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『教行信証』における引用文について 古写経本による再検討

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はじめに   親 鸞 (一 一 七 三 ~ 一 二 六 二) の 主 著『顕 浄 土 真 実 教 行 証 文 類』 (通 称『教 行 信 証』 ) は、 「文 類」 と い う 題 が 示 す よ う に、 大部分が引用によって成り立っている。そのため、読解に ついては、親鸞自身の言葉だけではなく、どのような文献 を引用しているのか、またそれをどのように配置し、ある いは訓読を施しているのかを検討することが非常に重要な 作業となる。   しかし、その親鸞の引用文が通常知られている文章と異 なる場合がしばしば存在することが、従来問題とされてき た。 親 鸞 の 曽 孫 の 覚 如 (一 二 七 〇 ~ 一 三 五 一) の『口 伝 鈔』 (一 三 四 四) に は、 善 導 (六 一 三 ~ 六 八 一) 『往 生 礼 讃』 に つ い て「 「彼 仏 今 現 在 成 仏」 等。 こ の 御 釈 に 世 流 布 の 本 に は 「在世」とあり。しかるに黒谷・本願寺両師ともに、この 「世」 の 字 を 略 し て、 ひ か れ た り。 」 と 記 さ れ る。 あ る い は、 そ の 子 の 存 覚 (一 二 九 〇 ~ 一 三 七 三) に よ る『教 行 信 ( )1

《研究論文》

『教行信証』における引用文について



──古写経本による再検討──

真宗大谷派教学研究所助手 

 

  

     

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証』 の 注 釈 書『六 要 鈔』 (一 三 六 〇) に は、 法 琳 (五 七 二 ~ 六 四 〇) 『弁 正 論』 の 引 用 に つ い て、 「此 中 唐 本 文 字 相 違 又 多 (こ の 中 に 唐 本 の 文 字、 相 違 ま た 多 し) 」 と 指 摘 さ れ る。 二 つの例だけを挙げたが、これ以外にも多くの点で同様の指 摘がされており、覚如・存覚の時代から『教行信証』での 引用文の問題は意識されてきた。しかし、十分な探究には なっていないのが実情である。   その理由は、まず『教行信証』の本文が確定できていな か っ た こ と が あ る。 『教 行 信 証』 は 自 筆 本 (坂 東 本、 真 宗 大 谷 派 所 蔵) が 現 存 す る が、 中 世・ 近 世 を 通 じ て そ れ を 参 照 することはほとんどできず、また当時の写本・版本には相 違箇所も多かった。二つ目には、仏教典籍叢書というべき 大 蔵 経 は そ の 版 に よ っ て 本 文 の 異 な り が あ り、 さ ら に 古 代・中世に遡る古写経などを含めて、それらを網羅的に比 較研究する環境が整っていなかったことがある。現在広く 利用され、高麗版を底本とし宋本・元本・明本、そして宮 内 庁 本 (宮 本) や 聖 語 蔵 な ど と の 対 校 も 記 さ れ る『大 正 新 脩 大 蔵 経』 (以 下『大 正 蔵』 、 大 蔵 出 版) の 刊 行 は 大 正 十 三 (一 九 二 四) 年 か ら 昭 和 九 (一 九 三 四) 年 に か け て で あ り、 近 世 期 に は そ の よ う な 研 究 は 困 難 で あ っ た。 し か も こ の 『大正蔵』も、その編集には多くの問題があり、完全とは 言いがたいものであ る。   こ れ ま で は、 そ の よ う な 研 究 環 境 の 未 整 備 も あ り、 『教 行信証』の大部分をなす引用文の検討を十分に行うことが できなかった。しかし、近年では坂東本『教行信証』の写 真や翻刻の公開とそれによる研究の進展の一方で、各種版 本 大 蔵 経 や 各 寺 院 な ど に 保 存 さ れ て き た 古 写 経 な ど が 発 掘・調査され、その本文が続々と出版、あるいはインター ネット上で公開されてきてい る。特に『教行信証』研究に おける古写経の活用は、三木彰円の次の指摘のように、近 年強く提起されてきている。 坂東本本文を解読していくことにおいて、出典に関し て、どこに親鸞の言葉の元があるのかというのは、す でに大体宗学の中で尽くされていると言っていいもの があります。ただ、現在としては、さまざまな古写聖 教が公開されている状況の中で、親鸞の誤写と言われ てきたものも、親鸞の単なる誤写ではないということ ( )2 ( )3 ( )4

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を資料的に追っていけるということがあります。そう いう意味では、出典と、その出典に関わる古写本類を 通して、もう一度、親鸞の引用されている言葉を確認 していくことが、これから取り組むべきこととしてあ りま す。   本稿では、もちろん親鸞の引用文の完全な解明には至ら ないが、これまでの研究ではあまり参照できなかった種々 の版本・写本を踏まえて、親鸞の引用文の問題について実 例 を 挙 げ て 示 し て い き た い。 そ れ に よ り、 今 後『教 行 信 証』研究を行う上での基礎的作業の一助としたい。   本 稿 の 内 容 は 大 き く 三 つ に 分 か れ る。 第 一 は、 『教 行 信 証』の引用文に関する研究史の確認。第二は、引用文につ いての問題点の検討。第三は、引用文の具体的な比較研究 を行う。 1   『教行信証』の引用文に関する研究史     坂東本の研究の進展   『教 行 信 証』 の 引 用 文 に 関 す る 研 究 を 確 か め よ う と す る 際、大きく二つの課題が浮かび上がる。一つは研究者がい かなる『教行信証』を見ていたか、つまり本文確定の問題 であり、もう一つは親鸞の見たテキスト、すなわち一般の 仏教典籍に対する理解の進展である。   第一の『教行信証』の本文については、本文確定の面か らすれば親鸞自筆の坂東本を中心にせねばならない。もち ろん坂東本の実物を手に取っての研究は現在でも極めて困 難 で あ る。 け れ ど も 大 正 十 一 (一 九 二 二) 年 の 坂 東 本 の モ ノクロコロタイプ版の刊行以降は、一応坂東本の様子を知 ることができるようになった。それ以前は、模写本の作成 は 行 わ れ た が、 基 本 的 に は 当 時 に 流 布 し て い た 各 種 の 写 本・版本『教行信証』の校訂という努力を重ねながら研究 を進めていくほかなかっ た。江戸期においても、例えば香 月 院 深 励 (一 七 四 九 ~ 一 八 一 七) は 坂 東 本 の 写 本 に 基 づ い た ( )5 ( )6 ( )7

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多くの指摘を行っている が、それら非常な努力にかかわら ず現代の親鸞研究に直接繫がるものにはほとんどなってい ないのであ る。   さて、近世から近代への坂東本の公開と研究の進展につ いては、親鸞聖人七百回御遠忌記念の修復と影印本出版が 行 わ れ た 直 後 の 昭 和 三 十 三 (一 九 五 八) 年、 当 時 の 研 究 を 牽 引 し て い た 小 川 貫 弌 (一 九 一 二 ~ 二 〇 〇 六) に よ る 簡 潔 な まとめがある。やや長くなるが、まずそれを見てみよう。   宗門の聖教である『教行信証』は、その製作以来、 数百年の長い歳月のあいだに、転写や刊行をするうち に、本文の中には、魚魯焉馬の誤謬もおこり、衍文や 錯簡もできてきた。そこで江戸時代の末には、これら の誤謬を訂正する校勘の学問が必要となった。その最 も正しい定本をうるために、本山古刹に宗祖伝授の善 本を求める努力がはじめられたが、封建社会のことと て宝庫はかたく閉されて容易にその見写が許されなか った。   江戸時代の末、文政のころ越前浄勝寺の順芸師が阪 東の報恩寺に伝来して、古来聖人が東国から帰洛のと き、箱根において弟子性信に付嘱されたと伝える『教 行信証』について、その臨写本を作製したことは、非 常な努力であった。この順芸師の丹山文庫本が明治大 正の真宗学界へ寄与貢献したことは、実に大なるもの がある。   明治四十三年九月、真宗大学図書館長であった山田 文昭氏が丹山文庫本からその複本を作り、妻木直良氏 が大正五年十月にその山田本から更に臨写本を作製し た。これらが今日の大谷竜谷両大学の図書館に所蔵す る真蹟臨写本であり、真蹟本を容易に拝観しえない当 時では貴重な研究資料であった。大正三年四月『無尽 燈』第十九巻第四号に発表された山田文昭氏の「教行 信証の御草本に就て」の論考は、東京における真蹟本 の拝観とこの臨写本による綿密な調査研究の結果にほ かならない。その後日下無倫氏の研究も同様であった。   大正十一年九月に、東本願寺では立教開宗七百年の 記念として、阪東報恩寺伝来の真蹟本が原寸大のコロ タイプに公刊され、その後昭和十一年四月には法蔵館 ( )8 ( )9

