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小林 多喜 二伝→ 、林多喜二 と小樽 庁商の時代,後半

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(1)

7 5

小林 多喜 二伝→ 、 林多喜二 と小樽

庁商の時代,後半

倉 田

目 次

はじめに

1 5 高 田紅果 ( 紅花) と並木凡平 1 6 文学

1 7 学業

1 8 多喜二 の家 は貧 しかったのか ? 1 9 庁商時代 の作 品

20 帽子 の白線

21 投稿 「 駄菓子屋」が没 になったわ け 22 小樽 図書館

23 校長排斥運動 2 4 鈴木信

25 先生 たち

2 6 庁商での同窓生

2 7 庁商 での 「 想 い出」か ら 2 8 『 素描』

2 9 店先 で 3 0 高商受験

3 1 3 人 だけの入学 32 小樽,点描

(2)

は じめ に

小林 多喜二 の庁商入学以前 は, 『 人文研究

』86

韓, そ して

87

韓 の前半 で, 書 き,庁商時代前半 は,同

87

韓 で書 いたが,本稿 で は小林 多喜二 の庁商 時代 後半 を扱 う

これで評伝第 1 部 が終 わ ることにな る( 1 ) 0

小林 多喜二 の小説 や作 品 は,戦前,全 てが出版 されたわ けで はない。 また 出版 された もので も,伏字 が沢 山あった。戦前 これ らを所有 してい るだ けで ち,警察 に捕 まった。 これ らは,戦後 になって発表 され, あるい は復元 され た。 その意味 で,多喜二作 品 は新 しい もので ある

なお私 は,小林 多喜二 を描 くにあた って,彼 と実際 に会 った人々, つ ま り 家族 ・友人 の記述 を最大 限 に重視 してい る。

1 5 高 田紅 黒 く 紅 花 ) と並 木 凡 平

啄木 と友人 にな り,後,多喜二 と多分顔見知 りになる高 田紅果, そ して多 喜二 と関連 を持 つ並木凡平 について,述 べ よう

高 田紅果

(2)

( ペ ンネーム)は,明治 2 4 年 2 月,小樽 に生 まれ た. 1 人 息子 だった。彼 は,お酒落 で気 の弱 い, しか も我 ままな, いわ ゆる坊 や育 ちだっ た。量徳小学校 を卒業 し,私立 の商業学校

(3)

に学 び,講義録 で勉強 して卒業 証書 を とった とい う勉 強家 で あった。彼 は

16

歳 の年 に,保 険代理業奥 田商

(1 )この伝記 は次のような順番で読んで戴 きたい。

1 . 「 小林多喜二 と小樽 」 ( 『 人文研究

』86

輯)

2.

「 小林多喜二伝 」 ( 『 人文研究

』87

輯) 3. 本号

4.

「 小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

」 (

『 商学討究

』44

4

号) (2 )以下,越崎宗一 「 紅巣 と啄木歌碑」による。

(3

)明治

28

年か ら

30

年 まで,同名の学校が他の場所 にあった。 また小樽商業 は,

明治 34 年に私立小樽商業学校 ( 乙種) として創立 ( 設立改組 ?) された。花園

16

番地であった。明治

40

年に緑町に移 った。庁商開校 を機会 に,私立北海商

業学校 と改めた。

(3)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑ 77

会 に入社 した。

彼 はす こぶ る多方面 の趣味人 で,碁,将棋,玉突,謡 曲,小唄,洋画,ス ケー ト,何で もござれだった。少年時代 か ら文学 に熱 中 し,明治 40 年 1 1月, 小樽 日報記者 をしていた石川啄木 を,友人藤 田南洋 と 2 人 で訪問 した。

翌年 1 月,啄木が小樽 日報 を退社 して釧路新聞へ就職が決 ま り, その赴任 の直前 に,や は り南洋 と啄木家 を訪問 した。 この夜 は天才文学青年啄木 の博 識 にハ ツパ をか け られ, 2 人 ともす っか り感激 して帰 って きた。紅果 を詠 ん

だ歌 は, 「 一握 の砂」 にある ( 既述)0

一方, その後,釧路 をやめて 4 月に上京す ることになった啄木 は,小樽 に 残 していた家族 をまとめて引 き揚 げるため,ふたたび小樽 へ もどった。 4 月

1 5 日,南洋 と紅果 は啄木 を訪 ね,色 い ろ文学談 な ど交わ して深更 に戻 った。

紅果 は,大正期 に小樽 で発刊 された文学雑誌 「 海鳥 」 「白夜 」 「 群像 」 ( 4 ) な ど に小説,評論,翻訳 な どを発表 してい る。彼 はフランス語 を天主教教会 のフェ ルゴ ッ ト師 について習 った。

大正 6 , 7 年 ころ,小樽 の進歩 的イ ンテ リ連 が思想 的文化的団体 「 啓 明会」

をつ くり,北大や高商 の教授 な どを招 いて時々講演会 を開いたが,紅栗 はそ の世話係 をつ とめた。当時 「 啓明会」 は,特高か ら要注意 として絶 えず にら まれていた。高田 は,昭和 3 0 年 に亡 くなった。

並木凡平 は,本名 が篠原三郎 ( 1 8 9 ト1 9 4 1 ) で ある

明治 2 4 年 に札幌 の元 村 で生 まれた。明治 31 年 ころ,父 に伴 われて台湾へ渡 り,台北公立学校 か ら 府立 の国語学校 の中学部 を卒業 した。再 び北海道 に もどったのが明治 40 年

といわれ る。静風 また は暴風 と号 して,盛 んに 『 中学文壇』, 『 新文体』, 『 秀 歳文壇』 な どに投稿 した文学青年 だった

彼 には,爆弾製造 の疑 いが掛 か っ た

そ して当局 の尾行 をうけた。大正 7 年,並木凡平 ( 2 代 目) とい うペ ン

(4 )越崎 はついで,「クラルテ」をあげている

つまり多喜二編集の雑誌である。

しかし 『 クラルテ』に高田は書いていない。

(4)

ネームで,初 めて 『 小樽北門 日報』 ( 今 の小樽駅前北交ハ イヤーの処)に口語 歌 を発表 した。 それ以来,新歌壇 のために苦労 し,精進 した。彼 の全盛時代 は, 『 小樽新聞』の社会部長

(5)

だった時 だった。高砂町勝納河畔 に住んでいたこ ろである

彼が全責任 をもって編集 していた同紙夕刊社会面の面 白さは,読者 の評判 だった

.

若手記者 の集 めて来 る素材 も,一度凡平の筆が入 ると, まるで 打 って変わって血 の通 った社会記事 になった という。記事のキャッチフレーズ も独得 な味があ り, それが驚 くほど素早 く, しか も肺腺 を貫 く鋭 さがあった。

夕刊 の口語歌選者 は,凡平 だった。 また 日曜 日付 けの一貫 をさいて 日曜文 芸特集 とし,一般素人 に とって唯一 の作品発展の場 であ り,かつ当時 の一流 作家 の作 品 もかな りここに集 まった。作 は,エ ッセイ, コン ト,請,短歌, 随想 な どで あった。広 い意 味 で,凡平 は北海 道文 学 の育 ての親 で あった。

( 「 並木凡平 の横顔」野村保之)

彼 は酒好 きで,オ ミキノンベ 工 とい う愛称 をもらった。そ して貧乏だった。

借金取 りが くる と,押入れの中に隠れて居留守 を使 う。 ある時,預 り子 チッ 子 ちゃんが,「お父ちゃん押入 の中にいるわ」と,正直 にしゃべ って しまった。

ヒヤ ッ トした凡平 の耳 に入 ったのは 「いい子 じゃね え, さような ら」 と云 っ て帰 ってい く,粋 な借金取 りの足音 だった。

彼 はチッ子 を詠 んだ ものが ある。

十 日ほ ど来 ないチ ッ子 を気 にか けてお もちゃの汽車 を走 らせてみ る

家賃 を‑ カ年以上 ためて立 ち退 き談判 をうけた とき, こう詠 んだ。

月々 に払 う家賃 が貯金 な らこんな貧乏 しないなあ‑ ?

