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社会情報学としての翻訳論(小特集 : 翻訳と情報社会)

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社会情報学としての翻訳論

南 谷 覺 正

情報文化研究室

Translation in Social and Information Studies

Akimasa MINAMITANI

Information and Culture

Abstract

Examining issues in the field of translation today, this study discusses translation from the viewpoint of social and information studies,particularly reevaluating Walter Benjamin s perspec-tive on intention. 「翻訳は,原文の意味を別の言語によって再現することであり,起点言語(source language;以下 本文では SL と略記)のテクスト(原文)の意味を正確に理解し,それを目標言語(target language; 以下本文では TL と略記)の等価物(訳文)に移し替えることである」という定義が一般に行われて いる。 しかし言葉を意味を伝達するメディアと捉えるのは,必ずしも当を得ていない。本や新聞は, 言葉や画像というコンテンツを伝達するメディアであるとして間違いでないのは,コンテンツが実体 を持ち確認できるものであるからだ。だが言葉の意味というものは,確認・検証可能な有形のもので ないこと,同じ言語テクストでも,受け手によりまた時代により意味は揺らぐこと,さらに,言語学 の意味論の 野においても意味発生のメカニズムは解明できていないことなどを えると,言葉を意 味を伝達するメディアとするのは今一つ躊躇われるのである。意味は,言葉という記号に内包された 実体というより,コミュニケーションの中で立ち現れる1つの現象という性格を帯びている。 しかしそうは言っても,意味が,一般の他の現象と同じように incidentalで ephemeralなものかと 言うと,それも言いすぎであり,われわれの現実の経験から言えば,注意深く選ばれた言葉は,多く の受け手に,実体さながらの普遍的な意味を伝える一面も持っている。こうした「疑似的実体性」と でも呼びたくなるような性質 その意味で芸術と《美》の関係に似たところがなくもない は,言

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葉について える際に忘れてはならないことであろう。 言葉には,意味以外にも別の面が備わっている。独文学者の小牧 夫は,翻訳について次のように 述べている。 翻訳の困難は他人が他国語で書いたものを,正しく理解し,よく消化して,さらにそれを自 のものとして 打ち出すところにあるのはいうまでもない。他人の書いたものは,自国語で書かれたものすら,文章の真意 の捕捉に悩み,力点の置きどころを見誤ることはありがちであるから,それが他国語で書かれている場合, 正しい理解には幾倍もの困難が加わって来るのは当然である。しかも,いかなる時でも,良い翻訳は原文の 正しい理解を前提とするものだから,それにはまずこの難関を打ち破ることからはじめられなければならな い。言葉の相違という障壁を乗り越えて,原作品に,従ってまた原作者に肉薄していかなかればならない。 この第一の段階がすでになまやさしいものでないことは饒舌を要しないところである。さらにこれを自 の 言葉として再生することがいかに嶮しい路であるかは,経験あるものの誰しも知るところである。私の し い訳述の経験でも,もし「翻訳的良心」というものがあるとしたら,翻訳をよいものにするにはこの良心を 鋭く研ぎすまさなければならないが,翻訳を完成するにはこの良心を眠らせなければならない,と思って嘆 息することがしばしばあった。この難関は,気韻とか含蓄とかを尚ぶ文学作品の訳出の場合には一層はなは だしく,中にも詩歌に至って絶頂に達するのである。それだから,詩歌の翻訳は結局不可能であるという説 も出て来るわけである。 これを換言すれば,「力点の置きどころ」「気韻」「含蓄」というものも,言葉が伝えることのできる 情報要素だということである。ほとんどの翻訳家が指摘している,翻訳に要求される2つの能力 1)SL のテクストを的確に理解できるだけの語学力,解釈力をもつこと;2)汲み取ったものを,等 価な TL(ほとんどの場合,翻訳者の母語)に移せるだけの表現力を有すること とは,意味だけで なく,こうした要素も含んだ言語テクストの 合的な理解力であり,表現力のことである。日常会話 やマスコミに流通するほとんどの言語テクストは気韻や含蓄とは縁が薄い。しかし例えば,「み山おろ しの小笹の霰の,さらりさらさとしたる心こそよけれ,険しき山のつづらをりのかなたへまはり,こ なたへまわり,くるりくるくるとしたる心は面白や」のような場合はどうであろうか。小牧はこれに ついて言う どういう風に手を著けて行くべきか,誰しも途方に暮れるであろう。こういうものは極端に近い例で,それ でもって一般を律することはできないという者があるかも知れぬが,こうした例で尖鋭的に示される困難は, 多かれ少なかれ文学作品訳出のいかなる場合にも,必然的にまつわりついていると言わなければならないの である。(中略)原作に肉薄する準備がいかに精到に行われ,舌頭に千囀する推敲がなされるにしても,翻訳 は所 翻訳の宿命として越えることのできない千仞の深淵の前に立ちすくまなければならない。

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日本人はこのような言語テクストは感覚的につかみ,それで事足るわけだが,外国語に翻訳すると なると,読み方は違って来ざるを得ない。言葉の姿,音,味わいというものを1つ1つ吟味しなけれ ばならないであろう。言葉がこうした様々なものを抱え込んだ,情報の複合体だということが,翻訳 という行為の中でよりはっきりと見えてくるのである。そしてこうした翻訳上の困難を与える傾向の 強いもの 陰翳,色彩,ニュアンス,含み,そして場合によっては《行間》 こそ,われわれが「文 学」と呼び習わしている言語テクストの特性に他ならないのは注目していいことである。文学的テク ストはなぜ翻訳に対する抵抗が大きいのであろうか? * * * * * * ヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の 命」は,独 的な思想家の翻訳論として名高い。ここで, 彼の所説を批判的に検討し,われわれの議論に有用なものがないか探してみることにしよう。「翻訳者 の 命」は,彼自身の諸言語に対する,次のようなヴィジョンを前提にしている。 ……諸言語間のあらゆる歴 を超えた親縁性の実績は,それぞれ全体をなしている個々の言語において,そ のつど一つの,しかも同一のものが志向されているという点にある。それにもかかわらずこの同一のものと は,個別的な諸言語には達せられるものではなく,諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention) の 体によってのみ到達し得るものであり,それがすなわち, 純粋言語(die reine Sprache)>なのである。

諸言語が,彼の信じているように,《純粋言語》という究極的な結合に向かっているのかどうか保証 のかぎりではない おそらく事実はそれほど単純ではなく,多様性を増大させる方向に向かうベクト ルも多々存していると思われる が,この仮説的な構図は,文学的テクストの翻訳の可能性と不可能 性の奇妙な混淆という現実をよく説明してくれるものになっている。われわれ日本人には奇矯にすら 響く彼のヘブライ的な思 方法を,もう少し一般化した概念に引き寄せてみれば,個別的な諸言語は, 内に,ある種の共通で普遍的なものを それがどのような原因でそうなっているのかは問わないこと にして 持っており,文学的に見て諸言語が定着しようとするあるものは,他言語文化圏から見ても, その志向性において理解可能 なぜなら,普遍的なものに触れているから であり,また,諸言語 の文学は,相互に補完しあう面を持つ,ということになるのではないかと思われる。 具体例に即してみると,例えば,ジェイムズ・ジョイスの『ダブリンの人々』は,文学として優れ た達成を示しており,英語をある程度解する日本人が読んで,その《志向するもの》をつかむことは それほどの難事ではない。ということは,その《志向するもの》に対する理解の可能性は,日本人に も内在していたこと,何らかの共通の基盤を通して,英語圏のジョイスと日本語圏の読者が繫がって いることを証ししている。では日本文学が,ジョイスの先駆的試みなしに,独自に『ダブリンの人々』 の《志向するもの》を発達し得たであろうかと自問してみると,それは首をかしげざるを得ない。日

