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山と戦争─ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩─ 利用統計を見る

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山と戦争─ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの

第一次大戦詩─

著者

佐藤 泰人

著者別名

Yasuhito Sato

雑誌名

白山英米文学

43

ページ

29-54

発行年

2018-02

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009876/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

二九 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

はじめに

Grub for gold with prisoned life;

mint it at the price of breath;

let it bear the stamp of strife;

let it purchase power of death:

Life and gold, one sweated bar

,

lavish it on waste of war

.

Dig the gold with good men

ʼs toil;

leave the holes for dead men

ʼs graves;

starve the growth, and hoard the spoil

stored in trenches, heaped on waves:

Murder

, lurking under

ground,

till the trump of

Azrael sound.

Drain the gold, and for

ge the chain;

drain the strength, and bind the race;

rouse the brute in man to reign;

train him for his princely place:

─ Flunkey to a nation ʼs pride

山と戦争

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

 

 

 

(3)

三〇

in the lust of fratricide. (Y

oung, Fr eedom 79) 監獄入りの命 賭 か け   金 きん の塊掘り起こせ 息と引き換え 銭 ぜに にして 戦 いくさ の刻印押してやれ そいつで買える   死の力 命と金とで一本の   汗水滴る延べ棒を 戦 いくさ の浪費に使うがいい 善き男たちの苦しみの   力で金塊掘り起こせ 掘った穴はそのまんま   死んだ男の墓となる 育ちは飢えるままにして   略奪品を蓄えろ 塹壕に貯め   海に積み 地面の下に潜みつつ 死 アズラーイール 天 使 の吹く喇叭   鳴るまで人を殺すがいい 金を尽くして   鎖を鍛え 力を尽くして   民 たみ 縛れ 男の内に棲む獣   起こして支配させてやれ この獣を訓練し   王子の位につけてやれ 同胞殺しの欲に満ち 国の誇りに奉仕する   下男の地位につけてやれ   強 弱 格 で 憤 る、 ﹁ 浪 費 ﹂︵ ʻW aste ʼ ︶ と 題 さ れ た こ の 詩 は、 第 一次世界大戦時に書かれた一連の戦争批判詩に近似する。命 とエネルギーの無駄な消耗や、国のプライドという建前に対 す る 痛 罵 は、 例 え ば ウ ィ ル フ レ ッ ド・ オ ウ ェ ン︵ W ilfred Owen, 1893 -1918 ︶ の ﹁無益﹂ ︵ ʼFutility ʼ ︶ や ﹁甘美にて正しき﹂ ︵ ʼDulce et Decorum Est ʼ ︶ な ど を 思 い 出 さ せ る。 ﹁ 浪 費 ﹂ が こ れらの詩と異なるのは、しかし、それがイギリスの参戦前に 書 か れ た と い う こ と だ。 ﹁ 浪 費 ﹂ を 収 め た ジ ェ フ リ ー・ ウ ィ ン ス ロ ッ プ・ ヤ ン グ︵ Geof frey W inthrop Y oung, 1876 -1958 ︶ の 詩 集﹃ 自 由 ﹄︵ Fr eedom ︶ は 戦 前 に 原 稿 が ま と め ら れ 一九一四年夏に出版されている。

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三一 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

  本稿はヤングの第一次大戦にかかわる詩を扱う。登山家で 詩人のヤングは一九一四年八月当時三十七歳。兵士として志 願するには年を取りすぎていると感じた彼 は 1 、まずジャーナ リストとして戦地に赴き、次に救急隊を組織して終戦まで戦 場 で 働 い た。 任 務 中 に 敵 の 砲 撃 に よ り 負 傷 し、 左 脚 を 切 断。 登山家生命にとって重大な損失を被る。しかしヤングは戦中 戦後、上記のような戦争批判詩を書かなかった。第一次大戦 に 関 わ っ た 詩 人 を 網 羅 的 に 列 挙 し た The Cambridge Compan -ion to the Poetry of the First W orld W ar の 詩 人 リ ス ト に ヤ ン グ の名前はな い 2 。ヤングという詩人は、第一次大戦との関わり に お い て 捉 え に く い 存 在 で あ る。 彼 は 兵 士 で は な か っ た が、 戦場で果敢に立ち働いた。フレンド会とともに救急隊を組織 し、その副隊長となったが、クェーカーではなかったし、良 心的兵役拒否者として自らを主張することはなかった。兵士 の救護・看護というと女の仕事というイメージがあるが、彼 の率いた救急隊は男の世界だった。また冒険的登山や戦闘は ﹁ 男 ら し さ ﹂ の イ メ ー ジ が つ き ま と う が、 ヤ ン グ は オ ウ ェ ン やサスーンらと同じくホモセクシュアルだった。戦争による 心身の欠損は﹁男らしさ﹂の損失と結びつけられて考えられ るが、彼は脚を失った後に、ホモセクシュアリティーを保持 したまま異性と結婚して子をもうけ、義足で高山登攀に返り 咲いた。   多作ではなく、モダニズムと無縁で、いわゆる﹁戦争詩人 ︵ W ar Poets ︶﹂ と も 異 質 で あ っ た ヤ ン グ の 詩 に は 十 分 な 注 意 が 払 わ れ て い な い 3 。 し か し、 こ の よ う な 捉 え に く さ ゆ え に、 第一次大戦と文学との関わりを検討することにおいて新しい 光を当てることができるのではないかと本論は考える。ここ で扱う時期のヤング詩についての先行研究は、筆者の知る限 り皆無に等しい。第一次世界大戦とイギリス帝国と極地登山 と の 関 係 を 描 い た デ イ ヴ ィ ス︵ W ade Davis ︶ の 好 著﹃ 沈 黙 の 中へ

大戦、 マロリー、 エベレスト征服﹄ ︵

Into the Silence:

The Gr eat W ar , Mallory , and the Conquest of Ever est ︶ に は ヤ ン グが重要人物として登場するが、彼の詩業は無視された。し かし第一次大戦については、文学、歴史学、社会学などさま

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三二 ざまな分野における研究の集積がある。本論ではそうしたも のの幾つか、とくに戦争における身体の欠損

それはすな わち男性性の損失と同一視される

とその回復についての 知見を援用しつつ、ヤングが登山家の命と言ってよい脚を戦 争で失ったことに焦点をあて、彼の詩において戦争と山岳と がどのように表象されうるのか考えていきたい。   ヤングの大戦詩と呼べる作品は戦後一九二三年に出版され た詩集﹃四月と雨﹄ ︵

