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村山籌子(1903-1946)をめぐって-香川大学学術情報リポジトリ

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村山賛子(1903−1946)をめぐって

村山等子(1903−1946)をめぐって

山 崎

怜 77

童話作家の村山静子については、その童話作品の研究と同時に、かの女の

「ふるさと」とのかんけいについての究明、生涯における愛のあり方、友情の

ありよう、作品と書簡類にかかわる書誌的な問題をあきらかにする必要があ

る。

以下は、これらに.関する二つの側面の若干の問題について言及したものであ

る。二つのこととは、第1ほ、「ふるさと」との関係、第2は、初出作品と後年

の童話集との照合、書簡に.関連する資料的検討である。

しかし、紙幅の関係上、いずれも限定的に触れるに・とどめるが、とくに第1

の点については.ごく簡単にのべることとしたい。

かの女は誕生から県立高女の卒業まで高松で過したが、卒業の翌年、自由学

園高等科に進学し、以後は東京に住み、鎌倉の疎開先の二階家で他界した。婦

人之友社編集部時代に村山知義と出会い、この画家TOMとの愛によって結婚

す・ることになったが、祖父の啓三は勘当という処置によってこれに応じた。こ

の勘当という岡内家への出入禁止の処分ほかの女の母の死の頃までつづいたと

されている。かれらの結婚は1924年の夏、母の死は1932年の4月である。かの

女自身の死は1946年8月であるから、第2次大戦下という晩年の日々の、しか

も病気がちであった身辺のことも考慮すれば、成人後のかの女が右の事情によ

り帰郷する機会はすくなかったとみてよいであろう。そうした条件のもとで、

かの女は「ふるさと」を想うところ大であったと推定してもまちがいではな い。

しかし、かの女は「ふるさと」を追慕する文章をしるすとか、想いを吐露す

る冗長な手紙文をかくとかするような女性ではなかった。それだ研こ、わずか

な機会に示された「ふるさと」への回帰の言動が重要なものとなっている。

第1にかの女はその死の間際における造言において墓ほ.高松の大的場近く、

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山 崎 怜 78 祖父母、父母の墓地の脇とすること、墓碑銘に「われはここにうまれ/ここに 遊び/ここにおよぎ/ここに眠るなり/しづかなる/瀬戸内海の/ほとりに」 と富本意書の筆になる一文を刻むことを望んだ。

第2に親友、松井志づ子への最後の手紙で「沢山、あなたと海辺で話をした

いですね。話すことは山のやうにあります」と結んだが、この「海辺」は鎌倉 の海辺であるよりほ、「ふるさと」高松の海辺が去来していたとみるべきであ

る。かの女の死去の翌月、追慕する1文をしたためた知義はつぎのようにむす

んでいる。「死に近づくと彼女はひたすらに海をしたった。彼女の心は瀬戸内

海を想ってゐた。そこを見はらす丘の土の下での静かな眠りを慾求してゐ

た。」(村山知義「亡き妻の記」) 第3は夫君、知義の翻案劇「初恋」への協力である。ユ・−ジン・オニ・−ルの 「ああ、荒野」を自由に岡内千金丹本舗におきかえた、このホーム・ドラマは 全編高松弁に充ちているのは当然である。この作品の成立に章子は積極的に協 力したし、これが前進座によって上演されたり、知義の監督により映画化され た際などには、俳優のセリフ、発音について、これまた、つきっきりで指導し たのであって、そうしたときの、かの女の高松への愛着は童話の主人公のよう

に、あどけなく、純粋で、あけっぴろげであった。

こうした浩子の想いがかの女の作品のなかとか、生薩全体のなかに、どう結 晶化しているかについては、別の機会にまわしたい。 次に初出作品目録の作成にうつる。これが意外に難物であって、この研究が 40年に及ぶ私の場合にも完全なものはいまだに期しがたいのである。欠号の絵 雑誌があまりにも多いためである。ひ・とつには章子自身が作品の保存やそのリ スト作成に全く無関心であったこと、ふたつには、見開き2ペ・−ジとか4ペー ジの絵本や絵雑誌の文献的保持に誰もが意を用いないし、わが国で児童文学館 なるものの意義に気づいたのはついこの間という制約によるとおもう。′そこで バックナンバ1−の欠如した絵雑誌から、徐々に収書されるものを調査しつつ、 漸くまとめ上げたのが以下のものである。このうち、昭和15年の「おにんぎょ うさんのおうち」で画家の名を記していない(4)とか(5)は現物がみつかって

いないので、前後の号から推定したものにすぎない。しかし、他方、画家の名

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村山寿子(1903−1946)をめぐって 79 のない作品が現物をみていないのではなく、もともと、挿画を欠いているもの であって、右の件はこの「おにんぎょうさんのおうち」に限られるのである。 ところで生前の籍子は単行版の作品集を公刊する意欲も意思ももたなかった ために、童話集ほかの女の死後に編まれたものばかりである。それを公刊順に ならべると、つぎのようになる。 (昭和21年8月30日) (昭和23年2月25日) (昭和23年3月15日) (昭和23年4月15日) (昭和41年11月 5日) (昭和45年1月30日) (昭和47年9月1日) (昭和53年11月30日) (昭和61年3月1日) (昭和61年3月10日) ここでは章子の作品 Aい『きりぎりすのかひもの』 B.『川へおちた玉ねぎさん』 Cり『のんきな犬さん』 Dり『あひるさんとにわとりさん』 E,.『ママのおはなし』 F..『しっぽをなくしたねずみさん』 G…『かくれんぼ』 H… 日本児童文学大系26巻 Ⅰ…『3びきのこぐまさん』 J.子供之友原画集2 このうちJほ村山知義の画集というべきものであるが、 集のひとつとみなすことにした。もちろん、かの女以外の作品もかなりふくま れている。 また、単行版の絵本、紙芝居の−・部を公刊順に記してみよう。 (昭和22年10月1日) (昭和43年6月1日) (昭和43年7月) (昭和46年9月1日) (昭和48年6月1日) (昭和49年7月1日) Ⅹ.『おねこさんときんのくつ』 1.紙芝居『きたない手をして』 Mい『とこやのだいこんさん』 Nり紙芝居『おねぼうなじゃがいもさん』 0.『あめくん』 P紙芝居『おねこさんと金のくつ』 Q∴紙芝居『おなべとやかんとふらいばんのけんか』(昭和51年6月10日) Rい紙芝居『だいこんのとこやさん』 (昭和52年10月)

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山 崎 怜 80

初出の判明している作品に限り、それぞれの末尾に、のちの作品集や絵本、

紙芝居にまとめられたもののアルファベット記号をつけてみた。この記号の多 いものほど再録とか複製の機会が多いということを意味する。私の判断では、

やはり人気の高いもの、秀作に属するものが、何度も再録され、戦後の幼児の

滋養に役立っているとおもわれる。

作品集のAは小冊子ながら、名品ぞろいであり、B、Cも佳品があつめられ

ているが、いまのところ、後二者には初出不明のものがある。Aは章子の死の

直後、その同月に緊急に出版されたものであり、奥付には「章子」印が押され て、かの女自身の手になる公刊の形をとっている記念的なもので、その死の身 代りに子供たちへの、かの女のこよなきおくりものであった。 作品目録に追加すべきもの、例えば本人が『週間朝日』にかいたという童話、 婦人之友社の日記に執筆したとしるしている詩とか短文のものがあるが、別の 機会にのぺたいと念じている。また、弥生美術館に所蔵される「ナクナッタア カイヨウフク」という作品は村山章子作、村山知義画と表紙に.ある23+1枚の

原画である。しかし、章子の文章はみつかっていない。これについても他の機

会に言及したい。 章子は、みずから所属する童話作家協会が編集した造本も挿絵も見事な『日 本童話選集』全六輯(丸善干び)のうち、はじめの五簡と、同じく童話作家協会 による『日本童話名作選』第一・輯(金の星社刊)とに作品を発表した。しかし、 『名作選』第二輯以降第五輯までのもの、また同協会の編集にかかわる『千鳥 のおゆめ』、『草笛ふけば』、『山彦いづこ』、『波のをどりこ』、『湖水の味』、『城 門の鶴』(以上、いずれも四億書房刊)、『東亜児童親善童話集』(ニ冊)、『銃後 童話集』、『日の丸部隊』(以上、金の星社刊)には作品を全く掲載していない。 初期の、戦時色のない作品集には自作を発表し、後期では会員ではありつづけ たが、作品の発表は戦時体制の進行や幼年童話への自己限定、そして健康上の 理由などにより、回避または辞退したのでほないか、と推定される。 ところで自選作品集である『日本童話選集』に、おそらくほ苦慮しつつ、か の女としては自信作を発表したとみていいのであるが、つぎのように、第一・輯 から第三輯までは、1点をのぞき『子供之友』に発表した作品群の再録である。

