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徒然草の執筆年代について (II)

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徒然草の執筆年代について(Ⅱ)

宮  内  三二郎

A study on Tsurezuregusa (H) Sanjiro Miyauchi● ● (承   前●) 13. 156段(「大臣の大饗はさるべき所を申しうけて行ふ,常の事なり。 ---」)。 「大臣の大饗」については, 「御遊抄・任大臣」に,つぎのようなきわめて重要な記事がある。 自正中二年至建武元無大饗。建武三年改有内大臣大饗。無御遊。 ---つまり,正中2年(1325)から建武元年C34)まで?10年間は,大臣の大饗は行なわれなかっ たが,建武3年に内大臣の大饗が行なわれた,ただし御遊は行なわれなかった,というのである。 ○ (「統群書類従本」に「建武三年」とあるのは,文意からみても,またつぎに引く「統史愚抄」の記 ○ 事からみても, 「建武二年」の誤りであろう)。 他方, 「統史愚抄」の正中元年4月27日の条に, 今夜右大臣経忠行大饗,尊者内大臣実衝。 ・・-・-次内大臣実衛,借帯式部卿恒明親王第,行大 ● 饗,尊者右大臣経忠・・-・-という記事があり,その後建武元年まで,大饗の記事はみられず,建武2年2月16日の条に至 って, 内大臣経通行大饗。依世上不静罷遊云。 ● ● とあり,上記の「御遊抄」の記事を裏付けている。よって本段(152)は,前2項で建武のころの 執筆と推定した152-5段(特に152-4段は建武2年)の次に位置しているからには,これまた建 武2年(1335),ひさかたぶりに「大饗」が催されたに当って,先例を想い起して書き留めたもので ● ● ● ● ● ● あることには万々相違あるまい。この点について,安艮岡康作氏は, 「任大臣の大饗の一時中絶して ● ● ● ● ● ● ● ● いることについてJ兼好が古来の例を挙げて,故実を読者に示そうとした意図があったのかも知れ ない「(「徒然草全注釈下」 128ページ)と言われたが,兼好が「故実を読者に示そうとした意図」 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● を抱いた動機は, 「一時中絶していた」大饗が,珍らしくも行なわれた,ということにあったに相違 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ない。そして,その「故実」の一つは,上記「統史愚抄」にみえる「内大臣実衛,借請式部卿恒明 ● ● ● 親王第,行大饗」であったらしい。この「内大臣実衡」は,本段のすぐ前の152段の「西園寺内大 臣殿」である,という点も,私の推定を強く裏付けている。 14. 163段(「太衝」の太の字・・--・。もりちか入道申し侍りLは-・--」)0

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宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕 87 本段の記事について,まず指摘しておきたいのは, ● ● ● -・--陰陽のともがら,相論の事ありけり。もりちか入道申し侍りLは, 「---」と申し

喜。

とあって,助動詞「けり」と「き」が使い分けられていることである。徒然草における「き」と 「けり」の用法の通例からすれば,作者は「陰陽のともがら」の「相論」の場には居合わせておら ず,伝聞によってこれを記したのであり,他方, 「もりちか入道」の言葉は,直接本人の口から聞い たものと解される。おそらく兼好は「相論」の話を人伝てに聞き,それをたまたま「もりちか入 道」に伝えたところ, 「もりちか」が兼好に自分の所見を語ったのであろう。従ってまた, 「もりち か」も相論の場に同席してはいなかった,とみなければならない。私がこのことを取り立てて指摘 するのは, 「もりちか入道」が何者であるかを考証するには,彼がかならずLも「陰陽のともがら」 であったとは限らないということと,また作者兼好はこの「もりちか」と脈懇の間柄であったらし いということを,念頭に置く必要があると思うからである。 さて,従来「もりちか」については, 「公卿補任」にみえる「藤盛親」がこれに擬せられながら, 結局,確認がためらわれ, 「不明」, 「不詳」ということに終っているようである(川瀬一馬氏《講談 社文庫「徒然草」 120ペ)‖僅か一,二の学者は「盛親」説をとっておられる)。これはもっぱら, 「公 卿補任」の延元元年の盛親の条に, 「四月六日出家(依後伏見院御事也)」とあるためで,もし「も りちか入道」がこの盛親であるならば,本段の執筆は延元元年以後ということになり,かの橘氏の 成立年代説に抵触するからである。私は, 「もりちか」はこの盛親に相違ないと思う。 「公卿補任」の正慶2年C33)の記事によれば,盛親は「故入道従二位兼行卿三男」で,延慶2 年以来,刑部卿・左馬頭・内蔵頭・大蔵卿を歴任し,その間正和2年C13)正四位下に叙せられ, 正慶2年C33)正月5日には従三位非参議となったが,同年5月17日,詔命(後醍醐帝)によっ てこれを止められ,正四位下の本位に復せしめられた。しかし建武2年( '35)にはふたたび従三位 非参議の地位に返えり咲いたようである。翌3年(延元元年)には,前記のように,後伏見院の崩 御によって出家した。 父の兼行は, 「増鏡」にかなりしばしば登場する楊梅二位兼行で,同書「老のなみ」には, l 楊梅の二位兼行,ひわりごどもの,心ばせありて仕う奉れるに,雲雀といふ小鳥を荻の枝に つけたり。源氏の松風の巻を思-るにやありけむ。為兼朝臣を召して,本院後深草「かれはい かゞ見る」と仰せらるれば, 「いと心え侍らず」とぞ申しける。 ・---とある。彼は「新後撰集」に1首, 「玉葉集」に8首, 「風雅集」に8首,それぞれ入集している が, 「統千載」と「統後拾遺」にはみえない。この兼行も,嘉元2年( '04) 5月,後深学院の崩御 によって出家した。子の盛親は, 「風雅集」に6首入集しているが,父と同じく「統千載」 「銃後拾 遺」には見当らない。 以上によって,兼行,盛親父子ともに,持明院続にきわめて近く,歌人としては京極派に属して いたであろうことが知られる。 (盛親は,持明院続の花園院の「虚記」にも,文保元年5月24日の