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本人には,アイルランドのような長い植民地体験はないし,またカトリシズムの重苦しい伝統はない からである。しかし不思議なことに,そうした制約は,原作を理解する上ではそれほどの障害になら ず,ある土着的な経験の沼から咲き出でた花を愛でることにおいては,必ずしも土着の人間が,外国 人読者よりアプリオリに上であるということにはならないのである。 逆に言えば,あるアイルランド人は,例えば世阿弥を,場合によっては通常の日本人以上に理解す ることができるということである。アイルランド文学が独自に能楽を発達し得たとは到底思えないが, 能楽の《志向するもの》は,アイルランド人(の少なくともある一部)には,自然に受け入れられる であろう。ある種の《志向するもの》は,特定の文化圏において成熟した表現を得,それはその普遍 性ゆえに,他の言語文化圏においても理解できる そのような仮説が成立するのである。 人類の文化全体を巨視的に見た場合,ジョイスと能楽が個別言語の壁に隔てられて相互に孤立して 存在しているよりは,両文化圏で共有されている方が優れていることは論を俟たない。異質なものの 共存と緊張が新しい文化の 生の種子になってきたことは,歴 のよく示しているところである。そ うした意味で,世界的な文化 流が可能になり,相互が相互に刺激を与えあう契機が革命的に増殖す る より正確に言えば,これまで人類を呪縛してきた“tyranny of distance”に対する《民主》革命 が引き起こされる というのが,高度情報化社会の大きな潜在力であって,文学も,地球環境がグロー バルな え方を要請しているのと同様,すでに「世界文学」という地平で各文化圏が えねばならな い時代に入って来ている。それは,世界中の文化が 質になるということを必ずしも意味しているわ けではなく,むしろさらに豊かな独自性を開花させる1つの《環境》として えられるのである。 ベンヤミンの《志向するもの》という概念は,われわれが上で指摘した,言葉の姿,音,味わい, 気韻,陰翳,色彩,ニュアンス,含み,行間に籠められたもの等々と内的関連を持つ何かの 称概念 としても役立つ。興味深いのは,ベンヤミンが《志向するもの》と《意味》を対立的に捉えているこ とである。例えば次の詩句 Cette ame qui se lamente/En cette plainte dormante,/C est la notre, n est-ce pas?/La mienne, dis, et la tienne,/Dont sexhale lhumble antienne/Par ce tiede soir, tout bas? について意味を探索することは無意味な業であろう。しかし風景の裏側に忍び込んで, そこに流れていた音楽を盗み取ってきたようなこのテクストには,《志向するもの》の蠢きのようなも のが確かに感じられる。そしてこうした《意味》のない文学テクストに比べると,例えば「大学進学 者の5人に1人が高 3年の時に家でほとんど勉強せず,2人に1人は勉強時間が2時間以下であ る。」というような,日本のジャーナリズムに典型的なテクストにおいては,《意味》は可能なかぎり 明確であるものの,《志向するもの》はほとんど感得できない。しかしだからと言って,《意味》と《志 向するもの》が敵対関係にあると性急に結論づけるわけにはいかないかもしれない。優れたルポルター ジュ,批評等を えてみれば,明晰な《意味》を伝えることが本旨のテクストの中にも,《志向するも の》が共存することは大いにあり得ることだからである。 ベンヤミンがこれを書いた1921年当時と現代とでは,文学観,芸術観が決定的に異なっている。19 世紀後半以来のロマン主義的な文学観,芸術観,世紀末に登場した貴族的な芸術観の最後の光芒とも

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言える芸術至上主義,そして二十世紀の幕開けとともに陸続と登場してきた革新的,先鋭的な芸術的 主張 ベンヤミンの文学観,芸術観には,はっきりとその時代の刻印が見て取れる。 ベンヤミンの「物語作者」というエッセイには,叙事的な物語という形式や市民社会の勃興に伴っ て現れてきた長編小説という形式(それがゆっくりと物語形式の後退を齎した)に脅威を与えるもの として《情報》が指弾されている。 …市民階級の支配が確立されるにつれて,新聞が,高度資本主義下の最も重要な支配の道具のひとつとなっ ていき,それとともに新たに伝達の一形式が登場してきたことを私たちは認めなければならない。この伝達 形式は,たとえその起源がいかに遠い昔に ろうとも,これまでは,叙事詩的に決定的なやり方で影響を及 ぼすようなことは決してなかった。しかしいまやそれは決定的な影響を与えつつあるのだ。そしてこの伝達 形式は,物語にとって長編小説におとらず異質なものだが,実は長編小説よりずっと脅威的な存在として立 ち現れてきたのだ。ちなみにこの伝達形式は,長編小説をも危機に陥れつつある。伝達のこの新しい形式と は, 情 報 である。 ここには,新しいメディアが勃興してきて,それによって庶民階級の雅致のない,品下る伝達形式 が,伝統的な貴族的文化を蹂躙するのではないかという危惧が明らかに見て取れる。ベンヤミンの目 には,メディア革命,情報革命の 光が脅威として映っていたのである。確かに新聞により,時代が さらに進めば,ラジオ,テレビ,そしてインターネットの登場により,人々は,身近な出来事の,即 座に検証可能で,その場その場で消費されていく,時事的,三面記事的情報に耳目を領され,物語る 精神は衰退していったように見える。しかし実際は,社会全体における,物語的な認識の 量は,情 報化の進展に伴って,明らかに増えてきているのである。人々の関心が,即物的で卑近な情報にあっ たことは,過去においても同断であって,“high culture”に関心を持つ人間の絶対数は,識字率から いっても,現代の方がはるかに多い。高い教育を受ける人間が増えれば,その 高級な文化に関心を 持つ人間も増えるのが自然というものであって,その逆ではない。メディアの発達それ自体が人間の 文化的な質を劣化させると えるのはやはり 見である。 情報のオープン化,つまり情報の民主化は,人間社会が進んでいく自然な道すじだと えられる。 日本の前近代社会のように(学問的な情報が民衆に閉ざされ)価値ある情報を支配者階級が独占して いた時代,旧制高 ・旧制大学への門戸が一握りの富裕なエリート層に限られていた時代は,支配者 階級には都合がよいかもしれないが,社会全体の活力,文明度という点から言えば不活性で未開であ ると言わざるを得ない。Sir Thomas Browneのテクストは,かつては読む人の数は限られていたで あろう。しかしネット上に full text が無料で開示されれば,読む気のある人は読むことができる。そ の状況は,どんなに読みたくてもアクセスが実質的に禁じられている社会と比べれば,進歩でなくて 何であろう。