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より縮刷影印本の普及版が出た。これらによって聖人 の 筆 蹟 と 本 書 の 実 状 が 一 見 し て わ か り、 『教 行 信 証』 研究の上に、劃期的な功績をもたらした。鈴木宗忠氏 の「教 行 信 証 の 真 蹟 本 に つ い て」 (文 化 第 五 巻 第 三 号) と 藤 田 海 竜 氏 の「教 行 信 証 の 真 蹟 本 に 就 い て」 (日 本 仏 学 論 叢 第 一 輯) な ど は、 そ の 書 誌 学 的 研 究 の 貴 重 な 論説である。   (中 略) 去 る 昭 和 二 十 七 年 三 月、 こ の 真 蹟 本 が 国 宝 指定をうけ、その解体修理が施された。これと共に、 宗祖七百回御遠忌の記念として、新しく原寸大の影印 本の出版となった。その解題には、赤松俊秀氏の「教 行 信 証 の 成 立 と 改 訂」 、 藤 島 達 朗 氏 の「教 行 信 証 の 書 誌」および名畑応順氏の「教行信証の教義」三論文が 収められている。この真蹟本『教行信証』の解体修理 とコロタイプの出版によって、真蹟本の書誌学的研究 はさらに一歩前進して新しい段階を迎えることとなっ た。 以上のような、坂東本の公開の進展と共に、従来知られて い な か っ た 親 鸞 真 蹟 の 発 見 が あ り、 ま た こ れ 以 降 に は、 『親 鸞 聖 人 全 集』 (法 藏 館、 一 九 五 七 ~ 一 九 六 一 年) で の 坂 東 本を底本とした翻刻や、親鸞の真蹟を網羅的に写真公開し た『親 鸞 聖 人 真 蹟 集 成』 (法 藏 館、 一 九 七 三 ~ 一 九 七 四 年) の 発刊がなされる。その後、坂東本の研究として、代表的な 書 籍 で 言 え ば 古 田 武 彦『親 鸞 思 想: そ の 史 料 批 判』 (冨 山 房、 一 九 七 五 年) や、 重 見 一 行『教 行 信 証 の 研 究: そ の 成 立 過 程 の 文 献 学 的 考 察』 (法 藏 館、 一 九 八 一 年) 、 鳥 越 正 道 『最終稿本教行信証の復元研究』などが発表される。そし て宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を記念し、改めて坂東本 の 修 復、 そ し て カ ラ ー 影 印 本 (真 宗 大 谷 派、 二 〇 〇 五 年) が 作成された。また、より正確かつ詳細な註を付した翻刻と して大谷大学編『顕浄土真実教行証文類』翻刻篇・附録篇 一・ 附 録 篇 二 (真 宗 大 谷 派、 二 〇 一 二 年、 な お 以 下『教 行 信 証』 の 引 用 は こ の 翻 刻 篇 に よ る) が 刊 行、 二 〇 一 九 年 に は そ の翻刻篇の縮刷版が刊行され非常に便利になった。   その坂東本研究とともに、詳細は省くが、従来親鸞の真 筆とされてきた専修寺本と西本願寺本の研究も進んだ。前 者 は 親 鸞 八 十 三 歳 時 (一 二 五 五) に 専 信 房 専 海 (生 没 年 不 ( )10

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詳) が 書 写 し た も の を、 そ の 後 さ ら に 真 仏 (一 二 〇 九 ~ 一 二 五 八) が 書 写 し た も の、 後 者 は 親 鸞 の 十 三 回 忌 の 翌 年 に あ た る 文 永 十 二 (一 二 七 五) 年 に 書 写 さ れ た も の で あ る と さ れ、この両本は欠落箇所のある坂東本を補うと共に、親鸞 晩年の改訂作業が窺えるものとして、独自の貴重な価値を 持つことが確認された。   このようにして坂東本の研究状況は充実されてきたので あるが、先の小川のまとめでは言及されなかった研究の一 つ を 挙 げ て お き た い。 そ れ は 中 井 玄 道 (一 八 七 八 ~ 一 九 四 五) が 大 正 九 (一 九 二 〇) 年 に 発 刊 し た『教 行 信 証』 校 訂 本 と そ の「附 録」 (仏 教 大 学 出 版) で あ る。 こ の 中 井 の 校 訂 は、当時「教行信証流伝の沿革よりいつて一新紀元を劃す るも の」として高く評価された。ただし、その校訂は江戸 期の版本を中心としたものであり、坂東本はあくまで参照 という扱いである上、用いたものは大谷大学所蔵 本、恐ら く 山 田 文 昭 (一 八 七 七 ~ 一 九 三 三) 書 写 本 で あ っ た。 大 正 コ ロタイプ版の刊行以前であり、坂東本の閲覧も困難な状況 であったた め、現代から見ると見劣りするのはしかたない。 し か し、 明 治 四 十 一 (一 九 〇 八) 年 か ら 十 年 以 上 の 歳 月 を 費やし た中井の検討内容については、今でも参照にできる ことは少なくないのである。そのことは後に触れたい。     大蔵経研究の進展   さて、次に一般仏教典籍についての研究を見てみよ う。 日本における仏教典籍の伝搬は、古代における写本の請来 と書写から、中世以降の高麗版・宋版・元版・明版などと いった幾種もの版本大蔵経の請来、そして近世での宗存版 や天海版、そして黄檗版といった大蔵経の開版事業があっ た。当然、仏教研究にはこのような仏教叢書の収集がなけ れ ば な ら な い。 東 本 願 寺 に お い て も 早 く 正 保 五 (一 六 四 八) 年 に 天 海 版 大 蔵 経 が も た ら さ れ、 承 応 元 (一 六 五 二) 年には建仁寺の高麗版との校合事業が着手されたとい う。 この大蔵経の普及という面で最も貢献したのが、鉄眼道光 (一六三〇~一六八二) による黄檗版であった。   黄檗版は一六六九年から一六七八年にかけて開版された もので、その底本は基本的に明・嘉興蔵であった。黄檗版 は現在までに二千蔵あまりが印刷されたとされる。ただし、 ( )11 ( )12 ( )13 ( )14 ( )15 ( )16 ( )17 ( )18

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明版自体、十六世紀後半から十七世紀にかけての、かなり 後 代 の 成 立 で あ る。 そ の 後、 浄 土 宗 の 忍 徴 (一 六 四 五 ~ 一 七 一 一) が 一 七 〇 六 ~ 一 七 一 一 年 に か け て、 真 宗 東 派 の 丹 山 順 藝 (一 七 八 五 ~ 一 八 四 七) ら が 一 八 二 六 ~ 一 八 三 六 年 に かけて、黄檗版と建仁寺の高麗版との校合を行い、高麗版 がより良い善本であるという評価が定まっていく。それが や が て 明 治 期 の『大 日 本 校 訂 大 蔵 経』 (通 称、 縮 刷 蔵 経) 、 あるいは大正期の『大正新脩大蔵経』の底本が高麗版とさ れていくことに繫がる。   以上のような状況の中で、仏教研究、或は親鸞研究が進 められていく。問題は、各学僧が経典を見る際それぞれど の版を用いているのか、また同一経典のなかでも版の異な りによって内容に差異があることに自覚的であったかどう か、である。これは大変興味深い問題であるが、一つ一つ の講録を個別に調査する膨大な作業が必要となるため、今 は深くは立ち入らない。ただ、その一例として、近世の深 励 の 発 言 を 見 よ う。 次 は、 文 化 三 (一 八 〇 六) 年 の 講 義 で、 親 鸞 が「行 巻」 で『平 等 覚 経』 を 引 用 す る 際 に「巻 上」 (翻刻篇二二頁) と記していることについての発言である。 同ジ経デモ明本宋本高麗本デ調巻ノ不同アルコト数々 ナリ。コノ覚経モ坊間本ハ四巻ナレドモ黄檗本ハ明本 ナルガ上中下ニナリテアル。即今ノ引文ハ上〈八右〉 ニ出タリ。吾祖御所覧ハソノ明本ト同ジ調巻ノ本ユヘ ニ巻上トノタマフナ リ ここで深励は、経典が版によって巻の分け方が異なること を 指 摘 す る。 そ し て、 坊 間 本 (町 版) が 巻 第 一・ 第 二・ 第 三・第四の四巻本であるのに対し、黄檗版が巻上・中・下 の 三 巻 本 で あ る こ と か ら、 「巻 上」 と 記 す 親 鸞 は 明 版 と 同 系統を見たとするのである。この深励の認識は興味深いが、 なお『平等覚経』は高麗版が四巻本で明版が三巻本である の に 対 し、 『大 正 蔵』 の 校 註 に よ れ ば 宋 版・ 元 版 は 上 下 二 巻本である。またその他に宋・福州開元寺 版も上下二巻で あり、中世の写本である金剛寺本や七寺本も恐らく上下二 巻であ る。これら親鸞当時に存在した経典の状態から、親 鸞の所覧本は深励が指摘したような時代がはるかに下る明 版系の三巻本ではなく、二巻本と推測される。   深励が明版系を結論としたのは、そもそも上記の議論が ( )19 ( )20 ( )21 ( )22