April and Rain

︶に収められている。 ﹁四 月 の 歌 ﹂︵ ʼSongs to April ʼ ︶ と 題 さ れ た 連 作 の 六 番﹁ 戦 いくさ の 崖 に 嵐 が ま だ 吹 き 付 け る ﹂︵ While on our battle -clif f the storm still breaks ︶ に は﹁ ヴ ェ ニ ス に て 一 九 一 八 年 ﹂︵ Venice, 1918 ︶ と い う 付 記、 七 番﹁ 遠 く 海 の 眺 め か ら 冬 の 光 ﹂︵ ʼThe wintry

light from this far view of sea

ʼ ︶ には ﹁一九一八年イタリア前線﹂ ︵ The Italian front, 1918 ︶ と い う 付 記 が あ る。 同 詩 集 所 収 の 連 作﹁ 山 の 気 分 ﹂︵ ʻMountain Humours ʼ ︶ の 二 番 目 に﹁ こ の 素 晴 ら し き 四 て 肢 あし ﹂︵ ʼThese splendid limbs ʼ ︶ が あ る が、 こ れ は の ち に﹃ 全 詩 集 ﹄︵ Collected Poems , 1936 ︶ に お い て﹁ 山 の 気 分 ﹂ 第 一 番 の 詩 と な り、 題 名 も 新 た に﹁ 満 ち 足 り て ﹂︵ ʼContent ʼ ︶ とつけられ、さらに﹁一九一七年、サン・ガブリエレ山の戦 いのあとで﹂ ︵

After the battle on Monte San Gabriele, 1917

︶と いう付記が加えられた。 ﹁山の気分﹂ 六番 ︵﹃全詩集﹄ では ﹁山 の気分﹂最終詩にして詩集全体の最終詩︶の﹁長い日々の魔 術をまだ失っていない﹂ ︵

I have not lost the magic of long days

︶ も 戦 傷 を 扱 っ て い る と い っ て よ い。 本 稿 で は こ の う ち、 サ ン・ ガ ブ リ エ レ 山 に 関 わ る﹁ 遠 く 海 の 眺 め か ら 冬 の 光 ﹂ と ﹁この素晴らしき 四 て 肢 あし ﹂を扱う。   分析においてはヤングの散文が助けとなる。戦場ジャーナ リストとしての記事をまとめ、一九一四年十月に出版された ﹃ 塹 壕 か ら ﹄︵ Fr om the Trenches: Louvain to the Aisne, the First Recor d of an Eye -W itness ︶ は 最 も 早 い 時 期 の 大 戦 ル ポ ル タ ー ジ ュ で あ る。 戦 後、 義 足 に よ っ て 登 山 を 再 開 し、 一 九 三 五 年、 六 〇 歳 の と き に ツ ィ ナ ー ル ロ ー ト ホ ル ン︵ Zinalrothorn, 4221m ︶ 山 頂 で 引 退 を 決 意 す る ま で の 登 攀 の 数 々 は、 一 九 五 一 年 に﹃ ひ と 味 違 う 山 々﹄ ︵ Mountains with a Differ

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-三三 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

ence ︶ と し て 出 版 さ れ た が、 こ こ に は 大 戦 時 の ヨ ー ロ ッ パ 戦 線の山々についても描かれている。またヤングは、戦時中に つけていた克明な日記をもとに、晩年﹃忘れることのありが たさ﹄ ︵

The Grace of For

getting, 1953 ︶を執筆し、大戦を振り 返 っ て い る。 そ れ ら の 日 記 の 断 片 は、 ハ ン キ ン ス ン︵ Alan Hankinson ︶ に よ る ヤ ン グ の 伝 記﹃ ジ ェ フ リ ー・ ウ ィ ン ス ロ ッ プ・ ヤ ン グ   詩 人、 教 育 家、 登 山 家 ﹄︵ Geoffr ey W inthr op

Young: Poet, Educator

, Mountaineer ︶ に紹介されている。なお、 大戦前に執筆され、戦後の一九二〇年に出版された大部﹃山 の 技 術 ﹄︵ Mountain Craft ︶ は、 登 山 技 術 だ け で な く 心 構 え や リーダーシップなど精神上の問題も議論して高評価を受けた もので、五十人の死んだ山仲間に捧げられているが、その多 くが大戦での戦死者であった。   以下、時系列に沿ってヤングの大戦参与を追いながら論を 進めていく。 戦場特派員、救急隊   一九一四年夏、ヤングはヨーロッパ・アルプスにいた。類 い 稀 な 天 候 に 恵 ま れ て、 マ ッ タ ー ホ ル ン︵ Matterhorn, 4478m ︶ 登 攀 な ど を 楽 し ん で い た が、 イ ギ リ ス 参 戦 の 可 能 性 が濃厚になるなか七月二十八日帰国する。トラファルガー広 場での平和集会︵おそらく八月二日日曜日の大集会︶に﹁文 明化された平和の時代に育った者たちの最後の抵抗﹂ ︵ Young, Grace 135 ︶ と し て 参 加 す る 4 。 本 稿 冒 頭 で 引 用 し た﹁ 浪 費 ﹂ の気分はこうした行動に表れている。とはいえ、彼の冒険心 は こ の 戦 争 に 何 ら か の 形 で 参 与 し た い と 訴 え て い た よ う だ。 ロ ン ド ン で 同 居 し て い た 弟 ヒ ル ト ン に、 リ ベ ラ ル 紙﹃ デ イ リー・ニューズ﹄から戦場特派員にならないかとの依頼が来 たとき、すでに海軍に入隊することになっていた弟に代わっ て、好機とばかりにヤングは自分が行けまいかと申し出、こ れが受け入れられるのである。七月三十日にこのことがきま

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三四 るや、八月初頭、ヤングはイギリス参戦︵八月四日︶を目前 に 控 え た フ ラ ン ス に 渡 る。 車 と 運 転 手 を 手 配 し、 主 に ベ ル ギーの各地を取材、九月まで特派員の仕事を続けた。これら の戦場報告は、十月に﹃塹壕から﹄としてまとめられ出版さ れる。   ﹃ 塹 壕 か ら ﹄ に は 味 方 の 兵 士 だ け で な く、 捕 ら え ら れ た 敵 兵 の 声 や、 一 般 市 民 た ち の 様 子 が つ ぶ さ に 捉 え ら れ て い て、 貴重な報告となっている。ヤングは塹壕での爆撃も体験する が、 こ こ で も 不 毛 性 が 際 立 つ

﹁ 戦 争 の 無 益 さ︵ ʼfutility ʼ ︶ を印象づけるものとしては、この男たちを見れば十分だ。有 益な暮らしを生み出す肥沃な土を耕すための肉体を持ったの に、 今 は 不 毛 な︵ ʼbarren ʼ ︶ 塹 壕 で 暮 ら す た め に 穴 を 掘 る、 こ の 役 に 立 つ 男 た ち を 見 れ ば ﹂︵ Young, Trenches 288 ︶。 ま た、 負傷者やその救護に当たる者たちを見たことは、のちのヤン グの救急活動につながったであろう。例えば次の、フランス 北部の戦線でフランス赤十字による負傷者探索を手伝ったと きの挿話。 夜の闇の冷たさ、瞬間的にだけ照らされるライト、静け さのなか時折つぶやかれる命令。それが救急隊の男たち の、確固たる仕事人の勇敢さに、より強い印象を与えて いた。近代戦という条件下、それは十分に訓練された神 経 を 必 要 と す る 仕 事 だ っ た。 彼 ら に 戦 い の 興 奮 は な い。 ﹁ や り 返 す ﹂ 刺 激 も な い。 彼 ら 自 身 が 撃 た れ る 可 能 性 が 十分あるのに、だ。激しい砲撃が長く続けば……砲弾が 人に、家に、荷車に落ちてくる。赤十字をつけていたっ て、敵にそれは見えないし区別もできない。   仕事は危険で命を落とすことさえあるが、個人的な手 柄を得る光栄にはあずかれない、そういう彼らにますま す賞賛の意を禁じえない。北海で機雷除去をする漁師の ように、彼らは名もない英雄だ。非人間的戦争の影のき わ に 存 在 す る、 人 間 性 の 英 雄 な の だ。 ︵ Young, Trenches 235 ︶ ここでヤングが、兵士よりもむしろ兵士でない者たちを英雄

