ乃∂αCカ5君γ〝α桝よ■5Cゐ♂β∠Jα乃才一 伽㌢・SfβJJ〟〝g,めよf∠烏級加㌧射妨々7・汀沌,K61n und Opほden,1957;S.86.)
(29)W.Rieger,a.a.0‖,Sl・205.
期間計算の擬制性 ーーJO7−
555
(30)
(Merkmalder endgiiltigen Geldlichkeit)」を有さねはならない。これすなわ ち,企業成果計算は「■全的かつ確定的な貨幣形態における」貨幣比較計算とし て特質づけられるものであることを意味している。
ここにおいて,リーガーは,叙上の前提の下において行なわれる成果計算に 対して−特徴づけをなすのである。こ.れのみが,すなわち「全的かつ確定的な貨 幣形態に.おける」貨幣比較計算のみが,本来の成果計算(eigentlicheErfolgs・
rechnung.)であり,真実の成果計静(.wahre Erfolgsrechnung)と称されう る,,と。
しかしながら,継続企業においてこのような成果計算が可能であるのは,い うまでもなく全体計算の場合碇.限られる。企業が終末を迎えたときに・のみ,営 業がすべて完了し,全支出と全収入,それゆえに投入貨幣と回収貨幣が確定す
るからである。
けれども,いかに全体計算が兵実であり,それのみが企業成果を決定しうる に.しても,現実においてそのような全体計算ほ不可能である。全体計算がどの ような性格のものであろうと,企業は全体計算せ待ちえないし,またなんら企 業の役にたたないそれを必要としないからである。全体計算には,いわば,歴 史的追憶(historishe Reminiszenz)以上の現実的意味ほないのである。これに 対して一期間計算が,現実に,企業にあってどうしても必要とされるということ は,すでに述べたとおりである。このことは,リーガ一によっては・,つぎのよ うに説明されている。すなわち,企業者ほ,生存のために・企業から所得を引き 出さなければならず,また税金も納付しなければならない。「そこで,いまや,
生活においてそうした計算ないしそれに類した計算のために,はかならず年度 が承認された基礎を形成するゆえに一給料,税金,家賃,利子等は,通常,
年額により算定されるから−,企業においてもまた,年度貸借対照表として 知られるところの年度的中間決算ないし部分決算(jahrliche Zwischen−Oder
(30)D小Engel,Ⅳ∠才力♂J∽月∠βgβ7■ィゞTカβ∂㌢■∠β ね・S,カβ〟f∠gβ〝I鞄γf♂ゞ 〟形♂5β左紹∫.γ」Sね班
dβ′P7・よ閉め肌7・f5Cカα/才.sJβカ㌢・β,BeIlin,1965,S.43.
第45巻 第4号
−J♂β− 556
(31)
Teilabrechnung)が−L般に行なわれるようになった」と。
このようにして期間引算ほ現実に行なわれるように.なったのであるが,しか し,期間計算を真実の成果引算と特徴づけることはできないはずである。さきは ど逐一・みてきたように,継続企業に・あって,企業成果決定のための前提は,全 営業が完了する企業の終末時に投入貨幣が全て回収貨幣に立ち至って:いるこ.と であるゆえに,企業の存続中のいかなる中間時点において:も,企業成果の決定 はありえないからである。リ−ガ一に.おいて唯一・の真実の成果計算はどこ.まで
も全体計算であり,期間計算はもともと経営の預かりしらない(betriebsfeind・
1ich)ものである。彼ほ断言する,「期間計算は,断頭台の無遠慮をもって−(mit derRticksichtslosigkeit einer Guillotine),もっとも精巧な経営的連関を計算
(82) 的に分離する.」と。
しかしながらそれにもかかわらず,期間計算が要請され,現実に期間計算が 行なわれているからにほ,この慣行を「企業の存続中ほ成果計算は存在しえな
(33) いというさきはど述べた見解と調和させることを試みなければならない」。そし
