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小林 多喜二伝- 多喜二,庁商- 小学校 時代 か ら,庁商時代 の前半

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83

小林 多喜二伝‑ 多喜二,庁商‑

小学校 時代 か ら,庁商時代 の前半

倉 田 稔

日 次

第 1部 小樽移住 か ら高商卒業 まで は じめに

第 1章 少年時代 ( つづ き) 1 2 啄木 の小樽論

1 3 小樽,寸描

14 社会運動 の人 び と

1 5 姉弟 たち と,先生 と 1 6 港工事,運河,情勢

1 7 大正 デモ クラシー

‑ 多喜二 の生涯 を,大 きな観点か ら把握 す る一方法

補遺 と訂正 付録

第 2 章 庁商時代 1 庁商入学 2 伯父の家で 3 通学

4 親孝行

5 庁商時代

6 革命 と騒動

(2)

84

は じめ に

人 文 研 究 第 8 7 輯

7 『 貧乏物語』

8 黒沼校長 9 授業科 目な ど 1 0 文学の出発

1 1 入院

1 2 石本少年 と 1 3 絵

1 4 絵 の禁止

小林 多喜二 ( 1 903‑1 933)が小学校 を卒業 す るまで は,前号 ( 『 人文研究』

第 86 輯 1 983 年 3 月)で書 いたが, ここで は,第 1 章 の少 しの続 き と,その 後 の,北海道庁立小樽商業学校 の時代 を述 べ る。 ただ し, その前半 で あ る。

従 って,多喜二伝 の 2, とい うことにな る。本稿 で は,第 1 部 は,「 小樽移住 か ら高商卒業 まで」,第 1 章 は, 「 小樽移住 か ら小学校卒業 まで」 ,第 2 章 は,

「 庁商時代」 を意味 す る。

第 1 章 少年時代 く つづ き)

1 2 啄 木 の 小 樽 論

石川啄木 は既述 の ように,小林 多喜二一家 が小樽 に移住 した時 に,小樽 に いたのだが,その彼 の小樽論 を,啄木 の 日記 か ら見 よう

明治 40 年,小樽 に や って きた啄木 は, 9 月 1 4 日の 日誌 で書 く。

小樽 か ら 「 再 び車 中の人 とな りて北進 せ り,銭函 にいた る間の海岸 い と興

多 し」。 これ は現在 で も言 える ことで あ る。 9 月 27日に,逆 に札幌か らの汽

(3)

85

車 で帰 る時( 1 ) ,彼 は こう書 く。 「 銭 函 をす ぎて千丈 の崖下 を走 る 」。

10 月 1 日。 「 遠 く聞 ゆ る夜 回 りの金棒 の響 は函館 の それ よ りも忙 しげ也。

小樽 は忙 しき市 な り。札 幌 を都 といへ る予 は小樽 を呼 ぶ に 『 市 』 を以 てす る の尤 も妥 当 な るを覚 ふ

。(2)

10 月 3 日。 「 小樽 の如 き悪 道路 は,蓋 し天下 の珍 な り

。(3)

」 当時 は道路 が舗 装 され て いなか った。 そ して小樽 の悪路 は有名 だ った。

彼 は,「 小樽 のかた み」とい うス クラ ップ を作 って いた。そ こに は こうあ る0 当時小樽 は,人 口 1 0 万 で,その膨 張が急速 で あ った。商港 として は,函館 を凌駕 して [ 北海 道 で]第 1 位 に上 が った。 日露 の協 約 が成立 してか らは, ウラジオ ス トック との貿易 で,覇 を敦賀 と争 ってい る

新 聞 も上 田重吉

(4)

の 小樽新 聞 は三 千幾百号 とな り,約 一万部 を越 えてい る( 5 ) 。小樽 に きて初 めて真 に新 開地 的 な,真 に植 民地精 神 の溢 れ る男 らしい活動 を見 た。小樽 の人 は歩 くので ない,突貫 す るので あ る。小樽人 の特色 は,執 着 心 の ない こ とで あ る 。

(1 )明治 1 3 年 ( 1 88 0 年 ) 1 1月 28 日に,手宮一札幌間鉄道が開通 した。 クロフォー ドの指揮 による。これは日本で 3番 目にで きた鉄道だった。だが 2時間掛かった。

明治 2 2 年 ( 1 8 8 9 年)まで開拓使が直接経営 をした。その後,北炭 に払い下 げる。

(2) 『 石川啄木全集』第 5 巻 筑摩書房 1 9 83 年 (3)1 7 0 ペ ー ジ

(4 )重吉 とあるが,重良であろう。

(5 )小樽の新聞は,金子元三郎が 『 北門新報』を明治 2 4 年 ( 1 8 91 年) 4 月に作 っ たo これは明治 25 年 ( 1 89 2 年) 5 月に札幌に移転 したoその後,『 北辰 日章 鮎 『 新 北門』が出るが,廃刊 となる。明治 27 年 ( 1 894 年)『 小樽新聞』が上田重良 によっ

て作 られた。上田重良は,東京専門学校出である。

明治 26年 5月に札幌で『 北海民燈』が出たが,それを上由が買い,『 小樽新聞』

とした ものである。なお,明治 27 年 に『 小樽商業新報』が出た。明治 35 年 ( 1 9 02 年)か ら36 年 には,小樽では続々新聞が出た。『 小樽 日報』 ‑ つまり啄木が勤

めた新聞である‑ ,『 小樽公論』『 北海朝報』『 北政 日報』『 北海道新聞』『 北民』

『 小樽毎 日新聞』である。 しか しこれ らは倒れた。例 えば,『 小樽 日報』は半年で ダウンした。一方,『 北海道毎 日新聞 』 『 北門新報』 『 北海時事』が合同 して,礼 幌に 『 北海 タイムス』が作 られた。 これ と,『 函館毎 日新聞』,『 小樽新聞』が道 三大新聞 となった。

民政党系の 『 小樽新聞』に対抗 して,政友会系の 『 北門 日報』が小樽で作 られ

た こともある。

(4)

86 87

啄木 は,既述 の, 「 歌 うことな き人人 の声の荒 さ」を詠 ってい るが,本人 は 悪意 を もって書 いて はいない。 それ にまた,道路 は日本一 の悪路 である, と 書 く。小樽 は 「 男 らしい活動 の都府」であ り,「 此活動 の都府 の道路 は人 も云 ふ如 く日本一 の悪道路で ある

善悪 に拘 らず 日本一 と名 のつ くのが,既 に男 らしいで はないか。且つ他 日此悪道路が改善せ られて市街が整頓 す る と共 に, 他 の不必要 な整頓 ‑ 階級 とか習慣 とか云 ふ死法則 まで整頓 す るのか と思 へ ば,予 は一年 に十足二十足 の下駄 を余計 に買わねばな らぬ として も,願 わ

くば未来永劫小樽 の悪路 が 日本一 で あって貰 いたい 。( 6) 」

1 3 小樽 , 寸 描

小樽 は,明治 20 年代 に,商港 としての地位 を確立 して きた。

明治 2 4 年 に小樽 と高島が合併 した。日清戦争以後,政府 は北海道拓殖 に力 を入 れた。明治 32 年 1 0 月,自治体小樽 が誕生 した。つ ま り行政地 区 として, 小樽 区がで きたのである

区長 は,初 め金子元三郎 で,明治 35 年 まで勤 め, 第 2代 区長 は山田吉兵衛,第 3代 区長 は椿 である( 7 ) 。施行 の時,色 内村,稲穂 村,手宮村,厩村 を合わせ て小樽 区 とした。

小樽 は初 め,現在 の南小樽 が中心地 であった。明治初年以来,勝納川 を中 心 に発展 して きた。現在 の小樽市心 に妙見 川 ( み ょうけんがわ)が流れ てい るが,明治 32 年小樽 区制施行以前 は,そ こを境 に して小樽 と高島が別 れてい た。妙見川 の上流 をオ コパ テ川 と言 う。

明治 1 4 年 5 月 21 日夜,金曇町 (こんたん町,今 の若松 町)で出火 し, 旧 小樽 はほ とん ど全滅 し, その後, 中心が今 の花 園,稲穂,色 内へ移 った。 そ の後, 2 つの火災が起 きて,第 1 火防線 ‑浅草通 り,第 2 火防線 ‑停車場通

り,第 3 火防線 ‑竜宮通 りが作 られた。

旧小樽市 内は,急激 に無秩序 に膨張 し,山坂が多か ったので,道幅がせ ま

(6) 『 啄木全集』第 8 巻,3 5 5 ,3 6 0 ,3 61 ペ ー ジ

(7 )倉内孝治編 『 小町谷純先生の小樽の思い出』

(5)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 8/ く屈 曲が多 く, また柾葺 ・板壁 の家が大多数 であった。春先 か ら夏至 にか け て西北西か西南西 の季節風 は,10m 以上 の風速 で吹 き荒れ る ことが多 く,全 国都市 中最 も出火率 の高い都市 とされていた。

明治 37 年 5 月 8 日夜,折 か らの西南烈風 にあお られて,稲穂町畑 1 4 番地 ( 現産業会館付近)の失火が,稲穂町一帯 と色 内か ら石 山を越 えて手宮の 1 部 にいた る 2, 500 戸 を焼 いた。小樽最大 の火事 で ある( 松 田惇二)。多喜二 の伯 父 の履災 した火事 である

