• 検索結果がありません。

離島社会の<法と慣行> : 八重山群島・小浜島の事例 (その1)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "離島社会の<法と慣行> : 八重山群島・小浜島の事例 (その1)"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

はじめに-

小浜島の13年

 小浜島に通い出して今年度で13年目になる。最初に小浜島に行ったの は2005年の夏であった。それは沖縄大学の田里修氏を代表とする研究グ ループによる2期目の科研費調査が始まった年である。1期目の科研費 調査では宮古・来間島を対象としていたので、その夏には私と同グルー プの一員である森謙二氏は、新たな調査地を選定するために、小浜島、 多良間島、石垣島、与那国島、波照間島についての予備調査を行ったの である。  予備調査の結果、石垣島と小浜島の双方を調査対象とし、石垣島につ いては森謙二氏が中心となって明治期の戸籍の分析等を行い、小浜島に ついては我々両名が3人の大学院生やOD(当時)の助力を得ながら小 浜集落でのフィールドワークを行うこととなった。  これまでの成果はいくつかの論稿として報告してきたが(1)、我々の グループの科研費申請はその後も幸運にも採択され続け、私と森氏は小 浜島調査を継続することとなった。その理由はいくつかあるが、当地の 豊年祭をはじめとするいくつもの祭祀の持つ豊穣さに魅惑されたこと、 そして我々の定宿となった民宿の「お父さん」や「お母さん」等の当地

離島社会の<法と慣行>

      

-八重山群島・小浜島の事例-(その1)

林   研 三

はじめに-小浜島の 13 年 1.小浜島の概要-人口と農業 2.小浜集落-公民館制・部落会・祭祀 3.婚姻・養取と屋号の事例(以上本号) 4.法と慣行の相剋/相乗 おわりに

(2)

の人々の人柄によるところも大きい。この八重山群島のなかでの茫漠と 広がる祭祀世界と茫洋とした世俗世界の併存、その併存のあり方が小浜 島の魅力とも言える。  調査期間中はできるだけ多くの方々の話を聞いて回った。しかし、当 地の最も大きな祭礼である豊年祭には下記にも述べるように、極めて高 い秘儀性があり、話を聞くことはほとんどできなかった。我々がそれを いくつかの制約のもとで「見学」できたのは、小浜島調査を始めてから 何年もたってからである。しかも、その観察結果でさえ公表することを 我々は控えてきたので、小浜島の全体像にはいまだ到達できずにいる。 これは我々の「怠慢」であることは間違いないが、島の人たちとの信頼 関係を維持するためでもある。従って、今回も豊年祭については最小限 の記述にとどめざるをえない。そのこともあり、提示した資料の詳しい 分析と考察は本稿ではなし得ず、最後に<法と慣行>の観点からの小浜 社会についての若干の分析・考察を提示するにとどめた。  本稿の記述の多くは上記のようにフィールドワークに基づくものであ るが、こういった手法による報告にはフィールドワーカーの主観が介入 しており、客観的な「調査報告」とは言いにくいという指摘もあろう。 この「客観的」如何という点についてはここでは深く立ち入る余裕はな いが、そういった指摘を否定する意図はないことは言っておきたい。す なわち、本稿はそういう性格を有する「調査報告」でもあるが、そのこ とによって「調査報告」としての意義が全く失われてしまうとは思わな い(2)

1.小浜島の概要-

人口と農業

 小浜島は周囲16.6キロメートル、面積7.84平方㎞であり、中央部には大ウフ 岳 ダケ があるが、おおむね平坦な地勢である。八重山群島の中心地である石 垣島からはフェリーで約30分で小浜港に到着する。このフェリーは観光 客だけでなく、島の住民の「生活の足」であり、石垣島への買物や病院 への通院にも利用されている。行政上小浜島は竹富町に含まれるが、竹

(3)

富町役場は現在までのところ石垣島にあり、このことも石垣島との頻繁 な往来が生じる所以であろう。  集落としては中央部の小浜集落と西部の海岸沿いの細クバザキ崎集落がある。 さらに島の東部には近年建設されたリゾート施設があり、港周辺やリゾ ート施設周辺等ではいくつかの飲食店も営業している。小浜集落の従来 の生活は農業が中心であり、サトウキビ栽培も盛んで、島内には製糖 工場がある。その一方で、小浜集落内にはいくつかの民宿と飲食店、商 店、さらにガソリンスタンドもある。これらの多くは小浜出身者が営業 しているが、飲食店のなかには転入者によって営業されているものもあ る。  他方の細崎集落はもともとは糸満漁民の定住地と言われており、今で も第一種漁港が整備されている。かつてはこの集落で水揚げされた魚が 女性達によって小浜集落まで持ち込まれ販売されていた。しかし、最近 は漁業に従事する住民はきわめて少なくなる一方で、転入者が多く居住 し、現在の細崎の住民の約半数は上記リゾート施設で働く人たちとその 家族であるという。さらに、ここでも近年は観光客を対象とする飲食店 が営業をはじめている。  1963年から2008年までの人口と世帯数の推移を見てみると、次の表 (1)のようになる。この数字には小浜集落と細崎集落、さらにはリゾ ート施設で働く者も含まれているが、1972年の「沖縄の本土復帰」以前 と以後では明らかに有意差が見られる。平均世帯員数は1963年の4.6から 1990年代の2.0に減少し、人口も200人前後に減少した一方で、世帯数は 一時微減したが、その後は徐々に増加している。これは多くの者が他出 したが、それは本土で見られるいわゆる「挙家離村」ではないことを意 味しよう。しかし、2000年以降の世帯員数の平均が2.0を下回っているこ とは、高齢者の単身世帯の増加とともに、リゾート施設に勤務する単身 者の増加によるところも影響しているのかもしれない。

