へーゲルの『法哲学』その成立の背景(13):外編4「カントの論理学・形而上学・存在論」
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(2) 個体を起点とする. ――. にも関心を示していたというのがその実相である。その視点に立てば、. 『新解明』があらためて取り上げる「認識の第一原理」が、如何なるカント的な形而上学的見通し の上に. ――. ヴォルフとも、デカルトとも、ライプニッツとも違って. ――. 考えられていたか. が明らかにされねばならない。 カントは、デヴュー作『活力測定考』以来、デカルト・ニュートン的な力学を局所的相対運動= 相対静止しか扱わない不十分なものでしかないとして力の概念に遡って批判し、それに代えてライ プニッツ的な作用因をこの世界に存在する実体の形而上学的な存在原因・運動原因とみる形而上学 的力学的世界観を展開していた。その立場から、 『新解明』と同年の『天界の一般自然史とその理論』 は、宇宙に遍満した物質は力によって運動を始めるのであり、ニュートンが「我、仮説を作らず」 として解明しなかった引力の原因を、運動として存在する物質が持つ形而上学的内在力と見做して 計測可能な引力=斥力と重ねる形而上学的力学を展開していた。改めて引用しておく。 「前述の類推によって極めて確実に確定したように、互いに秩序だって関係し調和する天体の 運動や軌道は自然的原因をその起源としていると仮定するとしても(実際、そう認めざるを得な いのだから)、この原因は現在の宇宙空間を満たしているのと同じ物質ではありえない。したがっ て、以前にこの空間を満たしていた物質が運動して集まり、空間をいまそうであるように空虚に した後で、この運動は天体の現在の運行の根拠になった。あるいは、このことからすぐわかるよ うに、惑星、彗星、さらに太陽さえも構成するこれらの物質そのものは最初、惑星系の空間の中 に分散し、この状態で運動を開始したに違いない。これらの物質はその後もこの運動を保持した から、 結合して特別な球になり、 かつて分散していた宇宙物質の素材総てを含む天体を形成した。 この形成される自然の素材を運動させた駆動装置を発見するのは、ここでは難しいことではない。 大量の素材を結合させた原動力は、物質に本質的に内在する引力である。したがって引力は、自 然の最初の活動にあたってその運動の第一の原因になったからには、運動の源泉だったのである」 (Ⅰ339f.) ――. 後に見ていくように、 「現在の宇宙空間を満たしているのと同じ物質ではありえない」とさ. れている「原因」、並びにそれが「運動」として「天体の現在の運行の根拠になった」とされている、 その「根拠」の、形而上学的な規定、存在論的なステイタスが問題なのだが. ――. 『新解明』に. あっても、 『活力測定考』以来展開されてきた、「内在力」の「発現」を「引力」として、その「運 動」を物質存在の端緒と考える、形而上学的力学観が基盤である。 『新解明』の批判的主題は、ヴォルフ派がライプニッツを引き継いで認識の根本原理としてきた 「充足理由律」である. ――. クルージウスは、ヴォルフ派のそうした「予定調和説」的世界観を、. 宿命論的であり「自由意志」が否定されるとする批判を展開していた ルージウスの批判も踏まえて「決定根拠律」への改名を別の意味で 在(現にあること)」から「根拠」を問う独自の立場で. ――. ―― ――. 。カントは、そのク 「決定」された「現存. 捉え直し、「発現」の「根拠」とし. ての「可能性」概念を諸概念の無矛盾な結合として解明を進め、その帰結から諸可能性概念の結合 の根本原理である形而上学的「矛盾律」を、反対の排除の形での「発現」の原理として. ――. す. なわち「継起」の原理(自己排除としての「継起(時間)の原理」と他の排除としての「共存(空 24.
(3) 間)の原理」. ――. 再展開してみせる。. 『新解明』第一章「矛盾律について」をカントは、次のように書き出す。 「命題Ⅰ. 全ての真理の絶対的に第一の普遍的な唯一の原理は存在しない」(Ⅰ 388). 標題「形而上学的認識の第一原理 れば意表を突く書き出しだが. ――. Principiorum Primorum Cognitionis Metaphysicae」からす ライプニッツ的な形而上学的力学を踏まえた. ―― 「運動」. として定立される存在以前の形而上学的根本原理と、その「発現」として「命題」として定立され る具体的原理の区別が既に踏まえられている。 根本原理が単一ではありえない理由としてカントは、根本原理は原理としては単純でなければな らないが、命題化されれば肯定的であるか、否定的であるか、どちらかでなければならず、そのい ずれであっても他方を導出できないという(ibid.)。 「命題Ⅱ. 全ての真理の絶対的に第一の二つの原理が存在する。その一つは肯定的真理の原理. であり、つまりあるものはあるという命題である。いまひとつは否定的真理の原理であり、つま り、ないものはないという命題である。これら二つを一緒にして一般に、同一律と呼ばれる」 (Ⅰ 389) ここでカントが同一律としている第一原理は、クルージウスでは、矛盾律とされていたものとさ れている4。何故カントは、クルージウスの「矛盾律」を「同一律」と呼び換えたのか。 クルージウスは、『根拠律論文』で、「矛盾したものを偽として我々が拒絶する際の判断は、二つ の命題を齎す。つまり、あるところのものはある、ないところのものはない、がそれである。これ らを、如何なるものもそれ自身でありながらあると同時に無いことはできないという一つの表現で まとめて、これを矛盾律と呼ぶ」( 『根拠律論文』第二十七節 5)としていた。 クルージウスがライプニッツ・ヴォルフ派の矛盾律を否定したのは、それを根本原理として現実 世界に生じるものは全て充足理由を持つと見做すことが、同時に実践世界における意志の自由を否 定すると考えたからである。 「ライプニッツの原理は真理から逸脱している。つまりこの原理は、い かなるものについてもア・プリオリの根拠が存在すると主張するため、この原理によっては、すべ ての作用因もまたそこから結果がア・プリオリに予知されるようになっていると見做されるからで ある。しかし自由な行為はこの原理から除かれるべきであることを私は示したい」(『根拠律論文』 第 42 節) 。「経験によってはっきり自覚されている意志の自由が想像上の原理によって奪われるこ とに、誰が甘んじようか」( 『根拠律論文』第九節)、そうクルージウスは言う。 だがしかし、そうであれば、形而上学的領域における矛盾律の決定性と、実践世界における意志 の自由との両立を可能とする理論の探求がありうることになる。 『新解明』論文第二章「決定根拠律、通俗的には充足根拠律について」. ――. 形而上学に否定. 的なクルージウスに対しカントが、中世以来の論理学・形而上学・存在論の区分に改めて則り『新 解明』第一部(論理学)と第二部(形而上学)第三部(存在論)を明確に区別してみせているのは、 その辺りの事情を窺わせる. ――. 「命題Ⅳ」の「定義」でカントは、自身の「決定根拠律」を次 25.