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81 村山華子(1903−1946)をめぐって 『日本童話選集』(丸善刊) 第一L輯(大正15年12月刊) お姫様と猟師 なくなった じゃがいも 『子供之友』 大正13年7月 『子供之友』 大正13年3月 『子供之友』 大正14年6月 たまごと おつきさま はち と くま

(かの女は、これをまとめて「みじかいお話四つ」という標題をつけて

いる。) 第二僻(昭和2年12月刊) かざぐすり

犬さんと、くもさんと、かへるさん

せんたくやさんと、がてうの子供 リボンと、きつねと、ごむまりと月 第三輯(昭和3年12月干び) 川へおちた玉ねぎさん かくれんぼ

また、第四輯での作品、第五簡の3点のうち、

選』第一簡の作品は既掲箇所を確認できていない。 第四輯(昭和4年12月刊)

にはとり の をばさん

『子供之友』 大正15年9月 『子供之友』 大正15年10月 『子供之友』 大正15年8月 『子供之友』 大正15年7月 『子供之友』 昭和2年9月 『子供之友』 昭和2年6月 2点の作品、『日本児童名作 第五輯(昭和5年12月刊) ライオンの大損 のんきなお啓著さん 『子供之友』 昭和4年10月 あはれな兎さん 『日本童話名作選』(金の星社) 第一簡(昭和12年2月刊) 毛糸のモソモコさん

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山 崎 怜 82 以上のいずれも秀作ぞろいであり、しかも豪華本に他の有力作家たちの作品 と並んで掲載されるのであるから、章子の自選を経たという意味でも、これら の作品の性格ほとくに注目に催するのである。

その際、書誌的な問題として、既掲であることが不明である作品は、これら

が『選集』において初出であるのか、あるいは未見の『子供之友』誌、あるいは それ以外の絵雑誌に発表済であったのかは、確認できないために、いまほ初出 として処理しないでおきたい。したがって、下線を付した作品はつぎの初出作 品目録では省かれているものの、初出がこれらの『選集』であることの可能性

も十分にありうるとかんがえられる。なお、5編のうち、「のんきなお腎老さ

ん」は「のんきな犬さん」と改題のうえ、「毛糸のモンモコさん」と「あはれな 兎さん」はそのままの標題で、それぞれ戦後の作品集であるCとBに再録され た。(後述、計録中の≪初出不明の童話≫の項をも参照。) 目録のうち、昭和9年6月の『子供之友』誌に.掲載された「ハナト オトモ ダチ」シリ・−ズ1−4は4の「コドモト ハナ」のみ、「カズコ作」と明記さ れ、1−3は無署名であるが、3の「蜜蜂さんと蝶々さんと蟻さん」は文体も 内容もあきらかに章子の作品とみてよいであろう。私はこの「ハナト オトモ ダチ」シリ・−ズ1−4(深澤紅子違、高倉光子蓋、河目悌二選、田内須町子蓋) はすべて浩子作とみなしているが、目録では「カズコ作」と明記のある4のみ をしるしてある。さらに『子供之友』誌、大正13年6月にある童謡「お湯」(お ぶう)は、しりとり風の循環主題的な言葉あそびで、活字でなく直筆を凸版と しているが、あきらかに章子の筆致であり、文体(大根を「だいこ」とルビを 付す)からも、粒子作とも推定されよう。絵は村山知義違。この目録では、無

署名であることと、のちの作品集に再録されていないために、未収録とした。

筆跡は籍子のものだとしても、ややロジカルな内容のしりとりあそびであると もいいうるので、知義の意見も大いに加味されているともみられ、むしろ知義 の作品を寿子が文字デザイナ・1−として協力したともかんがえることができる。 旧姓岡内時代さいごの頃の哲子による知義へのひたむきな愛情を感じずにはい られない。 村山家には現在スクラップの形で「三ビキノ オネコサン」(ムラヤマ カ

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村山章子(1903−1946)をめぐって 83 ズコ・村山知義歪)というカタカナ童話の見開きがのこされている。この作品 の初出箇所も、まだ、つきとめることができていないので収録ほ断念した。

最後に、これまた、つぎの目録でほ省くこととなった舞子の3点の作品にふ

れておきたい。第1は「メヌエット・イン・ゲェ」という題の詩であり、亜土

の誕生直後に発行された婦人雑誌の口絵に、かの女の写真とともに掲載された ものである。その全文は知義の『演劇的自叙伝』第2巻、285−286ペ・−ジに再

録されている。第2は、知義の印象についてかかれた人物評のひとつとして、

妻である響子が、執筆した「村山知義のこと」と題するエッセイであり、若き 日の、かの女らしい関連な文体で夫を初々しく活写した1927年の1文である。 これまた知義の自伝、第3巻、92−95ペ1−ジにその全文が収録されている。し かし、いずれも私自身が初出箇所を確認しえていないし、知義もスクラップに 依拠しているので書誌的には不完全なものである。第3は、「母の歌」という歌

詞であり、松島尋によって作曲されたもの。これは哲子の実兄、岡内昌三の著

書『鰻絵筆』(昭和47年8月刊、岡内勧弘堂)の293−294ページに掲載されてい

る。これはとくに著者が私にこの本を恵贈された際に、欣然として、教示され

たものであった。しかし、この作品も典拠が不明であり、もっぱら書誌的な理

由から、今回ほこうした付記にとどめた。3点のいずれも信憑性に問題がある

わけではない。 村山章子作品(著作)目録一初出を中心に やまさき・さとし編 Ⅰ 童 謡 『子供之友』 (大正13年) 1月 ハヤクコイコイオシャウグヮツ 3月 無題−−−一美しい王子様のおせなかに 岡内哲子・村山知義画 軋.J 5月 コイヌ 岡内静子作・村山知義画 H 7月 無題−…おかみさん 岡内容子作・村山知義画 H,,J

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怜 岡内舞子作・武井武雄画 E 村山舞子作・村山知義画 H 村山舞子作・武井武雄画 E,G,H 村山寿子作・村山知義画 村山舞子作・村山知義画 舞子作・村山知義画 E,H,.J 寺子作・武井武雄画 H 村山寿子・岡本帰一・画 H 村山舞子作・村山知義画 山 崎 84 8月 これはわたしのおうち 9月 あめやさん 9月 もしもあめのかはりに 10月 無題−−−−むかしむかしかういふとこやさんと 10月 おそろひの横T lO月 無題−…あめがふってくりゃ 10月 無題−−−−かみのすくないカテリ、−ナ 11月 無題−…叡机、、やさしいほなもようが 12月 風 (大正14年) 1月 ポックリキノクツ 1月 あやつり人形 2月 雪のよる 2月 おまゝごと 3月 お人形あそび 4月 一人二人 4月 びっくり箱 5月 きしゃのしょくどう 5月 木馬 6月 ばァらがさいた 6月 ぶうぶうぶたさん 7月 ギッコンバッタソ 7月 ふくろ 8月 おしゃべりの女の子のおしゃべり 8月 うさぎのくだものや 8月 風がふく 9月 トントン ビーピ 10月 かかし 村山替子・村山知義画 E,H 村山章子・戸田達雄画 村山舞子・竹久夢二ゑがくH 村山韓子・岡本帰一画 H 村山章子・岡本帰一両 村山章子・岡本帰一画 H 村山章子・岡本帰一・画 村山舞子・小山 康画 H 村山章子・斉藤敏夫画 H 村山舞子・竹久夢二ゑがく 村山籍子詩・武井武雄画 村山昏子詩・村山知義画 H 村山昏子詩・竹久夢二ゑがく 村山舞子・村山知義ゑがく 韓子詩・戸田達雄画 H 村山寺子・小山 康画 村山章子・武井武雄画 B,H 村山静子作・村山知義画 H

