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修養の学としての民俗学 : 柳田国男の文化に対する 概念について

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

修養の学としての民俗学 : 柳田国男の文化に対する 概念について

白土, 悟

九州大学教育学部

https://doi.org/10.15017/2232286

出版情報:九州人類学会報. 9/10, pp.11-19, 1982-06-01. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

修 養 の 学 と し て の 民 俗 学

一一柳田国男の文化に対する概念について一一

白 土

はじめに

大正12年関東大震災という国家未曽有の危機に際会したその直後、柳田国男は官界を一切退いて在 野の民俗学者として出発する。 「ひどく破嬢せられている状態をみて、乙んな乙とはしておられないと いう気持になり、早速ζちらから運動をおとして、本筋の学問のために起つという決心をした。 」と言

(1) 

つ。 しかし、経世済民の学を志す柳田は何故それとは迂遠に見える民俗学を選んだのであろうか。

柳田が民俗学を本格的に始めるに至った動機は幾っか窺われる。日本の固有信仰その他文化諸相に関 する欧米人の認識不足、その結果生ずる人種差別・偏見および不当なる対日政策を憂慮し、また震災後 の社会世相の混乱も僚慨に場えないものであった。(2)なかでも明治中期から大正にかけて都市商工業 の発達が誤って量産敗せしめた地方農村の困窮は、柳田の最初に取組んだ農政学研究と逮続する課題であ った。大正 14年「地方文化建設の序説

J

と題する論文では、乙の農村困窮の救済を農政論ではなく文 化論の立場から論じている乙とは注目される。

それによると、西洋直輸入の高度文明を利用して中央集権の強化と富の蓄積を計る都市は、地方農村 i

ζ青年労働力の供給と文化的製造品の「無限の販路

J

を求める。 その結果、地方農村では「都市崇 拝の迷信的思想」が発生し、それを背景として伝統的生活を回顧する暇もなく都会風に生活傑式を 「改善」

しようとして支出を泡加させた小作人 ・小農ついで地方旧家の家産破滅を進行させてしまった。 ζのよ うな現状理解のもとに柳田はこつの救済策を提言する。第ーに都市に対して、 「日本の国情、生活の様 式ζ合致したものを地方の状態を中心として摂取するl

J

(のことを要望し、不必要不経済な事物まで無 規制に西洋文化を輸入して農民の好奇心を煽り、懐を搾るべきではないと訴える。第二l乙農村に対して、

政府の救済を待つ前に自ら窮乏に陥った原因を反省すべきである、 「徒らに都会文化の幻彫を追うを止 め、古き郷土の精神ζi自まめ地方文化を建設して、これを強固にし、都会人の先天性なる消費癖IC打ち 勝ち、進んで、彼等に地方人の精神、文化争認めさせよき文明の輸入を委託するζとである。」と説くs3) すなわち柳田は都市と農村の経済的相克の原因を欧米文化l乙対する臼本文化の非主体性にあると認める。

「臼本の国情・生活の様式」を等閑に附して、本質的に連続のない外来文化を模倣し続ける現状に対し て、日本文化の固有性と新しい変遷過程の認畿を高める必要を痛感していたと推察される。

だが、以上の如き幾つかの動機より一周永続的であると思われるものは、柳田による民俗学の性格付 け・文化や歴史IC対する概念乃至思い入れの如きものである。柳田の使う学問・文化・歴史などの語が 漠然としたイメージで受け取られている閥は、柳田民俗学の素志或はその継承についての論議において 共通の場を見出す乙とは出来ないであろう。それ故に柳田がそれらの語を通して為そうとした事から再 検討したいと思う。

‑11ー

(3)

I l

 

柳田民俗学の実用性

柳田は昭和 10年『郷土生活の研究法

J

において「学問の実用

J

を主張する。 「私たちは学聞が実用 の僕となるζとを恥としていない。そうして自身にも既に人としての疑問があり、またよく世間の要求 期待を感じている。差当りの論議には関陀合わえZくとも、他日必ず一度は国民を悩ますべしと思う問題 ぞ予測して、できるものならそれをほぼ明らかにしておとうと企てている。