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88      徒然草の執筆年代について(Ⅱ) 条に, 「盛親朝臣語日-・--」とある。当時彼は内蔵頭であった)0 つぎに,もりちか入道が見たという「御記」の所在場所である「近衛関白殿」紘,岡本関自家平 またはその子経忠の家か,経忠の従弟にあたる基嗣の家の二者が考えられる。 (家平については, 66段に, 岡本関白殿,盛りなる紅梅の枝に,鳥一双を添えて,この枝に付けて参らすべきよし---・。 花に鳥付けずとは,いかなる故にかありけん。長月ばかりに梅の作り枝に錐をつけて, 「--・ -」と言へる事,伊勢物語に鬼えたり。 ---とあって,前掲の「増鏡」の記事とすこぶる似通うところがあり,私はこれをも,私のく「増鏡作 者兼好)説の-傍証としたい。また「増鏡・秋のみ山」には,この家平の中年以後の男色耽溺がこ とこまかに記され,そこにはその子経忠の名も出ている。) 本段の記事内容当時の「近衛関白」は,この三人のうちのいずれかであると思われるが,正和2 年C13V 同4年C15)の間に関白であり,正中元年C24)に舞じた家平は,世代的に言って, おそらく当らないであろう。もっともその子経忠がそれであるとすれば, 「近衛関白殿」は,家平・ 経忠の近衛家と解すればよいわけである。 「公卿補任」, 「尊卑分脈」によれば,経忠は元徳2年 ( '30)正月26日,右大臣で関白となり(「超左大臣,希代也」 《「補任」か)同年8月これを罷め, 建武元年( 34) 2月には右大臣に選任,氏長者となり,同年10月これを辞したが,翌年11月には 左大臣にのぼった。しかるにその翌年(延元元年) 8月15日,光明帝の践所と同時にふたたび関白 となった(「依新帝詔為関白」)にもかかわらず,翌延元2年4月には出奔して南朝に参候した。こ れらによってみれば,経忠は明らかに大覚寺統方で,後醍醐帝に厚遇され,これに心を寄せてい た。 他方,基嗣はその点経忠と対照的である。彼は元弘元年( '3D以来,光厳朝の正慶元年( '32) 中も左大臣であったが,同2年5月17日後醍醐帝の詔命によってその職を停められ,以後散位のま まで復任せず,ようやく経忠の出奔の後を承けて延元2年('37) 4月16日,北朝の関白となり, 翌年5月19日上表するまでその地位にあった。つまり基嗣は,持明院統系であった。 そこで,持明院統系に近い盛親入道が,その家に出入して「御託」を見たという「近衛関白」 紘,経忠ではなく,基嗣を指すであろうし,盛親が「近衛関白殿にあり」と語ったのは,基嗣が現 に関白であった延元2年('37) 麿応元年C38)のころ(すなわち持明院続の後伏見法皇が崩じ て盛親が出家した後1年経ったころ)であったろう。 (「近衛関白殿」とあるからには,現職の関白 の家を指していると考えるべきである。基嗣の後は,関白は一条経通,九条道教,鷹司師平,二条 良基とつづき,近衛家からは出ていない。基嗣の辞任後であったならば, 「近衛前関白殿」かまたは 単に「近衛殿」と書いたであろう)。すると,この盛親の言葉を記した本段も,その時期に(すくな くともその時期以後に)執筆された,とみなければならない。 なお,作者は, 「もりちか入道申し侍りLは, 『・---』と申しき」と書き,敬語を用いていない が,これは,兼好が盛親と,おそらく同年輩の,友人で,親しく談笑する気のおけない間柄だった E= 4*

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宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕 89 ために,敬語を略したのではなかろうか(224段「陰陽師有宗入道-・--」等参照)。徒然草におい てほ,三位以上の公卿に対してほ敬語を用い,四位以下には用いないのが通例であるが(102段の 医師忠守や, 136段の医師篤成など参照),兼好は,盛親がまだ四位以下であった元弘2年C32)以 前からこれと親しかったところから,敬語抜きの表現をとったのでもあろうか。 15 (補1). 62段(「延政門院いときなくおはしましける時・-・-・」)。 本稿第1項で述べたように,橘純一氏は, 33段(「今の内裏作り出されて---・玄輝門院の御覧 じて--・-」)の執筆動機を,玄輝門院の舞去にあるとみて,この段の執筆年時を推測された。私も この可能性を認めたい。しかしこの執筆動機の推測の仕方は,この段に限らず,これに類似する徴 証を含む他の諸章段にも当然適用することができるはずであり,また適用すべきである。 33段に対する橘氏の推定は, 《三十段から三十一,三十二段-かけてか故人追憶といふことが一連の情緒として続いている ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● のを感ずるのである。ところが三十三段に至ると,文の表面では,単に玄輝門院の有職を讃嘆 ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●      ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●      ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● しただけの文で,決して門院に関する追懐とは解し得ないが,しかし門院の亮去が元徳元年 ● ● ● ● ● ● (---・)の八月三十日,御年八十四才であったことを息ひ合はせると,どうもその亮去の後あ まり程たたぬ頃の筆ではないかと息-て来るのである(前掲書23ペ-㌔)0 というものであって,要するに玄輝門院の尭去の年時が,氏の推定される徒然草の他の諸段の執 筆年時に近いところから,本段は同女院の尭去後の追憶談として記されたものであろう,と考えら れたのである。また橘氏は「遂段執筆」を前摸しておられるので,本段が第33段という本書のはじ ● ● めの部分に位置しているところから,全篇の執筆期間の上限をも,この時期の前後,と結論された ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● (「-・--徒然草は,元徳と改元された頃《一三二九年八月末---・)前後から筆をとりはじめ--・ -」 《30ページか)。 ところが, 62段(「延政門院--・-」)の問題になると,橘氏は, a 門院は後嵯峨帝の第二皇女悦子内親王。一三三二崩,七十四。兼好のこの段の執筆時は,御 ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● 在世中であったらう。 と注された(134ページ)。これは一体何を理由としての推測であろうか。理由はただ一つしか考え られない。すなわちそれは,延政門院の亮去時(1332年)が,橘氏自身の推測される徒然草全篇の ● ● 執筆期間の下限(1331年9月) - 「元弘の変勃発(一三三一年九月二十日・・・--)までの或る時 点に整理完結を見た」 -よりも後である,ということによるのであろう。 玄輝門院も延政門院も,ともに84才と74才という高令で世を去り,しかも記事内容からすれ ば 33段が,橘氏自身も言われたように(上掲引用文参照),格別追懐談とは思えないのに対して, 62段は延政門院その人の幼少時の可憐な歌を主題としている点で,はるかに追憶談としてふさわし いものであるにもかかわらず, 33段は亮去後の, 62段は在世中の,執筆とされたのは,首肯しにく いことのように思われる。よって私は,延政門院の幼少時の可憐な歌を記事内容とする62段の執筆

