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ローマ書4 章におけるアブラハム ―誰の誇りか?―

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ローマ書 4 章におけるアブラハム

誰の誇りか?

―(1)

山 口 希 生

Abraham in Romans 4:

Who is boasting?

Norio Yamaguchi

Abstract

Romans 4:2 has normally been taken as a hypothetical question concerning whether or not Abraham could boast of his good works before God. It has been assumed that, by firmly denying this possibility, Paul implicitly criticizes Jews for boasting of their good works before God. This article challenges the conventional reading, and argues that the one who is boasting in verse 4:2 is not Abraham in the remote past but a circumcised Jew of Paul’s day, who is boasting of Abraham as the forefather of the circumcised in the flesh. I shall defend this reading from grammatical and contextual points of view, as well as by comparison with the description of Abraham in Ben Sirach.

(2)

1. 導入

パウロの「律法の行いによらない、信仰による義」の議論において、族長アブ ラハムは大きな意味を持つ(2)。信仰による義が中心主題となっているガラテヤ書 3-4 章やローマ書 1-4 章において、パウロは繰り返しアブラハムに言及している からだ。特にローマ書 4 章ではアブラハム自身が議論の焦点となっている。そこ で問題となるのは、パウロがアブラハムを議論に導入した意図、動機である。パ ウロの関心を占めていたのは義とされるための方法4 4、つまり義とされるのは「行 い」によるのか「信仰」によるのか、ということだったのか。そしてアブラハム を「行い」ではなく「信仰」によって義とされる人の典型または原型として提示 しようとしたのだろうか(3)。あるいはパウロの主たる関心は「異邦人問題」だっ たのか。パウロは救いの射程がユダヤ人だけでなく、(モーセの「律法の行い」 を行わない)異邦人にも及ぶことを立論するために、救いの約束が与えられたア ブラハムは「ユダヤ人の父祖」であるのみならず「諸民族の父祖」であると論じ ようとしたのだろうか(4)。またそもそもこのように「あれかこれか」と問うこと 自体が的外れで、ジョン・バークレーが言うように、「我々の課題は、神への信 仰者と諸民族の父という、パウロによるアブラハムの二重の描写を統合するこ と」なのだろうか(5)。本稿は、特に「誇り」というテーマに着目してローマ書 4 章 1-3 節への新たな解釈を提起し、この議論に貢献することを目的としている。

2. ローマ書 4 章 1 節についての近年の解釈史と、残された課題

ローマ書 4 章の冒頭の一節の問いは、アブラハムに関するこの章全体の議論の 方向性を決定づけるものであり、それゆえ学者たちの高い関心を集めてきた(6) 同時に、この一節は構文的にも意味上も曖昧で、解釈者たちを悩ませてきたもの でもある。

(3)

Τί οὖν ἐροῦμεν εὑρηκέναι Ἀβραὰμ τὸν προπάτορα ἡμῶν κατὰ σάρκα.

この一節の釈義は、完了形不定詞の

εὑρηκέναι

をどう理解するかにかかってい る、と言っても過言ではない(7)。この動詞の主語も目的語も明確ではないから だ。日本の代表的な聖書訳においても、この点に関しては見解が分かれている。 聖書協会共同訳:では、私たちがアブラハムを肉による先祖としていること については、何と言うべきでしょう。 新改訳 2017:それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、 と言えるのでしょうか。 新共同訳:では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たというべ きでしょうか。 岩波訳:それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出す[に至っ た]と、私たちは言うのであろうか。 聖書協会共同訳では

εὑρηκέναι

の主語を「私たち」とし、アブラハムを目的語 としているのに対し、新改訳 2017、新共同訳、そして岩波訳は

εὑρηκέναι

の主 語を「肉による私たちの父祖(先祖)アブラハム」とし、その目的語を冒頭の疑 問視「何を(τί)」としている。後者の場合、ではアブラハムが何を見出したの か、という問いへの暗黙の答えは、「恵み」であるとするのが一つの有力な見方 となっている(8)。アブラハムは行いによらずに恵みを見出す者、つまりキリスト 者のモデルだとされる。すると、「アブラハムを肉による父祖とする私たち」と は、アブラハムのように恵みを見出すキリスト者だということになる。だが、パ ウロがアブラハムをキリスト者の「肉による」父祖と呼ぶだろうか。ガラテヤ書 で、パウロはアブラハムの子イシュマエルが「肉によって」生まれたと語るが、 これは寓話的な講話であり実際にはユダヤ民族を指している。つまり、この場合 にアブラハムを肉による父祖とするものとは、イシュマエルまたはイサクの血縁 上の子孫のことであり、キリスト者ではない。このようなパウロの用例を勘案す

(4)

れば、「肉による

κατὰ σάρκα」が「キリスト者の父祖アブラハム」を修飾すると

見る解釈には看過できない問題がある。 この一節について、1 世紀以上も前にテオドール・ツァーンが提起した解釈は 今日でも一定の支持を集めている。ツァーンは、Τί οὖν ἐροῦμενのローマ書全 体を通じての用法に着目した(9)。すなわち、このフレーズはそれまでのパウロの 議論を聞いた論敵が提起するであろう命題、そしてパウロがその後の議論で論破 しようとしている命題を導入する際に使われている、という事実である(8 章 31 節は明らかな例外である)。4 章 1 節もこれらと同じ構造になっている、と考え られる。 ローマ 4:1 