(4) のように説明してみせる。 「. 定義. 命題Ⅳ. 決定〔規定〕するとは術語をその反対を排除して定立することである。術語に関し. ては主語を決定するものが根拠と言われる。根拠は先行決定根拠と後続決定根拠に分けられる。 先行決定根拠とは、その概念が決定されたものに先行する根拠である。つまり、根拠が前提され ないと決定されたものが理解されない。後続決定根拠とは、それによって決定される概念が前も ってどこかに既に定立されていなければ、定立されない根拠である。先行決定根拠は理由に関す る根拠、つまり存在ないし生成の根拠、後続決定根拠は、事実に関わる根拠、つまり認識根拠と いうことである。 (原注)これに同一的根拠を付け加えることもできる。個々では主語の概念が述語との完全な 同一性によって術語を決定する。例えば、三角形には三辺がある。この場合、決定されたものの 概念は決定する概念に先行もしなければ後続もしない」. (Ⅰ391f.). 「反対を排除して定立する」 「決定」とは、定立された「現実」を起点にして、そこから「どの程 度充足的か直ちに明らか」でなかった「可能的なもの」を、「反対を排除して」「決定」された「述 語」として、すなわち「必然性」として捉え直すことである. ――. カントはクルージウスに倣っ. て「充足理由律」を「決定根拠律」と呼び換えるがその表向きの理由は、 「充足理由律」では「充足」 の程度が形而上学に属し、 「どの程度充足的であるかがただちに明らかでなく、曖昧」ゆえである(Ⅰ 393) 。その解消としてカントは、 「決定」され定立された「現実」に依拠し、そこから遡ることで、 「可能性」から「現実」への転換を「必然的」と見做すことができるとする。ライプニッツ「充足 理由律」の形而上学的曖昧さを、主語と述語とを結びつけ「決定」する「判断」すなわち「認識」 の立場、「現存在(現にあること)」の立場に立ち直すことで すことなく. ――. ――. その形而上学的構図自体は崩. 回避してみせるのである。. カントは、 「認識」を起点として を問題とするにあたり. ――. ――. すなわち決定され定立された「現実」の主語-述語命題. 「先行決定根拠」(「生成根拠」)と「後続決定根拠」(「認識根拠」). との区別が必要であるとする。この区別を必要とする「実在性の証明」(Ⅰ392)としてカントは、 例として「円」という主語があるとき、それに対して何らかの述語 周でできた図形のうち最大の容積を持つ」といった根拠. ――. ――. 例えば「等しい長さの. が与えられ、根拠によってそれが. 主語に結び付けられるのでなければ、 「私は何が問題になっているかまったく理解できない」 (ibid.) とする。それと類比的に、たとえば、われわれは「世界の悪の根拠」を探求するというとき、実際 その経験をしている以上、その事実をどう捉えるか問う「認識根拠」は最早問題ではなく、 「世界に は多くの悪がある、という命題」がなぜあるのか、なぜ存在するのか、すなわちその存在理由、そ の「生成根拠」が問題なのであるとカントは言う。 「つまり、それを前提すれば、世界はこの述語に関して先行的には未決定ではないことが理解 できる生成根拠が挙げられるべきなのである。そしてこの根拠によって、悪という述語がその反 対の排除により定立される。したがって根拠は、未決定な状態から決定されたものを生み出す。 26.