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90      徒然草の執筆年代について(Ⅱ) の動機は,延政門院その人になんらかの関係のある事がらが起ったことにあるだろう,と推測する 一方,これまで検討,推定してきた33-163段中の諸段の執筆動機や執筆年時を考え合わせ,本段 は,同女院舞去の元弘2年(1332) 2月10日以後間もなく執筆されたものであろう,と思う。 16 (補2). 114段(「今出川のおほい殿,嵯峨-おはしけるに, ---・寮王丸和牛を追ひたりけ れば---・。 ---この高名の寮王丸は,太秦殿の男料の御牛飼ぞかし・---」) 本段は, 1. 「今出川のおほい殿」, 2. 「寮王丸」, 3. 「太秦殿」, 4. 「---・の男料の御牛飼ぞか し」,の4点について,通説に疑問がある。 1).まず「今出川のおほい殿」は,太政大臣西園寺公相を指す,とするのが動かぬ定説となって いる。これは「駿牛絵詞」 (「群書類従」所収)の,公相の祖父公経が後嵯峨院に随身・牛飼を献じ た,という記事の中に「さい王丸」の名がみえ,また, 「寮王丸,冷泉大臣殿(公相)の御車を今出 ● ● 川殿のそう門の外より追ひて---」ともあるところからなされた推定であるが,私には大いに異 I 論がある。公相の邸宅はたしかに今出川殿であったけれども,彼は,上の引用文にもある通り, 「冷 泉」を号したようであり, 「尊卑分脈」にも「号冷泉相国」としか出ていない。また,もしこれが公 相を指しているとすれば,徒然草の作者は, 「おほい殿」 (-大臣)とは言わず, 「相国」と呼んだは ずである。 (徒然草では,太政大臣を極官とした人物は,たいてい「相国」 「太政大臣」と呼ばれた (計9例)。他に「(右)大臣」が4例あるが,そのうち3例はそれぞれ特殊な理由があってそう呼 ばれているもので例外にすぎない。また「おほい殿」は,ほかには「田鶴のおほい殿」が1例ある が,これは内大臣である。 「今出川」を号し,左右内大臣を極官とした人物は,公相の孫,右大臣公 ● 顕でなければならない。 「分脈」では,公顕は「今出河」と頭書され,さらに「号今出河」と傍記も されている。 2).もし「今出川のおほい殿」が公顕だとすれば, 「駿牛絵詞」の「寒王丸」との世代・年令の 関係が,隔たりすぎているように思えるかもしれない。しかし同書(この書は,記事中の諸徴証に よって,後堀河院の第一皇女室町院時子の尭去の年,正安2年((1300))より7, 8年あるいはそれ以 上の年数を経たころの著作である。その点,旧版「群書類従」本の解轡こ, 「文永を去る遠からざる 時代」,とあるのは当を得ていない)の記事によって知られるように,当時の牛飼は 3,4才のこ ろから訓練を受け,高年に至るまでその職務についている。現に公顕の兄で,徒然草83段(先逮第 3項参照)に「竹林院入道左大臣殿」として出てくる公衡の日記「公衡公記」にみえる,正応2年 ● ● ● (1289)正月23日,亀山院の御牛飼として,特に召出されて荒れ牛を取り鎮めた弥王丸は,後嵯峨 院の時代に寮王丸とならび称せられた3人の牛飼のうちの1人である(「後嵯峨院御代ほどに,名を えたる御牛飼,かたをならべてめしっかはれたる事はべらず。孫太郎,たか法師,さい王九・---● えたる御牛飼,かたをならべてめしっかはれたる事はべらず。孫太郎,たか法師,さい王九・---● えたる御牛飼,かたをならべてめしっかはれたる事はべらず。孫太郎,たか法師,さい王九・---● 弥王丸----。これ四人の輩は,いまのちかき世の上手どもにて侍しか」灯駿牛絵詞」か, 「---此 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 間御牛有挿文之気,偽院御牛飼弥王丸,依帥脚下知参上取鼻下,尚長取縄又-拝,引出中門外退出 了。 ---」 ((r公衡公記」)))。すなわち弥王丸は,実に半世紀以上もの間,牛童をつとめていたので A. く▲

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宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕  91 ある。奉王丸は弥王丸よりも早く世を去ったけれども(「弥王は,さい王,たか王などもまかりしの ちほ, -のものにて---・・」),上記の正応2年(1289)のころまでは,弥王丸と同じく,彼も健在 であった可能性が十分あるのである。 3). 「太秦殿」は, 「大案内府」を号した内大臣信清をこれに擬する説もあるが,信清は建保4年 (1216)に亮じており,奉王丸と時代が合わないので,結局誰をさすか不明,とされている。しか し私は,これを突きとめることができたように思う。 今,上に引いた「公衡公記」の弘安6年(1283) 8月13日の条に,つぎのような記事がある。 (な お,この記事の一部は, 「統史愚抄)にも引かれている)0