Τί οὖν ἐροῦμεν; εὑρηκέναι Ἀβραὰμ τὸν προπάτορα ἡμῶν κατὰ

σάρκα;

不定詞の主語(おそらく

ἡμᾶς)を欠く、このような破格構文はパウロの書簡に

はありそうもないという批判に対しては(10)、不定詞とはそもそも主語を限定し ない(infinite)ものであり、ここでパウロは主語を曖昧にするためにあえて不 定詞を用いたとも考えられる(この点については後に考察する)(11)。だが、こ の構文理解が妥当だとしても、アブラハムを主語と見るか、目的語と見るかで見 解は分かれる。ウルリッヒ・ルツは、アブラハムを主語として

χάριν

という目的 語を想定するのが自然であると示唆する(12)。パウロはここで「信仰」と「行い」 という二項対立から考えていて、アブラハムは行いがなくとも罪人を受け入れる 神の恵みを見出した、と解するのである(13)。だが、アブラハムを主語と解する と、なぜパウロが動詞に不定詞を用いたのかが不明である。 これに対してヘイズはツァーンに従い、アブラハムを目的語とし、この一節の 前後でパウロが論じている「ユダヤ人と異邦人との関係性」という視点から解す るように提案する。ヘイズは次のような訳を提起する。 ヘイズ訳:それでは何と言おうか?私たちはアブラハムを肉による父祖とし

(5)

て見出してしまったのか?

What then shall we say? Have we found Abraham (to be) our forefather according to the flesh? (14)

この解釈は聖書協会共同訳のものに近い。ヘイズは当初、主語の「私たち」を 「ユダヤ人」と解し、「パウロは、正しく理解されるユダヤ教そのものが、アブラ ハムとの関係を単に血縁的なものだとは主張していない、と論じようとしてい る」(15)と解釈していた。だが、後に N. T. ライトの修正を受け入れている。ラ イトは主語の「私たち」を「ユダヤ人、異邦人両方のキリスト者」と解し、ここ で問われているのは、異邦人キリスト者もアブラハムの肉による子孫となるため に、割礼を受ける(換言すれば、ユダヤ人になる)必要があるのかどうか、とい うことだと論じる(16)。ライトの解釈は、4 章 1 節を、その前後の「割礼」につい てのパウロの議論と結び付けようとするものだ。割礼は「異邦人問題」の核心に あるものであり、ローマ書においてユダヤ人と異邦人との関係がパウロの重要な 争点であったことに疑問の余地はない(17) しかし、「行い」対「信仰」という線での理解は、そのすぐ後の 2-3 節とうま くかみ合うように見える。2-3 節では、パウロはもっぱらアブラハムが義とされ るための手段(「行い」か「信仰」か)について論じており、「異邦人問題」は視 界から消えたように思われるからだ。サイモン・ギャザコールは、アブラハムの 神の前での誇りと、イスラエル民族の誇りとの間に並行関係を見出そうとする。 ギャザコールは 3 章 27 節の「誇り」を、律法を行うことで義とされることを神 に対して誇る、イスラエルの「誇り」を指していると見る。そこでパウロは、 「もしアブラハムが行いによって義とされたのなら、彼は誇りを持つ。だが、神 の前ではそうでなかった」と指摘し、アブラハムでさえ神の前に誇れないのに、 どうしてイスラエルが神に誇りを持ち得ようか、と論じていると解する(18) このように、パウロがユダヤ人たちの「行為義認(とそれに伴う誇り)」に反 駁するためにアブラハムを例に挙げたという伝統的な見方は、直近の文脈によっ て支持されるように思われる。だが、2-3 節では本当に異邦人問題が問われてい

(6)

ないのだろうか。これについて、本稿では 1 節と 2-3 節との関係について新しい アプローチを提起したい。

3. 異邦人に対するユダヤ人の誇り

まず、冒頭の一節について、本稿では以下の訳を提案する。 それではなんと言おうか? 私たちの父祖アブラハムを、肉によって見出し たのか?

What then shall we say? To have found our forefather Abraham according to the flesh?

εὑρηκέναι

が完了形不定詞であることから生じる大きな釈義上の問題は、その主 語が誰であるのかが不明なことである。先にヘイズとライトの例を挙げたよう に、その主語を誰と想定するかによって、この問いの持つ意味合いも大きく異 なってくる。だが、パウロは完了形不定詞を用いることで、主語を曖昧なままに したとも考えられる。パウロはしばしば、論敵のアイデンティティを曖昧にして 議論を進めることがあるからだ(例として、ガラ 2:12)。アブラハムがどのよう4 4 4 4 な根拠で4 4 4 4私たちの父祖であるのかという点は、まさにパウロにとっての死活的 な争点だった。なぜなら、その根拠をどう理解するかで、「私たち」の範囲も変 わってしまうからだ。パウロはガラテヤ書で、アブラハムが割礼のあるユダヤ人 キリスト者、無割礼の異邦人キリスト者の両方の父祖であると強く主張している が(ガラ 3:29)、彼の主張に納得せず、創世記 17 章の明確な神の戒めを根拠にパ ウロに反対する者もいただろう ( 創 17:9-10)。アブラハムとの関係を肉によって 見出したのがパウロの反対者だとするならば、パウロがあえて主語を省いたとし ても不思議ではない。 これに関連して、筆者がヘイズやライトの釈義とは見解を異にするのは、τὸν