彼 は愛妻家 だった。 だか ら妻 をうたった ものが多い。

(5 )明治 41 年 2 月まで,碧川が社会部長であった。

(5)

小林 多喜二伝‑ 小林 多喜二 と小樽‑

委ねてる枕 の下 のが ま ぐちをそっ と調べて暗い気が した 貧 しさに馴 れて十年嫁入 りの妻 の晴着 は人 の手 にある

7:9

小田観蛍 は,凡平 の ことを 「す こしの虚構 もまじえぬ言動,子 どもの よう な大人」 とい う。凡平 はお人善 Lであった。昭和 1 2 年 1 1月 に 『 小樽新聞』

の経営陣が変わって ,1 8 年勤続 した社会部長凡平 は首 になった。昭和 1 4 年, 彼 は『 室蘭 日報』の編集次長 とな り,昭和 16 年, そ こで亡 くなった。歌集 は,

『 赤土 の丘』( 小樽青空社 昭和 8 年)がある( 越崎)。彼 の有名で,歌碑 になっ た歌 は, これである

廃船 のマス トにけふ も浜が らす 鳴 いて 日暮れ る張碓 の浜 1 6 文 学

多喜二 は,徐々 に絵筆 を捨 てて,文学 の道 に進 むが,水彩画 を伯父 に 「 禁 止」 され る以前か ら,すで に文学 に関わ っていた。

庁商時代 に多喜二が住 んでいた伯父 の家 と片岡の家 とは,徒歩で 7‑ 8分 の ところであったので, 2 人 はきわめて親密 に往復 した。文学少年 としての 交友が続 いた。絵,短歌,小説 を ともに もの した。片岡 は言 う

「しか し,多 喜二 は, その頃か ら,私 な どに比 し遥か に真剣味があった ように思 う

。」(6)

多喜二 はずいぶん本 を読 んでいた。庁商で は嶋田正策 の学校時代 に,徳富 芦花 の 『自然 と人生』 な どを [ 教科書 に]載せていた。多喜二 は芦花 もよ く 読 んでいた。『 みみずのたわ ごと』『 思い出の記』『 黒潮』を,みな読 んでいて, 嶋田はびっ くりした。彼 は後 に言 う。「あれ も彼 の態度 の一 つだな.一人 の作 家 を読 みだ した ら その人 の もの を全部読 んで しまう。

」(7)

同級生石本氏 は, 3 年生 の ころ,つ まり本科 1 年であるが,多喜二 と親 し

(6) 「 少年の日の多喜二

」 (

『 緑丘』通巻 No. 四十二号)1 5 ペー ジ

(7) 『 北方文芸』1 9 6 8 年 3 月

(6)

くなった。氏 は書 いてい る

多喜二 は 「 すで に文学 に親 しみ,‑‑谷崎潤一 那,里見淳,芥川龍之介,夏 目軟石,菊池寛, ツルゲ‑ネフ, ドス トエ フス キー,チ ェーホフ, シェー クス ピア, そのほか数々 を読 んでいて,驚 くばか りで,勉強 の合間 によ くそんなに読 む時間が あるものだ と驚 いた。読 むだけ でな く,読後感,批評, その小説 のポイ ン トな どを話 して くれ る。 自然 と, 多喜二 の友人 は,当時文学青年 といわれ るような連 中,片岡亮一,斎藤次郎( 8 ) , 渡辺善之助 な どであった」。

多喜二 は本科 2 年 の時 に,校友会誌 『 尊商』 の編集委員 に選 ばれ, これ を 中心 に彼 の活躍が始 まる

この年多喜二 は,月一度 の庁商短歌会 に出席 してい る。 この短歌会 は,色 内町の千秋庵 ( 菓子舗)の 2 階で行 われた。彼 は当時,啄木 を愛読 していた。

多喜二 は詩 も作 ってお り, 『 文章世界』, 『 中央文学』で,選外佳作 になった。

嶋田 は, この庁商有志 による短歌会 に出た ことがある

多喜二や片岡亮一 も一緒 であ り, その時詠 んだ歌が縁 になって,嶋田 は多喜二 に連れ られて, 色 内町 の安 田銀行 の近 くの蒔田の家 を尋 ねた事があ る

.

花園町の一六銀行 で 柿本 とい う人 の所や,緑町で,短歌 の会が催 され,多喜二 と 2 人でいつ も夜 出席 した。 その頃の歌 は,多喜二 も嶋田 も石川啄木張 りだった。片岡 は当時 市販 の 『 短歌辞典』 を使 って,繊細 な感 じを出す歌 を詠 んでいた。

多喜二 は,庁商第 2 期入学 の小野寺末吉 の影響 を受 けて文学 に入 った, と も言われ る。だが蒔 田栄一 は語 る,「 小林 多喜二 な どは,渡辺卓 とい う先生 か ら文芸趣味 の影響 を受 けた一人 であ る」 。 この先生 の影響 が大 きい ようであ る。蒔田 はまた書 く。「 小林 多喜二が文学 を志す にいたった ことに関 して は渡 辺卓 とい う国語 の先生 の影響力 を考 えないわ けにはいかない」。

校友会誌 『 尊商』は,大正 6 年 1 2 月 に創刊号が出た。 それ は多喜二が予科 2 年 の時であった。「 発刊 にあた りて」で,渡辺卓教諭が書 いてい る。‑ 実 業 に従事 す る多 くは文芸 に理解が ない。 こうい う人 と対座 す る といか に も殺

(8

)斎藤,百十三銀行に就職。

(7)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑

81

風景で ある

ただ利欲 だ けを求 めてい る。 その心が顔 に も表われて卑 し くみ える

それに反 して,趣味 を持つ人 は肌 ざわ りよ く精神高 尚である

両者 は 天 と地 の差 がある

実業界 に雄飛 しようとい う諸君 よ,前者 にな らない よう 願 う。‑

一 方多喜二 は,「 編輯余感」( 9 ) で書 いてい る。「・ ・ ‑・ い くら商業学校 だ とて余 りと思われ る程本校生徒が こうした芸術 方面 に無関心であると。あ ま りに『 商 人根性』的で\ ある と

‑‑・ 情 けない ことである。悲 しい」。彼 の この考 えは, 渡辺卓 と殆 ど全 く同 じである

これ は渡辺 の影響 であることも考 え られ る

蒔田 は書 く,「この先生 はよ く綴 り方 を書かせ,一度 『 健康 の必要』とい う 題 で書かせた時,‑‑小林 は会話 の形で書 いた。私 は渡辺先生がそれ を とり あげて読 むの を聞いて大 い に感心 し, それで彼 と仲 よ くな り, 『 尊商』の編集 な ども一緒 にや るようになったのである。」

渡辺卓先生 について,手塚 は,漢文 の先生 だ としてい る。 しか し石本氏 に よる と,漢文 は学校 で は少 ししか教わ らなかった。 したが って渡辺先生 は, 国語 の教 師だったので はないか。 また学校で は,江戸時代 の少 し前 の時代 の 中古文 を教わ った。 『 源氏物語』 な どの平安朝文学 は教わ っていない( 1 0 ) 。

商業科 の授業 は,本科すなわち 3 年 目か ら教 えられたので,予科 は普通科 が中心 であった。 この学科 目について は,すで に紹介 したが,多喜二 は主 に 予科時代 に渡辺先生 に教わ った ことにな る。

越崎宗一 は,多喜二 の 2 級上であった。同 じように庁商 ・高商 と進 んだ。

彼 によると,多喜二 は片岡亮一,坪 田豊太

(

l l ) ,西 岡徳蔵

(12)

な どと共 に,文学 グループ を作 り,時々集 まっていた。坪 田に誘 われて,越崎 は何度かその会 に出た ことが ある

その集 ま りで は多喜二 は若 い方だったが, こと文学 に及

(9)

『 尊商』第

4

号の編集後記

( 10) 石本氏 インタビュー

( ll) 坪田豊太,一橋卒業後,三菱鉱業入社。

(12)

西岡徳蔵,緑陵教諭になる。

(8)

ぶや,仲々負 けていず,熱弁 を振 った

(13)

0

彼 はこうも書 いている。越崎 は 「 実業学校 に籍 は置 いていたが,一時 は私 も文学かぶれ をした ものだ。二級下 に小林多喜二が いて,‑・ ‑片岡君,坪 田 君,西 岡君 ら文学 グループの集 ま りで は一緒 になった。彼 は大正六,七年 の 頃,秀才文壇 その他 の文学雑誌 に,短編小説 をよ く投稿 し,掲載 された雑誌

を持 って きて,得意然 と見せび らか していた。

また文学論 で 口論 になって も,小林 少年 は一見識 を有 し仲々負 けて はな か った。後 に有名 になる片鱗 は既 に持 っていた

。」(14)

