小林多喜二の東京時代
倉 田 稔
は じめ に
3独 房
61932年
9「 党 生 活 者 」 12文 学 運 動
も く じ
1補 と 訂 正 4伊 藤 ふ じ子2 7地 下 活 動 10最 後 の 時 期
2伊 藤 ふ じ子1 51931年 こ ろ
8情 勢
ll「 地 区 の 人 々 」
は じ め に
こ れ は,小 林 多 喜 二 伝(35)で あ る 。ユ)
1補 と 訂 正
補
1930年 に 小 林 多 喜 二 は,上 京 す る前 の2月 に,た っ た一 軒 の 山 の温 泉 宿 で, 主 に 「工 場 細 胞 」 を執 筆 した 。 そ こ は昆 布 温 泉 で あ っ た。 そ こへ 滝 子 が,手 紙 と小 包 を 送 っ た。 万 年 筆 と ドロ ップ ス が 入 っ て い た 。2月28日,多 喜 二 は 「工 場 細 胞 」 の 原 稿 を 送 っ た。 彼 は ま た2月 に札 幌 に 行 っ て い た 。
1930年 は 不 況 の年 で も あ る 。 さ て1930年4月 か ら,多 喜 二 は 東 京 に去 っ て し
1)前 作 拙 稿 「多 喜 二 の 拓 銀 解 雇 か ら 上 京 ま で 」(『商 学 討 究 』52の1)の 後 半 と, 本 稿 の 取 り扱 う 時 期 が 重 な っ て し ま い,大 変 申 し訳 な い 。
〔3〕
4 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
まっ て い て小 樽 に は い な い が,小 樽 の こ の 年 の 後 半 の状 況 を記 して お こ う。
1930年 5月1日
8月 9月 11月11日 11月 11月 11月 12月1日
メ ー デ ー,小 樽,札 幌,旭 川,釧 路,野 付 牛(今 の 北 見),帯 広, 長 沼 で,行 な う
戸 出 物 産 小 樽 支 店 争 議
小 樽 の リ コー リー 商 会 漁 夫 争 議,有 利 に解 決 小 樽 造 船 職 工 組 合,賃 金 問 題 争 議,有 利 に 妥 結 小 樽 の ゲ ル トネ ル商 会 木 工 場 争 議,有 利 に解 決 小 樽 の 福 原 木 工 場 争 議,有 利 に 解 決
小 樽 の 奥 村 製 材 工 場 争 議 北 海 道12・1事 件(=全 協 事 件)
な お,前 号 で,多 喜 二 が 帰 樽 して 墓 参 りを す る場 面 を 紹 介 したが,本 当 に そ う い う情 景 が あ っ た の だ ろ うか 。 私 は疑 問 で あ る。 そ の 理 由 は,文 中 で,「 お 母 さん 」 と呼 ん で い る。 多 喜 二 は,い つ も母 の こ とを 「バ バ ち ゃ ん」 と呼 ん で い る か ら,あ り え な い の で は な い か 。 あ る い は 間 接 話 法 的 に記 録 者 は 変 更 した の だ ろ うか 。 そ れ に,こ の 行 動 は多 喜 二 ら し くな い。 田 中 光 雄 氏 も同 じ く感 じ て い る 。
訂 正
前 稿 「小 林 多 喜 二 と 『不 在 地 主 』 の こ ろ」(『人 文 研 究 』101輯 』)の 「5昭 和4年 の 状 況 」 の 節 で,誤 りが あ った の で,訂 正 した い 。43ペ ー ジ,下 か ら6 行 目 にあ る佐 藤 千 代 子 は,小 林 千 代 子 の誤 りで あ る。 こ う な る。
小 林 千 代 子(明 治43(1910)年 〜 昭 和51(1976)年)は,小 樽 市 稲 穂 町(現 在 の稲 穂4丁 目1番)で 生 ま れ,色 内小 学 校 に通 っ た 。 小 学 校3年 の 時,オ ペ ラ の 三 浦 環 と会 っ て,声 楽 家 に な ろ う と した 。 昭 和2年,庁 立 小 樽 高 等 女 学 校 を 卒 業 し,東 洋(東 京 の され る 時 も あ る)音 楽 学 校 を 卒 業 した。 本 来 は ク ラ シ
小 林多 喜 二の東 京 時代5
ッ クの 人 で あ る。 昭和 初 期 の松 竹 歌 劇 団 の プ リマ とな る。 昭 和6年,ビ ク ター か ら覆 面 歌 手 第1号 で,「 ア リ ラ ンの 歌 」 で レ コー ド界 に デ ビ ュ ー す る。 昭和 7年 「涙 の 渡 り鳥 」(西 条 八 十 作 詞,佐 々 木 俊 一 作 曲,松 竹 蒲 田 特 作 映 画 「涙 の 渡 り鳥 」 主 題 歌)を 歌 っ た。 大 ヒ ッ トした 。
こ の詩 は,一 番 は,
雨 の 日 も,風 の 日 も
・ 泣 い て く らす
わ た し ゃ 浮 世 の 渡 り鳥
泣 くの ち ゃ な い よ,泣 くぢ ゃ な い よ 泣 け ば 翼 も ま ま な らぬ
で あ る。 小 林 千 代 子 は,ビ ク ター か ら300曲 発 売 し,昭 和14年 に ポ リ ドー ル に 移 っ て,「 旅 の つ ば くろ」 ほ か19曲 の レ コ ー ドが 発 売 さ れ,流 行 歌 の 黄 金 時 代 を築 き あ げ た。 そ の他 「人 の 気 も知 らな い で」(昭 和13年)を 出 した。 三 浦 環(昭 和21年 逝 去)か ら,「 あ な た は流 行 歌 手 で は な い の で す よ」 と さ と され, 昭 和23年 に小 林 伸 江 と改 名 し,オ ペ ラ に復 帰 した62)オ ペ ラ 「蝶 々 夫 人 」 に28 回 も 出演 した 。
佐 藤 千 代 子 は,「 船 頭 小 唄 」(作 詞 野 口雨 情,作 曲 中 山 晋 平)を 歌 っ た。
こ れ らの 資 料 は,田 中光 雄 氏 か ら頂 戴 した3)。
「多 喜 二 の 拓 銀 解 職 か ら 上 京 ま で 」(『 商 学 討 究 』52巻1号 ,2001年7月)26 ペ ー ジ1行 目 。 「売 っ て 」 は,「 打 っ て 」 が 正 し い 。 磯 崎 さ ん か ら教 わ っ た 。
2)前 稿 は,『 北 の 女 性 史 』 を 利 用 した の で,間 違 っ た 。 本 稿 は,『 小 樽 の 女 性 史 』 平 成11年,176ペ ー ジ,を も参 照 した 。
3)そ の1つ は,岩 坂 桂 二 稿(『 月 刊 ラ ブ お た る 』)。
6 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
2伊 藤 ふ じ子 望
多 喜 二 の 最 後 の 女 性 とな る伊 藤 ふ じ子(1911‑1981)は,山 梨 県 北 巨 摩 郡 清 哲 村 折 居 の 出 身 で,伊 藤 力 治 郎,藤 嶋 き志 の 三 女 と して,明 治44(1911)年2 月3日 に生 まれ た 。 父 は 当 時,土 建 業 を営 ん だ 。 ふ じ子 は,甲 府 第 一 高 女 を 受 験 し,落 ち,1年 間,富 士 川 尋 常 高 等 小 へ 通 っ た 。 大 正13年 に 甲府 第 一 高 女 の 女 学 生 に な っ た 。 同 窓 に,石 原 美 智 子(太 宰 治 と結 婚 す る)が い た 。 ふ じ子 の 成 績 は よか っ た 。 そ して 画 家 を志 望 した 。 昭和3年5月 に,彼 女 は 上 京 した。
世 田谷 の ア ナ ー キ ス ト ・石 川 三 四郎(1876‑1956)の も とに 身 を寄 せ た 。石 川 は, 万 朝 報 社 に,そ の 後,平 民 新 聞 に入 り,長 くヨ ー ロ ッパ を放 浪 した 。ふ じ子 は, 夜,新 宿 の 画 塾 ・同 舟 舎 に 通 っ た。 か の 女 は,石 川 家 に は 昭 和3年6月 初 め か