十三日,甲午,今日今出河院有御出家事苧竺要望慧讐聖..露遠怠禦当琴碑幣

この「今出河院」とは,西園寺公相の女,亀山院后嬉子であり, 「大秦禅尼」とは,公相の室教子 (太政大臣徳大寺実基女)で,嬉子にとっては養母に当る。また公衡・公顕の兄弟にとってほ祖母 に当る。 (今出河院嬉子は同兄弟の叔母である)。かの「太秦殿」は,おそらくは公相の別業で,公 相の死(文永4, 1267)後,尼となった教子が住んでいたところから,教子を「大秦禅尼」と呼んA だのであろう。 「駿牛絵詞」によると,公相が牛を好んで飼っていたことは明らかである(「冷泉の大臣殿,院-進ぜられたりしあしくまと申しふしぎの駿牛も----」)。また同書には, 「室町院,女官にてわたら せおはしまししかども,牛の善悪をもしらせおはしまして,御このみ他事なかりしかは--・-」と か, 「蒋彩色。河内牛。女院《誰を指すか不明かちかごろたぐひなく御秘蔵あり」とかいうような記 事もあって,当時女性で牛を好む人のあったことが知られるので,公相とともに教子もその一人で あったかもしれない。徒然草に, この太秦殿に侍りける女房の名ども,一人は,ひさ1ち,一人は,ことつち,一人は,ほふ ほら,一人は,おとうし,とつけられけり とあって,女房たちに,牛に関係ある奇名をつけた,というのも,公相か教子の好みによるもので あったろう。 4). 「太秦殿」のあるじが,このように公相の死後は女性(太秦禅尼)であったとすれば, (徒然 草の記事内容の当時は,禅尼はすでに他界していたであろうが-文永9, 1272孜-,この禅尼 の13年忌を期して出家した上記の今出河院嬉子も,出家後「太秦殿」に住んだかもしれない), 「こ の高名の寮王丸は,太秦殿の男料の御牛飼ぞかし」,という一旬の解釈もつくのではなかろうか。従 栄, 「男料の--」の読み方と解釈には諸説があり,最近は諸家一致して, 「・-・-・の男,料の御牛 飼ぞかし」と,切って読んでいる。だがこの読み方では, 「男」と「料」の解釈にどうしてもしっく ● ● ● ● ● ● りしないところがある。これはやはり「男料の御牛飼」とつづけて読むべきであって,女性をある じとする邸であったからこそ,男子用の牛(車)の牛飼と,婦人用のそれを区別して, 「男料の・---」と書いたのではなかろうか。 さて,以上の諸事項をふまえて, 114段の記事を考え直してみよう。

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92 徒然草の執筆年代について(Ⅱ) 「尊卑分脈」・ 「公卿補任」によると,公顕は正応元年(1288),侍従,ついで左少将・中官権亮と してはじめて宮中に出仕した(時に15才)。当時,西園寺家の当主は,公顕の父実兼(大納言右大 将)であったが,特に兄公衡(同年権大納言にのぼる, 25才)は,公顕の,宮中での作法等をつき きりで後見,指導していたようで, 「公衡公記」正応2年C89)正月の記事には, 一日---・。 ----家雅朝臣・公顕等可立拝礼云々,偽予教訓作法於公顕了・---● ----家雅朝臣・公顕等可立拝礼云々,偽予教訓作法於公顕了・---● ----家雅朝臣・公顕等可立拝礼云々,偽予教訓作法於公顕了・---● 二日---。 ・-・-・予・公顕等依召参内御方台盤方---● ・-・-・予・公顕等依召参内御方台盤方---● ・-・-・予・公顕等依召参内御方台盤方---● 三日---。 ・--・・予・公顕等参台盤所・-・-・ 十八日---。蓮花王院修正御幸也。大将殿-・--左中将為雄朝臣・中宮権亮等屈従, ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● 予密々連出車見物, ・---などとある。そして特に注目されるのは,同番の同年2月13日と16日の記事である。 十三日,今日祈年穀奉幣,右大将殿令奉行給,未一点令参内給,前駆四人,随身五人 玉座重窮子,依所労不参' ●   ●   ●

殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-● 殿上人畜霜雪謡草野軍学云々-・・・-●

十六日,不出仕,大将殿令参西郊給, ---・網代御車,車副二人遣之,前駆:::::::::在御車

前,随身三人:: :::::等在御共,尭素養右前姦鮎悪二条院,次令参亀山殿給,次御退出,今

●  ●  ●  ●  ●  ●  ● ● ● 夜令宿嵯峨実千法印宿所給云々 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● すなわち, 2月13日には実兼の参内に,公顕が車を連ねて屈従しているが, (なお,随身の一人に 「重窮子」とあって,同書の他の個所にもこの名がみえるが,これは徒然草145段の「御随身秦重 窮」の子である),その3日後の16日には,亀山殿における後嵯峨院御忌西郊御八講結願(17日) に列席のため,実兼が後深草院と同妃東二条院の御座所である有楢川殿と,次いで亀山殿に参入し (亀山殿は嵯峨の,現在の天魔寺の地にあった),退出後,嵯峨の「実千法印宿所」に一泊した。こ の日の記事中には見えないけれども,上掲の13日の記事や, 1月18日の記事から推せば,この日 も公顕は, 「車を連ねて」実兼に「亀従」したであろうと思われる。もしそうだとすれぼ 公顕を含 めた実兼の一行の,この日の目的地や道順(まず有栖川殿に参入し,次いで亀山殿-廻るという) は,徒然草114段の, 「今出川のおほい殿」のそれ, 今出川のおほい殿,嵯峨-おはしけるに,有楢川のわたりに水の流れたるところにて---とまったく合致する。本段に記されたエピソードは,この日の実兼・公顕の遠出の途次において起 った出来事だったのではなかろうか。当時,皇居は富小路内裏であり,後深草・亀山・後宇多院の 仙洞はそれぞれ常磐井殿・禅林寺殿・二条殿等であって,亀山殿は仮皇居や仙洞であったことがな く,また有栖川殿もかの御八講のための臨時の院の御座所であったにすぎないのであるから,実兼 らがわざわざ嵯峨・有楢川-出向くという機会は,この時を除いてほめったになかっただろうと思 われる。 なお,前述の「公衡公記」正応2年正月1日の記事に,