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は,卑しい新参者と目されていた《情報》という概念が,実は,生命の基幹に関わるような中心的な 概念であって,物語や詩や文学は,逆に,情報世界の一部として包摂されるべきものであるというこ とである。情報という言葉の われ方が,近年目に見えて拡張されていっているが,それはかつて, cultureという言葉/概念を巡って生じた拡張現象 現代ではほとんどすべてのものが文化に包摂さ れている を思い出させる。今日にあっては,情報に対する,文学の,カテゴリーを異にしているか のような貴種性を主張するのは滑稽の感を免れない。情報の価値判断はすべて recipient が自主的に 行うべきことであって,絶対的見地からは,卑近な 話であろうがプラトンの後期哲学であろうが, 同じ1片の情報にすぎず,そこに先験的差異はまったくない ちょうど地域文化間に絶対的優劣がな いのと同様である という地平を前提として持たなければならない,ある意味で,平等な,本音の社 会に近づいてきているのである。文学と言っても,哲学と言っても,自 にとって有用な情報でなけ れば,時間と労力を費やして摂取する何の意義があるだろう。もし特定の個人が特定の文学作品に高 い情報価値を認めるのであれば,それを自己を構成するための情報の一部とすればよいだけの話で あって,誇る必要もなければ卑下する必要もなく,すべて自受用のことであり,対他意識を離れれば, それで不満はないはずである。無論ある時代の,ある社会における通念においては,文化にも高低が 自ずと形成されるように,情報にも価値の高低についての一定の社会的基準は存在するし,また存在 すべきである。肝腎なことは,そうした高低を何のために用いるのかということであり,ある情報が 価値が高いという基準を,無条件に社会の全成負に強要しないということである。 別な言い方をすれば,これは社会が,情報的に,Gemeinschaft から Gesellschaft へ変貌しつつある ということである。人々は,選択的意志によって情報を選び,有機的に わる自 なりの選択的 society を形成する時代になっている。情報化は,人間的なつながりを稀薄化するという警鐘の声をよく耳に するが,それは Gesellschaft への移行期にはいつも呟かれる嘆きに他ならない。前近代社会の《人情》 が懐旧的に回顧されはするが,現実には,多くの人々が面倒な義理人情のしがらみを振り捨て,都会 のさっぱりと孤立した生活を選んできたのである。無論,都市生活の孤独は大きな試練であって,あ る人々の精神を荒廃させる場合もなくはない。同じように高度情報化は,情報と人間についての関係 を選択的で合理的なものにすることで,人間関係を否応なく無機化する傾向を持ち,情報の洪水は, 個々人の存在をいわば散砂的状態に還元し,われわれの生活の都市的性格を一層強めるのである。し かし人々が本能的にそちらになだれ込んでいっているところを見れば,情報における個人性というも のに多くの人々が高い価値を見出しているのは疑いようがない。人間社会の都市化と情報化は連動し ており,恰も,高等生物としての人間の真価を問うかのような,発展と破滅の両方の可能性の因子を 胚胎した試練(洪水)になっているようにも見える。 ウェブの世界では,すでにこうした情報の民主化は実現しており,われわれ現代人の多くは,既存 メディアだけでなく,ウェブ上の情報にも多くの時間を割くようになってきている。ある1サイトに は,一生かかっても読みきれないほどの古典のテクストが置いてあり,別の1サイトには,同じくら い厖大な量の誹謗中傷のテクストが書き込まれている。1人の人間がその一生で摂取できる文字テク

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ストの 量は,バイト数ではじき出せるであろうから,情報飢餓から免れた今日の「先進社会」では, 問題はもはやいかにして情報にありつくかではなく,どの情報を選択するかにシフトしている。 そして選択式に移行すれば,情報に振り回されないだけの principleと navigatorのある限り,情報 は多様であればあるほどいいということになり,日本で言えば,日本人の り出した情報ばかりでな く,諸外国の文物(情報)が身近で利用可能であるのが望ましいわけで,そのゆえに翻訳は価値を持 つのである。日本の植生が,諸外国からの様々な植物の transplantationによって豊かになってきたこ とを想起してもいいであろう。日本は翻訳大国と言われているが,それでも重要な文献で未邦訳のも のは無尽蔵にあると言ってもよい。プロの翻訳家は,市場原理に縛られているから,売れる商品でな ければ翻訳できない。学者も,業績としてあまり評価されることのない翻訳に労力を割くよりは,学 術論文や著書に専念しがちである。しかし 例によってあり得ない夢想にすぎないが もしこうし た翻訳紹介する価値の高いテクストを翻訳し,ウェブ上に 開し,無料で閲覧,引用できるようにす る地道な努力が行われるようになれば,長期的には,それこそ,諸外国の文化的達成の吸収を促進し, 日本における情報 成の基盤を形成する上で最も効果的な方法の1つになるはずなのである。現在の 日本の人文・社会科学領域の業績に,諸外国に翻訳紹介されるようなものが少ないのは,日本の学問 が,あいかわらず《西洋》を自家薬籠中のものとしきれていないことを示している。 * * * * * * これまでになされてきた文学の翻訳者の評言の中に,自 が翻訳をするのは,作品をよりよく読む ためであるというものがかなりあるという事実は注目してよいことである。ある外国語で書かれた作 品を何度も精読するより,翻訳を1回したほうが,はるかに集中して読むことができ,心に刻まれる 深さにも格段の違いがでてくるという。そして面白いことに,それは文学作品についてのみ言えるこ とであって,その他の学術的,ないし時事的な文章の翻訳には,どんなに精力を注ぎ込んでも同じよ うな効果はほとんど認められないであろう。また文学作品とは言っても,(その人にとって)特に優れ たものでなければ,そうした効果は期待できないのは言うまでもない。 ではなぜ優れた文学作品を翻訳すると,そのような体験が得られるのであろうか?1つには,翻訳 をするに際しては,通常の精読以上に精密な読みが要求されるということ,さらには,翻訳するとな ると,作品とのつきあいが時間的にも長期に亙るようになるといった物理的条件も大きく作用してい るには違いない。しかし理由はそれだけであろうか? ベンヤミンの えを援用すれば,優れた文学には,著者の母語のテクストの巧緻微妙な織り成しに よって,ある《志向するもの》が籠められていると えることができる。よくできた文学作品の中の 言葉を変 しようとしても,ほんの微細な変 でも,全体の効果が台無しになるのではないかと思わ せるほど,緊密に織り成されていることが少なくない。台無しになるというのは,意味以上のものが 籠められている証しである。他方,学術,ノンフィクション,実用,報道領域のテクストの類いは,