J

と言う?)第ーに学聞が実 用の僕であるべきこと、第二に「国民巻悩ますべしと思う問題」の究明が目標とされるとと、を述べて いる。乙のこ点を更に詳しく考えてゆく ζとにする。

A)学問の実用

学問の実用を主猿するのは、民俗学が庶民の日常卑近な問題を取扱うことぞ蔑視する学風への批判で あり、更に進んで東洋の学問伝統であった「問いから始める学問

J

(5)の復興を求めているのである。

「寂々は率直iとわからぬζとをわからぬと調い、又子供のやうな心を以て疑はしい事を問い尋ね、又 答えてもらおうとすればよいのである。そういう一般の要望があれば、学者は皆刻苦精励し、学聞は

 (6) 

大lζ起らずには居ないであろう。jと言っ。即ち民俗学は庶民の日常卑近な疑問を散ずる「

t

仕組解説の史 学jという性格をもつのである。ある疑問を説明するために、その事象・事物の過去の変遷過程を明

らかにする。柳田は農村部における情実候補者の当選問題を例示する。近世に培われたオホヤと普通 の百姓との義理関係が現代の選挙にまで鉱大され紛乱している状態

K

対し過去の義理本来の姿を説明 して各自の反省を迫る啓蒙主義の方法を執るのであるi7)

さらにもうひとつ柳田が学問の実用性に闘して主張するのは国産の学問である。 「審物で見た西洋 の学説や途方の事例など……無用ではあるまいが少なくとも迂遠の業であります。……学問でも伺で も役に立つのは国産であります・・・

J

と言う?)乙の主張は明治以来の舶来かぶれに対する狭量な反発

心から来たのではない。ドイツの社会学者 L.V.シュタイン( 1815 ‑90)の影響によると言う。

「シュタインは『ど乙の国でも過去に歴史があるから、ある国が非常に良くいったからとて、その通 りにはいかない。自分の国の立場と経験とをよく考えてみなければならない』と言った。ほんとうに とれくらい平凡な真理はない。」と;9)すなわち白文化の慣習・制度その他既成のものを変革しあるい は新制度を設ける場合、欧米を模倣するのではなく、自国の過去の経験を参考して「兎に角lζ自分で 考えてきめたもので無くては役に立たぬ。」帥と考える。日本自体の研究によって自案を作る努力を し、具体性個別伎をもっ現状に適合するよう批判研究を重ねてゆかねばならない。西洋礼貨の風潮に 抗して、 言わば自主的な釆来建設の緊要性を認識していたのである。

以上の如く、庶民の疑問を数じ、自文化の改革には時宜を得た自案を作るために、柳田の民俗学は 自国の生活文化の歴史を究明し、参考資料として提供しようとする。 ζζとは現状の改箪を避けて既

成秩序に甘んじ文過去を礼賛し復古を唱導するものではない。後節}ζ見る如く、柳自は生活文化が過 去にほぼ完全なる変化を経験したように未来にも変化は避けられないことを認識している。ただその 変化を「発達

J

と言えるものにするにはどうすればよいのかという実践的な課題意識を持っているの である。

(4)

柳田は次のように述べている。 「是から以後とても同じことで、我々の行く手には幾筋もの途が有 りながら、よかれ悪しかれたY其一つしか選沢せられないのである。利害の関係の少ないよその民族 の立場から見れば、斯ういう偶然なる因果律の現われも、興味ある社会学の資料かも知れないが、我 々は当の本人たちである放に、そんな気楽な乙とは言って居られない。果して国民総体の歩みが、望 ましい方向を取るかどうかは期し難いにしても、出来る限りは之を正しく歩ましめるようにしむけな

0 1 )  

ければならない斗と。

では、いかにして国民総体の歩みを正しい軌道に導〈乙とが出来るであろうか。柳聞は説く、 「そ れを出来るだけ後悔が無いように、又余分なまわり路をせずに、行くべき方角へ進むようにする為に は、今まで経て来た如き無意識の変化を少なくし、一歩一歩足元を踏みしめて生きて行く乙とを心儲 ける必要がある。」と伊換言すれば、国民の生活文化が現在に至った歴史的変遷を窓識し、或はその なかより固有なる事象を認識して、判断(批判と反省)を与える乙とによって、その将来の変化を後 悔が無いように統御しようと言うのである。