ら4年 の 春 ま で,9カ 月 い た 。 ふ じ子 は上 野 松 坂 屋 の美 術 課 に勤 め た 。 つ い で 昭 和4年6月 に 明 治 大 学 に 雇 員 と して 昭 和6年4月30日 まで 採 用 さ れ た 。 昭 和
4年6月 に 造 型 美 術 研 究 所 が で き,ふ じ子 は こ の研 究 生 に な った 。 昭和5年6 月 に こ の研 究 所 は プ ロ レ タ リア 美 術 研 究 所 と名 前 を変 え た 。 岡 本 唐 貴 夫 人 き み も,こ の研 究 生 で,ふ じ子 と親 しか っ た 。 研 究所 仲 間 に秋 好 一 雄(吉 村 進 司) が い た。 ふ じ子 は,明 治 大 学 に勤 め な が ら,絵 は さ ぼ りが ち に な り,芝 居 に移 っ た 。 「新 興 舞 台 」 とい う アマ チ ュ ア 劇 団 で 活 躍 した 。
労 農 芸 術 家 連 盟 は,昭 和5年,劇 団 「文 戦 劇 場 」 を作 り,団 員 の募 集 を した 。 金 子 洋 文 が そ れ の指 導 者 だ っ た 。 こ れ は 移 動 公 演 劇 団 で あ っ た 。 こ こ に ふ じ子 は 応 募 しに きた 。 一 方,銀 座 木 挽 町 に 「銀 座 図案 社 」 が あ っ て,ふ じ子 は こ こ で 使 い 走 り を し た 。 大 学 と銀 座 の 図案 社 で働 き,「 文 戦 劇 場 」 の 女 優iと して 舞 台 に も立 っ た 。 彼 女 は,可 愛 い 娘,自 由 奔 放 とい う感 じで あ っ た 。
ふ じ子 は,多 喜 二 に会 う前 に,警 察 に捕 ま っ た こ とが あ る 。 女 で あ る た め の 屈 辱 的 な拷 問 を受 け て い た。 思 想 犯 の女 性 を な ぶ り もの にす る 特 高 の拷 問 は,
また 男 性 と も違 っ て 口 に 出せ な い 嗜 虐 的 な も の だ っ た 。4)
4)澤 地 久 枝 『続 昭 和 史 の 女 』 文 芸 春 秋1986年 版 。
小 林 多喜 二 の東京 時代 7
3独 房
1930年1月 に,河 上 肇5)は 京 都 か ら東 京 へ 移 っ た 。医 師 ・安 田 徳 太 郎6)も10 月 に京 都 か ら東 京 へ 移 っ た。 安 田 は左 翼 の 人 の診 療 を し,後 に 多 喜 二 の検 死 を す る人 で あ る 。
1930(昭 和5)年,多 喜 二 は 上 京 した7)。 立 野 信 之 は,「 お 前 は 背 の ス ラ リ と し た貴 公 子 か と思 っ て い た 。」と言 い,片 岡 鉄 兵 は 「君 が 本 当 の 小 林 君 で す か 」 と聞 い た。
多 喜 二 は,5月16日 か ら,「 『戦 旗 』 防衛 三 千 円基 金 募 集 の た め の 講 演 」 で, 関 西 に行 っ た 。 京 都,大 阪,山 田,松 阪へ で あ っ た 。 江 口換,中 野 重 治,大 宅 壮 一 な どが 一 緒 だ っ た 。 多 喜 二 は,関 西 講 演 が 終 っ た ら志 賀 直 哉 を訪 れ よ う と した 。 だ が5月23日 に 検 挙 さ れ,大 阪 中 之 島[島 の 内]警 察 署 に留 置 さ れ た 。 日本 共 産 党 へ の 資 金 援 助 が 問 わ れ た の で あ っ た。 そ の と き,特 高 の 刑 事 は 多 喜 二 を憎 々 し く に らみ つ け,言 っ た 。 「ふ うん,お 前 が 小 林 多 喜 二 か。 お 前 は 三 月 十 五 日 とか い う小 説 の 中 で,よ く も警 察 の こ と を あ ん な に 悪 く書 き よ っ た な。
よ う し,あ の 小 説 の 中 に あ る 通 りの 拷 問 を して や る か らそ う思 え。 こ うな っ た ら,泣 い て も笑 うて も,も う ど う も な らへ ん ぞ」 と,お ど しつ けた 。 こ う して 相 当 ひ どい拷 問 を うけ た が,そ の と きは2週 間 の勾 留 で,6月7日 に一 旦 釈 放 され た 。 そ の 後,6月 に帰 京 して,24日 に杉 並 区 成 宗 の 立 野 信 之 方 で ま た 検 挙 され た 。 そ して 幾 つ か 警 察 署 を た らい 回 し され,7月19日,「 蟹 工 船 」 の 問 題 で 不 敬 罪 で 追 起 訴 さ れ た 。そ れ は こ うだ っ た 。『戦 旗 』に 載 っ た 「蟹 工 船 」で は, 天 皇 へ の や ゆ が 伏 字 に な っ て い た 。そ れ が 単 行 本 で は復 元 され て し ま っ た。(下 線 は伏 せ 字)そ れ らは,
「天 皇 陛 下 は雲 の上 にい る か ら,」
5)河 上,1879‑1946.京 都 大 学 教 授 だ っ た 。
6)安 田 。1898年,京 都 生 ま れ 。 山 本 宣 治 の 従 弟 。 京 大 医 学 部 卒 業 。 京 都 帝 大 病 院 を や め,東 京 で 診 療 し た 。 左 翼 運 動 の 同 情 者 。
7)こ れ に つ い て は,前 稿6節 。
8 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
「 「献 上 品 」 を作 る こ とに な っ て い た 。」
「俺 達 の 本 当 の血 と 肉 を搾 り上 げ て作 る も のが。」
「石 ころ で も入 れ て お け!」
で あ っ た 。 明 治 以 来,日 本 文 学 の な か で,こ の よ う に露 骨 に 「皇 室 」 に 対 す る か らか い と敵 意 を 文 章 に した も の は な か っ た8)。
多 喜 二 は,そ の上,8月 に 治 安 維 持 法 違 反 で 起 訴 され,豊 多 摩 刑 務 所 へ 送 ら れ た 。
多 喜 二 が そ の 中野(=豊 多 摩)の 独 房 で 読 ん だ本 は 次 で あ る 。彼 の 表 記 で 記 そ う。
大 内 兵 衛 「財 政 学 大 綱 」,雑 誌 「エ コ ノ ミス ト」 「キ ン グ」 「科 学 画 報 」,デ ィ ッケ ンズ 「二都 物 語 」 「デ イ ヴ ィ ッ ド ・カ ッパ ー フ イ ー ル ド」 「ハ ー ド ・タイ ム ス」 「ク リス マ ス ・カ ロ ル」,「日本 文 化 史 概 観 」,バ ル ザ ッ ク の小 説,レ マ ル ク
「西 部 戦 線 」,武 者 小 路 「そ の妹 」 「友 情 」 「あ る男 」,ジ イ ド 「搾 き門 」 「背 徳 者 」
「田 園 交 響 曲」,ハ ム ズ ン 「飢 え」,ビ ョル ソ ン 「ア ル ネ」 「シ ン ネ ェ ヴ ェ ・ゾ ルバ ッ ケ ン」,「日本 政 党 史 」 上 下 二 巻,ブ ラ ンデ ス 「十 九 世 紀 の 文 学 思 潮 」 の 1巻 「移 民 文 学 」,プー シ ュキ ン 「オ ネ ー ギ ン」,レルモ ン トフ 「現 代 の ヒ ー ロ ー 」, 山 田 清 三 郎 「運 動 史 」,板 垣 鷹 穂 「美 術 史 の根 本 闘 題 」,な どで あ る。 実 に 沢 山 の本 を読 ん だ 。 高 橋 亀 吉 級 の もの まで は差 入 れ が で きた 。 こ の体 験 は作 家 ・多 喜 二 に と っ て大 き な もの で あ っ た 。 多 喜 二 は,独 房 で 文 学 につ い て 大 反 省 を し て い る。 「最 近 デ ィ ッケ ンズ の 『二 都 物 語 』 を非 常 に興 奮 して 読 み ま し た。 ト ル ス トイ の もの な ど もそ うで す が,あ あ い う作 品 を読 ん で い る と,僕 等 の どの 作 品 も,ま だ 綴 方 の 域 を 脱 して い な い とい う感 を持 ち ます 。」 と,村 山 簿 子9) あ て,1930年9月9日 の 手 紙 で書 くの で あ っ た 。 こ の 感 慨 は重 要 だ っ た。 多 喜 二 は,ブ ー シ ュ キ ンを刑 務 所 へ 来 て か ら始 め て 読 ん だ 。