(5) すべての真理は主語における述語の決定によってもたらされるのであるから、決定根拠は単に真 理の基準にとどまるのではなく、それはまた真理の源でもある」. (ibid.). カントが問題にするのは事実の生成の根拠を問う、形而上学的な理由律についてであり、クルー ジウスが追及した経験主義. ――. ライプニッツ的な「ア・プリオリな決定根拠」から「自由意志」. を守るべく「ア・ポステリオリな認識根拠」を主張し、経験における事実相互の均衡の上で根拠づ けられうる真理の可能性を論証して自由な判断の実在を主張した. ――. とは方向を異にしている。. 先回りしていえばカントは、既に前稿で明らかにしておいた通り、後続の実体論『自然モナド論』 で明らかにされる、独自の「物理的影響」概念に基づいた、意識実体と物理的実体の相互作用(心 身関係論)によって 6. ライプニッツの予定調和説を、構図はそのままに科学的経験値に対応可能. なように全面的に書き換えようとしているのであり、認識すなわち主観的判断によって「決定」さ れた世界から、 「可能的なもの」が「必然性」として現実化される世界の現実化、真理の創造を説明 する. ――. 主語の概念に対する可能な概念から、反対のものを排除して述語を決定し同一性命題. にもたらす、判断としての真理命題の現実化としての. ――. 世界創造論を構想している。. 経験主義の立場からクルージウスは、 「根拠」を、観念の内の認識に関わる「認識根拠」と、観念 の外部に想定される「実在根拠」とに区別し(『形而上学』§34)、数学的認識は実在的で矛盾律が 支配するが、しかし力としての作用因が引き起こす現象. ――. 「自由意志」が含まれ得る. ――. については、起源からの矛盾律にではなく、事実相互の同時存在を根拠とする原理「不可分離律」 に基づく「決定根拠律」に拠るとして、ライプニッツ的な予定調和・ア・プリオリな決定からそれ を切り離していた。 「ア・プリオリの論証によっては、何故事柄があるのかということが認識される。 例えば事柄の定義から属性が演繹されるし、決定原因と決定根拠から結果を引き出される」が、し かし「ア・ポステリオリの論証」によっても、 「事柄が在るということは認識される。例えば、経験 によって、背理法によって、他の事柄との比較によって」(『根拠律論文』§33)7。 実践的行為における判断が事実相互間のア・ポステリオリな「決定根拠律」に基づくことを論証 して宿命論の一角を破り、自由な判断・自由意志の存在可能性を論理的に担保してみせていたクル ージウスは、しかしこのア・ポステリオリな論証・決定根拠律に基づく実在の根拠についてはそれ を「蓋然性」にとどまるとしていた。クルージウスによれば、それが「有限的存在としての人間の 認識の限界」だが、しかし「確実性」の点ではそれで「人間の実践世界においては何ら問題はない」 ( 『根拠律論文』§33)。 カントの立論は、既に見てきたようにライプニッツの予定調和説の改訂として、物質と意識相互 の改たな実体関係に基づき( 「物理的影響説」 )、形而上学的「力」の「発現」としての「運動」現象 をこの世界の「存在」として捉え直す形而上学的なものであった。その立場から見ればクルージウ スの自由論は、デカルト的な物心二元論から経験世界を物質的とのみ見做し、実体概念について問 い直すことなく、 起源からの必然的因果連関を遮断して、経験的世界の共在関係のみに着目する ―. 「形而上学」を排した. ――. ―. 蓋然的自由論に止まるものとしか見えなかっただろう。. クルージウスの発想は、物質界の秩序法則(因果律・矛盾律)と意識界のそれとを別のものと見 做す立場に繋がるものであったのに対し、カントのそれは、物質と意識が相互影響し合う、その限 り同種の実体である以上は、認識が行う主語と述語の結合という判断は、物質界の因果的法則結合 27.
(6) と別のものではありえず 8、認識としての判断が行う同一律的結合は、あるものはある、としての 現実化した存在を決定づけると相即に、実現しなかった而余の総ての可能性、すなわち非存在、な いものはない、を排除を通じて同時に決定し、その内から成立するものである。 先の第一章:矛盾律について、命題Ⅱの説明をカントは、 「主語概念と述語概念の一致から真理を 推理する」「直接的論証」と、「究極的には二つの原理を基礎」にもつ「間接的推論」として展開し ていた。 「 (一)その反対が偽であるものは全て真である、つまり、その反対が否定されるべきものは肯 定されねばならない。 (二)その反対が真であるものは全て偽である。これらのうち、最初の命題 は肯定命題を、二番目の命題は否定的命題を帰結として伴う。最初の命題をもっとも簡潔な言葉 で表現すれば、ないものでないものはある、となる(というのも、反対が、ない、という不変化 詞によって表現され、その除去が、同様に、ない、によって表現されているからである)。二番目 の命題は次のようにして立てられる。即ち、ないものはない(つまりここでも反対という語が、 ない、という不変化詞によって表現され、偽であることつまり除去の語が同様に同じ不変化詞に よって表現される)。ところで、記号の法則の要求に従って、最初の命題に含まれる後の意味を吟 味すれば、一方の不変化詞、ない、は他方の不変化詞、ない、を否定すべきことを命じているの であるから、双方を除去すれば、あるものはあるという命題が現れる。また二番目の命題はない ものはないであるから、明らかなように、間接的論証においても、二重の同一律が原理であり従 って全ての認識の究極の基礎である」(Ⅰ389) 先回りして見ておいたようにカントは、ここでの議論がいずれ の基準としてだけでなく、その生成に関わるとする. ――. 主語と述語の一致が真理. ―― 「決定根拠律」に発展すること念頭に、. 論理学的に、その表層的・記号的側面だけに限定して議論を展開しているとみることができる。カ ントはライプニッツの名前を出して記号結合術においても同じ結論が導かれるとしてみせる9。 「たしかに絶対的に第一の諸原理にまで至れば、ここでも概念や、したがってまたもっとも単 純な語を記号のようにして使用する機会があるのだから、記号術に何らかの効用のあることを確 かに私は否定はしない。しかし複合的認識を記号によって表現せねばならないところでは、透徹 した精神のことごとくは突如としていわば暗礁に乗り上げ、脱出し難い困難に巻き込まれる。私 は著名なダリエスのような偉大な哲学者でさえ、矛盾律を記号によって表現しようと試み、肯定 概念を+A によって、否定概念を-A で表現したのを見出す。この試みから、+A-A=0という 式が得られる。つまり、同じことを肯定し否定するのは不可能、つまり無である。この偉大な人 物にケチをつけるもりは毛頭ないが、この試みには疑いもなく論点先取がある。なぜなら、もし 否定概念を表す記号に、これと結合された肯定概念を否定する力が与えられるのであれば、明ら かにここには、対立する概念が相互に否定しあうことを定める矛盾律が前提されているからであ る。その反対が偽であるものは全て真であるという命題に関するわれわれの説明は、この欠点を 免れている。というのも、もっとも単純な語で表現すればそれは、ないものでないものはある、 となり、不変化詞ない、を否定してそれらの単純な意味を取り出す以上のことはしてないからで 28.