1 7 学業

蒔田栄一 は庁商で 3 年間,多喜二 と同級生で,親友 であった。彼 は大連商 業か ら転校 して きて,庁商本科 1年 に入 った。彼 は書 く。「 小林 は絵 も描 けば 小説 も詩 も書 くとい うことで, クソ勉強 はしなかった

それで五番 くらいの 成績 を維持 していた。 」

学校 で は試験 になる と,誰 もが徹夜 で勉強 し,試験前の 1 0 分間の休 み も惜 し く, ノー トや教科書 と首 引 きだが,多喜二 はそんな時,教科書 を開 ける こ とは全 くな く,全然勉強 しない。皆が勉強 している間 を, に こに こして教室 を回っていた

友達が 「 オィ,小林, ここを教 えて くれ」 とい うと,ていねいに教 えて く れた。点数 はいつ も満点 に近かった

(15)0

彼 は伯父 のパ ン工場 ( 小樽 で は一番大 きかった)に寄宿

(16)

し,毎 日遅 くま で帳面 の手伝 いをしなが ら, よ く勉強がで きたな と,思われた。伯父の家 で は下級生 の ころは, もしか した ら働 いていたか もしれないが,庁商 で商業 の

( 1 3 ) 越崎 「 多喜二抄 」 ( 『 緑丘』4 2 ,31 ペ ー ジ)

( 1 4 ) 越崎宗一 『 郷土史的 自叙伝』昭和 5 3 年 32‑3 3 ペ ー ジ ( 1 5 ) 石本

( 16) 工場でな く,家である。

(9)

小林 多喜二伝‑ 小林 多喜二 と小樽‑ 83

勉強 をす るようになって,つ まり上級生 になってか らは, 専 ら帳面付 けであっ た。月末 には請求書 か きで夜遅 くまで仕事 をして,学校 に きた。仕事 はしっ か り終 えた。責任感 が強かった。

また短時間で必要 な ことを何 の学科で も覚 え込 む ことがで きた。非常 に素 晴 らしい記憶力 を持 っていた

(1

7 ) 。平均点 6 5 点以上 とらない と進級 で きない 学校 で,彼 は最終学年で は,平均点が 85 点 とい う トップクラスの生徒であっ た。以上 の ような状況 の中で,多喜二 は卒業時 に 5 番であった。

庁商 は,スキーや剣道で全国的 に有名 であった。剣道 は正課 だった。剣道 担任が早稲 田出身 の横溝 とい う厳 しい元気 のよい先生 で,剣道 の時間が朝 7 時‑‑‑冬 な どオーバ ーな云 い方 をすれ ば,暁 の星 をいただいて家 を出ねばな

らなか った

庁商 は伝統的 に剣道が強 く,中学校全国大会で優勝旗 を津軽海 峡 を越 えて持 って きた ことがあった。

大正 1 2 年 2 月 3 日,庁商横 スロープを中心 として第一 回全 日本 スキー選 手権大会が開催 され,スキー小樽 を全国的 に有名 に したが, その夜,不審火

で庁南校舎 は屋体 を残 して全焼 した ( 1 8 ) 0

だが, そ こで全然 スポー ツをや らなか ったのが,多喜二 と蒔 田であった。

多喜二 は絶 えず何か書 いていた。

同期生 は大正 1 0 年 に庁商 を卒業 したが,その年 に高商へ入学 したの はだだ の 3 人 だった。 その理 由は後 で述べ るが,多喜二 と足立登 と金井健 四郎 だっ た。 その うち,糞勉強 をしないで合格 したの は,多喜二 だけだった

(19)

同級 生 の うち十数名 が, 1年遅れて高商 に入学す る ことになる

庁商時代 の多喜二 の親友 は,片岡,一級上 の島田,蒔 田 らである

ついで 絵 のグループ,短歌 のグループ とい う範囲の人々である。

庁商 で,早稲 田大学 を出て歴史 を教 えた,浅 山 とい う教師が いた。 その教

( 1 7 ) 石本

(18)

越崎宗一 『 郷土史的自叙伝』昭和 5 3年

(19)「

多喜二 と私」 (

20

ページ)

(10)

師 は,寄宿舎 の舎監 もや っていた。一度彼 ににらまれた ら大変 とい う,評判 の教師であった。 しか も彼 は授業 中, 「 閣魔帳」を片手 にして,色々 と勉強上 の質問 をす るので ある

だか ら, ある日の後 の方の授業 を受 ける生徒 は,前 の時間 の授業 の様子 を知 りたいわ けである

多喜二 と同学年生 で K. K. ( 1 9 a ) 君 とい う生徒 が いた。 K. K. 君 の組 が その 日の後 の時間 ‑授業 の時 には ,K. K. 君 は必ず,休憩時 に隣組 に出か け,前 の 時間 に浅 山先生が どんな質問 をしたか を偵察 に くる。 そ こでその質問の要点 を話 してや ると ,K. K. 君 は喜 んで出て行 くが,もしそれ を教 えなけれ ば,う るさ く付 きまとう。 そ こで相手 もつい話 して しまう

ところが その反対 に, 他 の組 の生徒が偵察 にい くと, K. K. 君 は,「いや,大 した ことで はない」 と 言 って,絶対 に内容 は教 えて くれ ない。 これが K. K. 君 の常 套手段 で あっ た

(20)0

正義感 の強かった多喜二 は彼 に嫌悪感 を抱 いたに違 いない と,安宅氏 は言

う 。

1 8 多喜二の家 は葺 しか ったのか ?

多喜二 の思想 について はどうだ ろうか。蒔田栄一 は語 った。

「 多喜二 が左傾 したの は,家が貧 し くなって,伯父 のパ ン屋 で働 かねばな ら な くなった ことと関係 している

。」

「 彼 の左傾 は先生や学校 の雰囲気 か らしか らしめた もので はな く,家庭環境 による ものだった ようだ」。

片岡亮一 も言 う。「 学校時代 の多喜二 の生活 は物心共 に決 してめ ぐまれた も ので はなかった。彼 の小説がプロレタ リア文学 に走 ったの も故 な しとしない わ けである

」(21)

この説 は後 で検討す るつ もりで ある

一面で は正 しいが, そればか りとも

( 19a) 実名 は分かっているが, ここでは差 し当 り,出さない。

(20)

安宅氏

( 2 1 ) 『 緑丘』通巻 4 2 号か ら

(11)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑

85

言 えない。 また,すでに読者 は知 ってい るように,蒔 田が言 うように,家が 貧 し くなったか ら伯父 のパ ン屋で働 かね ばな らな くなった, ので もない。庁 商へ通 う代わ りである

庁商 で,彼 の側 に座 っていたクラスの者 の話 による と,その同級生が,「 俺 は共産主義者 で はないが,共産主義 の考 え方 に も好感 の持 て る ところもある」

と言 った ところ, それ以来,無 口な多喜二 が親 し く声 を掛 けて きた, とい う

(22

) 。 この話 を批判 的 に吟味 しよう

多喜二 は,庁商 の時代 に左傾 していたわ けで はない。 もち ろん,共産主義 者 で はない し,共産主義 も深 く知 っていない時代 である。習作 の小説 の中で,

それ らしい発言 はあるが,少年 の人道主義的発言である。家が貧 しい ことも, 左傾す る一つの理 由 とはな るが,全 てで はない。

多喜二が共産主義者 になったの は,ず っ と遅 く,高商 を卒業 して 2 , 3 年 後である。 それ も共産党員 になったわ けで もない。 そ して高商時代 で も進歩 的 な考 えを持 っていただけであって, まだマル クス主義 もよ く分か っていな いのである。 だか ら,庁商時代 にはなお さら, また全 く「 主義者」で はない。

そのため, ここで紹介 した彼 の同級生 の話 は,矛盾 してい るので ある

6

そ の同級生が喋 った ことは事実であ ろう

そ してそれ以来多喜二がそ うして き た ことも事実であ ろう

ところが そ こには,内容 的 には主義 とは全 く関連 が ない。 そ して またあ りえない。つ ま り,共産主義 が分 か らない多喜二が そん な話 を聞いた として も, それが理 由で親 し くな ることはない。恐 ら く他 の理 由で親 し く話 し掛 けて きたのであ ろう

これ は人間 の記憶 の奇妙 な作用 の一例 である

この同級生 は,後 に この思 い出を語 ったのであ ろうが, この当時の多喜二 と,後 に有名 になった多喜二 とを,二重写 しに して しまってい る。後年 の多喜二 を若 い多喜二 に重ね合わ せて しまった。結論的 に言 えば, カン違 いである