(4)

人口 世帯数 一世帯当たりの人数 男 女 計 1963 438 428 866 187 4.6 1968 334 331 665 163 4.1 1973 229 212 441 153 2.9 1978 210 202 412 166 2.5 1983 243 228 471 206 2.3 1988 259 243 502 237 2.1 1993 218 200 418 209 2.0 1998 190 209 399 197 2.0 2003 240 239 479 253 1.9 2008 291 265 556 316 1.8 2013 316 306 622 376 1.7 2017 363 352 715 460 1.6 表(1)人口と世帯数(2017年は1月末の数字、他は12月末) 総数 専業農家 兼業農家第一種 兼業農家第二種 1970 132 76 24 32 1975 96 28 45 23 1980 81 30 22 29 1985 98 41 27 30 1990 87 38(36) 18(18) 31(31) 1995 74 36(36) 17(17) 21(21) 2000 78 (39) (8) (25) 2005 54 (24) (9) (21) 2010 37 (19) (6) (12) 表(2)農家数(括弧内は販売農家数)

(5)

0.3未満 0.3~0.5 0.5~1.0 1.0~2.0 2.0~3.0 3.0~5.0 5~10 10~20 20以上 1970 19 26 32 55 1975 12 4 10 37 21 12 1980 3 3 10 35 14 16 1985 6 7 19 29 15 15 7 1990 1 13 32 19 13 7 1995 9 13 15 17 18 2 2000 3 6 18 21 18 6 2005 1 2 11 15 15 6 2 3 2010 2 5 11 7 8 4 2 1 表(3)経営耕地面積別経営体(1990年以降は販売農家/単位:ha) 稲 雑穀 農作物工芸 野菜類 肉用牛飼育経営体数 肉用牛頭数 1970 7100 10000 170 62 111 1975 7324 4147 146 53 172 1980 5182 8239 312 28 90 1985 3718 9144 265 49 206 1990 2698 54 10479 42 35 244 1995 849 235 6195 9 40 535 2000 385 5715 46 716 2005 270 29 619 2010 6037 9 472 表(4)販売目的の主要作付け作物(単位:a)と肉用牛  次に小浜集落の農業を「2010年世界農林業センサス」から概観してみ ると、表(2)~(4)のようになる。表(2)からは農家総数が減 少してきている様子がうかがわれる。1970年代の減少は「沖縄の本土復 帰」に伴う現象であろうが、注目されるのは今世紀に入ってからの減少 である。1970年と2010年を比較すると、総数だけでなく、専業農家数や 兼業農家数も約4分の1にまで減少している。この現象は経営耕地面積 別経営体数の推移や肉用牛飼育経営体の減少とも関連しよう。表(3) の経営面積でも1970年には0.3ha未満が19戸もあったが、2010年には

(6)

0.3ha未満は皆無であり、半数近くが3.0ha以上の経営耕地面積を有して いるだけでなく、10haを超える経営面積を擁する農家も出現している。 肉用牛については1970年から2010年に頭数は約4倍に増加しているが、 経営体数は6分の1以下に減少している。農家や経営体の総数の減少と 一部の農家による大規模経営という方向性が読み取れるであろう。  例えば、現在は子に経営を譲ったH(昭和□年生)は、当初は3頭の 肉用牛の飼育からはじめたという。町から放牧地を借り受けながらも、 今では約100頭の肉用牛(仔牛)を飼育するまでになっている。上記の 2010年の肉用牛の約4分の1はこの農家による飼育であり、この点から も近年の少数農家による大規模化の傾向をみることができる。  表(4)の「工芸農作物」にはサトウキビが含まれる。小浜島での糖 業のはじまりは明治時代に遡るとされている(3)。しかし、その当時の サトウキビ栽培はわずかなもので、本格的な栽培は大正時代になってか らである。当地では明治時代以来、各個人による牛車製糖場が13カ所設 置されてきたが、紆余曲折を経て戦後も存続していたのは7、8カ所の 製糖場であった。戦後は小型製糖工場が島内五カ所に設置された。これ らはいずれもディーゼルエンジンで稼働していた。  昭和30年代になると、サトウキビの収穫量も増大してきたので、中型 製糖工場の導入の必要が叫ばれ出した。その結果昭和37年に「大洋漁業 (株)」が当時の小型製糖工場を買い上げ、地元資本とともに「小浜製 糖(株)」を設立した。「大洋漁業(株)」は当時すでに西表島で「琉 球産業(株)」を設立し、パイン缶詰を生産していた。小浜島において もパイン生産のための農場を経営していたことが、「小浜製糖(株)」 設立への参入の契機となった。  しかし、昭和46年には長期の干魃、大型台風の来襲によって農作物は ほぼ全滅し、サトウキビの収穫量も前年の17分の1にまで激減した。こ のことが大きな原因となり「小浜製糖(株)」は生産を中止せざる得な り、累積赤字も増大し、昭和48年10月には解散した。この解散前から従 業員への給料遅配などが生じていたが、解散は島経済にさらに大きな影 響を与えることになる。