προπάτορα ἡμῶν

を述語名詞とは取らずに目的語の一部と解することと、κατὰ

(7)

σάρκα

というフレーズをニュートラルな意味での「血縁によれば」とは取らず、 そこに否定的なニュアンスを読み取っている点である。本稿では、4 章 1 節の問 いの背後にある問題とは、ユダヤ人、特にユダヤ人キリスト者がアブラハムを肉 による父祖として見出すことで生じる「誇り」であると提起する。パウロの神学 的語彙において、「肉(サルクス)」は様々な意味合いを持つが、ここでの最も 重要な側面とはユダヤ人の帰アイデン属意ティティ識と誇りである。ジェイムズ・ダンは、「身体 的/肉的なアブラハムとの関係性は、その意義が認められる場合もあれば(ロマ 9.3, 5)、誤った(民族的)奢りへと人を導く原因ともなる(9.8)」と述べている が(19)、当該箇所で問題となっているのは後者だ、ということである。 異邦人に対するユダヤ人の誇りは、ローマ書 4 章に先行するパウロの議論の 中心テーマの一つである。ここで強調したいのは、パウロが問題にしているの は神に対して謙らず、自らの功績を神の前に誇ろうとするユダヤ人の態度では ない、という点である(20)。ローマ書 2 章 17 節で、パウロはユダヤ人と称する者 が「神」と「律法」を誇っていると示唆するが(21)、彼の誇りが向けられている のは神ではなく、神を持たない異邦人であるのは明白である。パウロは、ユダヤ 人が神の言葉を委ねられている点で異邦人より優位にあることは認めつつも、ユ ダヤ人は律法を持つことを異邦人に対して誇れない、と論じる。彼らは律法を守 ることが出来ない、なぜなら「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある」か らだ(ロマ 3:9)。ユダヤ人も異邦人も等しくキリストの贖いを必要としているた め、ユダヤ人の異邦人に対する誇りは否定される。このように、ローマ書 1 - 3 章においてパウロは、人間が良い行いによって神の前に誇ることが可能かどう か、という人間論的な問題に取り組んでいるのではない。むしろパウロは、ユダ ヤ人の異邦人への優越感の根拠となる事柄を一つ一つ否定し、神と律法を持つ ことによるユダヤ人の異邦人に対する誇りは取り除かれた、と結論付ける(ロマ 3:27)(22)。このような文脈に照らせば、4 章 1 節の問いの目的とはユダヤ人の誇 りのもう一つの根拠、つまり割礼者アブラハムが割礼の者たちだけ4 4の父祖である という彼らの信念を取り扱うことである、という可能性が拓けてくる。

(8)

4. 「肉によって」誇ること

4 章 1 節についての本稿の提案をさらに擁護するために、カギとなるフレーズ

κατὰ σάρκα

について検証する必要がある。本稿はこのフレーズについて、単に 「血縁によれば」とは取らずに、ユダヤ人としてのアイデンティティ、とりわけ 割礼から生じる異邦人に対する誇りを含意していると主張する。このように解す る上でとりわけ参照すべきは、第 II コリント書 11 章 18 節である。

ἐπεὶ πολλοὶ καυχῶνται κατὰ σάρκα, κἀγὼ καυχήσομαι.

この 18 節の「多くの者」にはパウロの論敵が含まれているであろうし、特に 21 節とのつながりに注目すべきだ(23)。換言すれば、「肉によって誇る者」とは、 「ヘブライ人であり、イスラエル人であり、アブラハムの子孫である」ことを誇 る者だということである。第 II コリント書でパウロに愚かな「誇り」合戦を強 いる論敵たちとは誰かという問いは大いに論議を呼ぶ点であるが、ここではパウ ロと論敵たちとの論争の核心にあるのがユダヤの民族的遺産の問題であることを 指摘するのに留めたい。この件に関して、ディーター・ゲオルギは次のように解 説する。 第 II コリント書における論争の最も重要な新しい特徴は、それが外部から コリントにやってきた宣教団に向けられていることと、ユダヤ的伝統への誇 りと密接に関連していることだ。第 I コリント書の論敵たちにはユダヤ的特 性の痕跡はない。そして第 I コリント書とは異なり、第 II コリント書では 旧約聖書が争点になっている(24) では、11 章 18 節の「肉によって誇る」ことがユダヤ人としての誇りを指すもの ならば、彼らは如何なる根拠で「アブラハムの子孫」であることを誇り得るので

(9)