この同級生 は, それ を後 年 になって関係 つ けたので ある

勿論 それ を語 った人 には悪意 も意 図 も何 も

(22)

『 緑陵五十年史』

(12)

なか ったで あ ろう

人 間 の記憶 はその ような作 用 をす る もので あ る

巷 間 いわれ てい るように,多喜二 の家 は貧 しか ったのだ ろうか ? 実 はそ れ ほ どで もない。

弟 ・三吾 さん は, 「白い シ ャツを着 た こ とはなか ったです。」 と語 る

近所 の福 原 さんか,水産学校 ( 2 3 )長 の先生宅 か らか,お下 が りを貰 った そ うで あ る

三吾 さん は云 う,子供 時代 に は,「 一度 白い シャツを着 て見 たい と思 って い ま した。」

家 は相 変 わ らず,伯 父 のパ ン工場 の支店 としての形 のパ ン屋 で あった。三 吾 さん は語 る。「 パ ン屋 とい って も,おや じが朝 早 くに出来 たての ア ンパ ンや ミソパ ンを仕入 れて きて, それ を店 に並 べ るだ けで,家 で作 るの は大福 もち とまん じゅうで した。

で も周辺 は漁師,労務者 な ど貧 しい人 が多 く,代 用 パ ンや ア ンパ ンはよ く 売 れ た け ど,食 パ ンを買 う人 は珍 しか った。それで女学校 に行 っていた姉 も, 学校 か ら帰 る と豆撰工場 に働 き, おや じもパ ンや もち を入 れ た折 り箱 をかつ

いで行 商 してい ました

。」(24)

筆者 が三吾氏 に,小林家 は貧 し くなか った はず だ と云 う と,「そ うですかね

(23)

庁立水産学校 は,明治

38

4

月に札幌 に創設 された。明治

40

2

月に小樽若 竹町に移 って庁立小樽水産学校 となった。北海道で は,甲種実業学校 としては, 明治

16

年の函館商船学校,明治

19

年の函館商業学校 についで, 第

3

番 目である。

初代校長和田健三 は,着任半年で樺太民政署へ転出 した。教頭藤村信吉が第 2 代 校長 とな り,約 1 年で道水産試験場 に転 じた。第 3 代校長 に中尾節蔵が来た。明 治

40

年 に藤村がふたたび戻 って第

4

代校長 となった。彼 は約

20

年在職 し,昭和 2 年 までいた。 従 って,多喜二一家がよ くお世話 になった水産学校長 というのは, この藤村先生 にちがいない。

歴代校長 は札幌農大出身で,クラーク以来の伝統 クリスチャンで立派な人格の 教育者であった。藤村 は道庁か ら欧米 に派遣 され新知識 を吸収 して,帰国 し,鮭 鱒鮮化事業 として有名 な千歳貯化場の創立者 として, 北海道水産業の大功労者で

あった。

当初水産学校 は,小学校高等科 を卒業 して入学する 4 年制で,大正 1 3 年 に 5 年制 に改め られた。大正 4 , 5 年のころ,全校生徒が 9 0 名余 と減少 し,廃校問 題が起 きた ことがある。生徒 には地方の漁師の息子が多かった。

(24)

「 語 る人 小林三吾 さん

1 .『 朝 日新聞』小樽版

1977

4

19

(13)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二と小樽‑ 87

え」と否定的で ある

三吾夫人 は, 「 小林家 は貧 し くなか った」と云 う。 しか し本人 の発言 を とりあげるべ きだ ろう

近所 に住 んでいた二木 さん は,小林家 が貧 しい とい う雰囲気 はなか った, そ して母 のセキさん はいつ も小 さっぱ りした着物 を着 ていた,着物 はよごれ た り,すれた りは一切 なか った, と云 う。家 に は小作米が秋 田か ら送 られ て

きた

(2

5 ) 0

もち ろん筆者 は,小林家が裕福 で あった と,主張す るので はない。そ して, また裕福 で はない。 しか し,本 当 に貧 しか った ら,チマ,多喜二, ツギ,辛 の 4 人 を, 中等学校へ はあげ られ ない。 3 人 の姉妹 は高等女学校 に通 ってい るので ある

子供 たちが伯父 の援助 で進学 した とはい え,本 当 に貧 しか った ら,小学校 を卒業 してか ら働 いて もらうだ ろう。

三吾 さんが,貧 しか った とい う意味 の ことを云 うが, それ は当人 の実感 だ ろう

実際 は少 な くとも当時 の普通 の 日本人 と同 じ程度 の生活状態 だったの である。

問題 は,多喜二 自身が小説 の中で,読者 が どうして も多喜二 の家 だ と想定 して しまうような家庭 を,貧 しい もの として描 いてい る ことで あ る。これで, 一種 の伝 説 が で きあが って し まった。 つ ま りフ ィクシ ョンが ノ ン ・フィク

シ ョン となって しまったので ある。

( 25) 多喜二の秋田時代について寸言。多喜二 は秋田で,「 多喜郎のオンジ」 と云わ れていた。多喜郎 は,多喜二のよきお守役をした り,小川へ よく魚釣 りにつれて いった。多喜郎 は小学校の時から成績 もよく,特に習字が上手であったそうだ。

伯父慶義 は秋田で宿屋 を営んでいた。母セキは語った。嫁 にきた「 川口のこと はとても忘れない。夜のうちに野菜 を家に持 ってきて,そろえて,それを朝早 く 大館の朝市に売 りに行ったものだ。 夜が明けきらないうちに行 くので長瀞の とこ

ろが とってもこわかったものだ。」

伯父が渡道後,宿屋だった広い家 を,沢口小学校から転任 してきた安部弥富校 長夫妻 に玄関付 きの前半分 を貸 し, うしろの方に多喜二一家が住んだことがあ

る。安部 は 川 口小学校に 1 5 年勤めた。多喜郎の学校の校長先生であったろう。

名校長で,生徒や村民を子供の如 く愛 した と,云われる。 ( 小林三知雄 「 小林多

喜二のことども」昭和 4 8 年 2月 20日)

(14)

1 9 庁 藩時 代 の作 品

多喜二 の庁商時代 の作品 を幾つか紹介 しよう

詩 「 秋 の夜 の星

「 秋 が来 た」を,庁商校友会雑誌 『 尊商』第 3 号,大正 9 年 3 月, に出 した。 これ らは 「 純真 な少年 の 自然 に対 す る感傷 である。」 ( 2 6 )

彼 は詩 を書 いていた。「 北海道 の冬

」(27)

とい う少 し長 い詩 で は,後年 の小説 を思わせ る情景描写がある

次の詩( 2 8 )は,彼が本科 3 年 の時 に, 『 中央文学 』( 1 9 2 0 6 月)に入選 した

もので,「 雪解 けの滴 の ように愛すべ き詩」 ( 三木露風) と言われた もので あ る

灰色 のカーテンが薄ずれて 甘 い ミル クの光が流れ込 む。

窓際 の葉ずれ, ピアノのかそか な独言。

ぽた り/\ と落 ち る 雪解 けの滴 に,

薄絹 の春が しのび足 に, 窓か ら覗 いた。

その他 2 編 も中央 の雑誌 に発表 された。彼 の残 された詩 は少 ない。 だが, これだけの詩 を享 けるので,発表 された もの以外 の, それ以上 の多 くの習作 が何倍 もあったはずである

だが彼 は詩人 の道 を行か なかった。

短歌 も沢 山詠 んだ はずであるが,十数首 だけ残 されている。友人 たち との

( 2 6 ) 越崎 3 3 ペー ジ

( 2 7 ) 『 小林多喜二全集』( 以下,『 全集』 と略す)第 6 巻 3 6 5 ‑ 7 ペー ジ

( 2 8 ) 『 全集』第 6 巻 3 6 8 ペー ジ

(15)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑

合評会で最高点 を取 った歌 は次である

焼 印の押 した る下駄を穿 きた りし昔 のわれのい とお しきかな

89

これ は啄木流であ る。 あるい は啄木 の真似で ある。多喜二 は少年時代 か ら 啄木 の短歌 を好 んでいた( 2 9 ) 。多喜二 「らしい」作 は次である。

寝 ぬる間 のみ貧苦 を忘 ると就床 にける老い にし父 を涙 ぐみて見 る

(30)

さて散文 について言 えば,庁商 の校友会誌 『 尊商 』1917 年 1 2 月第 1 号 に,

「 今 は昔」 とい う小 品が発表 された。平家 の物語 を文語で書 いた作文であ る。

14 歳 として は非常 に うまい文章で ある。庁商で は平安時代 の文学 を教 わ らな か った とい うか ら, 自分 の読書知識 を利用 して描 いた ものであ ろう。

