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「向こう見ずな凝視」とフェミニズム

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Title

「向こう見ずな凝視」とフェミニズム

Author(s)

竹本, 憲昭

Citation

外国文学研究, 第23号, pp.29-45

Issue Date

2004-12-30

Description

URL

http://hdl.handle.net/10935/652

Textversion

publisher

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『向 こう見ず な凝視』 とフェ ミニズム

イ シュメール ・リー ド (IshmaelReed) の 『向 こう見ずな凝視』 (Reckless Eyeballing) (1986) は,彼 の作品群の中で特別 な位置を占めている。 ネオ ・ フー ドゥ-イズム (Neo-Hoodooism) とい う特異で魅力的 な一種 の折衷主義 を唱える リー ドは,作 中に映画やマ ンガなどにみ られ る非文学的でポ ップな 要素を取 り込み,パ ロデ ィやパ ステ ィー シュなどの手法を縦横 に駆使 して, 凡庸 な意味 しか担わなか った通俗的な ものに,侮 れない深 みや複雑 さを与え て きた。一見軽 いよ うでいて,実 はただな らぬ重みを持 ち,読者 の固定観念 に揺 さぶ りをか けてい く,そ うした トリッキ-な作風 に リー ドの本領 が発揮 され るのである。 「中心」や 「制度」 と見徹 され うる, とか く硬直 しがちで, 個人の自由を奪 って しまうものを痛烈に攻撃す る トリックスター,それが リー ドの真骨頂 で あ り, われ われ は 『黄表紙 ラ ジオ崩壊 』 (yellow BackRadio Broke-Down) (1969),『マ ンボ ・ジャンボ』 (MumboJumbo) (1972) などの 彼 の代表作 において,作者 の トリックスターぶ りが高度 に機能 しているのを 確認す ることがで きる。 黒人作家 と して, アメ リカにおける人種差別 を批判す るにあた って, リー ドの以上のよ うな毒のある風刺的技法 は,斬新かっ有効 な ものであ った。 し か し,あま りに斬新であ りす ぎたためであろ うか,慧眼な少数 の批評家 たち が 『黄表紙 ラジオ崩壊』 や 『マ ンボ ・ジャンボ』 を 1970年代 において も高 く評価 していたに もかかわ らず, これ らの リー ドの代表作 は広 く読 まれて注 目を集 めるには至 らなか った。 - 2

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9-1980年代 に入 ってか らは, リー ドの代表作 を入手す ることす ら困難 にな っ て いたが,そのよ うな時期 に 『向 こう見ずな凝視』が発表 され,反 フェ ミニ ズム小説 と して フェ ミニス トのみな らぬ様 々な批評家 たちか ら苦言 を呈 され ることによ り,俄然 リー ドの知名度が高 くな ったのは皮 肉であ った。 この作品に限 らず,従来 リー ドが女性 を正 当に描 いていない とい う批判が な くはなか ったけれ ど も, これ までの トリッキーで超現実的な作品は,その 難解 さゆえに,批判 の鉾先 を鈍 らせていたよ うな観 がある。 リー ドが各作品 において どのよ うなメ ッセー ジを発信 しているか,一筋縄 では捉 え られない か ら,批判者 も責 めあ ぐんで しま うのだ。 そ もそ も リー ドは, 自分 の思想 や信条 を,あか らさまなかたちで主人公 に 代弁 させた りは しない。 あまつ さえ,作品にち りばめ られた金言 め く断片 を 拾 い集 めて秩序立て,そ こに作者 のメ ッセー ジを読み とろ うとす る試 みは, 必ず しも成功 を保証 されていない. リー ドの文章か ら文字通 りの意味を引 き 出す ことは, しば しば誤解 ・誤読 の基 とな りうるのだ。彼 は,単一の言葉 , 語句,文 に,複数 の (しば しば相反す る)意味を担わせ る。 そのよ うな書 き 方 をす るのが リー ドであ り, メ ッセー ジがす ぐに把捉 で きるよ うな達意で透 明な文章を,彼 は書 きた くないのだろ う, さ らにはことによると書 こうと し て も書 けないのだろ う, とさえ思われるようなところが この作家 にはあ った。 しか し,『向 こう見ず な凝視』 は,従来 の リー ドの作品 とちが って, メ ッ セー ジがあか らさまに表出されている, と少 な くとも批評家 たちにはみえた。 た しか に この作品は, これ までにな く輪郭 のは っきりと したス トー リーを持 ち,それが例 によ って脱線 してい くとい うことがない。 また,設定や登場人 物 は基本的 に リア リステ ィックであ り, いか に も リー ドが現実の社会 におい て不 当だ と感 じていることを,直接的 に告発 しているよ うに見受 け られ る。 この作品で リー ドが攻撃の的に しているのが絶対主義であることは疑問の余 地がない。 この点 は,制度 を撃 ち脱 中心を志 向す る リー ドのスタ ンスか ら外

