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カリフォルニアにおける日本人の強制収容と移民農業

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(1)カリフォルニアにおける日本人の. 強制収容と移民農業 矢. ケ. Japanese. 崎. Farmers. Evacuation Noritaka. 隆*. 典. and Wartime in California YAGASAKl*. ⅠⅠⅠ収容所からの帰還と農業の再開. Ⅰはじめに. ⅠⅤ. ⅠⅠ強制収容と日本人農業の中断. 日系農業社会の変貌一括びにかえて. Ⅰはじめに. アメリカ合衆国における日本人移民および日系アメリカ人の歴史で最も衝撃的な事件 紘,第二次世界大戦中における太平洋岸地域からの日本人の強制収容であろう。アメリカ 合衆国と日本との間に1941年12月7日に戦争が開始されると,太平洋岸に沿ってワシソト ソ,オレゴン,カリフォルニア,アリゾナの各州に軍事地域が設置され,そこから日本人 移民およびアメリカ生まれの日系アメリカ人の捨てが,内陸に設けられた10箇所の強倒 収容所(これは.)ロケ-ショソセンターRelocation. Centerと呼ばれた). -収容された.. 11万人余りにおよぶこうした強制的人口移動はアメリカ史において極めて希で劇的な人 口統制であり,その日的,経過,影響,そして個人的な体験などに関して,さまざまな McW止エIAMS 分野から相当な量の出版物がみられる。筆者の手元にあるものだけでち, (1944), THOMAS TENBRO班, MyER. NIS王IMOTO. and. BARNHART. and. MATSON. (1946), BROOM (1954), DANIELS. (1949), THOMAS. (1952),. (1962, 1975, 1971), BoswoRTE. (1967),. and. RIEMER. (1971),小平(1980)などの書籍があげられる.近年でほ,カナダを含めて,収容さ. れた日本人に対する補償問題についても関心が寄せられている(例えば,泉谷1988)。 この強制収容は,収容された日本人に対して経済的,社会的,そして心理的に多大な影 響を与えることになり,また彼らの分布パターンにも頗著な変化をもたらす要田となった。 中でも経済的影響は特に大きく,日本人は総ての経済活動を一時中断し,それまで一世た ちが苦労して築き上げた経済基盤を放棄せぎるを得ない状況となった。こうした収容とそ れによる経済基盤の崩壊ほ,戦後における日本人の就業構造を著しくそして恒久的をこ修正 する原因となり,また日系農業社会に変貌をもたらす重要な要因となったことほ明らかで *地理学教室(°ept.. of. Geography).

(2) 52. 矢. 崎. ケ. 典. 隆. あろう。. カリフォルニアの、日本人にとって,今世紀に入ってから太平洋戦争の勃発まで農業ほ最 も重要な経済活動であり,彼らキまさまざまな困難を克服しながらも著しい発展を経験して きたが(IwATA. 1962),強制収容は日本人農業に大きな打撃を与えたばかりでなく,戦後の. 展開に根本的な構造的変化をもたらす要因となる。不稿ほ,カリフォルニアにおける日本 人の強制収容が農業活動に与えた影響について考察することを目的とする。日本人が重要 な役割を演じた花井栽培業への影響については別稿で若干触れたので(YAGASAKI. 1984a,. 1984b)・ここでほ,南カリフォルニアを中心とした野菜園芸農業に焦点をあてて検討して みたい。. ⅠⅠ強制収容と日本人鼻業の中断 ⅠⅠ-1強制収容 日米戦争の開始時点で,カリフォルニア,ワシントン,およびオレゴンの太平洋岸3州 にほ・約18万人の非米国籍のドイツ人,イタリア人,日本人,そして日系アメリカ人が 存在した(第1表)。中でも日本人人口の集中が顕著で11.2万人を数えたが,その64% がアメ1)カ生まれの日系アメリカ人であり,残りが外国人である日本人移民一世であった。 ワシントンとオレゴンにほ,それぞれ1万5千人,. 4千人の日本人が生活しており,一. 方カ1)フォルニアの日本人人口は9万4千に達していた.彼らは,セントラルバレー,中 部沿岸地域,そして南カリフォルニアの主要な農業地域に集中して分布していたが,特に T2サンジェルス郡には3万7千人が居住していたo. 12月8日に日本に対して宣戦布告が行われると,一大統領令8389号のもとに定められ た規則に従って,日本人および日本国の財産および銀行預金の凍結が行われた。これによ. 日本人社会は深刻な経済危機に直面す ることになった。横浜正金銀行や住友銀行の支店ほ,カリフォルニア州銀行監督官(Cali・. って日本人の農業活動ほぼとんど即刻制限を受仇 fornia. Superintendent. of. Banks)により閉鎖され,清算手続きがすく叩こ開始された.こ. れらの銀行ほ,本来外国為替業務を目的として設立されたものであるが,多くの日本人は 円あるいほドルによる預金を行っており,円預金を行っていた者は,特に大きな損害を被. 第1表. 太平洋戦争勃発時q=おけるアメ7)カ西海岸諸州の日本人・ドイツ人・イタリア人 日. カリフォルニア. 本. 米国籍. 外国籍. 人 計. 60・148. 33,569. 93,717. ワシソトソ. 8・882. 5,683. 14,565. オレゴン. 2, 454. 1・ 617. 合. 計. 71,4朗. 日本人人口はCensus Wartime. Civil. 40,869. ofPobulaiion. Administration,. 7, 021 112,353. ㌫謎1(完品嘉)^ 16,750. 41,550. 合計 152,017. 2, 100. 3, 350. 20,015. 1, 350. 1, 600. 7, 021. 20,200. 46,500. 179,053. 1940,ドイツ人・イタリア人人口ほ1942年2月の推計. Bulletin. 1, p. 2による..