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意味に重点が置かれ,その限りでは,言葉の織り成しというようなことの重要度が高くない。意味を 明確にするためのシンタックスの統御が要請されるだけであって,《志向するもの》が稀薄な場合は, 言葉の置換,文の配列の変 は,わりに気楽に行えるのである。“The capial of Alabama is Montogomery.”というテクストは,「アラバマの州都はモントゴメリーである」と訳して大きな問題 はない。助辞等,コンテクストによって可変的だが,意味が正確に伝わりさえすれば,それは末端的 な問題にすぎない。しかし, La mienne,dis,et la tienne,/Dont sexhale lhumble antienne/Par ce tiede soir, tout bas? というテクストは,そうはいかない。翻訳者は,意味を再現するのでなく 実際,意味など固定しようもない 《志向するもの》を摑まえ,それを TL で再現しようと言語感 覚を研ぎ澄ますことを強いられる。ここで行われていることは,多くの文学作品の翻訳者が証言して いるように, 作に準ずる言語行為になっている。 G.スタイナーは After Babel(1975)おいて翻訳のプロセスを,1)trust(信頼),2)aggression (侵入),3)incorporation(同化),4)restitution(復旧),の4つに けて説明している。 それ を単純化して言えば,1)SL に《意味》と《志向するもの》が存在するという信頼を持って読み,2) 次にいわば暴力的に相手のテクストの内部に侵入して《意味》と《志向するもの》を強奪し,3)そ れを我がものとして TL の世界に持ち帰り,4)倫理的な感覚を働かせて,SL と TL の間の等価性を 取り戻す,というものである。スタイナー は,翻訳においては普通のコミュニケーション行為で行わ れている hermeneutic motion (解釈学的な操作)が行われている,逆に言えば,コミュニケーショ ン行為一般が一種の翻訳行為になっているという立場を取っているのだが,この2)の部 に傾注さ れる心的エネルギーは,母語によるコミュニケーションではなかなか体験できないほど大きなものに なる可能性がある。母語テクストで見たこともないような《志向するもの》を発見した場合など,ギ リシャの敵陣に斬り込んでヘレネーを強奪してくるといった高揚感すら生じるかもしれない。日本三 大訳詩集の1つ『月下の一群』の訳者堀口大學は,それと似た喩えで自 の訳業を回顧している。 二十代の僕は,フランスの詩ばっかりを読んで暮した。おもに近代詩から現代詩へのかけ橋になったよう な種類の詩だった。指導者なしの気ままな濫読だったが,自 の篩にかけて自 の好みを勝手に生かすこと がおかげで出来た。読んでいるうちに,好きで好きでたまらないような詩に時おりぶっつかった。くりかえ し,くりかえしその詩を読んでいると,その詩に対する欲情が僕の内部に湧いてくる。美女に対する男性の 欲情,あれと変りのない気持,つまり自 のものにしたいというあの欲情だ。詩をわがものにするには,原 作のフランス語の着物を脱がせ,一度裸にした上で,これに僕の言葉の着物を着せる以外の手はないと気づ いた。つまり僕の訳詩は,恋い焦れる美人のやわ肌に触れると同じ気持でなしつづけられたというわけだ。 隠喩としては,美女の強奪よりは,捕食行為における,咀嚼―同化( 解)―異化のほうが穏やかで、 かつより relevant かもしれないが,いずれにせよ,解釈行為自体が知的に凶暴なプロセスを含んでい ることは間違いのないことであって,翻訳の場合,それが一段と intenseにならざるを得ないだけに,

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そのことがテクストを読む体験を印象深いものにする最大要因になっているのではないかと推測でき るのである。 スタイナーの翻訳プロセスの 析が独自でかつ優れている点は,4)restitution(復旧)を設けたと ころで,またそれは,実地の翻訳においても生かしうる智慧を含んでいるように思われる。翻訳者は 外国語のテクストを侵し plunderを獲る際に,随 と多くの解釈的なものを付け加わえたり,逆に,余 なことと思うものを恣意的に切り捨ててしまうことが少なくないものである。特に,戦利品として 輝かしいものについては否応なく肥大化する傾向が出てくるもので,それをそのまま TL にすること には慎重であらねばならない。良心的な翻訳は,果敢な凶暴さとともに,戦いの後の傷口の修復にも 心を砕かねばならない。翻訳にどこか平和な営みであるかのような感覚が纏綿するのは,ここに起因 するものであろう。近年は,テクストを独立したものと見なして,読者の読解の自由権を前面に押し 立てたような言説が跋 しているが,それは翻訳の精神からは対蹠的なところにある精神である。SL と TL の等価を決める基準は実は何もない。しかし現実の翻訳においては,訳者の心の中で,等価を 感じさせる瞬間が不思議に生起するものであり,そこに《普遍》の地下水脈を思い見るのは必ずしも 幻想ではない。逆にそれを措定しなければ,いかなるコミュニケーションも,同床異夢のお笑い草に なってしまうように思われる。《知》の傲りと言うべきであろう。 よく翻訳について「逐語訳」か「意訳」かという問題設定がなされるが,ベンヤミンもスタイナー も,あるいは経験の深い多くの翻訳者も,逐語訳は「忠実な訳」としては問題外であると えている。 ベンヤミン的に言えば,ある言語で表現された微妙な《志向するもの》は,統語法のまるで違う言語 で逐語訳を行えば,確実に消え失せるであろうし,スタイナー流に えれば,逐語訳は,2)aggression の過程で及び腰になっている,テクストの内部に肉迫する膂力を欠いた訳者のものであるということ になろう。翻訳のベテランである Howard Goldblatt は,...the thing that s really killing translation in our field is literalism.Too many translators are afraid of the text,especially when theyre first starting out. And I understand that, because I was too. Theyre all afraid of the text. You need to overcome your fear of the text.... と,「直訳」をする人間の,《他》との わりにおずおずと する心理的未熟を巧みに表現している。 完璧な翻訳というのは,翻訳の意義から えて本来的な語義矛盾 ある言語に特有に恵まれた《志 向するもの》が他言語で完璧に再現できれば特有ではなかったことになる であって,翻訳で達成さ れるものは,せいぜいが疑似的なものにすぎない。しかし翻訳者は,母語で形成されたことのない, しかしながら大変によく理解のできる《志向するもの》を,母語で形成しようと骨折りを惜しまない。 彼は,それが,これまで彼の母語の内部で試みられたことのない1つの冒険であって,それはほとん ど特権的な経験であることを本能的に感知するからである。(シェイクスピアを翻訳する経験は,英語 圏の人間には閉ざされているわけで,逆説めくが,翻訳を行う非母語者のほうが,テクストと深く わる契機に恵まれているとも言えるのである。)

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る意味を伝えているテクストに過ぎないようにみえるが,spirit の籠る言葉である。そしてその《志向 するもの》は,日本語で編み成されたことのないものであったとすれば,福沢諭吉の「天は人の上に 人をつくらず,人の下に人をつくらず」という翻訳は,その《志向するもの》を摑んだ上で,当時の 日本語の内部で,最大限の近似性を持たし得た名訳と呼ぶことができよう。ゲーテが,「外国語を翻訳 するにあたっては,翻訳不能のぎりぎりの限界にまで肉迫しなければならない。この境地に達しては じめて,他国民や他国語というものが見えてくるのだ」 と言っているように,この翻訳を刻み出した 時,福沢は,アメリカ的民主主義をより深く内面化したということができよう。 これに比すると,《意味》に重点が置かれたテクストの翻訳では,「逐語訳」をしても事すむ機械的 な部 が多くなってくる。日本における学術書の翻訳などを見ていると,「横のものを縦にしただけ」 のようなものが多く目につく。それは翻訳者の怠慢もあるのかもしれないが,テクストの性質の然ら しむるところでもあろう。 意を凝らすべきところは「こなれた」日本語を え出すことくらいにと どまるからで,そうした翻訳自体,やっていてあまり面白いものではない。契約文書のような「技術 翻訳」となると, 意は抑圧され,翻訳は労働の趣を帯びてきて,翻訳者の神経的消耗も大きくなる。 このようなテクストは機械翻訳に適性があり,もしテクストの書き手が,機械に判読しやすいような シンタックスで書けば,意味がほぼ伝わる機械翻訳を行うことは不可能ではないだろう。しかし文学 的テクストは永遠に機械翻訳の天敵であり続けるはずである。 このように,翻訳という行為を通じて文学的テクストの本質が逆照射されるわけだが,それでは一 体,文学というのはどのような《意義》を持つ情報テクストであるのかをここで簡単に再 しておき たい。 * * * * * * ①文学は歴 の生きた記録である。読者に歴 的経験のイリュージョンを与える。 おそらく,文学の意義ということでは,あまり重きを置かれていないような印象があるが,文化的 遺産という観点からは,これが一番重要であろう。自 がどのような経緯で今ここに生きているのか という方位感覚,歴 的透視図がなければ,その生は海図のない航海に似たものとなる危険性が生じ る。これを補うために,かつては歴 的神話があり,今日では学問的な歴 学がある。歴 的 証が 進められ,その成果が初等,中等教育の「歴 」で教えられ,日本国民のほとんどが,同じような歴 的感覚を持ち,また,学問的な 証によって,新事実が発見されたような場合には,そのつど教育 内容が書き改められていくという今日のシステムは,現実的に可能な歴 教育として,それほど非難 されるようなものでもない。世界 の場合も,他国に比べれば,教科書の限られた紙数の中で,なる べく偏頗にならぬよう,比較的良心的な配慮がなされている。 しかしながら,そうした「歴 」は,歴 の根本にある《人間》を捨象した skeletonにすぎない。 歴 教科書を読んでも,学術的な歴 書を読んでも,歴 と わるような醍醐味は一向に味わえない