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宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕  93 ●  ● 大将殿御出挙, ・・--・屈従殿上人四人権亮公鼠 侍二人・童一人・随身二人,侍等在殿上人草後 ●  ●  ●     ●  ●  ●       ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● とあり,これも公顕が父為兼の他出に皐で屈従した例であるが,公顕の従者中の「童一人」は ● ● ● ● ● ● ● ● ● 「牛童」で算王丸であったかもしれないし,車の後についていた「侍二人」のうちの一人は, ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ---・為則,御車のしりに候ひけるが---・ ● ● の為則であったかもしれないO また,寮王丸について付言するならば, 「公衡公記」の弘安6年(1283) 7月5日の条に,為兼が 後宇多院に牛一頭を進上し, 「御牛飼六王丸」がこれを引いた,という記事があり, 「絵詞」によれ は この六王丸は秦王丸の子である。してみると,このころ寮王丸はすでに院の御牛飼を子の六王 丸に譲って引退し,もとの出である西園寺家の別邸太秦殿で「男料の御牛飼」として仕えていたの であろう。 いずれにしても, 「今出川のおほい殿」は,冷泉相国公相ではなく,今出川右大臣公顕であり,当時 中官権亮であった16才の公顕は,まだ「太秦殿」に住んでいたのであろう(諾否閥糟・AJ等滑0 ---おほい殿,御気色悪くなりて, 「己,革やらん事,寮王丸にまきりてえ知らじ。希有の 男なり」とて,御車に頭を打ち当てられにけり。 Msm という粗暴なふるまいは,いかにも15, 6才の矯憤な公達の仕出かしそうなことである。 ところで,この114段の執筆時期は何時であろうか。それを推測させる直接の材料は見当らな い。ただ, 70段の「菊亭大臣」すなわち兼李と,先述の83段の「竹林院入道左大臣殿」すなわち 公衛は,ともに公顕の兄であり, 118段(第8項参照)の「北山入道殿」は父,為兼であり, 「中 宮」は妹,藤子であること,従って, 114段の執筆の時期も,これら諸段のそれをあまり遠ざかる ものではなかろうと想像される,ということだけを言っておきたい。 17 (補3). 48段(「光親卿--・-」), 144段(「栂尾の上人・---」), 146段(「明雲座主---」), 141段(「悲田院亮蓮上人は---・」), 142段(「心なしと見ゆる者も---」)。 先述のように,私は62段(「延政門院--・-」)を元弘2年に, 70段(「元応の清暑堂の御遊に-・ --」)を同年末ごろに,それぞれ執筆されたものと推定した。また152, 3, 4段の執筆動機を,冒 野資朝または西園寺公宗の刑死という事件に求めたO さらにその他の諸段の執筆時期を,すべて元 弘∼建武・延元のころと推定した。これらの推定を基礎として,なお証例を物色してみると,上記 の5ケ段が浮かび上ってくる。 まず48段は,徒然草の題材や主題の分類の上からは,有職故実関係記事,または宮廷人逸話とで もいうべきものに属しており,この種のものとしてほ, 33段(「今の内裏---・玄輝門院---・」) と, 61段(「御慶の時館落すことは--・-」)や62段(「延政門院---」)とのちょうど中間に, 単独で位置していて,前後(47段《「或人,清水----」)と49段《「老来りて---・」か)との,題 材・内容上の脈絡はまったく無く,配列上唐突な感じのする章段であるが,兼好が,このはるか苦 め後鳥羽院時代の光親の逸話を書きつけた動機は何であったろうか。

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94      徒然草の執筆年代について(Ⅱ) 権中納言光親は,後鳥羽院の側近第一の寵臣であったが,院の討幕計画をしばしば諌止して容れ られず,討伐の詔を起草した。承久の乱の平定,後鳥羽院の隠岐遷幸の後,捕えられ,駿河国で斬 られた(「吾妻鏡」など)。この彼の事蹟とその死は,かの正中の変当時の後醍醐帝の腹心で,元弘 の乱が収まり,後醍醐帝が隠岐に流された後,配流地の佐渡で斬られた権中納言日野資朝のそれ に,あまりにもよく似ている。資朝に限らず,元弘2年の夏のころには,後醍醐帝に従った洞院大 納言公敏,花山院大納言諸賢ら多数の公卿が流罪に処せられたが,中でも権中納言源具行は,佐々 木道管の手によって近江国で斬首されている(「増鏡」, 「太平記」)。この時の公卿の断罪は,啓久の 乱の断罪を先例として,これに倣ったものであるらしいと言われている(「綜合日本史大系・南北 朝」 《魚澄惣五郎か, 88ページ)。 よって私は, 48│剣も 元弘2年(1332)夏,秋のころ,前年来の動乱とその結末を目のあたりに し,上記の公卿たちの処断を聞き知った作者が,かつての承久の乱と光親の上に想を馳せ,その感 慨を,本稿でしばしば指摘したような彼一流の仕方で書き記したもの,と考えたい。 つぎに144段は, 「高僧逸話(説話)」ともいうべき部類に属する章段で,これも主題・内容の上か らほ前後の段と関係がなく,ただ「馬」のことを記しているという点で(「馬洗ふをのこ」, 「如何な る人の御馬ぞ」),つぎの145段(「落馬の相ある人なり」, 「信願馬より落ちて死ににけり」)とつな がっており,この2段は,連想の浮ぶままに筆をつづけて書き綴られたものかとも思われるが,そ れにしても,これまたはるか昔の,前記48段の光親と同じ時代の「栂尾の上人」明慧の小エピソー ドをとりあげたのは,いかなる動機によるであろうか。 「明慧上人伝記」によれば,承久の乱の幕府軍が京都に侵入した時,栂尾の高山寺に上皇方の敗 残兵がかくまわれているとの噂で,秋田城介景盛が捜索に赴き,明慧を捕えて北条零時のもとに引 き立てたが,泰時は明慧の人柄に打たれて陳謝した,という事件があった(「日本の合戦・南北朝の 争乱」による)。そこで私は,この144段も,前記48段と全く同一の理由で,元弘2年の夏,秋の ころに執筆されたものではないか,と推測する。 なお,上記の秋田城介景盛は, 184段の,北条時頼の母, 「松下禅尼」と,その兄「城介義景」の 父であり,つぎの185段の「城陸奥守泰盛」の祖父に当る。してみると兼好は,この景盛のこと, 従ってまた上記の明慧上人の事件のことも,伝え知っていたに相違ない。彼が144段の明慧上人の 逸話を書きつけた時,おそらくかの事件は彼の念頭にあったであろう,と私は思う。 この144段の2段あとに位置する146段(「明雲座主---」)については,前にもすこし触れた が(第11項),天台座主の明雲大僧正が, 「兵枚の難」の相があると相者に言われ,のち, 「はたし て欠に当りて失せ」た,という記事である。この明雲は,後白河院の時代の治承元年(1171),西光 法師父子の詮によって罪を得,伊豆国に配流されかけたことがあり,のち,寿永2年('83),木曽 義仲の叛逆の際,法住専合戦の流れ欠に当って不慮の死を遂げた(「平家物語巻2, 8」, 「尊卑分脈」)0 兼好はこの一部始終を知悉していたはずである。 150年もの昔の話を記す本殿も,上記の48, 144段の場合と全く同様に,前天台座主護良親王が, *