以上 の分野で彼 は,特 に傾 向的な,つ ま りプロレタ リア的,社会主義的な ものを書 いていない。 ご く普通 の ものである。 これ は当然である。 なにしろ この時代 には,多喜二 は社会主義 の立場 に立 っていない。 だか ら傾 向的な も のを書 くはずが ない し, まだその時期で はないのである

少 な くて もそれ ら を書 くの は,高商卒業以降で ある。短歌 には一首 だけ,前出の 「 多喜二 らし い」 ものが ある

しか しこの くらいの傾 向的な ものは誰 で も書 くであ ろう

初 めての小説 は,「 呪われた人

」(31)

で,『 尊商 』 1 9 1 9 年 3月発行第 2号 に載 っ た。彼が本科 1 年 の時である。 これ は,彼 の文学的出発点がすでに原型 のよ

うにある( 3 2 )と言われてい る作品で ある

この小説 の主人公 は ,1 5 歳 の時か ら火山灰会社 に通 っていた。彼 は肺病 ( 今

( 2 9) 碓田のぼる,全集月報 6 , 3 ページ ( 3 0) 『 全集』第 6 巻 37 8 ページ

( 31 ) 『 全集』第 6 巻 3 8ト4 ページ

( 3 2) 小林茂夫 「 初期作品の概観」 ( 『 小林多喜二読本 』27 ページ)

(16)

でい う肺結核) になった。彼 は,ふ と,親 を恨 む。父が火山灰会社 に自分 を や ったか らだ。 しか しす ぐ, それ を打 ち消す。や は り仕方が ないんだ,家 の 生活 は苦 しいのだ, と

彼 は苦悩す る。 自分が働 かないで は,一家が生活 し て行 けない。 この不治 の病 をなおすために金 を借 りなければな らない。 その 間,働 かないでその金 を使 わ ざるをえない。彼 は自殺 をしようとす る

不治 の病 だ し,金 を借 りるだけ損 である

彼 は海岸へ行 き,断崖 の上 に立 つ。 そ

うい う内容 である

さて この作品 は,多喜二 の生活 をデフォルメ ( 変形) した もので ある。 当 時多喜二 の家 の向い は,海 か ら見 て左 に熊 臼の トンネル を抱 える崖が続 いて いて, その下 に火 山灰層が あ り, それ を精製す る会社が あった。彼 の姉 チマ は火山灰会社 に働 きに行 った ことが ある。家 は貧乏 な生活である

小説 の主 人公 は高等小学校 に上 げて もらっていた。実際の多喜二 は 2 年でな く 5 年 の 商業学校 に上 げて貰 っていた,とい う違 い はある。多喜二が肺病 になった ら,

この主人公 と似 た状況 に陥 るであ ろう。

この小説 の内容 は,生活苦 ・ 貧困 と病気 をテーマに してい る

この間題 は, もち ろん もっ と広 い視野で とりあげるのであるが,後年 の多喜二 のテーマ と な るのだった。それゆえ この小説 は,文学者 としての彼 の行路 に とって暗示 ・ 予言的で あ り, 出発 を指 し示 してい る

この小説 は,私小説で はないが,私小説的である。彼 の実生活 にフィクシ ョ ンを入れ たの もであ り,彼 の家族 の生活が色濃 く出てお り, またそれが基盤 となっている

彼 は,姉 のチマ さんが働 いた火山灰会社 の粉塵 で肺病 が出 る ことを,姉か ら知 った

(33)

。 そして これ を書 いたのだった。

一般 に 日本 の小説 は私小説が少 な くない。多喜二 の文学 を分類す るの は難 しいが,仮 に,私小説的小説 と社会的事件 を扱 った小説 との二 つに分類す る と,有名 な作品,「 一九二八年三月十五 日 」 「 蟹工船 」 「 不在地主 」 「 工場細胞

は皆,後者であ る

私小説的作品の代表 は, 「 独房

「 党生活者」である。 ま

( 3 3) 田中孝氏手紙 より

(17)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑

91

た は 「 転形期 の人々」 をあげることがで きる

そして初期 の短編小説 は,殆 ど私小説で ある

彼 は, 自分 の生活 あるい は 周囲の事件 を取 り上 げて,小説 にす るのであった。彼 はいつ もメモ をもって いて,友人 の話や身辺 の事件 を記録 していた

それ を自然主義的 に措 くので ある

彼 の私小説的でない小説が代表的作 品 となって しまうの も,皮 肉であ る

さて彼 は,小説 「 病院 の窓

」(34)

を 『 専商』1 920 年 3 月 に掲載 した。「 足 を傷 つ けて学校 か ら病院 に運 ばれた私 ( 多喜二 自身で あろう)が松葉杖 をか りて 室 内を歩 けるようにな り」( 3 5 ) ,病院 の窓か ら0町,つ ま り小樽 を眺めて,「 私」

が思 うことを綴 った もので,小説 として はほ とん ど取 り上 げる価値 はない。

しか しこう書 いている ことは注意 して よい。

「この華やかな都 をシ ンボル化 してい る燈 ‑‑その燈 の後 に はそ うした も のに比例 した濃 い陰影がある

そ して富者,征服者 の狂 う歓楽 を眺む る人 に 想像 のつかない生活難 の叫び,社会敗残者 のロ 甲がある‑‑・ とい うことを」。越 崎 は,「 世 の矛盾 を痛感 した彼 は,既 にプロ作家 の萌芽 を見せてい る。」 と見

(36)

。 ただ し, この評価 は大袈裟で ある

庁商時代 の小説 として は,以上 の 2つ以外 に,「 電灯 の下で 」 「 石 と砂 」 「 真 夏 の病院 」 「トランプ

「 駄菓子屋

「 晩春 の新 開地」がある

小説「 駄菓子屋

」(37)

は,本科 3 年の時,小樽 中学生が主 になった同人雑誌 『 群 像』に投稿 し,載 らなか った作 である。 これ を後 に同人誌 『クラルテ』 ( 19 24 午) に載せ た。 この初 めの投稿原稿 が, その後 どの程度手 を加 えられたか,

または変化がなかったのか は,分か らない。

それゆえ,「 駄菓子屋」を除いて考 えてお こう。庁商時代 で一番良い作品 は,

( 3 4 ) 『 全集』第 6 巻 3 8 4‑ 8 ペー ジ ( 3 5) 越崎 ,3 3 ペー ジ

( 3 6) 同 3 3 ペ ー ジ

( 3 7 ) 『 全集』第 1巻 9 0 ‑ 9 9 ペ ー ジ

(18)

「 晩春 の新 開地

」(38)

である。『 尊商 』 1 9 2 1 年 3 月,第 4 号 に掲載 された もので, 庁商卒業真近 の作 である。

0 町,つ まり小樽 での話 とされてい る。 白痴 の次郎 が, 5 , 6 人 の男 の子 にい じめ られ,か らかわれ るス トー リーである。彼 らは次郎 に南部せんべい を見せび らか して, じらした り,母親が居 な くなった と嘘 をつ き脅 か して家 に もどらせた り,次郎 の帯 を裂 いて下駄 の花緒 にした りした。 ここで白痴 の 少年の描写が とて もうまい。 白痴 の少年 に直接 同情する立場 で書 いてい るわ けで はない。 だが結局,彼 の哀れ さを描 いてい る

そのため読者 は彼 に同情 せ ざるをえないであ ろう

多喜二 は,弱 い者 に温かい 目を持 っていた青年で あった ことが分か る

それ に多喜二 は子供 を描 くのが うまい。

彼 は,恐 ら くこの 「 晩春 の新開地」 の発表 による もの と思われ るが,当時 庁商で一番 うまい書 き手 と見 なされた。

「 病院の窓

「 夏 の病院」 は,同 じ舞台である。足 の骨 を折 り,入院 した時 である。 この主人公 も脚 を折 って入院 してい る者である。「 病院 の窓」は, こ の時 の記憶 を情景 にいれて書 いたのであ ろう。( 入院 については,すでに述べ た。)

「 石 と砂」 は,伯 父 の家で の居候 の状態 を描 いてお り,部分 的 に はフィク ションだが,彼 の当時の生活が分 かる。

興味 あるの は,感想 「 霜夜 の感想」 ( 『 尊商』第 4 号 1 9 2 1 年 3 月発行,所 収)である。 この感想 の冒頭で は,宇宙 の神秘 を人々 は解決出来 ないで来 た,