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のであって,それを伝えてくれるほとんど唯一のメディアは文学を措いてないのである。一見現実を 生々しく伝えるかに見える映画のような映像メディアも,歴 が人間の精神と 錯する様は repre-sent することができない。戦艦大和が,沖縄へ向かう途上で撃沈された歴 的事実は誰しもよく知っ ているし,映像でも見たことはあるだろうが,吉田満の『戦艦大和の最期』を読むまでは,沈没に至 る凄絶な経緯をまざまざと疑似体験することはできまいと思われる。フィリピン戦線に駆り出され, 九死に一生を得て復員した兵隊ですら,自 がどのような戦争の構図の中で戦っていたのかは,大岡 昇平の『レイテ戦記』を読むまでは からないであろう。重要な歴 的体験を,事後の堅実な 証で 裏付けながら,後の世に伝えようとすることにこそ,おそらく言葉の真骨頂が発揮されるのであって, 言葉は,感傷や感情やイデオロギーや偏見や虚栄によって歪みを受けるという大きな弱点も抱えては いるが,真率で強靱な叙事的精神をもって記述された文学であれば,貴重な歴 的情報として後世に 迎えられるはずである。戦争のような異常な事態だけでなく,永井荷風の「つゆのあとさき」,獅子文 六の『自由学 』のように,その時代折々の世態人情を,fictionに仮託して,歴 的記録として残し ておくことも,「今」を生きる人間の責務であろう。長塚節の『土』を読めば,後世は明治という時代 を理想化するようなことに慎重になるであろう。しかしそうした孜々とした良心的な営為は意想外に 少ないものである。1つには,職業的文学者になると,出版社同様,どうしても営利ということが重 要になるからであり,またもう1つには,平俗な意味での文学性,非日常性,個人的感性等へのこだ わりがともすると多くなり,地道な記録的作業が退屈なものと思われがちになってしまうからである。 良心的な歴 文学の翻訳は,他文化にとっても意義のあるものになる。というのは,そうした歴 こそ,その文化圏に生きた人間でなければ持ちえない特権的なもの(というより,アイデンティティ そのもの) ベンヤミンの《志向するもの》 を濃密に含んでおり,それを他国民が翻訳を通じて それぞれの自国言語の内部に持つことは,普遍性の補完という点で,深い意義を持つからである。 ②文学は,《神話》,《ドラマ》の保存・伝播メディアである。 ベンヤミンが示唆しているように,《物語》というメディアは,科学的な,ないしは知的なものとは 別の精神様態が棲息できる habitat である。上記の歴 的体験というのはその1つである。しかし,物 語は,事実の 証を離れ,fictionという形でも独特の影響をわれわれの心に及ぼすことができる。ヘ ミングウェイの『老人と海』を えてみると,この作品はあるキューバの老釣師の体験談が 作の契 機にはなっているが,narrativeは純粋な 作であり,fictionであって,ほとんど《神話》の領域にあ ると言ってもよいものである。こうした神話的認識は,科学的,実証的見地から見ると荒唐無稽で, 「所 は文学」ということになるのだが,しかしこうした文学から読者はある reality 『老人と海』 の例で言えば,Santiagoに体現されている,科学的,学問的,時事的テクストには決して期待するこ とのできない,人間というものの迫真的な姿 を感得する。人間は,科学的に透視すれば,物理的な 元素の集合体にすぎないのであるが,われわれが《人間》であることができるのは,いつも自 の物 理的制約を超える何かを《志向》してきたからに他ならない。ある時代には神話,宗教がその《志向》

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の受け皿であったが,神話,宗教の潮が退いた近現代社会においては,文学が,それらに替って,そ うした直覚的で,holisticな認識を保存し,同時代に,また後世に伝え得るメディアして機能するよう になってきたのである。 神話的認識とともに,人間社会になくて叶わぬもう1つの非科学的なものが《ドラマ》である。古 代ギリシャ演劇,能楽,シェイクスピア,ラシーヌ,イプセン,チェーホフの演劇の魅力は何であろ うかと自問してみれば,これも人間の原初的な部 に関わる,解析不能な何かだと答えざるを得ない。 われわれの生は,精神的にも肉体的にも,生きているという実感を得るには どういう仔細でそう なっているのかはおそらく永遠の であろうが 心を高揚させ,浄化をもたらすドラマを要するので ある。ドラマは文学の monopolyではなく,映画,漫画のような映像メディアにも,音楽や歌のよう な音声メディアにも,また祭祀等の儀式やスポーツにも意図的に,ある場合はあからさまに,ある場 合には密やかに取り入れられている。しかしドラマの抑圧された,「ひとつの統一的な世界観の下にき ちんと 褄の合ってしまった世界」 の窒息性を打破するには,出来合いの疑似ドラマではなく真正 のドラマを要するのであり,それは文学に俟つ以外にはないのである。 こうした神話やドラマのメディアとしての文学の翻訳は,普遍性が高いだけに,歴 の翻訳よりも 他文化圏にも受け入れられやすいであろうが,翻訳の困難は,歴 文学とは比較にならないほど大き いであろう。神話的な直覚やドラマは,文字の形式面に顕在しているわけではなく,テクストに埋め 込まれたもの,テクストの裏で息づくものだからである。 ③文学は,悲劇的感興,喜劇的感興,哄笑,ユーモア,ペーソス,自己省察,瞑想,幻想,啓示,思 想,社会的批判,芸術観等の,感情・認識を,読者と かち合うことによって,ないしは戦わせ合う ことによって,内的なコミュニケーションを行うことができるメディアである。 現代で最も重要視されている文学の機能がこれで,文学は,作者と読者の,精神的コミュニケーショ ンを行うためのメディアとして,今後も存続していくことであろう。Arthur Symondsが指摘してい るように,近代が爛熟する過程で,人々は,誰にも明かさないような内面的秘事を,紙に向かって書 き記す(告白する)ようになっていった。 これは,あまり注目されないことであるが,文学や情報 について える際に見落としてはならない文化 の大きな節目であろうと思われる。また何も秘義的 なことに限らない,卑近な体験でも他人と かち合うに価する情報は続々と書かれ出版されるように なり,それらが社会を相互に結びつける絆の役割を果たすようになってきたのである。こうした文学 の中には,当然翻訳価値のあるものが含まれているわけで,翻訳というと,とかく高名な作家の作品 や,学問的な価値のある著作に限定されてしまいがちだが,一市民が書いた率直な文学にも翻訳価値 がある場合も少なくない。海外で翻訳出版される日本の文学は,長らく川端,谷崎,三島といったよ うな作家が中心であったが,彼らが日本人を代表しているとはとても言えない。exoticism は 流の初 期には必要な lureだが,いずれは脱皮しなければならない精神様態である。