(7)

 そこで小浜集落では竹富町からの補助を受けて「大洋漁業(株)」か ら工場を購入することとした。そして、新たに「照島糖業(株)」と命 名された新会社が昭和49年1月に発足した。新会社の社長には当地在住 のN、専務理事には同じく当地在住のTがつき、土地改良事業を行うと ともに、他の作物との複合経営をなしながら増産を図った。そして、昭 和63年には社名を「小浜製糖(株)」に戻し、現在に至っている。  製糖工場は小浜港から小浜集落に向かう道路沿いに位置しており、そ の後はTの長男A(昭和2□年生)が同会社の社長を務めた。Aはもとも とは那覇市に居住していたが、十数年前に単身で帰島し、生家のサトウ キビ栽培を行っていた。A以外にもこの会社に勤務している者は少なく ないし、他出後に帰島してこの会社に就職し、島内の町営住宅に居住し ている若者夫婦もいる。  さらに、毎年1月から3月はキビ刈りの季節である。「小浜製糖 (株)」が全国からそのためのアルバイトを募集し、約20名が例年当地 を訪れている。当地へのキビ刈りや旅行がきっかけで当地在住者と結婚 し定住した女性もいる。当地在住のY(平成□年生)も平成2□年3月に 結婚したが、その相手も本土出身の女性であり、当初は観光客として当 地を訪れていた。

2.小浜集落-

公民館制・部落会・祭祀

 小浜港から小浜集落に続く道路は集落を二分しており、おおむねこの 道路の北側が北部落、南側が南部落と呼ばれている。北部落を「ウヤム ラ(親村)」と言う者もいるが、これは北部落に本家(ヤーモト)が多 く、分家した(ヤーバカリした)家が南部落に多いことと相応する。平 成27年2月現在、北部落の領域には76戸の家屋と看護師寮があるが、う ち13戸は空屋である。南部落の領域には72戸の家屋と町営住宅2棟と診 療所医師住宅がある。この南部落でも72戸のうち16戸は空屋である。但 し、これらのすべてが常時空屋になっているわけではなく、後述する豊 年祭や盆等に帰島する人びとが滞在する家屋も多い。つまり、他出した

(8)

者は多いが、祭礼時等に戻ってくる者も多く、戻ってきた時には普段は 空屋になっている生家に泊まるのである。さらに、近年ではいくつかの 空家には島内のリゾート施設や小浜港付近の飲食店で働く転入者等も居 住している。  しかし、他出した者が全て帰島するわけではない。ほとんど帰島する ことのない者もいる(4)。特に続柄が次男以下の場合はその傾向が強い (次男以下で帰島した者がいないというわけではない)。つまり、戻っ てくるのは長男が多いのであるが、これは生家を継承する者は長男であ るということが「一応の不文律」になっているからであろう。しかし、 集落のなかにはその長男ですら帰島しない者もいる。そういった場合、 親が生存中は生家は存続しているが、その親が没するとやがてその家屋 は廃屋となり、さらには屋敷地は更地になることもある。このようにし て最近空地になった区画が北部落に5区画、南部落に6区画ある。  空屋の場合の多くは、子または親戚が管理することが多い。他出者の なかには石垣島在住の者も少なくないが、そういう者のなかで生家が空 屋となった者は、祭礼時以外でも普段から当地と石垣島を「行ったり来 たり」し、家屋や畑を管理している。その意味では、前述の石垣島との 往来の多さにも見られるように、当地居住者や石垣島在住の当地出身者 にとっては、石垣島と当地は一つの生活圏に包摂されているとも言えよ う。  北部落と南部落にはそれぞれ部落会長がいるが、部落会長はスーダ イ、あるいはユームチィ(世持)とも呼ばれている(5)。この南北の部 落会を束ねる組織が公民館組織である。公民館長のもとで館長が指名す る総務部長、南北の部落会長でもある副公民館長が配置され、それ以外 にもいくつかの役職者がいる。それぞれの部落会長のもとに理事1名と 幹事(会計)1名、監査役1名がいるが、これらの館長と副館長、理 事、幹事らとともに、小浜小中学校長、小浜郵便局長、小浜駐在所の警 察官、診療所長、青年会長、婦人会長、老人会長等から評議委員会が構 成されている。この評議委員会の構成員は約40人に及び、そのなかには 島内のリゾート施設の責任者も含まれている。

(9)