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村山幸子(1903−1946)をめぐって 85 (大正15年) 1月 チ,ユ.りちゃんのおたんじゃう日 2月 おひきだし 3月 風船玉 5月 兵隊さん 8月 ボタンとこども 9月 おなべのうた (昭和2年) 1月 無題−−…コレハ三匹ノコグマ 2月 三■匹ノコグマトハンカチ・−・フ 3月 カタカケ ト コグマ 4月 ワタシハジャガイモ 4月 イヌの洋行 11月 三匹ノコグマトー・ツノフエ 12月 コグマサントギウニェ.ウ (昭和10年) 2月 ユキノーンネル 村山華子〔Tomのサイン〕H,.丁 村山舞子・武井武雄画 村山舞子詩・戸田達雄画 村山奪子詩・村山知義画.J 村山舞子作・竹久夢二層 村山舞子・村山知義画 .丁 村山舞子作・村山知義画 E 村山舞子作・村山知義画Ⅰ 村山舞子作・村山知義画Ⅰ 村山舞子詩・村山知義画 EH,.J 村山舞子作・村山知義画.丁 村山舞子作・村山知義画 E 村山舞子作・村山知義画Ⅰ 古川アヤ・明石精一・画 H 『コドモノクニ』 (昭和14年) 1月 オヤカン ト オナ・ベ ト フライパン ノ ケンクワ 村山舞子作・村山知義ヱ 服部 正曲 E,H,Q 『働く婦人』 (昭和7年) 4月 子供科学 みみづ先生の歌 村山辱子

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山 崎 怜 86 Ⅱ 童 話 『子供之友』 (大正13年) 3月 たまごとおつきさま 6月 プリンス・アド 7月 お姫様と猟師 (大正14年) 6月 おぶう 6月 はちとくま 8月 十五.夜のお月様 12月 おくわしとこぐま (大正15年) 2月 おひきだし 2月 二一ッディーのゆめ 3月 こぐまとゆきだるまのお母さん 4月 三匹のこぐまとひよっこさん 5月 三匹のこぐまとおくつ 6月 こく、トまとかくれ帽子とリンゴ 7月 リボンときつねとごむまりと月 8月 せんたくやとがてふの子供 9月 かざぐすり 10月 烏卜猫卜鳥タチト風 10月 犬とくもとかへる 11月 〔標題なし〕〔コグマ アヒル 登場〕 12月 オミヤゲ (昭和2年) 5月 アヒルサン ト オネコサン 岡内静子作・村山知義画 岡内舞子・岡本帰一層 岡内静子・村山知義画 H H H 〔作者名なし〕村山知義画 〔作者名なし〕村山知義画 H 村山蓉子・岡本帰一層 B,H 村山章子作る・村山知義画く E 村山舞子・武井武雄画 村山章子・村山知義画 村山章子作る・村山知義画く Ⅰ 村山舞子作・村山知義画 E,Ⅰ 村山章子作る・村山知義ゑがくⅠ 村山舞子作・村山知義画 Ⅰ 村山舞子作・村山知義画 E,.J 村山簿子・村山知義画 E,F 村山舞子・武井武雄画 村山舞子 E 村山章子・村山知義画 A,EH,J 村山章子作・村山知義画 村山舞子作・村山知義画 村山舞子・村山知義画 E,H

(11)

村山舞子(1903−1946)をめく、,って 87【 6月 カクレソボ 村山寺子〔TOMのサインはあるが、 氏名なし〕

EG,H

村山寿子作・村山知義画 H 村山舞子作・村山知義ゑがく H 村山著子・村山知義画 B且F,H,一Ⅰ 村山籍子・村山知義画 E,H 8月 迷子ノジャガイモ 8月 泣き虫の小くトまさん 9月 川へおちた玉ねぎさん 10月 カヘルサント、オサラサン (昭和3年) 1月 三匹ノコグマサントキシャ 2月 三匹のこぐまさん 3月 髪床やの大根さん 4月 あひるさんのかみのけ 6月 あひるさんのくつ 7月 小ぐまさんのかんがへちがひ 8月 歯と限のわるいおぢいさん 10月 おもちゃのめがね 12月 がてふさんと犬さんの失敗 村山寺子作・村山知義画 H,Ⅰ 村山章子作・村山知義画 H 村山舞子作・村山知義画 A,H,M,R 村山啓子・村山知義画 村山静子・村山知義画 村山章子作・村山知義両 村山詩子・村山知義画 村山章子・村山知義画 村山章子作・村山知義画 H E,H E,H H H E (昭和4年) 「あひるさん と にほとりさん」シリーズ 3月 しんせつなあひるさんのおかあさん 4月 あひるさんのおたんじゃう日 5月 わがままをいったばっかりに 6月 プールへゆきました 7月 おくびゃうなあひるさん 8月 あひるさんとにはとりさんほのんきもの 9月 どろだらけののりまき 10月 ライオンの大損 11月 あひるさんとにはとりさんはなかよし 12月 いじめっこの犬さん 村山章子・村山知義画 村山章子・村山知義画 村山容子・村山知義画 村山舞子・村山知義画 村山章子・村山知義画 村山豊子・村山知義画 村山章子・村山知義画 村山豊子・村山知義画 村山舞子・村山知義画 村山章子・村山知義画

H H H H H H H ガ H H E E E E E E E 月 E E n n坊 けり n へ坊 ∩巧 n A n n

(12)

山 崎 88 (昭和5年) 1月 いぬさんとおねこさん(えほん) 2月 いぬさんとおねこさん(さんぽ) 5月 あひるさんとつるさん 6月 ゾウ ト ネズミ 7月 うさぎさん と おほかみさん (昭和6年) 6月 ねずみさんの失敗 7月 ネコノオリぐアサソ 村山章子・村山知義画 H 村山章子・村山知義画 H 村山舞子・村山知義画 B,E,H 村山寿子・村山知義画

E,H

〔村山昏子一氏名なし〕村山知義画 H 村山寺子作・村山知義画 ムラヤマ カズコ作 ムラヤマ トモヨシ画 村山静子作・村山知義画 村山章子作・村山知義画 A,E,H

H H H B E E

9月 耳長さんとあひるさん 11月 お鼻をかじられたお猫さん (昭和7年) 1月 エイガモノガタリ 三ゼキノコグマサン ムラヤマ・カズコサク ムラヤマ・トモヨシヱ 村山舞子作・村山知義画 村山章子作・川上四郎画 村山章子作・鈴木 洋画 3月 あひるさんと時計 11月 兎さんの本屋とリスの先生 12月 月謝の袋を失くしたあひるさん (昭和8年) 2月 風邪をひいたお猫さん 6月 かさをかしてあげたあひるさん 9月 泣いてゐるお猫さん 11月 川の中へおっこちたお猫さん (昭和9年) 1月 毛を染めかへたお猫さん 2月 入院したお猫さん 一毛を染めかへたお猫さんのつづき− 月 ポ E H E 村山章子・川上四郎画 村山章子〔画家名なし〕 村山韓子作・河目悌二画 (無署名)河目悌二霞 H H H E 玖 E H 古川アヤ作・深澤省三画 古川アヤ作・深澤省三画 C,E,H C,E,H

(13)

村山舞子(1903−1946)をめぐって お猫さんの毛はやっと元の通りになります 古川アヤ作・深澤省三画 89

月 月 月 月 月 月 月 月 月 月

3 5 6 6 7 8 9 10 11 12 C,EH C,E,H C,E,H ベルさんのお鼻をひっかきました とんだことになりました コドモ ト ハナ 汚い手をして デー・ルへ行きました 床やさんへ行きました グニャダニャになりました いぢわるをしました お風呂にはいってつかれました 古川アヤ作・深澤省三画 古川アヤ作・深澤省三画 カズコ作・田内須可子露 古川アヤ・深澤省三喜 古川アヤ・深澤省三画 古川アヤ・深澤省三画 古川アヤ・深澤省三画 古川アヤ・深澤省三画 C思H,L C,E,H C,E,H C,E,H