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三五 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

と呼んでいることが興味深い。   負傷者救護の不備を痛感したヤングは民間救急隊の組織に 動き出す。すでにイギリスではフレンド会の有志が、救急隊 を結成し訓練を重ねていた。主導者のフィリップ・ノエル= ベ イ カ ー︵ Philip John Noel -Baker , 1889 -1982 ︶ は、 ヤ ン グ と 同じケンブリッジ出身で登山家でもあり、ヤングとも知り合 い で あ っ た。 ヤ ン グ は 彼 ら と 協 力 関 係 を 取 り 結 び、 First An -glo -Belgian Ambulance Unit と し て︵ の ち に Friends ʼ Ambu -lance Unit と 改 名 ︶ 一 九 一 四 年 十 月 三 十 日 に ロ ン ド ン を 出 発 する。   ところでこの救急隊は、フレンド会の援助は受けても、会 の正式な組織としては認められていなかった。救急隊活動は 戦争協力と捉えることができ、クェーカーの間には反対者が 多かったからである。しかしフレンド会に所属する若い男た ちの間には、入隊しない男に対する社会的圧力に苦しむ者た ちが多数おり、救急隊結成はこれに対処する装置として機能 し た︵ Palfreeman 12 -21 ︶。 と は い え、 看 護 は 女、 戦 闘 は 男 と いう性的役割分担の概念は第一次大戦において支配的であっ た︵ Hammerle 91 -92 ︶ことを考えると、救急隊はアンビヴァ レントな存在であった。たとえば英国赤十字の救急隊を率い たトレヴェリアン ︵ Geor ge Macaulay Trevelyan, 1876 -1962 ︶は、 救急隊員である自分が良心的兵役拒否者と誤解される

す なわち言外に﹁男らしくない者﹂と見做される

ことを嫌 い、自分は良心的兵役拒否者ではない、年齢と身体検査結果 から﹁陸軍で後尾につくより赤十字で前線に立つ﹂のを選ん だ の だ、 と 隊 の 活 動 記 録、 ﹃ イ タ リ ア の 戦 場 か ら ﹄︵ Scenes from Italy’ s W ar , 1919 ︶ にわざわざ記した ︵ Trevelyan 40 ︶。いっ ぽうで赤十字や VA D ︵ Volundary Aid Detatchment ︶、 FANY ︵ First Aid Nursing Y eomanry ︶ な ど で は、 救 急 車 を 駆 る 女 た ち が 活 躍 し、 ﹁ 女 ら し さ ﹂ の 意 識 を 塗 り 替 え た 5 。 フ レ ン ド 会 の 救 急 隊 は と い え ば、 ﹁ 男 ら し さ ﹂ へ の 圧 力 の 問 題 を 反 映 し た﹁ 男 の世界﹂ ︵ Palfreeman 5 ︶であった。   ヤングの立ち位置は、特派員の活動を通じて戦争への憎し みが深まったとはいえ、彼はクェーカーではなく、自らを良

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三六 心的兵役拒否者として位置付けてもいなかった。軍人ではな いけれどもイギリス軍陸軍少佐の制服を身に纏った彼は、戦 闘忌避の理由から救急隊を選んだというよりも、救急隊活動 でリーダーシップを振るうことに自らの有益性を見出したと 言えよう。そこに﹁男らしさ﹂を声高に叫ぶそぶりはないの だが、このジェンダーの問題については後述する。   こうしてヤングは、十一月から翌一九一五年八月までフラ ン ド ル、 主 に イ ー プ ル で 救 護 活 動 に 従 事 す る。 一 九 一 四 年 十二月七日の日記にヤングは書き記す。 大変な多忙日。イープルに到着、前夜に七〇もの砲弾が 落ちていた。一般市民死亡者十四名。負傷者多数。救急 車は午前中ずっと負傷者を運搬。子供五、六名、うち一 人は足を切断。女が三人ほど。……道は砲弾があちこち 新しく穴をあけて通れない。 榴散弾の砲撃はほぼ一日中。 危うく被弾しそうになることもあり。 ︵ Hankinson 156 ︶ 一九一五年二月十二日の日記には、 怪 我 で 運 ば れ て き た か わ い い 子 供 が 午 後 八 時 ご ろ 死 ん だ。家族を探さなければ。……ある夜の砲撃で近衛騎兵 連隊の兵士十二名死亡、一般市民六名死亡。子供四名死 亡。あと四名連れ帰らねばならない。もう一人死亡。医 者たちは一晩中手当。午前五時、幼い男の子がまた一人 死亡。……もう一人、八歳のかわいい子が腸チフスで瀕 死状態……。 ︵ Hankinson 160 ︶ ま た、 最 初 の ガ ス 攻 撃 も 間 近 で 体 験 す る。 一 九 一 五 年 四 月 二 十 二 日、 イ ー プ ル で 彼 は、 ﹁ 薄 黄 色 の 低 い 雲 が 東 の 地 平 線 に立ちのぼる﹂ ︵ Young, Grace 232 ︶のを目撃、まもなくその 残酷性を目の当たりにした。 最初の毒ガス被害者たち。この恐怖は最初あまりに酷く て信じられなかった。……その野蛮さ。床に、戦場に横

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三七 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

