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1. 異教徒の軍事利用 教皇による禁止令( 傭兵活動 / 交易 ) 七部法典 (Siete Partidas) における禁止令 王による追放ではなく自身の意思でもって富裕なる者 (rico ome) が土地から去り モーロ人の地へ向かうのであれば 彼の家臣は彼に追従してはならない これは二つの理由に

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中世地中海域におけるヒトの移動 -キリスト教徒傭兵-

第一回「イスラームをめぐる諸宗教間の関係の歴史と現状」研究会 ( 於上智大学 2011-06-25) 黒田 祐我 (早稲田大学助手) E-mail: [email protected] Web: http://researchmap.jp/yugatosnegros/

序論

・西地中海域におけるヒトの移動

(ラテン・キリスト教世界/マグリブ・

アンダルス・イフリーキヤ)

・~紀元千年

・11 世紀から 12 世紀=「ヨーロッパの形成」

軍事・宗教・社会的拡大・・・「十字軍」/「グレゴリウス改革」による教皇の北アフリカへの「介入」

イタリア商人の活動の活発化

・13 世紀=オプティミズムの時代 聖地十字軍国家の後退/托鉢修道会の活動/改宗への期待

・中世後期=「封建制の危機」 ラテン・キリスト教世界の政治・社会的混乱

イベリア半島においては「海峡戦争 (guerra del Estrecho)」が 13 世紀後半から 14 世紀前半に展開

    (カスティーリャ・アラゴン・ナスル朝・マリーン朝・ザイヤーン朝・ジェノヴァ)

・15 ~ 16 世紀=北アフリカ海岸部の「侵食」

 オスマン 対 スペイン・ポルトガル

(2)

1.異教徒の軍事利用

・教皇による禁止令(傭兵活動/交易)

・『七部法典 (Siete Partidas)』における禁止令

・キリスト教徒「傭兵」の区分・・・

①ズィンミー ( 啓典の民 ) が当該地を支配するムスリム君主に奉仕

②「国家」間単位で軍事同盟の締結で、短期的にムスリム君主の指

      揮下で軍事活動に従事

③「自発的」に越境を行い、ムスリム君主の下で軍役奉仕

・ムスリム君主側の意図・・・直属する一団の必要性

・キリスト教徒側の意図・・・金銭と栄誉の獲得/政治的亡命

   金品に溢れた地としてのマグリブ

・双方の利害が一致 → 傭兵という形での双方向的なヒトの移動

  =マグリブ・アンダルスにおけるキリスト教徒「傭兵」

   (第一次ターイファ期/ムラービト・ムワッヒド朝/マリーン・ザイヤーン・ハフス朝)

直属の親衛隊として 税の取立てを行う姿 宮廷闘争に関与する姿

  =キリスト教諸国におけるムスリム「傭兵」 

   (アラゴン/カスティーリャ)

2.中世盛期(11 ~ 13 世紀)の事例

・11 世紀アンダルスの事例・・・エル・シッド(フード朝へ仕える)

・ムラービト朝の事例

Reverter・・・

バルセローナ副伯家の出自 王による追放ではなく自身の意思でもって富裕なる者 (rico ome) が土地から去り、モーロ人の地へ向かうのであれば、彼の家臣は彼に追 従してはならない。これは二つの理由において背信を為すこととなるからである。第一に神に対して。というのも信仰の敵を援助するこ ととなるから。第二にその自然なる主 (Señor natural) に対して。なぜなら戦争と害悪を土地にもたらすからであって、主を援助するべく 付き従ったのであれは、家臣もまた同じく背信行為に陥る。(Quarta Partida, título XXV, Ley XIII.)