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宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕  95 建武元年(1334) 10月,尊氏の詮によって捕えられて(輩下の浄俊律師らほ斬首)鎌倉-流され, 翌年7月に直義によって殺された,その事件のあったころに執筆されたものと推測される。 48段の「光親卿」, 144段の「栂尾の上人」, 146段の「明雲座主」, 152, 3, 4段の「資朝卿」, 153段 の「為兼大納言入道」,これらはいずれも,史上の政治的な大事件に連坐し,または招きこまれて, 流罪,死罪に処せられたりした公卿や高僧たちである。 (ついでに言うならば144段と同じく「高 僧逸話」を記す39段の主人公, 「法然上人」も,建永2年(1207)に土佐国に配流された経歴の持 ち主である)。 公卿や高僧の言動をむしろ淡々と描出する挿話的なこれらの諸段の主人公が,いずれも似通った 血怪い争乱の時代に生き,またみずからも暗い,悲惨な運命を辿り,経験した人たちであった,と いうことは,単なる偶然とは思えない。それは,表面的にはあくまでも-遁世隠者の閑静な生活と 最知たる思索から生まれ出たようにみえる徒然草という随筆作品の文字通りの「裏面」をうかがわ ● ● ● せるものであるとともに,これら諸段の執筆の,直接の外面的動機(作者の心に,それぞれの章段 の執筆を思い立たせた作者身辺の,また世上の,出来事や状勢)の類似,したがってまた執筆時期 の近援,を思わせる。 「従来の徒然草研究家評論家が解釈に苦しんだ疑問」,すなわち「徒然草に は,元弘の変から建武の中興を経て延元に至る歴史的大変革の影響が見られない」 (橘純一氏・前掲 書32ページ)ということは,徒然草の記事の表面上のことにすぎない。あるいは見当ちがいかも知 れないが,私はここに,自分の駄弁に代えて,小林秀雄氏の有名な言葉, 「徒然なる心が,どんなに 沢山なことを感じ どんなに沢山なことを言はずに我慢したか」,を引用しておく。私の信ずるとこ ろによれは 徒然草は,その大半の章段が,まさに「元弘の変から建武の中興を経て延元に至る歴 史的大変革」の時代に,書かれた。兼好は, 「沢山なことを言わずに我慢した」のである。 最後に, 141段は,もと「双なき武者」で, 「声うちゆがみ,あらあらしくて聖教の細かなる理, いとも弁-ずもや」と思われていた悲田院尭連上人について,また142段は, 「心なしと見ゆる」 「ある荒夷のおそろしげなる」者について,従前の認識を改めたことを告白している段であるが, これらを,単に題材の点から兼好の関東での生活ということに結びつけて考えるだけで終らずに, この作者の人を見る見方の変化をもたらしたものは何であったのか,またそれはいかなる時期にお いてであったのか,を考えてみる必要があるのではなかろうか。 俗姓を「三浦の某」といった「双なき武者」が出家,修行して京の「悲田院」を「住持」するよ うになった時期,また「恐ろしげなる」 「荒夷」の座談を,京(の周辺)に住む作者が直接耳にする ようになった時期,そして作者がこれらの関東武者の言動に接して,これまで抱いていた蔑視的な 「関東武士」観をかなり改めた時期というのは,やはり,関東武者が京の市民社会に大量には入り こんできたであろう元弘の変以後の時期であったろう,と私は想像する(その点,第8項で119段 《「鎌倉の海に鰹といふ魚は---」)について述べたところと全く同様である)。そして,関東武家 (過去の人物たちではあるが)に対する礼讃や敬仰の気配すら感ぜられる184 (「相模守時頼の母は ---」), 185 (「城陸奥守泰盛は---」), 215 (「平宣時朝臣'老ののち,昔語りに----」), 216