たわり黄色い泡に喉を詰まらせて死んでいく男たちの姿 は、私を怒りで燃え立たせた。その後のいかなる人間の 残酷さも

のちのドイツの、あの醜悪なる収容所によ る人類堕落の行為でさえ

そんな怒りの炎を吹き上げ させたことはない。というのも、当時の我々はまだ、す べ て の 人 が 人 間 だ と 思 っ て い た か ら だ。 ︵ Young, Grace 233 ︶ 救急隊、病院、戦争孤児の世話、感染症を防ぐ公衆衛生対策 などを仕切ったイープルでの仕事により、ヤングは勲章を授 与された︵ Hankinson 168 ︶。 一九一七年イタリア戦線、サン・ガブリエレ山   ヤ ン グ の 次 な る 仕 事 は イ タ リ ア 戦 線 で の 救 護 活 動 だ っ た。 今度率いたのは、トレヴェリアンが組織した英国赤十字社に よる初のイタリア派遣部隊であった。歴史家トレヴェリアン はケンブリッジのトリニティ・コレッジからのヤングの親友 で山仲間でもあった。ヤングの第二詩集﹃自由﹄は彼への献 詩で始められている。部隊はヤングの父親の広大な地所で訓 練をしたのち、一九一五年八月末に戦地へ赴いた。隊長トレ ヴェリアン、 副隊長にヤングとノエル=ベイカーがついた ︵の ちにヤングはトレヴェリアンが留守のあいだ隊長を務めるこ とになる︶ 。   イタリアは、南チロルやトレンティーノなど、領有権を主 張していた地域の奪回を目指し、一九一五年五月にオースト リア=ハンガリーに対して宣戦布告していた。地理的な条件 から、東のジュリア・アルプス山脈を流れるイゾンツォ川沿 いの地域が前線となり、救急部隊が赴いたのもこうした地域 であ る 6 。   ﹁ 一 九 一 七 年   サ ン・ ガ ブ リ エ レ 山 の 戦 い の あ と で︵ After the battle on Monte San Gabriele, 1917 ︶﹂ と﹃ 全 詩 集 ﹄ に お い て付記された詩 ︵初出の詩集 ﹃四月と雨﹄ にこの付記はない︶ を見てみよう。全詩を引用する。

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三八

   

These splendid limbs

Life lent you them; you did not make nor choose them;

but yours the right to use them

  

right royally for a span.

   

When the light dims,

when their day wanes, and all the stars are beckoning,

see you return them proudly for the reckoning,

  

to prove you lived a man.

   

In their spring time

dance them with light on every stream and meadow;

race them with rain and shadow

,

  

only moving and free.

   

In their strong prime

they

ʼll learn the music of more ordered motion,

measure high hills, and meet the moods of ocean

  

with rhythmic mastery

.

   

If it be meant

heart

-stroke and strength shall sound a dif

ferent ending,

life linked them for the lending,

  

and life may halve the loan.

   

Be then content

to live new music by their altered measure.

Yours still the lordship of their greater treasure;

  

your heart is still your own.

(Y

oung,

April and Rain

40)     この素晴らしい 四 て あ し 肢 これは命がお前に貸してくれたもの   お前は作りも 選びもしなかった だがこれを使う権利はお前のもの    いっときの間   正しく忠誠をつくして     やがてたそがれ 日が終わり   星がみな手招きすれば

(12)

三九 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

お前は報いとして誇らしくこの四肢を返す     男の一生を生きた証を返す     春にはこの四肢 あらゆる小川と草原に照らす光と躍らせよう 雨と影と駆けさせよう    自由に動くにまかせよう     絶頂期には より秩序だった動きの音楽を学ぶだろう 熟練したリズムで    高い山々を歩き   海の気分のさまざまを 味わうだろう     それで 心臓の鼓動と力が   違う終わりを奏でるとしても 命は融資のためにこの四肢をつなぎとめた    ひょっとしたら借金は半分にしてくれるかも     だから満足しよう リズムの変化した   新しい音楽を生きることに この四肢のもつ   より大きな宝   その権利はまだ お前のもの    お前の心は   まだお前のもの   登 山 家 で 詩 人 の 藤 木 九 三 は こ の 詩 を、 登 攀 の 一 日 を 終 え、 テントの中でよく働いた手足をいたわる姿と読んでいる︵藤 木 27 ︶。 藤 木 が ヤ ン グ 論 を 書 い た の は ヤ ン グ の﹃ 全 詩 集 ﹄ 出 版︵一九三六年︶よりも前だから、この詩がイタリア戦線で の詩だということを知らない。むろんこの詩は藤木のように 読み、また彼が付言するように、より広い意味での人生に対 する分析として読み手に訴えるものであろう。しかしここで は、後年になって付加された注記通りの文脈において読んで みたい。   サン・ガブリアレ山は、それまで十度に渡って行われてき た﹁イゾンツォの戦い﹂に続いて、イタリアが最大の戦力を

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四〇 投じた第十一次イゾンツォの戦いの舞台である。第一次大戦 史 を 書 い た ジ ョ ン・ バ カ ン︵ John Buchan, 1875 -1940 ︶ は、 自身登山家でもあったが、この山を次のように描写する。 サン・ガブリエレは長い尾根である。最高点六四六メー トル。ゴリツィアに向かって、また東と北に向かって急 斜面に落ち込んでいる。しかし西は斜面がそれより緩や か に イ ゾ ン ツ ォ 川 に 下 る。 尾 根 は 一 番 広 い と こ ろ で 約 八〇〇ヤード、尾根の全長は二〇〇〇ヤードぐらい。山 頂部は非常に急で、南アフリカでよく見られる﹁カスト ロ ル ﹂、 つ ま り 深 鍋 型 の 山 に 似 て い な く も な い。 山 そ の ものが一つの巨大な要塞になっていて、洞窟やトンネル が蜂の巣状に掘られている。いまやオーストリア軍前線 の突端部となっていて、三方をイタリア軍に囲まれ、北 部のみが主前線とつながっていた。……この戦争の比較 的規模の小さい諸戦闘の中でも最も激しい戦いが、この 数 千 平 方 フ ィ ー ト の 岩 と 塵 の 上 で 行 わ れ た の だ っ た。 ︵ Buchan 21 -22 ︶ ヤ ン グ は こ の 戦 場 で 救 護 活 動 を 展 開 し た。 一 九 一 七 年 八 月 二十九日の日記には次のようにある。 急な坂道は、耕した畑にブロックを撒いた、という有様 だった。古い鉄条網も邪魔だし、猛烈な砲撃の跡で穴だ らけ。道は、鞍部まで一五〇〇フィートほどジグザグに 上がる。騾馬たちや、神経質になった影のような兵士た ち、水を積んだ荷車や、負傷者たちが邪魔で、まともに 走 れ な い。 ﹁ 岩 角 ﹂ と 呼 ん で い る と こ ろ で ひ ど い 渋 滞 が 起こっていた。その向こうの道をフン族どもが砲撃して いるのだ。……長い道のりをのろのろとのぼっていかな ければならなかった。機関銃の弾がひっきりなしに空を 切るなかを、だ。……砲弾が一発、我々の頭上の崖に命 中し、一群の岩片を車の上に降らせた。岩のかけらが私 のブーツのかかとに当たる。 ︵ Hankinson 192 ︶

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四一 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