柳田は民俗学によって、庶民の日常卑近な疑問から出発し、彼等の生活文化の歴史的変遷にその解 説を求めるという手順ぞ繰返しながら、庶民各自の現状に対する判断力を餐成しようとしたのである。

乙乙でいう生活文化とは生活の物質的条件から社会制度および考え方・感じ方など無意識の心意、まで をも含んでいる。

B) 「自然なる

J

所業

さて、以上の如き言わば文化統仰という実践的な課題を提起した背後に柳田の歴史主義があった。

「今日の社会の改造は、 一切の過去に無省察であって色、必ずしも成し遂げられぬとはきまっていな い。現に今日までの歴史の変化にして、人間の意図に出たものは大半がそれであった。……我々のご とく正確なる過去の沿革を知って後、はじめて新しい判断を下すべしというものは一つの主畿である斗 と言う?では、乙の主義を支える摂拠乃至は歴史に対する概念を柳田は持っているはずであるが、そ れは何であったのか。

先述の「国民を悩ますべしとj思う問題」について、続けて次のように述べている。 「だいたい近世 に社会改革と称し、生活改善というものは問題の巣であろう。乙れが声ばかりで伺たる効果もなかっ たという乙とには、方法や当事者の失敗も多かろうが、その背後にはいわゆる時世に適せず、もしく は自然に反したと称せらるるものもあると思う。その『時世』なるものは果して伺であるか。また人 間の所業にして、 自然であり、自然に反するという乙とは伺を意味するのか。単なる抽象的な論理に 堕し去るまいとすれば、翻ってその改められんとする事態の、成立ちと根強さ、引抜いて棄てること

M i  

の困難なるわけを吟味してみる必要が出るのであった。

J

と。

すなわち社会生活は久しき因習の結果として、一部を「引抜いて棄てる乙との困難なる」秩序を生 じている。放にいかに理論上完壁である社会改革・生活改善の企画と言えども、乙の現社会秩序の

「成立ちと綬強怠

J

を無視することはその失敗につながるのである。 ζれを社会秩序の歴史伎と呼ぶ ならば、柳図が人聞の「自然に反するj所業という問題提起をする背後には、その歴史性を無視した

‑13ー

(5)

新企画をもって現社会を処理することを懸念する感覚が働いている。 ζの感覚を単i乙保守性と名付け て看過するζとは出来ない。

同綾な感覚は次の発言iζも窺われる。イプセン箸『野鴨

J

をめぐる岩野泡鳴との議論において、柳 田は「緩や鳥、馬だの牛だのも皆其れ々々生活の権利もあるし価値もある。……朝に道を聞いて夕ζ死しi て可なりではならぬと思う。然うなると社会という大事実を否定しなければならぬ。」と言うのに対 し、泡鳴は「社会はいつで色出来る。」と反論する伊ζの両者の立場を評して、岡谷公二氏は「泡鳴 にとって社会とは、自己にかかわる場所にしか存在せず、しかもそれはつねに束縛という形でしかあ らわれない。それゆえ彼iζ必要なのは、破援であり、力なのだ。……ζれに対し、国男にとってを士会 とは、同百年の生活のくり返しによってきずきあげられてきた、動かしがたい『大事実』だ。彼がと のような重みを感じとる乙とができたのは、自己を通して社会を見るのではなく、社会を通して自己 を見る筏点を身につけてきたからである。

J

と指摘している。怖

約言すれば、柳田は既存の社会生活の秩序を、いかに理論上欠点があろうとも、 「自然

J

あるいは

「大事実

J

として軍復する。それ故に「単なる抽象的の論理

J

ICよってみだりに改革・改善を唱え、

社会生活を不安定ならしめではならないという歴史派的な思想を持っていたのである。

常民の責務

以上の如く、柳田の民俗学は歴史的社会における生活文化の「発達」と「安定」とを志向していると 言えよう。柳田は次のように述べている。 「(文化は)大切な社会の、平和と康寧との基礎となると信