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『向こう見ずな凝視』とフェミニズム れ るもので はないが,攻 め方がよ り露骨で重 い ものにな っていることは見逃 せない。 それ は,俗 な言 い方 をすれば, 「芸がない」 とい うことだ。 しか し, もちろん この作品への批判 は,単なる芸 のなさではな く,絶対主義 を フェ ミ ニズムと結 びっ けた筋立てに集 中 した。 ところで, この作品において絶対主義 と結 びつ け られ るもうひとつの もの がある。 それ はナチズム-反 ユ ダヤ主義である。 そ して, ニュー ヨークの演 劇界 において強大な権力を握 る白人女性 ベ ッキー ・フレンチ (BeckyFrench) が, フェ ミニス トの立場 か ら, ヒ トラーの愛人であ ったエ ヴ ァ ・ブラウ ン (EvaBraun)を擁護す るとい う筋立てが, フェ ミニズムとナチズムに通 じ合 うものがあるかのよ うな印象 を与えているよ うにみえ る。 いまとな っては全 否定 され るのが当然であ って も,ナチス ・ドイツにおいて は無謬であるはず だ ったナチズムと同様, フェ ミニズムも無謬を装 い一切 の批判 を許 さぬ,危 険な絶対主義思想 であるかのよ うな印象 を。 しか し 『向 こう見ずな凝視』 は,単 にそれだ けの駄作 として退 け られ るべ きものなのだろ うか。 いや,そ うで はないと主張 し,一見単純 にみえ るこの 作品 も, リー ドな らで はの トリッキーな ところがあ って,実 はかな り複雑 な 侮 れぬ作品であると論 じる者 もいる。 また, トリッキーな ところを長所 と認 めっっ も,反 フェ ミニズムの印象 は拭われない と見倣 して,駄作 とは言わぬ まで も,『マ ンボ ・ジャンボ』 などの リー ドの代表作 に比べれば数段落 ちる とい う意見 もある。 はた して 『向 こう見ずな凝視』 はいかよ うに評価 され るべ きなのであろ う か。全否定派,擁護派,やや肯定寄 りもしくはやや否定寄 りの中間派 と, ≡ 者 それぞれの言 い分があるが,以下,それ らに言及 しなが ら, この作品が フェ ミニズムをどのよ うに表現 しているのか,具体的 に検討 していきたい。 まず この作品の粗筋をみておこう。主人公 は黒人男性劇作家のイア ン ・ボー ル (Ian Ball)。彼 の最初 の作品 Suzannaは,女性 の主人公 がギ ャングに レイ -

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31-プされ ることを望む とい う点が女性 を不 当に扱 っているとい うことで,不評 であ った。次 の作品が RecklessEyeballingであ り, これ は白人女性 に対 して 不達 な視線 を向けたとい うことが もとで,黒人男性が私刑 を受 け命 を失 うと い う話である。 ニュー ヨークの演劇界 において大 きな権力 を持つベ ッキー ・ フ レンチは,イア ンに対 して生殺与奪を左右 しうる立場 にある。 フェ ミニス トのベ ッキーにとって,Suzannaのよ うな作 品を書 いたイア ンは要注意人物 で あ り, セ ク シス トの リス トにその名 が書 き込 まれて い るO 逆 にWron g-HeadedManとい う,乱暴 な黒人男性 の姿を批判的 に措 いた作 品を発表 した 黒人女性劇作家 トレモニ シャ ・スマ-ツ (TremonishaSmarts)は,ベ ッキーに とって非常 に好 ま しい存在であるORecklessEyeballingは,イア ンが suzanna の不評 にこりて,ベ ッキー ・フ レンチに代表 され るフェ ミニス トにす り寄 ろ うと した妥協の産物 であ り,ユ ダヤ系の演 出家 ジム ・ミンスク (Jim Minsk) もイア ンを盛 り立てて, この作品の上演 を成功 させ よ うとす る。 イア ンがベ ッキーの ところに持 って きた RecklessEyeballingは,最初 の段 階で は必ず しも彼女が満足す るほどの出来栄えで はなか った。殺 され る黒人 男性 のみに非があると明瞭 に示 されていなか ったか らである。 ベ ッキーは, RecklessEyeballingよ りも, ヒ トラーの愛人 エ ヴ ァ ・ブラウ ンが実 はナチズ ムに加担 した悪人ではな くむ しろ犠牲者であったと解釈するエヴァ自身 によっ て持 ち込 まれた作品に興味を抱 き, こち らを大 きな劇場で上演 させて,イア ンの作品の上演 は小 さい劇場で させよ うと考えていた。 ジムはそれに反対 し ていたが,そんな時,彼 は反 ユ ダヤ主義者 たちの陰謀 によって,殺害 されて しま う。 ジムの死 によって,独裁 を妨 げ うるだけの有力 な人間が周囲にいな くな ったベ ッキーは,いよいよイア ンに対 して強硬 な態度 を示す よ うにな っ た。 トレモニ シャ ・スマ-ツは, Wrong-HeadedManの成功 もあ って,黒人 女性 フェ ミニス トと しての名声が広 ま り,イア ンにとって,ベ ッキー と並ぶ ほど, 自分 に大 きなプ レッシャーを与え る存在 とな っていた。 そんな時, ト