(3) 53. カt)フォルエア紅おける日本人の強制収容と移民農業. ることになった(矢ケ崎1988)0 日本人社会に生じた危機感について,. 「状況. McWILLIAMSが次のように要約しているo. の不確かさほ経済的麻痔状態を生み出した。商業取引ほ中止され,農作物ほ作付けされず, 多くの活動が現状のままに保たれた。地主は日本人小作を立ち退かせ始め,保険契約ほキ ャンセルされ,社会保障支給は日本人に対して交付されなくなった。日系企業は徐々に客 を失い始めた。新しい分野の仕事はなくなった。大統領令によって逮揺された人々の家族 紘,ひどく困窮したo二世ほその職場から解雇された(彼らは,即時,市,那,州の公務. 員の職から,ヒラリソグの機会も与えられないま割こ,また何ら告訴されることもなく追 放された)」. (McWILLIAMS. 1944:. 128)。. こうした状況の中で,敵性外国人に対するさまぎまな制限が加えられるようになるo 1942年2月19日にはフランクリン・D・ローズベルト大統領が大統領令9066号に署名 Lieuten・. し,これによって戦争の遂行のために軍事地域を確定する権限が軍に与えられ, General ∫.L. DEWITTのもとで,軍事的必要性という名目で日本人の強制収容を実 ant 施することになる0日本人撤退計画の第一段階ほ,軍事地域1からの日本人の自発的疎開 であたったが,すぐに強制的集団収容が行われたo C.mmandによってWCCA (Wartime Defense. 織され,一方,. 3月下旬に組織されたWRA. (War. 1942年3月11日には, Civil. Control. Relocation. Western. Administration)が組 Authority)ほ・収容手続. きに対する実際の責務を負うことになる。日本人を一時的に収容するために,カリフォル Centerが急造さ ニアに12箇所,全体で15箇所のアッセンプリ-センターAssembly れ,その後彼らはカ.)フォルニア,アリゾナ,ユタ,アイダホ,ワイオミング,コロラド・ ァ_カンソ-の各州に設けられた10箇所のリロケーションセンターへと移送された(第 1942年8月8日に完了した。強制的に立ち退い 1図)。3月に始まったこの収容事業ほ, た日本人が残した不動産,個人財産,および商品ほ2億ドルに及んだと推計された(WAR 1943)0. このようにして,都市農村を問わず,軍事地域1から日本人の姿ほなくなったo日本人 人口の集中が顕著であったサンフランシスコやロサンジェルスの伝統的な日本人地区ほ居 住人口を失ったが,そうした空自は流入人口によって間もなく埋められることになった。. 彼らの大部分ほ,拡大の著しかった軍事関連産業に職を得るために西海掛こ移動して釆た 黒人たちであった。特に軍事産業の中心となったサンフランシスコ湾岸地域ほ全国から労 1959; ARCHBALD 1947)oサンフ 働者を吸引したが,中でも造船所は重要であった(ScoTT ランシスコ湾岸地域における造船業就業者数は, 1940年軒こはわずかに1万人であったの. に対して,それがピークに達した1943年には20万人に膨れ上がったという(FosTER Jr. 1980: 278)。サンフランシスコでほ増大する涜入人口を収容しきれない状況が続普,ジ ャップタウン(Japtown)と呼ばれた旧日本人地区ほ・造船労働者たちによって極めて込 み合い,社会問題や衛生問題が発生してスラムの様相を呈するようになったと,サンフラ Examiner, Francisco 1943年6月15, ンシスコ.エクザミナ-も報じている(Saw 19. 日)。. 18,.

(4) 54. 矢. 第1図. ケ. 崎. 典. 隆. 第二次大戦中における軍事地域と日本人強制収容所. II-2. 日本人鼻業の中断 第2表は, 1940年センサスによってカリフォルニア州における日系農場の経営形態と 分布を示したものである。日本人経営農場は全体で5,000余りを数えたが,典型的な経営 形態である借地経営が70%を占めており,これに対して日本人の所有農場は19%にと どまっていたoフレズノやサクラメントなどのセントラルバレーの農業地域では農地所有 の比率が比較的高かったが,南カ1)フォルニアの日本人農業ほ借地によって展開されてい たo特にpサンジェルス郡においては,日系農場の90%が何等かの形態の借地経営であ ったo後述するように,このような借地による農業経営の伝統は,戦後の日本人農業の復 興を極めて困難にする一因となるわけであるo. 一方,同センサスによれば,カ1)フォルニアでは14歳以上の日本人就業人口ほ4万人 余りを数えたが,その半数近くが農業に従事していた。 pサンジェルス部は最大の日本人 就業人口を有しており,その数は1万7千人におよんだが,そのうち紛30%が農業従 事者であったoその他,サンホアキソ,フレズノ,サクラメソトなどのセントラルバレー.

(5) 55. カ1)フォルエア乾おける日本人の強潮収容と移民農業 第2蓑 -一丁----・. 郡. カ1)フォルエア匠おける日系鼻場(1940年) ・・・・ --・・--I- -・・・・. 歪姦. 名*. I---・・・・「. 73737. 1. 56332381. フレズノ サンタクララ. オレンジ サンホアキソ. 8752. インペリアル プレイサー. 333詑ー6571. サンジニLゴ トクラレ. アラメダ モンテレー. マセヅド 1. その他. 997. 州合計. ⊥■. Civil. Control. Administration,. ■. 日系絵 借協、作 島場数 1, 364. 13. 193. 416. 27. 36. 1 74. 412. 23. 1, 523. 18. 286. 390. 15. 1. 19 7. 245. 15. 5. 15 6. 214. 2. 15. 17 7. 212. 7. 21. 54. 157. 1 nVLL'9. 144. 14. 2. 21. 16. 6. 139. 14. 10. 78. 130. 5. 5. 1 04. 130. 7. 8. 35. 107. (古 3. 106. 5 ー6. 810. 59. 53. 293. 249. 3, 596. 日系農場数が100以上の郡のみをあげた・ wartime. ■■. 12. 1紀. サンタクルーズ. こ .. 46. 32. l. サクラメソト. :二. 豊富有 蓋芸 40. T=サンジェルス. *. -I-・-・・・・----. Bulletin. 9, 1942,. p.. 5, 135. 2による・. の各郡や,またサンフランシスコ湾岸地域においても,多くの日本人が農業に従事してい た(第2図). 日本人がカリフォルニアの園芸農業において重要な役割を果たしていたことは,州農業. 経済局が1941年に行った推計によって明らかであろう(第3表)。これによれば,日本人 ほインゲンマメ,春夏セロリ,トウガラシ,ストロベリーをほぼ独占的に栽培しており' また,アーティチョーク,缶詰用イγゲンマメ,カリフラワー,冬セロリ,キュウ1)・ホ ウレンソウ,トマトの作付面積において50%以上を占めていた。そして,州全体の園芸 農業面横の4割強が日本人によって耕作されていたという。太平洋岸の軍事地域において は,日本人農業者は収容前に7百万ドルに相当する農模具や農業境械を所有し,彼らの耕 3)oカ1)フォルニアだ 作面積は232,159エーカーに及んだと推計されている(WRA1943: けをみても,日本人による園芸農業生産額は年間3千5百万-4千万ドルに及んだという (McWILLIAMS. 1944:. 127・, "Japanese. aricultural. loss")o. 従って,戦争勃発直後の不確かな状況とその後の日本人農業者の強制収容は,園芸作物 生産の著しい減少をもたらす結果となった。戦時経済における食糧供給は極めて重要な問 題であることほ繰り返すまでもないことであり,当時の農務長官ほ12月19日に,戦争時 における食糧生産の重要性を指摘し,特に個人や国家の活力のた捌こ野菜生産が不可欠な loss")o 事を強調している(モモJapaneseagricultural しかし,日本人の強制収容直後,野菜園芸農業を日本人の手から「アメリカ人」の手と移管する努力が着々となされていった.食糧生産は国家にとって重要であったが,日本.

