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魚売りの伝承・続報 ―隠岐=島後の事例―

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(1)文学・芸術・文化. 4巻1号. 1992. 7. 缶 ヽIヽヽ. 売 り の 隠 II. 後 の. I. 承 続. 胡 桃 沢. 報. 勘 司. 隠岐=島後(西郷) - 25 -.

(2) 魚売りの伝承•続報 胡桃沢. はじめに 本 稿は、隠岐II島後 の魚売り の伝承について報告し よ. 小路. うとするも のである。こ の課題には既に有明海 の事例を 提 ホし ている( 1) が、そ こで形成された問題認識 の延 長線上に、当 然 の事ながら位置づけ られるも のである。. ,,.I. 5 km. 1-. 隠岐 の民 俗に関し ては多くの調査 ・研 究がなされてお. り、たとえ ば柳田国男 の指導 の下に行なわれた全国規模 の離 島研究 の中でも取 り上げられている( 2)。しかし. 記述し かなされていない。というより、直江氏が項目立. 11. - 26 -. ながら、これも交通・交易伝承に限ってはごく断片的な てをし ていること自 体稀な例な のであって、管 見 の限り だ、山陰 地方本 上については、近年 多田房明氏が伯 者. 原田. 皆市. 近石. 都万目. こ の分野 はほとん ど等 閑 に付 さ れている のであ る。た. 天神川沿い・ 出雲II神戸川沿い の事例を基に、注目すべ き報告 をし ている( 3)。 石塚尊 俊 氏によれば、 隠岐 の 民俗は出雲 の一段 古い 形を残してい る( 4) という のだ から、神戸川沿い の伝承はおおいに参考とすべ きも のだ これら の経緯を念頭に置きつつ、 以下 の記 述に際し て. ろう。 はまず自身が聞き得た 伝承 の成文化に力を注ぐ こととし たい。基本 資 料 の提 示 こそ は全 て の出発 点 だ か らで あ. 都万路.

(3) 前稿で浮 き上った諸問 題と の関連を考え、こ のテーマ の. る。そ れを踏ま えたうえで最後に若 干 の考察を行ない、. 戦後はまったく使わなくなってしまった。田下氏がこ の. て使うだけとなった。それも第二次大戦前までであり、. 転車が主力となり、テンビンボウは冬季 の降雪時に限っ. 田下氏は島後 の中. ら、 テンビンボウを使った のは僅か五年 ほどであった。. 仕 事を始 め た のは 十八オ (昭和 十 一年 ) の時 で あ る か. 中へ組み こん でゆこうとするも のである。 1 西郷から五箇 村へ 西郷在住で、 五箇 村方面へ魚を行商に行った経験を有 田下氏は西 郷 の港町で生れたが、両親は島前 の知夫里. ない のは布施 だけだ. 行っており、行って. はほとん ど行 商に. 島 の出身である。両親は田下氏 の誕生以前に西郷へ 来て. が、 もっとも頻繁に. - 27 -. する のは田 下益市氏( 大正八年 生)である。. あれこれ仕 事をしていたが、最終的に は 魚 の行商に落ち. み な け れ ば解 ら な. で行くかは、行って. 発した。村 のどこま. は、午前一時頃に出. 五箇 方面へ行く時. いほどであった。. 名を知らぬ者は居な. 五箇 では「仙吉」 の. の代から のことで、. 村である。これは父. 売り歩いた のは五箇. 父(仙吉 )は、魚をカゴ の中に入れ、 テンビンボウで. 着いた。 イナ ッテ(担って)行った。カゴはフチ( D径 )が二尺 せてテンビンボウに架けるようにした。カゴには蓋をか. ほどあり、底に十文字 に紐を渡し、そ の紐を上で交差さ ぶせたが、本 体同様竹製である。紐はシュロ縄だった。 ンボウは現物が残されている(写真 )が、長さ―四六.. カゴは、 港町 の中野 という竹細 工屋で購人した。 テンビ 五セ ンチ 、 幅 は、 最大 四 •五セ ンチ 、 最小 ニ・ニ セ ン し、田下氏 の代になると、 道路事情 の整備に伴なって自. チ 、重さ 七00グラ ムで、材料はシブシバである。しか. テンビンボウ. 1992. 7 4巻1号 文学・芸術・文化.