E,H

古川アヤ・深澤省≡画 C,E,H (昭和10年) 3月 カハイイ山羊サン 4月 犬サン ト 猫サン 5月 ミミヅクサン 落合ユキコ作〔画家名なし〕EH 落合ユキコ作〔画家名なし〕 落合ユキコ作〔画家名なし〕H 『コドモノクニ』 (昭和11年) 12月 ブイコサント青太郎 (昭和12年) 4月 こ階の窓までのびたチェ.−・リップ 5月 オ寝坊ナ ジャガイモサン 5月 〔別冊〕コドモノクニ ヌリヱノホン 7月 お鍋とお皿とカ・−テン

村山琴子・深澤省三画 B,E

村山鱒子・木村俊徳ヱ H 村山寿子・村山知義ヱ A,E,H,N 村山舞子作・村山知義画 H 〔作者名なし、絵にはTOMのサイン〕 A,B,E,H 村山章子〔tomのサイン〕 A且H 11月 きりぎりすのかひもの (昭和13年) 2月 ゴボウ君と大根君 村山韓子〔tomのサイン〕A,E,F,G,H

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山 崎 怜 村山賛子(文)村山知義(絵)E 90 8月 赤くなった赤だいこん (昭和14年) 1月 おやかんとおなべとフライパンのけんくわ 村山寿子作・村山知義ヱH,Q 2月 にはとりはみんなしあわせ 村山章子・村山知義画 H 3月 豚ちゃんはじぶんのおうちがすき 村山章子・村山知義ゑ 村山舞子〔tomのサイン〕E,H 村山静子〔tomのサイン〕 村山寺子・村山知義ゑ A,E,F,H,0 4月 けがをしたおほかぜくん 5月 やかましいまち 6月 あめくん 8月 スナマンヂウ 9月 こいぬのちびすけ 10月 オホサウヂ 11月 オマツリ 12月 キックラウ ト ネコジラウ (昭和15年) 1月 おにんぎょうさんのおうち(1) 村山舞子・村山知義ヱ 村山浩子・村山知義ヱ 村山寿子・村山知義ヱ 村山哲子・村山知義ヱ 村山舞子・村山知義ヱ H H H A,H 村山浩子 (2) 村山舞子・村山知義ヱ (3) 村山舞子・村山知義ヱ (4) 村山舞子 (5) 村山章子 (6) 村山舞子 (7) 村山舞子・村山知義ヱ (8) 村山舞子 (9) 村山寿子・村山知義ヱ qゆ 村山寿子 ㈹ 村山舞子 2月 // // 3月 // // 4月 // // 5月 // // 6月 // J/ 7月 // // 8月 // // 9月 // // 10月 // // 11月 // // 『婦人之友』

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村山蓉子(1903−1946)をめく■トって (昭和6年) 12月 線〔画〕映画 三匹の小熊さん(梗概) 村山華子 91 E,H 『少年戦旗』 (昭和4年) 9月 こほろぎの死 村山章子・川尻東次画 H 〔TOZIのサイン〕 『日本児童文学』 (昭和21年) 12月 あめ(遺稿) (これは村山亜土の筆によるもの) 〈退稿〉 ウミべ ノ マヒゴ ポリシネロ 村山韓子 村山章子 村山舞子 Ⅲ 劇 『子供之友』 (大正13年) 2月 しんばい 章子作・武井武雄画 H 11月 げき 無題「ピッコロさん」 村山章子・武井武雄画 H

Ⅳ 翻 訳

『子供之友』 (大正14年) 7月 くろねずみ(支那の童謡) 村山寿子訳・岡本帰一画 11月 三匹こねこ(マザー・ダースより) 村山舞子訳・村山知義ゑがく H

(16)

怜 山 崎 92 (大正15年) 2月 くもり日(マザー・ダースより) 寿子訳・知義画 H,.丁 『婦人之友』 (昭和7年) 1月 ピノッキオ・の冒険 2月 // // 3月 // // 4月 // // 5月 J/ // 6月 // J/ 7月 // // 8月 // // 9月 J/ // 10月 // // 11月 J/ // 村山章子訳・村山知義挿画 村山舞子訳・村山知義挿画 村山舞子訳・村山知義挿画 村山舞子訳・村山知義挿画 村山語子訳・村山知義挿画 村山寿子訳・村山知義挿画 村山舞子訳・村山知義挿画 村山簿子訳・村山知義挿画 村山寿子訳・村山知義挿画 村山韓子訳・村山知義挿画 村山韓子訳・村山知義挿画 H H H H H H H H H H H Ⅰ 童 話(つづき) 『少女文芸』 (大正15年) 4月 ある枚織りの話 村山韓子 『幼年倶楽部』 (昭和5年) 9月 ひつじさんとあひるさん むらやま・かずこ ともよし・ゑがく B.E.H

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村山寺子(1903−1946)をめくトって 93 (昭和8年) 4月 ザウサン サルサソ (昭和9年) 7月 ウササン ノ オモヒチガヒ 村山舞子・井上たけし画 H ムラヤマ カズコ ヱ・トヤマシヱソペイ 『家の光』 (昭和9年) 11月 ネズミサン ト リスサン ムラヤマ カズコ スズキ・シンクラウ(ヱ) (昭和12年) 1月 百匁サン ムラヤマ カズコ 《初出不明の童話≫ 『おねこさん と きんのくつ』昭和22年10月1日発行 『ママのおはなし』 『のんきな犬さん』 『のんきな犬さん』 『のんきな犬さん』 『のんきな犬さん』 『川へおちた玉ねぎさん』 『ノ臣\おちた玉ねぎさん』 『川へおちた玉ねぎさん』 昭和41年11月5日発行 昭和23年3月15日発行 昭和23年3月15日発行 昭和23年3月15日発行 昭和23年3月15日発行 昭和23年2月25日発行 昭和23年2月25日発行 昭和23年2月25日発行 家鼠とリボン 毛糸の・モンキコさん のんきな犬さん 大かぜをひいたふくろう あわれな兎さん タンポポの大飛行 電信柱から落ちたお猫さんは どうなったか? 角砂糖の角太郎 洋服のゆくえ プチさんの送別会 『川へおちた玉ねぎさん』 『川へおちた玉ねぎさん』 『川へおちた玉ねぎさん』 昭和23年2月25日発行 昭和23年2月25日発行 昭和23年2月25日発行

(18)

4 山 崎 怜 『ママのおはなし』 しっぽをなくしたねずみさんのお話『川へおちた玉ねぎさん』 9 昭和41年11月5日発行 昭和23年2月25日発行 昭和41年11月5日発行 昭和23年2月25日発行 昭和41年11月5日発行 『ママのおはなし』 『川へおちた玉ねぎさん』 『ママのおはなし』 マルメさんとめがね Ⅴ ルポルタ・−ジェ.・随筆 『晩翠』 (大正7年) 12月 幼き日の事 (大正8年) 12月 節米 『婦人之友』 (大正11年)

12月 ミ・セス安仁大森の有隣園を観る

(大正12年) 6月 高村光太郎氏の印象 7月 徳田秋聾氏の印象 8月 島崎藤村氏の印象 9月 佐藤春夫氏の印象 10月 焼ける夜の旋 11月 賀川豊彦氏を東京に見る (大正13年) 1月 東京のスケッチ 8月 明星学園を訪ねて 10月 三角の家より 岡内章子 岡内缶子 岡内章子 岡内籍子 岡内容子 岡内舞子 岡内舞子 岡内粒子 岡内舞子 岡内舞子 村山章子 村山寿子

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村山舞子(1903−1946)をめぐって (大正15年) 2月 私の経験した赤坊の一年間の発育状態 6月 育兄の参考のために一我が幼時の回想− (昭和2年) 3月 百貨店の朝 5月 中川一政さんのお宅へ 7月 こんな芝居の衣装 9月 乗客院 (昭和4年) 11月 赤坊を泣かせずに育てる秘訣 (昭和5年) 7月 七月の献立のうち (昭和8年)

1月 映画 人生謳歌

95 村山章子 村山舞子 村山寿子 村山章子 村山章子 村山章子 村山韓子 村山容子 村山舞子 『女人芸術』 (昭和4年) 7月 部屋の中の散歩 10月 健康な女の子 村山舞子 村山章子 『文党』 (大正15年) 3月 恋人の家を見る 村山章子 Ⅵ 詩