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『向 こう見ずな凝視』 とフェ ミニズム レモニ シャはフェ ミニス トを敵視す る犯罪者 に襲われ,髪 を剃 られて しまう。 メデ ィアが フラワー ・フ ァン トム (theFlowerPhantom) と呼ぶ よ うにな る この犯罪者 は, 自分の犯行 を, フランスの レジスタンスがナチスに協力 した 女性 に対 して与えた処罰 と同 じものなのだ と説明 してお り, ここで もフェ ミ ニズムとナチズムが通 じ合 うものであるかのよ うな印象が与え られ る。 この 犯罪 の捜査 にあた る刑事 ロ レンス ・オ リーデ ィ (LawrenceO-Reedy) はアイ ル ラン ド系 アメ リカ人で,黒人男性 に対 して少 なか らぬ偏見を持 ってお り, 黒人男性か ら犯罪 (特 に レイプ) を連想す る傾 向がある。彼 が トレモニ シャ に対 して, Wrong-HeadedManが リア リステ ィックであ ると述べ るとき,や はりフェ ミニズムが彼 と同 レベルで黒人男性 を不 当に扱 っているかのよ うに 匂わせていると受 けとれ るか もしれない。 ジムの死 後 , イ ア ンに対 して い よい よ鼻 息 の荒 くな った ベ ッキ ー は, RecklessEyeballingの演 出を トレモこ シャにまかせ るO そ して, イア ンが最 初 に考えていた,結局 は不遥な視線 を向け られた白人女性 も態度 を軟化 させ, 殺 された黒人男性 の名誉が回復 されるとい う,黒人男性側 に同情 の余地を与 え るよ うな筋立てを根本的に変え,あ くまで黒人男性側が 白人女性 を視線 に よって レイプ した罪深 さ人間であるとい う,一方的 に黒人男性 を責 めるもの に しよ うとはた らきか けてい った。 トレモニ シャは,イア ンにとって,最初の うちはベ ッキー と同 じよ うに自 分 たち黒人男性 に厳 しい戦闘的なフェ ミニス トのよ うにみえていたが,一緒 に仕事をす るよ うにな ってか ら,彼女が必ず しもベ ッキーと志 を同 じくす る 者でないことが分かるようになる。Wrong-HeadedManも,結局 は受 けを狙 っ た妥協の産物であ り,ベ ッキーのよ うな権力者 にお もね る作品を書 いた 自分 は若か ったのだ,本 当に自分 の書 きたい ものを書 くためには,ベ ッキーと裸 を分かたなければな らないと, トレモニ シャは考え,そ して実際 にベ ッキー と口論 して,ニュー ヨークか ら去 ってい く。 ー

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33-書 きたい ものを33-書 こうとす るとい う点 において,イア ンと トレモニ シャは ま ことに対照的であ り,妥協 に始 ま りやがてそれを捨てた トレモニ シャの勇 気 は,逆方向に動いてベ ッキーの言いな りになるイアンを卑小 にみせ る。ベ ッ キーの望 むよ うなかたちで上演 された

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は, フェ ミニス ト か ら好評 を博 し,彼女 らか ら嫌われていたイア ンは俄然 もてはやされ るように な る。 い っぽ う トレモニ シャは,

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が, 中流 の 自分が よ く 知 りもせぬ下層階級を描 いたため不誠実な作品 とな ったことを, 「中流階級 の なかで育 ったわた したちはみんな, 自分 らよ りも恵 まれていない人たちをロマ ン化 したが る」 (Allofuswhogrew upinthemiddleclasswanttoromanticize peoplewhoareworseoffthanweare.) と自己批判 し, 自分 の経験 に基づ くこ

との重要性 を認識 す るのであ る。 1結婚 して子供 を産 み,書 きたい ものを書 き続 けようとす る トレモこ シャは,キャリアを捨てて従来の ジェンダー ・ロー ルに後退 しているよ うに もみえ るが, この点 はいささか微妙である。 トレモ ニ シャは,イア ンやベ ッキーと比べて遥 かに好 ま しい人物 として描 かれてお り,特 にベ ッキーと裸 を分か った後 の彼女 は, リー ドの理想 とす る女性 に近 いので はないか と思われ る。 はた してそれは,単 に男性 にとって都合 の良い とい うだ けの女性像 なのであろ うか。 この間題 はまた後 に詳 しく検討 してい くことになる。 ニュー ヨークで成功 をおさめたイア ンは故郷 であるカ リブの国ニュー ・オ ヨ (New Oyo) に里帰 りす る。 ここには彼 の母が住んでいるのだが,彼女 は 千里眼の持 ち主である。作品冒頭 でイア ンが見 る悪夢 において,セイ レムの 魔女狩 りでの魔女 として彼 がベ ッキーや トレモニ シャによ って処刑 され る場 面で,ベ ッキーの命 を受 けて彼 を絞首台 に導 く看守が この母親 にな り変わ っ て しま うのだが, この悪夢 によ って,イア ンの母親 に対す るコンプ レックス が基 とな って,女性一般への恐怖心 に裏打 ちされた偏見が形成 されているこ とが ほのめか されている。 イア ンの父親 はすでに この世 を去 って久 しいのだ