村 山 簿 子 は 度 々差 入 れ に きた。 村 山知 義 が 捕 ま っ て 同 所 にい た か らで もあ っ
8)山 田清 三 郎 『プ ロ レ タ リ ア 文 化 の 青 春 像 』 新 日本 出 版 。
9)村 山 簿 子1903‑1946雑 誌 「子 供 之 友 」 に 童 話 ・童 謡 な ど を 寄 稿 した 。1930年 当 時,「 少 年 戦 旗 」 編 集 長 。 村 山 知 義 夫 人 。
小 林 多喜 二 の東京 時代 9 た。 斉 藤 次 郎 か ら も,田 口 か ら も,郵 便 で 差 入 れ が あ っ た 。小 樽 の 友 人 ・伊 藤 信 二 が 東 京 に出 て きた 。斉 藤 次 郎 の所 に多 喜 二 の弟 ・三 吾 が 厄 介 に な っ て い た。
中 野 鈴 子 が し ょっ ち ゅ う面 会 に来 た。
「不 在 地 主 」 が 市 村 座 で上 演 され た。 だ が 多 喜 二 は獄 中 な の で 見 られ な い 。 小 樽 で は,多 喜 二 が 捕 ま っ て い る の を,母 ・セ キ は知 らな か った 。8月,盆 で 帰 っ て 来 る と信 じて,大 きな 西 瓜 を買 っ て 待 っ て い た。 と う と う弟 が,多 喜 二 は入 獄 して い る と,話 した 。
平 沢 哲 夫 が 札 幌 に帰 っ た 。 「蟹 工 船 」 問 題 の 公 判 で,朝 里 の 義 兄 佐 藤 が わ ざ わ ざ 東 京 へ 出 て きた 。 そ の 件 で,一 緒 に捕 ま っ た 山 田清 三 郎 は 布 施 弁 護 士10)
を頼 ん だ 。
筆 者 は,多 喜 二 の 名 作 は 『救 援 ニ ュ ー ス,No.18』 だ と思 っ て い る が,そ れ に つ い て 多 喜 二 は書 く。 「… … 僕 は,お 前 が 一 番 愛 着 して い る作 品 は どれ か
と言 わ れ た ら,何 の 躊 躇 も な く 『救 援 ニ ュ ー ス 』 だ と答 え ま す 。」 と,同 じ く 村 山簿 子 あ て 手 紙(1930年10月22日)で 書 い て い る。
な お獄 中 か らの1930年11月11日 の村 山 簿 子 あ て の 手 紙 の 一 部 は,小 樽 の 旭 展 望 台 に あ る 多 喜 二 記 念 碑 碑 の 裏 側 に 記 さ れ る こ と に な る。 「冬 が 近 くな る と,
… … 」以 下 の,小 樽 を描 い た 名 文 で あ る。そ の 手 紙 の 文 に続 い て,こ うあ る。「そ の 街 の 場 末 に い る ぼ くの 年 老 った 母 が,と て も厚 い,幅 の 広 い,そ れ に ゴ ツv
し た掛 蒲 団 を送 っ て くれ た 。 この 前,そ れ を乾 か す の に 雑 役 の 人 が,「 こ ん な 親 不 幸 もの に も,お 母 さん ッ て,こ ん な に厚 い蒲 団 を送 っ て くれ る もの か な 。」
と云 っ た 。」11)
11月17日 に,タ キ が 面 会 に きた 。 弟 ・三 吾 を ヴ ァ イ オ リ ンの た め に橋 本 先 生 につ け た 。 この 人 は 東 京 音 楽 学 校 の 先 生 で あ っ た 。 そ して 多 喜 二 は,「 東 倶 知 安 行 」 が お 金 の た め に 『改 造 』 に載 っ て しま う こ と を悔 や ん で い る。
10)布 施 辰 治 に つ い て は,布 施 柑 治 『あ る 弁 護 士 の 生 涯 』 岩 波 新 書,あ り。
11)『 小 林 多 喜 二 全 集 』 第7巻,495ペ ー ジ 。
10 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
1930年12月6日 の 原 ま さ の あ て 手 紙 の 一 部(523ペ ー ジ)が,小 樽 ・境 町 の 寿 司 処 「多 喜 二 」 の 前 の碑 に あ る。 「あ な た は,北 海 道 の 雪 を知 っ て い る だ ろ う か 。 そ れ は 硝 子 屑 の よ う に い た くて,細 か くて,サ ラvと 乾 い て い る。 雪 道 は 足 の下 で ギ ュ ンvも の ・わ れ る よ う な音 を た て る。 そ し て雪 は塩 酸 に似 て,そ れ よ りは も っ と不 思 議 な匂 い を お くる。」12)
こ の 時 期 は,母,学 校 に 通 っ て い る 妹,あ ず か って い る 親 類 の 娘,下 宿 しバ イ オ リ ン を習 っ て い る弟,の 生 活 が,多 喜 二 の 肩 にか か っ て い た 。
志 賀 直 哉 あ て手 紙(1930年12月13日)で,多 喜 二 は こ の入 獄 の 意 義 に つ い て ふ れ て い る。 「私 は昨 年 の 十 一 月,小 樽 の銀 行 をや め ま した 。(や め させ られ た の で す 。)そ して,そ れ か らの 短 い 一 年 が,然 し,私 の 過 去 の ど の 十 年 に も ま
して,私 に とっ て 大 き な 意 味 を もっ た もの で あ る と考 え て い ます 。」
村 山 簿 子 に よ る と,「 ぼ くが 何 時 で も北 の 国 の こ とば か り考 え て い る か ら, 古 ぼ け た 小 説 しか書 け な い そ う だが,こ れ も亦 恐 ろ し く本 当 の こ とだ 。」こ れ は, 戦 旗 社 あ て,1930年12月26日 の 手 紙 で あ る。
多 喜 二 は,12月27日 に裁 判 所 に ゆ く。 そ して公 判 に 出 た 。 タ キ子 の 義 父 が 死 に,家 族 の 生 活 が タキ 子 に か か っ た。
翌1931(昭 和6)年1月22日 夜,多 喜 二 は,保 釈 で 出獄 し,杉 並 区 成 宗88番 地 田 口 方 に下 宿 した 。 多 喜 二 は こ の刑 務 所 体 験 を,小 説 「独 房 」 に仕 上 げ る。
4伊 藤 ふ じ子2
新 宿 に左 翼 関係 の 本 屋 を 伊 藤 貞 助 が,昭 和5年 に開 い た 。 そ の 年 の夏,開 い て 間 もな く,伊 藤 ふ じ子 が 近 くに 引越 しを して きた 。 高 野 治 郎 が そ の本 屋 を手 伝 っ て 陸 た 。 昭和5年11月 に 「文 戦 劇 場 」 は分 裂 し,脱 退 組 は 「左 翼 劇 場 」 へ 合 流 し,ふ じ子 もそ こへ 加 わ っ た。
多 喜 二 が ふ じ子 と ビ ラ貼 りをす る こ とが あ っ た 。 そ れ は 昭 和6年1月 以 降 し
12)小 林 多 喜 二 の 名 文 を い くつ か 小 生 が 選 び,そ こ か ら1つ を 同 店 が 選 ん だ もの 。
小 林 多喜 二 の東京 時代 ヱヱ か あ りえ な い 。 そ し て この ビ ラ は 「ヤ ップ」(日 本 プ ロ レ タ リ ア 美術 家 同 盟) の 活 動 に 係 わ る もの だ っ た。
ひ ど く雪 の 降 る 日だ っ た。 ヤ ッ プ の 講 演 会 の ビ ラ張 りの 日で,新 宿 方 面 の 割 当 が,多 喜 二 とふ じ子 と京 大 の 学 生(中 退?)だ ったM君 の 三 人 だ っ た 。 多 喜 二 は大 島 の 対 の着 物 に 歯 の ち び た 下 駄 を は き,た しか 帽 子 は か む っ て い な か っ た 。