ずる……普から今の日まで、国民は上下を挙って、皆ζの為に勤労し、中には意識して乙の文化に該当 するものを、推進し発展させんが為に、我身を顧みなかった者もあるのである。

J

と伊文化は歴史的社 会の上に現象し、その担い手は国民各自である。その各自が意識するか否かに拘らず国民共同の「上下

を挙って

J

の事業であり、また将来もこれに変りはないζとを指摘している。

「文化の担い手」と言う場合、農民を中心に据えた常民概念即ち民間伝承の保持者を意味するζとが

多い。だが、他方lζ外来文化の模倣K終始する乙となく、いま与えられている自文化の本質を見究めて 成長せしめるζとに努める者あるいは外来文化摂取による文化変容を批判乃至反省する者を意味してい る。乙の後者の意味において、柳田は国民(常民と同義)の文化に対して果すべき資務を二点、上げる。

第ーに現文化の修正改良の責務である。乙の主張は将来の文化変化は避けられないという認議を背景 としている。柳聞は次のように言う。 「時の力も予惣以上ζl強く怖しいものであった。 ……例えば瑞穂 の国の根本と認められた土地の豊沃である。今では早大いに減退して、世間の何れの国よりも多量の肥 料を使って居る。……是から考えると、所講国民性を重んずる人々の常に説く国民の剛健又は人情の敦 厚と云う乙とも、普はそうであったからを理由として、今も安心だとは推論し難い……此の如く我々の 最も尊重して居たものでも、やはり時の力を受けて変らぬわけには行かなくなったのである。 jと伊即 ち文明の恩恵ICのみ心を奪われて、土援の痩せ衰え、国民性の退転する如き好ましからざる方向への可 変性を忘れてはならはいのである。

(6)

柳田は「(文化の変化

K

は)時々は失敗があり、少なくとも一部分の退歩があり、或は若干の見当違 いがある。それをカの限りよくして行くのが、時代時代l乙生きて居る国民の当然の役目j であると説 く。現文化の不都合は我々の日常卑近に疑問ととよって見出される。その疑問を発するζとで文化の変化 ζ無,意識のうちにあるいは無計画のまま流される乙とを肪がねばはらないのである。即ち国民各自は現l

文化iζ対して修正改良の資務を負っている乙とを自覚し、変化iζ対して意識的にならなければならない と主張する。例えば、柳田は国民の言語能力即ち心持ちを忠実lζ表現できる言獲を選択する能力の向上 する乙とを期して方言研究を為す。だが、「言葉は時代Kより又時代人の心街け如伺によって、良くも なれば悪くもとEる……良くなる乙とだけは大丈夫、葱くなる乙とは蔦々有るまいという僚な、そんな気 楽な考えは持って居られない

J

制 と述べている如く、注意深い物言いの実践は重量終的には、国民各自の

心街けにまたねばならないのである。

第二に文化の新旧分子の配合調和の費務がある。新文化は前代の旧い分子を意外にも多く持ち伝えて いる。 「乙の文化諸分子の配合調和というととは、是からますます六っかしい研究を要する問題になる

吾・ (21)

であろう。

J

乙乙』ζ民俗学研究の役割のひとつがある。

文化は古代から現代へと時を経るに随って織成分子が累積し複雑化しているので、予想外の分子間ζl 不調和が生ずると言う。

f

人に新たな技芸事業を授けたことが、偶然に組先の墓を守らぬ者を、多くす ることにはったなど……それ自身は独立して好い事であり、又は少なくとも少数の人々に、非常に便利 な望ましい乙とであっても、 今まであるものを圧迫し又は妨害すれば、其意味でやはり新時代の文化を 葱くする。」と。(22)

要約すれば、柳聞は、白文化の「発達」は国民共同の事業である、即ち現文化の修正改良および新旧 分子の配合調和という責務を負っているという自覚を持たねばならないと主張する。 ζの自覚乙そは国 民が歴史の主体となる第一歩である。もし、乙の自覚がなければ、上記した言築の選訳能力や祖先を供 獲する気持など知らず識らずに変化しあるいは消失して行く現状を反省できないであろう。