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『向こう見ずな凝視』とフェミニズム が,母 はイア ンに父が誰であるか知 らせていない.イアンの父 コフィー ・マー チ ン (KoffeeMartin) は,社会活動家 と してよ く名 を知 られた人物で,敵 も 多 く,そのため獄死す るのだが,彼 にはア ピアフ (Abiahu) とい う正妻がお り,イア ンの母 マーサ ・ボール (MarthaBall)が コフィーの子 を身 ごもった と知 った時,マーサ同様千里眼の能力を持つア ピアフは,マーサの産む子が, 二つの顔,二つの心を持つ者 となるであろ うと予言 した。 この小説 の結末 において,ア ピアフの予言が当たっていた ことが判明す る。 フラワー ・ファン トムの正体がイア ンだ った ことが分か るのである。そ して, ジキル と- イ ドの場合 のよ うに,イア ンとフラワー ・ファン トムは別人格 で ある。 しか し,イア ンがベ ッキーのよ うな強い女性 に妥協 しなが ら,それは 実利 を求めての態度 にす ぎず,内心では女性一般 を蔑 み,女性 の精神 よ りも 肉体 に 目を向けがちであ った ことを考え ると, この二つの人格 は根 の ところ で繋が っていることが分か る。 したが って, フラワー ・ファン トムの正体が イア ンであ った ことは,おそ らく読者 にとって さほど意外性 を もたない。か な り早 い段階か ら,そ うで はないか と匂わせ るよ うな雰囲気が漂 ってお り, ベ ッキーを襲 った ランデ ィ ・シャンク (RandyShank)が,警官 に射殺 され フラワー ・ファン トムであるかのように見倣 された時 も,実 は彼 はフラワー ・ ファン トムの手 口をまねていただけではないか と感 じさせ るものがあ った。 イア ンのほうが真犯人 と して座 りがいいのは,それだ けこの視点人物が当初 か らいかがわ しい ところがあ り,読者 の感情移入が促 されていないか らであ る。 さて,イア ンが反 フェ ミニス ト的な人物であることは明 らかであ り, しか も彼 は犯罪者 で もあ ったわけだが,それ はこの小説全体 を評価す るにあた っ て どのよ うに考え られ るべ きなのだろ うか。作者 リー ドと視点人物 イア ンの 間にいかほどの距離があると見倣すのが適 当であろうか。 まず,イアンは リー ドの代弁者であるという考え方がで きるか もしれない。実際,イ シュメール ・ -

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35-リー ドとい う作家 は,エ ッセイやイ ンタビューなど,創作 を離れた場 におい て意見を述べ るとき,黒人女性が黒人男性 を裏切 り,実 は白人男性 と結託 し ている白人女性 にそそのか されて黒人男性批判 を している,即 ち, フェ ミニ ズムが黒人差別 に利用 されているとい う挑発 的な発言 をす ることがある。 む ろん, リー ドの ことだか ら, こうした発言 も挑発 のための意図的な曲解 や誇 張が含 まれていない とはいえない し, どこまで真 に受 けるべ きか即断 しに く いのだが,いずれ にせ よ リー ドが世間一般 にあえて与えている自身 の像 は, イア ンと重 な らざるをえない。 そ して,そ こか らこの小説 を全否定す る言論 も生 まれて くる。 むろん全否定派 といえ ども, リー ドがイア ンを読者 に反感 を抱かせ るよ う なキ ャラクターと して措 いていることは認 めている。 この小説が発表 された 直後 ,書評 で大 いに批判 を した ミチ コ ・カク タニ (MichikoKakutani) は, ロ レンス ・オ リーデ ィ, トレモニ シャ ・スマ-ツ,ベ ッキー ・フ レンチ らと 並んで,イア ンもまた リー ドがあえて読者 に不快感 を与え るよ うにキ ャラク ター作 りを したステ レオ タイプの人物で あると述べている。 2 しか し, カ ク タニは, これ らのいずれ もい くぱ くかの偏見を抱 いた不快 な人物 らが示す言 動 に対 して, リー ドが同等 に批判的で はないと指摘す る。特 に トレモニ シャ がベ ッキーに利用 されていた ことを認 めてそれを悔 いた ことを取 り上 げ, こ の作品で は反 ユ ダヤ主義やセクシズムよ りも, フェ ミニズムの ほうが さ らに 敵視 されていると論 じている.つ ま り,イア ンは リー ドの代弁者 とまでは言 えないに して も, トレモニ シャを初めとす る他 の不快 なキ ャラクターよ りも, 作者 リー ドに近 いとい うことなのだろ う。 ミシェル ・ウォ レス (MicheleWallace) は,イア ンが リー ドの従来の作品 に登場 して きた脱 中心的な トリックス ターの系譜 に連 なると しなが らも,イ ア ンが トリックス ター と して は堕落 した存在 であると述べ, また, 「明 らか に リー ドの代弁者 で, アメ リカの フェ ミニズ ムにつ いて全 く無知 で あ る」

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『向こう見ずな凝視』とフェミニズム

("IanBall,clearlyastand-inforReed,doesn'tknOw hisasskom hiselbow whenitcomestoAmericanfeminism-.)と批判 している0 3 ロバ ー ト ・エ リオ ッ ト ・フォ ックス (RobertElliotFox)も