小樽 は,オ タルナイ ( 砂 と川) とい うアイヌ語 か ら来た。稲穂 ( イナウ), 色 内 ( イルオナイ) ,手宮 ( テ ンム ンヤ),高島 ( タカ シュマ)な どの名 も, アイ ヌ語 か ら来た。 北海道 は, 初 め本州の植民地 であって,その後,半 ば植民地 とな った。 同時 に,北海道 の拓殖 の歴史 はアイヌ人への侵略 の歴史で もあった。

多喜二 は このアイヌ問題 をあ ま り論 じていない。 それ は小樽人 であった こと に も関係 す る。小樽 は北海道 で は相対 的 にアイヌ人 が少 なか ったか らである。

1 4 社 会運 動 の人 々

幸徳秋水 と大逆事件 に関係 した小樽 の人 には,次 の人が い る。

毛馬 内宮次 ( 1 870‑) ,無政府主義者。私行 を理 由に小樽堺小学校長 の職 を 追われた。爆弾製造 の疑 いが掛 かったのである 。

斎藤伊蔵 は,幸徳 の友人大石誠之助

(8)

との交際 を察知 され,当局 の追求 を うけた。

島崎卯七 は,1 91 0 年夏 よ り,大石誠 之助 との交際 を察知 され,尾行 を受 け た。ペ ンネーム は,江鴎力 ? だった。

田口国司 も,大石誠 之助 との交際 を察知 され,尾行 をうけた。 のち札幌 に 移住 した。

(8 )大石誠之助 ( 1 8 67 ‑ 1 9 1 1 ) 。和歌山県新宮町生 まれ。明治 2 3 年アメ リカへ行 き,

苦学 して,医学 ドク トルになる。帰国して故郷で開業する。幸徳,堺 らと交わ り,

社会主義者 として活動する。大逆事件に連座 し,死刑 となる。

(6)

88 人 文 研 究 第 87 輯

塚原辰吉 は,小樽時代 の啄木 に師事 した。大逆事件後,当局 の尾行 をうけ た 彼 は啄木の 1 周忌集会 を主宰 した。歌人で,ペ ンネームは花骸である。

新 田 融 ( 1 8 8 0 ‑ 1 9 3 7 ) は,長野県明科製材工場職工時代 に,大逆事件 に巻 き込 まれた

(7)

0

篠原三郎 ( 1 8 9 1 ‑ 1 9 4 1 ) は,札幌出身,歌人。爆弾製造 の疑 いが掛かった。

当局 の尾行 をうけた。のち口語歌 の普及 につ とめた。ペ ンネームは,静風, 並木凡平 ( 二代 目)である。彼 については,次稿 で述べ る。

なお 1 9 0 4 年 1 月 に,津 田文輔が,小樽 で労働者懇話会 を計画 し奔走 した。

深尾範二 ( 1 8 8 5 ‑ 1 9 1 9 ) は,静岡出身だが,小樽 の郵便局で電信係 を勤 める かたわ ら社会主義宣伝 をした。帰郷 して,主義の宣伝 にはげんだ。ペ ンネー ム は,ふ は生,である。

宮村仁三郎 ( 1 8 7 5 ‑ 1 9 3 1 ) は, 1 9 0 6 年 1 0 月 に, 日本社会党 に入党 した。

金久保兵作 ( 1 8 6 6 ‑ 1 9 3 6 ) は,晩年小樽 で質屋 を開業 したが,茨城 出身で, 労働組合期成会員だった。北海道 タコ部屋 の実況報告 を片山潜 に送 った。

1 9 0 7 年,多喜二が小学校 に入 った年の 6 月 に,小樽 の沖仲士 ・陸仲士の争 議が起 きた。 そ してその労働条件改善 のために,奔走 した人が いた。大塩慶 次郎 である。小樽畳職人組織 「 親和会」の中心人物 で,畳職人 の賃上 げ争議 を指導 したのだが, この争議 に加 わった。新谷辰次郎 ( 1 8 5 6 ‑ ,石川出身)は, 小樽沖仲士の相談役 をつ とめ,仲土の労働条件改善 のため奔走 した。晩年 に 市議 になった。菅谷孫吉 は,その小樽沖仲士の相談役 をつ とめた。藤 田鉄之 助 と中山常次郎 は,陸仲士の労働条件改善 のために奔走 した。

また 1 9 1 0 年 3 月,三 田岩吉 は,小樽 はしけ業 中塚組大頭 として,経営者 の 不正 を追及 した。

1 9 1 1 年 6 月 1 6 日,小樽 の高島村で漁民 ス トラキが計画 された。そ して次の

人 が検挙 された。 まず,伊藤栄次郎 ( 1 8 8 7 ‑ )。 そ して,以下の人 たちは 2 0 日

に検挙 された.高橋太一郎 ( 1 8 9 0 ‑ )

.

本間喜一 ( 1 8 8 7 ‑ ) ,本間金次 ( 1 8 9 1 ‑ ) ,

(7)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 89 本 間鶴吉 ( 1 8 9 1 ‑ ) ,本 間虎松 ( 1 8 9 3 ‑ )である( 9 ) 。

1 5 姉 弟 た ち と先 生 と

多喜二 の兄 ・ 多喜郎 ( 1 8 9 5 ‑1 9 0 7 ) が,小樽 で 1 9 0 7 年 ( 明治 4 0 年)に学校 に入 ったが,す ぐ亡 くなった ことは,すで ( 前号) に書 いた。彼 は秋 田の小 学校 を出たが,多分,義務教育 の尋常小学校 を 4 年,高等小学校 を 2 年,終 わ ったのであろう。彼 の入 った小樽 の学校 は,私立 の小樽商業 ( 現在 の北照 高校 の前身)か,小樽 中学 かの どち らかである

なぜ な ら庁立小樽商業 は, 大正 2 年 ( 1 9 1 3 年)の創立 であるか ら, その時 には存在 していないのである。

それ にたい して,小樽商業 は明治 2 5 年 ( 1 8 9 7 年) 8 月,小樽 中学 は明治 3 5 午( 1 9 0 2 年),の創立 であるか ら,多喜郎 は, この二 つの うちの どち らか に入 学 したはずである

(10)

。 したが って推定せ ざるをえないのだが,私 は私立小樽 商業 であろうと思 う

伯父 は商人 であ り,商人 の子 は商業学校 へ と,多 くの 人が当時 は考 えていた。多喜二 自身 も小樽 中学 でな く,庁立 で はあるが商業 学校へ通 わせ られているか らである

多喜二 は,潮見台小学校 に 1 9 1 0 年 ( 明治 4 3 年) に入学 す るのだが, この 学校 は,初 め分教場 として開校 し

(ll)

,明治 3 4 年 ( 1 9 0 1 年)に潮見台尋常小学 校 として独立 し,修業年限 4 年 であった。明治 4 0 年 ( 1 9 0 7 年)に 2 学年の高 等小学校 を併置 し,潮見台尋常高等小学校 となった。 この時,姉 チマが多喜 二 よ り 3 年先 であ るが,同 じ小学校 に通 いは じめた。

小樽 区内の区立小学校 は, 明治 4 0 年 ( 1 9 0 7 年) に ,1 0 校 で,尋常小学校 が 1,尋常小,高等小 の併置が, 9 であった。学級数 は尋常科が 7 7 ,高等科 が 4 4 ,計 1 2 1 学級 である

明治 4 0 年の 1 学期末 に,児童数 は こうだ った。

( 9 )堅田 「 北海道社会運動家名簿 」1 9 7 3年。

( 1 0 ) 私は両校へ問い合わせた。だが,昔で もあるし,入学生は不明である,卒業生 でない と分からない,昭和 3 0 年 ( 1 9 5 5 年)以降ならばわかる, とのことだった。

多喜郎は入学半年で病死 したので,卒業 していないのである

( ll) 前号 5 4 ページを見 よ

(8)

90 人 文 研 究 第 87 輯

男 女

尋常科 2, 91 0 2, 543 高等科 1, 54 4 1, 0 5 9 総計 4, 4 54 3, 60 2

計 5, 3 53 2, 60 3 7, 9 56( 人)

翌明治 41 年 に,義務教育 が 6 か年 とな り, 2 学年制 の高等科が廃止 され, 潮見台尋常小学校 となった( 1 2 ) 0 6 年制 である。小樽 で は,稲穂,稲穂女子, 量徳,量徳女子,花 園の 5 校 だ けは,小学校 の上 に 2 年の高等科 を作 り,他

の 5 校 は単 に尋常小学校 とされた( 1 3 ) 。

明治 41 年の改革 によって,い ままで 4 年で卒業 していた児童 は,6 年通 う こととな り, 2 年 の高等科 の学年が義務 とな り,尋常 5 , 5 年生 となった。

こうして全国で も小学生が増大 した。少 な くとも, 旧高等科 に行 かない人 が 行 くようになったか らである

小樽 で は旧高等科 に行 っていた人 は比較的多 か った。

多喜二が小学校 に入 るころ,小樽 の公立 の小学校 には次 の ものが あった。

年月 は創立 の時期 である

量徳小学校 潮見台小学校 稲穂小学校 奥沢小学校 量徳女子小学校 稲穂女子小学校 手宮小学校 色 内小学校 堺小学校

明治 1 0 年 ( 1 877 年) 6 月

明治25 年 ( 1 89 2 年) 7 月 ( 分校 として は明治 1 5 年 8 月) 明治28 年 ( 1 8 95 年) 1 月

明治2 9 年 ( 1 89 6 年) 7 月 明治33 年 ( 1 9 00 年) 4 月 明治3 4 年 ( 1 901 年) 4 月 明治34 年 ( 1 9 01 年) 4 月 明治34 年 ( 1 9 01 年) 4 月 明治 35 年 ( 1 90 2 年) 1 月

( 1 2 ) 開校 9 0 周年記念誌 『しおみだい』小樽市立潮見台小学校 1 9 9 1 年 5 ペ ー ジ

( 13) 『 小樽 日報』明治四十年十月十五 日,第一号。『 啄木全集』第 8 巻による。

(9)

花園小学校 手宮西小学校

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑

明治37 年 ( 1904 年) 4 月 明治42 年 ( 1909 年) 4 月

(14)

91

なお市内には, 3 年制 の簡易科小学校が, これ ら以前 にあった。

多喜二が入学す る 1 年前 に,潮見台小学校 は,児童数が 903 名で,男 471 名, 女 432 名 である。手塚 の記す 600 名 とい うのは,おそ らく誤 りであろう

(15)

0 多喜二が入学 した明治 43 年度 には 1 4 学級であった。1 クラス平均 60 名 てい どとな り,随分生徒数が多 い。多喜二 の時代 にこの小学校 は,時々14 学級, 普通 は 1 2 学級であった。当時,小学校 は,男女別 のクラスであった。だが 6 で割 り切 れない学級数の場合 は,男女組があったか もしれない。以下,沿革 誌 を掲 げる。西暦 は私の挿入である。

「 明治四十 四 ( 1 911)年度

九月一四 日 戊 甲詔書下賜せ らる

.

