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1980~1990年代の金融機関における本部制組織の導入と改廃

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(1)

1980∼

1990年代の金融機 関における本部制組織の導入 と改廃

藤 田 安 一・ は じ め に一一本稿の課題 と分析視角――

1,本

稿の課題

2.分

析視角

I

考察対象 としての住友銀行

1.住

友銀行の住友グル ープにおける位置

2.住

友友銀行――金融界の傍流か ら本流へ Ⅱ 住友銀行 における本部制組織の導入一一 その背景 と特徴 Ⅲ 住友銀行 による平和相互銀行の吸収合併 と収益至上主義路線の強化 Ⅳ 住友銀行 における1984年および1988年組織改革 の特徴

V

住友銀行 における本部制組織の改廃 とその意義 Ⅵ 住友銀行 における収益性 と公共性 お わ り に は じ め に ― 一 本稿 の課 題 と分 析 視角一―

1.本

稿の課題 1990年代後半か ら現在 まで

,わ

が国では相つ ぐ大型銀行の合併 によってメガバ ングが誕生 した。 図 1に 見 るよ うに

,1996年

4月 に東京銀行 と三菱銀行 とが合併 し

,東

京三菱銀行 が発足 したの を 契機 に

,2000年

に入 ると大型銀行 どうしの合併が続 いた。2001年4月 には,さ くら銀行 と住友銀行 が合併 し三井住友銀行が誕生 した。さらに

,2002年

1月には三和銀行 と東海銀行が合併 し

UF」

銀 行が

,2002年

4月 には 日本興業銀行 と第一勧業銀行

,富

士銀行の

3行

が合併 して

,み

ずほファイナ ンシャル グル ープが誕生 した。 こうした大型合併 によるメガバ ングの発足が ,今 後 における大手企業の資金調達行動や金融系列 の再編成 に大 きな影響 を与 える可能性 が ,さ まざまに取 りざた されてい る。しか し,こ うした銀行 のあいつ ぐ大型合併が ,わ が国における金融 システムの再生 に資す るもの と決めつ けることは大変 危険である。なぜ な ら,これ らの合併 が

,パ

ブル経済期 に典型的にみ られたよ うな銀行の経営姿勢 の健全化 につ ながるとは言 えないか らで ある。 この懸念 が現実化 したのが

,UFJ銀

行 とみずほ銀行 が起 こしたシステム トラブルで ある。

UF

」銀行は三和銀行 と東海銀行が2002年1月に合併 してで き上 がった銀行である。ここでは開業 とと もに約18万件 にものぼ る口座で公共料金の二重引 き落 としや決済漏れなどの事故が発生 した。他方、 日本興業銀行

,三

和銀行

,東

海銀行の

3行

の合併 によって2002年4月 に誕生 したみずほ銀行で も, 同銀行 が全国に設置 してい る

ATM(現

金 自動預入払出機

)約

7000台の大半で

;合

併前の銀行の Ⅲ I itaYasukazu 経済学 (財政金融論 ,日 本経済論)専攻

(2)

ロエ 鶏鞘い章e諜鵡 “ф8雨 癖淋劇酢贈鞘静脳 ユ∞∞0ヽ■ =離学囃酎罷終 ユ0ユ0お =出触甫静油

評言 ⋮脚

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浄 構

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1華一

ユB0 ユ鶴”   陣営贈奪営辟 占叫的建苛強辟F・・・・・・・・⋮ ユω∞お 申騨熾爺堂掛 中 ュRエ ⋮・・・・・・・・・・・・・・・,,・・・,・・・・,I・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1十︰活講造司辞詢 巨丼4嚇臨爺

(3)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2003) 43

キャッシュカー ドが使 えないなどの障害 が起 きた。 トラブルの原因は,旧銀行の システムをつ なぐ 接続 コンピューターのプログラム修正 ミス とされたが,実は,もっと根の深い問題 を含 んでいた。そ れは

,み

ずほ銀行 が 1999年 8月に統合 を発表 して以来

,3行

の うちどの銀行の既存 システムを残す かで もめていた。これ まで長 く競争 して きた旧第一勧銀 と旧富士銀が互いに譲 らなかったために,シ ステム統合が遅れて しまった結果であった (F朝日新聞』2002年4月 2日)。 時 として合併 は

,責

任者が複数存在 し

,結

果的に無責任体質 となって しまう。一― こうした合併 の もつ危険性が現実 となった典型的な事故で あった。それ と同時に,こ うした事故は

,合

併 して も 依然 として銀行 は

,利

用者の ことや社会全体の金融 システムの安定性 よりも

,銀

行 自らの都合 を最 優先す るとい う体質が何 ら変わっていない ことを示 した。 想 い起 こせば

,銀

行の体質 を強 く印象づ けたのは

,1990年

代初頭

,バ

プル経済の崩壊 を景気 とし て

,い

っせいに明 るみに出た金融・証券不祥事であった。いわゆる

,偽

造預金証書の発行や それ を 担保 とす る不正融資などの不祥事が

,同

時多発的に起 こったのである。まずその発端 は

,1991年

6 月の大手証券会社 による巨額の損失補填の発覚であった。つづいて

,富

士銀行や 日本興業銀行 を舞 台 とす る巨額の不正融資事件。さらに

,住

友銀行 とそれ をメイン・バ ンクとす る商社 との出資法違 反事件 など

,そ

うそ うたる都市銀行が

,こ

の種の事件 に名 を連ねた。 確 かに

,過

去 に も社会に衝撃 を与 えた金融・証券不祥事は存在 した。 しか し,その多 くは職員 に よる個人的な詐欺行為の域 を出 るものではなかった。だが ,今 回の金融・証券不祥事 は違 っていた。 明 らかに

,金

融機関および証券会社 による組織的な不法行為であったところに特徴 がある。それだ けに,こ れ ら不祥事が社会 に与 えた影響 は極 めて深刻であった。現在 において も依然 として

,景

気 回復への重い足枷 となっているだけではない。バ ブル経済期 には

,銀

行による不動産関連会社への 過剰融資が

,資

産 インフレをひ き起 こし地価高騰 を招 くことによって,固定資産税の増税や家賃の 値上 げをもた らし,また庶民のマイホームの夢 を奪 った。他方

,バ

ブル経済の崩壊 では

,資

産 デ フ レによる銀行や各種信用組合 などの破産・信用不安 を招 き,国民経済 と国民生活全体 に与 えた損失 は

,は

か り知れない と言わなければな らない。 外見的には

,厳

格 で規律性 に富み

,精

密機械の ように誤 りを知 らないと思われていた銀行 。その ヴェール がはがれ,ついに内幕が国民の前 に露呈 された感がある。「銀行が聖域 か らひ きず り出 され た」のである。こうして 日増 しに

,銀

行 に対す る社会的な風 当た りが強 まってい る一方 で

,銀

行サ イ ドも事の重大 さに気付 き始め

,現

,倫

理綱領づ くりや行動規範の再検討が行 なわれてい る。 し か し

,通

リー遍 とうの書面の操作で片づ くわけではない。 今後 ,日 本の金融 システムの安定化のために

,銀

行 を含めた金融機 関はどうあるべ きなのか一一 この疑間に応 えることは,ま ぎれ もなく現在

,国

民 に提起 された最重要課題の一つであると言 って もよいで あろう。そのためには,これ らの金融不祥事 をひ き起 こした原因を明 らかに し

,再

び起 こ さない対策 をとっておかなければな らない。こうした観点か ら

,現

在,その原 因の究明が行 われて いることは周知の とお りである。大蔵省の金融行政のあり方から,日 銀の金融政策

,金

融機 関経営 者の経営姿勢や銀行マ ンのモラルに至 るまで

,多

面的な検討 が行われてい る。 本稿の課題 は,こ れ ら金融不祥事 を招いた原因のなかで

,金

融機関の経営組織 に照明 をあて

,不

祥事の原因を解明す ることによって ,今 後の金融機 関における経営組織のあ り方 を検討す ることに ある。

(4)