(4) ば奥 の北方方面 まで行くこともあった。魚は、 イカ・サ. れば西郷寄 り の小路で引 き返すこともあり、売れなけれ. い。そ の日 の売れ具合 によるからである。早く売り切れ. 時 は、こ こ か ら先 はほとん ど押 して歩 いた。真 杉を過. ていた。道は近石 付近から勾配がきつくなる。自 転車 の. が、五箇 トンネル の付近は違っている。もっと上を歩い. れた道な ので、必要が無かった。道筋は今 とほぼ同じだ. ぎ、都万 目(つばめ)へ の道と の分岐点 に橋が有るが、. バ・キス・カレ イなどを持って行った。すべて生物であ. り 、 ま っ た く 塩 は し て い な い 。魚 は 前 日 に 仕 入 れ て お. ここで焚き火をしながら夜明けを待つ。橋は、長さ三間. に囲いを作り、火が焚けるようにしておいた。薪は前日. ほど の木 の橋である。毎 日 のことな ので、予め一定 の所. の帰りがけに集めておく。明るくなってから峠路を登る. が通例である。決済はカケになっており、客から集金し てから払 えば良かった。腐らないよう氷を入れたが、冬. わけだが、中山 トンネル の手前付近に茶店があり、老人. く。漁 師個人から買うこともあったが、組合 から買う の. 大根 の菓などを魚 の上 にかぶせ、そ の上に雪をかけるよ. 夫婦 が営ん で いた。 ここで 飲み 食 い しなが ら体 を休 め. 季は雪を入れた。雪は直接魚に当ててはいけない ので、 うにした。テンビン の時は、カゴ―つに二貫、計四貫を. な る わ け だ が 、 峠 を 下 り た 所 が 都万 路 ( つ ま じ ) で あ. る。そうしなければ体力が続かない。ここから五箇 村と. とも多量に売れた のは正月用 の魚で、トロバコで二0か. る。 ここ の家々から炊事 の煙か上 る のを、上から確認し. イナ ウ。自転車になってからはトロバコに入れた。もっ ら三〇 箱にもなった。こ の時だけは自動車を頼むように. てから売りに出かけた。. な お、藤田茂正氏(元五箇 村誌編 纂委員 )から の御教. したも のである。もっばらナ ガタニ氏に依 頼していた。. 示によれば、田下氏が歩いた西 郷ー五箇 間 の道は明治二. 正 月用 の魚は、 普段 と違 い予 め注 文 を受 けて用意 をす る。昔 の正月には、特にブリと イカが欠かせないも ので. は、小路から真 谷(またに)と呼ばれる谷を上り、 ヤケ. 七年 の開 通で あ る とい う 。そ れ 以前に 五箇 か ら 行 くに. スギという所で峠を越え て都万 目へ下り、皆市を通って. める習わしであった。 深夜に出かけるわけだが、出発前に「 朝食」は済せて. 原田から西 郷へと出ていた。こ の道 の時 代は、牛や馬に. あった。これも共に生物で、プリは家ごとに一本 買い求. 行く。当 然真 暗だが、灯りをつけることはない。 通い慣. - 28 -. 胡桃沢 魚売りの伝承・続報.