一四学級

明治四十五 ( 1 912)年度

九月十三 日 明治天皇御大葬 に付 校庭 に拝壇 を設 け 遥拝式 を挙行 し,引 き続 き三 日間休業 し 謹 んで哀悼 の意 を表 し奉 る

十二学級 ( 一学年 よ り六学年 に至 る各二学級) 大正 二 ( 1 91 3)年度

九月二十一 日 花園公園 に於 て区内小学校連合運動会 を挙行す。

大正 三 ( 1 91 4)年度 十二学級 大正 四 ( 1 91 5)年度 十二学級

大正 五 ( 1 91 6)年度 十月十一 日 両陛下御 最影 を戴 す

。(16)

( 1 4) 『 小樽 区史 』 昭和 4 8 年 9 月 2 3 2 ‑ 4 ペ ー ジ ( 1 5 ) 前号 5 4 ペー ジ。

( 1 6 ) 『 小樽 市立 潮見 台小 学校 沿 革史 』

(10)

9 2 87

この表 で は,連合運動会が大正 2 年度 にしか記載 されていないが,多喜二 や三吉 さんの時代 に,毎年行 われていた。連合運動会 は,明治 2 1 年 1 0 月 2 8

日に初 めて行 われた。当 日住吉神社 の社有地 に, 量徳,手宮,開蒙

(17)

,同致

(18)

の 4 校 の生徒 1, 2 0 0 人 が参加 し, 参観人 も 8, 0 0 0 人 にお よび, 甚 だ盛会であった。

その後,稲穂,高 田,小樽簡易,色 内,高島等 の諸学校 も加わ り,開催 日 も 5 月 あるいは 6 月 となったが,結局 5 月中開催 が主 となった。場所 は花 園 町の大地主浅羽靖 の所有地 で も行われ るようになったが,明治 3 2 年か ら小樽 公園( 1 9 )で実施 され るようになった。そ して明治 2 8 年か ら大正 1 1年 まで実施 された。それ以後 は中止 され,稲穂,同女子,色 内三校だ けは連合 を実施 し, 他校 は各校 ごとに行 った。

種 目は,男子手体操,亜鈴体操,綱引,二人三脚,兎飛,札拾 い,人運 び, 女子 の豆嚢送 り,旗送 り,遊戯 な どで あった。

しか し 「 運動会が盛 んになるにつれて,参加 す る児童 のために,父兄 の方 がお祭 り騒 ぎを演 じ, 中産階級 の者 で も男 な らば着物,袴 は必ず新調 し,女 子 ときた ら縮緬 の着物 に被子 とか博 多 とかの帯 を縦 かつ ぎにさせ,縮緬 の帯 あげをぶ らさげ, それ に縮緬 のあやだす きを背後 で結 んで,だ らりと下 げ, 祭礼 の行列 の ご とくにして公 園 に繰 り込 む とい う騒 ぎなので,如何 に下層 の 者で も唐縮緬 の着物 に唐縮緬 のあやだす きは互 い新調 した らしか った‑‑・ 当 日になれ ば一 つ には我が子 の 自慢 と今一 つ は親達 の遊 山をかね,重箱詰 めの 馳走 を携 えて押 す な/\ で見物 に出か け・ ‑・ ・ ,当 日は全市休業 の様 に感 じ た。」「この ような華美 な服装 について は大 きな批判 が出て,学校側 か らの再々 の注意が あ り,後 には申合 わせ によ り,女子 は割烹服 の様 な上着 を着用,男 子 は持合わせ の もの を着 るようになった

。(20)

」越崎 も書 いている。「これ は全

( 1 7 ) 開蒙学校。明治 2 0 年 7 月に村上三郎が信香 2 0 番地に開校,のち合併。私立。

( 1 8 ) 同致学校。明治 2 0 年 6 月に北有社有志により開設 ,2 3 年 1 月廃止。私立。

( 19) 当初,花園公園 と言ったが,小樽公園 と言われるようになる。現在は小樽公園。

( 2 0 ) 『 小樽市史』第 2 巻 ,4 1 2 1 4 1 4 ページ。所在は,大津氏に教わる。

(11)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 93

小樽 の名物 で,父兄達 は勿論,一般市民 も朝早 くか ら座席用の定 を持込 み, グラン ド周囲の よい見物場所 を とるのに一生懸命 だった

。(21)

明治 4 3 年 ( 1 9 0 0 年) 8 月 8 日に,北海道汽車博 覧会が小樽 に来 た。道 内 を 巡 回 したのだ った。大正元年 1 2 月,小樽 の街 には じめてガス燈 が ともった。

多喜二が入学 した年 に大逆事件が起 き,卒業 す る年 に吉野作造 の論文がで る。 だか ら彼 の小学校時代 は, 日本社会運動 の 「 冬 の時代 」 で あった。

多喜二が入学 して 4 年後,妹 のツギが ここに入学す る

多喜二が ここを卒 業す る とき,入れ替 わ るように して,弟 ・三吾が ここに入学す る。 それ はチ マが,庁立高女 の 3 年 目が終 わ る時 だった。彼女 も多分,若竹町か ら高女 の ある花園町 まで歩 いて通 った。多喜二が卒業 した翌年,彼 の この小学校 は高 等小学校 を併置 し,潮見台尋常高等小学校 となった( 2 2 ) 0

さて,小樽 に桜庭 ちか子 とい う人 がいた。かつて石川啄木が 『 小樽 日報』

記者 として 「 三面 をや っていた時,た しか昨年 [‑明治 4 0 年 ( 1 9 0 7 年) ]拾 月末 の頃であった と思ふ,三面 に入れ る挿絵 を此人 に頼 む事 になって,其以 後二三 回逢 ったので あったが,予 [‑啄木] の知 る限 りに於 て最 も善良 なる 婦人 の一人 である。」と,啄木 は,明治四一年 ( 1 9 0 8 年)一 月九 日の 日記 に書

いた。「 女史 [ ‑桜庭]は今歳二十五 になった 。 」 「 今潮見台小学校 に教鞭 を採 っ て居 られ る。天性画が好 きで,所謂才色兼備 の,美 しい,品格 のある婦人」

である( 2 3 ) 。啄木が誉 め上 げた この美人教師 は,多喜二 の入学 した小学校 に勤 めていたのだ

そ して小棒 の真栄町 (まさか えち ょう) に住 んでいた。啄木 は,彼 の友人 と彼女 とを結婚 させ ようとして,奔走 さえしてい る 。 ただ し, 桜庭先生 は,後 にそれ を断わ っている。多喜二 は明治 4 3 年,つ ま り啄木 の記 した 2 年後 に この同 じ小学校 に入学 したのだった。 その桜庭先生 は,絵 の先 生 だったのであろう。 さて,多喜二 は彼女 に教 わ っただろうか。

( 2 1 ) 越崎宗一 『 郷土史的自叙伝』昭和 5 3 年 2 2 ‑ 2 3 ページ

( 2 2 ) 昭和 6 3 年 ( 1 9 8 8 年 ) 1 1月に, 潮見台小学校の中に,「 郷土資料館」が開設 された。

( 2 3 ) 啄木 「 明治四十一年日誌 」 ( 『 全集』第 5 巻) ,1 9 9 ページ。

(12)

94 人 文 研 究 第 87 輯

多喜二が入学 した時,明治 43 年 ( 1910 年)の時点で,潮見台小学校 の先生 は,次 の ようだった。校長 ( 初代)有賀光雄,以下,吉 田利吉,滋谷孝三, 高田和三郎,山田外書雄,佐久間 ミユキ,山田次枝,工藤 ノエ,高氏 キクノ, 桜庭 チカ,北野清四郎,近藤昭輔,久保 田庸,寺 田秀城, 山本 とよ,高橋丈 夫( 2 4 )である。なん と桜庭先生 は,ちか子 でな く,チカ となって はい るが,荏 職 中であった。 チカが本名 であろう。彼女 は明治 40 年度か ら 44 年度 まで, たぶん明治 45 年 ( 1912 年) 3 月 まで,潮見台小学校 にいた。 ここを辞 めたの は 30 歳 くらいで ある。小学校 は担任制 だか ら,担任でなけれ ば多喜二 は教わ らなか った( 2 5 )だ ろうが, もし,彼女が多喜二 の担任 となった り,絵 の先生で あれ ば,多喜二 は彼女 に, 1 , 2 年生 の時, 1 年 か 2 年間,教 わ っただ ろう。