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高 田 派 の 慧 雲 (一 六 一 三 ~ 一 六 九 一) へ の 批 判 だ と い う 点 に 主 要 因 が あ る。 慧 雲 は『教 行 信 証 鈔』 (一 六 八 六) で『平 等 覚経』の二巻本と四巻本とを訳者の問題も含めて別本とし た上で、親鸞は二巻本を引いたとし た。そのことに対して 「スカタ ン」だと深励は批判したのであり、それ故に慧雲 の言う二巻本という説を採用したくなかったのだと考えら れる。ただし、恐らく諸版本の記述を容易に網羅的に確認 できる環境ではなかったであろうことも、その要因に数え られよう。親鸞の著書を精確に研究しようとするならば、 大蔵経に代表される仏教典籍の知識とそれを広く閲覧でき る環境が必要なのである。   その後、近代に入ると、西洋の科学的手法を踏まえたい わ ゆ る 近 代 仏 教 学 が 始 ま る。 そ の 黎 明 期 に 島 田 蕃 根 (一 八 二 七 ~ 一 九 〇 七) と 福 田 行 誡 (一 八 〇 九 ~ 一 八 八 八) に よ り 明 治 十 四 (一 八 八 一) 年 か ら 明 治 十 八 (一 八 八 五) 年 に か け て 『大日本校訂大蔵経』が刊行された。これについて、大正 三 (一 九 一 四) 年 十 一 月 に 開 催 さ れ た 第 一 回 東 京 大 蔵 会 で 常盤大定 (一八七〇~一九四五) は次のように評価した。 日本の縮刷蔵経は、空前の良蔵たる麗本を底本とし、 加之、南宋、元、明の三本を対校して、これを冠頭に 載せてあるから、多少の誤植があるにせよ、最も学術 的の良蔵といふべきであ る。 こ の 指 摘 に あ る よ う に、 麗 本 (高 麗 再 彫 版) 、 南 宋 (思 渓 版) 、 元 (普 寧 寺 版) 、 明 (黄 檗 版) の 四 本 の 対 校 を 示 し た 非 常 に 画期的な良蔵として『縮刷蔵経』は刊行された。その後も 『大 日 本 続 蔵 経』 (一 九 〇 五 ~ 一 九 一 二) 、『大 日 本 仏 教 全 書』 (一 九 一 二 ~ 一 九 二 二) 、『浄 土 宗 全 書』 (一 九 〇 七 ~ 一 九 一 四) 、『真 宗 全 書』 (一 九 一 三 ~ 一 九 一 六) な ど、 次 々 と 仏 教 叢書の類は刊行され、そして現代においても仏教研究のス タ ン ダ ー ド で あ る『大 正 新 脩 大 蔵 経』 (一 九 二 四 ~ 一 九 三 四) が 刊 行 さ れ て い く。 こ う し て 仏 教 研 究 は そ れ ま で に な い広がりを増していくことになる。   さて、大蔵経の研究が近代以降進展していくが、その嚆 矢 と し て、 大 正 二 年 か ら 三 年 に か け て『哲 学 雑 誌』 (第 三 一 三 ~ 三 二 四 号) に 掲 載 さ れ た 常 盤 大 定 の「大 蔵 経 彫 印 考」 (全七回) がある。その第一回目の冒頭を見よう。 ( )23 ( )24 ( )25

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数年前何の機会よりなりしか、高麗大蔵の刻彫年代を 知らんとするの念に駆られて、殆んど何等の手懸りも なき調査を進めつゝありし間に、少しく光明を認むる につれて、最初の刻蔵たる宋本にも着手するや、宋本 が一種にあらずして、少くも三種あるを知り、関係上 下りて元本に至るまでを一応調査したしと、相当の苦 心を重ねたる事あり き。 この常盤の言葉によれば、それ以前には大蔵経の調査はほ とんどなく、宋本といっても三種あることすら知られてい な か っ た。 こ こ で い う 三 種 と は、 蜀 版 (開 宝 蔵、 九 七 二 ~ 九 七 七) ・ 福 州 版 (常 盤 は こ れ を さ ら に 東 禅 寺 版〔一 〇 八 〇 ~ 一 一 一二〕 ・開元寺版〔一一一二~一一五一頃〕の二種に分ける) ・思 渓 版 (~ 一 一 三 二) の 三 種 で あ る。 こ れ は 常 盤 が か な り 注 意 し て い る こ と で あ っ て、 次 号 に お い て も 宋 版 に つ い て 「斯の如く三種あるを以て、単に宋本といふ時は、いづれ を指すか、明白なら ず」と指摘し、また福州版と思渓版に ついて次のようにも指摘する。 世の宋本をいふもの多くはその一種たる南宋本を知る のみにて、福州本あるを知らざるか、或は宋本といへ ば悉く同一なるものと思惟するを常とす。或は二種あ る事を知る人もあらん。然ども何れの点に於て異るか を調査せるもの、未だ之あるを聞か ず。 このように、宋本の名のもとに漠然とした理解しか持たれ ておらず、その詳しい調査がないことが指摘された。この よ う な 世 の 理 解 は、 『縮 刷 蔵 経』 が 対 校 し た の が 南 宋 本 (思 渓 版) で あ っ た の だ が、 そ れ を 単 に 宋 本 と 記 し て い た ため、その宋本にさらに何種類もあるとは思いもよらなか ったということであろう。   そして、この常盤の研究以降、大蔵経の実態に関する理 解が広まっていったと考えられる。なお第一回東京大蔵会 が 大 正 三 年 十 一 月 に 行 わ れ、 常 盤 大 定 が「大 蔵 経 に つ い て」 、 村 上 専 精 (一 八 五 一 ~ 一 九 二 九) が「日 本 蔵 経 に 関 す る四天王」と題して記念講演をし、その会の内容は翌月発 行の『新仏教』第十五巻第十二号に掲載され、村上の講演 だ け は 翌 年 に『一 切 経 の 由 来』 (人 道 講 話 会、 一 九 一 五 年) ( )26 ( )27 ( )28

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と題して刊行され た。   この大蔵経研究が親鸞研究上において意味をもつのは、 常盤が注意した三種の宋版、即ち開宝蔵・福州版・思渓版 こそ、中世日本に請来され、親鸞が閲覧した可能性のある 版本大蔵経だからである。つまり、この三種の区別がつか な け れ ば、 『教 行 信 証』 研 究 を 進 め る こ と は で き な い の で ある。   ちなみに『大正蔵』の対校本である宮本が福州版であり、 宋本が思渓版である。開宝蔵は、この常盤の研究が発表さ れた大正三年時点では一巻も現存が確認されていない。ま た現在でも世界で十二巻しか知られていない。しかし、こ の 開 宝 蔵 の 覆 刻 と し て 高 麗 初 彫 版 (一 〇 一 一 ~ 一 〇 八 七) が 造られ、やがてその板木は焼失するが、再度三本の蔵経を 校 勘 し て 高 麗 再 彫 版 (一 二 三 六 ~ 一 二 五 一) が 造 ら れ る。 従 来、 高 麗 版 と 呼 び、 『大 正 蔵』 の 底 本 と な っ た の が こ の 高 麗 再 彫 版 で あ る。 そ の た め、 高 麗 版 (特 に 初 彫 版) は 開 宝 蔵を窺う上で、親鸞研究上に重要な意味をもつのである。   なお山田文昭が坂東本研究に基づき「教行信証の御草本 に就て」を発表したのは、常盤の大蔵経についての研究発 表と同じ大正三年である。本格的な坂東本研究と大蔵経研 究は同時に始まったということになる。     親鸞の欠筆とその由来への注目   先に言及したように、従来の研究の集大成とも言うべき 中井玄道の『教行信証』校訂本の発刊が大正九年であった。 その刊行の直前の大正八年五月、中井は「教行信証の異本 (上) 」 と い う 論 文 を 発 表 す る。 こ の 中 で、 従 来 自 筆 本 と さ れ て き た 坂 東 本 (報 恩 寺 本) と 西 本 願 寺 本 (本 願 寺 本) を 対照しながら、親鸞の『教行信証』執筆についての見解を 提示していく。ちなみに中井の所覧本について、坂東本は 恐らく山田による写本だが、西本願寺本は実物を見ており、 しかもこれを自筆とする伝説を中井は否定している。   この論考の中で、後々まで議論が続くものの一つとして、 欠 筆 (欠 画 文 字) の 指 摘 が あ る。 欠 筆 と は、 皇 帝 の 諱 の 文 字を避けるため、その最後の一画を欠いて記すことを言い、 中国宋の時代に行われた。 ( )29

