第一原理計算に基づく Ag-In-Yb 近似結晶の表面構造の研究
First-principles studies on surface structures of Ag-In-Yb approximant crystal 理工学研究科物理学専攻博士課程前期課程 田中 直樹
1.
はじめに準結晶とは結晶には許されない回転対称性をもち,結晶のような完全な周期的構造はないが高い秩序をもった 準周期的構造を有する物質である.準結晶表面では,その特徴ともいえる準周期的構造が現れることが実験によ り確認されている.また表面を形成することで表面構造が変化する表面再構成を起こし,バルクの構造とは異な る新たな構造となる可能性が考えられる.結晶には見られない特徴をもつ準結晶の表面には,特異的な機能が備 わっているのではないかと期待されている.
2000
年に熱力学的に安定な二元系正二十面体準結晶Cd-Yb
が発見され[1],その後の精密な解析により結晶構
造が明らかとなった[2].準結晶のなかで詳細な構造が明らかとなっているのは Cd-Yb
のみであり,その構造は5
層の殻からなるTsai
型クラスターが準周期的に配列した形となっている.唯一構造が解明されているCd-Yb
準結晶だが表面のCd
が酸化されやすく,超高真空では蒸発しやすいという問題が存在するため,表面の研究に は適さない.そこでCd-Yb
と同形の構造をもち,CdをAg
とIn
で置き換えたAg-In-Yb
準結晶が代わりに表面 研究に用いられている.Sharmaらの研究によると,Ag-In-Yb準結晶の表面では平坦な五回軸面が現れているこ とが走査型トンネル電子顕微鏡(Scanning Tunneling Microscopy:STM)により原子レベルで明らかとなってい る[3].同様に Ag-In-Yb
準結晶と局所構造が等価で周期的構造をもつAg-In-Yb1/1
近似結晶の表面に関してもSTM
による観察が行われているが,準結晶とは異なり原子レベルの構造が観察されていない.得られたSTM
像 には近似結晶を構成するクラスター程の大きさをもつ輝点が周期的に配置された構造が見られる.このことから 近似結晶表面では準結晶とは異なる表面構造を有しており,結晶を構成しているクラスターの殻がそのまま形を 残し,その殻の凹凸がSTM
により観察されていることが示唆される.本研究では第一原理電子構造計算を用いて
Ag-In-Yb1/1
近似結晶の表面構造について探索を行い,実験と比 較することで1/1
近似結晶表面に関する新たな知見を得ることを目的とする.2.
研究方法Ag-In-Yb1/1
近似結晶の表面構造を探索するために第一原理電子構造計算を行った.計算には密度汎関数法にもとづき開発されたプログラムパッケージ
VASP (Vienna Ab initio Simulation Package)
を使用し,交換相関項 には一般化密度勾配近似(GGA)を用いた.Ag-In-Yb1/1
近似結晶は,Cd-YbのCd
をAg
とIn
で置換したことによりケミカルディスオーダーが存在す る.そこで計算に用いるAg-In-Yb1/1
近似結晶の構造には,実験により観察された構造をもとにケミカルディス オーダーを占有確率の高い元素で全て置換し,構造が決定したモデルを採用した.内側から第1
殻:正四面体(In),
第
2
殻:正十二面体(Ag),第 3
殻:正二十面体(Yb),第4
殻:切頂二十面体(In),第5
殻:菱形三十面体(Ag+In)の
5
層の殻からなるTsai
型クラスターが体心立方格子を組んだ構造となる.第1
殻の配置には最も安定な配置 であるLin-Corbett(LC)構造が体心と頂点で逆を向く LC(I)
構造[4]
を使用した.組成比はAg
64In
80Yb
24で1
図
1:
計算に用いたモデルあり,格子定数は第一原理計算により求めた平衡格子定数
15.67˚ A
である.計算に使用したモデルは図1
の通り である.灰色=Ag,マゼンタ=In,水色=Ybをそれぞれ示している.表面構造を決定する手段として
Simulated cleavage
の手法を用いた.Simulated cleavageとは,第一原理電子 構造計算により結晶の劈開面を作製する方法である.計算に使用する結晶のセルを作製したい結晶面に垂直な方 向に引き伸ばし,引き伸ばした状態のまま,セル内に含まれる原子に働く力から原子の安定位置を求める構造緩 和を行うことにより劈開を生じさせる.Ag-In-Yb1/1近似結晶の構造は非常に複雑であるため,同指数の結晶面 であっても考えうる面が無数に存在することから今回はこの手法により近似結晶表面の構造を決定した.得られた表面構造は脱離エネルギーを計算し,表面の安定性について確認を行った.脱離エネルギーとは表面 から原子を
1
つ脱離し,その原子を原子溜りへと運ぶのに必要なエネルギーをここでは指している.脱離エネルギー
E
desorp は以下の式で表される.E
desorp= E
tot(N − 1) − E
tot(N) + µ (1)
ここで
E
tot(N − 1)
は原子を1
つ脱離した構造のエネルギー,Etot(N )
は原子を脱離していない構造のエネル ギー,µは化学ポテンシャル(束縛エネルギー)
である.このエネルギーが正で大きな値を取れば原子は表面から 脱離しにくく,小さな値ならば脱離しやすいことになり,負の値ならば原子は自発的に脱離していくと解釈する ことができる.また,得られた表面構造をもとにSTM
像のシミュレーションを行った.STM像のシミュレー ションにはTersoff-hamann
近似[5]
を用い,シミュレーションと実験の比較を行った.3.