  このような悪条件の中、八月三十一日、ヤングは帰ってこ ない工兵の様子を見にガブリエレ山に向かった。立ち往生す る騾馬たちを追いやりながら徒歩で車を先導していた際、敵 砲 撃 が 炸 裂 し た。 ヤ ン グ の 回 想 に よ れ ば、 ﹁ 突 然、 私 は 外 側 にいた﹂という。 私は自分の背後に立って、反対の山壁を後ろにした自分 自身を見ていた。その﹁自分﹂は、金属のバネが二本高 く伸びている姿に見えた。短いほうが傾いてもう一本に つながっている。爆撃を受けた左腿がつながっているあ たりだ。 ︵ Young, Differ ence 122 ︶ こ の ま ま で は 死 ぬ と 感 じ た 彼 は 急 い で 一 方 の バ ネ の 螺 旋 を 戻って行って、本来の自分と合体したという。ヤングは治療 所へ搬送され緊急手当を受ける。この時点ではまだ脚は失わ れていなかったが、損傷がひどく、結局九月七日に膝上切断 手術が行われた。ヤングは﹃ひと味違う山﹄のサン・ガブリ エレ山の章を次のように締めくくる。 サン・ガブリエレは私の現役時代最後の登山だった。そ してその登頂は果たせなかったのである。それは両軍も 同 じ だ っ た。 恐 る べ き 損 失 を 出 し た あ の 劇 的 な 戦 い で、 ど ち ら の 大 軍 も そ の 頂 上 を 支 配 す る こ と は な か っ た。 ︵ Young, Differ ence 123 ︶   このような山の磁場に置かれた時、上記の詩は特異な響き を も っ て 迫 っ て く る。 第 三 連 は 左 脚 切 断 に よ る 変 化︵ ʼa dif -ferent ending

ʼ, ʻtheir altered measure

ʼ ︶と読めるだろう。もはや 以前のリズムでの歩行は不可能、ましてや高山登攀への復帰 などありえない。驚くべきは、 しかし、 そこに﹁切断﹂や﹁喪 失 ﹂ の 気 分 が な い こ と だ。 四 肢 は む し ろ﹁ 繋 が れ︵ ʼlinked ʼ ︶﹂ る。四肢は、 ﹁変化したリズム ︵ ʼaltered measure ʼ ︶﹂ を持つ ﹁よ り 大 き な 宝︵ ʼgreater treasure ʼ ︶﹂ へ と 韻 を 踏 み つ つ 成 長 す る。 こ こ に は 断 絶 で は な く、 ʻlink ʼ と、 二 度 繰 り 返 さ れ る ʻstill ʼ に

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四二 よって強調される持続がある。 ʼlʼ 音と ʻnʼ音は ʻlending ʼ や ʻloan ʼ の 持 つ、 借 金 の 継 続 と い う お も し ろ い イ メ ー ジ と 響 き あ う。 だ が そ れ は ま た、 や は り 二 度 繰 り 返 さ れ る ʻlife ʼ お よ び ʻlive ʼ と も 呼 応 し て﹁ 命 ﹂ と い う 大 き な カ テ ゴ リ ー に 統 合 さ れ る。 こ の 連 の 足 取 り で あ る 詩 脚 も、 脚 韻︵ abbcaddc ︶ 同 様、 各 連 変 わ ら ず、 確 か で 乱 れ が な い。 こ れ が こ の 詩 の 一 行 目 で 言 う、 ʼThese splendid limbs ʼ の 姿 だ。 こ の と き 左 脚 は 腿 の 下 か ら存在していないはずであるが、詩はここに完全なる四肢を 見ているかのようである。   戦傷による四肢の切断という視点から第一次大戦における 男 性 性 を 研 究 し た ジ ョ ア ナ・ バ ー ク の﹃ 男 の 切 断 ﹄ に よ る と、 大 戦 で 四 肢 の い ず れ か を 失 っ た 軍 人 は 四 万 一 千 人 以 上。 内訳は片脚切断が約六十九パーセント、片腕切断が約二十八 パーセント、両脚または両腕切断が約三パーセント。英国の 歴史において、第一次大戦ほど人体にダメージをあたえたこ と は な か っ た と い う︵ Bourke 33 ︶。 こ う し た 四 肢 の 損 失 が 大 義のための英雄的自己犠牲として賞賛される一方で、当人た ちは自身の男性性の喪失を嘆くことになった。彼らは大黒柱 としての役割を果たせず、社会復帰のためにあたえられたリ ハ ビ リ 的 な 仕 事 を﹁ 男 の 仕 事 ﹂ と み な す こ と も で き ず、 ま た、 独 身 男 性 は 結 婚 の 望 み を 持 た な か っ た︵ Burke 31 -75; ま た Meyer 97 -127 ︶。 戦 地 で 兵 士 た ち は 手 足 損 失 の 恐 怖 に 怯 え た。前線を離れることができたある兵士は次のように日記に 書いた

﹁こっちに来て本当に良かった。風呂に浸かって 自分の両腕両脚を見ると、バカみたいだがそれがまだ全部そ こ に あ る の が 嬉 し い と 思 っ て し ま う。 ﹂︵ Burke 56 ︶。 こ う し た意識と対照的に、失われた片脚を含めた四肢を見つめるヤ ン グ の 詩 の 語 り 手 は、 そ れ ら を﹁ す ば ら し い︵ splendid ︶﹂ と 全肯定し、そこに男性損失の恐怖はない。   ところでこの詩は、手術前のヤングの思いに似るところが あ る

﹁ 手 術 直 前、 私 は 裸 足 の 両 足 を 並 べ て、 最 後 の 対 話 と見送りをした。本当にたくさんの冒険をしてきた、頼りに な る 親 友 よ!   と ﹂︵ Hankinson 198 ︶。 こ れ は 九 月 七 日 術 後 直後の日記の記述だが、文章は﹁術後一週間は危うい状態が

(16)

四三 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

続 い た。 ﹂ と い う 簡 潔 な 書 き 込 み で 終 わ る。 そ の 危 険 状 態 は 二个月後なってようやく、新しい日記帳とともに振り返られ る。ヤングはそのとき脚の損失よりも、むしろ精神の崩壊ま たは生命の危機を感じたようだ。日記は詩と逆に、断絶のイ メ ー ジ に 覆 わ れ る

﹁ 何 を 考 え て も す べ て 真 っ 赤 に 腫 れ た 末端のイメージで終わった。のびた蔓がバラの蕾でブツッと 終わるような。何を考えても、 なにかぞっとするような事故、 包帯、切断のことになってしまい、真っ赤な末端のイメージ に な る。 そ う な る た び に 私 は 意 志 の シ ャ ッ タ ー を 下 ろ し た

そんなことは考えないぞ!   と﹂ ︵ Hankinson 198 -99 ︶。   この詩がどの時点で書かれたものかは残念ながら分からな いが、先述したように、一九三六年の﹃全詩集﹄において連 詩﹁ 山 の 気 分 ﹂ 第 一 番 と な り、 ﹁ 満 ち 足 り て ﹂ と い う 新 し い 題 と、 ﹁ 一 九 一 七 年、 サ ン・ ガ ブ リ エ レ 山 の 戦 い の あ と で ﹂ の 付 記 が 加 え ら れ た こ と は 重 要 で あ る。 こ こ に 来 て よ う や く、この詩は、ガブリエレ山での戦傷による片脚切断にひと つの回復の形を与えるものとして存在することになったとい える。 一九一八年イタリア戦線、 サン ガブリエレ山再び   ヤ ン グ の 左 脚 切 断 手 術 か ら の 養 生 も ま ま な ら ぬ う ち、 一九一七年十月、イタリア・オーストリア戦線にはドイツ軍 が加わり、ドイツ・オーストリア軍の進撃はイタリアの防衛 線を次々に破っていく。トレヴェリアンとヤングの救急部隊 も撤退。悪路で車が動けなくなると松葉杖で歩き、川は担架 に乗せられて渡るなどしながらの撤退路であった。ヤングは 養生のため一九一八年一月にイングランドに帰国する。しか し彼は、五月に再びイタリア戦線に復帰するのであった。   ʻThe Italian front, 1918 ’ と 付 記 さ れ た、 ﹁ 四 月 の 歌 ﹂ 七 番 の 詩を次に検討したい。全文を引用する。

The wintry light from this far view of sea

  

flashes

(17)

四四

It wavers up the rent walls of my room

  

in whiteness of her bloom.