あろうか。彼らの誇りは単に血縁上の結びつきに基づくとする議論も少なくはな いが(25)、アブラハムを肉による父として誇ることができるのはユダヤ人だけで はないことを強調したい。イスラエル民族の長年の仇敵であるエドム人にとって も、アブラハムは肉による父祖なのだから。さらには、第二神殿期にはアブラハ ムがイスラエル人やエドム人などの血縁上の子孫のみならず、諸国民の父である という見方も存在していた(この点はこれから論じる)。では、ユダヤ人はどの ような根拠でアブラハムを排他的な意味で自分たちの父として誇ることができた のか。この問いに関しては、第二神殿期のユダヤ人がアブラハムを血縁上の父祖 としてだけでなく、律法を守る者4 4 4 4 4 4として誇っていたという証拠は十分にある(例 えば、『ヨベル書』6:19; 『ダマスコ文書』3:1-4; 『第二バルク』57:2)。これについ て特にシラ書 44 章 19-21 節のアブラハムの記述は注目に値する。以下に七十人 訳の私訳を供する(26) アブラハムは夥しい民族の(πλήθους ἐθνῶν)の大いなる父、 その栄光に比べられるものは見出されなかった。 彼はいと高き方の律法(νόμον ὑψίστου)を守った、 またいと高き方と契約を結んだ。 彼は肉において(ἐν σαρκὶ)契約を立て (ἔστησεν διαθήκην)、 そして試みにおいて、忠実であることが見出された(εὑρέθη πιστός)。 それゆえ、主は彼に誓って確約された。 諸国民が彼の子孫によって祝福を受けることを(ἐνευλογηθῆναι ἔθνη ἐν

σπέρματι αὐτου)。

彼を大地の塵のように増やし その子孫(τὸ σπέρμα αὐτοῦ)を星のように高く引き上げることを。 また、海から海まで 川から地の果てまで、彼らに受け継がせることを(27) この一文は、パウロのアブラハムについての論述と明らかな並行関係を示してい

(10)

るが、いくつかの点で顕著な違いもある。ベン・シラとパウロは以下の重要な 点で合致している。両者ともアブラハムを夥しい数の諸民族の父として描いてい る(ロマ 4:16, 18 参照)。そして七十人訳シラ書の

πλήθους ἐθνῶν

という表現か らは、アブラハムの父性が血縁上の制約を超えた諸民族に及んでいると記者が見 ていることを強く示唆する。同時に、両者ともアブラハムの子孫(σπέρμα)を 諸民族の子らとは明確に区別している、なぜなら諸民族はこの子孫によって祝 福を受けるからだ(ガラ 3:8)。換言すれば、ベン・シラもパウロもアブラハムの 普遍的・越境的な諸民族への父性を認識していたが、アブラハムへの約束に関し てはその子孫(つまりイスラエル)に特別な役割を与える余地を残していたと いうことだ。事実、両者とも、全世界を相続するという約束はアブラハムの子孫 (σπέρμα)に与えられた、と論じている(ロマ 4:13; ガラ 4:16, 29)。 他方で両者の相違点としては、ベン・シラはアブラハムを律法の順守者とし て描いており、神とアブラハムとの契約が肉において(ἐν σαρκί)、つまり創世 記 17 章に記録されている割礼によって締結されたことを強調している点である。 この点において、パウロの見方は大きく異なっている。パウロにとって、アブラ ハムが義とされて契約が締結されたのは創世記 15 章においてであり、肉の割礼 はすでに締結された契約のしるしに過ぎない。このように、ベン・シラにとって 肉の割礼は神とアブラハムとの契約の重要な構成要素だが、パウロはそのような 見方を否認している。 パウロとベン・シラとの比較から、いくつかの重要な結論が導き出される。第 一に、パウロのアブラハムへの見方には当時のユダヤ人とのかなり共通するも のがある。第二に、第二神殿時代のユダヤ人の少なくとも幾人かは、アブラハム の世界に広がる父性を認識していた。第三に、そして最も重要なことは、ユダヤ 人の間にはアブラハムを律法を熱心に順守する割礼の人として描く傾向があっ たことだ。そしてその点こそ、ユダヤ人がアブラハムとの特別な関係を主張す る上での重要な根拠となっていた。換言すれば、ユダヤ人がアブラハムを父と して誇ることの根底には、アブラハムが熱心に律法を守っていたという彼らの確 信と、実際にアブラハムは律法の行いである肉の割礼を受けていたという事実が

(11)

あったということだ。先に記したように、第二神殿時代のユダヤ人にはアブラハ ムを律法遵守者として描く傾向があったが、アブラハムが実際にモーセの律法 を守ったという記述は創世記にはない。だが、「肉の割礼」だけはその明確な例 外である(創 17:12; レビ 12:3 参照)。実際、もしアブラハムが肉の割礼を受けて いなかったのなら、ユダヤ人たちがアブラハムを律法遵守者の父として誇るこ とは困難だっただろう。この点が、ローマ書 4 章 1 節を理解するうえで重要であ る。つまり、カギとなるフレーズ

κατὰ σάρκα

には「アブラハムと割礼を受けた ユダヤ人との間の肉によるつながりを示す、肉の割礼」という意味合いが含意 されているということである。これについては、他のパウロ書簡からも裏付け られる。パウロは自らのユダヤ人としての肉による(ἐν σαρκί)自信の根拠とし て、イスラエルの民に属していることよりも前に、割礼を受けていることを挙げ ている(フィリ 3:5)。また、ガラテヤ書 6 章 12 節でもパウロの論敵たちがガラ テヤ人たちに割礼を受けさせて、彼らの肉を誇ろうとしている(ἐν τῇ ὑμετέρᾳ

σαρκὶ καυχήσωνται)と記している。ここでの「肉」が割礼を指すことは明白で

ある(28)。このように、パウロの「肉」の用法には「割礼」と「誇り」との強い つながりが認められる。

5. 誰が誇るのか?