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④文学は,言葉がクリッシェに陥ることから守るための装置である。 言葉は通貨と同じように,人々の間で取り わされている間に,不可避的に擦れ窶れてくる。最初 は斬新だと思われていた表現も,誰も彼もが安直に うようになると,斬新さは色褪せ,やがて生命 の感じられない定型表現の古篭に放り込まれる。日本のジャーナリズムのテクストなどは,ほとんど がクリシェであると言って過言ではなく,逆に 意に満ちた日本語をそうした媒体で うと,場違い な感じを与えることにもなりかねない。 クリシェはただ単に退屈なだけではない。ノースロップ・フライは,その危険について次のように 警告を発している。

The area of ordinary speech,as I see it,is a battleground between two forms of social speech,the speech of a mob and the speech of a free society.One stands for cliche,ready-made idea and automatic babble, and it leads us inevitably from illusion into hysteria.There can be no free speech in a mob : free speech is one thing a mob can t stand....You see,freedom has nothing to do with lack of training ; it can only be the product of training. You re not free to move unless you ve learned to walk,and not free to play the piano unless you practice. Nobody is capable of free speech unless he knows how to use language, and such knowledge is not a gift : it has to be learned and worked at.

クリシェが「自由」を持たない群衆の言葉であって,幻想からヒステリー状態に不可避的に至らし めるものであるというのは,危機感を幾 大仰に る,評論家にありがちな表現にも見えるが,mob にならないためには,内面の自由が必要であり,その自由を錬磨するのに,言葉と思 の自在を得る ことが1つの方法であるというのは確かであろう。とすると,社会は,クリシェに堕していく性癖の ある言語を,不断に活性化するための装置を持っていなければならないことになる。しかし言語生命 の発生源は人間の内面にあって外在的なものではないから, 的機関でこれを行うわけにはいかない。 個人の自発的な尽力に俟つ以外になく,それが新しい文学を待望する社会の気 に反映されるのであ ろう。 独自のスタイル(文体)を持つことが文学者の必要条件であるが,この新しいスタイルとは,とり も直さずクリシェではない言葉の配列によって醸される新しさに他ならない。自 で言葉に 意を凝 らすことのできない人々は,読者となってその新しさに触れ,自 の言語,思 ,感覚の新陳代謝を 行うことができる。( 意あるテクストを読むと,心の凝りをほぐされる感覚があるのはその証拠であ る。)そうした影響関係の 体が,社会全体の言語環境を少しずつ変えていっているわけで,言語が時 間とともに変わっていくのは,保守的な心情には概ね言語の堕落と映るかもしれないが,実はその言 語文化が生き びていくために必要な生理現象になっているのである。 外国語のクリシェ文学を翻訳したら 意ある文学になったなどということはほぼ えられないこと で, 意ある表現だけが翻訳者に,これまでにないような母語表現を生むための陣痛を強いる。すぐ

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れた諸外国の文学の翻訳には,言語を内部から変えていくための豊かな契機が潜んでいるのであり, ルターの聖書翻訳,若 賤子の『小 子』などは,その目覚ましい一例であろう。言葉は生まれたと きから擦れ切ったクリシェということはないわけで,生まれたての言葉はどんなにか瑞々しかったこ とであろう。文学は,その原初的状態を復活させたいと願う言語的な試みを含んでいる。 * * * * * * 以上見てきたようなことが,他をもってしては替えがたい文学というメディアの価値になっている。 今日文学の衰退ということがよく言われるが,衰退というのは市場で数が捌けないことしか意味して はいない。高級な文学はいつも少ない読者しか持ってこなかったことを思えば,現在の日本社会にお ける厖大な文学作品の横 は,むしろ驚嘆すべきことにも思える。しかし皮肉なことに,高級な文学 が10万部売れて10万人の読者に低級な読まれ方をするより,3千人の読者にひっそりと3千通りの高 級な読まれ方をするほうが,社会全体に齎される実りは豊かなのであって,文学は,そういう nicheを こそ求めるべきであろう。 《志向するもの》が高密度に存在する文学は,翻訳上のチャレンジも非常に大きいのであるが,も しうまく翻訳ができた場合には,その作品と TL 世界との間に,細くはあっても1つの脈絡がついた ことを意味する。そしてそれは,翻訳者の tour de forceによる個人的な達成というよりも,翻訳者を 媒介としてなされたその言語自体の達成として えられるべきものではなかろうか。人間が,人工的 に りだす《意味》は,所 は 直化したものであって,消費されれば,やがて顧みられなくなって 捨てられるものにすぎないが,ある種の《志向するもの》は永続する生命を有している。それこそが, 古典と呼ばれるテクストの長命の秘密であって,そうしたテクストには,言語という1つの《自然》 の美と力が宿っている。卑近な例で言えば,「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散る らむ」という極めて短いテクストにすら,それを感得することができるであろう。優れて日本的な言 語的《自然》が,紀友則を介して形をなしているような気味 Der Mensch gebardet sich, als sei er Bildner und Meister der Sprache, wahrendt doch sie die Herrin des Menschen bleibt. があ る。こうしたテクストを翻訳することは,TL が,その細い菌糸を,日本民族の文化的蓄積の中心部に 降ろそうとする試みになぞらえられるかもしれない。 文化は言語と強い相関関係を持っている。世界に何千という多様な言語が存在していることは,生 物界における生物多様性(biodiversity)を想起させ,ある言語がその言語でなければ食い入ることの できない現実を有していることは,人類文化を monocultureの脆弱さから救い,強靱なものにしてい る可能性がある。しかし相互に断絶したままであれば,その強靱さは全体のものでしかなく,個々の 言語文化を利するものではない。翻訳は,その観点から見ると,人類の諸言語のネットワーク化の試 みに他ならない。それぞれの言語文化圏に,諸外国の言語文化情報が,翻訳という形で堅実に備蓄増 強されていき,そこへの個人のアクセスが,オープンに,手軽に行えるように整備されていることが