 各部落ごとに各戸から部落会費が徴収されている。会費は「世帯割」 として1世帯当たり年7000円、これに居住する成年男子1人につき2000 円、成年女性1人につき1000円が「生産割」として加算されていく。但 し、最近は70歳以上の者には成年男女ごとの加算はなくなったという。 また、上記の空屋のなかには、その家からの他出者が「世帯割」のみを 部落費として提供することもある。これらの部落会費は公民館での行事 に際して、各自が持参し公民館費としてまとめられる。  公民館長や部落会長は男性であり、他出後に帰島した男性が担当する 傾向が強い。この傾向は約20年前に帰島したD.A(昭和1□年生)が、 帰島した年の次の年の4月から部落会長についたことが始まりだとされ ている。最近では公民館長も同様で、例えば、平成27年、28年の公民館 長は、沖縄県警を定年退職した後に平成25年に単身帰島していた者(昭 和2□年生)が担当していた。さらに平成26年の南部落の部落会長は石垣 島在住者のKであった。他出者であったKは定年退職後もそのまま石垣 島に居住し続けていた。しかし、彼は以前から豊年祭や盆などの祭礼時 には必ずその生家に戻り行事を行っていたし、生家の畑でのサトウキビ 栽培も行っていた。そのこともあって、Kは当地居住者ではないにもか かわらず、部落会長に選任されたのである。このような傾向は「公民館 長や部落会長をつとめる能力がある人が限られているから」とも言われ るが、実際はそういった仕事を帰島者が負担させられているということ なのかもしれない。  公民館長は当地と行政をつなぐ役割を担っているし、部落会長や総務 部長はその補佐という側面を有しているが、これらとは別にナカスと呼 ばれる役職もある。公民館長は行政上の役職であるが、ナカスは上記の スーダイ等と同様に、ローカルな「役職」である。ナカスはビギドゥン ナカス(男ナカス)とミードゥンナカス(女ナカス)に分かれている。 ナカスは、盆、結願祭、種取祭、正月(結願祭で使用するミルクの面 と福禄寿の面の掃除)等のほとんどの祭祀や部落行事の準備・運営を担 う。公民館長や部落会長は毎年3月31日に開催される公民館総会で選出 されるが、部落会長の候補者は事前にこの男ナカスが選任している。男

(10)

ナスカは原則として成年男子全員が順番にやるが、「人数の制限がある のでナカスに入らない人もいる」とも言われている。  男ナカスには後述の結願祭の時に狂言等を行う集団を終えた者が入 る。この集団には高校を卒業後に入り、概ね24、5歳まで加入している (結願祭前の狂言等の練習は集落内の家を借りて行うが、その家のこと をキャンギヤーと言う)。従って、男ナカスには20歳代後半から現在で は54歳までの者が加わっている。男ナカスは年齢によって二分され、年 少者はウトゥトゥナカス、年長者はシンジャナカスと呼ばれている。南 北の部落にそれぞれナカスが8人~10人ほどいる。現在(平成27年)北 部落ではウトゥトゥナカス4名とシンジャナカス6名がいる。  当地の祭事にも言及しておこう。当地では四つのヤマにそれぞれワン (御嶽)と言われる聖域・社が対応し、居住戸はそれぞれのワンに帰属 している。ヤマにはイリヤマ、アールヤマ、ナカヤマ、ナカンドウワン があるが、最後のナカンドウワンに属する者は二戸のみである。イリ ヤマにはテルコシとカーター、アールヤマにはカホネ、ナカヤマにはナ カヤマとサクヒ、そしてナカドゥアンという計六つのワンが存在して いる。居住者はこれらのいづれかのワンのヤマニンズウとも言われてい る。  各ワンにはツカサ(司)やバキツカサ(脇司)と呼ばれる女性の神役 がいる(6)。このツカサは従来は一定の血縁関係に沿って継承されてい たが、ツカサになると祭礼への参加などの行動上の制約が多いため、十 数年前からは2年任期で年齢順でツカサを担当するようになった。  誰がどこのワンに属するのかについては、かつて村武精一は原則的に 「原則としてはまず、小浜地づき村民にかぎること。そしてかれらは男 系に沿って、その集団への帰属が定まる」としながらも、「種々の原因 によって、帰属上の振幅性を惹起する性質を内含している」(7)と指摘 していた。今回の調査によっても、「男系」に沿った帰属方式が見られ た一方で、以下のような事例も見られた。

(11)

<事例1> A B C D ○=△ △ △=○ △ △ △ △=○ △ △ b d (転出) △ カホネ カーター カホネ テルコシ <事例2> F ○=△ ○ ○ ○ △ △ △ △ a b アール ナカヤマ サクヒ <事例3> △ X 〇 Y アール △ △ △ c △=〇 d

(12)