(7) ある。その結果は必然的に、あるものはある、という同一律である」(Ⅰ390) カントが論じているのは、 「記号」上、即ち「表象」上の肯定否定を生み出す、その生成の源泉に ある形而上学的な「対立する概念が相互に否定しあうことを定める矛盾律」 ては姿を現さない形而上学的根本原理「矛盾律」. ――. ――. それ自体とし. であり、その帰結としての、定立された. 記号上・命題上の二重の「同一律」、「あるものはある」と「ないものはない」である。 二 カントの「決定根拠律」:「現存在」 前節で見たように、カントは『活力測定考』以来、ライプニッツの形而上学的力学の構図に則り、 現実世界からの精密化、論理学も巻き込んだその改修に邁進していた。形而上学的に捉え直された 「力」の発現は、物理的力学現象の原因として「活力」として説明されるだけでなく、 「静止」を極 限とする「運動」概念による「存在」概念の改訂を基に、近代の局所的力学運動から逆算された「物 質」「精神」の実体概念上の経験的区別を改めさせ、「表象」の生成を物質同様、現実世界に位置を もつ、その限り同種の実体概念として説明するものであった。 カント独自のその形而上学的立場からは、ヴォルフ形而上学の経験主義的な不徹底が批判される だけでなく、ライプニッツ予定調和説を決定論的と批判し、可能世界ベースの充足理由律を批判し て現実世界ベースの「決定根拠律」を提起していたクルージウスの試みも、単に経験的世界の常識 的実体観にとどまる中での試みに過ぎないと見做されざるを得ない. ――. 論理学的には、経験的. 世界における事実相互の関係性に真理の基礎を置き直して提起されるクルージウスの「不可分離律」 の企図それ自体や、観方によればライプニッツ後期の普遍記号論的な関係主義、それを受け継ぐラ ンベルトの関係主義的言語哲学にも連なり得るその経験主義的真理論の試み(事実均衡論)にカン トは大いに注目するのだが、にもかかわらず、形而上学に遡っての世界観の本質的見直しに立脚し 直さない限り、次に見るように、そのいずれも、「後続決定根拠」(クルージウスの謂う「間接的証 明」 )であるに止まり、経験的「蓋然性」を克服し得ないというのがカントの論判である. ――. 。. 第二章「決定根拠律、いわゆる充足根拠律と言われてきたものについて」でカントは、ライプニ ッツの「充足理由律」を批判的に継承する自身の「決定根拠律」を展開するにあたり先ず、反対を 除去して述語を定立する「決定」において、述語に関して主語を決定する「根拠」として、クルー ジウスの経験主義的な「決定根拠」の主張を「後続決定根拠」と規定して、それと区別して自身の 「先行決定根拠」を提起する。その説明に用いられる「理由」の語も、論証の具体例「世界に存在 する多くの悪」もライプニッツ『弁神論』を髣髴とさせるが、カントは一段落を付加えて「先行の 決定根拠と後続決定根拠の相違の例解として、私は木星の衛星の食を取り挙げる」とする。このと きのカントの思索の内実. ――. 『天界の一般思想史とその理論』として展開された、改良された. ライプニッツ形而上学的力学に基づく世界の体系的説明. ――. について教えるだけでなく、カン. トのライプニッツ「充足理由律」批判の理由についても窺わせる内容である。 木星の食の現象に関してカントは、当時すでに知られていた地球の公転軌道上の位置によって違 ってくる木星との距離と観測される木星の食の開始時間の変動の事実が、光速が有限である事実の 「認識根拠」を与えると言う。 「私に言わせればこの木星の衛星の食は、一定速度で継起的に起こる 光の伝播の認識根拠を与える」 (Ⅰ393)。光が完全な剛体上の振動でない限り、木星と地球との距離 29.
(8) の差と観測される食の開始時間の差は、木星から地球までに到達する光の膨大な量に上る「継起」 が、その運動の全体として遂に観察可能な光の一定の「速度」として観測され、それが距離の違い による差を産みだしているとカントは考えるのである(ibid.)。ここで捉えられている自然の規則 性. ――. 自然定数(ここでは光のこの世界における有限な「速度」) ――. の根拠は、言わばク. ルージウスが主張する不可分離律に基づいた現実の経験の集積としての決定根拠・決定原因に他な らない。カントはそれをも有意味な根拠の一つとして認め、 「認識根拠」すなわち「後続根拠」と呼 ぶわけである。 それを踏まえてカントは更に、そもそも光の現象が絶対的剛体を媒介とする位置の変化に基づく もの、すなわち「速度無限大」ではなく、観測される有限な運動として光として存在する事実 ―. ―. デカルトの形而上学的想定である「弾力性をもつ気粒子」上の弾性運動と考えられるような、. 有限な速度を持つ伝播として独立に観測される事実. ――. そのものを問題にする。ライプニッツ. の形而上学的力学を承けたカントの考えにおいては、運動している事実こそが存在の実在性を認識 させる根拠、すなわち存在を存在として事実として観測させる「生成根拠」に他ならない。 「私に言わせれば、この木星の衛星の食は、一定の速度で定期的に起こる光の伝播の認識根拠 を与える。しかし、この根拠は、単に後続的にこの真理を決定しているに過ぎない。なぜなら、 仮に木星の衛星が存在しないとしても、また衛星によって断続的に生じる遮光が見られないにし ても、光は依然として、たとえわれわれに知られなくとも、時間の中で広がるからである。