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理想であって,逆に,自国文化の「純血性」を必要以上に主張し,他文化による「汚染」を排除しよ うとする姿勢は,情報,文化の血流を滞らせ,病的なものに変質させていく危険性を持つ。ある文化 の新陳代謝(その文化をよりその文化らしくする代謝)は,《性》という自然の智慧を思い見れば容易 に想像できるであろうように,他文化との 流による以外は困難であって,それがなければマニエリ スムの鬱血状況に陥るのが常である。 二十世紀の二度の大戦の惨禍は,外国文化に対するおぞましい無知と偏見を人間の心の沼の底から 掻き立て,われわれ人類が相変わらず野蛮のレベルに留まっていることを見せつけてくれた。それを 文明のレベルに高めていくことは容易ではないが,それぞれの社会が,自発的な民意で,他文化の優 れた文化を翻訳し,他文化に対する敬意(他文化の重要性に対する認識)を,自国言語の内部に蓄積 し長い時間を掛けて血肉化していくことが大切であろう。世界はこれからも何度となく冷酷な差別心 と savageryをむき出しにすることであろうが,邪悪な心の激発は永続するものではなく,やがて争乱 は鎮まり,われわれは再び生きて知る道をしばし歩むことができるだろう。そしてそこで行う平和の 行為は,蓄積し永続する力を持っているのである。 * * * * * * 十 予想されるように,一般社会の翻訳という営為についての意識は今もなお非常に低く,原作者 にはオリジナリティを認めて敬意を表することがあるにしても,翻訳となると, 意のない,言葉の 労賃作業という遇し方が多いように見受けられる。そのあたりは,日本だけでなく普遍的な現象のよ うで,いろいろな国の翻訳者にインタヴューした経験のある 由美は,「ほとんどどこの国の翻訳家も 翻訳は割りに合わない仕事だと嘆く。たいへんな能力や資質や経験を要し,膨大な時間を食う仕事な のに,十 な支払いをうけていないし,社会的にも十 に評価されていないと感じているからだ」 と 述べている。漫然と,ないし特定の知識を求めて外国語のテクストを読むだけであれば,ぼんやりと しか からない箇所がいくらあってもさほど支障はきたさないかもしれないが,翻訳となると,一言 一句に至るまで正確な読みが要求され,他人の言っていることをきちんと理解するというプロセスに は,語学的知識はもとより,幅広い教養,そして場合によっては専門知識までもが必要とされる。し かし不思議なことに,そのことに世間は目を向けようとはしないのである。 尤も,翻訳者が脚光を浴びて喋々と持て囃されるというのもいかにも不自然であろうし,ほとんど の翻訳者もそうしたことは望まないだろうと想像されるのであれば,翻訳者は裏方に徹してその仕事 を良心的に黙々とこなし,一般社会はそれを遇するに,静かな敬意と支援・協力を以てするというの が,最も望ましいあり方のように思われるのである。 そのような方向に向かうためには,一般社会が,翻訳についての理解を深め,その一般社会の理解 を圧力として, 的な意思を動かしていかなければならないのであるが,日本の場合,例えば大学に しても,翻訳についてのコースを設けているところは稀であるし,一般の講義の中でも,翻訳につい

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ての 察に言及することはほとんどないのではないかと懸念される。企業のメセナ活動においても, 翻訳の領域に真剣な関心を向けているものがどれだけあるか甚だ心もとない。 これまでこうしたことにある程度の理解を示してきたのが,大学の教養部の語学系教員の一部であ り,彼らは実際の翻訳の実働部隊でもあったのだが,大学設置基準の「大綱化」によってほとんどの 大学で教養部は解体され,語学教育自体も,翻訳に役立つような言語的訓練とは無縁の,英語検定試 験の実戦演習のような方向に傾斜しており,また語学系教員のポストも専門領域に吸収されてしまう 事例もかなり目につくようになってきた。職業としての翻訳の世界では,翻訳者は翻訳で自 の生計 を立てていかねばならず,また出版社側にしても,利潤と効率と生産性を求めざるを得ないがゆえに, 双方理想主義的なことは言っておられず,プロ同士のビジネスライクな関係に移行し,採算を度外視 したような文化的な意義をを有する長期的な翻訳プロジェクトは敬遠され気味になってきている。し かし,日本語と外国語の間を取り持つ wordsmith の棲息地を社会が奪っていくのは決して賢明なあ り方ではなく,長期的に見ればむしろ大きな損失を招くものであって,どことなく,経済的効率を求 めて駐車場や工場の敷地にというので,山を崩し森を伐採する風潮と相通ずるものがあるように感じ られる。イギリスの moorが,太古のままに残されている叡知に学ぶべきではなかろうか。 * * * * * * 本年(2007年)8月26日に逝去した日本文学の英訳者として名高い Edward Seidensticker(b.1921) は,日本に対する本当の愛着を持っていた人であり,その訳業は高く評価されるべきものであるに違 いないが,つまらぬところでよく誤訳を犯しており,日本人のよき協力者を得ていれば,はるかに優 れた翻訳を残し得たであろうにと惜しまれるのである。翻訳を,個人の閉じた世界の中だけで行うと, イタリアの有名な俚言 Traduttore, traditore の陥穽にはまってしまうものだ。それは文学が密室 で 造されるものだという前時代的な観念を引きずっているためかもしれない。

かつて The Japan Interpreter という先駆的な雑誌で,日本の思想を海外に紹介していた鹿野力は, 夙にチーム・トランスレーションの重要性を説いていた。

I believe a competent team of a Japanese and a native speaker,whose powers of conceptualization and vocabulary are superior, can nonetheless produce translations of any Japanese materials, even those often considered untranslatable.

ここには戦後日本の理想主義に傾斜した思 の片影が見られるが,良質の翻訳は,どちらの言語を もよく理解する SL と TL の翻訳者の協働作業によって成し得るという見識は時代に先んじたもので あり,翻訳は,文学の 造とは違って,社会的にオープンな検討を経たほうがより良い成果を得るこ とができる。TL 翻訳者によるドラフトの作成(このプロセスでは密室での孤独な作業が必要となる)

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→ SL 翻訳者によるチェック→ TL 翻訳者と SL 翻訳者の協議→最終ドラフトの完成→両言語を解す る編集者による編集→翻訳者へのフィードバックと協議→最終原稿の完成・出版→両言語を解する優 れた書評家による review,というのが,最善の翻訳プロセスであろう。しかし日本の場合,間違いだ らけの翻訳原稿が大した編集も経ずにそのまま市場に垂れ流されており,西洋の場合も,サイデンス ティッカーの例を見ても かるように,良心的なチェックや編集がなされておらず,reviewにしても 原文と翻訳を良心的に比較して後に書かれたものはほとんどないのではないかと懸念される。こうし た翻訳出版の杜 さは,今後是非とも改められていかなければならないものである。 もう1つ指摘しておきたいのは,翻訳者の社会的 milieuである。言葉は人間的なつながりの中で開 花するものであり,上に示した理想的な翻訳のプロセスも,discussionの dialecticな力に俟つところ が大きいのであれば,翻訳に携わる人間同士の信頼関係は,より良い翻訳のための大きな礎である。 孤立して翻訳をしていた人間同士が結びつき協力関係を築こうとする試みが日本でも一部に見られる ものの,多くの実務翻訳者は,大手の翻訳会社に登録し,そこから回される仕事を請け負い client と は翻訳会社を通じてコンタクトを取るだけで,直接連絡できないような境遇に置かれている場合が多 いと聞いている。ヨーロッパは翻訳の歴 が古く,さすがにこの点でも先進的で,翻訳家コレギウム のような施設が実際に稼働している。日本でもこのような試みが民間の自由意志で行われるようにな れば,それが翻訳に対する社会の認知が向上したことの1つの指標になるであろう。教育機関で翻訳 の重要性が教えられるようになることはもう1つの指標である。 * * * * * * 高度情報化時代になり,翻訳という行為を取り巻く環境は大きく変わってきた。1970年代くらいま では,日本における外国語の情報自体,紙メディア 書籍,雑誌,新聞 に限定されていて,その 情報の絶対量も少なく,recipient の数も限定されていた。翻訳は一部の人間が, 筆やペンで原稿用 紙の升目を1つ1つ埋めていく作業であった。80年代に入ってワードプロセッサーが普及するように なると,編集作業の画期的容易化によって,翻訳者は,これまでのように原稿用紙を赤字だらけにし たり,何度も浄書するという,神経的にも肉体的にも大きな負担となる作業から解放された。手書き 文字ではなく,印刷された頁そのままのレイアウトを見ながら えられるというのも新鮮な魅力で あった。手書きという行為の中に,ワードプロセッサーでは失われてしまう何かがあると指摘する声 もあったが,機械の 利さの前にはか細い声でしかなかった。そのうちに,出版社の方も手書き原稿 を嫌うようになり,著者から原稿を FD で受け取り,印刷所はそこから直接デジタル印刷に回すという 能率的な工程にシフトし,植字印刷は急速に姿を消していった。 90年代になると,パソコンが高性能かつ安価となり,漢字変換の正確度は長足の進歩を遂げた。さ らに,CD-ROM の辞書類が登場したことで,外国語の訳語を調べるスピードも大幅にアップし,訳語 自体をそのままコピー&ペーストできる場合も多く,翻訳作業は一段と効率化された。