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山 崎 怜 96 『マヴォ』 (大正14年) 6月 「一つの大なる目的、即ち、一匹の悍馬に捧げられたる詩」 村山蟄子 『女人芸術』 (昭和4年) 3月 私を馬った夫に与ふる詩 村山舞子 Ⅶ 児童劇論 『児童劇場』 (昭和11年) 8月 児童劇について 村山章子 Ⅶ 和 歌 『新少女』 (大正7年) 1月 一首 4月 −・首■ (大正8年) 1月 一首再掲(大正7年1月のもの) 2月 −・首 『晩翠』 (大正8年) 岡内かず子 岡内カズ子 岡内かず子 岡内かず子

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村山舞子(1903−1946)をめぐって 97 12月 二首 岡内繁子 Ⅸ 俳 句 『晩翠』 (大正8年) 12月 一句 岡内かず子 Ⅹ 書簡集 (昭和22年) 10月 『ありし日の妻の手紙』(櫻井書店) 村山華子著 村山知義編 最後に.、舞子の書簡集について摘記してみたい。 かの女が執筆した手紙は、夫、知義、および減原惟人、中野重治、さらに他 の若干の人々へのものが残されている。いずれも重要なものばかりであるが、 とくに藤原への手紙は第一・級の資料であり、これまで私どもが調べることかな わず、氏の『芸術書簡』の陰画として想像するはかなかったものである。とこ ろが、辛いにも私は萩原氏が永く大切に保存されていた、これらの書簡の閲読 と研究の機会をあたえられ、また、村山亜土民よりも自由な研究をゆるされた のであって、ここにあらためて、藤原惟人、蔵原清人の両氏、章子のご長男、 村山亜土氏のご温情に謝意を表したい。 手紙全58通に通し番号を打ち、「付」は本人日付、これがないものは消印に よって年月日順に整理するとつぎのようになる。 些生 恥.1 8月6日(T) 恥.2 8月14日(で) Nn3 8月18日(T) Nα4 8月20日(T) 恥5 8月23日(T)

(22)

98 m6 8月28日(T) m7 8月28日(T) 恥8 8月28日(T) m9 8月28日(T) 肋.10 9月4日(T) Nb.11 9月7日(T) m12 9月20日(T) ぬ13 9月20日(T) 恥..1410月(不明)(N) Nα1510月24日付(N) m16 不明(N) ぬ1711月8日(N) 油.1811月11日(N) 馳.1911月12日付(N) ぬ2011月20日付(N) 軋2111月2ア日付(Ⅳ) 馳2212月17日(Ⅳ) Nα2312月20日(N) NG.2412月25日(N) 1ミI33Tiご 抽.25 1月9日付(Ⅳ) 恥.26 1月18日(N) m27 1月22日付(N) m28 1月28日(Ⅳ) Nα29 2月18日付(N) ぬ30 5月18日(N) Nα31不明(8月15日)(N) m3210月30日付(N) 山 崎 怜

m3311月16日(N)

皇軍室生 m34 1月21日(Ⅰ) 油.35 1月27日付(Ⅰ) 抽.36 2月11日付(Ⅰ) ぬ37 不明(Ⅰ) 抽“38 7月11日付(Ⅰ) 抽.39 8月7日(Ⅰ) 恥.4010月13日(Ⅰ) 恥4111月22日(Ⅰ) 上野蔓生 恥42 2月28日付(Ⅰ) m43 3月10日付(Ⅰ) 恥44 6月4日付(藤原章名義)(S) 肋45 7月17日(戚原尊名義)(S) m46 7月24日付(威原尊名義)(S) 恥.47 8月13日(藤原章名義)(S) m48 9月11日(藤原章名義)(S) Nα4911月20日(蘇原章名義)(S) 恥.5012月23日(藤原章名義)(S)

遡生

恥51 3月2日(藤原章名義)(S) m52 4月28日(藤原章名義)(S) Na53 8月24日(萩原章名義)(S) 豊里蔓Z室 恥54 4月17日付(戒原章名義)(S)

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村山寿子(1903−1946)をめぐって 馳.55 7月15日(藤原尊名義)(K) 主旦空室 N仇56 9月19日(藤原尊名義)(K) Nα58 2月24日(戚原章名義)(K) 主!こ!:i呈上ー 抽.57 6月9日(藤原尊名義)(Ⅹ) 99 このうち、T(豊多摩刑務所)、N(中野刑務所)、Ⅰ(市ヶ谷刑務所)、S (札幌刑務所)、E(小菅刑務所)ほそれぞれ気付に、出されたものであること を示す。TとNは町名呼称変更にもとづくものであるから、Tに−L括して処理 してもよい。

ここでは、紙幅の制約から、かの女の病歴を確認することに主に限定して、

これらの書簡から何をあたらしく知りうるかをいくらか指摘しておきたい。 章子は1946年8月に肺結核によって死去した。そしてこの宿痢にかかったの は知義のたびたびの記述でほ昭和14(1939)年であるが、主治医塚原俊雄が私 にかたったのほこれより数年さかのぼるし、自由学園時代の友人が私に打ちあ けられたのによると、すでに亜土が1歳くらいのときに喀血したことがあった という。もっともこの喀血が肺結核にあたるものかどうかはいまは確定するこ とはできない。 もともと水泳選手で体格もよく健康であった章子の曜病は、かの女が楽天家

であり、また、むしろ楽天家であろうとこころがけたこと、みずからの不快に

ついて夫君、知義や親類縁者に告げることを避けたとおもわれることもあり、 不明の部分が多いのである。ところが病原あて書簡ほ「少女」的心情を吐露し て意外に自己の体調を告白しており、貴重である。 手紙5(1932・8・23消印)は「このごろ、何だか自分は身体が弱くって、 早く死ぬやうな気がして、イヤんなってゐます」と弱音をはく。母の死の影響 もあろうが、このとき、母子ほ29歳であった。 手紙10(1932・9・4消印)ほノドの痛みを訴えている。ノドの弱さはその 後もたびたび言及され、かの女はこれをみずからの体調くずれの典例としてい

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山 崎 怜 100 たし、この手紙10ではとりわけ、つぎの文言があり、黙過できないのである。 「私ほ、ほんとの事を言へば、永生きなどは、とても出来ません。生きて、せい ぜい40才[歳]位まででせう。35位かも分りません。(中略)あなたたちが出て いらっしゃる頃には、もう、死んでゐるでせう。私は、身体が、大変、よわいの ですから。」こうした筆致は前後の文言から、やや大げさで冗談めいてもいた

と推定されるが、本音が覗いていたともいえる。かの女自身にとっては、いわ

ば本質的に健康感覚が欠如していて、その理由が本人にもわからないまま、こ

うした言辞を吐露させたものとおもわれる。しかも、結果としていえは、不幸

にもかの女の予言はなかば的中して、42歳で他界したのであるが、この際注意

すべきはその後の戦時体制の進行、空襲と食糧難、知義の朝鮮亡命、帰国と疎

開、療養の不備など思いがけないことの重なりがかの女の死期を早めたのであ り、かの女の体調そのものが、32年において、そのように重症であったとはに

わかに断定することはできない。したがって、その予言にもかかわらず、予言

がおもわぬ形で的中したとしかいいようがない。 手紙18(1932・11・11消印)では、「私は元気なのですが、身体は悪いので す。困りました」とあり、ひきつづく手紙19(1932・11・12付)は「昨日から又 からだがわるくなって、ねてゐます。(中略)私の病気は何だか分りませんが、 立ってゐると気持ちがわるくなってしまふのです。少し熱があります。せんか ら、時々かうなってゐたのです。」とかいているし、さらに手紙22(1932・12・ 17消印)では、「私ほ、矢張りのどを悪くしてゐます。いつもせきが出ます。 又、夜、ねむれなかったり、頭痛がしたりいたします。大した事はありません。

たゞ、私の父が肺結かくだし、従兄も従弟も伯父さんも皆、これで死にかゝっ

てゐるので、私も用心しないといけないと言はれました。従弟はもう、死にさ

うになってゐます。でも、私はさう悪くはならないつもりです」としるしてい る。われわれにはかの女の身体の奥ふかくに病気が伏在、潜行しているかにお もわれてくる。 つぎの23信、24信でも咽喉の痛み、風邪による不眠がかたられ、身体の疲労 への言及が目をひく。陽気であろうとするかの女は気にとめない風に他の用件 や生活報告をこころみるのだが、かの女の病歴を調べるものにとってはいじら