ある いは、与えられた規定にもっと即していえば、光の継起的運動〔有限な速度〕を証明する木星の 現象は、この光の本性そのものを前提にしていて、これがなければ木星の現象も生じなかったで あろう。かくて木星の現象はこの真理を後続的に決定するに過ぎない。然し生成根拠、つまりな ぜ光の運動は一定の時間を要するのかという根拠は(デカルト説を受け入れれば)気粒子の弾力 性にある。気粒子は弾力性の法則に従い、衝撃を少しずつ吸収して遅れながら、とてつもなく大 きな系列がひとまとめになることで、それぞれの気粒子でかかった瞬間的時間を遂には知覚可能 なものにするのである。これが先行的に決定する根拠であろう。あるいは、この根拠なくしては 如何なる決定された出来事も生じなかっただろう。もし気粒子が完全な剛体であれば、どれほど の距離があろうとも、光の放射と到着との間にはいかなる時間間隔も認められなかったであろう からである」. (Ⅰ392f.). 留意すべきは、カントがクルージウスの「決定根拠」を、確かにそれが発現した現象の系列から 事後的に認識される「後続根拠」に過ぎないとしているにしても、単にそれを否定して、それに代 えてライプニッツ-ヴォルフ的な形而上学的な根本原理・矛盾律を現象の「生成根拠」、「先行決定 根拠」としているのではないということである。有限な速度を持つ運動として生成する光の現象の 存在・生成を保障する先行根拠に対し、その速度をこの世界における有限・一定のもの(この世界 における自然定数)としている規定根拠は、 「膨大な系列の一まとまり」である、発現した現象の継 起の総体、すなわち経験可能な関係の総体を把捉する「後続決定根拠」に帰されている。 そう考えるなら、述語に対する主語の関係を決定する根拠を「先行決定根拠」と「後続決定根拠」 に二分し、クルージウスが主張した不可分離律に基づく決定根拠を「後続決定根拠」と批判するカ 30.
(9) ントの真意は、ライプニッツ-ヴォルフの形而上学、矛盾律に基づく自身の新たな「先行決定根拠」 を提起しながらも、しかしその実、その双方の採用にあったとみなければならない。指摘されてき たカントのクルージウス経験論への傾斜も、また他方反対にヴォルフ派とりわけバウムガルテンの 形而上学・感性論への傾斜を重視する観方も10、このときのカントは同時にその二つともを重視し ていたと考えなければならないのである。 クルージウス的な後続決定根拠をも現象の規定において欠かすことのできないことを示唆する上 の引用に続けてカントは、それを踏まえてヴォルフ形而上学の「根拠」の定義の修正に進み、 「かく て言い直すと、ヴォルフの定義を基に、根拠とは、いかなる根拠によって存在しないのではなくむ しろ存在するのかがそれによって理解できるものである」 (Ⅰ393)とする。即ち「根拠」の意味を、 「現存在」 「現にあるもの」の「根拠」として、自身の立場から明確に規定し直してみせるのである。 「この点〔 「充足理由律」の「決定根拠律」への改名〕で私は著名なクルージウスに賛成する。 なぜなら、クルージウスも十分に明らかにしたように、どの程度充足的であるのかが直ちに明ら かでない以上、充足という語は曖昧だからである。これに対して、決定するとは、一切の反対が 排除されるようにして定立することであるから、事柄を他でもなくまさにこのようにして理解す るのに確実に十分であるものを示す」. (ibid.). クルージウスに従いつつ、ライプニッツ-ヴォルフ的な「充足」概念の「可能性」に基づく形而 上学的非決定性を退けるカントは、根本概念の規定としてはライプニッツ-ヴォルフ的な形而上学 的充足理由律の構図を崩すことなく、その上で、 「可能性」ではなく、その発現として「一切の反対 を排除して」一意的に「決定」され「定立」された帰結の側、すなわち定立された確定後の「現実」 「現存在(現にあること)」の側に立脚し直す するのに確実に充分であるものを示す」. ―― 「事柄を他でもなく将にこのようにして理解. ――. 「決定根拠」の立場に転回する。. カントは、ライプニッツ形而上学の構図に則って存在を「運動」として生起させる「生成根拠」、 並びにそれを司る根本原理・矛盾律を温存しつつも、 「充足理由律」による「可能性」の実現の推定 に代えて、 「定立」された結果としての現実の側から、 「可能性」を「反対の排除」を通じて「決定」 され転換した「必然性」として捉え直す、自身の独自の「決定根拠律」を提起してみせるのである。 続く「命題Ⅴ. 決定根拠なしにはいかなるものも真ではない」の説明でもカントは、その説明. ― 「決定〔規定〕するとは述語をその反対を排除して定立することである」 ――. ―. を繰り返す。. 「すべての真なる命題は、主語が述語に関して決定されていることを示す、あるいは、述語が その反対の排除によって定立されていることを示す。したがって、すべての真なる命題において は、 〔主語に〕属する述語の反対は排除されねばならない」. (Ⅰ393). 留意すべきは、 「定立」された「主語」と「述語」の関係を巡って行われる真理に関するカントの 議論は、従来の論理学的構図、すなわち常識的に逆算され形而上学的段階に実体化された「可能的 なもの」の生成発現という構図についても. ―― 31. 表象と物質の実体論的区別においてそうであっ.