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96      徒然草の執筆年代について(Ⅱ) (「最明寺入道----」)の諸段が書かれた時期は,それよりもすこし後であるような気がする。 逆に,上記の時期以前に兼好が持っていたらしい関東武士や田舎者(都人に対しての)に対する 軽侮・嫌悪の念は,上記142段の「心なしと見ゆる」 「荒夷の恐ろしげなる」や, 80腰の「夷は弓引 く術知らず---・」, 79段の「片田舎よりさし出でたる人こそ---・」, 137段(「片田舎の人こそ---」, 165段の「あづまの人の都の人に交り,都の人の吾妻に行きて身を立で---」などの片言 隻句をみると,後々まで痕跡を残しているようであり,また,そこからすれば 兼好の関東での生 ● ● 活経験(特に武家社会におけるそれ)は,たとえ事実それが有ったとしても,彼の閲歴中,あまり 長い期間に亘るものではなく,一時的な滞在程度のものだったのでないか,と判断される。 18 (補4,再). 33段(「今の内裏作り出されて・---」)0 本殿については,すでに第1, 15項で,建武3年1月,二条富小路内裏が焼亡する以前の執筆で あることを指摘し,また,これを元徳元年8月,玄輝門院の舞表の折りの追憶談であろうとする橘 氏説について触れたが,新たな所見を得たので再論する。 すでに第15項で述べたように,たしかに作者は本段で「開院殿の櫛形の穴」についての玄輝門院 のすぐれた記憶力をたたえているけれども,そのことからただちに,本殿の執筆動機が同女院の亮 去にある,とすることにはかなり推理の飛躍がある(詳細は第15項参照)。仮りにこの記事が追憶 ● ● ● 談的性格のものであるとしても,その執筆時を女院の舞去時元徳元年と限定せねはならぬ必然性は ないであろう。たとえば尭表の1, 2年後に,他のなんらかの動機によってこの記事が書かれた, ということも十分あり得るわけである。 (その点, 60段の場合は,もっぱら延政門院その人の幼時 の歌が,この段の主題となっているのであるから,同女院の尭去時の追憶談である可能性がはるか に大きい)。 そこで私はむしろ,本段の執筆動機を, 「今の内裏作り出されて---すでに遷幸の日も近くなり けるに---」,という前半部の記事の中に探って,それは二条富小路内裏の修理が行なわれたこと にあったのではないか,と推測する。 (この記事中の「遷幸」とは,文保元年     月19日, 二条皇居(押小路北,富小路西)から新造内裏二条富小路殿J(二条北,富小路東)への花園天皇の 遷幸をさす)。 二条富小路内裏は,元弘元年(1331) 8月の事変勃発頭初の,後醍醐天皇の叡山遷幸の直後に,六 波羅の軍勢に乱入されてかなり荒され(「増鏡・むら時雨」),その後,帝が六波羅に幽閉されたころ には,妖怪の棲みつくほど荒れはてていた(「---・内には,いつしか,けしかるものなどすみつき て-・--。 ---僅かに一月二月の中に,かかるべきにはあらぬを,これかれ,いとあやしきわざ なるべし」 ((同上))。 -これはもちろん誇張されてはいるだろう)。 当時,春宮量仁親王も持明院殿から六波羅に移り,同年9月,土御門殿において践醇(光厳天皇) し,しばらくここが仮皇居となったが(「---・九月廿日六波羅より土御門殿-すぐにならせ給,此 御所まづ内裏になるぺければなり」 ((r竹むきか記」 10月13日,元の内裏-行幸あり,以後引き tl *

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lt n w. 宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕  97 つづきここが皇居とされた(「---・同じ(十月か十三日,内裏に行幸なり」 《「竹むきか記」か, 「も との内裏-新帝うつらせ給ふ」 ((r増鏡・むら時雨」))。なお,水川善夫氏「竹むきが記全釈」の「参 考」によれば, 「光明寺残篇」にも, 「元弘元年十月十三日,春宮白土御門殿行幸内裏」,とある由で ある。第1項で述べたように, 「統史愚抄」の編著者は,これらの諸史料を見落している)。 思うに,光厳帝の践詐後,しばらくの間(9月20日から10月12日までの約20日間)土御門殿 が仮皇居とされたのは,動乱に荒廃した内裏の復旧改装の成るのを待つためでもあったろう。そし て,この修理改装のことは,事実,行なわれたに相違ない。というのは, 「竹むきか記」の前記10月 13日の記事は,清涼殿内の諸調度のしっらえを写すことすこぶる詳密で,新装成った内裏-ふたた び立ち戻って勤仕することができるようになった宮廷女官(当時作者名子は「典侍」であった)の よろこびを,ありありと伝えているからである(引用は省略せざるを得ないいが,たとえば, 「玄 上《例の70段の克琶の名器)は朝駒の御厨子に匿かるべきを,この頃の世には心苦しかるべLと て,夜の御殿に御二階を立てて置かる」,などという記事もみえる)。 そこで私は,兼好が第33段(「今の内裏作り出されで---すでに遷幸の日近くなりけるに---」)の記事を書きとめたのは,仮皇居の土御門殿から,改装の成った二条富小路内裏-の光厳新帝 の遷幸をみた元弘元年(1331) 10月13日(玄輝門院の亮去後2年,文保の花園帝の遷幸後14年) 以後間もない時期においてではなかったかと思う。 (追記。 「花園院虚記」によれば,上述の二条富小路内裏の改装は,事実行なわれた。そして元 弘元年10月13日の光厳天皇の遷幸に先き立つ同月8日と12日の両日,後伏見,花園南上皇はこの改 装整備の状況を視察検分し,種々の指示を与えて不備の点を改めさせている。つまり33段に記さ れた文保元年の時《この時新造内裏を下検分したのは後伏見上皇と玄輝門院であった)とほとんど 全く同様のことが,この時も行なわれたわけである。この点の詳細は, 「中世文学」第18号所載 「徒然草諸段執筆年時考証」に記した。) 以上, 18項に亘って考察した31-175段中の諸段とその推定執筆年時を, -表にまとめると,つ ぎの通りである(第5項101段,第16項114段 および傍証的に挙げた諸段とその執筆年時は,し ばらく.保留してここには省いた)0 1) 33段 元弘元年(1331) 10月ごろ。 2) 48段 元弘2年C32)夏,秋ごろ。 3) 62段 元弘2年('32)。 (2月以後)。 4) 70段 元弘2年('32) ll, 12月ごろ。 5) 83段 元弘3年('33)。 (5月以後)。 6) 86腰 建武元年C34) 1,2月ごろ。 7) 102段 建武2年('35) 2月以後,康永2年('43) 4月までの間。 8) 103段 延元元年('36) 8,9月ごろ。