(6) 56. 矢、ケ. 第2図. 崎. 典. 隆. カリフォルニアにおける14歳以上の日系就業者の分布(1940年). 注) 50人未満の郡は除く. US. Bureau. of the. Census:. Census. of Population. (1940)による.. 人の強制収容はさらに緊急な課題であると判断されたわけである。日本人の農地や農機具 が戦時中も農業生産に有効に利用されるように,政凧ま収容を宣告された日本人に対して それらを売却するかあるいほ貸し出すように指導を行った(WRA WCCAほFSA. (Farm. 1943:. 3)。このために,. Security. Administration)と協力して,カリフォルニアの主要 都市に仮設事務所を開設した。日本人農業者はこの事務所に登録し,土地や農機具の取り. 扱いについて報告するように指導された一九その職員ほ,日本人の鼻園を購入するかあ るいは引き継くtl意志のある人々を探したo前述のように,日本人の多くが借地によって農 業を行っていたため!日本人から非日本人への農園経営の移管は比較的速やかに行われた。 借地による日本人野菜生産者が多かったpサンジェルスにおいてほ,すでに1942年初.

(7) 57. カ1)フォルエアにおける日本人の親潮収容と移民農業 第3表 作. カリフォルニア州こおける日本人園芸農業の面積占有率(1941年) 物. 占有率(形). 物. 作. 占有率(潔) 75. 春セロ1). 95. 夏セP. 95. 春カT)フラワー. 71. トマト(インペリアル). 95. 夏トマト. 71. I). ニン■ニク. トウガラ:ン. 95. 秋・冬カリフラワー. 67. ピーマン. 95. 冬セロリ. 64. 春インゲン豆. 95. 60. 秋インゲン豆. 95. 缶詰用ホウレンソウ 缶詰用インゲン豆. ストpべ1)一. 95. アーティチsz-ク. 50. 缶譜用ペパー. 90. キュウリ. 50. エンドウ豆. 87. タマネギ. 50. 生食用ホウレンソウ. 81. 50. 秋トマト(南部産). 79. 缶詰用トマト 州 総 計. 51. 42. 注)占有率が50%以上の品目をあげた. Division. of Agricultural. Statistics,. Bureau. of Agricultrual. Economicsの推計による・. 頭までに,日本人に代わって中国人が野菜農園を経営する手続きが多く行われた。中国人 は今世紀に入って主に都市的な職業に従事してきたが,彼らの経済的地位はこうした農業 1942:. への進出によって向上するであろうといった観察が当時なされている(Bingbam 162)。さらに, 1942年6月初めまでにほ,個人的取り決め,あるいほFSAの斡旋による. 様々な形態の取り決めのもとに,それまで日本人が経営していた農場の総てが日本人以外 の生産者の手に移管された(WRA. 1943:. 5)。しかしながら,収穫の最盛期が近づくにつれ. て,日本人の強制収容ほ農業労働力の不足をかなり悪化させる結果となり,こうした事態 は果樹栽培業者の業界雑誌にも報じられた(California. Fruit. News. vol・ 106,. no・. 2829,. 1942年9月26日)0 日本人が野菜園芸農業において圧倒的卓越をみせていたロサンジェルスにおいてほ,日 1942 本人の収容によって,市民の台所である青果物卸売市場-の供給不足が深刻化した。 年中にこれらの市場で卸売りされた園芸作物は前年の取り扱い量と比較して激減しており・ 5割程度減少した品目もみられた.特に顔著な減少をみせたのほキュウ1),ストロベリー, エンドウマメ,レタス,セロ.),カンタロープなど,日本人が得意としていた野菜類であ った(第4封.市場の混乱はまた,入荷量の著しい変動によってももたらされたが,これ は,日本人が行っていた生産地と卸売市場との間の出荷調整携構が崩壊したことによるも のであった。こうした状況により,野菜や果物の卸売り価格ほ大きく上昇する結果となっ たo. 一方, pサンジェルス郡における野菜作付面積をみると,前年と比べて1942年には驚 くほど僅かの減少しかみられなかった。1942年を振り返って, I:サンジェルス郡の農務部 「36,500エーカーを耕作していた1,200人の日本人の収容 長ほ次のように述べているo.

(8) 58. 矢 第4表. 崎. ケ. 典. 隆. ロサンジェルスの青果物市場における 主要農産物の入荷量と厨格の変化 (1941-1942年). ほ,数箇月間にわたって野菜やイ チゴの生産と出荷を悪化させ,節 しい借地農が仕事に慣れるまでの. 品目**. 194119悪習る1941 E9蛋笥哲 人荷量比率(潔)価格の比率(潔). キュウリ. 50*. ストロべ1)-. 53. ほ低下した。時がたつにつれて,. 1-01-71-. 16262. ロメイン. *. 1荒2。。諾1. 58616. レタス. セロリ カンタロープ バナナ. 65. キャベツ. 72*. ブドウ. 75. ニンジン. 77*. ピート. 78*. カリフラワー. 79*. ホウレンソウ. 81. アスパラガス. 81. スイカ. 83. トウモT=コシ. 83. トマト. 83. 農業生産者たちは,日本人の収容 によってもたらされた挑戦に挑み,. *. エンドウマメ. 期間は,従来よりも明らかに生産. 園芸作物をうまく栽培できる能力 を証明した」 Angeles. (Crop. County. Los. Report. 1942).このよ. うな楽観的な見解にもかかわらず,. 青果物価格の上昇の被害を被った -3認諾1--叩ー--1 のほ消費者であった。南カリフォ ルニアだけをみても,前年と比較 して1942年中に野菜供給量はト ラック1万台分減少し,一方消費 者ほ1,000万ドルも余分に野菜に -. 支出し,青果物価格は便乗値上げ -諾利一--19-捕. インゲンマメ. 85. も含めて不当なまでに上昇したと. カブ. 93*. ペパー. 93. いう(McWILLIAMS. ジャガイモ. 94. ソフトスタワ. 97*. 138)0. 日本人農業者のこのような収容 を突放として,カリフォルニアの. 野菜園芸農業ほ徐々に変化してい. ッシェ. オレンジ. 1. グレープフル. 1. 99o2o2. リンゴ. ー3 9. くことになるoBROOMandRIEMER. 13 0. (1949: 106)も指摘するように,日. ー2 9. ーツ. 本人の強制収容によって,南カリ 1. o2o5o81. サツマイモ. 1944:. ー. レモン. 1. アボカド. 1. モモ. ー3. -1. タマネギ. 140. フォルニアの園芸作物生産は,作 付面積においてもまた単位面積あ. 87 12 7 10 0. たりの収量においても幾分か減少. 15 1. したと同時に,多くの手作業を必. *甫カリフォルニア5州からの入荷量. **年間の入荷量が貨車500台を越えるもの. BROOM and RIEMER (1949: 102)による.. 要とする作物から,労働投入量の 少ない作物へと栽培作物が変化す. る傾向が見られた.さらに運送会社や農産加工会社が新たに農業経営に参加し,あるいほ そうした企業から融資を受けた経営者が増加することにより,ローカルな卸売市場への出 荷が減少したこともあげられるoこれほMcWILLIAMSが「経済支配の統合化がもたらされ, 独占的な価格構造への方向-進みつつある」. (McWILLIAMS. 1944:. 138)と述べたことにつな.