(5) である。行商人も互いに行き来をしていた。. ので、大正頃まで五箇 ー西 郷間には船が通っていたよう. たという。しかし、山道を大星輸送 することは不可能な. 荷を附けて歩いていた。運搬・農耕共に牛馬双方を使っ. た。顔馴染み でも踏み 倒されることがあり、これをヒカ. 初期)までは旧暦だった。暮は二四 、五日頃集金に行っ. 満月 となるので具合 が良い。正月も 、小学生 の頃(昭和. やっていたが、十 三日に集金する習わしであった。丁度. と行った。一っ 不思議なのは、夏に村の入口で蛇を見か. に寄るし、駄目だとなればそこは 飛ばして更に先の村へ. る。ここでの売れ具合 により 、行けると思えば村中の家. の家にニ ー 三 軒 入 ってみ る。 アタリ を つ け る わ け で あ. た。この家は裕福で、しかも魚好 きの老人が居たからで. 代田の柳原 (やなはら) 氏である。行けば必ず立ち寄っ. う呼ばれていたのだろう。特に親しくしていたのは、苗. のとおり父が知夫里島の出身だったから、父の代からこ. 五箇 の者達からは「チ プリ」と通称されていた。前 述. カッタと言う。. けると縁起 が良い事であった。この時はまず間違いなく. ある。昼食もほとん どこの家で御馳走になっていた。詰. 再び田下氏 の話に戻るが、売る時は まず村の入口付近. 売れ た。昔 は 蛇も 良 く 見た も ので あ る。 売 り方 は 魚に. る。. まるところ、魚は 只で置いてくることになったものであ. 足支度は、稲雪時でも地下 足袋であった。父の時代は. イカ やサ バ は前 者 、キス やカ レ イは 後 者 で あ る 。ただ. よって異 なる。数によるものと目方によるものがあり、 し、醤り売りをするものも切り身にすることは無く、必. 邸製雪沓だったが、これはワラ ンジ (草桂 ) の爪先を巻. 前 述のとおり往路は夜道を行 ったわけだが、暗いとこ. ず尾頭付きであった。行商は切り売りはしないのが通例. ろを歩いていて一番怖 い のは女に出会うことだった。一. きつけたようなものであった。頭には 防寒頭巾を被る。. ることもあった。米で貰っても 、そ れを売って金にした. 人 歩 き で 来 る こ と も あ っ た が 、擦 れ 違 い に 挨 拶 を し て. 上下体は 一般 的な上着とズ ボンであった。. ことはない。そ ん な必要 は無いほどの贔だったというこ. なのである。計量にはキンリョウという竿秤を用いた。. とである。カケウリで、家ごとに手帳に記 録しておき、. も、返事をすることは まず無いからである。更には 、都. 決済は、原則として現 金で行なったが、時には米と換え. 盆 暮に集 金 し た 。盆 は 、昭和 十 五年 以前 は 旧 暦七 月 に. - 29 -. 1992. 7 4巻1号 文学・芸術・文化.

(6) る。動物で注意すべきは猫だった。人を垢すと言われて. 万目 の入口付近で呪 祖をしている者を時折見かけたが、. ハマダ ハル エ の三人である。ダ イトウは第二次大戦 前 の. であった。名前を覚え ている のは、ダ イト ゥ・ハヤシ・. ゴを吊げて売りに来たも のである。カゴフリは全て女性. 人である。あと の二人は戦後 の人だが、 ハヤシは既に亡. これは白 装 束 であ ったから余 計 に怖 く感 じ た も ので あ. いたが、大久保という魚 売り の翁と共に行った時にやら. くなったと聞いている。. 布施 ー西 郷 間 の道は 今 な お整備 の遅 れ た区 間がある. れたことがある。防ぐ には煙草に火をつけると良いと言. た船 に よ っ て い た ので ある。カ ゴフ リ も こ れ に 乗 っ て. われていた。. 遣って来た。既に自転車もかなり普及していたが、船に. が、昔 はさらに悪かった。往来はテイキセンと通称され 布施 で話 を聞かせてくれた のは、 坪康平氏(大正七年. 乗 るにはテンビンボウ の方が都合が良く、戦後なおこれ. 2 西 郷から布施 ヘ 生 )である。. が行なわれた のである。カゴフリは年 間を通じてほとん. た。来ない のは船が欠航になった時だけである。西 郷か. ど 毎日 来 て い た か ら、村 の者 と は頻 馴染 み に な っ て い. ら の所要時間は一時間ほどで、カゴフリは午前十 時半頃. ここ の中心的 な生業は林 業であり、西 郷 のように漁業 い、男が船で木材を運び出しては売ってきた。実入りは. 着 く船 で来 て は売 り歩き、 午 後 二 時 か ら三 時 頃 の船 で. に力を入れているわけではない。昔 は女が山仕事を行な. 結構良かった のである。田畑も少ないが、島内 各地 の木. らく船も並行して運航されていた。人はバス 、荷物は船. 材搬出先 に小作地を持 っており、食料調達はもっぱらそ. という分担がなされたが、カゴフリは荷が嵩む ので、有. 帰って行った。やがてバス が通うようになったが、しば. 右 のような事情から漁業専従 者は少なく、地先から水. こから行なっていた。 揚げされる魚もほとん ど決まり切っていた。人々は、む. るうちは船を利 用したも のである。. リは様々なも のを持って来た。生物はサ バ・ メバル ・プ. 前 述 のとおり地先 の魚は決まりきっていたが、カゴフ. しろ西 郷から来る行商 の魚売りから魚を買い求めた ので. 魚売りはカゴフリと呼ばれていた。 テンビンボウにカ. ある。. - 30 -. 胡桃沢 魚売りの伝承・続報.