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『向 こう見ず な凝視』 には リー ドの60年代 や70年代 の作 品にみ られた力 が減退 している と見徹 し,フェ ミニズムをナチズムと同様 に扱 っていることを批判す る。フォッ クスは, イア ンを 「リー ドの作 品において は最 も否定的なキ ャラクター作 り が な されて い る主人公」 (一一Reed■smostnegativelyconstructedprotagonist-りと しなが らも,彼 が リー ドの 「分身」 ("alteregoH)で あ ると認識 して い る.4 フォ ックスは,イア ンが どうしよ うもない人物 なのであ るか ら,その意見 を 作品のメ ッセー ジと受 けとめて リー ドを攻撃す ることはで きないので はない か とい う立場 の可能性 をい ったん提示 した うえで,それを退 ける. リー ドを 擁護 で きない理 由は,彼 が この作 品において様 々な思想 やそれを体現す る人 物 たちを批判す ると同時 に是認 してい るところにあ るとい う。 リー ドの こう した トリッキーな書 き方 が, この作品にあ って は無責任 へ とl堕 して,社会問 題 を真剣 に考えて いる読者 の反感 を買 う可能性 があ る, とフォ ックスは考 え るのだ。 しか しフォ ックスの論考 にはいささか唆味 な ところが あ る。 リー ド が イア ンを,他 の登場人物,た とえば トレモニ シャやベ ッキー と同様 に,批 判 しかつ是認 して いると言 いたい らしいが, はた してその読 み は正 しいのだ ろ うか。 そ この ところで個別 的な検証 を怠 り, い きな り総 ての登場人物 を十 把-絡 げに して一般論 で安易 に片付 けてい るよ うな印象 が拭 えない。 パ トリック ・マ ッギー (patrickMcGee)も リー ドが フェ ミニズム とそれ に反発 す るイア ンを, いずれ も否 定す ると同時 に肯定 して い ると考 え る。5 しか し彼 はフォ ックス とちが ってイア ンと トレモニ シャを同列 におか ない。 芸術家 と して も, 自人 たちの支配 を嫌 ってニ ュー ヨークを去 る トレモニ シャ に比べて,成功 のため妥協 を重 ねてベ ッキーの機嫌 を うかが うイア ンは,逮 かに卑小 な,信 を置 けぬ人物で あ り, しか もイア ンはフラワー ・フ ァン トム -

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37-として トレモニシャのような黒人女性をはずか しめてさえいる。 したが って, この作品において黒人を裏切 り白人 と手を結んでいる者がいるとすれば,そ れ は トレモニ シャではな く,イア ンにはかな らないo マ ッギーは以上のよう に,イア ンが劣悪 な人物 として描かれてお り,それは黒人 フェ ミニス ト作家 が黒人男性 を措 くときに認 め られるもの以上 に否定的な描かれ方であると指 摘 している。 マ ッギーは, イア ンが リー ドの代弁者 とな って 「女性嫌悪」 (‖misogyny-り を表明 していることを認 めっっ も, イア ンの否定的な描かれ 方が,現実社会 における女性差別 に対す る批判 と結 びっ くことのはうをよ り 重 くみている。 そ して,女性嫌悪をめ ぐるこうした二重性 は, リー ドの全作 品に認 め られ るものだ と述べ,『向 こう見ずな凝視』が従来の リー ドの作品 と一線 を画す る特異 な ものだ とは考えていないo この作品の特異性 を認 めた うえで擁護 しているのが ダニエル ・パ ンデイ

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である。 6彼 は, この作品が一見明快であるため,多 くの批 評家が誤読 して反 フェ ミニズム小説 と決 めっ けているが,実 は複雑 な作品で あ り, リー ドがあえて誤読を招 くようなテクニ ックを用 いていると考える。 そ して,その見越 された誤読が小説の 「内容」に含み込まれるというメタフィ クション性 に, この作品の新 しさを見出 している。 パ ンデイの論考の中心になるの もやはり二重性だが,個々の人物や思想 に 対す る肯定 と否定の二重性 よりもむ しろ,一般化 とその拒絶 という,よ り微 妙 な二重性 に注 目している点が 目新 しい. ここで問題 にされている一般化 と は,特 に人種 に係 わる偏見 に通 じるものであ り,例えば 「黒人 という人種 は 一般 に.…‥であるといえ る」などという紋切 り型 の決 めっけの ことだ。『向 こ う見ずな凝視』 においては,偏見を持つ登場人物 たちの,黒人だけでな くユ ダヤ系,アイル ラン ド系 に対す る一般化が認 め られ る。 もちろん最 も強調 さ れているのは,ベ ッキー ・フレンチやオ リーデ ィの 「黒人男性 は女性 に対 し て一般 に暴力的である」 とい う一般化である。ベ ッキーもオ リーデ ィも, さ