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98      徒然草の執筆年代について(Ⅱ) 9) 118段 元弘3年('33) 10) 128段 元弘元年('31 ll) 136段 延元元年('36)。 12) 137段 延元元年('36) 13) 144段 元弘2年('32) 14) 146段 建武2年('35) 152段 建武2年C35) 6月以後, 10月までの間。 9月以後,元弘3年('33) 5月までの間。 (4月以後)。 ごろ。 8,9月ごろ。 8,9月ごろ。 8, 9月ごろ。 《153, 154段も同じか。 16) 156段 建武2年C35)。 (2月以後)。 17) 163段 延元2年C37)以後,麿応元年C38)までの間。 この表によって,つぎのことが知られる。 1. 33段から163掛こいたる計17個の証例は,いずれも元弘元年(1331)から暦応元年 C38)までの8年間(すなわち大略,元弘・建武・延元年間)の間のどこかの時点で執 筆された章段である。 これによってみれば,これらの章段を含む第31段から第164, 5段あたりまでの約130 個段は,すべてこの8年間に執筆されたものであると推定される。 2. 17個の証例は,ほとんど執筆年時順の配列になっているが, (9), (10)と(13)-(16) の計6個段は,年時が前後している。 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● これは,徒然草の章段配列が,原則的には執筆年時順であって,一部,なんらかの理 由で入れ替えが行なわれたことを示している,と思われる。 なお,徒然草の諸伝本中, 「常緑本」系統の諸本は,流布本系統を含めた他の諸系統 と,章段の配列を異にしており,その配列の異同は,流布本の章段番号で言って,第34 -54段の20ケ段における, 1ケ段乃至2, 3ケ段ずつの小規模の移動と,第107-205段 の約100ケ段における, 8ケ段乃至50ケ段の比較的大きな章段群のひとまとまりの移動 とに大別されるが,上記の,年時の前後する6個例は,この後者に属しており,両系統 本の配列の相違は,徒然草の編集時における,配列の修正や推敵の跡を示しているので はなかろうか。 (常緑本の章段配列の問題は,別稿で考察する)。 3. 130個の章段の執筆期間が, 8ヶ年もの長期に亘っているということ(徒然草は1, 2 年内外の短期間に執筆されたものではないということ)は,徒然草が,はじめからまと まった一書の著述を意図して,想の浮ぶままにつぎつぎに執筆されて成ったものではな く,作者が,或る時期(おそらく貞和5年)に,或る目的(おそらく特定の貴人-栄 光天皇((貞和4年践醇, 15才))か--の進上本として((小松操氏の表現を借用すると, 「帝王学の書」としての))のもとに,それまで長年月の間に,折々に1,2段ずつ,いわ ば日記風に,書き留め,書き溜めてきた草稿を取捨選択して抄出し,これをほぼ執筆年 (蝣

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4* 宮  内  三二郎      〔研究紀要 第24巻〕  99 時順に配列しながらも,読者(特定の)の興味をつなぐための配慮などによって多少変 ● ● ● 更したりして成立した編集本であることを思わせる。 (これらについては,稿を改めて詳論したいと思うが,ここには私がきわめて重視し たい小松氏のつぎのような言葉- 「中世古典の成立事情のおおくは貴命に基き道々の 名誉の人々から天子視門,武将等に進められ,やがて簾中に写し広められる」 《「国文学」 昭和47年7月号所載, 「兼好の生,徒然草前後」))-を付記するにとどめる)。 4.本稿の執筆年時の推定は,大部分,各章段の記事の,直接の執筆動機を,その記事の 表面には出ていないが,記事の背後に隠されていると思われる事実に求める,という, 見ようによっては甚だ危険な方法によった。 しかし,一般的にも言えることであるが,徒然草という一つの文学作品は,他人-殊に同時代人-に読まれることを予想して書かれたであろうから,作者は,人に知ら れたくないような事柄(たとえば記事中の人物と作者自身との実際の関係のような) を,人が記事の内容から察知するおそれがある場合には,事実を直写することを避け て,それを娩曲に穐化したり,隠蔽したりしたであろうと思われる。 本稿では敢えて取り上げなかったが, 31段(「雪のおもしろう降りたりし朝, ・・--・・ 今は亡き人なれば----」), 32段(「九月廿日の比,ある人にさそほれたてまつりて---。その人はどなく失せにけりと聞き侍りし」), 43段(「春の暮れつかた・---。い かなる人なりけん。尋ね聞かまほし」), 44段(「あやしの竹の編戸のうちより,いと若 き男の・---。しかじかの官のおはします比にて---・」), 104段(「荒れたる宿の,A 目なきに,女の博る事ある比にて--・-戎人とぶらひ給はんとて---」), 105段(「北 の屋蔭に消え残りたる雪の・・-・-,なみなみはにあらずと見ゆる男,女となげLに尻か けて・---」),の6個段は,いずれも一見,空想的な創作のようにも思えるけれども, その実,作者の現実の経験を素材としていることは,南北朝期の女流日記文学作品であ る「竹むきか記」の記事との対照によって明らかであり, 「騰化」の最も著しい例であ る。兼好は,元弘以後(あるいはそれ以前からも),西園寺公宗およびその室名子(「竹 むきか記」作者)と或る深い因縁につながれていたと思われ,また彼には,そのことを 世人に対して秘匿すべき或る特別の理由があった,と推測される。これらの点に関して は,拙著「兼好と名子一徒然草と竹むきか記-」で詳論した。 追記。本稿の摘筆後,さらにつぎの諸点を推定することができた。 1) 66段(「岡本関白殿・盛りなる紅梅の枝・下毛野武勝」)は,元弘2年正月ごろの執筆。 2) 86段(「維継中納言・文保に三井寺焼かれし時・いみじき秀句」)は,建武3年1, 2月のこ ろ執筆。 《本稿(Ⅰ)の第4項をこのように訂正か。 3) 94段(「常盤井の相国・勅書・北面・下馬」)は元弘2年2月ごろの執筆。 詳細は,前記「徒然草諸段執筆年時考証」を参照していただきたい。

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