藤田安一 :1980∼ 1990年代の金融機関における本部制組織の導入と改廃

2.分

析視角 つ ぎに

,以

上の課題 をどのような視角か ら分析す るか明 らかに しておこう。 1970年 代後半か ら80年 代 にかけて,わが国は高度経済成長の終焉 による低成長経済への移行 ,金 融の自由化 。国際化の進展 によ り

,金

融機 関 をめ ぐる環境 が大 きく変化 した。民間金融機 関は,こ の低成長経済への移行 を,大 企業が資金の調達面で銀行への依存度 を低め,「大企業の銀行離れ」を 促す もの ととらえた。そのため

,大

企業 と取引関係の強かった大銀行 を中心 に経営への危機感 を強 めていった。他方

,金

融の自由化は

,民

間金融機 関にとって資金の調達 コス トを上昇 させ預貸利鞘 を縮小 させ,それゆえ収益 を低下 させ ると思われた。したがって

,金

融機関はこの危機 を収益力 を 強化す ることによって乗 り切 ろうとし,効率性 とい う名で,あか らさまな収益至上主義 に傾 いていっ た。例 えば,当時住友銀行の頭取であった小松 康氏 は

,1985年

夏 に開かれた金融財政事情研究会 主催の「 トップ・セ ミナー」で

,次

の ように語 った。 「そこで

,今

後の銀行経営 はいかにあるべ きか。私 が常々考 えているところをお話 したい。まず, 基本的な経営姿勢 として重視すべ きであると思 うのは

,次

2点

である。第1は

,収

益重視 を行 内 のすみずみ まで徹底す ることで ある。加速的な環境変化に直面 して

,何

をす るにも最終 的に頼 れ る のは自らの知恵 と体力だけであると思 う。その知恵 と体力を

,最

も効率的かつ最大限 に導 き出すた めには,ため らうことな く収益拡大 を最優先 の経営 目標 として掲 げることが肝要であろう。……第

2は ,明

確 な経営戦略 を策定 し

,経

営者 と従業員

,本

店 と支店が一体 となって経営

,業

務 に邁進 し うる体制 を整備す ることである。」(1)(傍点は引用者) 金融 自由化 によってわが国の金利 や業態の規制 が緩和 され ,1980年 代金融市場の 自由化 が急速 に 進み,「金融革命」とい う名の もとで,各種の新金融商品群 が,つぎつ ぎと提供 された。それ を前提 に して ,金融機関 も企業 も低金利で大量の資金 を内外 か ら調達 した。特に

,1987-90年

を通 じた2.5

%と

い う超低金利時代 に

,企

業 は転換社債

,ワ

ラン ト債 (新株引受権付社債

)な

どのエクイテ ィ・ ファイナ ンスによって

,過

剰な資金調達 をお こない

,膨

大 な設備投資に乗 り出 したが,これ ら企業 や不動産会社 に対 して銀行 は

,土

地 。株式 などの担保価値の審査 を十分 におこなわないまま

,効

率 性優先の もとに職員 をノルマで しば り

,異

状 な貸 し出 し競争 を展 開 した。その結果

,銀

行 は多 くの 企業 に企業本来の事業経営 によって得 られ る利益 よ りも,土地や株式の投機的運用による利益(キャ ピタル・ゲイン

)の

方 が

,は

るかに大 きい とい う錯覚 を助長 し

,地

価や株価の暴騰 に象徴 され るバ ブル経済 を創 出 したのである。 まさに

,バ

ブル経済期の金融機 関は「経営効率化の旗印の下に内部管理部門の人員 を抑制 し

,機

械化 を急速 に推進 したが,その反面

,審

査の充実 ,リ スク管理の徹底

,職

員の教育・指導面の対応 等は遅れがちであった。このように,適切 な内部管理 を怠 ったままに,金融機関が安易な業容拡大 と 収益の追求に走 り,ノ ルマ主義等の下で職員 を預金 ・融資拡大競争 に駆 り立て

,投

機 的な土地

,株

式等の取引のための融資 を拡大 していった こと等 が今回の金融不祥事の原因等 となった。」(2) そ もそ も

,銀

行の基本的姿勢 としては

,元

本保証

,確

定利付の預金 とい う形で顧客か ら資金 を預 かってい るため,その資金の運用 に際 して細心の注意 を払 って リスクを管理 しなければな らない責 任 がある。しか し

,バ

ブル経済期の銀行 は

,鈴

木淑夫氏の適切 な表現 を借 りれば,「土地

,株

,高

級絵画の購入資金 だ といわれれば

,二

つ返事で融資 に応 じた。土地や株式などが担保 に入れば

,地

,株

価の上昇 がいつ まで も続 くとい う「バ ン ド・ ワゴン』に目が くらみ

,利

払いや元本返済の能 力は間違 いない と考 え

,実

際の資金使途 を十分 に審査 しな くなった。」(3) このよ うに,1980年 代の金融 自由化の もとで銀行 における信用 リスクの管理が甘 くなった原因は

(5)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2003) 45

3点ある。 第1は

,銀

行が収益力の強化 をかけ声 に

;極

端 な貸 し出 し重視の経営姿勢 を強めたことで ある。 金融 自由化以前 には,いわゆる護送船 団方式の もとで

,銀

行 は規制金利 によって一定の利鞘 を確 保で きるように保護 されて きた。その時代 には

,預

金 を多 く集 め資金調達 が有利 になればなるほど 利益 が大 きくなる仕組みであった。 しか し

,金

融 自由化後は,まず資金の運用が先 にあり

,資

金の 調達の方は金利 の 自由化 と金余 り現象のなかで有利 に行 うことが出来 たため

,銀

行 は,貸し手の リ スクを検討す る前 に,と もか く資金の運用 を優先 させ よ うとす る経営姿勢 をとったのである。 第

2は ,銀

行 がこれ までにない多様 な リスクの管理 に追われ

,従

来の与信 リスクや貸 し倒れ リス クなどの

,い

わゆる信用 リスクの管理 がおろそかに したことで ある。 銀行 にとって

,1980年

代 における金融 自由化・国際化の進展 は

,こ

れまでの信用 リスク以外 に, 金利 リスクや為替 リスク

,流

動性 リスク,システム リスクといった多様 な リスクに直面 させ ること になった。それ らの リスク管理のために

,各

金融機 関はこぞって

ALMを

採用 していった。

ALM

(Asset and Liability Management)と は,金利や金融情勢 などの業務環境予測 にもとづ き,運用・調 達全般 について

,資

金量

,利

回 り

,満

期構成 などの最適方針 を決定す る手法で ある。この

ALMの

強化 による多様 な リスク管理 に目をうばわれている間に,伝 統 的な信用 リスクの管理がおろそかに な り

,金

融不祥事 を引 き起 こす結果 となった。 第

3は ,本

稿の課題で もあり

,次

に検討する銀行内部の組織改革 にある。 1980年代の金融 自由化・国際化 を背景 として,各金融機 関は収益向上のための経営効率化 を急 ぎ, それに対応 した組織改革 をつ ぎつ ぎと行 っていった。この時の組織改革 は

,金

融機関によって多少 の変化 はあるものの

,ほ

ぼ次の ような内容 を共通 とす る組織 の再編成であった。 これ まで

,わ

が国の銀行経営組織 は

,預

金 は業務部で

,貸

金 は審査部で

,外

国為替 は外国部 とい うふ うに機能別 に所管 を分割す る組織形態 が主流で あった。いわゆる「機能別組織」であった。こ の機能別組織 には,つぎの ようなメ リッ トとデメ リッ トが指摘 されていた。メ リッ トとしては

,営

業の推進に対 して独立 した立場か らの審査が可能 とな り各部門間でチェック機能が働 きやす くなる ため,安易な貸 出が抑制 され,経営の健全性 を維持す ることが期待で きる点で ある。他方,デメ リッ トとしては,各部門間での意見調整 に思わぬ時間 とエネルギーがかか り,意志決定が遅れがちとな るために機動的な業務遂行 をさまたげ られやす くなる点である。 1980年代 になると,各銀行の首脳部は従来の機能別組織のデメ リッ トを強 く意識す るようにな り, こぞって大胆 な組織改革 を行 っていった。この組織改革の方向は