(7) 等 々である。こ の他に乾物も持って来た。そ の時によっ. リ・ アジ ・ イワ シ 、 塩 物はカ レイ ・ ハ タハ タ· 小 アジ. 村内用にも充てられた。村 の中を売り歩いた のはもっば. ともある。魚は、大部分は島外へ売り捌いたが、一部は. 業で生活をしており、利則氏は漁 協 の組合 長を勤めたこ. 石田氏宅は、現 在は酒屋を営ん でいるが、かつては漁. ら主婦 である。石田氏 の母 (しお)もこれに従事してい. ては、 回って来る のを待っていると欲しい魚が無くなる て のも のを買い求めることもあった。ちなみ に、地元産. た。しおは佐世保 の出身だったが、こ の仕事が好 きで八. こともあった ので、船着場でカゴフリを待ち受 けて目当 が良かった のはサ ザエと アワビくらいである。決済は、. がて地元 の者が行商を始 めると来なくなった。西 郷から. は中村・湊 の村内 だけで、他所 へ行ったことは無い。相. も のを売るという素朴な商いであった。しおが歩いた の. ある。したがって、魚種は特に一定 しておらず、 獲れた. が原則で、他人から仕 入れる のは余程 足りない時だけで. 0オ 近くまでやっていた。夫や息子が獲った魚を売る の. 布施 へ嫁いできた山根末 子がリヤカーに魚を積ん で売り. カゴフリは第二次大戦後もかなり長く来ていたが、や. そ の場で現 金払いであった。. 歩くようになった のである。 一時的には、 ハマダ と山根. 手は不特定 で、格別 の得意は無かったようである。売り. ンに吊げて担った。 ソウキは、かつて中村にこれを作る. 歩く時は、 ソウキと言う竹籠に魚を入れ、これをテンビ. が共にやっていた。山根 の特徴は、決済をカケウリとし た。なお、行商 の時代までは、魚は大小を問わず必ず尾. 職人が居り、そ こから買い求めた。今 は作れる人も居な. たことである。山根は鮮魚小売店が出来るまで続けてい 頭つき のまま買ったも のである。それを家で剌身にでも. くなってしまったが、短距離 なら手に提げて行くことも. 出来、便利なも のであった。. 何にでも調理す る のが通例だった。. 湊は島 の北端に位置しているが、 行政上は西 郷町に所. 人だが、何れも女性である。もっとも頻繁に来た のはタ. タマリヤ・オオマエ•マエカジ ャ・ ヤマネ・マツバ の五. 西 村からも魚売りが来ていた。名前を覚え ている のは. 属している。石田利則氏(明治四0年 生)から話を聞く. マリヤで、タマリヤノバ アサ ンと通称され、第二次大戦. 3 中村· 湊. ことが出来た。. - 31 -. 1992. 7 4巻1号 文学・芸術・文化.