Good sun of winter

, bring the wave

-light near

,

that I may dream awhile

April is here.

A

long wind from the bend of hostile hill

  

sings to me of

April;

quick with a keen cool flutter

, like the beat

  

of her light blossom feet.

Kind foreign wind, ring rain

-gusts on the grass,

that I may hear my dancing

April pass.

But best I love these orchards. In leaf

-green,

  

laughter still lurks between

cluster and fruit

-bud. Black and wintry bare,

  

memory still meets me there

  

in mimic dance behind

their shattered branches, charred against the wind.

If blossom break, each petal lifts a wing

  

of April

ʼs dancing spring!

Grey with sea light, bent with winds from the hill,

my orchard fills my heart with

April still. .

(Y

oung,

April and Rain

15) 遠く海の眺めから冬の光    私に四月を照らしてくれる 光は   私の部屋の破れた壁に揺れる    四月の花ざかりの白さが揺れる 冬の善き太陽よ   波の光をもっと近くにつれてこい ここに四月がいる夢を   ほんのしばらく見たいから 敵意ある山の   曲がり道から長い風    私に四月の歌を歌ってくれる 素早く鋭く涼しいトレモロ    四月の花の軽い足取り

(18)

四五 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

やさしい外国の風よ   草原に雨突風を鳴らせ 踊る私の四月が   通りすぎるのを聞きたいから だが私が一番好きなのは   この果樹園      葉の緑に   房と芽の間に じっと潜む笑い声    黒く   冬らしくむき出しの    記憶がまだ私に会いに来る    砕かれ   黒焦げ   風に吹かれる枝の後ろ 見せかけの踊りを舞いながら会いに来る   もし花が咲くなら   花びら一つ一つが持ち上げる    四月の踊る春の羽根を! 海の光に灰色に   山の風にたわみつつ 私の果樹園は   私の心をじっと四月で満たす 裂けた壁、敵が潜む山、砲撃で破壊され焦げた果樹園。こう した冬の戦場の風景に、春の陽光と西風は似つかわしくない の だ が、 こ の 詩 を ヤ ン グ の 伝 記 的 文 脈 に 置 く と、 ま ず こ の ﹁ 前 線 ﹂ は 終 戦 後 の そ れ と し て 読 め、 そ し て 四 月 の 存 在 感 の 理由もわかる。   一 月 に 帰 国 し た ヤ ン グ は、 四 月 二 十 五 日 に 友 人 の 登 山 家 ウ ィ リ ア ム・ ス リ ン グ ズ ビ ー︵ W illiam Cecil Slingsby , 1849 -1929 ︶ の娘で旧知の仲だったエレナ・スリングズビー ︵ Elea -nor Slingsby , 1895 -1994 ︶ と結婚する。戦前のプロポーズは断 られていたが、今回はホモセクシュアリティーの性的傾向を 打ち明けたうえで受け入れられた。四月という月は彼にとっ て重要な意味を持つことになり、戦後に出版した詩集﹃四月 と雨﹄のライトモチーフとなる。しかし彼にとっての戦争が それで終わったわけではない。ヤングは五月末イタリアに戻 り、義足で救急隊に復帰する。イタリア軍は、イギリス、フ ランス、アメリカの援助を受け戦線を立て直しており、十月 に決定的な攻勢をかけ、オーストリア=ハンガリー軍に勝利 する。ヤングは十一月四日のイタリアとオーストリア=ハン ガリーとの休戦協定発行をボローニャの病院で迎えた。二度 目の手術を受け、まだ体に残る砲弾の破片を取り除いたので

(19)

四六 ある。エレナがそこに駆けつけ、彼女はヤングの救急隊に入 隊する。部隊は終戦の混乱のなかで困窮する人々を救う仕事 に従事した。彼らの救護トラックは、かつての戦地を走る。 彼女は私と一緒にトリエステに入り、サン・ガブリエレ 山を越え、イゾンツォ前線をずっと走った。山道の脇に 据えられた大砲は錆びていた。軍用物資置場は早くも蔓 や果樹の新しい葉に覆われ姿を消そうとしている。帰っ てきた農民たち

黒髪のラテン系たちや太綱みたいな 金髪の三つ編みを盛り上げたスラブの女たち

も、よ そ 者 を 見 る か の よ う に 我 々 の 制 服 に 顔 を し か め た。 ︵ Young, Grace 340 -41 ︶ 終戦を迎えた戦地には農民が帰り、すでに日常生活を始めよ う と し て い た、 と ヤ ン グ は 回 想 す る。 彼 が 脚 を 失 っ た サ ン・ ガブリエレ山をトレヴェリアンが次のように描写したのはほ んの一年前のことである。 ある朝は道端に、三〇人の男たちが土埃にまみれた山と なって死んでいるのを見た。別の時は、頭部や手足が岩 と一緒に道に散らばっているのを見た。上のほうの塹壕 の様子はまちがいなくもっと酷いだろう。一九一七年九 月 前 半 の サ ン・ ガ ブ リ エ レ は 身 も 凍 る 屠 殺 場 だ っ た。 ︵ Trevelyan 160 ︶   不毛の地と化すかに見えた山と果樹園はこの詩でも再び実 りを約束しようとしている。四月は来たるべき平和時の春で あるが、 しかし、 詩人にとっては未来のそれであると同時に、 片脚喪失のあとに訪れたエレナとの結婚月でもあった。そし て そ の 四 月 の 象 徴 と い え る エ レ ナ は 今 か た わ ら に 存 在 す る。 戦 時 の 記 憶 と 終 戦 後 の 風 景、 十 一 月 の 冬 景 色 と 春 の 風 と 雨、 現在と過去と未来とがこの詩において混交するが、それは決 し て コ ラ ー ジ ュ 的 断 片 と は な ら な い。 詩 は 行 末 の ʻstill ʼ に 現 れるような持続性の気分をもって終わる。この語はもちろん ʻApril ʼ と、そして ʻhill ʼ 、 ʻfill ʼ と韻を踏み、この山を満たす。

(20)