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宋代初刻の勅版蔵経には、その特徴として欠劃の文字 を使用せりといふ。今報恩寺本及び本願寺本に於て欠 劃の文字あるは、宗祖聖人引用の原本に於てその例あ りたるが為に、之を模倣せられたるものなるべく、こ の点より察するに、聖人所覧の蔵経は宋の勅版蔵経な りしならんと推測する人あ り。 ここで、中井は坂東本と西本願寺本の特徴としてしばしば 欠筆が見られるとともに、宋代初刻の勅版蔵経すなわち開 宝蔵においても欠筆があり、その共通性から親鸞の所覧本 が 開 宝 蔵 だ と い う 説 が あ る こ と を 紹 介 し て い る。 こ こ で 「と推測する人あり」と述べているのであるから、この中 井論文以前にその主張をしていた人物がいたことになる。   しかし、これ以前にその主張をした論文を筆者は見ない。 ただし、ある程度の限定はできる。なぜなら、この主張を するには、坂東本や西本願寺本と開宝蔵との双方の本文を 詳しく実検する必要があるからである。そして、中井論文 で開宝蔵に欠筆があるとされるが、既に見たように大正三 年時点で開宝蔵は一巻も見つかっていない。つまり、その 時点までは開宝蔵に欠筆があることは確認されていないこ とになる。   で は い つ 発 見・ 公 開 さ れ た の か。 そ れ は、 大 正 五 (一 九 一 六) 年 十 一 月 四 日 に 仏 教 大 学 (現、 龍 谷 大 学) で 行 わ れ た 第二回京都大蔵会である。ここで初めて、南禅寺の経蔵か ら発見された開宝蔵の『仏本行集経』巻第十九が展観され た。 『中 外 日 報』 で は、 こ の 開 宝 蔵 に つ い て「大 蔵 経 と し て は 最 も 珍 重 す べ き」 「も う 今 日 見 る こ と の で き ぬ も の で あると信じられて居たのである」と報道されてい る。また 大正六年九月の松本文三郎「蔵経の意義と其由来」でも、 この第二回大蔵会に際して開宝蔵の発見があったことを特 記してお り、当時驚きをもって迎えられた。ただし、これ らの記録に、開宝蔵に欠筆が確認されたことは記されてい ない。   この開宝蔵経巻を発見したのは、大蔵会委 員であった妻 木 直 良 (一 八 七 三 ~ 一 九 三 四) で あ る。 妻 木 は 発 見 の 経 緯 を 論文「開宝勅版の宋経大蔵版に就い て」に記している。こ の論文の発表は大正八年四月、先の中井論文の一月前であ る。執筆はもう少し前であろうが、発見者による開宝蔵を ( )30 ( )31 ( )32 ( )33 ( )34 ( )35

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主題としたこの論考でも欠筆に言及はない。当時、欠筆に 注目はなかったようである。   『教 行 信 証』 に 目 を 向 け て み よ う。 坂 東 本 研 究 の 嚆 矢 は、 既 に 述 べ た 大 正 三 年 の 山 田 文 昭「教 行 信 証 の 御 草 本 に 就 て」である。それ以前に親鸞の欠筆についての言及を見る ことはなく、また山田論文にも欠筆については記されてい ない。当時、坂東本の閲覧は困難であったことは既に述べ た。もちろん研究者への閲覧許可や虫干しなどでの坂東本 の展観が全くなかったわけではない。けれども、山田以降 も坂東本についての研究を見ることはほぼな く、ましてや 『教行信証』の欠筆に関する議論も見ることはない。   筆者の知る限り、大正八年五月の中井論文の議論は突然 出てきたものである。そうであれば、欠筆の指摘は何らか の論文があったのではなく、口頭で中井に伝えられたもの ではないだろうか。そしてその人物は、恐らく妻木直良で はないかと推測する。   既に見たように、妻木は京都大蔵会委員として、南禅寺 経蔵から開宝蔵経巻を発見した人物であり、その内容につ い て も 当 時 最 も 詳 し か っ た と 考 え ら れ る。 ま た、 妻 木 は 『真宗全書』の編纂で知られるが、小川貫弌が記したよう に山田文昭による坂東本の写本を大正五年に再書写した人 物 で も あ る。 あ る い は 大 正 八 年 三 月 末 に、 辻 善 之 助 (一 八 七 七 ~ 一 九 五 五) ら が 西 本 願 寺 本『教 行 信 証』 の 調 査 を す るが、妻木もその場に立ち会ってい た。なおこの調査を通 して辻は西本願寺本真筆説を述べ、妻木も直ちにそれに賛 同す るが、前述のように中井はそれに反対であった。   中井論文以前に坂東本、西本願寺本そして開宝蔵の全て の本文を確実に見た人物として、妻木直良がいるのである。 そして実際に妻木も欠筆について発言している。それは大 正八年十月の「大蔵経の研究に就て」であるが、これは恐 らく同年六月二十四日の講演「大蔵経の沿 革」を文章化し たものになる。中井論文の後になるが、そこで妻木は「我 が宗祖の真本『教行信証』を見て、祖師御覧の一切経は、 宋版なりと知るも、文字に欠画があるゆへである が」と、 『教行信証』と宋版との連関を欠筆に基づき断定的に語っ ている。欠筆という新証拠について、中井と異なりこのよ うに断定的に語るのは妻木がその主唱者だからだと考える。 あるいは辻の調査時にそれが話題となった可能性もなくは ( )36 ( )37 ( )38 ( )39 ( )40 ( )41

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ない。しかし推測の域を出ない。   と も か く、 大 正 九 年 の 中 井 校 訂『教 行 信 証 〔附 録〕 』 で の 坂 東 本 の 解 説 に 欠 筆 が 取 り 上 げ ら れ、 「聖 人 所 覧 の 蔵 経 は恐らく宋版なりしなるべしとい ふ」という一説が紹介さ れることになる。そしてこれ以後は、坂東本研究と欠筆は 切り離せない問題となる。   大 正 十 一 (一 九 二 二) 年、 橋 川 正 (一 八 九 四 ~ 一 九 三 一) は「文字の欠劃の上から研究して見ると宋版の経典に基か れ た こ と が 知 ら れ る」 と 指 摘 し、 日 下 無 倫 (一 八 八 九 ~ 一 九 五 一) は 翌 十 二 (一 九 二 三) 年 に 坂 東 本 に 基 づ く 書 き 下 し を 刊 行 す る 際、 そ の 凡 例 で「阪 東 御 真 本 に は、 (中 略) 宋 版蔵経特有の欠劃文字を使用せ り。 」と記している。   新 た な 見 解 を 示 し た も の と し て、 同 年 の 禿 氏 祐 祥 (一 八 七 九 ~ 一 九 六 〇) 『教 行 信 証 考 証』 は「引 用 文 以 外 の 所 に も 欠劃はあるのであ る」と親鸞の自釈の箇所にも欠筆が現れ ることを指摘し、親鸞の欠筆は単に原本を写したのではな い こ と を 注 意 し た。 そ の 後、 昭 和 二 (一 九 二 七) 年 に 日 下 無倫は自釈、あるいは「安城の御影」の銘文などにも欠筆 が認められることから、その根拠は不明としつつ「聖人が 欠画文字を使用されたことも必ずや宋の影響の然らしめた ものであらうといふことだけは推測でき る」と述べ、親鸞 への宋代文化の影響と位置付けることになる。   この欠筆を具体的に親鸞の引用と関連させたのが、武内 義 雄 (一 八 八 六 ~ 一 九 六 六) 「教 行 信 証 所 引 弁 正 論 に 就 い て」 (昭 和 六〔一 九 三 一〕 年) で あ る。 武 内 は、 存 覚 以 来 問 題 と な っ て い た 親 鸞 の『弁 正 論』 引 用 に つ い て、 『大 正 蔵』 と そ の 校 註、 お よ び 道 宣 (五 九 六 ~ 六 六 七) 『広 弘 明 集』所引本などを比較考察し、親鸞の依用本を探求した。 し か し 決 め 手 に 欠 け る と こ ろ で、 『弁 正 論』 引 用 文 に 欠 筆 が見られることに注目し、その文字の種類の分析から「宗 祖依用の弁正論は北宋初の勅 版」だと推定することになる。   そ の 後、 大 屋 徳 城 (一 八 八 二 ~ 一 九 五 〇) に よ っ て 仏 典 に おける欠筆についての広範な研究がなされる が、やがて親 鸞の欠筆について本格的な調査を行ったのが小川貫弌であ る。 昭 和 二 十 七 (一 九 五 二) 年 の 論 文「阪 東 本 教 行 信 証 の 形態」で、小川は坂東本の欠筆を一八三箇所確認されると した。さらに「教」の字など通常欠筆にならない文字も欠 筆にしていること、また自釈などにも欠筆が見られること、 ( )42 ( )43 ( )44 ( )45 ( )46 ( )47 ( )48