(10) たように れる. ――. ――. 修正を要求する点である。 「定立」された「述語」 ――. 述語「可能性」も含ま. は、 「定立」されたときには他の可能な述語を排除した「必然的なもの」として成立し. ており既に「可能性」ではない。遡ってその排除を成立させるためになければならないものが本来 の「可能的なもの」の次元であり、それを「反対」関係に置く論理的根拠が形而上学的「矛盾律」、 それが述語生成の形而上学的な決定根拠、それがなければ生成しない、すなわち生成根拠であると 考えられているのである。続く文でカントは次のように説明している。 「しかし述語は、もしそれが定立されている他の概念に対立するなら、矛盾律によって排除さ れる。したがって、排除されるべき反対に対立する概念が存在しない限り、排除は起こらない。 こうして、全ての真理には、反対の述語を排除して命題の真理を決定する何かが存在する。この 何かが決定根拠のことであるから、決定根拠なしにはいかなるものも真ではないことが確立され ねばならない」. (ibid.). 命題Ⅰ~Ⅲで説明されていた、定立された表現型としては二つとされる原理、肯定原理「あるも のはある」と否定原理「ないものはない」 ―― 「定立」確定後は相互に独立・無関係. ――. の. 双方を形而上学的段階で根拠付けるものとして考えられている根本原理が「決定根拠」の基盤をな す形而上学的「矛盾律」であり、定立された表現型としては同一律として表されるしかない二つの 原理なのである。 「 〔命題Ⅴ〕注解 真理の認識が常に根拠の考察に基づくことは、死すべきものの普通の考え方にとっては確かな ことである。しかしなからわれわれはしばしば、確実性のみが関心事であるところでは、後続決 定根拠に満足する。とはいえ、後続決定根拠は真理をもたらすものではなく説明するものである 限り、つねに先行決定根拠も、あるいはそう言いたければ、生成根拠、または単なる同一的根拠 も存在することは、これまで述べた定理や説明から容易に明らかである」(Ⅰ394) 。 ここまで、ライプニッツ形而上学・力の概念を敷衍しつつも、 「可能性」に基準づく「充足理由律」 ではなく、発現した現象、すなわち「決定」され確定・定立された「主語」 ・ 「述語」関係に立って、 「後続決定根拠」による真理の「説明」以上に形而上学的に、真理生成の源泉である根本原理・矛 盾律を「決定根拠」から解明する方向へ進んできたカントは、一転、「現存在(現にあること)」の 解明に進む 「命題Ⅵ. ――. 「そうであるからには、現存在を決定する根拠に進もう」 (ibid.). ――. 。. あるものがその現にあることの根拠を自らのうちに持つことは不合理である。. あるものの現存在の根拠を自らの内にもつものは、その現にあることの原因である。そこでい ま、自らの現存在の根拠を自からのうちに持つものが在るとせよ。このときそれはそれ自身の原 因であろう。しかし原因の概念はその本性からして結果の概念に先行し、結果の概念は原因に後 続するのだから、 〔この場合〕同じものが自らに先行すると同時に後続することになる。これは不 合理である」(ibid.) 32.
(11) 振り返っておけば、この世界の現象・現存在の経験に基づいて、定立された確実なこの世界から ――. 新興科学による経験値に即して. ――. その根拠を問うことが、 『活力測定考』以来繰り返し. 確認されてきたカントの「形而上学」であった。だがそれが、 「真理は、反対の排除によって定立さ れる」立場に転回することによって て確かめられるものである以上. ――. ――. 反対の排除は確定した述語と主語の定立において初め. その限り、先に確認した通り、クルージウス流の「後続決. 定根拠」は否定されないどころか、そもそも「後続決定根拠」と「先行決定根拠」の差が、命題上 は意味をなさないことになる。このことは同時に、これまで見てきた『活力測定考』以来の、ライ プニッツ的な形而上学的考察からの、ある種仕切り直しを余儀なくするものであり、 「現象」の存在 としての生成を、同時に真理性として ―. ――. すなわち主語-述語命題の同一性として相即に. ―. 改めてその「発現」の側から問題にし直す必要を意味していた。 決定的なのは、先回りして前稿でみておいた、 『自然モナド論』における、 「物質」概念と「表象」. 概念が、共通の実体性を持つとの着想である この「世界」(空間)に共通に生成発現する 理的影響関係」を持つ. ――. ―― ――. 心身問題の解決. 固有の「位置」をもつ限りにおいて、両者は 。その限り「物質」と「表象(意識)」は「物. ――. 。物質と表象(意識)は同じ空間内に位置. を持ち、関係すると考えられる限り力学的構図で、 「発現」の問題として考えられているが、述語と 主語の真理関係の問題としてそれは、その「表象」内部の関係の問題に及ばざるをえない。クルー ジウスの「決定根拠」 (「後続決定根拠」)を認めざるを得ない理由もそこにある。 想起しておかねばならないのは、ライプニッツが表象内部の全関係を全て予め予定されたものと していたことである( 「予定調和説」 )。従って「表象」相互の影響関係はみせかけにすぎない(「モ ナドには窓がない」)。カントはそれを経験的科学の進展にそぐわないと批判し、ライプニッツの力 学的世界観の更なる徹底化・精緻化の線上で、 「物質」と「表象」が「現象」として同一「空間」内 に発現の「位置」を持ち. ――. ここで言う「空間」は、その作用点(心身の作用点)が直接「感. 覚」されないところから形而上学的(「叡智的空間」)といってよい. ――. 互いに「物理的(すな. わち形而上学的力学的構図に基づく形而上学的空間を通じた)影響」を持つことを基底として、発 現(定立)した「主語」と「述語」の真理関係を、その発現以前の根本原理・矛盾律による「反対 の排除」を通じての、真理としての定立・確定 の転換. ――. ――. 「可能的なもの」から「必然的なもの」へ. の問題( 「先行根拠」 )として考えようとしているのである。それ故問題は、先に光. がこの世界の運動・継起として有限な定数を持つことと重ねて考えることができた、クルージウス の「後続決定根拠」にも関わって、真理生成の問題をどう考えるか、である。そもそもクルージウ スの「決定根拠」の問題は、光現象のような物理的発現に関わる「後続決定根拠」としてだけでな く、単なる否定辞のように専ら命題上の関係だけの問題. ――. 即ち命題上の真偽問題. ――. に. 拡張されうる問題であった。 カントは「可能性」概念の解明へと進む。 三. カント「可能性」の形而上学・存在論. 先の引用、「命題Ⅵ. あるものがその現存在の根拠を自らのうちに持つことは不合理である」(Ⅰ. 394)とされる理由が、その論証. ―― 「原因-結果」の概念は、先行-後行の関係にある 33. ――. か.