 <事例1>ではカホネであるCから婿養子として二人bとdが婚出し た。婚出先はカーターとテルコシであり、両名とも婚姻によってワン が変わった事例である。<事例2>のaとbは婚外子であり、男系(父 系)によってワンが決まってはいない。父親(F)はアールであった が、aとbはそれぞれナカヤマとサクヒに属している。  次の<事例3>ではcは婿養子ではないが、cの祖父Xは転入者であ り、cの祖父も父もどのワンにも属していなかった。そこでcとdが結 婚した時に、dの祖母Yが自らのワンであるアールにcを入れてくれと 頼んだ結果、現在cはアールに属している。  この3事例からワン帰属についての一般化を試みることは難しいが、 少なくとも婚姻や養取を契機としてワンが変わることがあるとは言えそ うである。そうであれば、ワン帰属には家、ヤーの影響を無視すること はできないであろう。この点は後述の豊年祭との差異点として指摘でき るかもしれない。  次に祭りについても触れておこう。当地の「三大祭り」としてあげら れるのは豊年祭、盆行事、結願祭である。豊年祭は初日はワンポーリ ィ、二日目はナビンドゥポーリィ、三日目はイローラポーリィと呼ばれ ているが(8)、秘儀性が高い。しかし、祭りの中心がアカマタとクロマ タが出現する二日目であることは間違いない。  ポーリィとは豊年祭のことであり、ワンポーリィとはワン(御嶽)で の豊年祭である。同じくナビンドゥポーリィとイローラポーリィは、ナ ビンドゥやイローラという名の場所での豊年祭という意味である。双方 とも集落周辺の場所である。  二日目の夜にはアカマタとクロマタが出現し、夜通し各戸を廻り、夜 明け頃には姿を消す。この出現場所や戻っていく場所は秘匿されている が、出現時には当地在住の医師、教員、警官という「外部の者」も「招 待」という形での観覧を許されている(9)。そして、この豊年祭の時 に、数え年15歳の男の居住者が「島の人」になる一定の儀礼がなされて いるようである。つまり、ヤー単位ではなく、個人単位で豊年祭組織に 加入することになると思われる(10)

(13)

 豊年祭には最も多くの者が帰島すると言われている。当日は外部から 小浜集落に通じる道路には簡単な障害物が置かれ、集落は「封鎖」され る。島のリゾート施設も当日は集落への案内(ツアー)を取りやめるだ けでなく、宿泊客が集落に行くことを禁じている。前述の如く数年前に 一度だけこの豊年祭の「見学」を許されたが、その際記録は一切禁じら れたことからもその秘儀性の高さがうかがわれよう。従って豊年祭の運 営主体は不明な部分が多いが、オヤ(ウヤ)と呼ばれる長老(男)が中 心となり、既述のナカスはこれには殆どかかわっていないようだ。  これに対して、盆行事と結願祭はナカスや公民館の役職者が中心とな って準備し、運営する。盆行事はソーラ(1日目)、ナカソーラ(2日 目)、ウクルピィン(3日目)と続くが、1日目は南北の部落ごとにニ ムチャーと呼ばれる念仏を唱える者が、笛、太鼓、鉦の合奏や踊りを伴 いながら、祖霊を迎えた双方の部落内の家々を夜通し回る。回る順番は 初盆(アラソーという)の家や部落会長の家が最初であり、その後は 「原則的」には居住者の年齢順に全戸を回っていく(11)。各家では中庭 にビニールシート等をひき、回ってきたニムチャーに飲食物をふるまい もてなす。中庭でニムチャーや笛、太鼓、鉦の合奏、踊りが行われるの は、それらを各家の仏壇に戻っている祖霊に見せ、聞かせるためであ る(12)。三日目の早朝は、公民館前の十字路(ナカミチィ)で南北の部 落のニムチャーや笛、太鼓、鉦が出会い、それぞれ合奏をしあいなが ら、お互いに前進と後退を繰り返す。  結願祭(シチィ)も10月頃に3日間行われる。二日目にはカホネウタ キの前庭で北部落はミルク(弥勒)神(の面をかぶった男)を先頭に、 南部落は福禄寿(の面をかぶった男)を先頭にして、それぞれその後に 続く者がいくつもの踊りや棒術等を披露する。午後からはその場に演壇 を設置し、各種の狂言を行う(13)  これら以外にも11月から12月頃に種取祭(タナンドゥル)がある。こ れは1日目はツカサや長老がワンに参拝し、2日目は北部落ではミルク ヤー(ミルク神の面を預かっている家)で、南部落では福禄寿ヤー(福 禄寿の面を預かっている家)で「農事懇談会」が行われ、各自が酒や肴

(14)

を携行して行く。しかし、「昔はワンごとに三味線と歌で各家をまわっ た」ようである。この時の歌は アヨと呼ばれ、各ワンのヤマニンズウの 家々を回ったのである。  本節の最後に郷友会についても若干述べておきたい。1970年代以降他 出する者が多いことは前述したが、他出者は他出先で郷友会を結成して いる。平成17年に作成された『小浜島総合住所録』(在沖小浜郷友会) によると、石垣島で241戸、沖縄本島で498戸、日本本土では54戸が郷友 会の会員とされている。  会員は沖縄本島在住者が最も多く、ついで石垣島在住者であるが、後 者は常時当地と行き来している者が多いことは、既述の平成26年の南部 落会長の例からも知られよう。本土は「東京小浜郷友会」があり、昭和 58年に発足した。それ以前は本土には「沖縄県人会」と「八重山郷友 会」はあったようだが、小浜島出身者は「沖縄県人会」にはほとんど出 席しなかった。「八重山郷友会」には出席することはあったが、それと は別に「黒島郷友会」や石垣島の「白保郷友会」等がすでに設立されて いた。そこで東京近辺の小浜島出身者のなかでも自分たちの郷友会をつ くりたいとの思いがとりわけ年配者のなかで高まり、「東京小浜郷友 会」を設置したという。会員数は約100名であったが、実際には約30人が 年2回の集まりをもち、ソフトボールなどを行っていた(14)。当時の参 加者によれば、東京にいて「無性に方言で話したくなった時に」よく同 郷者同士で集まることがあり、それが設立のきっかけの一つでもあった という。