こ の ビ ラ貼 りの 時 で あ る。 昭 和6年 の 冬 の あ る 寒 い 日の 夕 方,高 野 治 郎 が 店 番 を し て い る と,ふ じ子 が 突 然 一 人 の 男 を連 れ て 店 へ 入 っ て きた 。 「高 野 君,
ノ リ,お ば さん に も らっ て くん な い」。 ふ じ子 は 伊 藤 貞 助 を お じ さん,ふ く夫 人 を お ば さ ん と呼 ん で い た。 「な に に使 うん だ い 」 「今,ビ ラ貼 りに来 て ん だ け
ど,足 り な くな っ ち ゃ っ た ん だ 」。
ふ じ子 の 連 れ の 男 は,店 の 片 隅 に立 っ て 本 を読 ん で い る 。 ふ じ子 は 高 野 を ひ き あ わ そ う と は しな い で,そ ば へ 来 て,「 高 野,あ の 男 知 っ て る?」 と訊 い た 。
「知 らね え な 」。 か す り模 様 の 袷 に,三 尺 の 帯 を しめ,襟 巻 を して 帽 子 は か ぶ らず,チ ビた 下 駄 をは い た男 だ っ た。 「小 林 多 喜 二 よ」。
伊 藤 ふ くは,両 掌 にい っ ぱ い ほ どの糊 をつ くっ て 高 野 に 渡 した 。 十 分 か 十 五 分 く らい の 問 の こ とで,本 を見 なが ら待 っ て い た 多 喜 二 は,挨 拶 も しな い ま ま 去 っ た 。
雪 は彼 ら に とっ て 幸 い して,受 持 ち の ビ ラ を大 体 張 り終 っ た 時 は,す っか り 日が 暮 れ て い た 。 新 宿 の角 筈 の 市 電 の 始 発 の停 留 所 の角 に,わ りに大 き な飲 食 店 が あ っ た 。 そ の 二 階 が 牛 肉 を食 べ させ る座 敷 に な っ て い た 。 多 喜 二 は そ こへ 二 人 を さそ っ た 。 多 喜 二 を先 頭 に彼 らは そ の二 階 の 座 敷 で ス キ 焼 きを ご ちそ う
に な っ た 。 色 の 白 い 多 喜 二 は鼻 の頭 を 赤 く して,髪 とま つ 毛 まで 雪 を た め て い た 。 食 べ れ,食 べ れ,多 喜 二 は さ か ん に 彼 らに す す め て,牛 の 煮 え た と こ ろ を 取 っ て あ げ た。 会 計 の 時,多 喜 二 は 三 尺 に くる くる ま る め た 中 か ら小 さ なが ま
口 を 出 して,姉 さん に金 を払 っ た。
ふ じ子 と多 喜 二 と高 田 の 馬 場 の駅 の 階 段 を上 が っ て い た 。 す る と二段 上 に下 駄 の 歯 が 落 ち て い た 。 多 喜 二 は そ れ を ひ ろ っ て 自分 の 下 駄 に合 わせ て み る の だ
ヱ2 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
っ た。 ふ じ子 は 腹 を か か え て 笑 っ た 。 「だ っ て 階 段 の 二 段 上 に あ っ た 歯 が 下 に い る彼 の もの で あ る は ず が な い で は あ りま せ ん か 。」13)
ふ じ子 は 多 喜 二 の8つ 年 下 だ っ た 。 そ の こ ろ,ふ じ子 は劇 団 に い て,昼 は 明 治 大 学 に通 っ て い た。 新 宿 の 淀 橋 に住 ん で い た 。 そ の 時 は そ れ で何 と な く別 れ
た 。
田 ロ タ キ が 多 喜 二 との 結 婚 を 断念 して か ら,そ の あ と,多 喜 二 は 神 奈 川 県 の 七 沢 温 泉 に こ も っ て,『 オ ル グ』 を 書 い た 。 「「オ ル グ」 は 「工 場 細 胞 」 の 第 二 部 を な して い る 」(1931年7月7日,宮 本 喜 久 雄 あ て 手 紙)。
ビ ラ貼 りの 夕 方 か ら2,3ケ 月 後,ふ じ子 あ て に,「伊 藤 貞 助 方 伊 藤 ふ じ子 様 」 で封 書 が 来 た 。 高 野 は 「お か しい な,ふ じ子 の 手 紙 が こ っ ち に 来 る な ん て」 と 言 っ て 裏 を み た ら,「 七 沢 の蟹 」 と書 い て あ る。高 野 は 前 の 話 が あ るか ら,ふ っ と,こ れ は 小 林 多 喜 二 だ な と思 っ て 伊 藤 貞 助 に言 っ た ら,「 な ん で ふ じ子 宛 の手 紙 が こ っ ち に来 て る の か な,開 け ち ゃ え,開 け ち ゃ え」 と言 うの で,高 野 は湯 気 を使 っ て 開 け て し ま った 。
高 野 は,「 ビ ッ ク リ した ん だ け ど,こ れ ほ ど う ま い ラ ブ レ タ ー は 読 ん だ こ と が な い ね 」と。最 初 に,「君 の こ とは な にか に つ け て 思 い 出 す 」と書 い て あ っ た 。
「しば ら く君 と御 無 沙 汰 して い る の は わ け が あ る ん だ 」。多 喜 二 が 警 察 に捕 ま っ て,7カ 月 勾 留 され て い た こ とが 書 か れ て い た 。 「そ の 時 い っ し ょ に捕 ま っ た か わ い そ う な老 人 が い た の で,そ れ を抱 い て寝 て や っ た 。 そ の た め に カ イ セ ン を うつ さ れ た 。 そ れ を 治 療 す る た め に こ の 温 泉 に来 て い る」 「こ の こ とは 親 し い 人 に も誰 に も言 っ て い な い 。 君 が 誰 か に話 す と は思 わ な い が,ぼ くはそ れ を ち ょい と試 して み た くな っ た 。 そ れ で こ の手 紙 を書 く」 とあ り,最 後 に 「帰 っ た ら,ま た逢 い た い もの だ 」 とあ っ て,便 箋 に 二 枚 だ っ た 。 こ の手 紙 は 彼 らが 写 真 に と っ た 。
「手 紙 が 来 て る よ」 と渡 さ れ た ふ じ子 は,「 あ,そ う」 と言 っ て 受 け取 っ た だ け だ っ た。 ふ じ子 は男 女 関 係 を ジメ ジ メ した もの か ら さ ら っ と した 友 達 関係
13)澤 地 久 枝 『続 昭 和 史 の 女 』 文 芸 春 秋1986年 版 。
小林 多喜 二 の東京 時代 13 に変 え て しま い,気 安 く腕 を組 ん だ りし て も,い や ら しさ が ま った くな か っ た と い う。 この ふ じ子 あ て手 紙 は 『小 林 多 喜 二 全 集 』 に は な い 。 温 泉 に い た 頃 の 多 喜 二 は,手 紙 を 「七 沢 の蟹 」 と して 友 人 た ち に 出 し て い た 。
そ の 後,高 野 は ふ じ子 に,「 何 で 多 喜 二 と一 緒 に い る ん だ 」 と 聞 い た。 ふ じ 子 は,劇 場 に行 っ た ら偶 然 組 合 せ が で き,新 宿 方 面 とい う の で 土 地 に 明 る い 自 分 が 選 ば れ た の だ,と 説 明 した 。 ビ ラ貼 りの こ とで あ る。
ビ ラ貼 りの 翌 日の 講 演 会 で は,多 喜 二 は二 言,三 言 で 中止 とな っ た。 そ れ を ふ じ子 は 後 で 多 喜 二 か ら きい た 。 そ れ か ら,ふ じ子 は 多 喜 二 に,よ くお 茶 を ご ちそ う に な っ た り,小 説 の 原稿 の 清 書 をふ じ子 の 知 人 の 女 性 に た の ん で あ げ た
り した。 当 時 多 喜 二 は大 学 ノ ー トに原 稿 を書 い て い た 。14)