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坂東本以外の親鸞真蹟にも欠筆が認められることなどを指 摘する。そして親鸞が欠筆にする文字の種類から、宋版大 蔵経の披見によるならば「北宋勅版一切経に限らなければ ならぬ」と武内と同様の指摘をする。しかし、この北宋勅 版 (開 宝 蔵) は 稀 覯 本 で あ り そ の 披 見 に は 疑 問 が あ る と し、 「寧ろ宋版の漢籍にもとづくのではなからうか」と述べて、 漢籍を念頭にして日下同様に親鸞の宋代文化に対する進取 の態度を指摘したのであ る。小川はその後も坂東本の研究 を 進 め、 そ れ ら は 単 著『仏 教 文 化 史 研 究』 (永 田 文 昌 堂、 一 九七三年) にまとめられることになる。   親鸞の欠筆から開宝蔵を用いたとする説に対し、それを 疑 問 視 す る も の と し て は 道 端 良 秀 (一 九 〇 三 ~ 一 九 九 三) が いる。道端は、先の武内論文を批判する形で、親鸞の『弁 正 論』 引 用 に は 誤 記 が 多 す ぎ る と し て、 「原 本 の 誤 と 思 は れる所が多いことに於いて、勅版の蔵版本ではなく、写本 でなからうかと思はれる。又坂東本に、宋朝の欠字欠画が 用いられているが、だからと言つてすぐに原本が宋代のも のとのみ決定することは早計であ る。 」とした。 『弁正論』 の引用に関して、その依拠本が版本ではなく写本だとする 道端の指摘は卓見である。   小川の研究から、親鸞の欠筆は依拠本からでは説明しき れないことが明白となり、以後そもそも親鸞の欠筆とは何 なのか、という問題へ展開していく。これ以降の欠筆に関 する研究としては、田村悦子「親鸞の、特に坂東本『教行 信 証』 の 筆 蹟 に つ い て   上・ 下」 (『美 術 研 究』 第 三 一 八・ 三 二 〇 号、 一 九 八 二 年) 、 大 谷 大 学 編『顕 浄 土 真 実 教 行 証 文 類   附 録 篇 一』 (真 宗 大 谷 派、 二 〇 一 二 年) 、 佐 々 木 勇「親 鸞 の 欠 筆 ─ 親 鸞 が 影 響 を 受 け た 文 献 群 ─」 (『浄 土 真 宗 総 合 研 究』 第 八 号、 二 〇 一 四 年) 、 津 田 徹 英「親 鸞 の 欠 画 文 字・ 異 体 字 と そ の 書 風」 (『組 織 論 ─ 制 作 し た 人 々〈仏 教 美 術 論 集 6〉』 竹 林 舎、 二 〇 一 六 年) な ど が あ る。 『附 録 篇 一』 は「そ の 大 部 分 の 文 字が『廣韻』において欠画されてい る」と指摘し、佐々木 は「親鸞の欠筆は、北宋版あるいは南宋初・中期覆北宋版 の漢籍による学習から身につけたも の」と推定、津田は親 鸞の欠筆の習得について「幼少の修学期に求めるのが最も 自 然」としている。これらの点は今後の研究課題であろう。   ともかく、欠筆から親鸞の依拠本を探るという中井論文 の議論は、親鸞の修学過程の問題に展開したのである。ち ( )49 ( )50 ( )51 ( )52 ( )53 ( )54

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なみに、通常欠筆にならない「教」の字を欠筆にすること は、楊婷婷により親鸞以前の日本にその例があることが報 告されてい る。     親鸞が宋版を閲覧したという語り   中 井 玄 道 の「教 行 信 証 の 異 本 (上) 」 に 戻 ろ う。 欠 筆 か ら開宝蔵を予想する説を挙げた後、中井は「聖人依用の本 は宋蔵なりや麗蔵なりや、若し宋蔵なりとせば四版の中何 れに属するやを考ふることは、一の興味ある研究題目なり と す」 と 述 べ、 宋 版 (開 宝 蔵・ 東 禅 寺 版・ 開 元 寺 版・ 思 渓 版) か高麗版かという課題を提出する。ただ惜しいことは、こ の問題設定をしておきながら、中井はその検討に『縮刷蔵 経』しか用いることができなかった点である。中井は『縮 刷蔵経』の底本が高麗再彫版であり、対校に挙がる宋本が 増 上 寺 所 蔵 の 思 渓 版 で あ る こ と を こ と わ り つ つ、 「化 身 土 巻」の『大集経』を検討し、それを証拠として「大体に於 て宋蔵依用説を承認すべ き」と一応の結論を述べる。なお、 「化身土巻」の『大集経』が思渓版だというのは、現在で はより詳しく検証されてい る。   ところで、このように親鸞は高麗版ではなく宋版を依用 したとの説を立てた中井は、それを歴史的に立証するもの と し て、 薗 田 宗 恵 (一 八 六 三 ~ 一 九 二 二) の 議 論 を 取 り 上 げ る。 中 井 が 指 摘 す る の は、 そ の 直 前 に 発 表 さ れ た 薗 田 の 「教 行 信 証 に 現 は れ た る 涅 槃 経 (上) 」 (『六 条 学 報』 第 二 〇 七号、一九一九年) である。この薗田論文は親鸞引用の『涅 槃経』が北本か南本かを一々具体的に検証する優れたもの であるが、その前提として親鸞は宋版を用いたとする指摘 を行う。その指摘について若干の説明をしておきたい。   時代をやや遡るが、親鸞が『教行信証』執筆にあたって どのように仏教典籍を閲覧したのかについて、近代に入っ て 一 つ の 回 答 を 与 え た の が 小 栗 憲 一 (一 八 三 四 ~ 一 九 一 五) 『真 宗 興 隆 縁 起』 (哲 学 書 院、 一 八 九 二 年) で あ っ た。 覚 如 の『親鸞伝絵』には、親鸞の関東移住について「聖人越後 国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷という所に隠居した ま う。 」 と 伝 え ら れ、 こ こ で 親 鸞 が『教 行 信 証』 を 執 筆 し たと信じられていたことは周知のことである。そして、そ の稲田の地に構える西念寺に伝わる古記録に基づいて著さ ( )55 ( )56 ( )57 ( )58 ( )59

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れたものが、この小栗の著作である。そこで親鸞が下野薬 師寺や足利文庫に通って典籍を閲覧したという説が示され、 当時一部で支持された。しかし、これは山田文昭が「教行 信証の御草本に就て」において否定することにな る。   ところで小栗の著書には、親鸞の典籍閲覧についてもう 一つの出来事が記される。 等覚禅師ハ足利義氏ノ息男ニシテ。建仁三年入唐。建 保二年帰朝ノ砌リ。宋版一切経三部。其他奇書珍籍数 十部。携帯セラル。一部ヲ鎌倉文庫ニ。一部ヲ足利文 庫ニ納メ。一部ヲ聖人ニ寄附シ奉ル。コレ笠間長門守 ノ発願ナリト云ヘ リ。 足 利 義 氏 (一 一 八 九 ~ 一 二 五 四) の 息 子 の 等 覚 禅 師 と い う 人 物 が 建 保 二 (一 二 一 四) 年 に 持 ち 帰 っ た 宋 版 一 切 経 を、 笠 間長門守の発願で親鸞に寄進したというのである。このエ ピソードに着目したのが薗田であった。   薗 田 は 明 治 四 十 三 (一 九 一 〇) 年『六 条 学 報』 第 壹 百 号 に「愚禿の真意義」を発表する。そこでは『教行信証』で の引用典籍から親鸞の博覧が語られるのだが、それらをど こで蒐集したのかについて次のように述べたのである。 取わけ建仁三年に入唐して建保二年に帰朝せし等覚禅 師の将来せし宋版蔵経を大に利用せられて頗る便利を 得たまひしならん。等覚禅師は聖人に厚く帰依せし稲 田九郎頼重の妻の親戚なる足利義氏の息男にて三部の 宋版蔵経を将来し、鹿島神宮等に寄附したりとの確証 は鹿島神宮本の奥書に見ゆれば聖人之れを閲覧したま ふの便宜を得給ひしや疑無 し。 薗田は、下野薬師寺や足利文庫の説には疑義を呈するので あるが、等覚禅師による将来については鹿島神宮に奉納さ れた一切経に証拠があるとして、親鸞は宋版を用いたとの 主張をする。この論文は「親鸞聖人の博覧」と改題され単 著『仏 教 と 歴 史』 (六 条 学 報 社、 一 九 一 九 年 七 月) に 収 録 さ れ るが、その鹿島神宮本に関わる主張は先の「教行信証に現 は れ た る 涅 槃 経 (上) 」 に も 示 さ れ た の で あ る。 中 井 は そ れ を 取 り 上 げ、 「若 し 鹿 島 神 宮 本 の 版 種 を 詳 に す る を 得 ( )60 ( )61 ( )62