姉 ・チマ も教 わったであろう

ここで も多喜二 と啄木 の因縁が あ る

多喜二が育 った若竹 町 は, さびれた所 であったが,だんだん人 口 も増 えて きた。 そ こで新 し く若竹小学校 が作 られた。若竹小学校 は,大正 15 年 12 月 6 日

(26)

の創立 である 。 妹 の幸 [ ユキ]さんは,大正 5 年生 まれなので,姉や 兄 の ように,初 めは潮見台小学校 へ通 ったのだ ろ うが,途 中か ら,若竹小学 校へ行 くので ある

この創立 の 日,潮見台小学校 は,「 新設 の若竹尋常小学校 へ五学年以下の児童三 〇 〇名 を送 る

(27)

」 と, ある 。

多喜二 は,小樽 に移住 して きた時 には, ほぼ若竹 町が生活圏であった。小 学校 に入 るまでの 2 年間 ほ どが, その時期で ある。小学校 に入 って,行動範 囲 は若竹 町 と潮見台町 とに広が った。庁商 に入 る ことによって,彼 の生活範 囲 は緑町 にまで広が った。実際 に,古 い小樽 の中心地 のほぼすべて となった。

多喜二 は小学校 6 年間が皆勤 で,表彰 された。小林多喜二が卒業 す ること によって,潮見台小学校 は,小樽 で最 も高名 な人物 を送 りだ した とい う名誉

( 24 ) 『しおみだい』 ,そして同小学校 に掲示されているプレー トから, 作成 してみた。

( 25 ) 琴坂, 口頭 で。

( 26) 小樽市教育委員会,森 さんに調べていただいた。

( 27) 『しおみだい』潮見台小学校発行

(13)

小林 多喜二伝‑ 多喜 二,庁商 へ‑ 95

を持 ったので ある

(28)

0 1 6 港 工 事 , 運 河 , 情 勢

一日露戦争 の結果,南樺太が領有 され,小樽 の商圏が拡大 していた。道 内 ・ 樺太の生産物 は,船 ・車 〔 ‑荷車〕 によ り,小樽港 に集散 され, ここか ら本 州 ・外 国へ積 み出 され, また道 内 ・樺太での消費 品 ・化学原料が,本州 ・外 国か ら入 って きた。 これ ら取 引の大部分 は小樽商人 の手で行 われた。樺太へ の移入 品の半分,樺太か らの移 出品の 3 分 の 1 は小樽港 を通 った ( 2 9 ) 。 こうし

て,三井物産 と,神戸 の曲辰 ( かねたつ)鈴木商店 は,小樽 に出張所 を置 い たほ どであ る

明治 3 2 年 には小樽 は開港場 に昇格 した。

「 明治 25年,北海道長官 になった北垣 国道 も,西海岸道央部 に位 す る小樽 港 の将来性 を認 め ,2 6 年夏,内相井上馨 の来樽 と相 まって,築港工事 の基礎 調査 を した。その結果,良好 な見通 しを得 たので ,2 9 年の国会 に十 ヶ年継続 事業費 2 1 万 8 千余 円が協賛 され, 3 0 年 4 月 か ら第 一 防波堤 工 事 に着 手 し

た。( 3 0 ) 」小樽 は天然 の良港 と言われ るが,実際 は湾形が広す ぎるために,強風 に見舞われ る と,船舶 を転覆 ・ 大破 され る ことが あった。これ を防波堤 によっ て阻止で きるようにな る。

小樽 で は,第一期 に引 き続 いて,第二期 の港湾防波堤 の工事 が行 われた.

1 9 0 8 年 ( 明治 4 1 年)に北防波堤が , 1 9 2 1 年 ( 大正 1 0 年)に南防波堤が完成 した。

多喜二 の家 は前述 の ように, この工事 に したが って引越 しをし,彼 の小学 校時代 は,現在 の家跡 ‑ 若竹町 1 8 番地 とされ る ‑ で はない。

多喜二が小学校 に入学 した年 に,小樽 の特徴 とな る高架桟橋 が作 られ始 め る。彼が小学校 4 年生 の ころ,大正 3 年 ( 1 9 1 4 年)に小樽 で は,現在有名 と なる運河工事 が始 まった 。2 0 年 も,埠頭岸壁式埋立 か,運 河式埋立 かで争 っ

( 2 8 ) 資料 2 点を,潮見台小学校教頭 ・真壁先生 より戴いた.

( 2 9 ) 越崎宗一 『 郷土史的 自叙伝』昭和 5 3 年 1 9 ページ

( 3 0 ) 同

(14)

96 人 文 研 究 第 8 7 輯

ていた運河が,大正 3 年 に決着 したので あ る。運河 は 1 923 年 ( 大正 1 2 年) に完成 し,幅 4 0 m,長 さ 1, 31 4 m の もの となった。小樽 区が防波堤 や運河 を 作 ろ う とす る ことは,国や道庁 が小樽 の開発 に見込 み を持 ち, また小樽経済 が発展 し,発展す るだ ろ う と思 ってい る ことで あった。第一期 ・北 防波堤 と 小樽運河建 設 の指揮 をした のは,広井勇 で ある

(3

1 ) 0

世界 で は 1 914 年 に,第一次世界大戦( 3 2 )が始 まった。それ によ り,小樽 は, 経済 的 に繁盛 し,その歴史で最 も活動 的 な時代 を迎 えた。1 91 6 年 の,多喜二 が小 学校 を卒 業 す る年 は,世 界 は まだ第 一 次大戦 の時代 で あった。 それ は 1 91 8 年 まで続 くので あ る。越崎 は云 う。「 大正三年夏,第一 次大戦勃発。日本 も参戦 す る ことになったが,我 国 は高見 の見物。特 に この大戦 で,雑穀澱粉 な どの本道農産物 に対 す る海外受容 が激増 し,小樽 は,本道農産物輸 出港 と して,空前 の活気 を呈 す る こととなった。 ( 3 3 ) 」

町が発 展 してい る ことは,一人 の思想家 に とって重大 な こ とで もあ る

例 えば, アダム ・ス ミス ( 経済学 の創始者 ) とグ ラス ゴーの例 を引 くことが で きる。1 8 世紀前半 に,ス コ ッ トラ ン ドのグラスゴー は大 いに発展 していた。

アダム ・ス ミスの成長 は,彼 の知 的成長 の基礎 を作 った グラス ゴーの発展 な しには考 え られ ない( 3 4 ) 。

多喜二 の時代 は,啄木 の論 じた以上 に小樽 が発展 していた。 この雰 囲気 が 多喜二 に大 きな影響 を与 えた ことはうたがいな

なお人 口の上 で,かつての小樽 は,今以上 だ った と云 える

現在 の小樽 市

( 3 1 ) 工学博士広井勇が北防波堤 と運河を構想 した。札幌農学校第 2 期生,道庁技師 になる 。1 8 9 7 年に小樽築港事務所長 になる。後,東大教授 になる。『 工学博士広 井勇伝』工事量報社 昭和 5 年

( 3 2 ) さしあた り,テイラー 『 第一次大戦』新評論, を見 よ。

( 3 3 ) 越崎宗一 ,3 0 ‑ 31 ペ ー ジ

( 3 4 ) アダム ・ス ミス ( Adam Smi t h,1 7 2 3‑ 1 7 9 0 )は,グラスゴー大学で学び,ス

コッ トランド啓蒙思想の 「 洗礼」を受 けた。オックスフォー ド大学で学ぶが,そ

の後,グラスゴー大学教授 になる。そしてその際,名著 『 道徳感情論』を書 くの

である。

(15)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 97

の人 口は ,1 6 万 1, 1 1 4 人

(35)

で あ る。だが,張碓 峠か ら札 幌寄 りの地域 と,高 島 よ り外 の地域 を差 し引 けば,ほ ぼ1 3 万 7 千人 とな る。ただ しこれ は当時 の 小樽 区 よ りも少 し広 く地域 であ る

日本 の人 口は現在 ( 1 9 9 3 年)約 1 億 2 千 万人 で あ る

当時 の 日本 の人 口は, 1 9 1 2 年 ( 明治 4 5 年 ・ 大正 1 年) に 5, 2 5 2

万人, 1 9 2 0 年 ( 大正 9 年)の第‑ 回国勢調査 で は 5, 5 9 6 万人 で あ る

小樽 の 人 口は ,1 9 2 0 年 ( 大正 9 年)に 1 0 万 8 千人 で あった。 当時 と現在 の,小樽人 対 日本人 の比率 は, 当時 の方が現在 よ りも高 く, ほ ぼ 2 倍 にはな るだ ろ う。

彼 が物心 のついた時代 に,小樽 が最 も活動 的で あった ことは,彼 に も影響 を及 ぼ さず にはおかなか った。 そ して一番重要 な ことは,大正 デモ クラシー で あった。

1 7 大 正 デ モ ク ラ シ ー

‑ 多 喜 二 の 生 涯 を, 大 きい観 点 か ら把 握 す る一 方 法

多喜二が小学校 を卒業 す るころ,大正 デモ クラシーの波が訪 れた。彼 は大 正 デモクラシーの中で育 ち, かつ生 きた。

大正 デモ クラシーの象徴 的人物 は,吉野作造 だった。 ヨー ロ ッパ留学 か ら 帰 った東京帝 国大学教授吉野作造 は, ヨー ロ ッパで絶対君主制が立憲君主制