(12) ら明白なように、因果論的、すなわち力学的構図から考えられているのは疑いない。がしかし、そ れをカントは「絶対的に必然的に存在するもの」に対しては遮断する。 「系 従って、絶対的必然的に存在するものは何であれ、何らかの根拠によって存在するのではな く、その反対が全然考えられないがゆえに存在するのである。反対のこの不可能性がその現存 在の認識根拠だが、しかるに先行決定根拠は全く欠けている。それは存在する。絶対的に存在 するものについては、こう主張され、理解されれば十分である」 偶然的に存在するものが何らかの根拠. ――. (Ⅰ395). 先後関係にある原因-結果関係. ――. によって. 存在するのに対し、「絶対必然的に存在するもの」は、「根拠によって」ではなく、すなわち根拠の 系列を離れて、 「その反対が全然考えられない」ことによって「存在する」。 力学的考察においてカントが、現象における発現様態から逆算的にその原因者を恣意的に形而上 学的に実体化する、原因結果系列の無条件な推及を厳に戒めていたこと 11を想起するまでもなく、 「先行決定根拠は全く欠けている」とカントが断言していることにおいて、原因結果系列の遮断だ けでなく、この世界における「存在(者)」概念からの系列的推及の遮断も考えられていることが留 意されねばならない。 「存在」は、「その反対が全く考えられない」、「存在」以前の「必然性」とし て「可能性」の次元で. ――. 排除された「可能性」の無限に支えられて. ――. 「存在する」と. 言い換えられている。 カントが神は自らの存在根拠を自身の内に持つと考えるアンセルムス流の存在証明に反対するの もこの点からである。理論上でしか可能でない「諸根拠の連鎖を〔無制限に〕辿る」ことによって、 「神の外部にはいかなる根拠も見いだせない」とし、そうである以上は「それは神自身のうちにな ければならない」と考えるその誤りは(Ⅰ394)、実際には、この世界は決定されたものとして「現 存在」し、反対(この世界は存在しない)を排除する原理によって「必然性」として決定され生成 している非連続性を考えられていない。現実を論理にも反映すれば、 「諸根拠の連鎖を辿って原理に まで至ったところ」で「そこで行き止まり」であり、答え〔この世界は存在する〕が極まったこと で問いもまた止む」のである。概念の連続しか考えない誤りからは、理論上「もしある存在者に一 切の実在性が制限なしに統一されているとするなら、その存在者は現存在する。もし実在性が単に 概念において統一されているにすぎないのであれば、その存在者の存在もまた観念においてあるに 過ぎない」ことが帰結する。「概念〔だけ〕を用いた神の存在証明」は、実は、「神と呼ばれる存在 者の概念を形成する際、現実存在がそこに含まれるようにその概念を定めた」 (ibid.)のに過ぎず、 要するに「現存在」するものの概念の無制限な推及であるに過ぎない。この世界が決定され、 「可能 性」から「必然性」として確定され「存在」として定立されている現実の非連続性を、それは少し も考えていない。アンセルムス流の神の存在証明は、 「観念の上で可能であっても実在的には起こり 得ない」 (ibid.)。カントの批判は、 「後続決定根拠」に対する「先行決定根拠」の違い 能性」から「現実性」への非連続の連続. ――. ―― 「可. に重ねられている。. その上でカントは、この世界を現に存在させるに至っている生成根拠としての、 「一切の実在性が 制限なしに統一されている」「ある存在」、「必然性」を、「可能性そのもの」の「先行決定根拠」と 34.