と述べ なが ら,彼 は三つの重要問題 を出 し, それ を考 えてい る。

第一。 「 我等 は何 んの為 に生 れて きた」 とい う問題 さえ確然 としていない

‑‑‑, と彼 は言 う。ここで多喜二 は,自分 の考 えを出す。「 然 し我等 はある使 命 を帯 びて生れて来 た ことは確かで」ある

「そ して私達 はそれ をなすために 第一生存 していなければな らない。 その手段 として働 くのである

。」

恐 ら く,全 ての人 間が人生 に自分 の使命 を兄 いだそ うとしている とは限 ら

( 38) 『 全集』第 6 巻 399‑406 ペ ー ジ

(19)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑ 9 3

ないであろう

しか し多喜二 は,使命 を帯 びて生 まれて きた と考 える陣営 に 居 るのであった。

第二。「 愛 の起源 を考 えて見 ると・ ・ ・ ・ ・ ・ た ヾ一言 『 利 己』と言いたい0‑‑然 し私達 はその 『 利己』 を広 い立場 に於 ける 『 利 己』 に標梓 したい。 その時 に こそキ リス トの愛が得 られ るのであろう。‑・ ‑」 ここで, 「 広 い立場 の利己」

と言 ってい るのに注 目したい。

第三。小説 を書 き,また は絵 を措 く時 の態度 について論 じている。「 模写 を す ることはその人が た ヾ一 つの道具 に過 ぎない とい うことを証明 している。」

「 一個 の人 間が 自己のあ らゆる個性 を打 ちすて 、自己 を没却 し模写す る時 は」

奴隷 にさえ数段劣 る。「‑‑‑自ら腰 を屈 して 自分 を失 うのは何 んた る馬鹿気 た ことだ ろう。」

ここで は,画家 ・小説家が対象 を単 に模写す ることを,痛烈 に非難 してい る。 これ は現代的思想 である。 そ して個性 を出さね ばな らない ことを説 いて いる。 もちろん彼 は,模写 の意義 を知 っていなが ら書 いてい る。「 然 し人 は常 にある模写 の階級 [ 段階 とい う意味 である‑ 筆者]を通過 しな ければな ら ぬ

。」

「・ ・ ・ ・ ‑物 の考 え方,画 をか く方法,文 をか くこと,短歌 で も」すべて「 一 つの形 ( 伝統) によらない もの はないのである

。」(39)

多喜二 の この作品 は, もちろん小説で も文芸 で もない。彼 の若 き日の考 え 方が出ている

哲学的 ・思想的文章 だ と言 える

彼 はこの種 の物 をあ ま り書 いていないので, これ は珍 しい し,我々 に とって は大切 な ものである。 そし て これ は,や は り多喜二 らしい真面 目な, しか し青年 らしい立派 な思想で あ る

2 つ 目の興味 ある もの は,「 編輯余感

」(40)

である。同 じ く 『 尊商』の同 じ号 に載 った。彼 が庁商 の最後 となる号である

この校 内誌 の委員 であった多喜 二 は,編集 を工夫 して きた。そ して最終的 に こう呼びか ける。「ともか く本校

( 3 9 ) 『 全集 』第 6 巻 ,5 4 3 ‑ 5 4 6 ペ ー ジ。

( 4 0 ) 同 ,5 4 7 ‑ 8 ペ ー ジ

(20)

生徒一緒 になって この 『 尊商』 を育 み上 げそ して うるわ しい芸術 の花園 をつ くって見 たい ものだ。」 そ う,多喜二 は芸術家 の卵 なのだ。

小説 の うまい書 き手 として, 小樽 中学 に も多喜二 の存在が知 られた とい う

しか しこれ は, どれほ ど当て になるか は疑 問である。彼 は小説 を 『 尊商』 に 出 した程度であ り, よほ ど文学 と 『 尊商』 に関心 を持 つ小樽 中学生でない と 分 か らないので はないか。ただ し小説以外 での投書家 としての存在 は知 られ

ていた。 また小樽 中学関係 の雑誌 『 群像』に,小説 「 駄菓子屋」を応募 して, これ は掲載 され なか ったが,それが きっか けで話題 になった ことはあ りうる。

さてハ イ ・テ ィー ンで,彼 くらいの水準 の小説 を書 ける者 は,全国 におび ただ し く居 たであろう。彼 は,短歌 ・詩 ・水彩画 に傾注 していた し,文学作 品 は沢山読 んだが,創作 に本腰 を入 れ るの は庁商時代 の終 りであった。 日本 文学史上現れ る天才的少年作家 と比較 すれ ば,彼 はこの時期で は,質 ・量 と

も劣 るのである。 しか し, これ以降 の文学修業が眼 を見張 るものであ り,高 商 を卒業 して拓 銀 に勤 めてか ら,一流文 学者 としての力 を表 す こ とになっ

た。 その数年間 の彼 の進歩 の速 さが驚異的なのである

多喜二 は自分 で 「 生 まれ出ず る子 ら」 とい う自家製 ノー トを作 った。庁商 時代 であ る

その 「 ‑」 に,「 真夏 の病院

( 1 920 年 10 月)

(41)

と 「トランプ」

( 1 921 年 2 月)

(42)

を書 いた。「 真夏の病院」で は,すでに文章が しっか りして い る。だが内容 は,短 いので,大 した ことがない。なお当時評判 になった素 木 (しらき) しず子 の小説が少 し出て来 る

だか ら島田の言 うことも正 しい だ ろう ( 既述)。 これ は多喜二 の病院での経験 を入れている。「トランプ」 も 習作 である

この 「 生 まれ出ず る子 ら」 を,友人 に回覧 して,感想 を貰 って いた。

( 41 ) 同 ,4 08 ‑ 41 3 ペ ー ジ

( 4 2) 同 ,41 4‑ 41 7 ペ ー ジ

(21)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑

95

20 帽 子 の 白線

伊藤整 は, 『 若 い詩人 の肖像』で, こう書 いている

「 多喜二 は高商 に合格 し, それ までの白線三本 の商業学校 の帽子で はな く, 蛇腹 を巻 いた矩形 の徽 章 のついた高商 の帽子 をかぶ る こ とになった

。」(43)

庁 商で は,帽章 として帽子 に 3 本 の白線 をつ けてい る

ただ し小林 の在学 中 は

白線 を用いず,卒業後 に用い られたのであった

(44)

。 とい うわ けで,整 は,多 喜二が白線 3 本帽 を被 っていた ように書 いているが,実際 は違 うので ある

整 のフィクシ ョンで\ あ ろう

庁商 の校訓 は創立時か ら,

「 ‑.四恩 を感謝すべ し

二.至誠勤勉 を旨 とし,各 自の本文 を尽 くすべ し, 三.運動 を励 み身体 を鍛錬すべ し」

とい うものであって,黒沼校長 の発意 と考 えられ,彼 は特 に第一項 を重 ん じた. ちなみに,帽子 の白線 3 本 の うち中央 の太 い白線 は,第一項 の 「 四恩 の感謝

を示す。

この四恩 は,仏教上 の言葉であるが,黒沼校長 は訓示で は,仏教上 の言葉 であるとは言わなかった し,仏教上 どう解釈す るか とい うことは詳 し く話 さ なか った らしい。安宅文夫先生 の調べで は( 4 5 ) ,四恩 は,弘法大師 の講話 の中 にあ り,‑ 父母 の恩,二 国王 の恩,三 衆生 の恩,四 三宝 ( 仏 ・法 ・ 僧)の恩, として弘法 は教 えた。黒沼 も,「 諸恩」の意味 として訓示 した よう

である。

なお,小林 と同期 の庁商生 の会 は,「四葉会」 と名付 けてお り,「四恩」 と

( 4 3 ) 新潮文庫 ,2 3 ペ ー ジ

( 4 4 ) 安宅文夫先生の手紙 ,1 9 8 7.5.9

0

( 4 5 ) 安宅氏 は,多喜二 と同年に庁商に入学 し,彼 とは親 しくはなかったが ,5 年間

同じく通学 したクラス・ メー トである。多喜二に 1 年遅れて高商に入った。後に

庁商の先生をされた。

(22)

はしなか った。幸福 のシンボル,四葉 の クローバー を意味す るものである。

21 投 稿 「駄 菓子 屋

が 没 に な ったわ け

大正 9年,多喜二が庁商本科 3年 ( つ まり 5年生)の時,小樽 で 『 群像』

が創刊 された。創刊 当時の同人 のメ ンバー は,殆 ど庁立小樽 中学 の在学生 と 卒業生で固め られていた。 その同人 の 1 人 は,当時小樽 中学 5 年の武 田過で