そ の 後,ふ じ子 は 高 野 に,多 喜 二 との こ と を相 談 した。 「多 喜 二 と逢 っ て い る け ど… … 」。 高 野 は言 っ た 。 「姉 さ ん,そ れ は名 士 病 だ よ。 多 喜 二 の 人 間性 に 惚 れ て い る の か ど うか,よ く考 え て ご らん 。 人 間 的 にか か わ っ て い る な らい い が 。 そ うで な け れ ばS・K[労 働 者 出 身 の 党 幹 部 で,女 と して の ふ じ子 に ハ ウ ス ・キ ー パ ー に な ら ない か と誘 っ たが,断 わ られ た]と 同 じに な る。 有 名 作 家 だ か ら とい うの で は だ め だ よ」。「そ うい う わ け で は な い け れ ど … …」。高 野 は, ふ じ子 が 多 喜 二 に惚 れ て い た と見 る。
岡 本 唐 貴 夫 妻 は,昭 和6年 の9月 こ ろ,馬 橋 の小 林 多 喜 二 宅 の 近 くに引 越 し た 。 多 喜 二 は7月 に この 借 家 を 借 り,母 セ キ,弟 三 吾 と暮 ら して い た 。 多 喜 二 もふ じ子 も,そ れ ぞ れ に よ く岡 本 宅 へ 遊 び に来 た が,二 人 で一 緒 に 来 た こ とは な く,多 喜 二 の 口 か らふ じ子 の こ とを 聞 い た こ とは な か っ た。 ふ じ子 は多 喜 二 の こ と を話 す と きは 楽 しそ うだ っ た 。
14)沢 地 。
ヱ4 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
51931年 こ ろ
小 林 多 喜 二 は 色 紙 を,金 沢 の学 生 だ っ た唐 津 に与 え た 。 これ は後 に 復 刻 され た15)。 そ の 文 は,「 我 々 の 芸 術 は 飯 の 喰 え な い 人 に と っ て の 料 理 の 本 で あ っ て は な らぬ」 で あ る。 多 喜 二 の色 紙 は こ れ 一 つ で あ る 。
文 壇 の 長 老 ・徳 田秋 声 との 恋 愛 事 件 で 評 判 に な っ た 山 田 順 子 が,銀 座 の 裏 通 りに ジ ュ ン ・バ ア とい う酒 場 を 開 い て い て,文 壇 の連 中 が よ く集 ま っ た 。 作 家 橋 爪 健 も連 れ られ て 二 三 度 飲 み に い っ た 。 最 初 の 時 順 子 が 愛 嬌 た っ ぷ りに手 を さ しだ して 握 手 を し た。そ れ が 彼 女 の得 意 の癖 ら しか っ た 。徳 田秋 声 の ほ か に, 久 米 正 雄,竹 久 夢 二,勝 本 清 一 郎 な ど と当 時 の 文 壇 に魔 風 恋 風 を ま きち ら した 才 色 兼 備(?)の 女 性 だ け に,ま だ うば ざ く らの 魅 力 十 分 だ っ た。 そ の 彼 女 は 多 喜 二 とお な じ小 樽 の,弁 護 士 夫 人 だ っ た 。 そ ん な関 係 か ら,今 を と きめ く新 進 作 家 小 林 多 喜 二 の 大 フ ァ ンで,よ く彼 の 話 を して い た。 彼 女 は,あ る 晩 酔 っ ぱ らっ て,「 せ ん だ っ て 小 林 さ ん が 来 た の よ。 小 樽 時 代 の お 友 だ ち に た の ん で 無 理 や り引 っ ぱ っ て きて も らっ た の。 と こ ろが,私 が 握 手 の 手 を出 して も,ぜ っ た い に握 手 して くれ な い ん で す よ。 あ とで お 友 だ ち に 聞 い た ら,あ ん な よ ご れ た 女 と握 手 す る の は ま っ ぴ らだ っ て さ,ホ ホ ホ ホ 」 と,ヒ ス テ リ ック に 笑 う の だ っ た。16)
1931年5月24日 に あ った 作 家 同 盟 第3回 総 会 あ る い は大 会 が 築 地 小 劇 場 で 行 な わ れ,書 記 長 だ っ た 多 喜 二 が 議 長 だ っ た 。 持 ち前 の 大 き な は っ き り した声 で 何 か を論 じて い た。7月8日,同 じ第 四 回 臨 時 大 会 で,多 喜 二 は 中 央 委 員 とな っ た 。7月11日,作 家 同 盟 書 記 長 に選 ば れ た 。
1931年7月,多 喜 二 は 杉 並 区 馬橋3丁 目375番(現 在 の,阿 佐 ヶ谷 南2,22, 2)に 一 戸 借 り,母,弟 と住 ん だ 。 母 を小 樽 か ら呼 ん だ の で あ る 。
作 家 井 伏 鱒 二 は,「 小 林 多 喜 二 と い う人 は よ く気 が つ く人 だ っ た」 と語 る 。
15)小 樽 市 文 学 館 。
16)橋 爪 健 『多 喜 二 虐 殺 』 新 潮 社 昭 和37年,13ペ ー ジ 。
小林 多喜 二 の東京 時代 ヱ5
多 喜 二 の 家 の近 く,阿 佐 ヶ 谷 弁 天 池 の 近 くに あ っ た,「 ピ ノ チ オ」 と い う小 さ な 中華 風 レス トラ ンで,井 伏 と多 喜 二 は会 っ た 。 井 伏 は 回想 す る。 小 林 多 喜 二 は立 野 信 之 に連 れ られ て ピ ノチ オ に よ く来 て い た 。 多 喜 二 は 酒 は一 向 に 呑 ま な い で 人 に お 酌 す る だ け で あ っ た 。17)
1931年 晩 秋,大 宅 壮 一18),江 ロ 換,松 田 解 子,多 喜 二 で,作 家 同盟 京 浜 支 部 あ る い は 横 浜 支 部 で 文 芸 講 演 会 が あ っ た の で,東 京 か ら長 距 離 タ ク シ ー で 横 浜 へ 行 っ た 。 急 ぎの こ とだ っ た 。 多 喜 二 は助 手 席,江 口,大 宅,子 供 を お ぶ っ た ま ま の松 田 は,座 席 で ゆ られ て い た。 松 田 の横 に 江 口,そ の 向 こ う に大 宅 が い た。 多 喜 二 は,「 工 場 細 胞 」 を 出 した 直 後 だ っ た 。 途 中,誰 彼 の作 品 論 に 花 が 咲 い た 。 文 学 の話 か ら作 家 そ れ ぞ れ の 書 く女 性 像 の 話,さ ら にそ こ か ら発 展 して,あ る 程 度 科 学 的 な女 性 の 性 や 生 理 の 問 題 に まで は い っ て い た 。 な か で も そ の と きは 多 喜 二 作 品 の 女 性 像,と くに そ の 前 年 あ た り 「改 造 」 に発 表 さ れ て 文 壇 で も論 議 を よん だ 「工 場 細 胞 」 に 出 て くる 「お 君 」 と,同 じ製 缶 工 場 に 働 く 「森 本 」 が,初 め て 連 絡 を と りあ っ て 出 会 っ た 晩,お 君 が,た っ た一 コだ け 買 っ た リ ン ゴ を先 ず 自分 が,「 カ シ ュ ッ」 と い う音 を させ て 食 べ て,そ れ か ら 森 本 に も食 べ ない か と差 し出す と こ ろ や,そ の他 あ れ これ と事 こ まか く取 り出 して,一 般 に プ ロ レ タ リ ア文 学 にお け る 女 性 像,あ るい は 「性 」 の 問 題 に まで 談 が 及 ぶ うち に,そ れ が い つ の ま にか 論 戦 的 に もな っ て い た。 松 田 は専 ら聴 き 役 で,多 喜 二 が,そ うい う 問題 に た い して も決 して ひ る まず,し ば しば助 手 席 か ら,斜 め う し ろ の江 口,大 宅 両 氏 を,ぐ い と振 り返 っ て は,舌 鋒 す る ど く反 論 して い た 。 先 輩 と対 等 に語 っ た 。 こ うい う問 題 に た い して も三 人 三 様 の 個 性 とそ れ ぞ れ の 世 界 観 の深 度 を か け て ゆず らな い 論 じぶ りだ っ た。 結 局 は二 対 一 の形 と な っ て 多 喜 二 は,二 人 に た い してせ ま り,み じん の わ らい も な い横 顔 で あ っ た 。