,第

1に 収益重視の観点か らの有 望分野の強化

,第

2に国際化・グローバ リゼーシ ョンの進展への対応

,第

3に現場志向 。マーケ ッ ト密着への組織化

,の

3点をめ ざす ものであった。そ して

,こ

れ らの諸点 を満たす組織 として

,各

銀行 は従来の「機能別組織」 を変革 し「本部制組織」 を採 り入れていったので ある。 この本部制 とい う組織形態は,同一の顧客 あるいはマーケ ッ トに関す る事柄 を

,全

てひ とつの本 部が一元的に所管す るとい うもので ある。具体的には

,組

織 を大企業,中小企業

,個

人などそれぞ れの顧客マーケ ッ トに分割 し,そ のマーケ ッ トごとにそれぞれ本部がおかれ

,営

業や取引に関す る 企画

,与

信の審査 もその同一本部内で完結 させ よ うとす るもので あった。その結果

,組

織上,これ まで独立 していた審査部門が,競って収益向上 をめ ざす各本部 に組み込 まれて しまい,「貸 し出 しの チェックを行 うお 目付役 がいな くなった」と言 われ るように

,営

業部門に対す る審査機能は決定的 に低下す ることになった。 確 かに,この本部制組織では

,従

来のよ うに審査部が営業部 と独立 した立場で審査す ることがな

(6)

46

藤田安一 :1980∼ 1990年代の金融機関における本部制組織の導入と改廃 くなり

,審

査の効率性 をすすめ迅速な融資決定を可能にした。しか し

,本

部制組織の下では

,審

査 部と営業部の両部門でチェック・アン ド・バ ランスが働 きにくくな り

,時

として営業の推進が優先 するといったことが起 き易 く

,放

漫な貸 し出 しを招 く結果 となる。バ ブル経済期におこった金融不 祥事が

,実

,こ うした金融機関における機能別組織から本部制組織への経営組織の改革を重要な 原因として引き起 こされたことに注 目しなければならない。このような視角から

,本

稿では住友銀 行の経営組織 を事例 として考察する。具体的な分析 に入る前に,なぜ住友銀行を取 り上げるのか。そ の理由を述べておこう。

I

考察対象 としての住友銀行

1.住

友銀行の住友グループにおける位置 現在で も,「組織の三菱」「人の三井」に対 して,「結束の住友」と言われる。この住友グループの 結束力の強 さを示す根拠 としては,グループ内における株式の相互持合い比率 と同系金融機関の融 資比率があげ られ る。いずれの比率 も住友 グループの場合

,年

々変動 はあるものの

,他

のグル ープ に比べて高い比率で推移 して きたことは確かである。それ以外 に結束の住友 を示す特徴的なことは, 住友が戦後の混乱期 に

,他

の旧財閥に さきがけて

,い

ち早 く社長会 (白水会

,1949年

発足

)に

よる 集団指導体制 を確立 し

,連

帯意識の統一 に成功 したことである。それ を可能 とした歴史的要因 とし て

,つ

ぎの

3点

が指摘で きる。 第1に

,住

友財閥は重化学工業 コンツェル ンとして コンビナー ト的連携 が強固で あったので,戦 後経済改革で財閥本社 が解体 されて も相互のつなが りが切れに くい事情 にあった。 この特徴 は,別子銅山の経営権 を徳ナII幕府か ら取得 して以来,芋づ る式 に関連分野 に進出 していっ た住友の事業拡大 と関係 してい る。すなわち

,銅

の採掘 と精錬か らは じめて

,銅

製品の加工 として の電線 (住友電工

)に

進出 し,その関連で鉄鋼 (住友金属工業

)や

石炭 (住友石戊

)を

お こし

,鋼

の精錬過程で出て くる亜硫酸 ガスを利用 して肥料 (住友化学

)に

進 出す るとい うように,つ ぎつ ぎ と関連分野 に進 出 し事業 を拡大 していった。 第2に

,戦

後「財閥解体」の1つの眼 目に商事部門の分割があったが

,住

友の場合

,商

事会社 を もたなかったため ,三 井物産 を擁 した三井や三菱商事 を擁 した三菱 が受 けたような打撃 は住友 には なかった。その ことが,「財 閥解体」によるダメージか らの立 ち直 りを早 め,再統一 しやすい要因 と なった。 住友財閥が,そ もそも商社 をもたなかった理由は

,明

治期の総理事で あった伊庭貞剛 が

,住

友の 進むべ き方向 を飼山 とその関連事業 におき,そ れ以外の事業 をすべて廃止 し,自家製品以外の販売 活動 は しない とい う経営方針 をとり,こ の住友の生産第一主義的経営 を

,鈴

木馬左也 などそれ以降 の経営者が持 ちつづ けたことによる。こうして戦前

,商

社 をもたなかったために

,住

友財閥傘下の 企業 はその製品の販売や原材料の仕入れ を住友本社の事業部が担 当す ると同時に,三 井物産や三菱 商事 などに依存 していた。 戦後,その ことが幸い して,先にのべたように住友が財閥解体 か ら受 けた打撃 は小 さくてすんだ ものの

,戦

後わが国の経済発展 にともな う商社活動の重要性 が認識 され

,商

社の設立へ とむか うの である。最初 は

,住

友土地工務 とい う不動産会社 を日本建設産業 と名 を改め ,こ れ に商事部門 を担 当 させ ることに したが

,1952年

に社名 を改め住友商事 となって現在 に至 っている。

(7)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(211C13) 47

第3に ,住友 では戦時中か ら銀行 にかな りの独 自的機能 を与 えて本社の機能 を分担 させて きたの で,「財閥解体」の もとで も,この銀行 がその まま残 されたため,戦後住友 グループの再編成 をすす めるにあたって

,住

友銀行 がその中核 的機能 を果たす ことが出来 た。 戦後

,住

友銀行 は住友金属

,住

友化学 とともに住友御三家 と言われて きた。その中で も

,住

友銀 行の地位 は高 く

,住

友信託や住友生命 を加 えた資金力の強 さは,他のグル ープと比較 した住友の特 徴 となっている。この点は三井銀行の地位 が低 く,そ の資金力が弱いことが戦後の三井 グル ープ斜 陽化の大 きな原 因 となったの と対称的で ある。すなわち

,三

井の場合

,戦

後企業の資金需要 が増大 して くると

,三

井 グル ープの中核 となる三井銀行の国内支店網が少な く,資金力 も弱 い とい うこと が

,三

井系企業 にとって致命的な打撃 となる。その ことが

,三

井銀行に見切 りをつ けて

,多

くの三 井財閥傘下の企業 が三井グループか ら離れてい く原因に もなった。 三井 とは反対 に住友グループの場合 には

,戦

後直後のいわゆる「財閥解体」に もかかわ らず

,戦

前の財閥が再び住友グル ープと して再編成 され るにあたって,その結束の中核 として住友銀行の果 た した役割は決定的であった。 さらに

,高

度経済成長期 に住友 グル ープの発展 にとって

,住

友銀行が果た した役割 は非常 に大 き かった。これは,住友銀行 を中心 とす る住友の外延的拡張政策 として知 られてい る。その内容 は,つ ぎの とお りである。 高度経済成長 がスター トす る昭和30年代 になると,旧 財閥はそろって ,グ ル ープ内に欠 けている 業種 をそろえて ワンセ ッ トに しようとい う,いわゆる「 ワンセ ッ ト主義」的な投資行動 を強 めていっ た。その意図は ,住友 グループの場合 ,旧 直系企業の数が少なく,比較的規模が小 さかったため,外 延企業 を積極的に育成 しようとす ることにあった。住友グル ープは