(9) ヵt)フォルエアをこおける日本人の強制収容と移民農業. 59. がる点であり,戦後のアグリビジネス化の進展の兆供でもあったわけである。 ヵ1)フォルニア社会に対するこのような影響と同時に,日本人農業者ほ極めて深刻な損 失を被ることになった.一般的に・集団的収容が極めて短い予告で行われたために・日本 人は財産を売却,貸付軌あるいは保管するた軌あるいはそうした措置を講じるために WRAは収容者の所有物を保管するために倉庫を建 充分な時間的余裕がなかったoまた, 設したが,それらは極めて不充分であり,保管物の破壊もまた頻繁に行われたというoこ のようにWRÅは系統的に保護事業を行わなかったため・日本人ほ個人卸こ財産を売却 したりあるい娃保管せざるをえなかったo彼らは極めて不利な状況のもとで,低価格でそ れらを処分せざるをえなかったり・満足の行かない取ほめを強いられたoこうした売買 は異常な状況で行われたため,詐欺や横額などあらゆる種類の犯罪も露骨に行われたとい ラ(BROOM. and. RIEMER. 1949:. 127-157)o. 農業者ほ,農地を所有する場合も借地の場合も・相当な投資を農掛こ行っていたo農場 には住宅や納最のほかにも農業機械・器具を所有し・農薬の備蓄があり,地下には彊概施 設が設置されていたし,作物は収穫をされないまま農地に放置されることもあったo借地 農は特に大きな損失を被り,彼らほ農業磯械を低価格で処分せざるを得なかったし,借地 契約は一方的に破棄されることも頻繁に行われたo こうした損失は,収容所からの帰還後・農業への復帰を極めて困難にする大きな要因と なった。借地農が大多数を占めた南カリフォルニアにおいては・次章で述べるように・農 n・d・)。戦前に農業に従事した日 業への復帰は特に難しいものとなるわけである(OMACHI・ 本人の多くは,西海岸-の帰還後・農業に再び戻ることほなかった。このように・日本人 の強制収容は,日系移民社会の中心をなしてきた農業という経済基盤の崩壊を意味し・そ の後の日系社会の変質をもたらす要田となるわけであるo ⅠⅠⅠ収容所からの帰還と農業の再開 ⅠⅠⅠ-1帰還のプロセス 強制収容ほ1945年2月はじめまで解除されなかったが,それまで日本人ほ10箇所 の収容所に完全に束縛されていたわけではなかったo季節的外出と転住のプログラムが wRAによって実施され,多くの日本人が活動の場を収容所外に求めることができたo 日本人が強制収容された直後'労働力不足が特に農業において深刻となったが・この時 期までにほダストポ-7レ・マイグレーションはすでに終了しており,一方・西海岸の軍事 関連産業が多くの労働力を吸収していた¢こうは状況のもとで・甜菜生産地域を中心に して,農場労働を目的として収容者たちを一時的に解放するよう要望が強まったo初期に 行われた季節的外出プログラムは制限の厳しいものであったが,良好な結果が得られたた めに,. 1942年9月にはかなり自由な外出プログラムが実施されるようになったoこれに. 伴い,アイダホ,モンタナ,ユタ・コロラド,ワイオミングの各州に監督所が設置された (MyER. 197l:. 130).. 1942年末にほ,西部で約9,000人の日本人収容者が農業労働に従事しており・彼らの能.

(10) 60. 矢. 第3国 US. ケ. 崎. 典. 隆. アメリカ合衆国における日系人口の分布(1940t・1950年). Bureau. of the. Census:. ハワイとアラスカほ除く.. Census. of Pobulaiion. (1940. ・. 1950)による..

(11) 61. カリフォルニアにおける日本人の強制収容と移民農業. 率の良い農作業に対して評価は極めて高かったoR彼らほユタ,アイダホ,ワイオミング, モンタナ州で甜菜の収穫に従事することによって,甜菜農業を救ったことは間違いのない 1944: 164-165).一方,軍事地域の存在していた 事実であったともいわれる(McWILLIAMS ヵリフォルニア州においても農業労働者不足の問題は深刻であったが,ここでほアメリカ とメキシコとの政府間交渉によって1942年8月に始まったブラセロ計画,すなわちプラ セロと呼ばれたメキシコ人労働力が導入された(ScRUGGS. こうした季節的外出プログラムに加えて,. 1960).. 1942年10月までにはWRAの方針の変更. によって,国家に対して--di$loyal''と判断された人々を除いて,収容所外への転住が奨 励されるようになったoこうして, 1944年10月17日までに,収容人口の4分の1余り が収容所を後にした。彼らの転任先ほロッキー山脈地敵中西瓢東部など広範囲にわた. っており,日本人が戦前までごく少数に限られていた地域へ拡散していくことになった○ 10箇所の収容所はロッキー山脈以東-の日本人の拡散拠点となったわけである。. 従って,. 二世はこの転住プログラムを大いに利用することになる。また1945年1月までには西海 岸への短期外出が許可されるようになり,これにより収容者が西海岸地域の状況を調査し・ 将来の復帰計画をたてることが可能となった.結局,収容人口の3分の1余りにおよぷ 36,000人が転住の機会を受け入れたが,彼らの大部分(83%)は,若い二世,すなわちア メ1)カ市民であった.一方,収容所にとどまるように決定した62,000人のほとんどは一 世であった(TENBROEK. 1945年2月2日には,. et al., 1954:. 142).. WRAが強制収容命令の解除を発表し,. 1年以内に収容所ほ閉. 鎖されることになった。最後の収容所が閉鎖されたのほ1946年3月20日であった。収 容所からの転住と帰還によって,戦後の日本人の分布には著しい変化がもたらされ・これ ほ1940年と1950年の人口センサスに基づいて日本人人口の分布を州単位で示した第3 図からも明らかである。1940年には,太平洋岸3州の日本人人口は・大陸における日本人 1950年までにはその比率は回復していなかったo他の 総人口の88.5%を占めていたが, 地域においてほ,日本人人口は倍増あるいはそれ以上の増加を経験した。こうした増加紘 戦前に日本人人口がごく僅かであった中西部の州で特に顕著であり,ここではこの10年 間に日本人人口は20倍に増加したo東部のメガロポリスにおいてもかなりの増加がみら れた。. 日本人帰還者を迎えた西海岸諸地域の社会感情は一般抑こ冷たあものであり'彼らに対 する脅迫もしばしば行われたという○このような環境の中で・帰還者たちほしかるべき住 居と仕事を手に入れ,日系経済の復興に着手するわけである○ ロサンジェルス市中心部の.)トルトーキョ-ほ,戦前から日本人の集中的居住地域とし て重要であったが,日本人が収容されて間もなく黒人によって占拠されるようになった。 帰還した日本人ほ,ロサンジェルスにおける彼らの故郷であるこの伝統的な日本人町を奪 還する努力を開始したoこのプロセスほゆっくりながらも着々と進行した。. 1) [}い-辛. ョ一に最初に開店したのほ彼らの生活に不可欠であった日本食堂・グロッサ1)-ストア 18軒の日本人経営の店舗と事務 ー,ホテルであったが,すでに1945年7月までには,.