あった。

武 田遅 ( すすむ 1 9 0 1 ‑ 1 9 8 1 ) は, 1 9 0 1 年 4 月,札幌 に生 まれ た。 その父 は 山県県出身であった。 そ して小樽 に転居 した。武 田 は,花園尋常小学校へ入 学 した。 ここは,小樽 中,小樽高商へ とつなが る名門校 であった

(46)

。 しか し 本人 は, とにか く中学校 に進 みた くなかったのだった。 そ こで当時稲穂小学 校 に併設 されていた高等小学校 に進 んだ。 しか し, その後 は小樽 中学 に進学

した。

武 田が中学 を卒業す る前年 ( 1 9 2 0 年)の 11月,同校 を中心 とす る文学青年 たちによって,文芸総合雑誌 『 群像』が創刊 され た。武 田 もこの仕事 に当初 か ら積極 的 にかかわ り,小説部門の選考 な どにあたっていた。

『 群像』の創刊号 に先立 って,投稿 がかな りあった。地元紙 に投稿 を募 る広 告 を出 したか らで もあった。 これ は同人組織 ‑群像社で あったが,同人誌 と い う枠 に とどまらず,文芸各部門 にわたって投稿 を広 く募 った。だか らかな

り広 い読者がいた。

投稿 の中に,小林 の応募作 「 駄菓子屋」が あった。小説 の撰 をしていた武 田の第一印象 は,不思議 だ, とい うことだった。大体, 中学派 の雑誌 に商業 学校 の生徒が原稿 を送 るな どとい うの は, 彼 らの常識 で は考 えられなかった。

武 田 は,小林 の性格 の うちには,一貫 して,学校 の ような閥的 な ものに とら われない,悪 く言 えば無頓着 な, よ く言 えば純粋 の ものがあるので はなか ろ

うか, と思 った。 だが武 田 はこれ を没 にした。

(46)『中津 川俊 大全集

』2 7 8 ペ ー ジ

(23)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑

97

武 田 は後 に語 る。 「 小林 が ぼ くらの はじめた『 群像』‑ 小樽 中学 内,群像 社 あて に投稿 して きた。当時 は全然知 らなか ったわ けです し,読 んで見 た ら,

まあ,や は りち ょっ と古 いな あとい う感 じもした し, それ よ りも, グループ として樽 中一本 でい こう,他校 の生徒 の は とらない方針 で した し。 だか ら作 品が まず いか らとい うので はな くて,よい作 品で も保 留 に,とい う考 えが あっ た

。」(47)

武 田 は書 いてい る。「 小樽 中学 の付近 に三 ッ星 とい う屋号 のパ ン屋が あった が, その店 に庁立小樽 商業学校 へ通 っている生徒 が いて,学校 の行 きか え り に, よ く往来 で会 っていた。 その生徒が大 きなカバ ンを肩か らか け,剣道 の 道具 をかついでい る と,か らだがか くれて しまうほ どに小柄 な,皮膚 の白い 美少年で,制服 の襟章 をみ る とた しか に五 年生 だが,せ いぜ い二年 か三年生

くらいに しか見 えなか った

。」(48)

まだ 『 群像』 の第 1 号が出ない ころのあ る日, その同人 の S が往来 で武 田 に, その美少年 の方 をあ ごで指 し示 していった

「あれが 『 駄菓子屋』 を投稿 した小林 多喜二 だ よ」。

「あれが小林 だ ?‑‑‑ウ ソをい え

武 田のその時 の驚 きは大 きか った。 5 年生 には違 いないが, あんな子供 み たいな男 に小説 な どが書 けるはずが ない,ウソだ,信 じられない,と思 った

彼 は,作 品か ら受 けた感銘 と作者 の印象 とのあいだに大 きなギ ャップが あ る の にびっ くりした。

武 田 は家 に帰 り, 「 駄菓子屋」の原稿 を読 みか え してみた。 ちっ ともケ レン とい うものが ない。心憎 いばか りに落 ち着 いた筆 致 で措 いてい る

この境地 は 2 年や 3 年 の短 い小説勉強 で は決 して生 まれて くる もので はない ことを, 彼 はいやで も認 めざるをえなか った。 そ して敗北感 に うちのめ され た。好 き

( 4 7 ) 『 北方文芸 』1 9 6 8 年 3 月 5 2 ペー ジ

( 48) 武 田 「回想 の小林多喜二」 ( 『 小林多喜二研究』解放社, または復刻 日本図書セ

ンター)

(24)

な作品で はなかったけれ ど,小林 の小説 にはかなわない, と思 った。 自分 た ちの雑誌 に小林 の もの をのせ る勇気 や雅量 が持 てなかった。 そ うい うわ け で,「 駄菓子屋」が 『 群像』か ら閉 めだ Lを くらったのは,作品その ものが ま ずいか らではなかった‑‑率直 にいえば,競争心理が はたらいたか らであった。

武 田 は,「 小林 の作品 は古 いね, 自然主義的作品だよ。」 といって,彼 の作 品 を一蹴 した。

その後,小林が武 田の ことを, こういって方々へ まきち らしてい るのを, 武田 は友人か ら間接 に聞いた。「おれの小説 を没書 にす る くらいだか ら, 『 群 像』 の武 田 はよほ どえらいやつにちがいない」。

没書 にされた腹 いせ に,変 な皮 肉 をいってい るな と,武 田 は思 った。 しか し, 3‑ 4年後 に武 田 は多喜二 と交遊す るようになって,多喜二が決 して腹 いせ に変 な皮 肉を言 うような男でない, とい うことが分か るのであった。

さて 『 群像』 は,大月源二や木 田金次郎 らが表紙絵 を描 き,途 中か ら後援 会員 として宇野千代,小林多喜二 な どが名 を連 ねた。 3 年半 の間 に 8 号 まで

出て,終巻 となった。 だが多喜二 はもう 『 群像』 に投稿 していない。

武 田 は, その後 の筆名が中津川俊六で ある。小樽 中学 を出て,北大図書館 へ臨時雇 い として勤 め,まもな く常雇 となった 。2 年後 には島木健作( 4 9 )も雇 員 となった。武 田 は大正 1 3 年 に,北大 図書館 か ら小樽市立 図書館 へ きた。

1 92 4 年 に小樽市立 図書館 は,建物 も完成 し, 3 月には初代館長 として河野常 吉 を迎 えた。 その館長河野常吉 に武田 はスカウ トされたのである

河野 は当 時,北海道史 の権威者であった。文久 2 年生 まれで,長野 出身である。松本 師範 を卒業 し,福 島学校長 になった。 その後,慶応義塾で学 んだ。鉱 山,釈 聞,県庁,中央気象台 な どを歴任 した。明治 27 年 に北海道 に渡 り,道庁嘱託 とな り,大正 4 年 に道史編纂主任 となった。辞職後,小樽市立図書館長 とな り,市史編纂 をす る

その後,室蘭市史編纂 もした。

さて図書館 の中に和室が あって,武田 はそ こに寝泊 ま りしていた。夜 にな

( 4 9 ) 後に小説家。

(25)

小林多喜二伝一 小林多喜二 と小樽‑ 99 ると文学仲間がお しか けて賑 やか に議論 をしていた。つ ま り多喜二 ら 『クラ ルテ』 の連 中である

昭和 8 年,武 田 は小樽で古本屋 を開いた。戦後,北大 図書館事務長 となる( 5 0 ) 0

22 小樽 図書 館

多喜二が庁商時代 に, ー徒歩で通学す る路 の途 中に,小樽 図書館が あった。

これ を多喜二 はよ く利用 した とい う伝説がある。

今 の市立図書館 と同 じ場所 に, 旧図書館があった。現在 の図書館 が立 て ら れ る ときに壊 された。木造 で青緑色 のペ ンキで塗 られていた。 しか しこれ は 大正 1 2 年 11 月の建立であ る。つ まり多喜二が高商三年生 の時である