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ば」と、ここに問題解決の糸口を見出そうとした。   この問題に応じたのは橋川正である。橋川は大正九年三 月 に「新 和 歌 集 の 研 究 ─ 特 に 藤 原 時 朝 に つ い て ─」 (『歴 史 と 地 理』 第 五 巻 第 三 号) を 発 表 す る。 題 に あ る 藤 原 時 朝 (一 二〇四~一二六五) が先の笠間長門守のことであるが、ここ で 時 朝 に よ る 建 長 七 (一 二 五 五) 年 鹿 島 神 宮 で の 一 切 経 供 養を取り上げる。その経はいくつか現存しており、その奥 書には必ず「奉渡唐本一切経内/建長七年〈乙卯〉十一月 九日於鹿島社遂供養〈常州笠間〉前長門守従五位上行藤原 朝臣時朝」と墨書されていること、そしてその版種が宋版 思 渓 円 覚 院 本 で あ る こ と を 指 摘 す る。 そ の 上 で『教 行 信 証』 に も 触 れ、 そ の 制 作 年 次 と さ れ た 元 仁 元 (一 二 二 四) 年時点で時朝は二十一歳であったことを指摘しつつ、上記 事実は「聖人が宋版一切経を若し坂東常陸の地方で覧られ たものとすれば、覧得たといふ外的条件に供しようとする にすぎない」と述べ た。これは、親鸞は鹿島神宮本を見た と断定する薗田への批判であって、橋川は大正十一年「史 観教行信証文類」において、薗田『仏教と歴史』を挙げて 「その断定は尚 早」だと指摘することになる。   また日下無倫も昭和二年の「教行信証について」で、鹿 島 神 宮 本 の 奥 書 を 挙 げ つ つ、 そ の 建 長 七 年 (親 鸞 八 十 三 歳) と の 記 述 か ら「元 仁 元 年 よ り 後 の 事 で あ る か ら、 今 の 論拠にはならな い」と指摘するのである。   この橋川や日下の議論から、鹿島神宮の宋版の存在は、 それと親鸞との直接的関係を示す確証はなく、あくまで当 時の関東に宋版一切経が存在し、親鸞がそれを見る可能性 があったという以上のものでないと結論されたのである。 戦後になっても西念寺の伝承に積極的意味を見出すものも ある が、大方の研究はそれを否定する傾向といえよ う。   と こ ろ が、 こ の 問 題 を 複 雑 に し た の が 赤 松 俊 秀 (一 九 〇 七 ~ 一 九 七 九) で あ る。 赤 松 は そ の 著『親 鸞』 に お い て、 親鸞の稲田への移住には、一切経の閲覧の願いがあったと した。そのことと時朝を結び付けて「領主の時朝は、親鸞 の 帰 京 か ら か な り の 年 が 経 過 し た 建 長 七 年 (一 二 五 五) で は あ る が、 鹿 島 社 (茨 城 県 鹿 島 郡 鹿 島 町) に『宋 版 一 切 経』 を奉納し た」と強調し、同様の宋版が稲田に存在した可能 性を述べた。これは昭和の坂東本修復に携わった赤松の見 解 で あ る だ け に、 無 視 で き な い も の と な る。 平 松 令 三 (一 ( )63 ( )64 ( )65 ( )66 ( )67 ( )68 ( )69 ( )70

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九一九~二〇一三) は、親鸞の稲田移住と時朝を結び付ける 赤松に対し、時朝について「親鸞が稲田へ入ったと想像さ れ る 年 に は ま だ 十 四 歳 で し か な い (中 略) 赤 松 説 の 成 立 に はどうも疑問符がつけられるようであ る。 」と指摘した。   ところでその平松は、覚如『口伝鈔』に記される親鸞の 一 切 経 校 合 に つ い て、 こ れ を 文 暦 二 (一 二 三 五) 年 二 月 の 鎌倉明王院での一切経供養に関わる史実とする峰岸純夫の 見 解に注目し、これに賛意を示し た。同様の見解はいくつ か発表されてい る。   も ち ろ ん そ れ は 大 変 興 味 深 く、 親 鸞 の『教 行 信 証』 執 筆・改訂とも関連する重要な問題である。しかし直接的な 証拠が出てこない限りは、すでに橋川が指摘したように、 そこで一切経を見ることができたという可能性を示唆する 以上のものではない。中世日本には宋版一切経は数多く将 来されてお り、どこか特定の一箇所でのみ披見しえたわけ ではないだろう。   親鸞がどこで仏典を閲覧したのかは、今後も追及すべき 課題ではある。しかし、それよりもまず大事なのは親鸞が 実際に引用した典籍について、それがどの種類のものなの か、一つずつ個別に検討していくことである。それがあっ て初めてどこで閲覧したのかの議論も可能になるのである。   再 び 中 井 の 論 文「教 行 信 証 の 異 本 (上) 」 に 戻 ろ う。 親 鸞が宋版を閲覧したとする薗田説を受けて、中井は四種の 宋版のうち親鸞の引用はどの版に一致するのかが今後必要 な研究だと指摘する。ただし中井は、親鸞が一組の一切経 によって要文を蒐集したとは考えられないとし、それは多 年の間の抄出であるとして、次のように結ぶ。 所覧の本には写本もあるべく、刊本もあるべし。宋蔵 に属するもあるべく、麗蔵に属するもあるべし、同じ 宋蔵にても一種の版に止らざるべく、又直接原本より 引用せずして、他の書の中に引用せるものを孫引せら れたることもあるべし。されば所引の経論は、その内 容に於て宋蔵のそれに近しと雖も、所依を宋蔵に局る となさんは、余りに過ぎたりといふべ し。 こうして今後調査すべき課題を指摘する中井だが、惜しい ことには当時ではいまだそれらの典籍を自由に閲覧する環 ( )71 ( )72 ( )73 ( )74 ( )75 ( )76 ( )77

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境が整っていなかった。けれども、それから百年たった現 代は、各種の典籍が閲覧可能な環境が整いつつある。親鸞 研究において、今まさに行わなければならないのは、中井 が指摘したように親鸞の引用典籍を改めて一つ一つ確かめ ていく基礎的研究なのである。 2   引用文についての問題点の検討     いわゆる親鸞読み   「文 類」 と 題 さ れ、 引 用 文 が 大 部 分 を 占 め る『教 行 信 証』だが、その引用が多くの問題を含むことははじめに述 べた通りである。この親鸞の引用の特徴について、近代に 入って整理を行ったのが、やはり中井玄道であった。中井 の 校 訂 本『教 行 信 証 〔附 録〕 』 に は 引 文 体 例 と し て、 次 の 七つを挙げている。 ㈠改点例   文点を改めて別義を顕はすもの。 ㈡省略例   一字、数字、若くは一句を省略するもの。 ㈢更改例   字句を更改せるもの。 ㈣添加例   文字を添加せるもの。 ㈤合糅例   原本の異を合糅せるもの。 ㈥顛倒例   文字を顛倒せるもの。 ㈦前後例   一連の文を引くに、順序を前後せるもの。 この中井の指摘は、ひとまず親鸞の引用の特徴としては妥 当と思われるが、これに付け加えるならどこを引用しなか っ た の か と い う 視 点 も 必 要 で あ ろ う。 「ひ と ま ず」 と 述 べ たのは、現代においては再検討を要する点があるからであ る。それについて、以下に確かめていきたい。   ㈠の改点例は、通常の漢文の読み方と異なる読みをして いる箇所で、祖訓や親鸞読みなどとも呼ばれるものである。 有名なもので言えば、本願成就文の「至心回向」を「至心 回 向 し て」 で な く「至 心 回 向 し た ま え り」 と 読 み、 ま た 『観経疏』の「必須真実心中作」を「必ず須らく真実心中 になすべし」ではなく「必ず真実心中になしたまえるを 須 もち いる」と読むなどである。こうして親鸞は行者の実践では なく、如来の回向という思想を鮮明にしたと考えられる。 このような読み方の違いに親鸞の思想を読み取ろうとする ( )78

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ことは従来行われてきたことであり、親鸞研究の基礎とも 言える重要な作業である。ただし、その意味が読み取れな い場合、通常の読み方で解釈するということもしばしば行 われ た。けれども、親鸞の読み方に忠実に読もうとする努 力はなされなければならない。   ところで、このような親鸞の読み方について、親鸞の独 自の読み方と言われることがある。そこに親鸞思想の特徴 があることはもちろんであるが、独自かどうかは再考の余 地 が あ る。 能 島 覚 は、 京 都 大 学 所 蔵 の 建 長 三 (一 二 五 一) 年版の『往生礼讃』を取り上げて、この問題を指摘した。 この建長三年版『往生礼讃』には、はじめに挙げた「今現 在 世 成 仏」 の 箇 所 が「今 現 在 成 仏」 と な っ て い る。 ま た 「必須真実」の「須」の字に「モチヰル」との訓がある。 こうした特徴を取り上げて、能島は「親鸞の特殊性に帰結 させることは違和感を覚え る」と指摘する。   この本が開版されたのが建長三年であり、親鸞の晩年で あるということは注意が必要だが、能島の指摘にあるよう に親鸞の特殊性と言われてきたものが、実は当時において ──例えば法然門下の一部な どで──共有されていた理解 かもしれないのである。当然のことであるが、親鸞研究は 単に親鸞の著作を研究するだけでなく、広く法然門下の理 解、さらに当時の仏教界全体を見通し、その相違点だけで なく共通点に着目しなければ十分なものにはならない。     依拠本通りの引用   さて、改点例は親鸞の読み方の問題であり、引用文それ 自体の問題ではない。それに対し、㈡以降が引用典籍に関 わる問題となる。そこで中井はそれぞれの例について、親 鸞の意図がある場合と、偶然による場合があるとしている。   しかし、親鸞の意図があるのかそうでないのかは、本文 読解上看過できない違いとなる。親鸞が見たテキストがそ うなっていたのか、意図せず偶然に書き誤ったのか、それ とも親鸞が意図的な操作を行ったのかという事になるが、 これを論証することは容易なことではない。けれどもそれ を追求する努力は必要であろう。   筆 者 は 以 前 に、 『弁 正 論』 の 引 用 に つ い て、 親 鸞 在 世 当 時の写本である七寺本・興聖寺本・金剛寺本を用い、それ ( )79 ( )80 ( )81