,戦

前か ら重工業部門

,特

に素 材供給部門に偏 していたため

,付

加価値 の高い加工部門の強化の必要に追れていたので ある。 1952年 に住友銀行の頭取 に就任 した堀田庄三 は

,効

率経営・堅実経営 をひ っ さげて

,融

資先企業 の選別 をお こないなが ら,グル ープ以外の企業 に対 して も積極的に接近 し融資 していった。具体的 には

,戦

前か ら住友 と関係のあった松下電器

,久

保田鉄工

,伊

藤忠

,武

田薬品などをは じめ

,東

洋 工業

,出

光興産

,ブ

リヂス トンタイヤ

,小

松製作所

,大

昭和製紙,日本 ステ ンレスなどがその代表 的なものである。これ らの企業 が ,こ れ までの住友グループに欠けていたか,も しくは弱体 な部門 であったことは明 らかであ り,自動車や石油 など,高度成長期に必須の業種 をグル ープ周辺 に組み 込んでいった ことがわかる(4)。 以上のような住友銀行 を中心 とす る外延的拡張政策 によって ,住 友グループは戦後 の重化学工業 化の波 に乗 り

,三

井 グル ープを しの ぐ巨大 な企業集団へ と発展 していった。 してみれば,それ を可 能に した住友銀行 は,も はや押 しも押 され もしない住友グル ープの中心的存在で ある。良 くも悪 く も,住友銀行のイメージが

,現

在の住友 グル ープ全体の イメージを決定づけるほどの影響力 を持 ち つづけているのには

,以

上のよ うな歴史的事情 が起 囚 している。

2.住

友銀行―一金融界の傍流 から本流ヘ 1978年 に起 こった住友銀行 と関西相互銀行 との合併問題 は,住友銀行 が社会的にどの ように思わ れていたかを知 る格好の素材で ある。当時の関西相互銀行 は,中小企業金融専門機 関 と して

,社

長 はもちろん,役員 ■ 人の うち6人までが住友銀行出身者で あり,株式 も

60%を

住友銀行 が握 る住友 銀行の完全 な系列子会社であった。しか し,こ の吸収合併が

,関

西相互銀行の従業員や取引先企業 の猛烈 な反対にあって

,住

友銀行 はこの合併 をあきらめ ざるをえなくなって しまったので ある。

(8)

48

藤田安一 :1980∼ 1990年代の金融機 関における本部制組織の導入と改廃 関西相互銀行内では

,従

業員組合 と管理職組合 とが「合併阻止共闘委員会」を結成 し

,合

併反対 に立ちあがぅた。さらに

,銀

行外において も,当 時の関西相互 と取引のあった中小零細商工業者約 1万 1000社の うち,8637社 が「関西相互銀行を守る会」に結集 して住友銀行や大蔵省に合併反対を 申し入れるなど

,住

友銀行 との合併反対運動 を展開 した。その結果

,全

国相互銀行協会や全国銀行 協会までが

,合

併に反対の意向を示 し

,つ

いに住友銀行との合併は撤回されたのである。 こうした前代未間の激 しい合併反対運動が起 こったのには,「住友銀行の横暴 を許すな」のスロー ガンにみ られたような

,根

強い住友銀行への不信感が根本にあった。以前

,1964年

に住友銀行が河 内銀行を吸収合併 した時に,住友銀行はそれまで河内銀行 と取 り引きのあった中小企業 との融資を 断ったり

,か

つての河内銀行の従業員に対 して役員や給与など労働条件を悪化 させたことなどが, 住友銀行への不信感 をつの らせていたのである。 ここに

,1989年

6月 10日号の『週刊ダイヤモン ド』がある。その号には

,特

集 として「つ きあい たい銀行 とつきあいたくない銀行」が掲載 されている。財界 トップ600人 のアンケー ト調査によっ て,都市銀行の評価 を分析 したレポー トである。それによると,メ インバ ンクにした くないナンバー ワン銀行は,だ んとつで住友銀行であり

,3人

に1人 の 186人 に及んでいる。かくも

,住

友銀行が敬 遠 される原因は,「不愉快な経験があり」「営業姿勢が強引す ぎる」「あまりにも合理的すぎて,日先 の利益を追求 しすぎる」という理由があげられている。松下電器取締役相談役の山下俊彦氏からは, 「あの会社なら腐 りかけた橋だって平気で渡って しまうだろう」(5)と言われて しまっている。「住友 銀行とは手を組みたくない」 と正面切って言 う住友アレルギーをもつ人たちも少なくない。 その他に,住 友銀行に対 して,「地上げ屋銀行」とか「ノルマ銀行」となどという言葉が投げかけ られてきた。いずれ も,わが国の1980年代後半に起 きたバブル経済における銀行のあり方に関連す る不名誉な代名詞である。前者は

,土

地転が しで荒稼 ぎをした銀行というイメージを焼 きつけてい るし,後者は,銀行員をノルマで しばりつけて,徹底的に働かせ るというイメージを想起 させ る。「そ の日のノルマが達成できずに支店に戻れない行員がいる」というウソのような話 しも

,住

友銀行な らば

,な

るほどと受けとられて しまう。 以上のように,そ の特徴が他行に比べ際立っているがゆえに

,住

友銀行は「金融界の孤児」と言 われてきた。孤児であるために

,時

として住友銀行は金融界から不当な取 りあつかいを受けた。そ の象徴的なことは,つい最近の1994年に森川敏雄住友銀行頭取が全国銀行協会連合会の会長になる まで

,住

友銀行は一度 もこの全銀協会長のポス トにはすわれなかったのである。 その理由を

,梶

原―明氏は『住友銀行経営会議』において

,つ

ぎのように述べている。 「企業イメージは一朝―夕に消えるものではない。全銀協会長のポス トが住友銀行に回ってこない のは

,住

友銀行が関西に本棚を置いている,と いった理由だけではなかろう。在京の都銀四行 によ る会長持ち回りは

,素

人 目に見ても不自然である。だが,こ のボイコットは

,な

にをやるかわから ないとい う

,根

底に住友銀行への警戒心があることはたしかなのである。」(6)(傍点は引用者) この「なにをやるかわからない」という住友銀行への警戒心は,これまで住友銀行が行 ってきた 革新的な試みに対する他の銀行の嫉妬心まで排除するものではない。事実

,住

友銀行が他行にさき がけて

,新

しい方式 を生み出し実施 した後

,他

の金融機関が,この住友方式 を自らの経営方針に採 用したものは少なくない。 例 えば,行員の能力に応 じて給与や賞与を決める,いわゆるメリットシステムを導入 したのは,住 友銀行が最 も早かった。また

,銀

行が不動産取引を仲介 し

,手

数料相当分 を流動性預金 として置か せる方式を初めに開発 したのも住友銀行であった。この方式によって

,住

友銀行はゴル フ場開発な

(9)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2003) ど不動産関連事業 に無謀 な融資 を続 け

,世

に言 う「イ トマ ン事件」 に関わることになる。 さらに,ユニバ ーサルバ ンクに最 も早 く注 目したのは住友銀行であった。住友銀行 は

,1988年

の 秋 に「銀行 ,証券分離制度の見直の視点」と題す る論文 を発表 した。この論文において,「各種の “垣 根

"撤

,郵

貯制度

,公

的金融機 関の見直 しのすべて を包含す るかたちで

,戦

後初の抜本的改革 を 具体的にすべ き状況 にきている」 と述べた。これは

,銀

行の証券への参入の必要 を説 く

,い

わば証 券業界 に対す る挑戦で あり

,ひ

いてはユニバ ーサルバ ンク実現 をめ ざす一石であった。その後

,都

銀各行 は

,同

様 な趣 旨の論文 を発表す る。住友銀行が銀行・証券の業際問題 に火 をつ け

,垣

根論争 の先導役 となったのである。 そ して,さ らに注 目すべ きは

,本

稿で とりあげる経営組織の分野 において も

,1980年

代 に都銀 各行の主流 となった本部制組織 を,いち早 く取 り入れたの も住友銀行で あった。後に考察の対象 と す る総本部制がそれであ り,早くも住友銀行は 1979年 に導入 した。住友銀行の総本部制 が,収益向 上のために最 も効果的であることが実証 された後