マグリブの支配者は、密集隊形に慣れている民族から戦士を選んで使わなければならなかった。この民族こそヨーロッパ人であって、マ グリブ人の軍隊の周囲に、ヨーロッパ人による隊列がつくられた。マグリブの支配者たちは、それが不信者に助力を求めていることを意 味しているにもかかわらず、あえてそうしたのであって、このことをそれほど重く見ず、ただすでにわれわれが説明したように、このよ うな不信者の必要性だけを考えた。すなわち彼らは自分の隊列の敗走を恐れ、ヨーロッパ人であれば、密集隊形で戦う習慣があるために、 隊列をしっかりと守る方法を知っているとして、ヨーロッパ人が他の民族よりもその目的にもっとも適していると考えられたのである。 もっともマグリブの支配者は、アラブ遊牧民やベルベル人の諸部族に服従を強いる戦いにおいてのみこのようなヨーロッパ人を使用し、 聖戦には使用しない。それは彼らがイスラーム教徒の敵側に味方しないかと心配されるためである。 (イブン=ハルドゥーン(森本公誠訳)『歴史序説(二)』岩波書店 , 2001 年 , 220-221 頁 .) この頃、神はアリー王の宮廷に逗留する捕虜たちに恩寵をお与えになり、彼の心がキリスト教徒を優遇するように誘導されたのである。 彼は自身の(臣下の)全ての東方の者ら以上にキリスト教徒を愛し、自身の側近として、また千人長、五百人長、あるいは百人長として 重用し、王国の軍を指揮したのである。彼らに金銀、都市や堅固なる城塞を用意し、彼らはこれでもって、間断なく領域を圧倒していた マスムート人とアブドゥル・ムーミンという名のアッシリア王に対する戦いを為すにあたって補充を得ることができた。アリー王の捕虜 の中に、レヴェルテルという名のバルセローナの貴族が存しており、彼は公平で公明なる男であり、また自身の神を畏れる者であった。 王は彼を捕虜軍団と蛮族の長として全ての戦争を任せ、というのも、戦いにおいて常に勝利していたからであった。アリー王の治世は、 彼の指揮下において全ての戦争は彼の助言に委ねられていたのである。アリー王が老いて父祖のもとに列せられるや、彼の息子たるター シュフィーン王が統治し、父アリー王のごとくに、自身の治世全てにおいてキリスト教徒に善を為したのであった。 モアブ人の全ての地へ戦争を為していたマスムートと呼ばれる部族に対すべく、他のキリスト教徒捕虜とともに、都市や城砦に配置した。 (CAI, Liber Secundus, ch.10-11, pp.200-201., ch.45, p.216.)

(3)

Abu-l-Hasan b. Reverter・・・

ムワッヒド朝に改宗し仕え続ける。

・ムワッヒド朝の事例

Fernando Núñez de Lara

1219 年 4 月頃、「自身の幾人かの家臣と血族を伴って渡航し」てムワッヒド朝カリフ、ユースフ二世 ( 在位 1213-1224) に仕 えて「自身の才を披露」した。キリスト教徒住民が居住するエルビラと呼ばれる村落を所領として受領し、同地で死去する。 Gonzalo Núñez de Lara

1221 年頃にアンダルスへと亡命し、コルドバ近郊のバエナに滞在する。 Fernando Rodríguez de Castro

・・・

Pedro Fernández de Castro

・・・

1213 年 9 月頃、マグリブへと渡海し、翌年にマラケシュ近郊で没。 Álvar Pérez de Castro

・・・

1218 年付 1 月証書

カリフ、ムスタンシル ( 在位 1213-1224) 時代

メクネスで「亡命者ゴンサロ」が率いる一隊 → Abu Zakariyya’ Yahya として改宗する マラケシュでポルトガル王アフォンソ二世 (1211-1223) の兄弟ペドロが率いる一隊

      修道士 Joan Robert が随行し、同都市の傭兵の聖務を担う ララ家門とムワッヒド朝の関係の継続

 「教会の十字架を持参するキリスト教徒共同体 (crischaos o concello conas cruzes da eigreja)」が、カリフ、ウマル ( 在位 1248-1266) とマリーン朝との間のマラケシュ包囲戦で登場する。