17)石 井 大 三 郎 『火 を継 ぐ も の』2001年,58ぺ ・一…ジ。
18)大 宅 壮 一(1900‑70)。 三 高 に 入 学 し,社 会 主 義 の 洗 礼 を受 け た 。 東 大 社 会 学 科 中 退 。 評 論 の 集 団 制 作 を 試 み た 。
16商 学 討 究 第52巻 第2・3号
そ の 文 芸 講 演 会 は 行 な わ れ た 。19)
9月20日,上 野 自 治 会 館 で 第2回 「『戦 旗 』 の 夕 」 で 多 喜 二 は 講 演 し,検 束 さ れ た 。
1931年11月1日 か2日,多 喜 二 は 志 賀 直 哉 宅 を 訪 問 し,一 泊 し て い る20)。
そ し て11月9日,多 喜 二 は 志 賀 直 哉 あ て へ,訪 問 の 礼 状 を 出 し て い る 。
61932年
小 林 多 喜 二 は 党 の文 化 運 動 の責 任 者 とな っ た 。 そ して サ ー ク ル活 動 を広 め よ う と した。 彼 は マ ル チ 人 間 で あ っ た(日 高)。
多 喜 二 は,阿 蘇 弘 と若 林 つ や 子 の2人 を文 学 指 導 の受 け 持 ち をす る。 か れ ら に つ い て は,多 喜 二 の1932年1月 若 林 つ や 子 あ て,1932年2月24日 そ の 他 阿蘇 あ て;1932年3月 上 旬 若 林 あ て の手 紙 が あ る。
若 林 つ や,は,当 時作 家 同 盟 員 で,多 喜 二 か ら小 説 の書 き方 を教 わ っ て い た 。 若 林 つ や はペ ン ネー ム で あ り,本 名 は 杉 山美 都 枝 で あ る 。作 家 同盟 で は,新 人 同 盟 員 に は ベ テ ラ ン会 員 が マ ン ・ツー ・マ ンで 指 導 に あ た る方 法 を と っ て い た。 多 喜 二 は若 林 つ や の担 当 者 で あ っ た 。 多 喜 二 は,志 賀 直 哉 を よ く読 む よ う に彼 女 に言 っ た 。 若 林 は 当 時,長 谷 川 時 雨 の 『女 人 芸 術 』 の 編 集 部 で働 い て い た。 長 谷 川 時 雨 の 夫 の 三 上 於 菟 吉 は,売 れ っ子 作 家 で,『 女 人 芸 術 』 の 資 金 を 出 して い た 。 『女 人 芸 術 』(1932年1月 号)に 載 っ た 多 喜 二 の エ ッセ イ 「故 里 の 顔 」 の 原 稿 を,若 林 は持 っ て い た。 多 分 彼 女 が 直 接 多 喜 二 に 原 稿 依 頼 を し た の だ ろ う。 こ れ に は 相 当 数 の 伏 字 が あ る21)。 『女 人 芸 術 』(1931年)に 載 っ た 若 林 の 「押 し寄 せ る 波 」 を,小 林 は賞 賛 した 。
1931年 の 秋 こ ろ か ら文 化 連 盟 に対 す る権 力 の暴 圧 が 強 ま り,1932年 初 め か ら
19)松 田 解 子 『回 想 の 森 』 新 日本 出 版 社1979年184‑5ペ ー ジ;松 田 「多 喜 二 と の 思 い 出 」(『文 化 評 論 』326,1988年4月)151‑2ペ ー ジ。
20)こ れ につ い て は,前 稿10節 。
21)太 田 の 稿,『 秋 田 と小 林 多 喜 二 』2001年 。
小林 多喜 二 の東 京時代 ヱ7
『働 く婦 人 』 『大 衆 の 友 』 『プ ロ レ タ リ ア科 学 』 な どが 次 々 と発 禁 に な っ た 。 多 喜 二 の 本 は,戦 前 で は 「国 禁 の 書 」 と さ れ た 。多 喜 二 は,『 中 央 公 論 』1931 年5月 号 の 「文 芸 時 評 」 で,「 私 の 『一 九 二 八 年 三 月 十 五 日』 は今 日本 で は断
じて 出 版 を許 され な い 。 そ れ は全 編 を貫 い て,火 の よ うな 支 配 階 級 に対 す る憎 悪 が も られ て い るか らで あ っ た 。」 と書 い た 。 当時,『 一 九 二 八 年 三 月 十 五 日』
は,ロ シ ア語 訳,英 語 訳,ド イ ッ語 訳,フ ラ ンス語 訳 な どが 進 ん で い た(太 田)。
『三 ・一 五 』 の 原 稿 は勝 本 清 一 郎 が 保 管 した。
1932年3月8日,多 喜 二 は 「沼 尻 村 」 を完 成 させ た。 沼 尻 村 は,北 海 道 の 北 村 で あ る(琴 坂)。 「沼 尻 村 」で は,「不 在 地 主 」で 莫 然 と しか 書 い て い な か っ た,
日本 労 働 農 民 党 党 員 の 人 間 と新 労 農 党 の 人 間 を描 き分 け た(阿 部 誠 文)。 「沼 尻 村 」4幕 が,新 築 地 劇 団 の 公 演 で,築 地 小 劇 場 で 行 な わ れ た 。 「不 在 地 主 」 に 続 く二 回 目で あ っ た 。 こ の プ ロ ッ ト(日 本 プ ロ レ タ リ ア演 劇 同 盟)の 上 演 は, 昭 和8年3月15日 か ら10日 間 で あ っ て,脚 色 は大 沢 幹 夫 で あ った 。
1932年3月,多 喜 二 は,「転 形 期 の 人 々」 を一 時 う ち きっ た 。「転 形 期 の人 々」
の1頁 目の 挿 絵 は,小 樽 の北 浜 橋 の 図 で あ る。 「転 形 期 の 人 々」 の,鉄 工 所 が, 岸 鉄 工 所 で あ る。岸 鉄 工 所 は,境 一 雄 の 友 人 の 父 が や っ て い た。小 樽 の 労 組 は, だ か ら部屋 を借 りて 事 務 所 に した 。 こ こ に 出 て 来 る 「岩 城 ビル 」 の 近 くは,労 働 者 の 下宿 が 多 か っ た 。(以 上,琴 坂)「 転 形 期 の 人 々」 は作 品 と して未 完 成 だ が,小 樽 に 労 働 運 動 が 力 強 く盛 り上 が っ た 当 時 を描 い て … … そ の 中 に 出 て 来 る
「四 尺 九 寸 の 小 男 」,旗 塚 は,武 内 清 で あ る。 源 さん は,鈴 木 源 重22)で あ る。
阿 部 誠 文 は,『 転 形 期 の 人 々』 を 高 く評 価 す る 。 こ れ こそ は,多 喜 二 に と っ て 最 高 最 大 の作 品 とな るべ き もの で あ っ た23)。 総 決 算 的作 品 で,全 体 と して み る な ら ば,「 三 ・一 五 」 を は る か に こ え る作 品 で あ る,と24)。 筆 者 は 「三 ・ 一 五 」 の 方 が 印 象 深 い ス キ ッ と し た作 品 だ と見 る。 「転 形 期 の 人 々」 の 作 者 付 記 に,こ れ は 「序 論 」 で あ り,次 の 「前 篇 」 で は,福 本 イ ズ ム の台 頭,「 中 篇 」
22)因 藤 荘 助 「多 喜 二 の プ ロ フ ィ ル 」(『青 年 論 壇 』 青 年 論 壇 社 札 幌1948年)。
23)阿 部 誠 文 『小 林 多 喜 二 』 は る ひ ろ 社142ペ ー ジ。
24)阿 部,148ペ ー ジ 。
18 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
で は小 樽 の ゼ ネ ス ト,「 後 篇 」 で は福 本 イ ズ ム の 没 落 か ら三 ・一 五 まで,と い う風 に進 め ら れ る 予 定 で あ る25),と 記 して い る。大 変 な大 作 とな る予 定 で あ っ た 。 そ れ も小 樽 を舞 台 とす る もの で あ ろ う。