,他

行が追随 してつ ぎつ ぎと採用 したのであると このように見て くると

,金

融界の異端児であった住友銀行 が,いつの まにか金融界の リーダー的 存在 として他行 か ら認知 され

,他

行 は住友銀行 との同質化 をはかろうとして きた様子がわかる。確 かに

,住

友銀行 を毛嫌い し

,異

端視 してい るバ ンカーは今で も多いであるうが

,1980年

代か ら本格 化す る金融 自由化の波 は

,確

実 に住友銀行 をこれ までの金融界の傍流か ら本流へ と,その地位 を押 し上 げて きたのである。住友銀行が

,現

在わが国の金融風土 を構築 したといって も過言ではない。 したがって,住友銀行 を研究の対象 とす ることは,特異 な一つの銀行 をとりあげることではな く, 1980年代 か ら90年 代 にかけての典型的な金融機 関 を考察す ることで あり,この時期の金融機関の活 動内容 とその問題点は

,集

中的に住友銀行 に現れていたので ある。ここに

,住

友銀行 を本稿で とり あげる理由がある。 Ⅱ 住 友銀行 にお ける本部 制組織の導入― ― その背 景 と特徴 組織 とは

,経

営意志の具体的表現で ある。したがって

,組

織 をみれば銀行の経営意志 を読み とる ことがで きる。い くら言葉上手 に経営姿勢 を語 ってい るとして も

,組

織形態 をみれば,その言葉が 本音 を述べてい るかどうかがわかるとい うものである。 そ うであるとすれば

,1980年

代 に入 るまでのわが国の銀行 が,「機能別組織」 をとっていた理由 は,当時の銀行経営者が多かれ少 なかれ

,銀

行の公共性 を自覚 した経営意志 をもっていた ことの証 明である。逆 に

,1980年

代 に入 ると

,わ

が国の銀行 が「機能別組織」を改革 し「本部制組織」を導 入 したことは

,銀

行経営者の公共性の欠如 を示 し

,収

益性の追求 に著 しく傾斜す ることをはばか ら ない経営意志の具体的現れであった とい える。その結果

,引

き起 こされた金融不祥事の数々は

,銀

行経営者のモ ラルの低下の現れであ り,こ のモ ラルの低下の具体的表現が

,本

部制 とい う経営組織 となって結実 したと言 って よい。住友銀行の場合 をみてみ よう。 住友銀行が他行 にさきがけて機能別組織 か ら本部制組織へ と

,組

織改革 を行 った背景 には

,す

で に本稿の「は じめに一本稿の課題 と分析視角―」で述べた金融機 関をとりまく金融環境の変化 とと もに,いまひ とつ住友銀行内部の経営問題 があった。戦後初 めての総合商社の破綻 として世の注 目 を浴びた

,い

わゆる安宅産業の破綻である。 安宅産業 は

,戦

前・戦後 をつ うじて

,鉄

鋼・機械・パル プ 。木材 などの取 り扱いを中心 に発展 し,

(10)

50

藤田安一 :1980∼ 1990年 代の金融機関における本部制組織の導入と改廃 中堅商社 として堅実 な経営 を行 っていた。しか し

,1970年

代 に入 る頃か ら

,安

宅産業 は総合商社ヘ の脱皮 をはか るため業容拡大 を行い ,内 容の良 くない企業への投融資や野放図な土地投資などを急 増 させ

,経

営内容 を著 しく悪化 させてい く。そのような時期 に

,安

宅産業の在米子会社である安宅 アメ リカの,カナダの石油精製会社

NRC(ニ

ューファン ドラン ド・ リファイエ ング・カンパニー) に対す る1000億 円の原油代金 が不良債権化す るとい う問題が起 きた。そのため,一 挙に安宅産業の 経営危機 が表面化 して きた。 安宅産業は

NRC以

外の海外取引で も多額の不良資産 と赤字要因 をかかえ,国 内取引において も 不良債権や土地含み損 が巨額 にのぼ っていることが判明 した。そこで

,安

宅産業のメイン・バ ンク であった住友銀行 は,安宅産業の再建 を断念 し,伊藤忠商事 との合併 を進め る一方で,総額 2000億 円にのぼ る損失 を安宅産業 に融資 していた金融機関 と協議の うえ

,住

友銀行 が 1132億 円を負担 し, その他 は協和銀行 をは じめ とす る14行 が負担す ることになった。住友銀行 は,この1132億 円を1977 年9月期決算で内部留保 を取 り崩 して一挙に償却 した。そのため

,1977年

上期 における住友銀行の 当期利益 は,前期下期の 144億 円か ら81億 円へ と大 きく落 ち込み ,都市銀行 中の収益 ランキ ング も, それ までの1位か ら

8位

へ と転落 したのである。 以上の安宅産業の破綻 によってこうむった莫大な損失 をとりかえし,再び住友銀行が収益ナンバー ワンの銀行の座 に返 り咲 くことこそ,頭 取 になったばか りの磯田一郎 をは じめとす る首脳陣の念願 であった。磯 田は1977年6月 の頭取就任 に際 して,「頭取 としての私の最大の課題 は

,で

きるだけ 早 くこの (安宅問題 による

)負

担 を克服 し,ふたたび栄光の座 をとりもどす」(7)こ とでぁると,そ の決意 を述べた。 こうして

,組

織改革 がスター トす ることになるが ,そ れ までの住友銀行の組織 とはどの ようなも のであったのか。図2にかかげてお こう。み るように

,同

一の顧客や個 々の支店 について も

,預

金 は業務部

,貸

金 は審査部

,外

国為替 は外国部 とい うように

,機

能別 に担当が分割 されていた。そ し て,こ れ らを統括す る機関は

,頭

取 もしくは合議で あるとい う組織 によって成 り立 っていた。住友 銀行以外の他の有力 な銀行 も

,お

およそ以上の組織原理

=機

能別組織形態 をとっていたのである。 しか し,住友銀行の抜本的な組織改革 は,1977年か らの米国マ ッキ ンゼー社 との共 同研究の結果, 新組織の基本的考 え方 と具体的な組織形態が

,つ

ぎのように示 された。 まず,新組織の考 え方 として,(1)マーケ ッ トごとにことなる事情 をとらえた企画 を打ち出せ る顧 客指向型 に組織 を変 えること,(2)各組織単位 ごとに業容 と収益 をあわせた総合業績 を管理す ること, (3)各部門ごとの業績責任 を明確 に し大幅 な権限委譲 を実現す ること,の 3点 が確認 された(3)。 そ し てこの考 え方 にもとづ く組織形態 として

,営

業総本部・業務総本部 。国際総本部の3つの ライン総 本部 と

,企

画総本部・管理第一総本部・管理第二総本部の3つのスタッフ総本部か らなる本部制が 提案 され

,図

3のような新組織 がで きあがったのである。以下

,こ

の組織の特徴 を

,図

3を みなが ら簡単 に説明 してお こう。 企画総本部 は

,全

社 的な立場か ら経営資源の最適配分の方針 を立 て

,予

算の策定 と管理 を通 じて 各総本部間の調整 を行 う。業務総本部は,営業総本部の担当以外の大企業や 中小企業 などを担当す るとともに

,広

範 な個人顧客層 を担当す る。営業総本部は

,主

として世界的な企業活動 を展 開 して いる大企業取引 を担当す る。国際総本部は

,国

際業務全般 を担 当 し

,外

国に進出 した 日系企業のほ か

,非

日系企業 も対象 に し

,地

域別 に所管 している。管理第一・第二総本部 は

,人

事や経理 などの 管理 を行 ない ,各 ライン総本部 とそれ らに所属す る内外の営業店 を管理面か らバ ックア ップするこ とを目的 としている。

(11)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2003) 図

2

住友銀行:こおける

1965年

6月

30日

現在の組織 店 部 業 本 営 店 部 金 本 公 東 京 秘 善 窒 東 京 審査 部 東 大 阪 業 務 本 部 (出所

)住

友銀行行史編纂委員会『続住友銀行』

1960年

1239ペ

ー ジよ り。

(12)