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村山籍子(1903−1946)をめぐって 101

しく、また、いたましい。しかし、この「いたましい」といった表現がかの女の

好むところでぽないことはいうをまたない。 手紙25では「今年になってからは、私はまだ病気になりません」といいつつ も、手紙28では「20日すぎから、又、病気に.なって、今日もまだ起きられない

ので、遂に行く事が出来ず、残念でござい

ました。病気ほ、熱ばかり出て、下 らないといふ、何だかワケのわからないものです。‥・…/去年から今年にかけ て、あまり始終病気になるので、どうしたんだらうと思ってゐます」と記して

いる。戒原の誕生日にさえ差し入れに出かけられないのである。咽喉の痛み、

扁桃腺炎はあいかわらずであり、胃もわるく(手紙31)、「神経衰弱」(手紙30) や不眠(手紙32)を訴え.、「のどにホ・−・タイなどまいて」(手紙35)いるのであ

る。丈夫だ、元気でいるということばもみえるが、それはおもてむきであって

−・連の手紙をならべてよめば、病気のことは生活のなかの通奏低音のように顔 をのぞかせ、当時の辱子をさいなむようにしのびよっていることはあきらかで あり、やがて顕在化した肺結核がかの女の身体の基底に、すでに定着したこと を示すものであるかも知れない。 しかし虚勢を張卑哲子は医者に診てもらうべきだとの戚原の忠告をしりぞ

け、「私は不養生」だと甘えて、「自分の身体を大切にしないのは、それは、私

が、チリ、アクタの如く、とりあつかほれて育って釆たからです」とのべ、「病

気だからといって、大切に.されたことも、心配された事も、看病された事もあ

りません」とまでかいている(手紙25)。これがどの程度に真実であるかは留保 を要するが、岡内家での豊子の位置をみずから回想したものとして注目すべき

ことである。が、それはそれとして、そうした体験から他人が「私の健康につ

いて心配してくれやうとは思ふ事が出来ません」と藤原の厚意をさえ.、はねの

けつつも、相手が戚原であることから、素直に正気にかえって「でも、なる丈

け、注意することにキメました。何故といって、私は私個人のものではないの

ですから。もっと長く働かなくてはなりませんからね」と神妙になる。かの女

の強がり、茶目っ気ぶり、甘え、いじらしさがこうした心理のながれによみと

れるのだが、「私は私個人のものではないのですから」というくだりは昏子ら しからぬ決意と自覚がみなぎり、差し入れとか救援活動とかの生活を本人がど

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山 崎 怜 102 のようにかんがえていたかをおもわず示すもので、とくに重要な発言である。 不断の胃の痛み、不眠、咽喉の不調、発熱、神経衰弱の日日のなかで章子は 藤原のすこやかな健康と獄中勉強の進展をねがいつつ、救援に傾注したのが、 1933−34年という、かの女の2ヵ年であり、そのなかで、みずからの語学勉強、 文学と芸術のあくなき吸収、読書生活、そして読書設計のあれこれを計画する のは手紙にあるとおりである。その裏側で病魔は確実に進行していたことはそ の後の事情からも明白である。 手紙42−58は、刑が確定した藤原が「下獄」一懲役刑の「囚人」が確定し

た刑に服して刑務所にはいり、所定の期間を消化すること−することとな

り、市ヶ谷刑務所から「下獄」の札幌刑務所に移送され、その他において、

1936年の春、肺結核におかされ病監にうつり、病さらに重きを加えて小菅刑務 所に移送され、おなじく病監にほいる五年間に哲子から送られた17通である。 この間、相前後してではあるが、やや、おくれて豊子も肺結核を曜病、気胸に よる治療や断続的な通院、入院の生活がはじまる。しかし、両名ともに、自己 の病気について正直に報告しあっているとはおもわれない。ひたかくしにして いるのではないが、さりとて率直にみずからの病状を告白して相手の病気をふ かめたり、あるいほ不必要に心配かけることを避けたのでほないか、と推察さ れる。同時に、とくに章子の側では長期にわたって曜病の程度、意味、病名な

どについて的確な把握がなく、病名としての自覚がこれまた、半ば意識的に、

半ば無意識的によわく、とはいえ、「薮から棒」に死の予感や短命への予感だけ

はつよく −「このごろ、案外、私ほ早く死ぬのでぼないかといふやうな濠感

がしきりにして、気味がわるくて堪りません」(手紙46)− 、この点にこだ わると、かの女の手紙をよむ側がそれこそ「堪」らないが、手紙全体の色調や

かの女の性格を考慮して、−・応、安心というわけである。だが、こうした生活

態度やひととの応接において、かの女の本質的に、うつくしく喜劇的な、それ

だけに悲劇的な位置をみいだすことは十分に可能なのである。 この5年間は、期間の長さに比して、手紙数は前半の3年間(1932−34)と は.くらべられないはど、少ないし、5年間の内部でも年月を経るにつれ激減し ている。35年の9通から、36年と37年とは3通づつ、38年と39年はそれぞれ1

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村山寿子(1903−1946)をめぐって 103

通づつでしかない。もちろん、これほ現存書簡であるから、もとのものはこの

数よりは多いのだが、しかし、土の傾向自体ほかわらないとみてよい。 激減理由の第1ほ戯原が既決囚となり、かれの発信する手紙ほ月に1回、家 族のみにゆるされるという極度の制限のゆえに、篭子ほ戯原章なる架空の家族 名を使用せぎるをえないだけでなく、かの女への直接の返信を期待できない− 方交通を余儀なくされるという事態である。蔵原にとってこは、みずからの家族

一父や母に月に一度、発信すると、かの女へは返信はできないし、その逆は逆

であるから、だれかに出す手紙に添書するという形での間接的な返信となりが ちで、その連絡は時間的にも空間的にも切断された。戚原が病原章あてにした ためた手紙は現存では3通だが、貴名義の哲子の手紙ほ15通という双方の書簡 数の差は未決時代にはなかった事情にもとづくのである。ただし、章(章子) の手紙44の冒頭にある「5月25日付のお手紙拝見いたしました」という戯原の 書簡ほ.『芸術書簡』に収録されていないので蔵原の側の書簡数も不確定である ことに注意されたいし、この「5月25日」が「5月21日」の誤記ということも ありえないわけでほ.ない。というのも、「5月21日付」の戚原惟郭、終子(藤原 の両親)あての札幌からの第1信がのこされているが、それが藤原の下獄をお もんばかる関係名全員への最初の報告であることから、「家族」で廻しよみし て、これをよんだ章が「拝見いたしました」としるしたことは十分にありうる ことであった。威原は月に1回の家族あての手紙を特定の家族のみに執筆した のではなく、全員にあでたのであり、それを廻しよみした各人がそれぞれの用 件を果すべく、それぞれによみとったのであるから、差し入れについての言及

の多くは、手紙の名宛人に関係なく、豊子への依頼や返信としてみなして、必

要な救援活動を続行したのである。

したがって、既決囚たる藤原の手紙をよむ場合には−

ここでの主題では ないが、章(豊子)の戚原あての書簡を理解するうえで言及しておくのが便利 である−

、その実質、形式ともに同一・の名宛人は論外として、最初によむ

べき人物(それは多くは名宛人である)、名義として当然優先するべき人物(こ れも名宛人)、かならず在宅していて受信人として直ちに受領、行動をおこす ことのできる人物(名宛人)だが、この人物から連絡をうけて蔵原の急ぎのノ肘

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山 崎 怜 104 件を充たす人物(単数、複数とありうる)とか、あまり失礼するとわるいので 名宛人とはするが、内容は.他の人物への文面をふくむとか、というさまざ■まの ケースがあった。1935年9月14日付の戚原惟名あての手紙末尾で「私からの手 紙の宛名の人が留守の場合には誰でもあけるようにして下さい。急ぎの用があ ることもありますから」と戒原はかき、同じ手紙の本文の最後に「来月は章さ んに書きますからそう備えて下さい」とも記している。つまり病原の手紙ほ.す でに厳密にほ私信でなく、多くの用件と多くの人への発信なのであり、「お父