3.婚姻・養取と屋号の事例

 本節では小浜集落での婚姻・養取事例と屋号の事例を紹介する。<事 例4>から<事例8>は婚姻の事例であるが、現在70歳以上の者の事例 であるので、時期は昭和30年代までである。当事者が伝え聞いている事 例ではなく、自らが経験・体験した事例である。なお、<事例9>以下 での括弧内のカタカナは屋号であり、これらは屋号と姓が一致しない事

(15)

例でもある。 <事例4>  D(昭和1□年生・長男、妻は昭和1□年生)は昭和3□年に結婚した が、その時は「まず自分一人で相手の親に会いに行き」、了承をもらっ た。次にオジと自分が会いに行った。「その時は酒の一本も持っていっ た」記憶がある。その後男が女の家に夕食後に通い、泊まった。これは だいたい半年から1年間続くが、自分の場合は仕事の関係上3ヶ月程度 だった。その後は妻が自分の家に移り、妻の家に泊まることはなくなっ た。「妻の家の田んぼの手伝いなど、特にいやがる仕事を引き受けた。 それをムクツカーリと言う」。通っている時に妻がこちらの家の手伝い に来ることもあった。「長男の1歳の誕生日に盛大な祝いを男の家で行 う。長女が先に生まれていても、長男のときにお祝いを行う」。 <事例5>  MI(昭和□年生・三男、妻は昭和1□年生、商店経営)によれば、結 婚の時に「あん餅18個」を男の家でつくり、女の家に夫の親が持ってい った。このあん餅は「餅米を石臼でひいて蒸してつくった。昭和3□年 頃に結婚したが、子が先に生まれたかよい婚であった」。夕食後に女の 家に来て、翌日の朝食前に帰る。これが約10年間ほど続いた。現在の土 地でのもとの店は昭和4□年につくった。「土地は兄(1M:那覇に他 出、定年退職後に帰島)から買った。昭和5□年頃に現在の店に建て替え た」。  MIは30歳の頃の2、3年間はパイン缶詰工場(石垣島)で働く。妻は 当地で豆腐屋を営み、養豚業も行っていた。その後MIは小浜製糖工場 に勤務し、そこに定年までつとめた。定年前から牛を約20頭飼っていた し、約2反ほどキビ栽培も行っていた。 <事例6>  E(大正1□年生・三男、妻は昭和□年生)は昭和1□年に軍隊に召集

(16)

され、広東からマレー半島に移動し、昭和1□年に南方憲兵隊に入隊し た。戦後は「戦犯となり、昭和2□年に帰島した」。その後昭和2□年に 結婚した。昭和2□年に現在地に移動するまでは妻の生家に通った。この 間に長女が生まれる。最初に男の家から「あん餅と酒」を女の家に持っ ていった。それ以後Eは妻の家に通い始めた。妻は2年間臨時教員をや っていたが、子供の世話が大変なので辞めた。「3年間臨時教員をやっ ていれば本免許がもられるところだったのに」(妻談)。  Eは妻の生家の1番ウラザに2~3年は通ったが、「長男が生まれた 頃には石垣にいた(約1年間)」。子が生まれて4日目はユウカンジ ラ、8日目はヤウカンジラといい、料理、天ぷらやおにぎりを重箱につ めて親戚が持ち寄る。現住地は「自分で買った」。もとは「登野城さん の土地」であった。船乗りをしながら、妻の生家や本家の田を耕作した (生家や本家の者は他出していたので)。「本家からは田4畝をもらっ ただけ」である。 <事例7>  KT(大正1□年生・次男、妻は昭和□年生)は24歳の時に結婚し、 「牛小屋をつぶしたあとにつくった家」に2年間住む(この時に子供 も生まれた)。その後石垣に移転し「大工見習い」をしていたが、帰 島し、「本家のウラザ(3番ウラザ)に住む」。その時に兄夫婦は「1 番ウラザ」に居住していた(下図参照)。その後、アサイ(=「はな れ」)にトタン葺きの家をつくって住む。部落の役員をやったり、PT A会長もつとめたので、「人にものが言えるようになった」。  本家から約200坪(2反)の畑と原野2反を分与されたが、そのうち 140坪の畑を町に売り、その売却金で35年ほど前に本家から40坪の現住の 土地を買った。

(17)

「本家の門」 アサイ (はなれ) 2番ウラザ トゥー ラー (台所) 「分家の門」 1番ウラザ KTの兄夫婦 3番ウラザKT夫婦 豚小屋 KT宅 (元牛小屋) <事例8>  O(昭和□年生・次男、妻は昭和□年生)は21才の時に結婚した。妻 とはそれ以前からの「知り合い」であったが、親が結婚を決めた。Oが 単身酒をもって相手の親に挨拶に行き、結婚の申し込みをした。これを サカムルと言う。「サカムルしてから嫁になる」。サカムル後に夜にな ると相手の家のウラザに通った。そのうち子どもができ、その子が1才 ぐらいの時に今の家に引き移った(買った)。この引き移りの時には特 別な行事はなかった。Oは30才の頃に運転免許を取得し、小浜製糖工場 には運転手として就職した。その後は牛を飼い始めた。最初は数頭から はじめ、島の空いている土地で「勝手にケイボクした」。その後、町か ら土地(約7町3反)の払い下げを受け牧場としている。 <事例9>(次頁図参照)  Aは一人娘だったので、N家に婚入後、次男を生家の跡取りにした。 次男はN姓のままYG家の土地と家屋を継承し、屋号もユヌグクスヤー のままであった。その後次男が町役場に就職して家族で石垣島に移転し た。そこでN.S夫婦がその家屋に移転した。それゆえ、現在は石垣在住 の次男の子Tの家もN.Sの居住する家もユヌグスクヤーと言うが、後者 の家屋や宅地の所有者はTである。