(8) 程度であった。夫が獲ったも のを持って来たが、印 象深. でも毎日 来たわけではなく、水揚げがあれば来るという. 前生れ の人ならば知らない者は無いくらいである。それ. 長さニニ尺、幅四尺五寸 が標準であった。材料は杉で、. 出来なかったからである。こ の舟はカンコウと呼ばれ、. であったから舟足が遅 く、 朝出漁しても早く戻 ることが. である。主な立寄先は、宿屋など業務用に魚を使うとこ. 母が売り歩いた のは、湊 •下元屋を含む中村地区 一帯. 村 の舟大工が造り、 一五年 から二0年 は使え たも のであ. ビンに吊げて来た。村 の中を一軒ずつ売り歩く。 トクイ. ろ、および比較 的裕福な家である。当時、一般 家庭で鮮. い のはツヅリという重量一貫 目強ほど の魚である。ナ ギ. サンが決まっており、主としてそこを回っていた。ツヅ. 魚を買って食べることはなかなか出来なかった。売り歩. る。第二次大戦頃 まではこれが主力だった。. リは生物で持って来る。買った者か好み に応じて塩をし. の時季(暖い時)に獲れるも ので、 尾を紐で縛ってテン. たが、保存 出来た のは一週 間から十日ほどだった。. る のに 使 って お り 、 副次 的に 行廂 用 にも用 い た ので あ. に魚を入れて下げる。テンビンは、元来浜から魚を上げ. く時はテンビン の前後に吊り下げて担う。前 述 のソウキ 4 西村から中村 ・湊 ヘ. る。担う時 の履物は、浜上げ の時は アシナカ、行商 の時. 淡へ は西村からも魚売りが来ていたことは前 述 のとお. りだが、西村出身 の松井貞徳氏(大正七年 生)からも話. で行ない、物々交換をしたことは無い。原則として即 金. らず泥跳ねもしない具合 の良いも のである。決済は現金. はゾウリであった。 アシナカは漁 の際も着用したが、滑. ていた。名前を覚え ている のは、タマ リヤ・オクナ カ・. りが特に儲かったという印 象は無い。海産物で良い収入. であったが、時にはカケとすることもあった。こ の魚売. こ の仕事をしていた のは全て女性であり、母親もやっ. を聞くことが出来た。. 漁で生計を立てていたから、常に漁に 出ていたわけでは. と な っ た のはワカ メ で あ る。 なお、 正月用 の魚 は プ リ. オクダ ・オオマエ・マツバ(母) の五人である。半農半 な く、魚売りも言わば片手間仕 事であった。夫が獲って. で、地元産であったが、そ れを扱うことはしなかった。. たいてい夕方からになった。という のは、昔 は手漕ぎ舟. 来たも のを売る のが原則であったから、売りに出る のは. - 32 -. 胡桃沢 魚売りの伝承・続報.

(9) 以上、断片的なも のではあるが、島後 の魚売り の伝 承. 結び. 家業 」とされる きも のである。前者に当てはまる のは 「. そ の意 味あいは異なる のであり、厳密には区分されるべ. ても、「一家を背 負 って 」と 「 家 計 の一 助に 」と では、. 「もっ ぱ らそ の仕事を 行なう 」 のは 共 通であ るとし が、. 若干 の考察. 加 えて締 めくくることとしたい。. ような場合 であり、勢い活動範囲も広いも のとなった の. に ついて報告をしてみ た。文末 に若干 の コメ ントを附け 最初は 「 売り手 」か ら見てみ よう。すぐに気が つく の. ていないが‘ ―つには交通事情 の悪 さがあった のではな. かろうか。田 下氏は自転車で行っていたわけ だが、布施. だ ろう。にもかかわらず 布施 へ行かなかった理由は聞い. へは長い間船でしか行くことが出来ず、天秤棒で担うほ. は、男性は田下氏 のみ であり、他は全て女性である、と てきたも のを妻が売り歩く」という、典型的なスタ イル. か無かったからである。離島 の場合 、険し い山道を歩く. いうことである。とりわけ湊 •西村 の事例は 「 夫が獲 っ. り、魚売りは女性という例は全国的に見ても数多い。鳥. を 確 認し う る も ので あ った 。 既 に 指 摘 し た (5) と お. よりも海上を船で行く、という のは ―つの図式となって. くまで残る可能性を有していると言えそうである。ちな. 後 も、 ま ず は 通説内 に 納ま る と 見て 良 い だ ろう。 逆 説. る のである。そ の田 下氏で指摘しておきたい のは、行動. み に、魚売り の呼称を聞き出しえた のは唯一布施 の「カ. いるが、こ の場合 運搬法は前近代的な 平坦部タイプが遅. 