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が版本大蔵経からではなく、古写経本からの引用であるこ とを論証し た。この『弁正論』引用から中井の指摘を見直 したい。   中 井 は 省 略 例 と し て、 『弁 正 論』 引 用 の 第 五 文 に あ る 「左 袵」 「右 命」 (翻 刻 篇 六 四 二 頁) に つ い て、 そ れ ぞ れ の 語の下に原文では「者」の字があるが『教行信証』にはな いと指摘する。これを古写経本で見ると、七寺本・興聖寺 本・金剛寺本の全てに「者」の字はない。また更改例とし て、 第 七 文 で の「此 其 流 也」 (翻 刻 篇 六 四 七 頁) の「也」 の 字が、原文では「焉」の字だとする。これも七寺本と金剛 寺本は「也」の字である。添加例としては、第十文の末尾 の「不 行 也」 (翻 刻 篇 六 五 四 頁) の「也」 の 字 に つ い て、 原 文にはないとする。ここも七寺本・興聖寺本・金剛寺本に 「也」の字はある。各一例のみ挙げたが、古写経本は多く の箇所で『教行信証』と同様の記載をしているのである。   中井が検討していない古写経本によると、少なくとも上 記の三例についていえば、省略・更改・添加とする中井の 指 摘 は 当 た ら な い。 『弁 正 論』 引 用 に 際 し、 親 鸞 が 異 本 を 見 て 取 捨 選 択 し て い た 可 能 性 は 旧 稿 で 指 摘 し た が、 「者」 や「也」の一字の有無などは特に意味を見出しにくく、依 拠本に基づき他意なく記したものと考えられよう。   同 じ よ う な 例 と し て、 「化 身 土 巻」 の 智 顗 (五 三 八 ~ 五 九 七) 『法 界 次 第』 の 引 用 を 挙 げ た い。 『法 界 次 第』 は、 原 文 を大幅に要約した文章が引かれている。この要約の仕方に 親鸞の意図を見出す見解も提出されてき た。しかし、実は こ の 引 用 は 源 信 (九 四 二 ~ 一 〇 一 七) 『要 法 文』 巻 中 に ほ ぼ 同文があり、そこからの孫引きと考えられる。何故、直接 引用しなかったのかというのは興味深い問題だが、ともか くこのような孫引きの引用も確かに存在するのである。     親鸞の意図による改訂   では、中井の指摘について、親鸞の意図があると断言で き る 点 を 見 よ う。 そ の 代 表 は、 『無 量 寿 経』 の 異 訳 で あ る 『大 宝 積 経』 「無 量 寿 如 来 会」 (以 下『如 来 会』 ) に お け る 「衆 生」 と「有 情」 で あ る。 「衆 生」 は 旧 訳 の 用 語 で あ り、 「有 情」 は 新 訳 の 用 語 で あ る が、 『如 来 会』 に は こ の 両 方 が混在して使用されているのである。 ( )82 ( )83 ( )84 ( )85

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  親 鸞 の 引 用 箇 所 で い え ば、 諸 本 そ ろ っ て 本 願 文 は「有 情」とあり、本願成就文には「衆生」とあ る。そして、親 鸞八十三歳時点で書写された系統の『専修寺本』は、本願 文は「有情」 (『専修寺本』上巻、一七四頁) 、三度引かれる本 願 成 就 文 は 全 て「衆 生」 (同 前 一 七 五、 二 二 七、 二 五 八 頁) で あり、諸本通りになっている。ところが、坂東本を見ると 本 願 文 は「有 情」 (翻 刻 篇 一 五 四 頁) 、 本 願 成 就 文 は「信 巻」 冒 頭 の 引 用 で は 本 文 の「衆 生」 を 墨 で 塗 潰 し 欄 外 に 「有 情」 と 記 し て お り (同 前 一 五 五 頁、 註 ⑥) 、 そ の 他 二 箇 所は「衆生」である (同前一九七、二二四頁) 。   あ る い は 真 仏 弟 子 釈 で の 第 三 十 三 願 文 の 引 用 で も、 『如 来 会』 諸 本 は 全 て「衆 生」 で あ り、 『専 修 寺 本』 も「衆 生」 (『専 修 寺 本』 上 巻、 二 七 二 頁) と の み あ る が、 坂 東 本 は 「衆 生」 と 記 し、 そ の 傍 ら に「有 情」 と 記 し て い る (翻 刻 篇 二 三 六 頁) 。 さ ら に「教 巻」 の 引 用 箇 所 も『如 来 会』 諸 本 は 全 て「衆 生」 、 坂 東 本 の こ の 箇 所 は 欠 損 し て い る も の の、 『専 修 寺 本』 は「衆 生」 (『専 修 寺 本』 上 巻、 一 九 頁) 、 親 鸞 没後書写の『西本願寺本』では「有情」 (『西本願寺本』上、 一九頁) となっている。   これらの記載を通して考えられることは、親鸞は『如来 会』引用について、最晩年になって旧訳の「衆生」から新 訳の「有情」へと統一しようと意図したということであ る。 もちろん、最晩年に「有情」に統一された『如来会』を見 た可能性もあるが、上記親鸞の意図があることには変わり がない。またこの例でいえば、親鸞の改訂が無根拠な恣意 によるものではないことも付言しておきたい。     異本によった記述   先の『如来会』は、一経典における用語の不統一を正そ うとする親鸞の意図と一応見做せるが、それとは別に親鸞 が異本を参照し、言葉を取捨選択している例を挙げよう。 その代表として知られるのが善導『往生礼讃』である。   『往 生 礼 讃』 が 注 目 さ れ る の は、 は じ め に 述 べ た「世」 の字の有無の問題もあるが、親鸞がその引用に際して、多 く 智 昇 (~ 七 三 〇 ~) の『集 諸 経 礼 懺 儀』 か ら の 引 用 だ と 記 し て い る か ら で あ る。 『集 諸 経 礼 懺 儀』 は、 そ の 下 巻 に 『往生礼讃』全文を収録し、一切経に編入され伝来されて ( )86 ( )87

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きたものである。そして親鸞が『集諸経礼懺儀』からの引 用であると記すのは、たまたま『集諸経礼懺儀』しか見れ なかったというのではなく、単行本の『往生礼讃』との違 いを意識した上で、選び取ったことを意味するということ も従来指摘されてきた。   そ の 根 拠 に 挙 げ ら れ る の が、 「化 身 土 巻」 に 引 く 際 の 「弘 字 智 昇 法 師 懺 儀 文 也」 (翻 刻 篇 五 三 九 頁) と の 頭 注 で あ る。これは単行本『往生礼讃』には「大悲 伝 4 普化」とある 文 が、 『集 諸 経 礼 懺 儀』 で は「大 悲 弘 4 普 化」 と あ り、 そ の 「伝」と「弘」との違いを意識した上で『集諸経礼懺儀』 から引用したことを意味する。そしてこの一字の違いに親 鸞の思想が託されているとして、それを読み取る考察が早 く僧鎔 (一七二三~一七八三) などによってなされてい る。   「弘」 の 字 は 親 鸞 自 身 の 註 記 の た め 早 く か ら 注 目 さ れ て き た が、 そ の 他 に 疑 問 視 さ れ て き た も の と し て「専 修 4 有 異」 (翻 刻 篇 五 二 八 頁) が あ る。 こ の 箇 所 は『往 生 礼 讃』 で も『集諸経礼懺儀』でも「専 雑 4 有異」となっているとされ、 親鸞の「専修」という引用はあるいは誤写ともされてきた。 しかし、ここも能島覚によって、複数の古写経本『集諸経 礼懺儀』に「専修有異」とあることが報告さ れ、根拠をも つものであることが確認された。   とはいえ、これだけでは「専雑」と「専修」との違いを 親 鸞 が 意 識 し て い た か ど う か は 不 明 で あ る。 「専 修」 は 非 常に重要な語句であるため、意識していない筈がないとは 言いうるが、一応確認してみよう。注目すべきは『観経弥 陀 経 集 註』 (以 下『集 註』 ) で あ る。 こ れ は 昭 和 十 八 (一 九 四 三) 年 に 発 見 さ れ、 親 鸞 真 筆 と 判 定 さ れ た。 内 容 は『観 経』 『弥 陀 経』 の 経 文 と、 そ の 周 辺 に 主 に 善 導 の 著 作 か ら 関 係 す る 文 を 註 記 し た も の で あ る。 た だ し、 建 保 五 (一 二 一 七) 年 に 発 見 さ れ た 善 導『般 舟 讃』 が 引 用 さ れ て い な い ことから、それ以前の、恐らくは法然の下にいた吉水時代 の学習ノートと考えられている。要するに『教行信証』以 前の著作になるが、この『集註』と『教行信証』に引かれ る善導の文との比較が興味深い。   そこで今の問題である「専修有異」の文章を見よう。こ れは『集註』では「専雑有 異」と記されている。そうする と、親鸞は若いころは通常の『往生礼讃』に拠っていたが、 『教行信証』執筆までに『集諸経礼懺儀』に注目し、こち ( )88 ( )89 ( )90