3.中世後期(13 ~ 15 世紀)の事例

・カスティーリャ王国から

Enrique, Fadrique ( アルフォンソ十世の兄弟 ) 両名の軌跡 1255 年、カスティーリャからイングランド宮廷へ亡命→ 1259 年頃、アフリカへ渡る 以後、ハフス朝チュニスに 1266 年頃まで滞在した後、イタリア半島へ渡海する Felipe( 同王の兄弟 ), Nuño González de Lara を筆頭とする貴族反乱

 

アブー・ユースフ ( 在位 1259-1286) と密書のやりとりの後、グラナダへ一時的に亡命する→ムハンマド二世の即位を支持 Alonso Pérez de Guzmán

1275 年頃、「10 名の従士を帯同して」渡海、大将 (capitán mayor) として仕える

エルビラからマラケシュへ至る街道、マラケシュにて作成された。(中略)ヒスパニア暦 1256 年、マラケシュにて作成。

Hoc autem factum est apud Marrocos in uia qua uenitur de Ebora ad Marrocos, (...) Facta carta apud Marrocos era 1256, in mense Januario, ... (Simon Barton, "From Mercenary to Crusade...,” pp.128-129.)

http://es.wikipedia.org/wiki/Archivo:House_of_Lara_COA.svg より転載 ( 最終アクセス日時 : 2011 年 3 月 3 日 , 19:25 ) ララ家門の紋章原型 ムワッヒド朝軍として参戦するキリスト教徒傭兵 『聖母マリア讃歌集』第 181 節挿絵より 3

(4)

条項 内容 和平 生涯にわたる和平締結 貢納金 年あたり 33333,3 銀貨 d.* を供出(ハフス朝→アラゴン王国) 傭兵 軍司令に関して 1) 軍役奉仕を行う全キリスト教徒はアラゴン王が任命する軍司令の管轄に属する 2) 軍司令は軍役奉仕を行う全キリスト教徒とその一族へ給金の分配を行う 3) 軍司令は刑事・民事を問わず、訴えの裁定者となる 4) 軍司令はアラゴン王による任命である 給金に関して 1) 給金(騎士:銀貨 3d. 従士:銀貨 2d. / 1 日) 2) 馬  (騎士:2 頭 従士:1 頭) 3) 遠征時の天幕と運搬用家畜を提供 喪失した馬や家畜の補充 4) キリスト教徒は退去の自由と後任の任命権を持つ チュニスにおけるキリスト教徒街区の設備に関して 1) 公設倉庫 alhóndiga 2) 教会と聖職者、秘蹟 3) ワイン(2d. で 1 樽を無税で販売 / 騎士:5 日当り 従士:7 日当り) 誓約 双方の王による誓約 * d. = ディーナール 1287 年 7 月 29 日付、和平協定(アラゴン王国―ハフス朝)の内容

Gonzalo Sánchez de Troncones

1308 年、マリーン朝の跡目争いに関与する

Los farfanes de Godos

1390 年、マラケシュからセビーリャへ移住する

・アラゴン連合王国から

ハフス朝、ザイヤーン朝との関係=和平協定を介した交易関係・軍事援助関係の構築 1254 年、アラゴン王ハイメ一世 ( 在位 1213-1276) によって、マグリブでの傭兵活動が許可される 軍司令 (alcaide) は長らく王の任命であった 軍事奉仕の対価としてハフス朝君主から「所領」を授与される例 ザイヤーン朝君主の下では 1267 年以降、活動がみられる マリーン朝下における傭兵活動 「市民」に至るまでの傭兵活動の足跡が残る

Muerto Abotebid Rey, los Christianos que eran allende la mar alzaron Rey Aborrabe su hermano: et uno de los Christianos que mas ficieron en esto fue Gonzalo Sanchez de Troncones. Et este Aborrabe alzado por Rey, los Moros alzaron otro Rey que dician Ali Borriziga fijo de Abeacob. Et este Ali et Aborrabe pelearon, et vencio Aborrabe a Ali con el poder de los Christianos...