圏が広いということである。確かに頻繁に歩いた のは五. り歩く姿が つい近年まで見られたことに由来し ていると. ゴフ リ」だけ で あ ったが、これは正に 天秤棒で担って売. 的には、唯 一 の男性である田下氏は目立 つ存在 だと言え. からも、そ れは歴然としている。広く歩 い た理由は、田. 箇 村であるが、行かなかった のは布施 だけだということ. あったかもしれないが、親 子 二代続けて家菓としていた. われる。 布施 で 聞 か れ た カ ゴフ リ も 専 業 に 近 い も ので. ていたことである。益市 氏は ごく僅かな期間、そ れも積. 注目すべ きは、田 下氏父子が峠路を天秤棒で担って越え. 次に、 運搬法に ついて今少し触れてみ たい。もっとも. 断じて良いだ ろう。. こと が確 認され た のは田下 氏 だけで あ る。 「専業」 に つ. 雪季に限って使っていた のであるが、そ れが却って問題. 下氏が 「 専業者である 」という事に求められるように思. い て は 従 来 一元 的 に 考 え ら れ て き た よ う で あ る ( 6). - 33 -. 199 2. 7. 4巻1号 文学 ・ 芸術 ・ 文化.

(10) 一致. あるが、坂道を歩いていた事実は動かない。ということ. 田下父子 のケ ースを長距離 と言え るかどうかという事も. か どうか 自 身は迷っている のが実 情な ので あ る (7)。. に準じた便宜的なも のであり、こう決めてかかって良い. 通説 」 タ イプ 」と書いた のであるが、これはあくまで 「. 天秤棒は平坦部 を複雑にし ていると言え る。つい先程 「. 素 とし て 新 た に 頭 に 置 い て ゆ か な け れ ば な ら な い だ ろ. う点 で先 の指摘と共通することでもあり、得意 設定 の要. 特質が作用し ているようにも見え る。ムラ 的な体質とい. う事な のだが、これは内 に甘く外に厳し い日 本的集 団 の. く、外 部 の者は決められた所 し か行ってはならぬ 、とい. のであ る。換言 す れば 、 村内 の者 は ど こ へ 行 っ て も 良. が行なう時は無い のに 、西村から売りに来る者には有る. る。顕著な例が湊で、 同じ買手でありながら、村内 の者. のな のか、 そ の解 釈は 不透明である。さらにここではよ. を見た のか、そ れとも通説とは異 なる何かを示唆するも. は無いように思われる。「売り切れた所で終り 」では 、得. 方を見る限りではむし ろ市場原理的であって、所 謂得意. う。ところで、迷わさ れ るのは田下氏である。そ の売り. 」が. は、先に指摘し た既製 理論 の枠内 に納まらぬ事例が確認. り利便性 の高い 運搬法が普及し た時点 において、積雪と. 意関係は成り立たない。 五箇村で 確認し てみ なければな. された事を意 味する のである。たまたま 「 例外. いう難条件下で のみ 残存し ていた、という要素が加味さ. か った た めに 、そ ん な 売り 方 が 出 来 た のだ ろう。し か. らな い わけ で は あ る が 、 おそ ら く有 力 な 競 争 相 手 が 無. し、そ の田下 氏 に も 必ず 立ち寄 ら ね ば な ら ぬ 家 が あ っ. とは、ボ ッカ の例で経験し ているが ( 8)、そ れはあ く. た。柳原氏宅である。問題となる のは、得意とい うも の. れてくる。積雪季において原初的な運搬法が残されるこ ま で 元 来 坂 道 で の運 搬に 適合 し た も のとし て の事で あ. は、従来見てきたようにある程 度纏まった集団とし て把. 握されるべきも のな のか 、それともこ の例 のように 只 一. 討 の余地が有ると言え るだろう。 「得意 」についても述べ ておかなければなるまい。ま. 直ちに答を出す事は出来ないが、詰まるところ、得意 の. つしか無い場合 も含める のか、という事である。ここで. る。天秤棒をそうせし めたも のが何であるかは、な お検. し かもそ の指標 が先に指 摘し た「買 手 の絶対 数 の多少 」. 設定により得られるも のを、鑑的な尺度で測れるも のと. ず言え る のは 、そ の有無にかなり のバラ ッキが見られ、. ( 9) に 必 ず し も 集 約 出 来 そ う に な い 、 と い う 事 で あ. - 34 -. 胡桃沢 魚売りの伝承・続報.