(18)

<事例10>(次頁図参照)  Y家に娘が1人の時、その娘が婚出し、その子AをYの養子とした。 Bが若いときにAとの間にUを生み、UはBのもとで育てられていた が、Aの妻CがUは長男であるので引き取った。そして、UはY姓を名 乗り、そのヤーはアンタヌユヌワーと称され、次男IはYG姓を名乗り (その理由は不明)、インタヌユヌワーと称されている。アンタヌユヌ ワーとインタヌユヌワーは隣接する屋敷地であるからユヌワーを分筆し たことになる。Aの位牌と遺骨はIの家と墓にあったが、Iの孫Sが新 しい墓をつくった時にUの墓にもAの遺骨の一部を分骨した。Aの位牌 もUの家に移したが、Sの家の位牌立てにもAの位牌は残っている。U の家に位牌を移した時にSの家の位牌のAの名前を消そうしたが、消え なかったのでそのままにした。 (ユヌグスクヤー) (ユヌグスクヤー) 石垣在 YG家(ユヌグスクヤー) △ N家 ○⇒△ N姓 ○⇒△ ○⇒△ A △ △ 1M △ 2M △ 3M △ T N.S (昭和□年生) (昭和□生)

(19)

<事例11>(次頁図参照)  AとBとの婚外子C(大正□年生)はBの認知によってα姓を名乗 る。ただ、Cの実父はDではないかとの噂もあった。Aの生家はY姓で 屋号の○○で呼ばれていたが、その隣の家屋でAとCは同居していたの で、その家も○○と呼ばれた。A没後もCは居住し続けた。Aが生家の 屋敷地を分筆し、その半分を継承したのである。AとCによる新しいヤ ーの創設ということになる。(○○と××は屋号である) (Y姓) △=○ △=○ B A C (S姓) △ A □ △U(1M)△I(2M) ○⇒△ (Y姓) (YG姓) △ △ △ ○ T(大正1□生) (アンタヌユヌワー  :東のユヌワー) S(昭和4□生) (インタノユヌワー:西のユヌワー) △ ○ ⇒△(T姓)

(20)

 上記の婚姻事例で注目されるのは「通い婚」である。「あん餅」や酒を 女家に持参した後(サカムル後)に男が女の生家に通っていた。次男以 下の場合は、子供が生まれてしばらくすると、自らの家屋を建てて移転 した。その際本家や生家からの土地等の分与は少ない。土地を自力で購 入してヤーバカリするということになる。「嫁入り」のような儀礼はな く、サカムルと呼ばれる酒等の持参が婚姻成立のメルクマールとなって いるようである。しかし、子供の誕生、特に長男の誕生については親族 も参集するお祝いを行うことが多いようである。  このお祝いや儀礼の有無という点からは、少なくとも昭和30年代の当 地での家族や親族事象を考察する際には、婚姻関係よりも親子関係に焦 点を合わせるべきかもしれない。家(ヤー)の継承者は長男が多いが、 それがいない場合は長女に聟養子をとることもあれば、<事例9>や< 事例11>のような場合もある。長男によるヤー継承を原則とすると、父 系血筋が重視されていることになるが、このことと「通い婚」や上記の 養取事例、さらには父系血筋とは異なる屋号継承との関連性が問われる であろう。  屋号を単なる家屋や屋敷地の名称とは考えず、ヤーの継承を示す記号 であるとすると、ヤーと父系に拘泥しない血筋の対応性が指摘される。 父系に拘泥しない点は養取事例からも読み取れるが、「通い婚」との関 連もあり得よう。すなわち、<事例4>でのムクツカーリは母系親族の (〇〇) (××) α姓 B β姓 X姓 Y姓 ○=△ ○ △=○ △ A D ? △=○ C △=○ △=○ △ N姓 同居 (〇〇) (認知)

(21)