新 宿 紀 ノ 国 屋 は,薪 や 炭 の燃 料 屋 だ っ た 。 田辺 茂 一 が 本 屋 を始 め た 。 よ く売 れ る本 は,そ こ で は 売 れ な か っ た 。 そ こで プ ロ レ タ リ ア もの を 売 っ た。 そ の2 階 で 多 喜 二 は講 演 した 。 こ の本 屋 で 左 翼 の 人 が 会 議 を した(井 上 ひ さ し)。
7地 下 活 動
1932年 春,地 下 に も ぐ っ て い た 蔵 原 惟 人 が 捕 ま っ た 。 蔵 原 は,東 京 外 語 の 露 語 科 を 出 て,「 都 新 聞 」 特 派 員 の か た ち で,2年 間 モ ス ク ワ に 留 学 し,ソ ヴ ェ トの 文 学 ・芸術 運 動 を よ くみ て きた 。蔵 原 は1930年 の 春,急 に地 下 へ も ぐっ た 。 そ の 後,彼 は,モ ス ク ワで 開 か れ た プ ロ フ ィ ン テ ル ン(赤 色 労 働 組 合 イ ン タナ シ ョナ ル)第5会 大 会 に 出 席 す る 全 協(労 働 組 合 全 国協 議 会)の 代 表,紺 野 与 次 郎 に随 行 して 入 ソ した 。 蔵 原 は,プ ロ フ ィ ン テ ル ンの 大 会 をす ませ て,春, ひ そ か に帰 国 して い た 。蔵 原 は,古 川 荘 一 郎 の名 で,「ナ ップ」に論 文 を 発 表 し, プ ロ レ タ リ ア 芸 術 運 動 の 大 衆 的 基 礎 へ の再 編 成 企 業 ・農 村 に お け る サ ー ク ル を 中心 とす る そ の よ う な組 織 と,プ ロ レ タ リ ア 文 化 ・芸 術 の 中 央 機 関 と し て の コ ップ(日 本 プ ロ レ タ リア 文 化 連 盟)の 創 立 を提 唱 した 。 また 谷 本 清 の 名 で,「 ナ ップ」 に 「芸 術 的 方 法 に つ い て の感 想 」 を 出 した 。 こ の 彼 が 捕 ま っ た の だ った 。 彼 は,多 喜 二 の 「党 生 活 者 」 の 「ヒゲ 」 の モ デ ル で あ っ た 。
公 然 面 に い た 中 野 重 治(1902‑79),窪 川 鶴 次 郎,壷 井 繁 治 も前 後 し て捕 まっ た 。まぬ が れ た 小 林 多 喜 二,宮 本 顕 治 が 地 下 に も ぐっ た26)。宮 本 は,こ の2月, 作 家 ・中条 百 合 子(1899‑1951)と 結 婚 した ば か りだ っ た。
25)『 小 林 多 喜 二 全 集 』 第4巻,217ペ ー ジ。
26)山 田清 三 郎 『転 向 記 霧 の 時 代 』 理 論 社1957年,16ペ ー ジ。
小林 多喜 二 の東京 時代 19 多 喜 二 が 馬 橋 の 自宅 か ら姿 を消 す の は,昭 和7年4月 下 旬 だ っ た と され る。
多 喜 二 は,1932年(昭 和7年)4月 下 旬 で な く上 旬 に,地 下 活 動 に移 っ た,と い う説 もあ る。
多 喜 二 は,三 原橋 に 間借 りし て い る ふ じ子 に 会 い,事 情 を打 ち明 け た 。 ふ じ 子 は 「欲 の な い 女,心 の 温 い女,も のす ごい 情 熱 家 で あ る」。ふ じ子 の 目の 前 に, つ く し甲 斐 の あ る 仕 事 を して き た男 が,国 家 権 力 の 手 に 追 い つ め られ て 立 っ て い た27)。 ふ じ子 は,小 石 川 原 町 の 友 人 ・木 崎 喜 代 に 多 喜 二 を 頼 ん だ 。 画 塾 の 時 の友 人 で あ る 。 そ こ に10日 ほ ど い る 間,馬 橋 の 小 林 宅 は 家 宅 捜 索 を 受 け た。
だ か ら多 喜 二 は検 挙 を免 れ た わ け だ っ た 。 ふ じ子 は麻 布 東 町 の 称 名 寺 の 境 内 の 二 階 屋 の 一 室 を借 りて,そ こへ 移 り,多 喜 二 も原 町 か ら きて 一 緒 に暮 し始 め た。
こ う して4月 下 旬,多 喜 二 は 伊 藤 ふ じ子 と 「結 婚 」 した 。 つ ま り今 の 言 葉 で言 え ば,同 棲 した 。 役 所 に届 け 出 る わ け に は ゆ か な い の で あ る。 だか ら結 婚 で は な い だ ろ う。
称 名 寺 にい た と き,寺 の まわ りの 様 子 を張 り込 まれ て い る気 配 が す る と い っ て,2人 揃 っ て,あ る 夕 方,手 塚 の ア ジ トへ 来 た こ とが あ っ た 。 手 塚 は,「 調 べ に ゃ い け な い が,す ぐ帰 っ ち ゃ危 な い か ら,今 晩 こ こへ 泊 ん な さ い 。 明 日様 子 を見 た ら ど うだ ろ う か」 と言 っ た 。 手 塚 は,古 い 家 の だ だ っ ぴ ろ い 一 問 を借 りて い た 。薄 い 敷 ぶ とん と掛 け ぶ と んが 一 枚 つ つ しか な か っ た 。「私 に は今 日, 徹 夜 で や らな き ゃ な らな い 仕 事 が あ る 。 あ ん た た ち は 明 日 また う こ か な き ゃ な
ら ん か ら,二 人 で 寝 て 下 さい 。私 は 起 きて い る」 と手 塚 は言 っ た 。多 喜 二 は 「う ん,う ん 」 と う なず い て,ふ じ子 と二 人,さ っ ぱ り と した 感 じで 一 組 の ふ とん に寝 た 。 そ の こだ わ りの な さ に手 塚 は 安 堵 した 。
彼 女 は 党 活 動 家 で は な い 。 同 じ く潜 って い る 手 塚 英 孝 の 近 くに移 りた い とい う多 喜 二 の希 望 で,ふ じ子 は 麻 布 東 町 に貸 間 を探 した わ け で あ っ た。 二 階 に家 主 の 母 子 が 住 み,多 喜 二 とふ じ子 が 暮 ら した の は,階 下 の 五 畳 だ っ た 。 一 日中 日の あ た らな い 陰 気 な 部屋 だ っ た。 手 塚 が 訪 ね て い っ て も,ふ じ子 は勤 め に い
27)沢 地,320ペ ー ジ 。
20 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
っ て い る か ら,会 わ な か っ た が,一 度 だ け 家 に い た 。 だ か ら活 動 家 で は手 塚 だ け が 彼 女 を 知 っ て い る。 手 塚 は,2人 が 相 思 相 愛 の よい カ ップ ル だ っ た と,見 て い る。28)
中 村 善 作 は,非 合 法 活 動 を続 け る小 林 を援 助 して もい た 。
7月 に,多 喜 二 とふ じ子 は麻 布 十 番 に 近 い 新 網 町 の 下 宿 に移 っ た 。 西 日を も ろ に う け る2階 の6畳 問 で あ る 。 そ こ で多 喜 二 は 『党 生 活 者 』 を書 き始 め た 。 9月 下 旬 に また 居 を 変 え た。 麻 布 桜 田 町 の 小 さ な2階 た て の借 家 で あ る 。 こ こ に伊 藤 は,ふ じ子 の 母 の,き 志 を呼 ん だ 。 秋 に,き 志 は こ こへ 来 た 。
1932年 か ら弾 圧 が ひ ど くな っ た 。 手 塚 英 孝 は,多 喜 二 と地 下 活 動 を一 緒 に し た 。 多 喜 二 は 藤 倉 電 線 の 反 戦 運 動 の 指 導 者 で も あ っ た 。 ペ ン ネ ー ム を た く さん 使 っ た。 藤 倉 電 線 は,『 党 生 活 者 』 で は,倉 田 工 業 と な っ て い る 。 多 喜 二 は住 居 を 転 々 と して い るが,藤 倉 電 線 の 工 場 細 胞 を と お して,反 戦 闘争 の 指 導 を し て い る。