史心の養成

以上のようとよ貨務遂行のために、現状を反省する材料として歴史過程の知識を集積せねばならとZい。 乙の知識のアポリアーを克服しなければ、自文化の現在および未来について論議することは不可能であ る。日本はζの知識の集積がはなはだ不足している。しかし、柳田によれば、西洋の自ら知らんとする 試み即ちフォークロアは時を逸し、僅少な残存文化を研究するに止まるのに対して、日本は今だ前代文 化が豊富に残っており民俗学によって自己の知識を集積できる可能性は大きいという。倒

だが、 一般に歴史を学ぶ効用は伶人傑士の事蹟を模範とするため、あるいは治乱興亡の政事を知って 訓誠とするためと考えられている。その結果、政変・一撰暴動・天災の如き大事件および大人物の逸話 に関心が寄せられる。柳田はとのような事件主義・伝記主義が史学の成長を制限していると批判する。

「烈女侍……もし事ある際の覚悟は出来たろうが、幸いにして伺も事がなくて五十年、七十年の静かな 生活を送っている人間としては、手本』ζすべきものがない。農民の中で無事を重んじ、おだやかな考え

‑15ー

(7)

で、村を平和にするとか楽しくしようとした功労者は踊分いるが、それでも、何か事件がないと簿記に (24) 

ならない。

J

と言う。

では、歴史から何を学ぶべきか。柳田は説く、 「天災事変は主主.渦中に陥った人には生死の問題である が、結果から言えば単なるー小部分の破猿であり、行詰まりであり文打開であるのみで、時

t

監を現在に 持来たした動力としては遥かに他の無事なる永い年月、即ち我々が俗に平和と称して居た所の、徐々緩 々たる窮乏刻苦の幾十代の集積の、重要なるに如かぬのである。」と。綿 すなわち我々の組先遥が久し

い平和の時期に築いて居たもの=社会組織・慣習・価値観や無意識の心意等々の生活文化の諸憎が、 言 わば「国史の本体

J

である。倒ζ乙に関心む寄せる「史心jを蜜成せねばならないと主張する。

柳田は「ζの普の事実を知りたいという念慮、もっと自分自分と関係のある事を出来るだけ詳しく知 りたいという向学心を、我々はかりζ史心と呼んで居ります。」と述べる。伺うそして、明治以来、普通l 教育で全国の児童生徒に歴史を教えるようになった一大教育変革の意義を乙の史心の養成lζ鐙くのであ る。従来の史学が政治史であり、上流階級の人々にのみ参考になる事柄を記述したのに対して、庶民に とって参考になる事柄をもっと多量に歴史から学ばねばならないと言う。倒 放に庶民に対して、日常卑

近な疑問を自由に遠慮なく歴史に問う態度即ち史心の萎縮して居る乙と、その結果として歴史教育の内 容が従来通りの事件主義・伝記主義を踏襲しているζと、を批判する。民俗学はとの従来の史学の制限 を越えて歴史に問う方法を確立しようとしたのである。倒

以上の知く、白文化の発達に対する責務の自覚を国民が歴史の主体となる第一歩であるとすれば、そ の資務遂行iζ必要な歴史過程の知識を要求する史心ぞ持っととは第二歩であると言えよう。

従来の文化諸学への批判

次に柳田による従来の文化諸学への批判を見ることにする。柳田は言う、 「哲人先覚の思索方法l乙指 導せられるのみか、曾て自分のものでも無かったよその経験に服従し、ちがった境涯に在る人の結論を そのまま借用して、更に之に拠って自分の『それ故に』を作ろうとしたのが彼らであった。多くの哲人 や先覚の断案は流石に当って居た。我々が長い間かかって自分独立の研究を積み重ねて見ても、結局は やはり同じ処に到達する場合は少なくは無かった。……其御蔭lζ我々は久しい間導かれ、又労せずして