存在の「大きさ」を示しており、少なくともこの期間は当該夫婦への父 系親族への傾斜は少ないし、ヤーバカリする時に父系親族からの援助が あるとは限らないからである。 (1)拙稿「親族構成をめぐる若干の考察」、森謙二「沖縄における家と身分制」 田里修・森謙二編著『沖縄近代法の形成と展開』(榕樹書林 2010)所収、 拙稿「八重山群島における家族とシマ社会」『札幌法学』27巻1・2合併号 (2016)。 (2)調査や調査結果の「客観性」に関しては従来から議論されてきている。特に 本稿でも採用しているフィールドワークや質的調査、その結果についての 「客観性」についてはそうである。日本法社会学会学術大会でも近年は「質 的調査」をテーマとしたシンポジウムが開催されてきた。本年も「法の質的 研究を前進させる」というミニシンポジウムが予定されている。フィールド ワークの「客観性」をはじめとするいくつかの問題点については拙稿「フィ ールドワーク論」『共生の法社会学』(法律文化社 2014)所収を参照。 (3)以下の製糖工場についての記述は『八重山糖業史』(ニライ社 1993)254 頁以下による。 (4)これは他出先とも関係しているようだ。正確な資料はないが、聞き取り調査 によれば、日本本土に転出した者はあまり帰島しない。帰島者は沖縄本島に 転出した者が多いようである。石垣島への転出者は、後述するように石垣島 と当地とを頻繁に往来しているので、帰島ということはほとんどない。 (5)『小浜島の芸能』(竹富町教育委員会 2006)によれば、「小浜島における 公民館制は昭和32年に始まった。それ以前は区長制であった。…館長(1 名)は方言呼称としてはクモーシュ(小浜主)と呼ばれ、慣習的には区長と も呼ばれる。…同様に副館長(2名)はユームチィ(世持ち役)、部落会長 と呼ばれる。理事(2名)はターバサ、幹事(2名)はヤクシャン(役者) と呼ばれる。ソーラ(お盆)のニムチャーの各戸訪問ではターバサが中心的 な役割を担う。…/北・南部落にはそれぞれ部落会があり、…責任者は部落 会長で、スータイ(総代。結願際の時)・ユームチィ(世持ち。豊年祭の 時)とも呼ばれる」(15頁)とされている。なお、以下の部落会や祭りなど については、前掲拙稿「八重山群島における家族とシマ社会」をも参照。 (6)男性の神役はチンチビと呼ばれているが、あくまで補助的な仕事であるし、 ワンの中心部のイビには祭時には男性神役も入れない。 (7)村武精一『神・共同体・豊穣』(未来社 1975)70~71頁 (8)以下の豊年祭、盆行事、結願祭については前掲『小浜島の芸能』11頁以下を 参照した。同書には盆行事、結願祭、種取祭の詳細な儀礼過程が記されてい る。 (9)「招待」という形をとっているが、これは外部者をその場に「拘束」すると いう意味も含んでるようだとは、この地の調査経験の長い一人の調査助手の

(22)

意見であった。 (10)前述のように豊年祭の全貌は不明である。本文でも記述したが、筆者の参与 観察時も集落に入る道路の一部は「封鎖」されており、集落内でも何人かの 住民から「詰問」された。アカマタ・クロマタの出現場所での観察の際も カメラや一切の筆記用具の持参は禁止されていた(同行者はノートを持参し ていたことが発覚し、それを宿泊場に置きに帰らざるを得なかった)。よっ て、本文での記述も断片的な聞き取り調査・参与観察の結果であることをお 断りしておきたい。 (11)「原則的」としたのは、実際には事前にナカスが各戸にいつ頃訪問してよい かのアンケート調査をなし、それに基づいて回る家順を決めているからであ る。その場合、希望する時間帯が同じであるような場合には年齢順に回る が、それでも当日は先導役が必ず次に回る家に連絡し、その了解をとってい た。また、このニムチャーには観光客も同行し、一緒に踊ることもある。そ の意味では秘儀性の高い豊年祭とは対照的である。 (12)盆行事を参与観察中に、ある家で仏壇と中庭の間に座ってニムチャーを見て しまったことがあった。その時に家人から「そこをどいてくれ。(ホトケ が)見られないから」、「お尻をホトケにむけてはだめだ」と注意された。 この時にはじめてニムチャーや合奏等は各ヤーに戻ってきている先祖(ホト ケ)に見せ、聞かせるものであることを実感した。 (13)演壇の周りに座って観劇している者は男のみであった。しかも「長老」格の 年輩の男が前席に位置していた。結願祭については、前掲『小浜島の芸能』 にも収録されている波照間永吉「小浜島の結願祭」『沖縄芸術の科学』6 (沖縄県立芸術大学付属研究所編)、及び「沖縄県八重山郡竹富町」『琉球 大学民俗学実習調査報告書』第6号(2004)を参照。また、ミルクの面や福 禄寿の面は当地での「功績」のあった者がかぶることになっているが、その 選定過程は不明である。年によってはその選定に疑問の声を聞くこともあ る。 (14)「沖縄県人会」・「八重山郷友会」と「東京小浜郷友会」の関係について は、前掲拙稿「八重山群島における家族とシマ社会」でも若干言及した。 *本稿は『沖縄近代法の形成と展開』(科研費基盤研究(A)「近代沖縄の横内家史 料の法社会史的研究」報告書 2017年3月)所収の拙稿「調査報告 八重山群島小浜 島」を加筆修正したものであることをお断りしておきたい。

参照

関連したドキュメント

三島由紀夫の海外旅行という点では、アジア太平洋戦争

私たちの行動には 5W1H

tiSOneと共にcOrtisODeを検出したことは,恰も 血漿中に少なくともこの場合COTtisOIleの即行

この条約において領有権が不明確 になってしまったのは、北海道の北

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

またこの扇状地上にある昔からの集落の名前には、「森島」、「中島」、「舟場

となってしまうが故に︑