て,この調和は,リーガー紅おいて−ほ,期間計算を「不可欠の擬制(unentbe山一・
(34)
1icheFiktion)」とみなすことによって行なわれるのである。
ここ.において,リーガ−の期間計静に.対する特徴づけがみられる。期間計算 はどt.までも擬制の成果計算(fingierteErfolgsrechnung)の域にとどまらね ばならず,それほ.単なる蓋然計算(Wahrscheinlichkeitsrechnung)にすぎな い,と。
以上が,期間計算の真実性軋関係あるり、−ガー・の所説の概要である0それほ まことに粗雑な素描紅すぎないが,そこでは,企業の本質が把えられること紅 よって,企業成果計算の特贋が明らかにされたことが明白であろう。リL−ガーの 見解ほ,企業成果計算は企業それ自体に規定されるという根本思考によって,
現在の企業のもつ資本主義的資質と牡続企業的資質にみごとに・あやなされたも
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期間計算の擬制性 −J〃9−
557
のであったのである。リーガ−は,企業成果計算せ「全的かつ確定的な貨幣形 態における」貨幣比較計算であると特質づけた。現在の企業が貨幣思考的であ
りかつまた時間において不可分離の統一・体であると解されるゆえに……。そし てそ・れゆえ紅,企業成果計算ほ.企業の終末時にのみ可能であり,したがって:ま た成果決定も可能であるが,企業の存続中紅はそれらほ不可能であることが指 摘された。このことほ,とりもなおさず,企業成果決定のための前提が,全営 業が完了して投入貨幣がすべて−回収貨幣に庖†ち至っていることであることを意 味したのである。(いまや,リ−ガーの見解が,事業の終結と完全なる換金が唯一・の成 果決定基準であるという伝統的な見解とまったく基軸を−・に.するととは言を弄するまでも ないであろう。)
このようにして,リ−ガ一にあってほ,叙上の企業成果決定のための前提が 企業の本質に由来するのであってみれば,現実に期間計算が行なわれていても,
その前提が修正されようほずはなく,企業の存続申の期間計算の〔凍来の成果決 定をなしうる企業成果計静としての■〕限界ほ覆うぺくもない。リ−ガーのつぎのよ
うな特徴づけほ,との限界を反映しているのである。一全体計算は真嚢の成 果計算であるが,期間計静ほそうあらぬ擬制の成果計算である,と。
ⅠⅤ 擬制計穿としての期間計算
以上のようにして,リーガーは,期間計貨■の性格を特徴づける。けれども,
そ・こ紅期間計算の真実性とは,より正確には潮間計算の擬制性とはどのように 解されているのかということに.ついては,まだ明らかにされてほおらず,それゆ えに.リーガー・の所説が,したがって期間計算の性格が十全に理解されていると はいえないであろう。そこで,以下においてこの問題を検討するこ.とにする。
ところで,すでに再度にわたって述べたように,リーガ一によると,企業成 果計算ほ企業の終末時にの易しか可能でなく,企菓の存続中紅ほ存在しえない。
このように企業の存続中にほ企業成果計算は存在しえないと主張される場合,
文字どおり存在しえないということが意味されていることに,まずわれわれほ
留意したい。すなわち,リーガ一にあっては,企業の存続中紅企業成果計算は,
第45巻 策4号 558
−Jヱクー
ーありうる(考えられうる)が認識しえないという−認識不可能性の意味に‥おい ででほなく,+−−−−ありえない(考え.られない)という一一存在不可能怯もしくは思 惟不可能性の意味においで,存在しえ.ないのである。
そ・してこのことほ,企業をもって−−単に儀幣思考的と把えるのみならずさらに 一時間において不可分離の統一・体とみなす企業観に立って,企業成果計算を 特質づけたリーガーにして,当然のことであると思われる。われわれほ,企業 をまず貨幣思考的であるとみなし,企業成果計算をまず貨幣比較計算として特 質づけたリーガ仰の論調から,企菜の存続中における企業成果計算の存在その ものの否定を読みとることはできない。企業の存続中にほ.貨幣以外の価値物が 介在し,成果計算においてはかかる価値物を貨幣に認識上擬制せねばならない