様、お母様はじめみんなによろしく、姉さんにも∼惟重や惟之にも。あなたも

どうか鰹を大事にして下さい」との添書は単純な「よろしく」でなく、そうし た家族ひとりひとりへの個別の手紙を束ねたものとしてよみとらなくてはなら ない。この手紙の冒頭に「先日お父様から手紙をいただいて何度も読み返しま

した。…‥章さんからのドイツ語のグリムも受取りました」とあるのも、父、

惟郭への、そして戚原章への謝辞と返信を意味するのである。だから、もしも

惟名がこの手紙を自分だけがよみ、自分だけの胸にしまっておいたのでは、藤 原の意図は全く無視されたことになる。そうして、もちろん惟名はこの貴重な 文面を必要な範囲において回覧し、それぞれの名宛人に報じたことは想像にか たぐないのである。 ここで急いでつけくわえると、右の「来月は章さんに書きますからそう停え て下さい」の35年10月分の藤原の手紙、また同年6月16日付の惟郭、終子あて の手紙に「アヤさんからの手紙も受取りましたが、今月はあなた方に書くよう に.既に届けてしまいましたので、来月返事を書きますからよろしく備えて下さ い」とある同年7月分の章あてと目される藤原の手紙のいずれも『芸術書簡』 には収録されていない。手紙が不許となった(缶子の手紙47と49からの推定で は不許ではない)のか、村山家の側の手落ちで散供したのか、戯原が収録を留

保したのか、その他の理由なのか、残念なことである。すくなくとも豊子自身

は歳原の手紙を最優先して大切にしたとおもわれるのでかの女自身に散供と いった不手際があったとほ到底かんがえにくい。 いずれにせよ、こうした制約から藤原は藤原章なる章子への直接の返事を他 の家族への通信文中の数語にしるさざるをえず、右の例のほか、たとえば35年

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村山寿子(1903−1946)をめくヾって 105 8月17日付の両親あての文面に「章さんからの2通」、同年12月16日付の藤原 惟賢(じつは松本正雄)あてに「章さんからの1通」、36年9月2日付の両親あ てに「章さんからの1通」、37年10月7日付の両親あての文中に「章さんのハガ キ」をうけとったとあり、これによって舞子への受領の礼としたのであった。 不自由きわまりない間接的な謝辞であり、容子自身にとってはさぞ「憎らし い」ことであったとおもわれる。 ところで月1回に制約された藤原に.対して舞子は何通でも執筆できたわけだ が、先方からの返事はほとんど期待できぬという「不平等」な関係に.あり、か の女にしても、ひとり相撲の感ぬぐいがたく、差し入れ書の収集活動はともか くも、手紙の執筆回数ほ減少しがちになるであろう。 病原章の手紙をよむとき、右の事情のゆえに、これまでとことなる配慮がな されなくてはならない。たとえば、手紙45の「先日、あなたからの第2信拝見

いたしました」の第2信はかの女あででなく、両親あてのものであるから、こ

の45はかの女の−・方交通で執筆したものであること、手紙47の末尾にある「お

手紙は、方々へお出しになるんですから、、私、へは時々でよろしゅうございま

す。私からはしじゅうかきます」との一文には、かの女の「甘え」とはにかみ と遠慮とが逆説的に示されており、前後の抹消字数の多さとあいまって、本音 は自分あての手紙を願う、かの女の迷うこころをよみとらなければならない。 手紙48の末尾にいう「昨夜あなたの夢を見ました。昔の通りのあなたでした」 という文章、手紙49の「今度ほ.、もう、すぐに書きます。どうかおからだを御 大切に。冬の夜、火鉢のそばで一人すわってゐると、ほんとに、あなたとお話

できたらとしみじみ思はれます。私のことはどうか、御心配なく」とか、手紙

50の「昨晩、あなたの夢を見ました。大てい、いつもさうですが、面会に行っ た夢」といった文節などには自由な通信のかなわぬ右の事情のなかで寿子の想 いがおもわず吐露されているのである。これをよむ側の嘆きはいっそうふか い。 激減理由の第2は、そして理由の程度はこの方がより大きいともかんがえら れるのだが、浩子の発病、入院、療養である。これまでにも指摘したように、 かの女の発病時期や明確な病者意識の自覚の年月もあいまいである。戒原あて

(30)

山 崎 怜 106 の手紙で寿子が明白にみずからの病名と入院、さらに.治療について語っている のは手紙58−これは現存の、なんと最後の書簡−であり、「実は、私も、肺

シソジュンになって、今、ねたりおきたりしてゐるものですから、いろんなも

のをよんで研究したのです。・・‥病気にはならないなんてゐばってゐましたけ

れど、やっぱりだめでした。自分でも、おどろいてゐるわけなんです・が、ふし

ぎでたまりません。ずっと先からのが気がつかないでゐたんでせう。……先日 から、お便りしたいと思ってゐたのですけれど、ずっと入院してゐたものです

から」とかいている。当時、戒原自身も重症の結核で病監に収容され、遠くな

い日に出所するということが予定ずみであったから、かの女は正直に自己の罷 病と病気療養について内報したのだとおもわれる。それかあらぬか、この58で

も、「私のは軽いんですから、どうぞ、御心配下さらないやうに」とか、「お宮

者はシソジュンなんてなほしたってなはしがひがない位軽いもんだ」といって いるといい、自己の病気の軽さの強調と戚原の曜病への慰めとその治療への男 気づけに意を用いたとおもわれる。 この手紙58の明白な「肺シソジェ.ン」とか「入院」とかを別とすれは、今回 の手紙群でも病気の自己認識はつよいとはいえない。手紙42では、「私は、身体

には、あまり自信がありませんが、せいぜい用心して、病気にならないやうに

しやうと思ってゐます」、45では「私は、■また、不眠症と、胃病で、うんざりし てゐますが、大体は丈夫です」となっているが、突然、46はさきに.引用したよ うに「私は早く死ぬのではないか…・…気味がわるくて堪りません」とかく。手 紙49は「時々、不眠と、胃病になやまされる事もあります………このごろ、甚だ しい神経衰弱にかゝって、書くものが、書けなくなってしまひ」としるし、36 年3月の手紙51には「1月、2月は、この寒さでインフルエソザにかゝって、 まだ、毎日、ふらふらしてゐます。先日、芝から、釆てくれといふハガキが参

りましたけれど、こんなわけで、出かけて見ましたが、途中で、気分がわるく

なって引きかへしました」とある。いずれも病状、症状への言及であり、また

、事実上、病気への言及でもあるのだが、本人は自覚した羅病として、あるいは、 みずからをかりそめならぬ病人として説明しているとはいえない。

しかし、それは陽気たらんとする、お茶目な章子の態度、救援活動に身を挺

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村山舞子(1903−1946)をめく、【って 107 したいとする生活信条が自己の身体の基底に定着しつつある病魔から意識をそ らさせ、日頃の不養生と健康への自信から夏に水泳さえ/やっておれば、足に塩 をすりこんで、窓を開け放して休めば、なんとかなるというラフな健康観をす ぐなくとも自分自信についてだけは、むりやりに植えつけるというか、おっか

ぶせたのである。つまり、本来の草子は心配性であり、とりわけ他人について

は極度の心配性であって、手紙にみるように藤原への健康維持へのことばは毎 回のようにみられるし、病監に移動した痕原への心配のゆえに夜も眠られぬは どなのに、自分自身には全くあっけらかんとして無頓着であった。これほ他人 から誤解されかねない豊子のヒェ.・−マンな特徴であって、ちょっと、ふつうの 人にほ、まず納得しえぬといってよいはど、自他の区別、もしくぼ分断、分裂 がかの女の性格にはみられたのである。 それにもかかわらず、身体に板をおろしたかにみえる病魔がつぎのような記 述を強いる。「私はこの2月にインフルエ・ンザになってから、どうも身体のエ 合が思はしぐなく、とても疲れてしまって、芝へほ去年の碁から御無沙汰して ゐます‥…‥外に出ても、まわる勇気が出ないものですから。…‥・1大した事ほあ りませんけれど、胃の方もわるくて。どういふわけなのか、どうしても、分り