四七 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

戦没者記念式典、グレート・ゲイブル山   一九一八年十二月、役目を終えた救急隊は解散した。英国 赤十字はイタリア戦線で約四〇万人の傷病者を運んだ。 うち、 ト レ ヴ ェ リ ア ン / ヤ ン グ の 救 急 部 隊 は 三 年 四 个 月 の 任 務 で 一 七 万 七 千 五 二 二 人 を 搬 送、 救 急 ト ラ ッ ク は 百 三 十 一 万 九 千 三 一 六 キ ロ を 走 っ た︵ Trevelyan 235 ︶。 隊 員 たちにはイタリアやイギリスから五〇あまりもの勲章が与え られた︵ Young, Grace 282 ︶。一九一九年の復活祭、戦前ヤン グが恒例に開いていた北ウェールズのペナパス ︵ Pen -y -Pass ︶ での集まりが再開される。戦争で失った仲間の多さに開催を 渋るヤングを、エレナが説き伏せて実現したのだった。ここ で ヤ ン グ は 義 足 で 初 め て の 岩 登 り に 挑 戦 し、 ト リ フ ァ ン 山 ︵ Tryfan, 918m ︶の一部︵ Gashed Crag ︶を、 万一のためのロー プに守られながらとはいえ登りきる。ヤングの国内登攀が再 開された。   こうした国内登山の中でも重要なのが一九二四年六月八日 の グ レ ー ト・ ゲ イ ブ ル︵ Great Gable, 899m ︶ 登 山 で あ ろ う。 聖 霊 降 臨 祭 の 日 曜 日 に あ た る こ の 日 7 、 湖 水 地 方 の グ レ ー ト・ ゲイブル山における、フェル・アンド・ロック・クライミン グ・ ク ラ ブ︵ Fell & Rock Climbing Club ︶ 主 催 の 式 典 に ヤ ン グ は 招 待 さ れ て い た。 ク ラ ブ は 大 戦 で 失 っ た 仲 間 た ち を 偲 び、グレート・ゲイブルを含む三千エーカーの土地を購入し て ナ シ ョ ナ ル ト ラ ス ト に 寄 付、 会 員 の 戦 没 者 二 〇 名 の 名 を 彫った記念碑を山頂に据えた。そこにはエレナの兄ヒルトン ︵ Hilton Laurence Slingsby , 1893 -1917 ︶ の 名 前、 そ し て 大 戦 前 の 夏 に ヤ ン グ が 共 に ア ル プ ス 登 山 を し た シ ー グ フ リ ー ド・ ハーフォード ︵ Siegfried Herford, 1891 -1916 ︶ の名前もあった。 ヤングはこの除幕式典でのスピーチを、旧知の仲である会長 の ア ー サ ー・ ウ ェ イ ク フ ィ ー ル ド︵ Arthur W akefield, 1876 -1984 ︶から依頼されたのである。グレート・ゲイブル山頂ま でのような長い道のりを義足で歩くのは、この頃のヤングに とってはまだ初めてだった。当日は強い風雨で道のりは厳し

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四八 かったが、なんとか山頂にたどり着き、集まった人々

式 典 を 報 じ た 新 聞 の 一 つ、 ﹃ タ イ ム ズ ﹄ 紙 に よ れ ば 五 〇 〇 か ら 六〇〇人

に加わることができた。雨が止み、彼の話す番 になった。ヤングは述懐する。 私の心には静かな確信があった。これから私が語るのは 別れの言葉だ。それは、過去に私の友であった者たちへ の別れであるだけでなく、いま私のまわりで雲に覆われ ているこの山々との盛んな交流に歓喜していた若き自分 自身との別れでもあった、と。太陽の光の筋が現れ、そ れ は 悲 し い 別 れ で は な い と 保 証 し て く れ た。 ︵ Young, Differ ence 148 ︶ 彼 は 追 悼 の 辞 を 述 べ た が、 そ れ は﹁ 山 に 向 か っ て 語 り か け ﹂ ま た、 ﹁ 山 が こ れ ま で 自 分 に 語 り か け て き た ﹂ 言 葉 で あ っ た という︵ Young, Differ ence 149 ︶。 こ の 山 の 頂 に 今 日 私 た ち は 集 ま り ま し た。 こ の 一 帯 の 山々を﹁自由﹂に捧げるためにです。この岩の上に、男 た ち の 名 前 が 据 え ら れ て い ま す。 私 た ち の 山 上 の 兄 弟、 われらの同志たちの名前です。彼らは、私たち同様、人 間の精神が束縛されているところに大地の自由などない と信じたのです。……このシンボルに私たちは、私たち に与えられた二重の信託を確信します。それは山だけが その子供たちに託すことができるものです。自由のなか に備わる力を訓練すること。そして、たゆまぬ奉仕を通 して魂を自由にすること。この二つを自由な山々はいま 一 度、 そ し て 永 遠 に、 私 た ち に 与 え て く れ る の で す。 ︵ Young, Differ ence 149 ︶ ヤ ン グ が 戦 前 に 出 版 し た 詩 集 の 題 名 が﹃ 自 由 ﹄︵ Fr eedom ︶ であったことを考えると、この式辞に﹁自由﹂という言葉が 何度も繰り返されることは興味深い。軍医として地獄を見た 戦 争 の 傷 か ら 立 ち 直 る こ と の な か っ た ウ ェ イ ク フ ィ ー ル ド

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四九 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

︵ Davis 3-39 ︶ と 対 照 的 に、 こ こ に は 山 と 共 に 戦 傷 か ら 回 復 し新生するヤングの姿が見られる。   一九二七年、ヤングは満を持して、十三年ぶりにヨーロッ パ・ ア ル プ ス に 復 帰 し、 モ ン テ・ ロ ー ザ︵ Monte Rosa, 4634m ︶ 登 頂 を 果 た す。 翌 一 九 二 八 年 に は マ ッ タ ー ホ ル ン 登 頂。それを報じる記事は、マッターホルンの前に登頂を試み た︵ 雪 崩 の 危 険 の た め 登 頂 は 果 た せ ず ︶ ヴ ァ イ ス ホ ル ン ︵ W eishorn, 4506m ︶ の 急 峻 な 岩 場 に 立 つ 写 真 と と も に﹃ タ イ ム ズ ﹄ 紙 や﹃ デ イ リ ー・ テ レ グ ラ フ ﹄ 紙 な ど に 掲 載 さ れ た。 こ の 登 頂 は ヤ ン グ に と っ て 象 徴 的 な も の で、 ﹁ 戦 争 で 腕 や 脚 を 失 っ た ヨ ー ロ ッ パ の す べ て の 人 々 を 勇 気 づ け ﹂、 彼 ら が 苦 しむ無力感が﹁神経の生み出す作り物﹂に過ぎないことを示 す、 と い う 目 的 が 一 つ に は あ っ た と い う︵ Young, Differ ence 193 ︶。 おわりに   ヤングはその身振り、そしてその詩によって、戦傷を負い ながらもそこから見事に回復する姿という型を示し た 8 。しか しそうした型にはある種の危うさが存在するとカーデン=コ イ ン は 言 う。 戦 傷 と ジ ェ ン ダ ー と の 関 係 を 分 析 し た 彼 女 は、 戦傷にまつわる言説に﹁男らしさ﹂による抑圧を見る。つま り、戦争で身体を欠損することは男らしい英雄的犠牲である と賞賛されるが、同時に、欠損によって男らしい身体・意識 は失われる。その女性化された身心をリハビリテーションに よ っ て 克 服 し、 再 び 男 ら し さ を 取 り も ど し て こ そ 男 で あ る。 そういう言説が戦傷者を取り巻く。国家にとって有用な兵士 を再生産していく﹁軍事モデル﹂がそこにある、というのだ ︵ Carden -Coyne ︶。これを規範とすれば、例えばオウェンの詩 ﹁ 身 障 者 ﹂︵ ʼDisabled ʼ ︶ に お け る、 片 腕 片 脚 を 失 っ た 戦 傷 者 が 繰 り 返 す 男 性 喪 失 の 叫 び