忙しても……。
とこ.ろが,り一−ガ−・はさらに,企業を時間的に不可分離の統一・体とみなし,
企業成果計算を「全的かつ確定的な貨幣形態における」貨幣比較引算として特 質づける結果,企業成果計算ほ企業の終末時にのみしか可能でなく,企業の存 続中には存在しえなくなるのである。再言するまでもなく,リ−ガーがこのよ
うな企業観に立つのほ.,企業における部分営業ほ相互的に依存し制約しあって,
時間的にかかわりあっていると把えるからである。そのような部分営業は山風
−・定の成果に到達していくようであるが,企業活動の継続紅よって「新たに.危険 が負担され,そのことを通じて以前の(部分)営業の成果も脅かされる」。だか
ら,たまたますべての部分営業が同時に終わり貨幣に立ち至っているとしても,
なお企業成果の決定はありえない。このような事情の下において,企業の存続 中における企業成果計穿の存在は考えられうるであろうか。答えほ,いうまで もなく否である。
いい換えると,企業の存続中における企業成果計界の存在ほ考えられない と
(35)
いうのは,「個々の営業年度ほ……元来−・緒になってはじめて企業を形づくる」
ゆえ粧,個々の年度の密接な親近性(enge Verwandtschaft)が決して見逃が されてはならないからである。リ一升ーほいう,「企業紅おいてほ,個々の営業
(35)W.Rieger,a.a.0‖,S.231小
期間計静の擬制性 −ヱヱJ−
559
年度ほ.あまりにも密接に噴昂あっているので,それらは計算.上つねに厳密には
(36)
分離されえない」と云そうして,こ.のような企業にほ,「ただひとつの利益のみ が,すなわち全体利益のみが存在しうる(Es kannnurei王Ien Gewinn geben,
(37)
namiich derTotalgewinn)」のである。それゆえ紅,.リーガ}.ほ,「年度利益が
(38) ・・…・・独立化されて現われる」という見解,すなわら「どの年度もそ・れ自体に帰
(39) 属するもの,まさしくそれ自体の成果ないし失政をもつ」という−・般的な見解
に,まっこうから反対する。「企業は,投入貨幣と回収貨幣という2つの点−一 すなわち当初と終末−−」忙よって限定される貨幣計算によって,時間的に不可 分離の統剛・体となり,その結果,企業が存続しているかぎり,企業を計算上個
qO)
々の部分に.分解するととは全く不可能なのである」。逆紅いえば,−一企業活動単 位とは異なり¶分割された活動単位に.ついてほ,それを計算上分解することほ 可能であり,したがって−,括勒町応じてそれゆえにときどきに応じて成果が存 在するのであろう。
このようにして,企業は時間的に不可分離の統一・体であるゆえ.に,ただひと つの企業成果のみが存在するのであり,そこでは全体成果のみが存在し期間 成果は存在しない。これすなわち,全体のみが存在し部分は存在しないとい
うことである。ここにおいて,われわれほ.,リL−ガ−の叙上の基底にほ,実は,
このような全体と部分との関係紅ついて−の考え方が潜在していること紅気付 くのである。
リーガーによれば,このように全体のみが存在し部分は存在しえないという のであるが,しかし,文字通り部分のない全体というものがはたして考えられ るであろうか。少なくとも,全体は,そ・の成立後に,全体の単なる断片として の部分を有さないはずはないであろう。だが,全体ほ.,その成立前紅,かかる 部分を,すなわちその全体の単なる1断片を有しうるであろうか。われわれは,
(36)W.Rieger,a.a.0,S.237.
(37)W.Rieger,a.a.0小,S.219小
(38)β∂βク2dα
(39)W.RiegeI・,α.α.0ノノ,S.220.
(40)思ゎ肋ね.