上記のローマ書 4 章 1 節の釈義が的を射たものであるならば、次節についても まったく新しい観点から理解すべきである。伝統的にローマ書 4 章 2 節は、アブ ラハムが神の前に自らの善行を誇ることが出来るかどうかについての仮定的な問 いとして理解されてきた。この見方によれば、パウロの要諦は「アブラハムが神 の前に誇るのに十分な善行を行うことが出来なかった」という点にある(29)。さ らにパウロの本当の狙いは、神の前に自らの善行を誇るユダヤ人たちの驕りを打 ち砕くことにあったということになる。本稿はこの伝統的な見方に対し、次の一 節についてそれに代わる釈義を提起する。

(12)

εἰ γὰρ Ἀβραὰμ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη, ἔχει καύχημα, ἀλλ᾽ οὐ πρὸς θεόν.

この一文の文法的な曖昧さに注目すべきだ。条件節の主語も、帰結節の主語も特 定されておらず、しかも以下で見ていくように、文法的に誤りを含んでいるよう に思われる。条件節については、アブラハムを義とした主体は明記されていない が、本書簡を通じて義認の主体は常に神であることから(ロマ 2:13; 3:20, 24, 26, 28, 30; 4:3, 5, 9-11, 23-25; 5:1, 9; 8:30, 33)、本節についても神であると見なしてよ いだろう。したがって、伝統的な解釈に従えば、本文は以下のように訳される。 ここでは、文法的な側面を強調するために英訳を供する。

If God had justified Abraham by his (good) works, he, Abraham, boasts (to other humans) but not before God.

この仮定法過去完了の英文の帰結節は文法的に誤っているが、ギリシャ語本文の 文法的な曖昧さに光を当てるために、あえて直訳した。この一文は、終末的な最 後の審判においてアブラハムが行いによって裁きを受ける情景を仮定したものと 解されてきた。アブラハムといえども、その生涯における行いは完璧ではなかっ たので、行いによっては義とされ得ず、したがって神の前に誇ることは不可能だ ろう、という論理立てである(30) だが、文法的な観点からは、この一文の条件節は未来の出来事を指すことは出 来ない。もしこれが、終末におけるアブラハムの義認という仮定的な描写である なら、この構文は

εἰ + 祈願法 (the optative mode) でなければならない。けれど

も、パウロは直接法アオリストを用いているので、それは実際には起こらなかっ た過去の出来事を指している(「事実に反する」条件節)。パウロは創世記 15 章 の過去の出来事に言及し、その折にアブラハムがもし「行い」によって義とされ たのならば、と仮定しているのだ。本稿は、創世記 15 章の場面でアブラハムが 「行い」によって義とされていたのならば、そのことで誇るのはアブラハムでは なく、パウロの時代のユダヤ人であると解し、以下の訳を提案する。

(13)

もし神がアブラハムを行い(この場合は特に「割礼」を指す)によって義と したのなら、彼、すなわち割礼のあるユダヤ人は4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4アブラハムを割礼のある者 の父祖、つまりユダヤ人の父祖として誇ることが出来る。 この釈義を支持するものとして、以下に三つの根拠を挙げる。第一に、パウロ はアブラハムがもし「行い」によって義とされたのなら、と仮定しているが、で はどのような「行い」をパウロは念頭に置いているのだろうか。上述したよう に、それは未来の最後の審判で神の前に義と認められるために積み上げられた 「良い行い」ではない。むしろ、ここではローマ書 4 章 2 - 3 節と 9 - 11 節と の強いつながりに注目すべきだ、なぜならどちらも創世記 15 章の解釈に係わる ものだからだ。換言すれば、2 節のアブラハムの「行い」は 9 節のアブラハムの 「信仰」と対比して考えるべきだ、ということである。そして 9 節でアブラハム の信仰が対比されているのは一般的な意味での良い行いではなく、割礼という律 法の行いなのである。したがって、パウロがここで念頭に置いていた「行い」と は、イスラエル民族と諸民族との境界線を定めるところの「律法の行い」だとい うことである(31)。では、アブラハムがユダヤ民族との紐帯を強く指し示すよう な「行い」によって義とされたのなら、それによって誇るのは誰であろうか。割 礼を受けたユダヤ人が、割礼なしの異邦人に対して、割礼の人アブラハムを父祖 として誇るのではないか。なるほど、帰結節の主語として割礼のあるユダヤ人が 登場するというのはいかにも唐突かもしれない。しかし、パウロのこれまでの議 論の中で、誇る者は常にユダヤ人であり、しかもユダヤ人の異邦人に対する誇り であることに注目すべきだ(ロマ 2:17, 23; 3:27)。なるほど、2 章 17 節と 23 節で は、誇る主体は「あなた(二人称単数)」となっているので、パウロがこの想定 上の対話相手を念頭に置き続けているのならば、ここでも「あなたは誇ることが 出来る」となるべきかもしれない。だが、人称代名詞の突然の変更は、パウロの 議論では珍しいものではない。例えば、3 章 3 節の