大いなる答発を得たのである。」と。

哲人先覚は各時代の問題に取組λそ乙から独自の思想を明礁に

意識するに至った。神儒仏・心学・報徳教その他多くの教学はその主体的実践的意欲をもって学ぶとき 我々を高潔な人格・確固たる信念i乙向って導いてくれるものであった。

乙の哲人先覚の思想と対比させて、 「常民の思怨なるものにいかなる価値があるのか

J

という疑問は 概して歴史から実践的教訓を学ぼうとする立場に也来する。しかし、柳田が民俗学によって提供しよう とするのは客観的記述的な事実である。放に思想の価儀論からは本来無縁のものなのである。柳田は次 のように述べている。 「現在の如く異なった色々の人生観文所謂史観の競い進ひ時代になると、我々は 学び教えられるに先だって、兎iζ角ζ伺れかの学派ii 乙属しなければならない。大昔も同様に先づ師匠を 取って、それから彼の言を学ぶのでは、盲従の危険は常i乙在る。是が人文を取扱う多くの学問の、今以

(8)

て正確に科学と名づけられ能はざる理由である。」と。。。すなわち明治以来の識字教育の普及が庶民を 書物に近づけた。だが、庶民は競い合う人生観・史観を批判研究して受容しあるいは拒否するわけでは ない。偶然に読んだ書物の内容を鵜呑みにするか、早合点するか、かぶれるか、 「盲従の危険は常にそ

E

J

と言えよう。 哲人先覚の結論を信じて自分の実践に借用する方法も修養である乙とにちがいないが、

解釈の綴りも生ずる危険が当然ある。

要するに、柳田が最も強調する点は、庶民が自分逮の生活文化iζ対して誰れの指導も受けずに批判カ 乃至判断力を身に付けるためには、現在を省みさせてくれる過去の確かな事実が「科学

J

Itよって提供

されねばならないという乙とである。 「判断は傍人のもの、それを少しでも安全に且つ自由にするには、

証拠のある確かな事実を、出来るだけ豊かに供与して置くより他は無い。是に附け添えてもし自分It

言って見たいことがあれば、是だから斯う思うという筋道を明示して、忽ち誤った

f

経理法の発覚するや

。の

うな形にして償けばよい。

J

と述べている如くである。

だが、乙のような事実の提示によって祭して庶民は自己認識を高め、変動期の混乱動揺を最小般に止 め得る道を内省しうるであろうカ込 ζの点で庶民を教化の対象と考える立場に対して.、柳田は庶民の主体的自己 形成の能力を認める立場に立つ。即ち昔話や諺・謎・民謡など口承文芸lと「言語の修得に大きな信・額を 紫げ、言語を透して歴代の国民の活き方を、伝へ遺そうという意思/3めの存在を指鏑し、又若者組・娘 細などの諸第JI度や通過儀礼』ζ村全体の教育計画を見出し積極的意義を認めるのである。従ってまた、庶 民のこの主体的自己形成の能力を十全に発侮8せるために歴史(生活文化の固有性と近世の変遷)の知 識を反省材料として提供しようとする。

四 む す び

柳回民俗学は「実用の僕」であると主張されている。その意味する所は、庶民の主体的自己形成の能

力径十全に発簿させて、より良い生存のための道を選釈できるようにすること、即ちζの庶民の選沢実 践の

F

刊に供するため反省材料を提供しようとするととである。従って、自文化の発達lζ対する費務の自覚

と「史心」の養成とが国民各自に要望されているのである。柳悶民俗学の継承に関して学問的論議を進 める一方で、その「成果」の生かし方についての柳田の素志を考えるζとを忘れてはならないと思う。

谷川健一氏は、 「柳田ζ即効的な処方築を求めるのは無理な話である。柳田国男の学問は、要するにi 漢方薬のようなもので、西洋医薬で治療不可能になったものが、乙れを利用するときに効験あるばあい

が少なくない。 」と評す。@の漢方薬が身体の本来具有する生命維持力を助長する如く、 国民各自が民俗 学の「成果」を漢方薬として主体的自己形成の能力を修養し、自ら思慮分別ぞ働かせることを柳田は望 んでいたのである。

一注−

1 )柳回「故郷七十年」

f

定本柳田国男築』別巻第三、 P.333

2)柳図「青年と学問」

f

定本

J

第25巻、 P.107および「故郷七十年

J

前出、 P.2剖・ P.388を参照 3 )柳田 「地方文化建設の序説」 『定本

J

第29巻、 P.11 f 

‑ 17ー

(9)