藤田安一 :1980∼ 1990年 代の金融機関における本部制組織の導入と改廃 図

3

住友銀行 にお いて

1979年

7月に発足 した新組織 部 部 都 部 画 画 企 理 券 資 企 融 経 証 企 画 総 本 部 務 査 推 務 業 客 業 本 店 公 務 部 西 日本地区支店 業 務 総 播 部 市 場 開 発 部 業 務 総 本 部 広 束 爪 報 広 報 室 室 東 京 公 務 部 東 日本地区支店 東 京 業 務 本 部 本店昔業第一部 本店営業第二部 本店営業第二部 本店営業第四部 本 店 営 業 本 部 本 店 営 業 部 部 部 画 養 企 審 業 業 営 管 営 業 総 本 部 東京営業第一部 東京営業第二部 東京営業第二部 東京営業第四部 東 京 営 業 本部 東 京 営 業 部 米 州 地 区 支 店 同駐 在員事務所 同 現 地 銀 行 業 州 亜 回 外 米 要 国 際 第 一 本 部 蒙 亜 地 区 支 店 同駐 在貝事務所 国 際 総 本 部 秘 東 爪 書 秘 書 室 室 欧 阿 地 区 支 店 同駐在 貝事務所 国 際 第 二 本 部 ︰ A F F 部 部 部 部 理 務 事 管 査 務 総 人 事 検 部 都 部 部 一 一 一 一 一 一 二 第 第 第 第 杢 査 資 資 調 調 融 融 (出所

)住

友銀行行史編纂委員会『住友銀行史 ―昭和

50年

代のあゆ剃

1985年

182ペ

ージよ り。

(13)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2003) 53

以上,6つの総本部 は,それぞれの総本部内で,営業 や取引に関す る企画,与信の箸査 も完結す る 独立 した部門にな り,こ のそれぞれの部門が独立 した部門 として

,業

績や成果 あるいは企業全体へ の貢献 に責任 を持 た され るとい う組織 に生 まれ変 わった。その結果

,従

来の組織では

,独

立 してい た審査部門が各総本部 に組み込 まれ

,審

査機能が発揮 されに くくなった。このため

,各

総本部間で 収益競争 があお られやす く

,本

部制組織 は住友銀行の収益至上主義 を端的に現す組織 となった。こ の新組織 によって

,以

降の住友銀行の収益至上主義 は一段 と拍車がかかることになったのである。 事実

,組

織改革の効果は

,た

ちまち住友銀行の収益 向上 となって現れた。その結果

,組

織改革 か ら

4年

後の1981年上期 において

,住

友銀行の当期利益 は対前年下期比

42%増

の223億円を計上 し, 再び都市銀行の中で第1位の座 をとりもどした。以降

,平

和相互銀行 を吸収合併す る1986年まで, 住友銀行 は

5年

連続利益 日本一の座 を独 占しつづ けたのである。 Ⅲ 住 友銀行 による平 和相互 銀行 の吸収合 併 と収 益 至上主 義路線の 強化 銀行の歴史は,合併・合 同の歴史 といわれ る。戦後 ,住 友銀行 は1965年 に河 内銀行 を吸収合併 し, 戦後 における発展の基礎 を固めた。その後 ,1978年 に関西相互銀行 との合併 に失敗す るものの ,1986 年 には平和相互銀行の合併 に成功す ることによって

,そ

れ まで礎盤の弱かった関東地方 を強化 し, トップバ ンクに躍 り出 る契機 となった。と同時に

,住

友銀行 にとって平和相互銀行 との合併は,よ リー層の収益力向上 をめ ざし

,行

内の雰囲気 が大 きく変わる契機 ともなった。 経営の悪化 と内紛 が重 なって自主再建 を断念 した平和相互銀行 を,住友銀行 は1986年 に吸収合併 した。この合併が

,住

友銀行 に もた らすデメ リッ トは

,言

うまで もなく平和相互銀行が負 っていた 1800億 にのぼ る多額の負債で あるが,他方

,住

友銀行 に もた らすメ リッ トは,こ のデメ リッ トを超 えてはるかに大 きいように思 えた。すなわち

,平

和相互銀行 は首都圏に 103も の店舗 をもち

,中

小 企業や個人市場 を中心 とした リテール部門に強かったので ,平 和相互銀行の営業基盤 を引 き継 ぐこ とは

,住

友銀行 にとって非常 に大 きな魅力であった。 この魅力 を生かすため,住友銀行は平和相互銀行合併 による収益の落 ち込み を短期間で回復 し,再 び収益ナ ンバ ーワン銀行 に返 り咲 くべ き

,収

益至上主義路線 を強化 してい くことになる。時にバ ブ ル経済期の真 っただ中,こ れが後 に

,銀

行の犯罪的行為 として断罪 され る種 をまくことになる。そ の一例 として

,1990年

不正融資仲介事件で逮捕 された住友銀行元青葉台支店長・山下彰則 が,自ら の告 白書の中で当時の状況 を

,つ

ぎのように述べてい る。少 し引用が長 くなるが

,非

常 に興味深 い 内容 なので紹介 してお こう。 「私 が銀座支店 に転勤 してい く昭和61年 の頃 とい うのは ,住友銀行が2つの ことがきっかけで,そ の業務姿勢 を大幅 に変 えてい く時期で した。 そのひ とつ は

,平

和相互銀行 との合併であり,も うひ とつ は

,BIS規

制が 日本で も実施 に移 さ れ ることが決 まったことです。 平和相互銀行の合併 は

,都

心に一度 に 103店 舗 も支店が誕生す ることで

,団

塊の世代 といわれ る 私 たち以降の入行年次の職員 には,支店長昇進のチ ャンスが広がるとい う意味で大歓迎だったので すが

,一

方で

,平

和相互銀行のかかえる不良債権の額 が事前調査以上 に大 きく,こ の ままでい くと 相 当足 を引っ張 られ ることになるとい う危機感 か ら,それの償却のための収益 をかな り稼 ぎ出す必 要があるとい うことがありました。

(14)

1 54

藤田安一:1980∼ 1990年代の金融機関における本部制組織の導入と改廃

もう一つの

BIS規

制 につ いては,1991年までに

,銀

行の 自己資本比率 を7.25%にしなければな

らないとい う

,大

蔵 省か らの至生命令で した。 当時の 日本の銀行の 自己資本比率 は

,土

地 とか株式の合みに負 うところが大 きかったので,ほと んど軒並みせいぜ い

5%ぐ

らい とい うレベルで ,あ と4∼5年で7.25%にす るなど,と て も実現不可

1

能だ と思われてい ました。 ところが

,住

友銀行 はこの ことが契機で収益至上主義 を打 ち出 し,こ れ も良 く引用 された磯 田会 長の F向こう傷 は間わない』とい う言葉 に象徴 され るような積極 的な営業施策 を展 開 していきまし た。 平和相互銀行 との合併で

,収

益 トップの座 を降 りた住友銀行 が,『

3年

で トップに返 り咲 く』 を, スローガンにモー レツな収益重視の施策 を繰 り広 げてい くのです。」(9) さらに

,限

界利益 とい う言葉 をつかって反社会的行為 を行 っていった実態 が,つぎのよ うに生々 しく述べ られている。 「

Y支

店長は さらに『限界利益』 とい う概念 を

,よ

く会議 などでわれわれに説いていま した。 F限界利益』とい うのは,銀行 がで きるぎりぎりの線で,法律 にふれない限 り,思いっ切 った営業 を おこなうことにより

,よ

り大 きな収益機会 を得 ることがで きる

,と

い う考 え方です。 いってみれば『収益のためな らば

,な

んで もよい』 とい う考 え方 に近い考 え方 といえます。 今

,考

えれば常識外 とい うことで しょうが,その ころはこの考 え方が常識で

,私

も疑念す ら持 ち ませんで した。…… ある支店長 は

,不

動産の伸介 を してその手数料 をノン・バ ンクか らの協力預金 とい う形 で手 に入 れた り,あ る支店長 は

,ゴ

ル フ会員権の販売 をして,その手数料 をおな じよ うに して稼いだり,あ る支店長 は相続税対策 と称 して,リ スクの高い変額保険 とローンを組み合 わせて,保険の販売 をし, その手数料 として