ません。大して悪くもないのですけれども、ぐったりしてしまって。今の所、

その原因を研究中です。あれ、これと、薬をのんでみて。」(手紙52)「私ほこの ごろ、よく眠れません。」(手紙54)「私はこのごろあんまり身体の工合がよくあ

りません。あなたよりはずっとずっといゝのですけれども、夕方七度二、三分

位熱が出ます。おなかもわるくしてゐますし、せきも出ます。でも、特別に病 気といふのではありませんから何卒御安心下さい。」(手紙55) あきらかに、こうした病状の説明はのちに顕在化した結核がすでにかの女の 身体に宿っていることを示している。「外に出ても、まわる男気が出ない」ほど 「ぐったりしてしま」うし、夕方には「七度ニ、三分位熱」があるし、胃もわる

く、せきもでるのに、かの女はくりかえし、「大して悪くもない」し、「特別に

病気といふのではありません」、「でも、どうか、御心配なく。大した事ではあ

りませんから。夏になれば、よぐなるでせうと思ひます。」(手紙52)「私の方は

もう大丈夫です。冒から来た熱らしいのですから。それに、身体が悪いより気

(32)

山 崎 怜 108 持の問題です。」(手紙56)「私のことはどうぞ御心配ないやうに.」(手紙58)と かき、むしろ獄中の痕原の病気への見舞と忠告、心配がどの手紙にもみられる のである。 右の経緯から章子の発病の時期や病気の程度をかの女の手紙から確定するこ とほできない。しかし、章子みずからが自己の体調をいわば弱められた文意に おいでではあれ、これはどにくわしくのぺたのは藤原への手紙以外にはなく、 これらの手紙群ほどに、かの女の「病歴」を調査するうえで重要なものほない。

しかも、われわれはかかれた内容のよみとり方だけでなく、何がかかれ、何

がかかれなかったか、そして手紙の頻度、手紙そのものがかかれなかった時期 とその意味などを究明するべきであろう。とくに、爆発的な発病の時期があっ たとすれば、かの女はその期間は手紙を遠慮するだろうし、しばらくは静観し

て、平静さをとり戻したうえで、執筆するとおもわれるからである。先方が囚

われの身の上で、しかも軽度ならざる肺結核であることが判っているのであれ ば、かの女の側は余計に慎重であることは当然であるとおもわれる。 章子の藤原あての手紙は、現存数からも、いくらかの推定数をつけくわえた としても、1936年から激減してゆく。何かある、といぶかしくおもっても、不 自然ではない。 もうひとつ、童話作品の発表点数の問題がある。かの女は1935年までは主と して『子供之友』、1936年以降は『コドモノクニ』を発表場所としたが、35年、 36年、37年、38年が点数のすくない年であり、39、40年は毎月、発表しており、 とくに39年は豊穣の年といってよい。35年は発表誌変更の中間年であるため、 事情があきらかでないかぎり、曜病との関連をみるのは適切ではない。 この発表点数からみても1936年、37年に、かなり深刻な発病との相関をみい だしてもおかしくはないとみられる。39年の多産ほ38年の仕事の発表分との解 釈も可儲であり、38年と39年の2ヵ年をどうみるかほかなり微妙なところだ が、手紙52以降の内容からみて、38年の病気は篤いと理解される。夫、知義は 章子の発病を39年としていたけれども、これは正確な記憶とはいいがたい。 さらにもうひとつ、主治医の述懐であって、さいわいにも私は塚原俊雄医師 から章子の病状について詳細に伺いえた。塚原は知義と旧制開成中学、旧制第

(33)

村山韓子(1903−1946)をめぐってニ 109 一高校の同級生で、発病後の舞子を知義が同道して診察したこと、−・般に医老 を信頼しない舞子が塚原のみには例外的に信をおいたこともあり、かの女の病 気の中身、治療経過については鮮明に記憶していたのである。日時までは別と して、「昭和11年頃から寿子さんを診察した。自宅で喀血して、ふたりでこられ た。気胸の効果がよかったのに、自分が禁じたパーマネントをかけたいといい だし、のぼせたのか、啄血をくりかえした。戦争が■まだ激しくなかった昭和12、 3年頃とおもう」といわれた。結核の専門医である塚原は華子の病名は型から

いうと診出性結核であり、空洞もあり陽性でもあったし、しまいには腸結核に

もなっていたといわれた(詳細は別の場所にゆずる)。塚原の発言と華子の文 面を照らしあわせれば、手紙にかかれた、医師は「肺シソジュン」といい、「■な はしたっでなはしがひがない位軽いもんだ」あるいほ手紙55の「私ほ、絶対に、 肺をわるくする事は、ないと、折紙をお啓暑がつけてくれました」というのが、 いかに医師の治療上に必要な虚言であったかがわかる。「帝子さんは神経質で ロマンティシストであり、また、わがまま一療養上の−であるので、医師と してはじつにやりにくい患者にぞくした。結核という病気は当時は永い病気で して忍耐とリアリズムが要るのです。わるくなると非常に悪化したとおもいこ んだり、よくなるとすっかりよくなったと有頂天になるのでは困るんです。舞 子さんは詩人的であり、ちょっと注意したり説教がましくいうと、機嫌をそこ ねて、外来にこなくなるという人でした。」しかし、その塚原だけを寺子は医師

として信頼し、自分の病気を診させ、生睦を閉じる瞬間の遺言でも、絶えだえ

の息のなかで、かれへの感謝の念を表明したのである。 右のことから、1936年という年が本人が自覚した発病の年であると推測して も大過はないといえるだろう。その自覚の発端に喀血ということが大きなエレ メントであったほずだが、「喀血」の2字は韓子の文章のどこにもみあたらな いように、症状について控え目の報告に終始したことは、これまでにも再三し るしたとおりである。知義の自伝によっても、かの女は喀血をくりかえしなが

ら、けろりとして、差し入れに奔走したとあるのだが、そうした雰囲気ほ手紙

だけからよみとることは困難である。 それはさておき、潜在した形での病気そのものはもっと古いのではないかと

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山 崎 怜 110 おもわれる。胃の痛み、原因不明の発熱、体がだるい、せきが出る、「立ってゐ ると気持がわるくなってしまふ」、病弱意識、そして短命の予感、こうした文言 はすでに.32年からはじまっている。塚原に.よれば、章子の結核は「再感染型」 であり、また、身体それ自身の印象は、との私の問いに、かの女ほ特別にひよ わとも、格別に頑健ともおもわれなかったといわれた。「病歴」の全体に関して はさらにかんがえてみることにしたい。 ところで藤原宛の手紙から病歴のみをかえ.りみるのは、いわば副産物のみを とりだすのにひとしく、本来はそこから主産物をまず収穫するづきであること はいうまでもない。主産物とは何であろうか。それは何よりも多方面の能力と たぐいまれな感受性に富む蓉子がもっとも信頼し憧憬した戒原の胸をかりて、 みずからの心奥を打ちあけ、乱舞しつつ、甘えたり拗ねたりをくりかえしなが ら、文学、芸術(絵画と音楽)について奔放自在に語り、また、みずからの感受 性や強がりや弱さを率直に表白したこと、戯原の獄中読書計画を差し入れや救 援によって支えた裏側の事情、そしてかの女自身の語学勉強や、めくるめく読 書日誌や映画評、監督論など、これらの全貌をあきらかにすることである。

しかし、当初の約束にしたがい、それらの全体は別の機会にとりあげる。た

だ、病歴のみでほすこしおちつかないので、舞子の感受性を自身がどう語って

いるかの例示として、かの女の音楽への想いの1部を紹介し、ここでの責をふ

さぎたいとおもう。 舞子は、童謡と童話の創作によって世の中に自己の表出をおこなった。それ は半ばは知義の童画による刺戟と介添による、かの女本来の恥ずかしさの超克

にあったとみてよい。しかし、もしも音楽において、同様の私的恥ずかしさを

超える触媒があったならば、撃子は音楽評論の道を歩むとか、あるいは準演奏 家めいた人生、あるいはむしろ作曲家という人生を歩いたかもしれぬとおもわ

せられるはど、かの女が音楽を心底から愛し、たのしみ、独自の力量と感覚を

具有したことが指摘されるのである。 手紙11はグリ、−クのバラードを聴いた感動をしるして「あなたは、音楽はお

好きですか?私は大変好きなんですよ。音楽ほど、作者の気質や境ぐうが正

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