(12) 62. 矢. ケ. 崎. 典. 隆. 所が営業していたo大戦終了直後の8月末には38軒に増加し,さらに1945年末にはそ れらほ130軒に達していた。同地区の黒人人口が減少する一方で日本人人口ほ増加の一途 をたどり,この頃までには地区総人口の4分の1を占めるまでに回復したo. 1946年元旦. 現在で,リトルトーキ王一にほ21軒の日系医師および歯科医,. 20軒のホテルとホステル, 13軒のレストランが営業しており,これらのほかにも・帰還した日本人の需要を満キすこ とを目的としたさまざまな種類のビジネスが,この小規模な民族地区において日本人によ 395-398)0. って活発に展開されるようになっていた(南加日系人商業会議所1957:. 帰還した日本人にとって住宅難は緊急の大きな問題であった.最初に帰還したのは,戟. 前から住宅を所有していた人々であったが,ロサンジェルス地域には収容所からの帰還が 可能になって以来多くの日本人が殺到したた軌住宅難ほますます深刻化したo 1945年3月以降,帰還者の増加が特に顕著になると,強制収容を担当したWRAは収 容者の転住帰還を業務の中心とするようになる。ロサンジェルス地域に3箇所のホステル が建設され,夏までにほ,軍のバラックが日本人帰還者に対する一時的住宅として供給さ れた。 (WRA:. 1945年3月末までにほ,州の他の地域にもホステルを建設する努力がなされた 175-176)。反日感情が鎮静化し,帰還者を受け入れる社会環境が整ってくると,住. 宅難が日本人の帰還に対する最大の障害であることがWRAによって認識されるように なる。 WRAに対して各地域から日本人の受け入れに関する報告がなされており,例えば ロングビーチからほ住宅さえ確保されれば300名の雇用が可能であると報告されたし,サ ンディェゴとユルセントロにほ一時的および恒久的住宅ほなく,サンタバーバラでは,一. 時的な住宅ほ場所によっては存在し,帰還者の受け入れは不可能ではないがきわめて発し い状況であった。住宅および農場労働の境会ほ,オレンジ郡の農業地区においてははるか に恵まれた状況であった(WRA:. 176-179)0. 強制収容所の学校が6月に閉鎖となると,収容者の帰還の流れほ加速化され,これによ って住宅問題がさらに深刻化したo.,サンジェルス市の日本人人口ほ1945年6月までに. 1,500に達した。1945年末までには,南カリフォルニアにおいて43のホステルと9箇所 の住宅事業がWRAによって経営されていた(WRA:. 180-183).. 1945年中に,収容所か. らロサンジェルス郡に帰還した日本人は15,000人を数えた.一九. 帰還した退役軍人の. 状況も恵まれたものでほなく,彼らが公園やホテルのロビーや手足を延ばせる所ならどこ でも寝ている光景は住宅難の深刻さを一般市民にまぎまざとみせつけることになった (WRA:. 184)0. 1946年3月までにほ,. WRAの仮設住宅事業は,ロサンジェルスで2,000人,サンフ. ランシスコで1,000に住居を供給したo5月上旬にほ,トレーラ-キャンプがバーバンク に建設され,約800人の日本人が収容された(南加日系人商業会議所1957:. 386)。その少. し前軒こほ,連邦公共住宅局によって緊急住宅事業としてロングビーチに建設されたロスセ 1)トス・トレーラー・コートにも,数百人の日本人が入居した(BROOMandRIEMER1949:. 134)。日系の寺院や教会や語学学校も,こうした住宅難を解消するために,建物をホステ ルとして提供したし,ダウンタウンの安価なホテルもまた満配であった。この時期に組織.

(13) ¢3. カ1)フォルエア甘こおける日本人の強制収容と移民農業. された日系のクレジットユニオ-/紘,このような住宅難対策として生まれたものである. ⅠⅡ-2. 就業状況. 日本人にとって経済の再建ほ容易なものでほなかった。カ1)フォルエアへの帰還後,蘇 練を必要とする高賃金の仕事ほ極めて少なく,彼らが就業できたのほ,需要が大きく競争 1940年および1950年におけるpサ1/ジ の少ない低いレベルの仕事であった6第5表は, ‡ルス部の日本人の就業状況をみたものである。農場所有者,管理者,労働者を問わず, 農業従事者の減少が明らかである。また,非農業経営者・マネージャー・公務員の部門ほ 大幅に減少しており, 1950年の就業者数は1940年の65%のみであったoこの那耶こは さまざまな種類の都市スモールビジネスが含まれるが,こうした自営業者は強制収容の損 事を大きく被っており,戦後5年たった1950年の時点においてもいまだに再建が困難で あったといえよう。. これに対して,職人・フォアマン等,および職工等の部門は著しく増加しており,これ ほ収容所における経験と訓練によって,そうした業種-の進出が容易であったためであろ う。一方,二世が労働力市場に参入したため,専門的および技術的職業-の従事者の増加 もみられた。家事労働ほ,仕事と住宅が不足していた当時には,独身女性にとっては魅力 的な職業であった。ホテルとアパート経営は,帰還した日本人が積極的に従事した分野の 一つであった.戦前にあったロサンジェルスの日系ホテルアパート協会は1949年に再び 組織さ,これは戦前にほ主として親睦団体であったのに対して,新しい組織は共同購入そ. 第5表.2サンジェルス郡における日本人の就業状況(1940・1950年) 日系就業者数*. 種. 業. 1950年(b). 1940年(a) 専門・技術職就業者尊 貴場経営者・農場監督者 非農業経営者・マネージャー・ 公務員等 事務員・販売員等 職人・フォアマン等 職工尊 家事サービス労働者 サービス労働者(家事を除く) 農業労働者(無収入家族労働者) 農業労働者(無収入者・ 農場フォアマンを除く) 労働者(農業・鉱業関係を除く) 不明 合 辛. 計. 100. a/bx. 535. 846. 160. 1, 691. 1, 500. 89. 2, 380. 1, 556. 65. 3, 149. 2, 979. 95. 2 98. 767. 25 7. 1, 043. 2, 729. 26 2. 864. 1, 051. 12 2. 1, 279. 1, 248. 9 CO. 1, 746. 351. 2O. 1, 435. 1, 219. 85. 2, 512. 2, 947. 117. 73. 145. 17, 005. 17, 338. 102. 14歳以上の就業者. U. S.. Bureau. 甘こよる.. of. the. Census. (1940, 1950)・. Special. Report,. Nonwhite. Pobulaiion. by. Race.