それ 以前 は,区役所 の中に図書館分室 としてあった。 この図書室 か ら彼 はよ く本

を借 りたので はないか。後 に, ここに武 田が勤 めるようになる

小樽 図書館 の歴史 は,次 のようである。

大正 5 年 8 月 に,区立小樽図書館 として創立 した。おそ ら く分室 としてあっ たのだ ろう

大正 6 年 8 月 に小樽 区役所 ‑ もちろん今 の市役所 旧館 ( 昭和 8 年建築) の建物 で はない ‑ 内に,図書館 として作 られた。

大正 1 1年 8 月 に,小樽 区が市 になったので, 名称 が小樽市立図書館 となる。

大正 1 2 年 11 月 に ( 旧木造 の)図書館 が建立 された。 その後,石造書庫が 完成 した

(51)

全国の図書館 は,大正元年の 5 41 か ら同 1 5 年 の 43 37 へ増 えた。 だが蔵書 数 は 305 万冊 か ら 7 62 万冊 に増 えただけだった。

23 校 長排 斥運 動

庁商 の校長黒沼義介 は,大正 9 年 ( 1 920 年) 2 月 28 日,多喜二が本科 2 年

( 5 0 ) 「 小樽時代の武田さん 」『 北方文芸 』1 6 8

( 51 ) 一部,小樽図書館からの聞 き取 り。 ( 同図書館に感謝 している)

(26)

が終 ろうとす る時,退任 した。 3 月 3 日に校長 の告別式が行われた。その後, 大山校長が 4月か ら8月 まで勤 め,松村昭敏校長が 9月か ら就任 した。随分

めまぐるしい。

この年 に多 くの教員が庁商か ら転出 した。黒沼校長 と一緒 に同 じ秋 田商業 学校 に行 った人 もいれば, その他の学校へ赴任 した人 もいる。なん と, 3 月 に 1 名, 4 月に 2 名, 5 月に 2 名, 7 月 1 名, 8 月に 3 名, 9 月 1 名 とい う 大量転 出あるいは辞任であった。

その間,前述 のように校長が 2 人転 出 している有様 である。松村校長 の着 任後 も教員 の転出が続いた。 そのため,多喜二の卒業式 ( 1 921 年 3 月)に, 第 4期総代秋 田政治 は,「 学校 を去 るに当 り,後輩 のために先生方の安定 と充 実 をお願 い申し上 げる」 と言 ったほどである。

学校長勤務年数表 にはこうある

「 創立以来の学校長 の勤務年数左 の如 し。

自 大正 2 年 4 月 1 日

至 大正 9 年 2 月28 日 6 年 1 1カ月 黒沼義介 ( 岩手県) 自 大正 9 年 4 月21 日

至 大正 9年 8月30日 4 カ月 大 山登 ( 兵庫県) 自 大正 9 年 8 月31 日

至 大正 1 2 年 1 月23 日 2 年 4 カ月 松村明敏 ( 栃木県) 自 大正 1 2 年 1 月23 日

至 大正12 年 2 月27 日 1 カ月 学校長事務取扱 山口末‑ ( 北海道) 自 大正12 年 2 月27 日

至 昭和 2 年 6 月11 日 4 年 3 カ月 大山登

」(52)

この交代 の早 さは随分奇妙である

大正 1 0 年の卒業式の頃か ら学校騒動 ( ス トライキ)が始 まった。転退職 の

(52)

田中孝 『 北海道庁立小樽商業学校史 ‑ 史料 と体験の歴史』札幌・ 青玄社 昭

和 2 3 年 1 2 3 ペ ー ジ

(27)

小林多喜二伝‑ 小林多喜二 と小樽‑ 101

原因 は教員 の対立 だ, とい う情報 もひ ろが った。教員 の転 出が あま りに も頻 繁なので,在校生が刺激 され,卒業生 に も報告 され,波紋が大 き くなった, とも言われ る

生徒 は,新校長大 山が創立以来 の黒沼イズム を打破一掃 しよ うとした ことに,反感 を持 っていた ようだ, とい う見方 もある

お よそ この 3 つが,か らまったようである

授業 も成 り立 たない ことが多かった。校長 と体操教師の排斥運動が始 まっ た。 この体操教師 は,教 え方が一部生徒 に反感 を持 たれたか らである

そし て これ は,夏 まで続 いて,ようや く収 まった。松村校長 は,大正 1 2 年 に退任 してい る

(53)

0

この間題 について,手塚 は,黒沼 を自由主義,松村 を保守主義 とし,新校 長が意見 の違 う者 を更迭 してい るように描 いている( 5 4 ) 。それ は物語 として は 面 白い し,間違 いで はないであ ろうが, あま りに も一面的 ・断定的す ぎる

実際 は,黒沼が勉強 と体育 を両立 させ ようとしたのに,松村 は勉学 を中心 に しようとした, とされ る。 それ も,松村 は授業が成 り立 たないので,勉学 をしっか りさせ ようとした, とい う説 もある。 また,松村校長 の以前 にすで に転 出者が続 出 しているのである

校長排斥運動 は,多喜二が庁商 を卒業す る頃か ら,高商 1 年 の途 中 までの 事件で あった。だか ら彼 は,これ にはあ ま り関わ らなか ったか もしれないが, 大 いに情報 は入 ったであ ろう。 なにしろ,庁商 は高商への通学途上 にあ り,

その下隣で もあるか らで ある

多喜二 は, この学校騒動 を題材 にして,「 断稿 ( その四)」( 5 5 )を書 いてい る。

小説 の素材 の ような形式である

校長が代 わ ることと, 1人 の教師が排斥運 動 を受 け学校 をや める とい う筋 だが,あ ま り要領 を得 ないス トー リーである

.

この稿 は,高商時代 の作品であ ろう。

(53)

[ 田中孝]『 樽商六十年の歩 み』 , 『 緑陵五十年史』

( 54) 手塚,上,5 9 ペ ー ジ

( 55)『 全集』第 6 巻 5 08‑ 51 0 ペ ー ジ

(28)

校長 の黒沼義介 は,庁商 か ら秋 田商業 の初代校長 として転任 したのが,大 正 9年 3月で ある。次の大 山登校長が着任 したの は,同年 4月であ る

大 山 は 「 わが輩 は,北海道第‑ の商業学校 に就任す る」 と豪語 し, しか し,わず か 4 カ月で函館商業学校 に転任 して しまった。 どうして こんな事 を,当時 の 道学務課が承認 したのか,変 な事 だ, と安宅先生 は回想す る

8 月 には松村明敏校長が着任 した。両校長 とも一橋大学 ( 東京高商)の教 員養成所 の出身 らしい。松村 は大正 1 2 年 2 月 に退任 した。そ して再 び大 山が 函館か ら着任 した。 これ もまことに変 な人事 だ と,安宅先生 は書 く。

生徒 として は,校長が次々 に代 わ るし,職員 も転 出が多 く,おちついて勉 学がで きない面 もあ り, さらに教員の中には 「 厳罰 中心」 のや り方で生徒 を 指導す る者 もあ り,黒沼校長時代 とは急 に代 わ った雰 囲気であった。

黒沼 は,樽商 の基礎 を確立 した名校長で あ り,校訓 によ り四恩感謝 を教 え,

「 生徒 はよい と思 った ことは徹底的 に実行 すべ きで ある」が, それが 「あや ま ちである場合 は直 ちにそれ を改むべ きで ある」 と教 えた。 しか も生徒 として 守 るべ き事 は,当然 に徹底 的 に守 らねばな らぬ, と教 えた。講堂や校庭 また 修身科 の教室 での講義 も,生徒 の一人 ひ とりによ く理解 された らしい。 しか も当然 なすべ き事 で も無用 な もの は使用 しない とい う考 え方 なので,生徒 に たいす る制札,例 えば 「 入室 すべか らず

「 入 るべか らず」等 の制札 は全然用 いなか った。 また四恩 にたいす る 「 感謝行」 の重要 さを,修身 その他で強調 した。 当然 なすべ き事 で は,敢 えて形式 を重 んず る事 は,排除 した。 その例 として,職員 の出勤 について,多 くの場合,校長室 の入 口の脇 に 「出勤簿」

を置 き,出勤 の場合 は校長室 に入 って,挨拶 をし,出勤簿 に捺印 をす るのが, 習わ しで あった。 だが黒沼時代 には,出勤簿 の備 え付 けはな く,出勤 は当然

の こととして,朝 の挨拶 は受 けて も,出勤簿への捺印 は行わせず,欠勤 の場 合 はその旨電話 で通知す る必要が ある と,強調 した。従 って きわめて明 る く,

のびのび とした教育 や指導であった らしい。

大 山登 は,名前通 り,豪放 さを自負 した人物 であ り,修身科 を担 当 して も

自慢話が中心であった。 さ らに松村校長 で は,黒沼 の ような厳格 の中に も生

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