ἡ ἀπιστία αὐτῶν(彼らの不

信仰)と 5 節の

ἡ ἀδικία ἡμῶν(私たちの不義)とは同じ指示対象であるが、唐

(14)

突に三人称から一人称に切り替えられている。したがって、帰結節の主語はアブ ラハムであるという伝統的な見方は、少なくとも自明なものではない。 第二に、文法的な観点からも帰結節の主語をアブラハムとする伝統的な解釈に は難がある。過去の事実に反する仮定の場合、条件節にはε ἰ とアオリストが、 主節も ἄ νとアオリストが用いられる(32)。それゆえ、もし帰結節の主語がアブ ラハムであるならば、以下のようでなければならない。

εἰ γὰρ Ἀβραὰμ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη, ἔσχε ἄν καύχημα [...]

だが、パウロが帰結節で現在形の動詞を用いていることから、パウロがここで視 点を別の事柄にシフトしている(同時に読者にそれを促している)と見るべきで はないか。つまり、族長時代の出来事からパウロの時代へと、読者の視線を切り 替えるように促しているということだ。 第三に、ギャザコールが論じるように(33)、パウロがアブラハムの誇りとユダ ヤ民族の誇りとの間に並行関係を作り出そうとしているなら、パウロは「もし神 がユダヤ民族を彼らの良い行いによって義としたのなら、彼らは他の人々、つま り異邦人に対しては誇りを持つことが出来るが、神に対しては誇ることは出来な い」と暗に論じていることになる。だが、パウロがこれまで問題にしてきたの は、ユダヤ人の神に対する誇りではなく、異邦人に対する誇りであることから、 このような立論は彼の先の議論をかえって否定してしまう結果になる。したがっ て、前後の文脈から考えても

ἔχει καύχημα

をアブラハムが他の人々に対して持 つ誇りだと解するのは妥当ではない。 以上の点を勘案すれば、帰結節の主語はアブラハムではなく、むしろ割礼の人 としてのアブラハムとの特別な関係を誇る、割礼を受けたユダヤ人であると解す るのが妥当であると考える。そこで、4 章 1 節以下を次のように訳することを提 案したい。 それでは何と言おうか?私たちの父祖アブラハムを肉に従って、つまり肉に

(15)

割礼を持つ者の祖父として見出してしまったのか? もし神がアブラハムを行い(この場合は特に「割礼」を指す)によって義と したのなら、彼、すなわち割礼のあるユダヤ人は4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4アブラハムを割礼のある者 の父祖、つまりユダヤ人の父祖として誇ることが出来る。だが、神はそのよ うな誇りを是としない。[なぜなら神は、実際にはアブラハムが割礼を受け る前に彼を義としたからだ。] 要約すれば、パウロが批判したのは神に対して自らの善行を誇ろうというユダヤ 人の不遜な態度ではなく、アブラハムが割礼を受けていたという事実に基づいて 異邦人に対して誇るユダヤ人の態度だということだ。

6. ローマ書 4 章 1-3 節と 4-5 節との関係

さて、ここまで論じてきたローマ書 4 章 1-3 節の理解は、それに続く 4 - 5 節 との関係から見ても妥当であろうか。4-5 節は、これまでの議論の結果とは矛盾 するのではないか。すなわち、4 節の「報酬」とは行いによって勝ち取られる義 認を示唆しているように思われ、自らの行いによって獲得された義認は人を「誇 り」に導くであろうからだ(34)。4-5 節の主題が「行為義認」とそれに伴う「誇り」 であるならば、その直前の 1-3 節も同じ主題を扱っているのではないか。アブラ ハムは単に「行いによらない、信仰による義」の例示に過ぎず、したがってパウ ロはすぐに別の例に話題を変えたのであろうか。だが、アブラハムは 4 章全体を 通じて議論の中心であり続けることから、ここでアブラハムがパウロの視界から 完全に消えてしまうとは考えにくい。 この点について N. T. ライトは、4 節でもパウロはアブラハムを忘れたわけで はないと論じる。すなわち、「報酬(μισθός)」とは一般的な労働の対価のことで はなく、七十人訳の創世記の 15 章 1 節で言及される「報い」を指しているのと 見るのである(35)。このときアブラムが神から望んだ「報い」とは労働の対価で はなく、ましてや終末における義認でもなく、自分の跡取りとなる子どもが与え

(16)