(14) 64. 矢. ケ. 崎. 典. 隆. の他の活動を主としたものであった(南加日系人商業会議所1957:. 402-403)0. ・戦後・都市部の日本人にとって極めて人気のあった職業ほ庭園業であった。庭園業は戦 前から日本人の代表的な都市的職業の一つであったが(TsucHfYA. 1984),技術や資本はほ とんど必要なっかたし,日本人ほ公園や庭園の世話に優れた能力を持っているという一般. 社会のステレオタイプは・日本人庭師に対する需要を増大する要因となった。そうした需 要ほpサンジェルス地域において特に厳暑であり,帰還者たちは,一時的あるいは恒久的 な職業としてこうした機会を大いに利用したo英語に不自由であった一世にとっても,庭 園業は容易な職業であったoしかも庭園業者の収入ほ比較的高かった.. 1954年の日系人商. 業会議所の報告によれば,. pサンジェルスにおける庭園業者の60%は月に200∼400ド ルの収入があり, 30%ほ400ドルを越す収入を得ており, 200ドル以下は10%であっ たo戦前にソ-テルSawtelle. (現在のWest. Los. Angeles)ほ日本人庭園業者の中心地で あったが・戦後においてほ,庭園業者は増加したばかりでなく広範囲に分布するようにな る(NISHI 1955:. 135).. ⅠⅠⅠ-3 *薫の再開. 農業への復帰ほすでに1945年3月から4月にかけて始まったが,その再建ほ日系経 済の他の部門と比較するとゆっくりとしたものであったo戦前に農地を所有し,ある程度 の資本を蓄積していた人々は,農業へ復帰するうえで明らかに有利であった。また,速や かに帰還して農業への復帰に成功した人々の多くほ,戦前における農村の指導者的立場に あった人々であったともいう(NISHI1955:80)。しかし,保管してあった多くの農業機械が 盗まれたり燃やされたり,あるいは鋳で使用不可能であったりしており,一方新しい機械 器具の購入は経済的に容易でほなかった。 反日感情は多くの農業地域で依然として根強く残っており,しかも農業者の中には,日 本人の帰還を彼らの経済的地位を脅かすものとして受け取る者も少なくなかった。農業地 域でほ,カリフォルニア州外国人土地法に基づいて,日本人の農業への復帰を阻止する動 きもみられ,この土地法違反という理由で日本人に対する告訴が頻繁に行われた。カリフ ォルニア州法務局によって, 1942年から1948年までの問に,一世および二世に対して, 1920年外国人土地法違反で80件以上の農地没収の訴訟が始められたo しかしながら,オヤマ訴訟(Oyama. California)において,. 1948年に合衆国最高裁 判所ほ,外国人土地法9粂(a)ほ憲法違反であるとの判決を言い渡した。この決定によっ て, vs・. vs.. 1951年に日本人に対する総ての没収訴訟が却下された。翌年の二つの訴訟(Sei State. of California;. Haruye. Masaoka. vs.. State. of California)において,カリフ. ォルニア州の外国人土地法は,日本人を人種的に差別することにより合衆国憲法修正第 14条に反し,従って違憲であると宣言されるにいたった。さらに1956年11月4日の総 選挙では,外国人土地法撤廃を目的とした提案13が大多数の賛成によって可決された。 こうして,日本人は長い間彼らの経済活動を阻害してきた法律的束縛から自由となり,土 地の所有に関して他のアメ1)カ人と平等な立場に立つことになったわけである(CHUMAN 1976:. 203-223).. Fujii.

(15) カリフォルニアにおける日本人の強制収容と移民農業 第6表. 一方,帰還した日本人が直面し. pサンジェルス郡における作物栽培面積の 推移・. た別の問題は,戦前サニおいて日-秦. 人農民の活躍の場で漆うた大都市. 農. 産. 栽培面横(エーカー). 物. 近郊における地価の高騰と農地の. 1941年1952年1961年. 滅歩であり,廟市化のプロセ-、去は ロサンジェルス周辺地域において. ジェルス郡における栽培面積の変 1941年から. 19由車まモに森作待面積は31.6 万エーカーから. 24.5. 柑 橘 類 その他の果樹・堅異類 チ種ゴ作 類物. イ新野花埴. 特に著しかった。第6蓑ほロサン 化を示しているが,. 65. 万エーカー. 粟. 56,564. 42,180. 37,990. 15,950′. 2, 225. 154,830. 259,395. 51,835. 28,915. 14,480. Agricultura. 2,500. ? 315,744. 計. 500. 165,130. 椀・ 合. 6,667. 650. 2,000ー. 井 木. 11,953. Commissioner,. 6節 1, 960_. ? 245,025 Los. 295,635 Angeles. AgriculluraZ CorP へと■22%の減少がみられた。こ Rebortによ尋. の期間に花井と耕種作物を除いて 栽培面積が著しく減少し,戦前に日本人が支配的な生産者であった野菜とイチゴの減少率 County,. ほそれぞれ44%, 71%に及んだ。 pサンジェルスおよびその近郊地域において農業経営を 行うのに充分な広さの区画を求めることはますます困難となり,また,土地が有在ーした と しても,その購入あるいほ借地ほ経済的に難しくなった.こうした現象は,戦前に多くの. 野菜生産者が存在したサンゲ-プ1)-ル,ガ-デナ,サンフエルナンド,_ベニスなどの嘩 域で演者にみられたo こうした状況において農業を再開できたのは,小区画の土地で経営が可能であり,しか も高騰した借地料を支払うだけの高い収益をあげることができる集約的な花井園芸農業の みであったといえる.また,戦時中に日本人にかわって非日本人が花井栽培に従事したが, 日本人生産者に匹敵する栽培技術を身につけることほ容易ではなかった。このような要田 から,ロサンジェルス地域においてもまたサンフランシスコ湾岸地域においても,野菜園 芸農業とは対照的に,日本人花井園芸ほ生産者数においても生産面積においても大きく減 少することはなかった(YAGASAKI. 1984a,. 1984b)0. 農業を再開する上でこうした否定的な外的要因が存在する一方で,戦前に農業に専念し た一世たちほすでに高齢化しており,農業に復帰することを辞める場合が多かった.この 世代交替という要因も,日系農業社会に内在していたわけである。 こうした状況を反映して,戦後における日本人農業は頗著な構造的変化を経験すること になった。戦前に中心的役割を果たした小規模生産者ほほとんど姿を消し,これによって 日本人農場数ほ大幅に減少した。そうした小規模生産者が各農業地域に組織した農業組合 紘,戦後復活することはなかった。また土地所有関係においても,農地所有者の増加と借 1940年から1950年にかけ 地経営の顕著な減少が目立った。合衆国全体の統計をみると, て,日本人農場捻数は約7千戸から4千戸-と. 41%減少し,中でも借地経営者の減少. は65%にも達したが,一方で自作農は29%増加している(第7表).. 1950年時点ではカ. リフォルニア州外国人土地法ほいまだに有効であり,日本人移民一世は土地を所有するこ.