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らを採用するに至ったということになる。そしてこの「専 雑」と「専修」も、その取捨選択の重要な点であったと考 えられる。   先の能島論文は、親鸞の『往生礼讃』引用文を幅広く検 討し、その結論として開宝蔵系の『集諸経礼懺儀』の転写 本を底本とし、単行本系の『往生礼讃』を用いて校合した も の と す る。 そ の た め、 『往 生 礼 讃』 引 用 文 は そ の 全 体 に 亘って、親鸞の意図が反映されたものとして一句一言まで 注意深く検討していかねばならないのである。   『集 註』 と『教 行 信 証』 と の 差 異 に つ い て、 も う 一 点 考 えたい。それは善導『観経疏』冒頭の十四行偈である。そ の 中 で『集 註』 に「果 徳 4 涅 槃 者」 (真 蹟 集 成 七・ 八 四) と い う 句 が あ る。 こ れ が『教 行 信 証』 で は「果 得 4 涅 槃 者」 (翻 刻 篇 二 一 四 頁) と 引 か れ、 「果 徳」 が「果 得」 と な っ て い る。 これは「果徳」が正しい記述と考えられる が、この変更に は根拠があるのか。   と こ ろ で、 こ れ も 能 島 の 指 摘 だ が、 『愚 禿 鈔』 の 存 覚 書 写 本 に 興 味 深 い 記 述 が あ る。 『愚 禿 鈔』 に も 十 四 行 偈 が 引 か れ て い る が、 そ こ に は 普 通「 願 4 入 弥 陀 界」 (『集 註』 、 真 蹟 集 成 七・ 八 四) と あ る 句 が「 観 4 入 弥 陀 界」 と 引 か れ、 そ こ に存覚が「観字東大寺覚寿僧都『観経義』有之世流布願字 也」と註記しているのである。能島はこの存覚の記述から、 未知の『観経疏』のテキストが親鸞周辺に流布していたこ と を 指 摘 す る。 こ の「願 入」 と「観 入」 の 問 題 は、 「果 徳」と「果得」の問 題にも関わる可能性がある。少なくと も、能島が指摘したように、未知のテキストというものも 想定しなければならないのである。     偶然による記述   中井玄道は、親鸞の引用に偶然による記述があると指摘 していた。この点を論証することは可能であろうか。坂東 本の中には、親鸞自身が誤字・脱字を訂正している箇所が しばしば存在している。親鸞が『教行信証』執筆に際し誤 脱を起こしていたのは事実であり、気が付いた点は訂正し たのである。そうであれば、親鸞自身が最後まで意識しな かった誤脱箇所を特定できれば、それが偶然による記述と いうことになる。しかし、その判定は極めて困難である。 ( )91 ( )92 ( )93 ( )94 ( )95

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何故なら、明らかな誤脱であっても、それが親鸞によるも のなのか、それとも誤脱を起こしたテキストを親鸞が引い たのかは、ほとんど区別できないからである。   とはいえ、親鸞による誤脱と想定できる箇所を一例取り 上 げ た い。 そ れ は『如 来 会』 で の 法 蔵 (法 処) 菩 薩 の 発 願 の 記 述 で あ る。 こ れ は、 「行 巻」 で の『述 文 賛』 の 引 用 中 と、 「信 巻」 の 至 心 釈 と の 二 度 の 引 用 が あ る 経 文 で あ る。 そ し て「行 巻」 で は「大 弘 誓 願」 (翻 刻 篇 八 七 頁) と あ る 言 葉 が、 「信 巻」 で は「大 弘 誓」 (翻 刻 篇 一 九 一 頁) と あ っ て、 「願」の一字が抜けているのである。   同一経典の同一箇所の引用において存在するこの一字の 有無は、親鸞による偶然の脱字と考えられよう。もちろん、 「願」は重要な意味を持つ字であるからその有無に思想的 意味を見出すことや、あるいはこの二度の引用において異 なる『如来会』を用いたと見做すことは不可能ではない。 ただ、さしあたり本稿では偶然の脱字としておきたい。     親鸞による校合   さて、中井の指摘の中で、特殊なものが合糅例である。 中井はこれについて『涅槃経』に限定されるとしているが、 要するに親鸞の『涅槃経』引用は、北本『涅槃経』と南本 『涅槃経』の二本を親鸞が独自に校合した文の引用だとす るものである。先に言及した『往生礼讃』も、広く言えば この例に含まれることになるだろう。   『教 行 信 証』 で も 非 常 に 大 部 の 引 用 に な る『涅 槃 経』 に 関しては、その後、親鸞真筆の二種の抜き書きノートの存 在が公表され ると共に、研究が大いに進展することになる。 重 見 一 行 は『教 行 信 証』 「信 巻」 に お け る『涅 槃 経』 引 用 文について、先行する土橋秀高の研究を踏まえ、北本は福 州 版、 南 本 は 思 渓 版 だ と し て、 「決 し て あ る 特 定 の 涅 槃 経 写 本 (刊 本) の 忠 実 な 引 用 に よ る も の で は な く、 親 鸞 自 身 による幾度か南北両系本を校合した結果のはなはだしい混 態 を 示 し て い る と 推 定 さ れ る」 と 指 摘 し た。 そ の 上 で、 『教 行 信 証』 に 見 ら れ る 最 晩 年 の 書 き 改 め に つ い て も、 ( )96

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「引用文の幾度かの訂正書き込みで紙面が複雑化し汚れて いたのを整理するためであった」と結論し た。   この重見の指摘からは、親鸞が引用に際して独自に校合 した典籍を用いている可能性を考えなければならなくなる。 その一つとして『無量寿経』を考えたい。言うまでもなく、 親鸞が思想の根幹に据えた経典である。   『無 量 寿 経』 に つ い て、 漢 訳 諸 本 を 博 捜 し 校 勘 を 行 っ た のが藤田宏達である。藤田はそこから親鸞の用いた『無量 寿経』について検討しているが、結論として「親鸞が依用 した『無量寿経』がどの系統のものであったかを残念なが ら確定できない、というのが現段階での結論であ る」と述 べた。この藤田の結論は、先の『涅槃経』引用への指摘を 踏まえた時、実は親鸞は『無量寿経』を引用する際、自ら 諸本を校合したものを用いたのではないか、という推論を 惹起させる。例えば『観経集註』には『観経』本文に対し 異本の註記があ る。同様に『無量寿経』についても異本を 収集し、校合したことは十分に考えられる。もちろん、今 後『教行信証』での引用と完全に合致する『無量寿経』が 発見されることもありうるが、親鸞による校合を可能性の 一つとして提示しておきたい。   親鸞による校合を考えた場合、注意すべきは異本を直接 参 照 し な く と も、 可 能 な 場 合 が あ る と い う こ と で あ る。 「教巻」に引かれた『無量寿経』の「無蓋大 悲」を例にし たい。これは、藤田の調査によれば、真宗系の流布本以外 で は 敦 煌 本 と 天 平 六 (七 三 四) 年 写 本 に の み 見 出 さ れ る も ので、その他の版本などはほぼ「無盡大悲」となってい る。 また、江戸期に校合された通称十本校異本には、光明皇后 (七〇一~七六〇) 本に「無蓋大悲」とあるとされてい る。 この光明皇后本から、妻木直良は「是に於て所覧本が奈良 朝の古写経に迄及んで居るといふ事実が類推せらる ゝ」と 指摘している。傾聴すべき見解だが、必ずしもそうとは限 らない。古くから指摘されている が、この「無蓋」と「無 盡」 に つ い て は、 例 え ば 浄 影 寺 慧 遠 (五 二 三 ~ 五 九 二) 『無 量 寿 経 義 疏』 に は「有 経 本 治 為 無 盡。 無 蓋 是 正。 不 須 治 改。 」 (大 正 蔵 三 七・ 一 〇 〇 中) と あ り、 「無 盡」 で は な く 「無蓋」こそ正しいとしているからである。親鸞による校 合がなされていた場合、このような諸注釈書の記述が反映 されている可能性も考慮されなければならない。 ( )97 ( )98 ( )99 ( )100 ( )101 ( )102 ( )103 ( )104

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