,保

険会社か ら

,収

益 を稼いだ りして きたのです。」Q0 以上,猛烈 な収益至上主義の もとで,法律 にひっかか らなければ何 をして も良い とい う雰囲気が, いかに住友銀行 に広 がっていたかがわかる。その結果 として ,表1および表 2に 見 られ るように,住 友銀行 は平和相互銀行の合併か らわずか3年で,再び収益ナ ンバ ーワン銀行 に返 り咲いたのである。 このような収益の向上 にかけては,抜群の効力 を発揮 した住友銀行の本部制組織 も,1991年にあ えな く廃止 されて しまう。その理由については

,後

に考察す ることに して,こ こでは

,本

部制の発 足か ら廃止 までの間の2度の大 きな組織改組 について

,簡

単 にみておこう。 表

1

住友銀行における各種利益額の推移 (億円

1%)

1982.3 1984.3 1985,3 1986,3 1987.3 1988.3 1989。 3 経 常 利 益 営 業 利 益 有価 証券 関係 損益 当 期 利 益 1,051① l,673① l,584① l,572① l,81l④ 2,885② 4,167① l,052① l,501① l,349① l,340① l,770② l,739② 2,690① △

r i72 235 231

1,146 1,477

556①

783① 750①

819① 574⑤ と,H2⑤ l,983① (注)『 金融財政事情』各号 よ り作成。○内の数字 は銀行 間の順位と

(15)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2a13) 表

2

都市銀行

13行

における利益の内容

(1989年

3月期) (注

)( )内

は対 前 年 度 増 減 率

(%)

(出 所

)『

金 融 財 政 事 情 』 1989年6月 26日号 。 Ⅳ 住友銀行 にお ける

1984年

お よび

1988年

組織 改革の 特徴 一度 日の大 きな改組 は

,1984年

に行 われた。1984年 といえば,「日米 円 。ドル委員会」が開催 さ れ,アメ リカがわが国に急速 な金融 自由化 を迫 った年 にあたる。また

,大

蔵省 はそれへの対応 とし て

,た

だちに「金融の自由化及び円の国際化 についての現状 と展望」を公表 し

,金

融 自由化 に対す るわが国の姿勢 を示 した年であった。住友銀行 が 1984年4月に行 った組織改革 は,こ うした金融 自 由化 に積極 的に取 り込む態勢づ くりを目的 に行われた。従来の銀行組織 ではあま り重視 されて こな かった研究開発機能 を強化す ることによって

,金

融 自由化 に対応 しようとした ものである。 その結果

,図

4の組織へ と再編 された。この組織の特徴 を

,当

時の企画本部長で あった花村邦昭 常務 は

,つ

ぎの ように指摘 してい る。 「いままで と大 きく変わ りましたのは,企画第一総本部 とい うの を作 り,その管轄の企画部 を事務 局 として,関係部のメンバ ーで構成す る業務開発委員会 とい う制度 を設 けたことです。新 しい業務 や新 しい商品を開発 してい くための開発 セクシ ョンを明確 に設定 したわけです。 (億円

=%)

経 常 利 益 営 業 利 益 有 証 関係 損益 当 期 利 益 友 業 士 菱 和 海 井 戸 和 玉 和 銀 銀 勧           神 一                   陽 住 第 富 三 二 来 三 太 協 埼 大 拓 東 4,167( 44.4) 3,874( 31.3) 3,935( 38.5) 3,557( 26.0) 3.283( 24.2) 1,418(4ゝ 7.9) 11724( 0。 9) 1,164( 31.4) 785( 10.4) 754( 42.4)

886( 6.6)

442( 25。 9) 1,022( 16.2) 2,690( 54.6) 1,541(△H.1) 1,721(△13.9)

1,581( 1.3)

1,703(△ 5.4) 972(△ 17.3) 982(△38。2) 622(△ 7.5) 512(△12.0) 1,477( 28.9) 2,333( 91.6) 2,214( 162.8) と,976( 56.5) 1,580( 87.4) 446( 22.5) 742( 527.1) 542( 153.2) 273( 110.0) 300( 152.9) 203( 275,9) 217( 10。 7) 217( 80.1) 1,983( 78.3) 1,797( 34.9) l,719( 34.3) 11673( 38.3) l.555( 35.3) 601( 20.1) 794( 30.3) 535( 29.6) 360( 7.0) 290( 20.7) 390( 11.3) 187( 18.2) 592( 16.0) 合 計 27,013( 25。2) 14.498(△ 3.1) 121520( 89.0) 12.481( 35。 6)

(16)

藤田安一 :1980∼ 1990年代の金融機関における本部制組織の導入と改廃 図

4

住友銀行 にお ける

1985年

6月

30日

現在の組織 部 部 都 部 部 画 融 一 二 画 企 金 第 第 資 場 養 養 企 融 市 調 調 国 内 関 連 会社 部 都 部 部 画 発 融 雄 棚 韓 人 車 業 消 法 西 日本地区支店 業 務 総 本 部 東 日本地区支店 東 京 業 務 本 部 業 務 推 進 東京業務推 進 本 店 公 務 部 業 務 推 進 本 部 東 京 公 務 部 都 都 画 養 企 春 菜 業 誉 昔 本店営業第一部 本店営業第二部 本店普業第二部 本店営業第四都 本 店 営 業 本 部 営 業 継 本 部 本 店 営 業 部 東京営業第二部 東京昔業 第二部 東京営業第三部 東京営業第四部 東 京 営 業 本 部 東 京 営 業 部 国 際 企 画 部 国際事務管羅部 国 際 資 金 部 国 際 春 養 部 国 際 企 画 本 部 科 来 爪 書 秘 書 室 室 海 外 現 地 法 人 出

先 国 際 総 本 部 東京外国業務部 外 国 業 務 部 国際金融法人部 国 際 投 融 資 部

国 際 業 務 本 部 部 部 部 理 務 財 管 務 織 管 事 管理第一総本部 部 部 事 査 人 検 部 部 一 一 一 二 第 第 資 資 融 融 (出所

)住

友銀行行史編纂委員会 『住友銀行史 ―昭和

50年

代のあゆ幻

1985年

,336ペ

ージよ り。

(17)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2003) 57

それか ら

,従

来管理総本部 にあった調査第一部 (マクロ経済

,金

融担 当

)と

調査第二部 (個別企 業・業界担当

)を

,や は り企画第一総本部 に移 して ,調 査 と開発 とい うもの を同一機構内にまとめ, 企業戦略策定 を一元的に行 なえる体制 を整 えたのです。 これはメーカーにおける研究開発

(R&D)の

体制 を銀行に大胆 に取 り入れた ものですか ら

,R

&D総

本部 とい うス トレー トな名称 に してはどうか とい う意見 もあったほどですが ,奇 をて らいす ぎるとい うことで

,名

称 は現在の ように したわけです。」O。 上記

,花

村氏が述べているように,この時の改組 も

,1979年

の組織改革 と同 じようにメーカーの 方式 を銀行組織 に取 り入れた もの として注 目に値 す る。1979年 には,メ ーカーが採用 していた事業 部制 を総本部制 と読みか えて導入 した。1984年 の改組 も,本部制 を基盤 にメーカーにおける

R&D

体制 を銀行組織 に導入 した ものである。いずれの改組 において も

,銀

行 とい う金融機 関の特質 を無 視 して

,無

批判 にメーカーの組織 を採用 した点で共通性 をもっていた。 2度目の大 きな改組 は

,1988年

に行われた。その内容 は

,総

本部 を廃止 し

,地

域別営業拠点 を基 軸 とした本部制組織 に改め られている。具体的に

,図

5のように国内の営業製点 を5つに分 け

,そ

れぞれに対応 して業務第一本部 ,業 務第二本部,業務第二本部 ,本 店営業本部 ,東 京営業本部の5本 部が設 け られた。それに資本市場本部

,業

務推進本部

,情

勢開発本部,国際部の4本部 をあわせて, 合計9本部になった。これによって,発足 当時6つあ り,そ の後2つ増 えて当時 8つ となっていた総 本部は

,全

て廃止 され

9本

部体制 に移行 した。 その理 由をF住友銀行百年史』では,「急激 にかわ る業務環境 に対応 し,境界線が不明確 になって きた国内マーケ ッ ト別組織 をあらため ,専 門的知識 をもった本部 をあらたに設置 して営業活動 をサ ポー トしよ うとす る変更であった。」l121と説明 してい る。 確かに