に変わ って行 くの を見 て, 日本 の天皇制 も性格 を変 えね ばな らず, また民衆 の秩序 あ る運動 を勧 め るよう,説 いた 。1 9 1 6 年 ( 大正 5 年)に論文 「 憲政 の 本義 を説 いて其有終 の美 を斉 すの途 を論 ず」 を発表 した。 そ こで は人 民主権 説 で はな くて,民本 主義 を述 べ て,民衆 のための政 治 と民衆 による政治 を説 いた。これ を きっか けに して大正 デモ クラシー

(36)

が始 まった。ただ しこの言 葉 は第二次大戦後 に作 られた もので あ る。一 方,美濃部達吉 は天皇機関説 を 出 した。美濃部 は民主主義的 とい うよ りも,合理 的 とい うべ きで, また,天

( 3 5 ) 「 小樽市住民基本台帳人 口及 び世帯数 ( 町名別 ) 」小樽市役所,平成 5 年 8 月末 現在,か ら。

( 3 6 ) 『日本の歴史 』2 7 小学館

(16)

98 人 文 研 究 第 87 輯

皇制 に批判 的 な立場 で もない。吉野 は行動で も活躍 し,政府 ・軍 国主義への 批判 をお こなった 。1 91 8 年 1 2 月 に,デモ クラシー を宣伝 す るための「 翠明会」

が,吉野,福 田徳三 を中心 に,新渡戸,穂積重遠,朝永三十郎,大 山郁夫, 麻生久,三宅雪嶺,森戸辰男 ら 23人 によって出来 た。そ して学生側 で は,秦 大 で 「 新人会」が同年 1 2 月,早稲 田大学 で も「 民人 同盟会 」( 3 6 a )が翌年 3 月 に, 結成 された 。1 9 20 年 には 日本最初 のメーデーが東京 で行 われた。

小林多喜二 の生涯 を日本史 の中で考察す るな らば,次の ように見 なければ な るまい。

幸徳事件 に よる「 冬 の時代」が過 ぎ去 り始 めた。だが多喜二 が小学校 を卒業 し,つ ま り庁商 に入学 す る ころか ら,この「 大正 デモ クラ シー」が始 まった。多 喜二 は この雰 囲気 と流れの中 にあって,大正 デモ クラ シーで育 った。一 方, 大 正 デモ クラシーは,民主主義 思潮 として は,あ る意味 で は,たい した ことはな か った。日本 の国家 的根本構造,つ ま り国体 は変わ らなかった し,この大正 デ モ クラシー は,後 にファシズム によって潰 されて しまうか らであ る。日本近代 史 の上 で は, 大正 デモ クラシーの一 時期 に,世界 の流 れ と同 じ く,日本 は少 し 民主主義的 な発展 を した。それ は質 の上 で も量 の上 で も充分 で はなかった。だ が それで さえ これ らの発展が,日本帝 国主義 ・ 軍 国主義 の進展 に よって,こと

ご とく壊滅 されて しまうのであ る。治安維持法 をは じめ とす る日本 の絶封 主 義天皇制 の弾圧機構 は, 初 め共産 主義運動,次 に社会 主義運動,つづいて非天 皇的宗教,そ して反戦主義, 平和主義,その後,民主主義,自由主義,ヒューマニ ズム,合理主義 を圧殺 して しまうのであ り,それ は徹底 的で根 こそぎの弾圧 で あった

(37)

。 冬 の時代 と一五 年戦争 との ち ょうど中間 に,弱々 しい大正 デモ ク ラシーの花 が咲 いた。それ は, 嵐 とともに踏 み しだかれ る民主主義 の可憐 な花 で あった。多喜二 の悲劇 は,近代 日本民 主主義 の運命 と軌 を一 に し,結 びつい ていた。 彼 も,怒涛 の ような逆巻 く波 に消 された美 しい花で あ り, 犠牲 で ある。

( 36 a) のちに,「 建設者同盟」 となる。

( 37) 参考,荻野富士夫 『 特高警体制史』増補版,せきた書房 1 988 年

(17)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑

補遺 と訂正

99

1 .前号 ( 4 1 ペー ジ 1 行)で,村林 みのす け, としたが,お そ ら く巳之吉 で ある 。

2. 前号 ( 2 9 ペ ー ジ)で筆者 は,多喜二が 1 9 0 3 年 1 0 月 1 3 日生 まれだ と,何 気 な く書 いた。 「 年譜」で多喜二 はい う。誕生 日を 「 母 は旧暦八 月二十三 日 だ と云 ってい るが,村役場 の帳面 には一二月一 日となってい る o 」 ( 『 全 集 』 第 5 巻 2 3 0 ペー ジ) 旧暦 と新歴 との違 いだ ろ う

尋常小学校第 4 学年修 了

の,大正 3 年 3 月 2 4 日付 の,多喜二 の修業叢書が残 ってい る。そ こでは彼 は,戸籍通 り,明治 3 6 年 1 2 月 1 日生 まれ となってい る。

3 .前号 ( 4 2 ペー ジ)で, 3 箇所 ,1 9 , 2 0 ,2 1 行 目で,印字 を間違 った。 「 板 屋」は間違 いであって,「 板谷」が正 しい。商大 図書館 の浜 田 さんに見 つ け ていただいた 。 あ りがたい ことである。

4. 前号 ( 61 ペー ジ, 1 行)で,長橋 中学 と書 いたが,現在名で あ り,長橋 に小樽市立 中学がで きたのである 。1 9 2 2 年 ( 大正 1 1 年)に小樽 が市 になっ たので,「 市立」である。 ここに伊藤整 が勤 めるので,有名 である

5 .前号 ( 3 4 ペ ー ジ)で,青函連絡船 で, と書 いたが ,1 9 0 8 年 に青函連絡船 が始 まるので,多喜二一家が来たの は,青函連絡船 でで はない。 それ以前 の制度 の連絡船で ある 。 なお, 1 9 0 4 年 に小樽 ・函館間鉄道 が開通 した。

6. 私立北海道水産学校 について,前号 ( 61 ペー ジ)で述べたが, これ は数 年で廃校 になった。 したが って庁立水産,今 の小樽水産学校 とは関係が な

い 。

7. 多喜郎 は 1 0 月 5 日没。慶義 は 1 8 5 9 年 1 0 月 1 0 日 ‑1 9 31 年 6 月 2 0 日。ツ ネは 1 8 26 年 1 1 月 5 日 ‑1 9 0 4 年 1 1月 1 1日 。 末松 1 8 6 5・9・9 ‑1 9 2 4・8・2 。

セ キ 1 8 7 3・8・2 2 ‑1 9 61・5・1 0 。 ( 高橋利蔵 「 史談会史料 郷土史研究 のた

めの資料 断片 ( 4 ) 小林多喜二 の周辺」 よ り)慶義 の子孫 は, この付録 2 に掲

げ る

(18)

100 人 文 研 究 第 8 7 輯

9. 前号 31 ペー ジ 4 行 目で, はずのの, とあるが, はずの, である

1 0 . 小樽 に来た人 として,なお,新撰組 の永倉新八 がい る。明治 1 0 年 ころ小 樽 に来て,名 を変 え,明治 15 か ら小樽 を離 れ ,32 年 に小樽 に戻 り,大正 4 年 に死 んだ。

また明治元年箱館戦争 で,脱走軍 の彰義隊士 らが,小樽 に来 て,本陣 を 龍徳寺 に, また正法寺 に も分屯 した。翌 2 年 に降伏 した。

内村鑑三 は,明治 1 4 年札幌農学校 を卒業 し,開拓使御用掛 とな り,あわ び養殖 のた め試験所 を高島郡祝津 に定 めた。明治 15 年 9 月 4 日か ら 28 日

まで,滞在 した。

林有造 も小樽 にいた

自由党員で,岩村道庁長官 の弟 である

色 内町手 宮町の海岸 の うめたて をす る 。 時の政府 か ら激 しい圧迫 をうけ,北海道 に 難 をのがれていた。実業家 で あ り,明治 の 自由民権運動 で獄 につながれた。

そ して,名著 『 旧夢談』 ( 明治 2 4 年) を書 いた。

ll .多喜二 の手紙 について。小樽文学館 ・玉川氏 による と,多喜二 の大熊信 行 あて手紙 が,東京で市場 に出て売 られた とい う。なお,多喜二 の友人 だっ た石本氏が亡 くな り, ご遺族が遺品 を整理 していた ら,友人片岡亮一 か ら 石本 さんあての葉書 ( 大正 1 0 年消印)が 2 通 出て きて, それ は小樽文学館

に寄贈 された。

1 2. 碧川企 救 男 の後 任 として小樽 新 聞 に入 社 した のが,加 藤 米 司 ( 1 8 66‑

1 9 21 ) である 。 岐阜 出身で,青年時代 に堺利彦 と親交 を持 った。のちに「 函 館毎 日」へ行 く

ペ ンネーム は,眠柳。

1 3. 前号 で,南 カラフ トの材木が乱獲 された と書 いたが,現在 も乱伐 された ままで ある と,言 う。 これで は, 日本商人 は とて も信用 されないだ ろう。

1 4. 前号 ( 43 ペー ジ)で,小樽 と鱗 について記 したが,余 りに簡単 で,不十 分 ‑ 誤 りか もしれない ‑ なので,一言す る。有難 い ことに,琴坂先 生 の ご指摘が あった。

明治 20 年代 ,30 年代,小樽付近 で は錬漁が盛 んであった。それで も年 に

よって は,好 ・ 不漁 を繰 り返 していた。第二次大戦 中で も少 し練 は来 たが,

(19)