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『向こう見ずな凝視』とフェミニズム らには 「そ うした危険な黒人男性 は殺 されて も仕方がない」 とい う極端 な考 えを持 っているため,黒人男性 に対す る一般化 の危険性 はことさら目立 って いる。 パ ンデイは,登場人物が行 う一般化 の危険性 を細か く検討 した うえで,そ うした一般化 に対する批判 は,メタレベルにおいて も響いていると主張する. つま り,読者 による 「フェ ミニス トか ら批判 されている リー ドとい う黒人男 性作家の書 くものは概 して反 フェ ミニス ト的であるはずだ」 とい う一般化 も また批判 されているとい うことである。 この作品を擁護す る批評家の中では このパ ンデイが最 も目立 ってお り,彼 の論考 にはかな りの説得力がある。 全否定で もな く擁護 で もない中間派 としては,デイヴィッ ド・L・ス ミス (DavidL Smith)あた りが代表的な存在 といえ るだろう。 7彼 はまず,作 中 のセクシス ト的 コメ ン トは笑われ るべ きものとして提示 されているとした う えで, リー ドは女性が ジェンダー ・ロールか ら自由になろうとす る理念を攻 撃 しているわけではないと述べ る。そ して,登場人物 たちが集団を代表す る だけではな く,個人 として個性的に行動 して もいることを強調する。つまり, 例えばベ ッキー ・フレンチはフェ ミニス トの代表や典型 として描かれている ようにみえるか もしれないが,同時に彼女の専制的な性格 は必ず しもフェ ミ ニス トの属性 として描かれているとみなす ことがで きないということである。 またス ミスは,個人の 自由を重ん じる リー ドにとって,イデオロギーとして のフェ ミニズムが個人の願望を踏みに じるような側面を持つ ことが腹立た し いのではないか と述べてお り, この捉え方 は リー ドの反 フェ ミニズムと考え られているスタンスが実のところ,反 イデオロギー,反制度,脱 中心の一環 であることをほのめかす肯定的なものだ といえる。 しか し,ス ミスはフェ ミ ニズムが風刺的に歪めて描かれていることに多 くの読者が立腹 し,個人の尊 重 というリー ドが訴えたい肝腎なポイ ン トが受 けとめ られていないのではな いか と釘をさ したうえで, リー ドが個人を重ん じるあまり社会全体への 目配 -

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39-りを怠 っていることを責めている。 以上 のよ うに,全否定派,擁護 派,中間派 と,『向 こう見ずな凝視』 にお けるフェ ミニズムの扱 いに関 して,意見が分かれている。 まず主人公 イア ン について改めて検討 してみよ う。彼が劇作家 と して成功 を求 めるあま り妥協 を重ね る態度 は,多 くの論者がい うよ うに批判 され るべ きものであ る。 しか も内心で は女性 を蔑視 しているに もかかわ らず,ベ ッキー ・フ レンチとい う 権力 を持 った白人女性 が フェ ミニス トに気 に入 られ るよ うな作品を書 くよ う に と注文 をつ ければ,結果的 にそれに応 じて しま う彼 の態度 は, フェ ミニズ ムに とってかえ って有害 な ものであろ う。 妥協 の産物 で あ った彼 の劇作 品 RecklessEyeballingは,上演後 フェ ミニス トたちか ら称賛 され るのだが, こ こで はフェ ミニズムが表面的な ものだけに 目を向けて形骸化 してい く危険性 が表現 されている。 イア ンの小手先だけでつ くった俗流 フェ ミニス ト作品に 感動す る女性 たち もまた, フェ ミニス トとして は俗流 といえ るだろ う。 ベ ッキー ・フ レンチのよ うな大 きい発言力 を持つ者が, こうした俗流 フェ ミニス トをつ くり出 しているのか もしれない。 ベ ッキー 自身 も真 の フェ ミニ ス トで はな く, フェ ミニス ト的言論 を売 ることに熱心な商売人 のよ うに見受 け られ る。 イア ンはどあか らさまではないに して も,ベ ッキー もまた個人的 な信条 よ りも商業的成功 を重視 しているのか もしれない。 イア ンに肩入れす るジム ・ミンスクを彼女が抑 え きれないのは,彼 の背後 にいるニュー ヨーク のユダヤ系 アメ リカ人か ら寄付 を受 けているか らであ った。 またベ ッキーは, ミス ・ス ミスと名乗 っているエヴァ ・ブラウンか ら資金を提供 されて,エヴァ ・ ブラウンをフェ ミニス ト的な視点か ら擁護す る作品を上演 しようとす る。ベ ッ キー 自身が どの程度 フェ ミニズムと商業的成功 を区別 して考えているか は暖 味だが,結果的 にはフェ ミニズムが金儲 けの手段 にな って しまっているので はないだろ うか。 イア ンの天敵で代表的な悪役 のよ うにみえ るベ ッキー も,実 は世俗的成功