−−JJクー 寛45巻 籍4二弓 560 リーガーにあって〔全体のみが存在し〕部分は存在しないとは,より正確にほ,
全体の成立前には部分は存在しないという意味であると考え率い。
ところで,総じて,全体と部分の関係については二様に考えられるといわれ る。・−は,全体は全体として−の意義を有し,部分以上の内的原理,すなわち部 分を統一する法則性ないし目的性をもつとする考え方である。そこでほ,部分 は単に全体のために存在し,全体なくして部分はありえず,それゆえにまた部
(41) 分ほ自ら独白の意味をもちえない。他は,全体は部分に対して.全体としての独
特の意義を有さず,部分の内的連関なき外的偶然的結合であるとする考え方で ある。そこでは,部分は自らのために.存在し,全体なくしても部分はありえ,
(41) そ■れゆえにまた部分は部分として自ら独自の意味をもちうる。
このような分類によると,全体と部分の関係についてのり−・ガ−・の考え方ほ,
前者のそれであるといえよう。〔全体のみが存在し〕部分ほ存在しえないという からにほ,〔部分として〕独自の意味をもつ部分が考えられようほずはないから
である。リー・ガ一に・あってほ,ただしその場合,全体の成立前にほ部分の存
在ほありえないとされることに督慈しなければならないのである。われわれほ すでに,シ㌧.マーレ∵/バッハもまた,全体と部分に関する前者の考え方に立脚
して,その「ディナ・ミッシェ・ビランツ」を構築していることを周知してい
る○シ′ェ.マーレンバッハが,「ディナ・ミッシェ・ビラこ/ツ.」の礎石として展開し
(42)
た計算原則のなかで,継続性の原則(GrundsatzderKontinuitat)が至上の 原則とされることによって,なによりも明らかなように……・。け・れども,シュ
マーレシバッハは,「経営における期間計算を行なうことを委託された人は,白
く4き) 分のなすことは原則としで一周間であると考えてよい.」というのであるから,
期間成果の,すなわち部分の存在そのものまで否定して小るとは思えない。な
(41)これについては,谷端長博士の規定を援用させていただいた。(谷端長稀「全体的
個別と個別的全体−シュマ−・レンバッノ\の期間外損益観によせて」『国民経済雑誌』
算112巻籍6号(1965年12月),62−79ぺ−ジ。)
(42)シュマ−レンバッハにあって牡続性の原則とは,まさしく,期間利益を全体利益の 一部分または一・断片とみなす原則である。
(43)E・Schmalenbach,a・a・0,S・50・土岐政蔵訳『前掲割46ぺ−ジ。
期間計算の擬制性
561 −JJ∂−
ればこそ,シュマL−レンバッハは,「どの年度もそれ自体に帰属す・るもの,まさ しくそれ自体の成果ないし矢数をもつ」という−・般的な見解に組するが,リー ガ−ほ,それにまっこうから反対するのであろう。
繰り返していえば,リーガーにあって.は,部分は全体の成立前には存在しえ ない。したがってまた企業の終末時前には期間成果は存在しえないわけであ る。企業の存続中に.おける企業成果計算の存在が考えられえないというリーガ
−・の叙上の主張も,いまでほ十分に理解のゆくものであろう。
叙上のよう鱒・リーガ−・にあっては・,企琴の存続中に・おける企業成果計算の存 在はありえない。に・もかかわらず,現実に期間計算が,まさしく企業中存続申 における企業成果計静が行なわれて.いるのである。かかる事態に直面して,期 間計算ほ,前節で本年ように,「不可欠の擬制」とみなされることになった わけである。たしかに,期間計算ほ,本来存在するほずなく して現実に存在
しているのだから,仮に・設けら、れて存在しているとみなすはかないであろう。
ありえないから∈.そ〔人為的軋〕あらしめたのである。期間計算時,もともと ひとつの仮構物であり作為物であって−,リーガー・によ.れば擬制された存在,す なわち擬制計算であるというのである。
したがって,リーガーのいう擬制とは,期間計算の存在そのものについての擬 制が意味されるのであって,期間計昇において期間収益あるいは期間費用を把
(44) 捉するためのいわゆる認識上の方法の擬制とは,概念上厳しく峻別されねばな