小林 多喜二伝‑ 多喜二,庁商 へ‑ 101

昭和 21 年 に本 当 に とれな くなった ( 琴坂, 口頭で1 )。昭和 20 年代 に少 しと れた。30 年以後,鱗 は小樽 の浜か ら完全 に姿 を消 した。( 『 おた る再発見』

北海道新聞社 1 8 ペー ジ)

さしあた り,今 田光夫 『 ニ シン文化史』共 同文化社 1986 年 257 ペー

ジの表 と, そ こか ら私 の作 ったグラフを掲 げる

(20)

log

付 銀 1

西暦 年

1 91 0 1 0 20 1 911 5 32 1 91 2 6 9 8 1 91 3 1 4 6 3 1 91 4 1 8 45 1 91 5 968 1 91 6 1 34 3 1 91 7 6 30 1 91 8 11 63 1 91 9 1 83 8 1 9 2 0 211 5 1 921 1 1 5 5 1 92 2 9 83 1 92 3 1 6 95 1 92 4 1 485 1 92 5 1 7 93

人 文 研 究 第 8 7 輯

北 後 志( 3 8 )春 錬 漁獲 量

1 9 26 1 2 9 0 1 9 27 85 5 1 9 2 8 27 8 1 9 2 9 66 0 1 9 3 0 ‑ 1 9 31 1 0 4 3 1 9 32 63 0 1 9 3 3 1 48 5 1 9 34 7 8 8 1 9 35 ‑ 1 9 3 6 ‑ 1 9 37 8 3 1 9 38 ‑ ‑ 1 9 39 ‑ 1 9 40 8 3 1 9 41 ‑ 1 9 42 9 8 ( 38) 小樽 は北後志の一部であるo

( 単位百 トン)

1 943 8

1 944 3 90

1 94 5 4 6 5

1 9 46 4 0 5

1 9 47 3 08

1 948 1 5

1 949 ‑

1 95 0 8 3

1 9 51 1 7 3

1 95 2 30

1 95 3 ‑

1 9 5 4 1 7 3

1 95 5 ‑

1 95 6 8

1 95 7 8

1 95 8 ‑

1 95 9 ‑

(21)

小林 多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 103

位 ・1

0 万 トン 2. 2

2

1.

8

1.

6

1.

4

1.

2 1

0.

8

0. 6

0. 4 0.

2

0 1 01 21 41 61 82 02 22 42 62 83 03 23 43 63 84 04 24 44 64 85 05 25 45 65 8 l l1 31 51 71 92 12 32 52 72 93 13 33 53 73 94 14 34 54 74 95 15 35 55 75 9

( 西歴年 ,1 9 ‑ ‑ )

付録 2 小 林 慶 義 家 系 ( 高村宏先生の手紙 より)

はる 太郎 俊二 幸蔵

正俊

(22)

104

第 2 章 庁 商時代

人 文 研 究 第 87 輯

1 庁 商入 学

北海道庁立小樽商業学校, つ ま り庁商 は, 1 91 3 年 ( 大正 2 年)に創立 され た 5 年制 の甲種商業学校 である( 1 ) 。北海道 で はな く,当時 は北海道庁であ り,

それが立 てたか ら,庁立 とい う

小樽 には私立 の小樽商業学校 ( 現在 の北照 の前身)が あったので, それ と区別 す るために,庁商 と呼 ばれたのであった。

予科 2 年,本科 3 年で あ り, 1 学年 10 0 人 の定員 であった。多喜二が受験 す る時 は,出来 てか らほ とん どす ぐの新 しい学校 で あった。

すで に述 べた ように,商業都市 としての小樽 に, 当然,庁立 甲種商業校が 1日も早 く設立 され ることを要望す る小樽財界実力者,例 えば, 山本厚三, 本間隆吉,寿原重太郎,前市長河原直孝 たちは,助成会 を作 って,道会や道 に働 きか けた。青木 乙松,板谷宮吉,榎本武憲,寺 田省帰 たちが,敷地 を提 供 した。庁商 の設立 はその結果 で もあった。 日清戦争後,一応事業 の安定 を 見 出 した小樽 の初代 実業家たちには,二代 目を進学 させ るべ き中学校設立 を 要望す る声が,ようや く起 こっていた。越崎宗一( l a )は,多喜二 に 2 年早 く, 大正 3 年 に庁商へ入学 した人 である。商人 である彼 の父 は,「お前 は商人 の子 だか ら,商業学校 な ら入 れ てや る。 しか し入学試験 に落 ちた ら小僧 に出す ぞ

。(2)

」 とお どか した。

この当時, 中学校 へ行 く生徒 の比率 は極 めて少 なか った。小樽 中学が北海

(1 )明治終 りに,甲種中等学校 は乙種にくらべて,高学齢生徒を対象 としている。

大津氏によると,昭和では例 えば,庁商は庁立で,北海商学は私立なので,前者 は甲種,後者は乙種 と呼ばれていた と言 う。

( 1 a) 越崎家は石川県出身。祖父が小樽 に来た。宗一は,明治 3 4 年 7 月,小樽区港 町 ( 現在の堺町)の商家の長男 として生 まれた。量徳小学校へ明治 41 年入学 し た。庁商,高商,東京商大に学ぶ。昭和 51 年没。多喜二の 2 年先輩である。

(2 )越崎宗一 『 郷土史的自叙伝』昭和 53 年 28 ペー ジ

(23)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 105

道 で最 も早 く創立 された 中学 の一 つ としてすで にあ り, また その創立 は十年 以上前 で あ った。 だか ら庁商 は新興学校 で あった けれ ども, この頃,全道有 数 の競争率 の激 しい中等学校 にな った。多喜二 が受験 した時 は第 四期 生 で あ

るが,競 争 率 が 4 ・5 倍 もあ った。

同 じ受験 者 で, 多 喜 二 の 同級 生 とな る安 宅 文 夫 氏

(3)

は,受 験 者 が 435 名 だ った と記憶 してい る。 『 樽商 六十 年 の歩 み』 で は こう記述 され てい る

「 小 林 多喜二 が受験 した第 四期 の頃 な どは,百名 の募集 にた い して八百名 も殺 到 した の で,小 樽 新 聞 に 『 娘 一 人 に婿 八 人 』 の記 事 が 出 た ほ どの受 験 難 だ っ た

。(4)

」手塚氏 は ,450 名 前後 だ った と,書 いてい る

(5)

。若 い頃 の記憶 はか な り 正 しい と思 うし, 当の本人 なので,安宅氏 の挙 げ る数 が正 しい ので はないか

と,私 は考 えてい る。

彼 の同期 生石本 武 明氏

(6)

は,書 いてい る。「 全道 か ら優 秀 な生徒 が入学 をめ ざ した‑‑入学 には骨 が折 れた。庁商 に入学 で きる者 な ら どこの学校 に も入

(3 )安宅文夫先生の略歴。

1 903 ( 明治 3 6)午 1 91 6 ( 大正 5 )午

1 921 ( 大正 1 0) 年 1 922 ( 大正 1 1) 午 1 923 ( 大正 1 4) 午 1 933 ( 昭和 3 )午 1 946 ( 昭和21) 年

小樽生 まれ

小樽稲穂小学校 を卒業 し,庁立小樽商業学校 に入学。つ まり多喜二 と同学年生である。

庁商卒業

小樽高商入学。つ まり多喜二 に 1年遅れて入学。

高商卒業

道立小樽商業高校 の教員 になる

昭和 1 7 年 まで。

小樽商業高校の教頭 になる。昭和 31 年 まで。

(4) 2 ペ ー ジ

(5 )手塚英孝 『 小林多喜二』新 日本出版社 ( 以下,手塚 と略す) ,上,36 ペ ー ジ (6 )いしもとたけあき。氏 は,後 に本稿で度々登場する。 5 男 2 女の 7 人兄弟で,

次男である。庁商 を卒業 して ( 旧)北海道銀行 に入 る。昭和 25年 3月,拓銀 を 中途退職 した。ちなみに,旧北海道銀行 は,拓銀 と合併 した。 ご家族 によると,

「自分の名誉欲」で退社 した と云 う。昭和 26 年か ら29 年 まで北 日本本印刷紙業 に勤める

種々の会社の経理 をした。経営士開業の方針 を決め,昭和 3 4 年 に日 本経営士の資格 をとり,商店の経理 をした。昭和 37年加藤鉄鋼建設工業 とコン サルタン ト契約 をし, 昭和 42 年 に経理の相談 をする。昭和 49 年その社長 とな り, 80 歳 まで現役でいた。平成 3 年小樽か ら苫小牧 に移 り ,1 993 年 8 月 1 3日に亡 く

なる。 ( 氏の令嬢 ・岩田典子 さんか ら小生 あて 1 993 年の 2 通の手紙 による)

(24)

106 人 文 研 究 第 8 7 輯

学 で きる といわれ,事実試験 は難 しか った

(7)

」。

後 に多喜二 の親友 になる嶋 田正策 ( せ い さ く)氏 は,小樽 の量徳尋常高等 小学校 に明治 四 〇年三月 に入学 し,大正 四年三 月 に高等科 を卒業 した。小学 校六年 で北海道庁立小樽商業学校 ( 庁商 ) に入学手続 き ( 受験手続 き) を し たが,受験 せず,翌年受験 し不合格 にな り, その翌年 つ ま り大正 四年 四月 に 入学 した。氏 に一年遅 れて多喜二 が入学 す るので あ る 。

多喜二 を含 めて三人 の少年が,管,塩見 台小学校 か ら庁商 を受験 しに きた のだが,雪 の中 を笑 い転 げていたのが,正策氏 が初 めて多喜二 に会 った時で あ り, それ は紅葉橋 通 りで あった。 この時,多喜二が一番元気 で,ふ ざけて いた。嶋 田正策 は こう書 いてい る。入学試験 の時 で あった。「 緑 町 の入 口を三 人 の少年 がふ ざけなが ら歩 いてい る

出身校 と名前 を聞 くと,潮見 台小学校 で, その内の一人 が雪道 を転が るように してふ ざけていた。 それが小林 多喜 二 だ った。」その 2 人 とは,三室 と加藤 だ った

(8)

。 しか し多喜二以外 は,浪人

した人 も出たが,結局 だれ も合格 で きなか った( 9 ) 。

嶋 田氏 は こうも書 いてい る。「 庁商入学試験 のた め,小樽花 園公園 を横切 っ て紅葉橋 を渡 り, まっす ぐ稲穂 町 の小路 に入 る所 」で,嶋田 は同級生 の高橋 次郎( 1 0 )と登校途 中で( l l ) ,多喜二 に会 った 。 嶋 田氏 は他 の場所 で は,緑 町 と書 いている.現在地 で言 えば,緑 町が正 しい.ただ し,当時 は稲穂 町であった.