(Cronica de Alfonso el onceno..., p.407.)

王のもとへ 50 名のキリスト教徒騎士が来訪した。彼らはマラケシュの地に太古の昔から居住し、モーロ人らが王ロドリーゴ殿の治世の 時にスペインを征服した際にマラケシュの地に居を構えたキリスト教徒の血統に属していた。(中略)モーロ人らは彼らに混じって居住す るこのキリスト教徒一族のことをファルファネスと呼び、この者らは自身の妻と子息を連れてやって来たのであった。王は彼らを歓待し、 というのも既に以前に彼らの件に関し、王国において領地と財、そして誉ある生計を授与することを約すべくマラケシュへ使節を派遣し ていたのであり、マラケシュ王も王ファン殿の願いのために書簡を遣わし、カスティーリャを訪問する許可を与えたのであった。

(Crónica del Rey Don Juan I de Castilla , p.143.)

1309 年 12 月 4 日、ハフス朝からアラゴンへの書簡で、司令 alcaide ペドロ・フェルナンデスに対して 奉仕の見返りとして Badis 域に所領を授与したことを報告 1323 年 5 月 14 日、サルデーニャ島への遠征のためにアラゴン王ハイメ二世はマリーン朝に対して 100 名のキリスト教徒の一隊の派兵を求めるものの、「それを行う習慣はなく、かかる件に関して定められた 慣習から逸脱することは不可能である」と断られる。 貴君に要請の件、すなわち偉大なる血統で貴君の法の者達に関して書状を送る。彼らは 50 名のキリスト教徒、ファルファネスであり、 貴君の王国の古き者達たるゴート人である―神よ彼らを保証し給え。彼らは忠実なる僕で、勇敢、剛毅、機敏、激情、忠義の鏡であり、 かかるものであるのであるから、もし貴君が彼らを用いようと欲するのであれば有益となろう。 (Cronica de Juan I, Adiciones, p.158.)

(5)

4.越境の意義

・キリスト教徒傭兵にみる、文化変容の可能性と限界

 ・マグリブ・アンダルスの内政に干渉するキリスト教徒 / 別街区に集住するキリスト教徒

→逆にキリスト教徒 vs. ムスリムの構図を強める結果となる

 ・王に直結し、反乱の鎮圧や税の取立てに用いられるキリスト教徒像

  

「ファルファン」の呼称   =「卑しい、粗野な、卑劣な者」を    あらわすアラビア語を起源   →差別的な意味がロマンス語に輸入    されるや、失われる  

・同化しないキリスト教徒

   拠り所は故地にあり、    キリスト教徒としての埋葬を望む ・今後の展望 中世西地中海世界におけるイスラーム史と西洋史との連携から得られる見通し とりわけ、13 世紀の地中海のダイナミズムの分析 当時の人の慣習とは、王同士の間に戦争が為されない場合、党派に分かれるか、あるいは既に参照してきた事例にみられるごとくに他の 王に仕えるか、であった。同年 (1)420 年、ペドロ・マスケファがマラケシュから来訪したが、彼は以前から良き騎士として戦争におい て奉仕して自身の妻と息子たちを同地で養っていた。しかし既に老年に差し掛かり、骨を故郷に埋葬したいと望んだのであった。彼はア ルナウ・マスケファと他の親族らを伴って議場に登壇して自身の来歴を披露した後に、都市当局に、マラケシュの王へ為してきた奉仕の 見返りとして自身の地で休養するべく来訪する許可を与えてくれるように誓願するための王の書状を代理を通して発給してくれるように と懇願したのであった。  (Anales de Orihuela, p.301.) 【参考文献表】 ~史料~ Historia Roderici vel gesta Roderici campidocti, Chronica hispana saeculi XII pars I, Corpus Christianorum, Continuatio Mediaevalis 71, Maya Sánchez, A.(ed.), Turnhout, 1990, pp.1-108.

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参照

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