(16) 66. 矢 第7表. ケ. 崎. 典. 隆. アメリカ合衆国における日本人経営農場の形態 本. 日. 形. 態. *(%). 農. 場. S(%). 戸表930 16.. *(%). 戸k940 26.0. 戸表950 56.7. 自作農 (完全所有) (部分所有). 1 941. マネージャー. 2,081. 35.6. 58. 1.4. 借地農. 2, 818. 48. 3. 4, 894. 70. 2. 1, 728. 41. 9. 5, 840. 100. 0. 6, 978. 100. 0. 4, 123. 100. 0. 合 US. 人. (820). of the Census,. 第8表. 1,817. 2,337. (1,361) ( 456). (121). 計. Bureau. 1. Sevcntcenth. 467. Census. 1950,. (1, 710). ( 627) 3.8. Agriculiureによる.. ロサンジェルス市の3つの青果物卸売市場における民族構成 1941年. 分. 委託販売. 類. 業者. 数. and. RIEMER. %. 数. %. ー3 4. 58. 8. 5. 3ー. 26. 81. 35. r:0 8. 69. 77. 64. 4. 26. 17. 7. 26. ー2. ー0. 167. 100. 29944. BROOM. 販売者. 57. 中国人・韓国人 計. 委託販売 業者 数 %. ストール. 17. 日本人 "アメリカ人''. 合. 1948年. 4ー. (1949: 83, Ilo)による. とが不可能であったが,アメリカ生まれの二世ほ当然土地所有となりえたわけであるo実 際,戦後の日本人農業の担い手となったのほ二世たちであった。 このように,農業生産において日本人の占める地位に変化が生じたと同時に,青果物の 流通とそうした分野における日本人の役割にも変化が始まったo戦前にほ,ロサンジェル. ス市の青果物卸売市場で青果物の卸売りに多くの日本人が従事したが,日本人の収容と同 時に他の集団の進出が目立ち,市場への復帰をほかる日本人に対して反日感情も強く残っ ていた。さらに,青果物淀通産業に構造的変化が生じ始めていた。日本人が収容され,ロ サンジェルスにおける青果物の小売の中心をなしていた日本人経営のグロッサリーストア やフルーツスタンドが姿を消すと,チェーンストアの重要性が増大したo生産者からチェ ーソストア-の直接的出荷が増大することにより,青果物淀通において卸売市場が果たし てきた伝統的な機能が低下し始めたわけである。 1945年6月に入って,戦前に日本人 ロサンジェルスの青果物市場-復帰する動きは, の影響力が最大であったシティーマーケット(九番街市場)においてはじめられた.市場 会社側との交渉の結果, 1945年10月に会社側は, 1946年1月から日本人販売者に対し てストールを提供し,その利用者の選択ほくじ引きで行うが,復員軍人が好ましいという ことを約束した。こうして,. 1946年に入って少しずつ日本人の復帰がみられた(南加日系.

(17) 67. カl)フォルニアをこおける日本人の強制収容と移民農業. 人商業会議所1960:70)。しかし,反日感情がさらに強烈であったホールセールターミナル マ-ケット(七番街市場)への復帰ほ,さらに遅々としたものであり困難を極めたo 1948年までには,ある調査によれば,ロサンジェルス市の3つの青果物市場において, 日本人の農産物商ほ8,恒久的なストール利用者は31であったが,これは戦前にほそれ ぞれ29,. 134を数えたことを考えると,影響力の低下が頗著である(第8表)。. 1954年ま. でには,九香南市場にほ20軒の日本人卸売業暑が営業し200名の日本人が働いており, 150名の日本人雇用者がみられた(南加 一方,七番荷市場においては17軒の卸売業老, 日系人商業会議所1960: 70-71)。戦前には野菜生産者が市場でストールを借りて生産物を. 自ら販売することがよくみられたが,こうした生産者ほもはや卸売市場に関与することは なくなった。 このように,. BROOMandRIEMER. (1949: 114)も指摘するように,戦後,日本人は青果物. 小売および卸売業に復帰する努力はしたものの,青果物の生産・卸売・小売において彼ら が戦前に構築した流通構造は,再び再建されることはなかったわけである. IV. 日系農業社会の変貌一括びにかえて. 本稿でみてきたように,太平洋斯こ沿って設けられた軍事地域からの日本人の強制収容 は,カリフォルニアの日本人社会とその経済に大きな影響をもたらした。収容による経済 的損失ほはかり知れないものであったし,帰還後の経済復興ほ骨の折れるプロセスであっ たo戦前に日本人の農業活動に障害となっていた土地所有に関する法的束縛は戦後しばら くして解除されたものの,都市化の進展,農業流通構造の変化,アグリビジネスの進行と いった環境の変化の中で,戦前に主流であった小規模で集約的な農業の再建ほ困難を極め. た.一世の高齢化と二世の台頭という日系社会に内草する世代交替の要因ち,日系農業お よび農業社会の変貌の一因となったo 一方,見方をかえてみると,この歴史的事件は,カ1)フォルニアの日本人農業に進行し 始めていた変貌プロセスを加速化する結果となったと解釈できるかもしれない。ロサンジ pサ1ンジェルス市の青果物卸売 ェルス地域を中心として,借地による小規模な野菜生産, 市場における卸売,そしてフルーツスタンドを中心とする小売というように,日本人ほ生 産から小売にいたるまで圧倒的優位を占め,民族的系列組織を発達させたが,そうした体 制は,強制収容が実施されなければ戦後もしばらくの間ほ存続しえたであろう。しかし, 先にも述べたようむこ,日本人農業を取り巻く環至酌ま変化しており,こうした優位性ほ遅か れ早かれ変化せざるをえない状況にあった。日本人の強制収容による農業の中断がなかっ たとしても,都市化の影響を受けて都市近郊の野菜栽培は縮小せざるをえなかったで蕗ろ うし,スーパーマーケットの普及と流通の変化によって卸売市場の磯能は低下し,フルー ツスタンドも減少していったことが予想できる.また,一世が引退し,アメ1)カ社会の差 別や偏見が緩和されるにつれて二世が多くの他の職種に進出し,日系社会における農業の 比重は低下していったであろう。日本人の強制収容が生み出した空自紘,日系農業社会の 変貌のみならず,農業の生産流通構造の変化を加速的に進展する結果をもたらしたと考え.