らない。そこでは,期間計算の存在に疑異がさしほさまれることほなく,したが って一期間計界の絶対的な正確性について,その論理的可能性がないとほいえな いであろう。しかるに,.リーガ一にあってほ,期間討算ほもともと擬制であれ よせんつくりものであるからにほ,もはや「正しい貸借対照表を作成するいかな
(44)期間費用お年び期間収益を把捉するに際して,たとえば固定資産費用の把捉に・つい ては定額法,定率法,産度比例法等々があり,また棚卸資産についてもまた平均法,
先入先出法,後入先出法等々の方法がある。これらの方法のいずれかが採用されるこ
とに.よって,期間成果計算が行なわれるのであるが,そのいずれの方法もすべてひと
つの擬制にはかならない。ここに方法の擬制とはこのようなことが意味される。
−・ヱJ4一 策45巻 第4琶 562 る可能性も存しなければ(Keine M6glichkeit besteht,richtige Bilanzen aufzuste11en),・…正確な年度利益の決定へのいかなる途も存しない(Es keinen
(45)
Wegzur Ermittlungdes exaktenJahresgeWinnesgi bt.)」。すなわち,リ,ガ ー・に.よると,期間計算ほ決して絶対的な計算の正確性を望みえないことが明確
にされるのである。かりに正確性とほいっても,しょせんつくりものの正確性 なのだから。だからこそ,つぎのようなリーガーのことばに出会うのである。
すなわち,「年度利益をきわめて正確に・一・番小さい額まで計算することが(かり に.)技術的に可能であるとしても,にもかかわらず,それがまさ紅当該年度に
(46)
帰属する正確な成果であるとほなお主張されるべきでほない」と。
ともあれ,このように.して期間計算の存在が説明されるとなると,企業の存 続中における企業成果計算ほ存在しえずして,だが存在するというこ.とにな
る。かかる背反は,擬制された存在についての分析がいまだ不十分であること を示唆していると思われる。
そこで,そ・の補説のために,「存在する」という表現が,「ある」という表現と しjr) 「実在する」という表現との中間を場合に応じて浮動して使用されるというこ とに意を用いて−みよう。すなわち,「菱,る」というのほ.,もっとも日常的で哲学
(4S)
的に中性的な表現であるといわれる。これに.対して「実在する」というのほ,
哲学的に.より強い表現であるといわれる。実在とほ轟実の存在と解せられるか らにほ,なに・を真実と呼ぶかによって実在概念咋.異なり,したがってこ・の概念 には意識的な価値評価の態度がひそむのである。もらろんここで,なにを真実 の存在とするかという形而上学的アポリアを問題にするつもりはない。ただ単 に,リ−ガ一によると,〔ひとつの存在である〕成果計算に関して,真実の存
(45)W■.Rieger・,α.α.0い,S.236.
(46)β録微ね.
(47)以下,これの説明のために,沢田允茂著『現代における哲学と論理』岩波書店1964 年,および同著『現代論理学入門』岩波書店1962年を主として参考にんた。
(48)存在を時空的経験的と解釈する形而上学的前提を必要とすることなく,たとえばペ ガサスや・ユ‥土コンはエグェレスt・山や馬と同じくそれが「ある」といわれるように
○
期間討算の擬制性
563
−エだトー・在,すなわち真実の成果計算として,「全的かつ確定的な貨幣形態に.おける」
貨幣比較計算が規定されたことを想起するだけで十分である。
そうすると,まず,つぎのことがいえるであろう。すなわち,擬制された存 在たる期間計算は実在せずして「ある」というこ.とが・……。−少なくともリーガ
一にあってほ,これに対するいまひとつの存在と考えられる一兵実の存在たる「全的 かつ確定的な貨幣形態における.」貨幣比較計算である全体計算ほ「実在する」
ということが・…‥。こうして−なるはど,期間計算は,すなわち企業の存続中に おける企業成果計算腰,存在しない(実在しない)が存在する(ある)といえ ることに.なるのである。さきはど触れたように.,「存在する」という表現はこ れを純化するならば「ある」か「実在する一」かのどちらかに帰せられるような