られることだった。ライトが正しいのなら、パウロが言及した「報い(μισθός)」 とは「子孫(σπέρμα)」のことなのである。神はアブラハムに対し、空の星のよ うな夥しい数の子孫を約束した。さて、ここで注目すべきは、創世記の物語の流 れにおいて、夥しい子孫が与えられることはアブラハムの忠実無比な行いに対す る報いとして描かれていることだ。神はイサクを献げようとしたアブラハムに対 し、こう誓った。 あなたがこうして、自分の息子、自分の独り子を惜しまなかったので、私は あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように 大いに増やす(創 22:16-17)。 ここでは、アブラハムの受ける報い、つまり夥しい数の子孫は、アブラハムの信 仰の行いへの報いとして描かれている。この点が、第二神殿期のユダヤ教ではし ばしば強調され、先に見たシラ書でも正にこのような観点から描かれていた。シ ラ書では、諸国民への祝福やアブラハムの世界に拡がる家族が、少なくとも部分 的にはアブラハムの忠実さへの「報い」として捉えられている。ウォルター・モ バリーはこの点について以下のように論じている。 アブラハムは従順によって祝福の受け手としての資格を得たのではなかっ た、なぜなら祝福の約束は既に彼に与えられていたからだ。むしろ、既にあ る約束が追認されたが、その条項が変えられたのだ。約束は、先の場合には 単にヤハウェの意思と目的とに基づいていたが、いまやそれはヤハウェの意 思と共に4 4 4アブラハムの従順に基づくものとなったのだ(36) パウロはアケダについては沈黙しているが、あるいは 4 章 4 節ではアブラハムが その信仰の行いについて報いを得たことに暗に触れているのかもしれない。だが 他方では、創世記 22 章自体には「義とされる」ことについては何も書かれてい ない。アブラハムが義とされたのはそのずっと以前、創世記 15 章の時である。

(17)

しかも、この時点ではアブラハムは無割礼の者だった。第二神殿期のユダヤ人の 基準からすれば無割礼の者は罪人であり、不信心な者なのだ。つまり、アブラハ ムが義とされたことを創世記 22 章のアケダと結び付けようとするユダヤ人たち に対し、パウロはアブラハムが行いによって報いを得たことを否定しないまで も、義とされたのは行いによるのではないことを論じているのが 4 - 5 節であ る、と読めるのである。このように、この箇所も「行い」対「信仰」という単純 な図式ではなく、多義的な意味を持ちうるアブラハムの信仰の生涯についてのパ ウロと同時代のユダヤ人たちとの対話と見る方が妥当ではないか。

7. 結論

これまでの議論から、パウロがローマ書 4 章でアブラハムに言及したのは、自 らの善行を神の前に誇る、奢れるユダヤ人を暗に批判するためではなかった、と いうことが示せたと考える。むしろ、パウロの念頭にあったのはユダヤ人信者の 異邦人信者に対する優越性の根拠の一つとなり得る肉の割礼であり、アブラハム を割礼のある者の父祖として誇るユダヤ人こそ、パウロの議論の標的であった。 パウロは割礼問題をガラテヤ書で扱っているが、この場合にはガラテヤの信徒 が割礼を受けることを思いとどまらせようという喫緊の課題があり、それゆえ論 調も苛烈なものとなった。それに対し、ローマ書簡ではユダヤ人と異邦人の関係 の問題という、本書簡全体を貫くメイン・テーマにおける重要項目の一つとして 扱われており、その思想はさらに深められている。極言すれば、パウロにとって は肉の割礼はあってもなくてもどちらでもよいものだったのだが(I コリ 7:19)、 肉の割礼が教会の一致の妨げとなる場合には、それに断固反対した。アブラハム が肉の割礼を受けたという事実を重視する立場は教会の一致への脅威となること から、パウロはこの問題を慎重に扱った。アブラハムを分断ではなく一致のシ ンボルとして提示することこそが、ローマ書 4 章におけるパウロの真意なのであ る。

(18)

(1)  本稿の草稿段階(英文)で、セント・アンドリュース大学の David Moffitt 氏か ら貴重なコメントを頂いたことに感謝申し上げる。また、日本新約学会の第 59 回 学術大会での発表について、関西学院大学の浅野淳博氏よりいくつかの重要な指摘 を頂き、本稿の完成に大変役立ったことにも感謝申し上げる。 (2)  πίστιςを「信仰」と解するべきか、あるいは「信実」とすべきかはパウロ研究に おける重要な争点の一つとなっている。本稿では「行い」対「信仰」というパウロ 神学に対する伝統的な見方に着目することから、あえて「信仰」という訳を採用す るが、それは著者自身の理解を反映するものではないことを付言しておく。 (3)  これがプロテスタントの伝統的な理解であり、この立場に立つ学者は多い。最

近 の 註 解 書 で は、Richard N. Longenecker, The Epistle to the Romans (Grand Rapids: Eerdmans, 2016), 475-92 を見よ。

(4)  このような観点からの代表的な研究書として、Stanley K. Stowers, A Rereading of Romans (New Haven & London: Yale University Press, 1994); Richard B. Hays, The Conversion of the Imagination (Grand Rapids: Eerdmans, 2005), 61-84. (5)  John M. G. Barclay, Paul and the Gift (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2015), 481.