(11) す る か 、 そ れ と も 質 的 な 内 容 を 電 視 す る のか 、 と い う 事. であ る ( 前掲 『 交通史 研究」 二七号 三頁 ) 。なお、ウ ェー. の身分 に つい て暗 示 をし ている事 を指 摘 し てお いた か ら. 平成三. 1 11 0. 己 寸= イ. 上 佐 11四万十 川中 流 域 と伊 予 II. •若 林 久 •藤 田茂 正 の諸 先 生 を は じ め 、 西 郷 町 役. 実 施 し た も の であ る 。 合 宿 に際 し ては 、 石 塚 尊 俊. 隠 岐 の調 査 は 、 一九 九 一 年 度 夏季 ゼ ミ合 宿 と し て. 9前 掲 『 交通史 研究』 二七号 八頁. 八i七九九頁. 昭和 六 二年 三月 )七九 細入 村 史』 ( 8拙 稿 「 村 人 の仕 事 」『. 月 ) 一―七 i -―八頁. 平 成 四年 三 『民 俗 文 化」 第 四号 ( 」 北 宇 和 を 結 ぶ道 ー—'. 国境 いの交 流 7拙 稿 「. バ ー の所 論 に つい て は、 住 谷 一彦 氏 か ら御 教 示 を 頂 い こ° t. の考 察 を 更 に柏 み 重 ね てみ る 必 要 が あ る よ う に思 わ れ る の であ る 。. 昭和五 0年七月再刊. 平成 二年十月 4 『日本 の民俗. 」. ら 、 格 別 の御 高 配 を 賜 わ った 。 銘 記 し て学 生 達 と. 御 芳 名 を 掲 げ た 方 々を は じ め と す る 島 民 の皆 様 か. 場 、 西 郷 ・布 施 •中 村 の各 漁 業 協 同 組 合 、 文 中 に. 立 てを し て いるも のは見出 せ な か った。「 分 業 」 の項 で. 共 に 心 か ら お 礼 を 申 し 上 げ る 次 第 であ る 。 な お 、. ウェ. 塩 澤 美 帆 •鈴 木 伸 二 の五 名 であ る 。. 参 加 学 生 は 、 白 坂 和 代 •松 井 ま す み ・村 上 佳 代 ・. 「 仕事 ( 戦 業 ) の専 門化」と いう表 現 がな され て いる<. 専業 」と いう項 目 6経 済 学辞典 を いく つか調 べてみたが、「. 『 交通史研究 』第 二七号 ( 平成三年 十 一月 ) 四頁. 5拙 稿 「 両義的 ( 販女 の伝 承ーー ー 「 性 )交換」の提 唱ー. 島根』 ( 昭和 四八年 四月 )ニニ頁. 3 「 鮮魚 の行 面 と農 漁 村 文 化 の交流 」『 山陰 民俗』第 五 四号. 究』. 2直 江 廣 治 氏 「 島 根 県 穏 地 郡 五箇 村 久 見 」『 離 島 生 活 の研. 年 三月. 済構造 か ら の位 置づ けー| 」 『 民俗 文 化 』第 三号. 魚売 り の伝 承ー| 有 明悔 II泉水 海 区域 の実 態 と経 ]拙 稿 「. 註. ら い であ る。 ち な み に これ と の絡 み で気 にな る のは、. ( 「 経 済 行 為 の社会学 的基礎範 略 」 『世 界の名著 五 0. マ ック ス ・ウ ェー バ ー の言 う 職 業 と身 分 の結 合 であ る ーバ ー』 四0八頁 ) 。 と いう のも、前稿 で柳 田国 男 が販女. - 35 -. 1992. 4巻1号 文学・ 芸術・ 文化.

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