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『向こう見ずな凝視』とフェミニズム に執心す る点で彼 か らさほど隔た っていないといえ るだろ う。 ただ し,イア ンの場合 はベ ッキーと違 って,成功のためには個人的信条 と全 く逆のメッセー ジを持つ作品を書かざるを得 なか った。 この一種 の偽善性が,イア ンをベ ッ キーよ りもさ らに額廃 した存在 に している。 その偽善の反動 とな って現れて くるのが, フラワー ・ファン トムと しての犯罪であ った。 作者 リー ドと主人公 イア ンが どの程度重 なっているかを考えよ うとす る時, イア ンの偽善性が リー ドの露悪的,あるいは偽悪的 とさえ呼び うる挑発 に満 ちた態度 と対照的であることを認 めざるをえない。作品冒頭 の時点 において は, フェ ミニス トか ら批判 されている黒人男性作家 とい う点で リー ド自身が モデルにな っているかのよ うにみえたイア ンは,ス トー リーが進行す るに し たが って, リー ドとの相違点を明 らか に してい く.換言すれば,作者 リー ド が, 自身 と主人公 イア ンとの距離を,次第 に大 きくしていっている。 そ して, 作品の結末,イア ンが フラワー ・ファン トムであ った ことが分か る時点で, リー ドはイア ンを完全 に突 き放 している。 したが って, イア ンが リー ドの代 弁者 にな っているとは考えに くい。 さ らには, リー ドがイア ンを肯定す ると 同時に否定 しているとい うフォックスの説 も的を射ていないように思われ る。 作品の前半である程度見込 まれ るか もしれない読者 のイア ンに対す る感情移 入 も,結末 においてす っか り拭 い去 られざるをえないか らである。 リー ドは, イア ンを肯定す るよ うにみせか けて,最終的 に全否定 している, と考え るの が適 当ではないだろ うか。 フェ ミニズムの理念 とい うよ りむ しろ実状 に対 して リー ドが抱 いている敵 意が ア ンバ ランスな ものであ り,正 当化 されない ことは多 くの批評家が述べ ている通 りだが,その敵意がイア ンに分有 されているとす るな らば,イア ン の全否定に伴 って リー ドの 自己批判がなされているはずである。 しか し, リー ドの 「自己」 なるものは,実の ところ,それ ほど捉 えやすい ものではな く, 小説 はむろんの こと, エ ッセイやイ ンタビューにおいて見受 け られ る自己 ら -

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41-しきものさえ,仮面のよ うにも思われるのだ。 しか しリー ドが実際に何 を考 えているかを究明す るよりも,彼 の作品が読者 に対 してどのような影響を与 えているかを考えるほうが実 りが多い。 イア ンが読者か らほぼ全面的に拒絶 されるキ ャラクターであることは明 ら かだが,逆 に多 くの読者か ら支持 されるようにつ くられているのが トレモニ シャ ・スマ-ツである。 ベ ッキー ・フレンチが蔓延 させよ うとす る俗流 フェ ミニズムに結局呑 み込 まれて しまうイア ンとは対照的に,成功を求めてベ ッ キーのような権威 に迎合する作品を書いたかっての じぶんを恥 じ,ニューヨー クを去 って,地道 に自分の書 きたい ものを書 こうとす る トレモニ シャの態度 には,清 く美 しい ものがある。 また,作品の冒頭 において, (この時点で は まだ トレモニシャはベ ッキーと結託 しているのだけれども)彼女はフラワー ・ ファン トムに襲われているが, この件 は読者 に同情を促 し,その後 トレモニ シャの善良さが書 き込 まれてい くにつれて, この同情 は募 ってい く。最終的 には,悪玉イア ンと善玉 トレモニ シャの対照が際立っのだが,そのために ト レモニ シャを批判的な眼でみつめることが難 しくな っていることに, この作 品の危 うさがあるよ うに思われ る。 物語 の終結 に近いところで,イアンに宛てた トレモニシャの手紙が四頁半 という長 さで紹介 されるのだが,この手紙 は読者に対 して特権的な重みを持 っ て彼女の改心、を正 当化 している。彼女 は麻薬 中毒か ら立ち直 ろうとしている 男性 と結婚 し,子供 を産み育てることを考えていると手紙 に書いているが, これ は男性 にとって都合 の良い女性 の姿を絶対視す ることにつなが る可能性 を孝んでいる。彼女の 「わた しは太 って,子供 を産んで,書いて書いて書 き ま くるつ もりです」 (''Ⅰ-m justgoingtogetfat,havebabies,andwritewrite write-リ (130) とい う意思表示か らは,彼女が 自分で 自分の道 を選んでいる