この時,嶋 田 は庁商予科 1年生 で あった。

この嶋 田氏( 1 2 )のおいた ちは, こうで あ る。

(7 )石本武明 「 若いころの多喜二 との思い出」 ( 小樽文学館 「 多喜二の青春」昭和 五八年)

(8) 『 北方文芸 』1 9 6 8 年 3 月号

(9 )嶋田氏インタビュー。島田正策 「 小林多喜二 との こと」 ( 『 小林多喜二読本』啓 隆閣 1 9 7 0 年 ,2 3 6 ページ)

( 1 0 ) 後に小樽高商に入 り,卒業。東北大卒で,小樽高商の教授 にな り,日本スキー 連盟の審判長であった。昭和 1 9 年の論文 「 大東亜共栄圏」でパージにあう。戦 後 まもな く昭和 2 7 年に逝去する。

( l l ) 嶋田 「 本郷だより 」1 8 号

( 12) 氏は現在,お元気で神奈川県に在住である。以下の話の主な部分 は,小生 との

(25)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 107

嶋 田正策氏 の父 は,富 山の妙教寺 とい う小 さな寺 の出で,名 を義正 とい っ た。父 の兄 は団正 といい,千正寺 を千歳 に開いた。父 は,空知 の北村 へ ゆ き, 村役場 の書記 にな り,養蚕 を広 めた

(13)

。正策氏 は,明治三 四 ( 1901)年一 月 一一 日生 まれで,姉 チエ ( 千枝 )と弟二人 ( 末 の弟 は正 巳 (まさみ))が いたO

四歳 の時,祖母 しず, に連 れ られ,母 ・コマの兄 で あ る伯 父,稲葉吉五郎 を頼 って小樽 に来 た。伯 父 は実子 が無 か ったが,養子太三郎 ( た さぶ ろ う) が いた。彼 は,友人長 島の子息で,当時,北海商業学校 の生徒 だ った。ただ し,正策 は函館 へ行 って父 と半年,利尻 島の鬼脇 で父 と半年,生活 した こと が あ る。函館へ は,小学校 1 年生 くらいの時,祖母 に連 れ られ て行 った。 そ の頃,太三郎 は亡 くな った。伯 父 は学 問 をしていなか ったが,子供 たちには 教育 が必要 だ と考 えていた らしい。 この伯父 は,正策 が四 ・一六事件 ( 1929 午)で執行猶予 で 自由 になった直後,亡 くなった。

手塚 は,小学校 時代 の多喜二 をお とな しい子 としてい るが,そ うで はなか っ たので はないか。

大正 5 年 ( 1916 年),多喜二 は庁商 に合格 し,入学 した。父 は大層喜 んだ。

インタビェ‑および 1 9 89 年の小生あて同氏の数通の手紙か らなる

それゆえ引 用 ・利用文献の指示のない部分 は,それ らによっている。

嶋田氏の作品には次のものがある。

「 小林多喜二 との こと」 ( 多喜二・ 百合子研究会編 『 小林多喜二読本』新 日本出版 社 1 97 4 )

「 小林多喜二の思い出」 ( 『 小林多喜二読本』)

「 小林多喜二 と私」( 『 小林多喜二研究』 解放社 1 94 8 年,復刻 日本図書センター 1 98 4 年)

「 『 ネヴォ』の思い出」 ( 佐藤八郎著 ・編 『 ネヴォの記』1 97 6 年)

「 小林多喜二の恋」 ( 『 民主文学』新 日本出版社 1 9 88 年 2 月号)

「 私の 『自画像』 を書いたころ」 ( 『 民主文学 』 )

文集 『自画像』 ‑ このコピーは小樽文学館 に送った, と島田氏。

「 小林多喜二のある一面」 ( 『 緑丘』 )

「 『クラルテ』の思い出」 ( 『 本郷たより 』1 8 号,不二出版)

「 私の小林多喜二」上 ・下,小林多喜二全集,月報 2 および 3

( 1 3) 嶋田は,父を養蚕学校の先生だった とも書いている 。 ( 「 小林多喜二 とのこと」

2 3 6 ペ ー ジ)

(26)

108 人 文 研 究 第 87 輯

形式上,庁商 は小学校 6 年終了で受 験 で きる だが,難 しいために, ほ と

ん どは高等小学校 か ら入 った。 例 えば ,4 0( 4 0. 0%) 第 4 期 である大正 5 年度入学,つ ま り

多喜二 の入学 した時 には,尋常 6 年で 入 ったの は 2 2 名,高等 1 年修 了が 37 名,高等 2 年修了が 40 名,高等 3 年修

高等小 2年

1 ( 1. 0 %) 高等小 3 年

2 2( 2 2. 0 %) 尋常 6 年

了が 1 名,計 1 00 名 である( 1 4 ) 。多喜二

の ように尋常 6年で入 ったの は 2割強で ある とい うことになる。

だか ら多喜二 もず いぶ ん勉 強 ので きは よか った ので あ る ( 1 5 ) 。 また庁商 に は,小学校 で も,小樽 の有名 な小学校か ら入 ったのであって,多喜二 の よう な例,潮見台小学校 か らの入学 は少 なか った。大体,塩見台小学校か らゆ く ような生徒 は滅多 にいなか った。 その事情 は,多喜二 は 「 地 区の人々」で書 いてい る。 これ を現実 の小学校名 に変 えて書 いてお こう。

「 私が上 の商業学校 に入 った時だった。新 しい先生が,私たちが何処/\の 小学校 か ら入 って きたか,手 を挙 げさせ て調べた ことが あった。『 稲穂小学校 か らは ?』 と先生 は最初 に言 った。五十人 の うち三十名近 くも手 を挙 げた。

稲穂小学校 は,市の中央 の一番金持 ちの多 い,評判 の学校 だった。先生 は次々 と呼 んでいった。私 は潮見台小学校 か らは来 てい る ものの, 実 は内心得意 だっ た。何故 な ら私 はそ こか らた った一人 しかパ ッス していなかったか らで ある。

私 は先生 の呼ぶの を心 を躍 らせ なが ら待 っていた。呼 んだ ら思 い き り手 を挙 げてや ろう,先生 はキ ッと吃驚 して くれ るだ ろう。残 ってい る学校 が四つ, 三 つ,二 つ‑‑ となる と,私の心臓 は思わず跳ね上が った。 ところが,先生 は潮見台小学校 を忘れていた。 この次 に と思 って,胸 の ところまで勢 い よ く

( 1 4) [ 田中孝] 『 緑陵五十年史』 昭和 39 年 1 1月,小樽緑陵高等学校発行 38 ページ

[ 緑陵高校 とは,現在の北海道立小樽商業高校,つまりかつての庁商である。 ]

( 1 5) 小学校時代の多喜二の成績 は,手塚,上 ,1 9 5‑ 6 ページに掲載されている。

(27)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 109 持 っていった手 を,‑ 私 は急 に ドマつ き,赤 くな り,それか らソッと机 の 下 にお ろ した。私 は周囲 を見廻 した。 だが,誰 も私 の ことを気付 いて さえ も いなか った。 ‑‑‑先生 は, じゃあ,何貢 を開いて下 さい と言 って, モ ウ授業 にかか っていた。私 は本 を開いた。が,一 つ一 つの活字 が眼 の前 に浮 き上が り,重 な り合 い,読 む こ とが出来 なか った。‑ 私 は本 の上 に,ポタ,ポタ と涙 を落 していた

。(16)

」 この状況 は, もち ろん現在 の小樽 で は違 ってい る。

入 るのが難 しい ことに加 え,庁商 は,入学 して も進級 す るのが難 し く,約 半分 の者 は, 5 年 間で は卒業 で きなか った。 そ うい うわ けで,多喜二 の同級 生 にはず いぶ ん年上 の者が多か った。 また越崎 の談 で あるが,初代校長 の頃 は,生徒 は猫 をかぶ ってお ったか もしれ ないが,極 めてお とな し く,学 問的 であった。」西岡徳蔵 も語 る。 「 上級生 の下級生 に対 す る態度 も極 めて温和 で あ り,何 れ も紳士 的 な ものが あった

。(17)