ものであり,ここ.に特殊な問題ほ存在しないといわれるゆえに……・。
叙上の説明から,つぎに,はかならず期間引算の真実性の問題についてのリー ガーの取り扱い方が明らかとなるであろう。すなわら,一・般に,其実の概念は 評価的な意味に使用される場合と,認識的な意味に.そうされる場合があるとい われる。そして,前者の場合にほ存在の問題−なにを轟実の存在となすか 一にかかわり,後者の場合には事実の問題−ある存在について語られたこ
(49)
との真実性一に.関係するといわれる。リー・ガ一にあってほ,すでにみたよう に,真実の概念は,なにを真実の成果計算となすか,まさに纂実の存在となす かという問題において使用されていた。リー・ガーの轟実の概念ほ,明らかに評 価的に用いられているのであって,認識的に用いられー一こいるのでほない。リー 好一・にあって,Wahrheit(其実)の対概念がはかならずFiktion(擬制)ない
(50)
しはDichtung(作為)であって,決してrelative Wahrheit(相対的真実)ない しはUnwahrheit(非真実もしくは偽)でないことが,なによりもこのことの証 左となるであろう。
このように,リーガーは,真実性の問題を認識的側面からでほなくて評価的側
(49)真実性の問題紅ついても主として,沢田教授の所説を参考にした。
(50)リ−ガ−が,期間計瓢をゲーテにならっているじくも「真実と詩の混合」(ein
Gemisch von WahIheitund Dichtung)と規定していることは,すでに周知のとこ
ろであろう。(W.Rieger,a.a.0。,S.212.)
第45巻 第4号 564
ーヱ王6−
面から取り扱っている。すなわち,「真実の.」という評価的用語を冠することが できるために企業成果計乱そ・のものが持たねばならない・−・定の条件を規定し,
それが「全的かつ確定的な貨幣形態における」貨幣比較計算であることから,
全体計算は真実の成果計算であるが,期間計算ほ擬制の成果計算であると特徴 づけたのである。かくして,期間計算について兵実性ほ全的に.期待されえず,そ の性格ほ,認識的ではなく,いわば本石的紅擬制的であることが明らかとな る。
Ⅴ 時間的・部分成果計算としての期間計算
前節において,期間計算ほひとつの擬制された存在であることが明らかにさ れたが,それでは,リーガ一把あってほ,具体的にどのような擬制計算をもっ て 期間計算といわれるのであろうか。あくまでも論理を好んで自らの武器とす るリーガーが慈恵的な擬制を許そうほザほ.なく,彼は,必ずや,論理的にある べき擬制を考察しているはず∴である。Jトーガーの考える期間計算の意味とある ぺき計算像ほ,こう問うことによって浮き彫りにされるであろう。
いま結論からさきにすると,リー・ガー・にあって期間計算とほ.,企業の終末時 にほじめて成立する全体成果の〔1断片にすぎない〕1部分を先取りして,当該期 間の期間成果とみなし把捉する擬制計算であると考えられよう。いい換える
と,それは,いまだ存在していない全体成果の1部分を顕在的今期間に存在し ているとみなす擬制計算にはかならない0
既述のように,リー・ガ−は,企業は時間的に不可分離の統一体であるゆえに,
「年度利益が‥・‥独立化されて現われる」期間計算を否定する。そしてリーガ ーに.あって存在するのは,ただひとつの「企業の終末時に成立する〕全体成果のみ であり,かつまた,全体は,〔部分として〕独自の意味をもたない全体の単な
る斬片としての部分しか有さないとする思考である。そうであってみれば,
期間成果は全体成果の単なる断片とみなされるはかなく,したがって期間計算
ほそ・の癖片々把える計昇が意味されるはかなかったであろう?エソゲルは,こ
のことを的確に指摘している。すなわち,「藤末に.はじめて企業の……成果
期間引算の擬制性 −ヱJ7一 565
が,正確に.決定されるという事実に相応して−,部分成果は当然に.,全体成果か
(51) ら直接に導出されなければならない」と。