,総

本部制は各総本部間の収益競争 をあお り,そ れが全体 として収益 を引 き上 げるパ ワー となった。 しか し

,他

方では組織 を大企業

,中

小企業

,個

人 などそれぞれの顧客マーケ ッ トに分割 し,営業や取引 に関す る企画や与信の審査 も,その同一本部内で完結 させ ようとす るもので あった ため ,各 総本部間にセクシ ョナ リズムを派生 しやす く,時 に部門間調整 を困難 に した。具体的には, これ まで営業総本部に所属 していた本店営業部や東京営業部 など首都圏にある営業部が ,大 企業 と の取引だけでな く中小企業 などとの取引 を行い出 したため,その他の営業部 との平等制が保 たれな くなったばか りか,中小企業 を対象 とす る業務総本部 との重複 をきたす とい う問題 が生 まれて きた。 こうした点 を改善 し

,従

来のマーケッ ト別組織ではな く

,地

域別組織 に改めようとしたのが

,1988

年の改組の 目的であった。 この組織改革では

,組

織 か ら総本部 とい う名称 は消 えた ものの

,各

本部内で独 自に

,営

業や取引 に関す る企画・与信の審査 も完結 させ ることを特徴 とす る本部制組織 は

,依

然 として継続す ること になる。 したがって,この組織改革で も問題 なの は審査機能である。図 5に み られ るように

,国

内 営業店 を業務第一

,第

,第

二部及び本店営業部

,東

京営業部の

5本

部にグルーピング し

,そ

の下 に審査第一部

,第

二部

,第

二部および営業審査部 が配置 され

,一

見審査機能の充実 を図 ろうと して いるように見 えるが,やは り審査部門は各本部の営業部門に組み込 まれて しまっている。この本部 制の根本的欠陥 を改善す る組織 になるには,本部制 その ものを廃止す る1991年 の組織改革 をまたな ければな らないのである。

(18)

藤田安一 :1980∼ 1990年代の金融機関における本部制組織の導入と改廃 図

5

住友銀行 にお ける

1988年

6月

30日

現在の組織 (付 属 捜 Ba) シ ス テ ム 第―都 シ ス テ ム 第二部 財 ンライン事 務 部I 陳京オ ンライ ン事務部I 際 中 事 務 部I 陳 京 集 中 事務部! 外 角 手 務 部I 陳 京 外 為 事務部I 国 際 金 融 事務部I 腋 員 相 談 ・室! -仄 材 開 発 部l 陳 京 人 材 開発部I 陵 金 証 券 管理部I 略客 さまサー ビス室l 陳京 お客きまサービス∃ -陳頁接選向上椎造室! , 裕     務     課 同 日 円 開 日 回 囲 H 旧 日 H 国 岡 H 日 日 H 四 周 H 国 日 H 圏 一

"

工 巻孝 揺 瑠

文 東 営 業 部 I海 外支店・ 庄在貝 事務函 言 葉 融 資 部

1牌

1牌

融 資 第 二 部 融 資 第 二 部 人 事 第 二 部 東 京 広 報 室 又 京 軽 書 室 ジ

[

営 業 奉 査 都 標準的な一般支店の俎描 (出所

)1988年

住友銀行デ イスクロー ジャー誌よ り。

(19)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

4巻

2号

(2∞

3) 59

V

住友 銀行 にお ける本部 制組織の 改廃 とその意 義 上記の 1988年 における住友銀行の組織改革の頃 は,まだ 日本経済 はバ ブルの真 ただ中にあった。 わが国は1986年の「円高不況」 を短期間の うちにク リアー し

,早

くも1987年には景気の回復基 調に入 った。にもかかわ らず

,政

府 はそれ以降1990年の上期 まで

,公

定歩合 を2.5%に据 え置 く超 低金利政策 をとりつづけた。企業 はこの超低金不U時代 に「転換社債」や「ワラン ト債」などエクイ テ ィ 。ファイナ ンス (equity inance,新株発行 による資金調達

)の

ための巧妙 な手段 を使い

,低

コ ス トで過剰な資金調達 を行 ない設備投資や土地投資を拡大す るとともに,株式投資などの金融資産 投資

,い

わゆる財 テクを活発 に行 なった。都市銀行 を中心 とす る大銀行は

,自

らこうしたマネー・ ゲームを積極 的に展 開 し

,土

地や株 を転売す ることによって投機 的利得 を獲得す ると同時に,こ れ ら企業や不動産会社 に対 して

,土

地や株式 などの担保価値 を慎重 に審査せず

,異

状 な貸出 し競争に しの ぎを削 り

,地

価や株価の暴騰 に象徴 されるバ ブル経済 を創 り出 したのである。 こうした銀行や証券会社 による収益至上主義的な経営戦略の必然的帰結 として ,小 口投資家 を犠 牲に した大口投資家への損失補填や ,暴 力団 と癒着 した株 の仕手戦での株価のつ り上げとそのため の融資

,都

市銀行 による架空預金証書の偽造 とそれ をもとに した不正融資等

,数

々の金融・証券 ス キャンダルが発生 した。 まず ,証券会社 による損失補填 は,1988年9月期か ら91年3月 までの間に大企業 を中心に延べ787 件

,2164億

円の巨額 にのぼ ることが明 らかになった。さらに

,野

村証券 と日興証券 が

,広

域暴力団 である稲川会前会長 に値上が り前の東急株 を信用駅引で売 り,その後

,取

引決済のための関連会社 である野村 ファイナ ンスと日興 クレジッ トか ら,同株券 を担保 にそれぞれ数百億 円を融資 した事実 が明るみに出た。 一方

,銀

行では 日本興業銀行が関連 ノン・バ ンクなどとともに

,暴

力団とのつ なが りが指摘 され ていた料亭の女将 に,東洋信金の架空預金証券 などを担保 に5000億 円に ものぼ る資金融資を行 なっ ていた。また

,富

士銀行や東海銀行

,協

和埼玉銀行では

,架

空預金証書 を偽造 しノン・バ ンクか ら 巨額の資金 がひ き出 され不正融資が行 なわれていた事実が発覚 した。 住友銀行では,1990年10月,住友銀行元青葉台支店長が逮捕 され ,出 資法違反の罪で東京地裁 に 起訴 され るとい う事態が起 きた。事件 はマスコ ミで大 きく報道 され

,住

友銀行の業務姿勢への批判 が激化す るとともに ,磯 田一郎会長および巽外夫頭取 がそろって辞任するとい う事態にまで発展 し た。さらに1990年5月に新聞で大 きく報道 されたの をきっかけに表面化 した「イ トマ ン事件」によっ て ,ま す ます住友銀行 は窮地 に追い込 まれていた。住友銀行が社長以下多数の役員を送 り込み

,巨

額の融資 を行 っていた中堅商社 イ トマ ンが

,ゴ

ル フ場 や絵画取引 に2500億円 もの資金 をつ ぎこみ, そのほ とんどが間に消 えた事件で あ り

,住

友銀行の乱脈融資が社会的批判 を受 けた。 住友銀行元青葉台支店長が不正融資仲介事件で逮捕 (1990,10.5)さ れた直後の 1990年10月 25日 , 当時住友銀行頭取で あった巽氏は

,急

いで臨時全国支店長会議 を開催 し,つぎのような興味深 い訓 示 を行 った。 「個人的 とはいえ支店長 とい う銀行の幹部に逮捕者 を出 したことになると……当行にもそのような ことを引 き起 こす ような土壌が少 しで もなかったかどうか,謙虚 に反省 してい くが必要であります。 そ してかか る事態が三度 とふたたびおこらないよう,あ らためるべ きところは断固あらためなけれ ばな らないのであ ります。

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