﹁ 女 た ち は ど う し て 来 て く れ な

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五〇 い﹂ ︵ ʼWhy don ʼt they come? ʼ; Owen 176 ︶

は、 許されざる嘆 きであろう。それと対照的なヤングの言行はこの軍事モデル と親和性が高い。   ヤングは一九二七年に出版した﹃高き山々﹄で、戦争と登 山という二つの﹁冒険﹂について述べている。 三日後──一九一四年八月

嵐が起きた。わたしはふ たたび故郷を離れてそれに相対した。山のことを考える と、こんな風に思ったりもした

俺はようやく悟るべ き で は な い か、 山 で 感 じ た 興 奮 は 見 せ か け に 過 ぎ な い、 静かな暮らしから冒険を作り出そうと自分を騙していた に過ぎない、そういう自己欺瞞を世間は﹁冒険﹂と呼ん でいるに過ぎない、と。戦闘のスリル、迫る危険を予測 できる可能性がより低い世界、それこそが皆が言うよう に﹁本物﹂なのではないか、と。しかし、発熱を繰り返 しながら延々と恐怖に震える戦争をふた月ほども自ら経 験したら、そうした疑問に対する答えは出た。常に変わ らぬ、完全な答えが出た。それは、自然に反する死と破 壊に対する、 怒りと憐れみに満ちた魂の反応だった。 イー プルの爆撃をたった一週間でも、そして下界を見晴らす マッターホルンの山行を一日でも経験した者が、どうし て死の耳障りな単調音と生の深い共鳴音とを同列になら べられようか。……山の息は、我々に命を与える人道的 な も の な の だ。 山 の も つ 危 険 は そ れ こ そ、 頑 強、 正 直、 自己発見への刺激剤だ。山は我々の仲間に死をもたらし たが、その者たちにとってさえ、山は、まず彼らに命を 正しく味わう力を与えてくれた。正しく生きる知恵を与 えてくれたのだ。生きることにおいて、いつか死ぬかも しれないということは、より高い価値のあるものの中に あ っ て は、 取 る に 足 ら な い こ と な の だ。 ︵ Young, High Hills 343 ︶ ヤングはここで山と戦争を峻別する。しかし彼は別のところ で、いざ戦いとなったら、山で鍛えた肉体と精神が大いに役

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五一 山と戦争            

ジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの第一次大戦詩

立つと主張してもいる。第二次世界大戦の時期には新聞紙上 で そ の 主 張 を 訴 え も し た︵ Young, ʻStamina ʼ; ʻT raining ʼ ︶。 上 述 の第一次大戦戦没者追悼スピーチにかえってみれば、山が与 えた二つの課題

﹁自由のなかに備わる力を訓練﹂し、 ﹁た ゆまぬ奉仕を通して魂を自由にする﹂

この ﹁訓練﹂ と ﹁奉 仕﹂を発揮して男たちは戦い抜いた、ということになる。む ろんヤングの意識としては、まず戦争ありきではなく、山が あって、それが戦争でも有用であるという順序であろう。山 が主であり軍事モデルは従である、と。しかしその主従関係 は常に安定したものではないであろうし、そもそも主従関係 を取り結ぶことができる親和性をもつことは無視できない。 註 1   も っ と も、 一 九 一 六 年 に 可 決 さ れ る 兵 役 法 案 で は 十 八 ~ 四十一歳独身男性が徴兵される︵小関 15 -44 ︶。 2   Das xli -xliii. た だ し、 Reilly に よ る 文 献 目 録 English Poetry of the First W orld W ar にはヤングの ﹃全詩集﹄ の記載がある ︵ Reilly 346 ︶。 3   ヤ ン グ 詩 の 評 価 に つ い て は 拙 論︵ 佐 藤 ︶ 参 照 の こ と。 ま た、 ヤ ン グ は ブ ル ッ ク︵ Rupert Brooke, 1887 -1915 ︶ や グ レ イ ヴ ズ︵ Robert Graves, 1895 -1985 ︶ や サ ス ー ン︵ Siegfried Sassoon, 1886 -1967 ︶ を 個 人 的 に 知 っ て い た が、 こ う し た 他 の 詩 人 の 大 戦 詩 を ど う 読 ん だ か、 ま た、 モ ダ ニ ズ ム 詩 を ど う 読 ん だ か に つ いては残念ながら不明である。 4   ハ ン キ ン ソ ン の 伝 記 に は、 ヤ ン グ が 八 月 一 日 に は パ リ に い た と あ る が、 根 拠 不 明 で あ る。 ﹃ 塹 壕 か ら ﹄ に は、 ʻOn T uesday , 28th of July

, I returned from the

Alps. . . . On

Thursday [30 July] vol

-unteered to go with the Servian

A

rmy as

W

ar Correspondent for the

Daily News

. . . . On Sunday [2

August], it was arranged that I should

go to Paris to join the French

Army .ʼ とある︵ Young, Trenches 7 ︶。 5   第 一 次 大 戦 に お け る 女 性 に よ る 救 護・ 看 護 活 動 に つ い て は 荒 木を参照した。 6   イ タ リ ア 戦 線 に つ い て は、 ウ ィ ル モ ッ ト、 ハ ー ト、 コ ラ リ ー ツィ、および Buchan 、 Trevelyan を参照した。

(25)

五二 7   デイヴィスが活写するように、 奇しくもこの日は、 ジョージ ・ マロリー︵ Geor ge Mallory , 1886 -1924 ︶とサンディ・アーヴィン ︵ Andrew Irvine, 1902 -1924 ︶ が エ ヴ ェ レ ス ト で 消 息 を た っ た 日 だ っ た。 ヤ ン グ は エ ヴ ェ レ ス ト 隊 結 成 に 際 し て 大 き な 貢 献 を し ている。 8   こ の 回 復 に は、 上 流 階 級 ゆ え の 資 財 に よ る と こ ろ が 大 き か っ た こ と を 無 視 す る わ け に は い か な い だ ろ う。 ヤ ン グ は 高 品 質 の 義 足︵ 普 通 生 活 用 と、 特 別 に 開 発 し た 登 山 用 の 二 つ ︶ を 入 手 で きたし、 肉体労働ではなく、 執筆など知的労働による収入があっ た。 参照文献 Bourke, Joanna.

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五三 山と戦争            

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参照

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