さ か の ぼ っ て1932年3月 に,多 喜 二 は藤 倉 電 線 の 臨 時 工 た ち と交 流 す る こ と が で きた 。 「沼 尻 村 」 を書 き上 げ た あ とだ っ た。 「満 州 事 変 」 で 藤 倉 電 線 は数 万 個 の 毒 ガ ス マ ス ク を 陸 軍 か ら受 注 し,に わ か に600人 以 上 の 臨 時 工 を雇 い 入 れ た。 日給 は2円 た らず,そ し て軍 の 将 校 が 検 査 官 と して現 場 で 監 視 した 。 本 工 の 倍 もの 臨 時 工 を 増 員 した た め に,便 所 は ビ シ ャ ビ シ ャ に あ ふ れ,弁 当 は立 っ た ま ま食 べ た り,こ の 不 満 は 堪 え が た くな っ た 。 しか も採 用 時 の条 件 は2カ 月 後 に首 を切 る とい う も の だ っ た 。 そ こで 「本 工 に し ろ」 とい う要 求 で 闘 う こ と に な っ た 。 戦 闘 的 労 働 者 は,小 林 多 喜 二 を 囲 む 会 を持 っ た 。 臨 時 工 の 首 切 りが 20日 ほ ど後 に迫 っ た 時,20名 ほ ど の男 女 臨 時 工 が そ の会 に 集 ま っ た。 この 時 の 話 を,多 喜 二 は 『党 生 活 者 』 に再 現 す るの で あ っ た。 み ん な は多 喜 二 に親 しみ を覚 え,駅 ま で ゾ ロ ゾ ロつ い て き て,そ の 時 地 下 活 動 を して い る多 喜 二 を面 く
らわ した 。29)
28)沢 地 。
29)石 井,44‑45ペ ー ジ 。
小 林 多喜二 の東 京時代 21 多 喜 二 は8月,文 化 団体 フ ラ ク シ ョ ンの責 任 者 とな っ た 。
1932年 の5・15事 件 ま も な く,江 口換 は,省 線 電 車 の 車 中 で,多 喜 二 と た ま た ま一 緒 に な っ た 。 阿佐 ヶ谷 か ら新 宿 駅 まで 話 した。 ひ さ しぶ りで あ っ た 。 多 喜 二 は阿 佐 ヶ谷 か ら電 車 を利 用 して い た の で あ る。 江 口 は 多 喜 二 が捕 ま らず に
い て くれ と祈 るば か りで あ っ た 。
8情 勢
当 時 の情 勢 を記 そ う。1931年(昭 和6年)9月 に 「満 州 事 変 」が 起 こ され た 。 日本 ・関東 軍 は,1932年 まで に全 満 州 を制 圧 した 。関 東 軍 は,傳 儀 を ひ きだ し, 傳 儀 は執 政 に な り,満 州 国 が で きあ が っ た 。1932年 か ら満 州 移 民 が 始 ま っ た 。 国 内 で は,戦 線 不 拡 大 を決 め た 若 槻 内 閣 に た い して桜 会 の ク ー デ タ計 画 が 作 ら れ た 。1932年5月15日,犬 養 首 相 が 暗 殺 され た。 陸 海 軍 の 若 手 軍 人 と農 民 決 死 隊 が こ の事 件 を起 こ した 。 五 ・一 五 事 件 で あ る。
1932年 に,『 日本 資 本 主 義 発 達 史 講 座 』 が 発 刊 され 初 め た 。 こ れ は,野 呂 栄 太 郎 が 当 時 日本 の民 主 主 義 的研 究 者 を総 結 集 して,日 本 社 会 を 多 面 的 に分 析 し た も の で あ る。同4月,「 日本 に お け る情 勢 と 日本 共 産 党 の任 務 に か ん す る テ ー ゼ 」 つ ま り32年 テ ー ゼ が,コ ミ ン テ ル ン西 欧 ビ ュ ー ロー の名 で発 表 さ れ た 。8 月 に,河 上 肇 が 「32年テ ー ゼ 」 を 翻 訳 した30)。10月,日 本 共 産 党 全 国 代 表 者 会 議 が 熱 海 で 開 か れ る こ とに な っ た際,警 官 の襲 撃 を受 け た。 全 国 三 府 九 県 に わ た る1504名 の 共 産 党 員 の大 検 挙 が な され,142名 が 起 訴 され た。
9「 党 生 活 者 」
1932年8月25日,「 党 生 活 者 」 が 完 成 した 。 そ の 前 篇 だ け が 書 き上 げ られ, 多 喜 二 の 死 の 直 後,「 転 換 時 代 」 とい う タイ トル で,『 中央 公 論 』 昭 和8年4・
30)河 上 『自 叙 伝 』2,173ペ ー ジ 。
22 商 学 討 究 第52巻 第2・3号
5月 号 に発 表 さ れ た 。 こ の作 品 は,作 者 の 死 に よ って 前 篇 だ け しか 書 か れ て い な い,未 完 成 の作 品 で あ る。 これ は共 産 党 を初 め て テ ー マ に した 小 説 だ っ た 。 多 くの 人 は,共 産 党 と は ど うい う もの だ ろ う か と,関 心 を持 っ て い た。 多 喜 二 は そ れ を書 い た の だ っ た 。 多 喜 二 は,非 合 法 の党 員 は ど ん な 生 活 を して い るか に,大 衆 が 興 味 を も っ た の を 知 っ て い た(日 高)。 『党 生 活 者 』 の 隠 れ家 は,「 パ リの 空 の 下 」 と 同 じ風 景 だ,と(日 高)。 多 喜 二 は先 端 的 だ っ た。 『党 生 活 者 』 は,「 中 央 公 論 」 の 宣伝 文 句 だ っ た,と 日高 は言 う31)。 しか し初 め 出 た 時 の 標 題 は 「転 換 時 代 」 だ っ た か ら,そ う簡 単 に は言 え な い 。
井 上 ひ さ し は言 う。多 喜 二 は,プ ロ レ タ リア作 家 の 中 で 文 章 が ち ょっ と違 う。
『党 生 活 者 』 は 『暗 夜 行 路 』 の文 章 と似 て い る,と32)。 『党 生 活 者 』 に は,ゴ ー リキ ー の,と くに 『母 』 の 影 響 が あ る と,阿 部 は言 う。
渡 辺 順 三 は 言 う。
多 分 昭 和8年 の1月 ご ろ,渡 辺 順 三 は,世 田 谷 の豪 徳 寺 裏 に住 ん で い て,徳 永 直 の 経 堂 の家 まで 十 分 か 十 五 分 の 距 離 で あ っ た 。 だ か ら毎 日の よ う に往 来 し て い たが,あ る 日徳 永 君 が や っ て きて,か な り分量 の あ る ゲ ラ刷 りを 出 して,「 実 1ま中 央 公 論 の あ る編 集 者 が きて,小 林 多 喜 二 か ら原 稿 が 送 られ て きて,さ っ そ く組 版 に ま わ して こ の 通 りゲ ラ刷 りが で きた の で す が,い ま発 表 す るの は適 当 で な い の で は な い か とい う社 内 の 意 見 で,当 分 保 留 して お こ う とい う こ と に な っ た の で す 。 そ れ で こ の ゲ ラ刷 り を小 林 氏 と親 しか っ た 人 々 だ け お 見 せ しよ う と思 っ て,こ こに 持 っ て き ま した。 先 生 が ご らん に な っ た ら,ほ か の 適 当 な 方 に も廻 して 頂 い て 結 構 で す,と い う こ と な ん だ 。 そ れ で僕 は昨 夜 ひ と晩 か か っ て読 ん だ ん だ が,と に か く素 晴 ら しい も ん だ 。 そ れ で君 に も読 ませ た い と思 っ て持 っ て きた ん だ 。 君 が 読 ん だ らい ち お う僕 の 方 へ 返 して くれ 。 僕 か ら誰 か ほ か の 人 に も見 せ るか ら」
31)日 高 昭 二 講 演,小 樽,1994年10月 。
32)井 上 ひ さ し講 演,1997年2月14日,商 大 お よ び 市 民 大 学 。