結果3.1 Simulated cleavage
により得られた表面構造(a)第1,2,3殻
(b)第4殻 (c)第5殻
図
2: Simulated cleavage
により作製された(100)
表面構造と殻の様子Simulated cleavage
により(100)面の作製を行った.セルを(100)方向に引き伸ばした後,原子を構造緩和させた.その結 果,理想表面とは異なる凹凸をもった新たな表面を得ることがで きた.得られた構造は第
1,2,3
殻がほぼ原形を残し,その外側 の第4,5
殻が2
つに分かれる形をしており,Yb
からなる第3
殻 が表面に露出し,第4,5
殻の一部とともに表面を形成している ことが確認できる.この結果は実験結果から示唆される表面構造 に当てはまる構造といえる.他のモデルでも計算を行ったが,第3
殻が表面に露出し,第4,5
殻と表面を形作る構造が共通して 見られた.2
3.2
脱離エネルギー図
3:
表面原子層 脱離エネルギーを計算した表面原子層の各サイト(図3)とそ
の結果(表
1)を示す.表面からの深さは Yb1
サイトを基準と している.Ag1サイトでは脱離エネルギーが負の値となってお り,不安定なサイトであることがわかる.計算したサイトの中 では最も脱離しやすいサイトといえる.直接比較はできないが,このサイトは(001)面においても脱離エネルギーの計算結果か ら不安定であることが確認されている.Yb2サイトではエネル ギーの値が他のサイトより高く最も安定なサイトであるとわか る.Yb1サイトも
Yb2
サイト程値は大きくないが,原子が脱離 した後に表面が大きく変形していることからエネルギーが小さ く算出されている可能性が考えられ,表面ではYb
のサイトは 安定であると思われる.他のサイトでは負の値を取るサイトな どはなく,比較的安定であると考えられる.表
1:
各サイトの脱離エネルギー脱離エネルギー[eV] 表面からの深さ[˚A]
Ag1 -0.11 1.55
Ag2 0.64 1.15
Ag3 0.45 1.37
In1 0.54 0.46
In2 0.53 0.97
In3 0.44 1.60
In4 0.11 0.17
In5 0.84 1.76
Yb1 0.61 0.00
Yb2 1.60 0.80
これらの結果から,Simulated cleavageにより得られた表面構 造は安定性をもった表面であると考えられる.Ag1サイトは不 安定なサイトではあるが,他のサイトは比較的安定なサイトで ある.特に表面では
Yb
が他の元素より比較的安定であると推測 される.AgとIn
に関しては元素や表面からの深さによる傾向 はあまり見られず,サイトによる違いが脱離エネルギーに影響 していると見られる.3.3 STM
像シミュレーション(a)Vbias= +0.95[V] (b)Vbias=−0.95[V]
図
4: STM
シミュレーション像 得られた表面構造をもとにSTM
像のシミュレーションを行った(図
4).実際の実験にそくすため真空側に一番近い Yb
原子から
3[˚ A]
真空側の平面内で像を描画している.バイアス電圧は それぞれV
bias= ± 0.95[V]
である.両者を見比べるとコントラ ストに違いはあるが,正負バイアスとも異方性をもった像をし ていることが確認できる.STM像の明るくなっている部分は表 面の凸になった真空側に近いサイトであり,暗くなっている所 は真空側から遠い凹になっているサイトである.このことからSTM
像に表面からの深さが大きく関わっていることがわかる.局所状態密度による解析から,像が異方性をもつ形状となる原 因は長方形に配された
In
原子に依るものであることが明らかと なった.また,STM像に寄与しているのは主にIn
とYb
原子であり,Ag原子はあまり寄与していないといえる.正負バイアスでコントラストに差が生じている理由は,Yb の状態密度が占有状態より非占有状態により多く広がっていることから,正バイアス時により
Yb
の寄与が大き いためと考えられる.3
3.3
実験との比較(a)シミュレーション (b)実験
図
5: STM
像の比較 実験で観察されたSTM
像とシミュレーションで得られた像の比較を行った
(図 5).両者を比較すると,ともに輝点が 1
軸方向に繋がりをもった異方的な像となっていることが確 認できる.輝点の間隔や大きさを比べてみると,シミュレー ション像では格子定数の15.67 [˚ A]
となっている.一方,実 験像の間隔や大きさはおよそ15[˚ A]
であり,輝点の間隔や大 きさは両者ともほぼ等しくなっていることから,シミュレー ションと実験の結果はよく一致しているといえる.4.
結論本研究では
Ag-In-Yb1/1
近似結晶の表面構造について,第一原理計算を使用して調査の探索を行った.表面構 造を探索する手段としてSimulated cleavage
の手法を用いることにより,バルク構造をそのまま切り出してきた 理想表面とは異なる,新たな表面を作製することに成功した.得られた表面構造は実験から示唆されるように,近似結晶を構成するクラスターの殻構造を保持したまま表面へ露出する凹凸をもった構造を有する.クラスター の第
1
殻,第2
殻,第3
殻が原形をほぼ保ち,第4
殻,第5
殻が2
つに分割される構造をとり,第3
殻が分割さ れた第4,5
殻の一部とともに表面を構成している.脱離エネルギーの計算結果から,Agからなる第2
殻の表面 近傍のAg
原子サイトは不安定であることが確認され,表面上からは脱離している可能性が示唆される.実験に より得られたSTM
像では15
Å程の大きさの輝点が周期的に配列し,異方性をもった像が観察されていたが,今 回の計算によって得られた表面構造でもほぼ同じ大きさの輝点,異方性をもつSTM
シミュレーション像を得る ことができた.輝点のサイズ,異方性をもたらす原因は表面原子層内に長方形に配置されたIn
原子に依るもの であることが局所状態密度から確認された.実験とシミュレーションの比較はよい一致を示しており,今回の研究により得られた表面構造は実際の
1/1
近 似結晶表面の構造に近いものであることが期待される.参考文献