(18) 68. 矢. ケ. 崎. 典. 隆. られよう。. また・日系農業組合を中心とした民族的協同主義について筆者ほ以前に述べたことがあ るが(矢ケ崎1983),戦前の日系農業社会に支配的にみられた民族的な結合の性格も,収 容を契機として大きく変化することになる○日本人の野菜生産者たちが相互扶助そして自 衛的目的のために各地に組織した農業組合の重要性は,強制収容が行われなかったとして も徐利こ低下していったであろうが・それらほこの中断によって一挙に消滅し,その後再 建されることほなかった。. このように野菜園芸農業が大きな変化を経験したのに対して,カリフォルニアの花井生 産者ほ復帰と再建を速やかに実行し,戟前の組織を保持することに成功した数少ないグル ープであった。花弁園芸農業ほサンフランシスコ湾岸地域とロサンジェルス地域を中心と して展開されたが,その中心的役割を果たしたのほ,サンフランシスコの加州花井市場 (California fornia. Flower. Flower■. Market,. Inc・)とロサンジェルスの南加花市場(Southern. Cali.. Market,. Inc・)であった。これらは日本人花弁生産者の組合であり,強制 収容後も迅速にその営業を再開した。そして,日本人生産者の民族的結合を保持しながら その組合員の経済復帰に重要な役割を果たし,花弁の生産と販売において重要な役割を保 持し続けてきたoここで野菜園芸農業と花井園芸農業とを比較すれば,以下のようになろ う。. 青果物生産者もまた花斉栽培者も・生産物を出荷する主要なチャンネルとしてともに卸 売市場を利用したが,青果物卸売市場と花弁市場とでは,規模においても性格においても 大きな差異がみられたo青果物の生産とマーケッティングにおいては,生産者と卸売業者 と小売業者との間に明確な区分が早くから生じた。初期にほ生産者が卸売市場において直 接販売にあたった時期もあったが,間もなく委託販売業者や仲買商人が青果物の大部分を 扱うようになった。一九戦争直前においても,花井生産者ほ,サンフランシスコ湾岸地 域においてもまたロサンジェルス地域においても,都市に比較的近接して立地しており, 花井市場は生産者のための市場であり,生産者が花井を直接卸売する場所であった。花井 市場のこのような形態と機能ほ,戦後も存続した。花井の仲買商人や委託販売業者ほ少な く・これほ青果物のマーケッティングとほ著しく異なる点であったo今日でも,多くの花 井生産者ほ卸売業着でもあるQ戦前に日本人が所有していた花井市場ほ,戦後もいち早く 再開され・戦前の花井の生産と流通のパターンが復元されるようになる.一方,青果物の 流通においてほ,前述したように・青果物流通システムの新しい動向を反映して,卸売市 場の役割は低下していくことになる。. 両産業における日本人と他の生産者集団との関係もまた重要な要因であったo戦前のカ リフォルニアにおいては,日本人ほ白人が組織した農業の組織や団体から排斥される場合 が大部分であり・中にほ排日運動に中心的役割を果たした組織もあった.このような状況 のもとで・日本人農業生産者は独自の組織をつくって自らを防衛した。一世が日本人農業 の担い手であった時期には,英語が不得手であるという-ンディキャップもあり,たとえ アメリカ人の組織へ加入が可能であったとしても,それに参加することにほ消極的であっ.

(19) カ1)フォルエアにおける日本人の強制収容と移民農業. 69. たoしかし,戦後,状況ほ大きく変化した。アメリカ人の組織は日本人に対する差別的方 針を撤廃し,一方,アメリカ生まれで英語を母国語とし,アメリカ的価値観を備えた二世 たちは,積極的に白人の組織にも参加するようになった。青果物の生産にあたる日系二世 が,自らの民族的集団に固執する経済的そして社会的動機ほもはや失われたわけである。 一方,花井産業ほp-カル性が強く,しかも生産・流通の規模が小さいため,本来白人 のイニシアチブによって発達したものではなかった。生産においてもまた市場を中心とし た流通においても,主導的な役割を果たしたのは日本人であったo戦後も二世が主導権を とるようになったが,彼らにとってほ,戦前の市場と組織を復元することほきわめて自然 のなりゆきであった.花井業界全体において,二世は中心的役割を演ずるようになり,彼 らほ,戦前にほ完全に日本人の組織であった花井市場を,非日本人にも解放するようにな るわけである。. 本稿においてほ,第二次大戦中の日本人の強制収容が日本人農業に与えた影響について 概括的な考察を試みたが,今後,戦前から戦後にかけての農業就業者の個別的な事例を蓄 積することによって,より詳細な検討を行いたいと考えている. 参考文献 泉谷周三郎(1988):日系カナダ人の強制移動に対する補償について.横浜国立大学人文紀要(第一頓) 34, 59-79.. 小平尚道(1980):. 『アメ1)力強制収容所』.玉川大学出版慈,. 205. p.. 南加日系人商業会議所(1957): 『南加州日本人史後編』.南加日系人商業会議所. 南加日系人商業会議所(1960): 『南加州日本人七十年史』.南加日系人商業会議所. 矢ケ崎典隆(1983):南カリフォルニアv=おける第二次大我前の日本人農業と民族的組合組織.地学雑 誌9'2, 73-90. 矢ケ崎典隆(1988):カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題・横浜国立大学人文紀要 (第一類) 34, 101-121. ARCHBALD・. Katherine. (1947): Wartime. sity of California BARNHART, Edward Berkeley: BINGHAM,. Edwin 185. BoswoRTH・. N・. University. College,. shipyard,. a. in social disunity.. study. Berkeley:. Univer.. Press. Floyd. and. W.. MATSON. (1954): Prejudice,. Press.. R・. of California (1942): The saga. R・. (1967): America's. concentration. of. the. Los. Angeles. war. Chinese.. M.. and. the. A.. thesis,. constitution. Occidental. p.. Allan. (邦訳・・ 『アメリカの強制収容所』,節. camps・. 泉社1972年). BROOM・ war. Leonard. C肌MAN,. Frank. Publisher's Roger. DANIELS,. Roger. DANIELS・ FosTER. Roger. and. University. ike socio・economic eHects of the California Press, 259 p. of lau'and Jabanese・Amcricans. Del Mar: return,. (1976): The bamboo people: the 『バンプ(邦訳: 386占・ ・ピ-プル』サイマル出版会1976年). (1962): The PoZiiics ofbrejudice・ Berkeley: University of California (1971): Concentration Press,. 188. (1975): The 135. camp. USA:. }abanese. Americans. and. Press,. World. War. 165 p ZI.. p.. decision. to. relocate. ike. Japanese. Americans.. Philadelphia:. J. B.. p.. Jr・・ Richard. Geograbhical. (1949):Removal Berkeley:. F・. Dryden. LipplnOCOtt,. RIEMER. Americans・. lnc・,. I)ANIELS・. Hinsdale:. Ruth. and. Japanese. on. Review. H・. (1980): Wartirne 70,. 276-290.. trailer. housing. in. the. Sam. Francisco. Bay. Area..

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