ではいったい,その導出ほなにを媒介としてなされるのであろうか。エンゲ ルによれば,そのメルクマ、−ルは,時間(Zeit)であるという。全体成果と期 間成果すなわち部分成果における全体と部分の関係ほ,当然に期間すなわち時 間払おけるそれに.対応し,「時間的な長さをもっているものは,……時間的な部
(52) 分に分けるこノとができる」と考えられるからであると思われる。その意味で,
期間成果は,全体成果の時間的な部分,すなわち時間的・〔全体紅対する〕部分成 果であるといえるであろう。リーガー・に.とって期間計算とほ,時間的・部分成 果計算が意味せられ,かかる計算こそあるべき期間計算像であったのセある。
期間計算が叙上のようなものであるとすると,期間成果は,全体成果がプ ラスの場合,どれもプラスであり,逆に全体成果がマイナスの場合,いつも マイナスであるというこ.とになる。企業は時間的に不可分離の統山体であるゆ え.に,ただひとつの企業成果のみが,■すなわち全体成果のみが存在しうると考 えるリーガ−・にとっては,たしかに,期間成果はかかるものとならなければい けないであろう。いうならば,ひとつの企業に.はひとつの企業成果がみあう淀 もかかゎらず,「利益を獲得した企尭一全体一にあって,損失のあった期間 一部分一一−があるということ」,あるいは「■損失をこうむった企業一全体一 にあって,利益を得た期間一部分−−・があったということ」は,理解のゆく ことではないであろうから。\綴り返していえば,リーガーほ,「年度利益が・・‥‥
独立化されて現われる」という見解,すなわち「どの年度もそれ自体に痛属す るもの,まさしくそれ自体の成果ないし失敗をもつ」という見解に.,まっこう から反対するのである。
いま,このような−・般的な見解とリーガー・のそれとの相異を鮮明ならしめる ために,ひとつの例示をなしてみよう。それは.,まことに.極端な例であるが,ま ず第1に.,5年の継続企業一部分営業が相互に依存し制約しあっている企業
(51)D.EIlgel,〃.α¶0,S.52.
(52)リチ・ヤ−ド・テイラー著,ま田夏彦訳『哲学入門』培風舘,1968年,118ぺ一汐。
算45巻 寛4号
−JJ∂− 566
一−・−−・を仮定する,第2に.,投入資本が同一・会計期閣内にすべて回収されると仮 定する,第3に,前期の回収資本がすべて次期に投入され,それ以外の払込ほ
ないと仮定するとする。こ.のような場合,各期の投入資本額および回収資本額 がつぎの表のとおりであるとすると,一−・般的な見解によれば,各期間成果は第
1表の下欄のとおりで正しいといえるであろう。
第1表
年 度ll 2 3l4 5 計 投下資本額10 回収資本額15 15 25 25 由 35 20 20 40 105r 135 期間成果l5 10 10ト15 20 30
しかるに,リ−ガ一によるとそうでほない。全体成果の単なる断片■こそ期間 成果とみなされるからであるが,では,・そ・れほ.どのような大きさとして把えら れるであろうか。期間成果がかかるものとみなされる以上,かかる期間成果を 産み出す資本が各期間に実際に投下される資本と奮えることはできないであろ う。いま,リ、−ガ一における期間成果eを産み出すべき当初の資本をKとする と,期間成果が定額的に・産み出されると考える場合,第1期の期末の資本はK
+eとなるであろう。そ・してこそれが欝2期に.そのまま投下されると仮定するの
′ であるから,欝2期首の資本ほkl−e,欝2期末の資本ほ.K+2eとなろう。以
下同様にして,第3期首資本K十2e,同期末資本K+3e,第4期首資本K+3e,
同期末資本Ⅹ+4e,算5期首資本K+4e,同期末資本K+5eとなるほずであ る。そして,こ.の例に.おいてほ,投下資本の合計ほ105であり,回収資本のそ れほ135だから,ここでつぎの方程式が導かれる。すなわち,
5K+10e=105
5K+15e=135
この方柱式を満たすeおよびKほ.それぞれe=6,K=9となるゆえに,期間
成果が定額的に産み出されると考える場合,各期間成果および各期間の資本額
は第2表のようであるとみなされうるであろう。
期間計算の擬鰍睦 −エ㍑トー
567
第 2 表
年 皮 1 2 岳 3l4 5l計 投下資本額 回収資本額 9 15 ÷片lて・ てl:…≡ 期間成果 6 ● ● ● 6卜30