以下、邦訳されていない外国語文献からの引用は私訳を供する。なお、N. T. ライ トはパウロがアブラハムに言及する理由として、さらに詳細な 6 類型を示してい る。Cf. N. T. Wright, Pauline Perspectives (Minneapolis: Fortress, 2013), 555-6. (6)  このテーマに関する戦後の主な研究については、Hays, ibid., 61, n.1 を参照。 (7)  本文批評の問題として、εὑρηκέναιをἈβραὰμの前に置いているケース(キプ

リウス、レギウス写本等)や、εὑρηκέναιそのものが省かれている写本(ヴァティ カン写本等)もある。だが、上記の読みを支持するコンセンサスが形成されてい る(א A C D F G Ψ et al.)。Cf. Bruce Metzger, A Textual Commentary on the Greek New Testament (London and New York: United Bible Societies, 1971), 509-10.

(8)  例として、Otto Michel, Der Brief an die Römer, Kritische-exegetischer Kom-mentar über das Neue Testament; Bd. 4 (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1978), 161-2; Dunn, James D. G. Dunn, Romans, WBC; 2 vols. (Dallas: Word, 1988-89), 1.198.

(9)  Cf. Theodor Zahn, Der Brief des Paulus an die Römer (Leipzig: Deichert, 1910), 212-8; 近年の提唱者として、例えば Ulrich Luz, Das Geschichtsverständnis des Paulus, BevT 49 (Munich: Kaiser, 1968), 174; Hays, op cit., 66-69 を見よ。

(10)  Thomas R. Schreiner, Romans, ECNT (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 1998), 213.

(19)

(12)  See Luz, op cit., 172, n. 148. (13)  Luz, op cit., 173-4.

(14)  Hays, op cit., 67. (15)  Ibid., 73, n.38.

(16)  Cf. N. T. Wright, op cit., 580.

(17)  Cf. E. P. Sanders, Paul, the Law, and the Jewish People (Minneapolis: Fortress, 1983), 29-36.

(18)  Cf. Simon J. Gathercole, Where is boasting?: early Jewish soteriology and Paul’s response in Romans 1-5 (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2002), 226.

(19)  J. D. G. ダン『使徒パウロの神学』浅野淳博訳、教文館、2019 年、130 頁。 (20)  パウロが批判したのが、神の前に砕かれない、自己信頼の態度の最高の表現と しての「誇り」だとするルドルフ・ブルトマンの見解は未だに影響力を保持して いる。ブルトマン著作集『新約聖書神学 II』川端純四郎訳、新教出版社、1966 年、 78-84 頁。 (21)  Thorsteinsson と Thiessen は、ローマ書 2 章のパウロの対話相手は生まれなが らのユダヤ人ではなく、ユダヤ人になったと信じている改宗者だと論じる。彼らの 論点が正しいとしても、本稿の主張はそれによってむしろ強化される。彼らの見解 によれば、想定される改宗者たちは肉による割礼を受けることでユダヤ人(つまり アブラハムの子孫)になったと信じたのだが、そのような見方こそパウロが批判 しているものなのである。Cf. Runar M. Thorsteinsson, Paul’s Interlocutor in Ro-mans 2: Function and Identity in the Context of Ancient Epistolography (ConBNT 40; Stockholm: Almqvist & Wiksell International, 2003); Matthew Thiessen, ‘Paul’s Argument against Gentile Circumcision in Romans 2:17-29’, 2014, NovT

56: 373-391.

(22)  Cf. John Ziesler, Paul’s letter to the Romans, TPI (London: SCM, 1989), 117. (23)  Cf. Harris, Murray J. Harris, The Second Epistle to the Corinthians, NIGCT

(Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2005), 793.

(24)  Dieter Georgi, The Opponents of Paul in Second Corinthians (Philadelphia: Fortress, 1986), 230.

(25)  Cf. Mark A. Seifrid, The Second Letter to the Corinthians, PNTC (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2014), 425-6.

(26)  この一節に関しては、ヘブライ語テクストはギリシャ語テクストと極めてよ く一致している。Cf. Hayward, Robert C. T. Hayward, ‘El Elyon and the Divine Names in Ben Sira’, in Renate Egger-Wenzel (ed.) Ben Sira’s God: proceedings of the International Ben Sira Conference, Durham, Ushaw College 2001 (Berlin and New York: Walter de Gruyter, 2002), 188.

(20)

LXX interpretes (Edited by Alfred Rahlfs. Rev. ed. Stuttgart: Deutsche Bibel-gesellschaft, 2006) を用いた。

(28)  James D. G. Dunn, The Epistle to the Galatians, BNTC (London: A & C Black, 1993), 339-40.

(29)  Schreiner, op cit., 214.

(30)  E.g., Frank Thielman, Paul & the Law: a contextual approach (Downers Grove, Il: InterVarsity Press, 1994), 185.

(31)  Cf. Shaye J. D. Cohen, ‘Crossing the Boundary and Becoming a Jew’, 1989, HTR 82(1), 13-33, 25.

(32)  Cf. Daniel B. Wallace, Greek Grammar Beyond the Basics (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1996), 695.

(33)  Cf. Gathercole, op cit., 226. (34)  Cf. Schreiner, op cit., 217. (35)  See Wright, op cit., 569.

(36)  R. W. L. Moberly, ‘The Earliest Commentary on the Akedah’, 1988, VT 38(3), 320-1.

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