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そして90年代半ばから文字通り爆発的に膨張し続けてきているインターネットは,これまで翻訳者 泣かせであった情報確認の作業に光明をもたらした。語義,言葉の背景的知識はもとより,引用語句, 固有名詞情報,collocationの調査など,かつてはそれらを調べるのに大きな図書館に行って半日がか りの仕事(雑用)になっていたものが,今では自宅のパソコンでわずか数 で調べられることもある。 インターネットの 宜のあるなしで,チェック作業にかける時間・労力に雲泥の差が出るようになっ たのである。 さらに e-mailの普及により,誰かに情報を求めるときも,添付ファイルで問題の箇所の前後を示し て問い合わせることができ,しかも,世界のどこへでもすぐにきわめて安く問い合わせることが可能 になった。パソコンを介して直接ディスカッションすらできる。 翻訳家として数多くの翻訳書を出している深町眞理子は,そのことを裏付ける証言をしている。 …あくまで一般論として言うならば,ここ二十年ぐらいの,このギョーカイ最大の変化と言えば,なんと いっても,翻訳という作業が格段に楽になったことだろう。ワープロという“利口な筆記具”が出たのが始 まりで,それがあれよあれよというまに,いまじゃインターネット。この仕事に欠かせない辞書とて,良い 辞書, 利な辞書がどんどん出るし,それも CD-ROM にすれば,置き場所にも困らない。たとえ辞書で見つ からなくても,いまなら各方面にその 野に詳しい人がぞろぞろいるし,それでもわからないときには,著 者なり著者の文芸代理人に FAX すれば,すぐに答えがくる。むろんインターネットで訊いてもいい。 無論,編集作業が容易になったことは,翻訳の質が上がることを必ずしも意味しない。訳文の推敲 をこれまで以上に綿密に行う可能性が高まったというにすぎず,逆に編集の簡 さに甘え,安易なド ラフトで妥協してしまうと翻訳の質は低下しかねない。翻訳における「彫心鏤骨」の必要性は,テク ノロジーの発達には無縁の不易のものである。 翻訳自体がそうであるように,翻訳を取り巻く環境においても,《ネットワーク化》というのがキー 概念となる。情報の円滑な流れを不必要に阻害しているものを取り除いていくのがこれからの課題と えればよい。これまでの翻訳論を見てみると,学術畑では,翻訳で行われていることを言語学的, 意味論的,情報学的に「説明」しようとするばかりで,翻訳の craftsmanshipによる「生成」を視野 に入れていないし,一方翻訳の現場の人間は,そうした「こちたき」理論に対して斜に構え,自 の 翻訳上の体験を,人を煙に巻くような言説で語る「芸談」風の言説に終始するという不幸な断絶が続 いている。翻訳理論は,実際の翻訳行為に利するものを含むべきであるし,また翻訳者も,翻訳の実 際に役立つ理論ができればそれは翻訳者に 益を供与するはずなのだから,自 の翻訳経験を理論構 築に役立つような形で残しておくのが良心的な寄与というものであろう。翻訳のように現実の産物が ある領域では,工学と同じように,理論と実践は互恵的関係に立つのがよい。 日本では,諸外国語から日本語への翻訳と,日本語から諸外国語への翻訳が行われているわけだが, 例えば,英和翻訳(E-J translation)と,和英翻訳(J-E translation)の間には大きな断絶があり,

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ほとんど 流は行われていない感がある。E-J の領域には相変わらず偶像崇拝的,ないしブランド志向 的な 囲気があるし,J-E では,逆に日本語テクストを見下したような優越意識が仄見える。どちらも 翻訳するには適正な態度とは言えまい。また E-J と J-E は相互に利するものを持っているのだから, 相互に関心を広げ,情報を 換し合うような意識がもう少し広がってもいいのではなかろうか。 日本においては,翻訳の不可能性についての言説が依然大きな力を持っている。優れた詩人であっ た萩原朔太郎ですら,「詩の翻訳について」で,詩の翻訳不可能を説き,それをさらに文学一般に敷 し,翻訳は「絶対に不可能」で,「結局,すべての外国文化の輸入は,国民自身の主観的な『 作』に 過ぎない」と結論づけている。 こうした主張は,現在の日本の一般社会においても,特に日本語か ら外国語への翻訳不可能性に対してはほとんど信仰に近い確信が存在し続けているようである。しか し上述したように,例えば『源氏物語』の《志向するもの》は,むしろ外国人によってこそ強烈に体 験されることを忘れないようにしなければなるまい。浮世絵や染付・色絵磁器が西洋に与えた impact を えてみればよかろう。 翻訳の困難は,別に今に始まった話ではなし,事改めて強調するには及ばないにもかかわらず,得 てして必要以上に否定的な,場合によっては 笑的な態度に陥りやすいもので,特に日本のように西 洋に劣等感を抱いている文化においては,自国文化の独自性を誇大に える恐れが多 にある。翻訳 をめぐるこうした心理には,ナショナリズムやエスノセントリズムのうんざりするような頑迷が巣 くっている。 日本語は,古代以降,和語テクストに漢文脈を取り入れ,近代以降,大量の翻訳語の 成,またカ タカナを利用しての原音での移入によって,今も営々と欧文脈を取り入れつつある。近代以前の日本 語は,抽象名詞を主語にすることはなかったが,今では普通に行われているなど,統語法自体も変化 してきており,その結果,西洋語から日本語への翻訳可能性は,明治期に比べれば格段に高まってい る。そうであるなら,いまだに翻訳に際して難渋する表現は無数にある そしてそれが 全なことで ある としても,翻訳の不可能性ばかりを芸もなく繰り返す替りに,われわれがどれだけのことを達 成してきたのか,現在どこまで近似的に翻訳できるようになってきているかを確かめてみることのほ うがずっと 設的な えに導かれるのではあるまいか。 * * * * * * 経済万能の世の中,華やかなマスコミとは無縁の,人文学や文化の地道な仕事はすっかり青年の人 気を失い,じじむさい寂れたイメージすら帯びてきているようである。しかし翻訳の作業の内部にひ とたび入り込むと,そこには昔と変わらない人文的な disciplineの潑溂とした楽しみが実感される。ま た語学についても,現在では 闊に学 文法の重要性でも説こうものなら四面楚歌の憂目に遭いかね ないが,翻訳における学 文法は,千軍万馬の力強い味方であり続けてくれている。教養は, 間, 地に落ちて久しく,現代では笑いものにすらされているが,翻訳をする中では,なけなしの教養的知

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