ことが窺われ,批判 しに くいのだが,だか らこそ危 ういともいえるのだ。 トレモニ シャは,彼女が支えにな ってや ることを必要 とす る男性 と結婚 し

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『向こう見ずな凝視』とフェミニズム て子供 を産み育て ることを,べつだん重荷 と感 じていない。 む しろそれを生 き甲斐 と感 じているよ うにみえ る。 しか し, ここで は彼女の将来へ向けての 意気込みが表明 されているだけで,実際 に結婚,出産 を経て子育てに直面 し た場合,その時点で初 めて重荷 に苦 しむ可能性 もある. ベ ッキーに踊 らされ たかつての 自分を 「若 か った」 と振 り返 る トレモニ シャは,同様 に,子供 を 産んだのち,執筆 と育児 の両立 に悩んで,かっての子育てに対す る見通 しが 甘か った と反省す るか もしれない。 むろんその逆 に, どこまで も子育てを楽 しみ,多少 の不都合 を重荷 に考えない可能性 もあるだろ う。先 の ことは分か らないが,いずれにせ よ トレモニ シャは自分 の意志で,子育てを しなが ら書 きたい ものを書 くとい う道 を選んでいる。 良妻賢母的な旧来の ジェ ンダー ・ ロールを引 き受 けつつ,執筆活動 による自己実現 をめざす とい う彼女 の姿勢 は,個人 レベルでは非難 され るべ きものではない。彼女 の生 き方が多様 な選 択肢 のなかか ら彼女 自身 の責任 において選 び取 られたのであ ってみれば,そ れは何 ら問題 とはいえないだろ う。 問題 にな って くるのは, この作品におい て黒人女性が与え られ るべ きであるその多様 な選択肢が きっち りと提示 され ていないことで はないだろ うか。つ まり,イア ンの母 マーサ ・ボールや,か っ て フ ェ ミニス ト作 家 と して広 く知 られて いた ジ ョニ ー ・ク ラ ンシ ョー (JohnnieKranshaw)が,物語 の終結 に近 いところで登場 して きてはいるけれ ども,彼女 らは引 き立て役 にす ぎず,ある程度描 き込 まれた黒人女性 といえ ば トレモニ シャ以外 にいないため,黒人女性 にとって価値 あ る様 々な生 き方 の うちの一つで しかない彼女 の生 き方が,あたか もそれ以外 にはあ りえない 絶対的な ものであるかのよ うにみえて しま うのである。 この間題 はパ ンデイの提起 した 「一般化」と関連づ けて考え ることがで き る。黒人女性 はすべか らく トレモニ シャのよ うに生 きるべ きだ とい う一般化 は,明 らかに不 当なのだO しか し, この一般化 は,パ ンデイが指摘 している 類 いの もの,即 ち リー ドが登場人物や読者 に染 み込んだ偏見 と して批判す る -

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43-もの と,いささか異な ってはいないだろうか。黒人女性 は トレモニ シャのよ うに生 きるべ きだ という一般化 を読者が した場合,その責任 の大半 はこの作 品の側 にある。 なぜな らば この作品は,例えば トレモニシャとは別 の生 き方 を選ぶ好感 の持てる黒人女性 などの, トレモニ シャを相対化 しうるものを欠 いているため,一般化 を促すばか りで,同時にその一般化 を批判す る視点を 持 たないか らである。 リー ドが トレモニ シャを,黒人女性の理想像 としてではな く,特殊 な一個 人 として描 くつ もりであったとして も,彼女 とは違 った主役級 の黒人女性 を 提示 しなか った ことが,読者 にとって トレモニ シャを単なる一個人 として捉 えることを難 しくしている。 この欠点は,ス ミスの指摘 した, リー ドが個人 を重ん じるあまり社会への 目配 りを怠 っているとい う問題 に通 じるものであ ろ う。 ただ し,多数のキ ャラクターを しっか り描 き込んだ シリアスな社会派 /J、説 を リー ドに望むのは無意味であろう. それではかえ って リー ドの持 ち味 が生か されな くな って しま う。『向 こう見ずな凝視』 に限 っていえば, トレ モニ シャを相対化す るものが欠 けているところが, フェ ミニズムに対 して不 当であると同時に,徹底的な相対化 を志すネオ ・フー ドゥ-イズムに染 め ら れた従来の リー ドの作品 と違 っている。 『黄表紙 ラジオ崩壊』 において とりわけ強 く印象 に残 った,様 々な役柄 を 演 じ分 ける主人公の ロール ・プ レイ ングは,役柄の固定を快 く思わぬ リー ド の真骨頂 を示す ものであ った が,『向 こう見ずな凝視』での トレモニ シャの 描 き方 は, どち らか といえば旧来の ジェンダー ・ロールを保守す るものであ り,脱 中心をめざす リー ドの健全な志 とは相反す るようにみえる。その点で, この作品は厳 しく評価 されて もやむをえないだろう。 しか しこの作品の悪評 のおかげで リー ドの知名度が上が り,彼 の代表作が 広 く知 られるようになったという事実は,皮肉ではあるけれども,作者 にとっ て も読者 にとって も結果的には有 り難 いことだ ったのではないだろうか。

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『向 こう見ずな凝視』 とフェ ミニズム

i Islm aelReed,RecklessEyeballing(1986;NewYork:Atheneum,1988)131. 以 下, 引用 は本 文 中 にペ ー ジ数 のみ示 す。

2MichikoKakutani,"GalleryoftheRepellent,一一NewYorkTimes(April5,1986),

reprintedinTheCriticalResponsetoIshmaelReed,ed.BruceAllenDick (westport:GreenwoodPress,1999)164-66.

3

MicheleWallace,一一FemaleTroubles:IshmaelReed-sTunnelVision,'tT72e

villageVoiceLiterarySupplement51 (Dec.1986),reprintedinTheCritical ResponsetoIshmaelReed,187

4RobertElliotFox,ConscientiousSorcerers:TheBlackPostmodernistFiction ofLeRoiJones/AmiriBaraka,IshmaelReed,andSamuelR.Delany(NewY ork:GreenwoodPress,1987)81-82.

5 PatrickMcGee,IshmaelReedandtheEndsofRace(Houndmills:Macmillan,

1997)54-58.

6 DanielPunday,.lIshmaelReed'sRhetoricalTum:Usesof"Signifying'lin RecklessEyeballin

g

,

"

CollegeEnglish54.4 (April1992),reprintedinThe CriticalResponsetoIshmaelReed,166-83.

7 DavidL.Smith,inareview ofI.RecklessEyeballing,f.inTheBlackScholar 18.3 (May-June,1987)37-8.

参照

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