庁商 は,現在 の北海道立小樽商業高校 の前身 とな るが,今 の緑 町 にあって, 小樽 高商 のす ぐ下 に位置 していた。 カ ラマ ツの森林 に囲 まれ,小樽 市街 と小 樽港 が展望 で きる高台 にあった。多喜二 は ここに入学 し,親 の家 を離 れ,伯 父 の家 に寄寓 し, その工場 で働 き始 めた。通学 させ て もらう代 わ りの条件 で あ る。寝泊 りは伯 父 の家 で あ る 。 そ こには長男慶蔵 の,多喜二 とはほ とん ど 同 じ年代 の子供 た ち も,一緒 で あった。

時 はなお,第一 次大戦 中であった。

2 伯父の家で

さて多喜二 は,条件付 きで進学 して良 い ことにな った。 それ は,伯 父 の家 に住 み込 みで働 きなが ら通 うことであった。多喜二 は,新富 町 の伯 父 の家 か ら 1 5 0m ほ ど下 にあ る工場 で働 いた。 ここは,彼が通 っていた潮見 台小学校

( 1 6) 『 小林多喜二全集』新 日本出版社 ( 以下,『 全集』 と略) ,第 4 巻 456 ペ ー ジ ( 17) 田中孝 『 北海道庁立小樽商業学校史 ‑ 史料 と体験の歴史』青玄社 昭和 23

年 16 ペ ー ジ

(28)

110 人 文 研 究 第 8 7 輯

か ら近か った。

この店 ・ 工場 は,小樽 で は大企業で あった。当時,パ ンは珍 しい もので あっ て,舶来 の感 じが した。伯父 の店 では∴安 い菓子パ ンの類 が戦争景気で沢 山 売れた

(18)

。現在龍徳寺 の前 にある伯父 の店 といわれ る ものは,パ ン工場 であ る。そ して小樽 中学校下 の崖下 にあ る伯父の家が店 そ して住家 になっていた。

住 家 と工 場 とは 1 0 0m ‑ 前 述 の よ うに 1 5 0m で な い, とい う人 もい る

‑ ほ ど離れていた。伯父 の工場 か ら軍隊 に多量 のパ ンが納 め られた( 1 9 ) 0 多喜二 は,戟 ,登校前 に トラックや荷車 で,パ ンの配達 をし,学校 か ら帰 っ て も働 いた。多喜二 は,後 に手塚 に語 ったのだが,働 くのは楽 しか った。彼 は工場 で働 く人 に親 しみを感 じていた。 しか し職人 たちは,親方の身内だ と い うので,冷 たかった。また,住 み込 みなので,伯父 の家で も辛 い生活 であっ た し,遠慮 や引 け目が あった。小説 「 健」 には,食事 を従兄弟 の子が先 に食 べ る情景 を書 いている

学校 へ行 かせ る代 わ りに働 いて もらうとい う条件 は,姉 チマの時 には出 さ ず,多喜二 の時だ け出すのは,不思議である

チマが女であ り,働 かせ るわ けにゆかず,多喜二が男 だか ら働 かせ る ことがで きる と,考 えたか らだ と思 われ る

多喜二 の働 いていたパ ン屋 について,伊藤整 は述べ ている

小樽 中学校 で は厳禁 されていたのだが,多喜二 の居たパ ン屋 には,「 十分間 の休憩時間や昼 の休 みに,我 々 [ 小樽]中学生が こっそ りパ ンを食 いに出掛 けた

(20)

」。

当時,三星 のパ ン屋で売 っている代用パ ン ( 金時豆が入 ってい る)が有名 で,樽 中の生徒が さかんに買 って食 べていた。

当の多喜二 は弁当 として, ビルマ豆 の入 っているパ ンを もっていって,昼

( 1 8) 小笠原

( 1 9) 小樽市立文学館,木之内氏。

( 2 0 ) 『 伊藤整全集』第二三巻 3 1 ‑ 3 2 ペ ー ジ

(29)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 11 1

至 小 樽 駅

現在地 図 に基 づ く

食 として食べた。 これ は珍 しか った。

多喜二 は,伯 父の家か ら実家 にはほ とん ど帰 らなか った。帰 ったの は,休 みの時だ けだった。そ して夏休 みには家計 を助 けるためにアルバ イ トをした。

それ は,港で,潜水夫へ ポ ンプで空気 を送 る仕事 であった。 これ は,人間の 命 にかかわ るものなので,気が抜 けなか った。

3 通学

多喜二 は,伯父 の家 に居 る ときは, もちろん徒歩通学だ った。朝起 きて, 住 んでい る家 つ ま り伯父の家 ‑ 新富町五八番地 ‑ で朝食 を とり,店 で 働 き, そ こか ら庁商 あるいは高商へ通 った。帰 ってか らも店 で働 き,夕食後 は,絵 を描 いた り,後 の時期 には小説 を書 いた り, または働 いた。一 カ月の うち三 日は,帳面付 けで, とて も忙 しか った。

琴坂氏 によれ ば,多喜二 の通学路 は次 の ようだった と言 う 。 市 内 に入 って

か らは,花園十字街 か ら左 に折れ,小樽公園 に向い, この丘 を越 えて,紅葉

橋 を渡 り,朝 日通 りを抜 けて,地獄坂

(21)

へ出 る。なるほ どこれが一番近 い。

(30)

112 87 輯

パ ン工場

潮見台小

現在 図 に もとづ く

I ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑点 線 は鉄 道

緑 第 2 通 り

恐 ら く多喜二 は,歩 いて 40‑50分 は掛か っただ ろう。当時の少年た ちは健脚 だ った。

当時 の通学方法 は,三 つ あった。 まず, いわ ゆ る 「 汽車通 (きしゃつ う )」

で あ る。多 くの人 は色 内駅 で降 りる

今 の 日本銀行 と文学館 との間 の追 ( 緑 山手線 ) に昔 の鉄道線路 が横切 ってい るが,色 内駅 はその交点 にあった。小 樽築港駅 の近 くの学生 は,もち ろん築港 か ら乗 り,色 内駅 で降 りるので ある

次 に,汽車通 をしないで徒歩 で通 う人 が いた。第三 は,両方 の方法 で, つ ま り歩 いた り汽車 に乗 った りして,通学 す る もので あ る

多喜二 は,伯 父 の家 の時代 は徒歩通学 を した。彼 は居候 なのであ る。高商 の時代 は, それ も実家 か ら通 った時代 は,汽車通学 だ った とされ る( 2 2 ) 。 とい

( 21) 琴坂先生の説によれば,地獄坂 とは,正 しく言えば,今の 「 緑第一大通 り」と

「 商大通 り」 との交差点か ら,商大 まで,の道である。

(31)

小林多喜二伝‑ 多喜二,庁商へ‑ 113 うの は,高商時代 に武 田進 は,汽車 で時々多喜二 を見 てい る( 2 3 )か らで あ る。

作家,伊藤整

(24)

( 正 し くは,.ひ とし,普通 は,せ い) による多喜二像 を見 てみ よ う

毎朝,伊藤 は塩谷 か ら小樽 の中央停車場 で降 り, そ こか ら小樽 中学へ通 っ た。 ただ し,時間 の都合 で中央停車場 で降 りないで,南小樽 でお りる ことも あった( 2 5 ) 。以下 は, 自伝小説( 2 6 )と銘 うたれた 『 若 い詩人 の 肖像 』か らで あ る。

だか ら全 て事実だ とい うわ けで もない。 そ して彼 は多喜二 よ りも 1年若 く, この記述 はそれ ゆ え,多喜二が庁商 2 年 か ら 5 年 の間 の ことで あ る

「中学校 に近 づ くに従 って,その中学校 へ登校 す る生徒 の数 が増 し,か な り 広 い町通 りが 中学生 で埋 まるようにな る。毎朝 きまって, その頃,小柄 な, 顔色 の蒼 い商業学校 の生徒 が,肩 か ら斜 に下 げたズ ックの鞄 を後 ろの腰 の辺 へ のせ るように,少 し前屈 み にな り, 中学生 の群 の流れ をさか のぼ る一 匹の 魚 の ように, 向 こうか ら歩 いて来 た。」

「その うち に,私 は,その商業学校 の生徒が,私 たちの中学校 の坂 の下 にあ る小林 とい うち ょっ と大 きな菓子屋兼 パ ン製造工場 か ら出て来 る ことに気 が ついた

あのパ ン屋 の息子 だな, と私 は考 えた。」ここで言 う 「 息子」は,多 喜二 で あ るが, もち ろん息子 は間違 いで,甥 で あ る

伊藤 は この時,知 らな いのであ る。

「その蒼 白い細 面 の商業学校生徒 は,広 い街上 を一面 に群 れ てや って くる中

( 2 2) 「 略年譜」 ( 新潮 日本文学アルバム『 小林多喜二』 新潮社 1 9 85 年 1 05 ページ, を利用 してお く)

( 23 ) 武田 「回想の小林多喜二」

( 24 ) 伊藤整 ( 1 905 .1 月 ‑1 96 9) は,小樽中学を卒業 してか ら小樽高商へゆき,高商 では多喜二の一年後輩であったo

( 25 )琴坂

( 2 6) 伊藤 『 若い詩人の肖像』新潮文庫 1 9 7 9 年 ,37 4 ページ

この書は小説である。だか ら事実だけでな く,フィクションが多 く混 じっている。

別項で分析するつ もりである。

参照

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112  第八集  第九集  第十集  第十一集  第十二集  第十三挺  第十四集  第十五挺

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︵η︶谷口.前掲論文三二〇頁、岡垣.前掲書八一頁、野田・前掲書一二〇頁、我妻編・前掲書二二頁、有地・前掲﹁特別受益者の

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