4 )柳田「郷土生活の研究」筑摩書房. 1967.  P. 92 

5)柳田「今までの日本語J

r

定本』第31巻 P.312、および「故郷七十年」前出 .PP.87 ‑89も 参照。

6)柳田「現代科学という ζとj

f

定本』第31巻 P.15  7 )柳図「史学と世相解説j

f

定本』第24巻 P. 114 f.  8)柳田「時代と農政」 『定本』 第16巻 P. IO 

9)柳田「日本における内と外の観念J 『現代倫理5J筑摩書房 1958.  P. 18  10)柳田「郷土研究と郷土教育j

f

定本』第24巻 P.88 

11)柳田「氏神と氏子J 『定本J第11巻 P.399 f  12)柳田「文化政策ということJ 『定本j第24巻 P.486 13)柳田「郷土生活の研究

J

前出 p, 90 

14)同上 P.92 

15)イプセン会「野鴨jをめぐる討論は、 『新思潮j 1907. 12月号および18.1月号に掲載。 詳 細は、相馬庸郎「柳田国男一主体形成期の探求」抑島二郎編『柳田国男研究』筑摩書房 J1973. 

P.289参照。

なお、 ζの箇所は、岡谷公二「柳田国男の青春J筑摩書房.1977. P. 206より抜粋。

16)向上 P. 207 

17)柳田「文化と民俗学」 『定本』第24巻 P.478  18)柳田「日本農民史」 『定本』第16巻 p, 167  19)柳田「文化と民俗学」前出. P.478 

20)柳田「醤談日録」 『定本』 第29巻 P.469  21)柳田「文化と民俗学」前出. P. 480  22)向上 P. 480 

23)柳田「郷土研究の将来j

f

定本』第24巻 P. 62 

但し、 之は昭和6年の発言であり、昭和57年現在では残存文化の研究は困難になっている。

24)柳田「国史教育について」

f

心』 7巻8号. 1954.  p, 3  25)柳田「農民史研究の一部」 『定本』第16巻 P.401 

26)柳田「歴史教育についてJ

f

定本J第24巻 p,433において次のように述べている。 「我々の 大多数は、乙の百年間にすらもなほ文盲だった……彼等は毎回の印象を重んずるあまり、大きな出 来事を拾って更に誇張し、又時々は空想を之に加味した。乙の国民が事件を重んじ過ぎ、且つ大き な人物の侍記逸話Iζカを入れて、それを国史の本体なるかの如く誤解して居る原因も此辺に在るか と考えられる。」と。

27)柳田「史学と世相解説J前出. P‑108 

28)柳田「歴史教育の話J

f

定本』第24巻 p,99 

(10)

29)乙の採集記録の方法論に関して乙乙に論ずることはしないが、その問書きという方法の意義につ いて谷

I

11健一氏は「社会科学者たちは民俗学者の無万法論をわらう。だが民衆のおもい磨がかんた んに割れるものだろうか……民衆は当り障りのない乙とをつとめていうものだ……方法論が幼稚で あれば乙そかえって、整序されない民衆の生まの声を聞くことの可能な次元まで降りてゆ乙うとした のである。」と述べ、民衆の生活意識の根底にあるものを探ぐる点で他の社会科学より民俗学は優れ ていると指摘する。 (『常民への照射j冬樹社. 1971.  P.14) 

30)柳田 「郷土研究と郷土教育」 『定本

J

第24巻 P.73  31)向上 P. 73 

32)柳田「罪の文化と恥の文化」 『定本j第30巻 P. 20  33)柳田 「替の国語教育

J

『定本』第19巻 P. 74  34)谷川健一

f

常民への照射

J

冬樹社 1971.  P. 15 

附記

昭和57年2月九州人類学研究会例会にて 「柳田国男における心言葉の視点について」と題して発 表致しました内容につきましては、 「柳田国男における道徳教育の問題

J

(九州教育学会研究紀要第

9巻、1981.PP. 145ー152)を御覧下怠い。

‑19ー

参照

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       まとめ

★ルビシフト3★.. く、夕張市(昭和 25年 10月からは帯広市)では、 22年から 25年までは全国平 より低いものの 26

南山大学アジア・太平洋研究センター報 第 15 ―  ―

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