(13) して論証する。 「命題Ⅶ. それの現存在が自らの、またすべてのものの、可能性そのものに先行し、かくて絶 対的必然的に存在すると称される存在がある。これが神と呼ばれる。. 可能性とは統合された諸々の概念が〔互いに〕矛盾していないことに尽き、且つまた可能性の 概念は比較から得られ、それにまた、全ての比較においては比較されるべきものが存在せねばな らず、いかなるものも存在しないところでは比較も存在しないし、比較に対応する可能性の概念 も存在しないのであるから、以上のことから次のことが帰結する。すなわち、いかなる可能性概 念においてもなんであれ実在的なものがなければ(quicquid est reale)、いかなるものも可能的 として理解され得ないということである。そして実際、その実在的なものは(もしそこから逸脱 するなら、いかなる可能的なものもなく、単に不可能なものしか存在しないであろうから)絶対 必然的に存在する。さらに、 この全的な実在性は唯一の存在者に統合されていなければならない。 (Ⅰ395) ―― 「存在」 「現存在 Dasein」と「実在性 が必要だが. ――. real 」が、使い分けられていることに十分な注意. 可能性そのものに先行するものの現存在を論証するために先ずカントは、 「可能. 性」概念を定義してみせている。 「統合された諸概念が相互に矛盾していないこと」とされるカント のその「可能性」概念の定義は、ライプニッツ予定調和説・可能世界論からの可能性概念を巡る議 論を踏まえるものであり、そもそもヴォルフに拠れば、 「存在(ens:存在者)」とは「存在すること が可能なもの」のことであり、 「可能なもの」すなわち「無矛盾であるもの」が、如何なる「必然性」 によって現実に齎されたのか、 「事物が何故現にあるようにあるのか」その充足理由を解明し、根拠 づける学、即ち「可能である限りの可能なるものの学」が哲学なのである。 ヴォルフはしかし、後代「本質主義」とも評されることになる自身の可能性の哲学が、スピノザ らの. ――. 無矛盾性を可能性の本質とし、そのままそれを現実性と等価と見做す. ――. 宿命論. とは一線を画し、あくまで「この世界における可能性(必然性)」を問題にしていると主張し、「こ の世界における可能なるもの」は「既に存在してしまったか、今存在するか、なお将来に存在する であろうかのどれか」であり、本質的に「必然的」なものであるとした。が、問題はそのどの時点 で現実化するかであって、その点、ヴォルフの「可能性」の定義は、永遠性を根拠とする限り「こ の世界」への発現をまだ具体的に説明するものとは言えず、ヴォルフ自身は は認めていない. ――. ――. ライプニッツ. 事物同士の充足原因の関わり合いを提起したものの、バウムガルテンはそ. れを否定して、再度ライプニッツに忠実に、事物の概念の充足原因そのものに現実化の契機を求め 直している12。 「定立」された「現実」 「現存在」から「可能性」を ―. ―― 「必然性」に転換したものとして. ―. 遡ることにより、現実化の問題を克服してみせているカントの「決定根拠律」の立場が、如上. の問題史上にあることは自明である。その上で、これまで辿ってきたように、カントは先ず、ライ プニッツ形而上学における力の概念を根本概念として踏襲し(力学的世界観の踏襲)、 「予定調和説」 本来の目的であった心身問題を、実体概念の見直し(「物質」 「表象」間の「物理的影響説」)を通じ て克服して、今度は実体の発現を巡る考察から、 「決定根拠律」の提起を通じて懸案の「可能性」概 35.
(14) 念の現実への転換問題、即ち「必然性」への転換問題に応じたといえる. ――. 現実化したこの世. 界の「必然性」の根拠づけを、同時並列的な無限の「可能性(可能世界) 」の中からの最善の選択と して説明したライプニッツに変えて、ヴォルフはこの「現実世界」の「永遠性」を持ち出したとい うことができる。しかし、ヴォルフの形而上学は、いわばそれを論理的に無条件に観念的に規定し ただけということができ. ――. 先のアンセルムスの概念に拠る神の存在証明同様. ――. カント. には独断論的( 「物自体」的)と映じた筈である。 カントの「可能性」概念の再定義. ――. 可能性とは無矛盾の統合された概念群であり、諸概念. の比較を本質とし、比較されるべきものの実在性を不可欠の契機とする. ――. の独自性は言うま. でもなく、可能性概念の成立と相即の「実在的なもの」 「絶対的必然性」の、独立の主張である ―. ―. ヴォルフらの可能性概念の定義と異なりカントはその定義うちに、現実性への転換の契機を一. 切読み込んでいない。 「可能性」概念からはそうした形而上学的規定を一切排して、代わりに実際に 決定され定立された「現存在」 「現にあること」から遡ることによって、「可能性」を「必然性」と して扱ってみせるのである. ――. 。カントは次のように説明する。. 「絶対的必然性はもろもろの実在性に属さないと同様、欠如にも属さない。それに対し実在性 は物の全的規定性に属し、この全的規定性なくしては物は現存在し得ないのであるから、このよ うな仕方で制限されたもろもろの実在性は偶然的に現実存在することになろう。したがって、絶 対的必然性のためには、実在性が一切の制限を免れて存在すること、つまりそれが無限の存在者 を構成することが必要になる。この無限の存在者の複数性とは、そのような複数性が想像できる としてのことであるが、繰り返してなされる反復のことであるから、またそれは絶対的必然性に 対立する偶然性であるから、唯一の存在者のみが絶対必然的に現存在することが確定されねばな らない。かくて神が、しかも唯一の神が、全ての可能性の絶対的必然的な原理が存在する。 注解. ここに神の現存在についての可能な限り本質的な論証がある。それは本来の意味での発. 生的論証ではないにしても、しかし最も根源的な証によって、つまり物の可能性そのものによっ て証明された論証である」 カントの当面の議論は「可能性」概念のあらたな定義における「絶対的必然性」、「絶対的必然的 存在者」の論理的不可欠性の論証、並びに「可能性」概念がこの世界とともに「現に存在すること」 から要請されるその「現存在」の保障者としての神の唯一絶対的な現存在の立言だが13、ここで言 われている「存在」は、先に見た通り、最早この世界の「実在性」 「現存在」からただ逆算的・連続 的に考えられてはならない、「現存在」からは非連続的な、形而上学的連関性の謂いであり、 「可能 性そのもの」すなわち排除される「反対」とともにそこから「必然性」が定立される形而上学的な 存在以前の諸概念の無矛盾な連関. ――. れが無限の存在者を構成すること」 「物の全的規定性」概念. ――. 限の存在者」において定立される. 「実在性が一切の制限を免れて存在すること、つまりそ. ――. である。. 定立された「物」の「本質」 14. ――. も、その構成された「無. 。 「物」の「本質」は存在以前の諸概念の無矛盾な形而上学的. 連関、その「無限」に拡がる存在者の構成・無限の全体性から、反対を排除され析出され決定され るのである。 36.
(15) 「ここから明らかなように、もし神を否定すれば、物の存在すべてが否定されるだけではなく、 内的可能性そのものも完全に否定されるであろう。なぜなら、本質(これは内的可能性そのもの にある)は一般に絶対的に必然的と言われるが、しかしより正しくは、本質は物に絶対必然的に 属すると言われるべきであろうからである」. (Ⅰ395). 先に「諸概念の矛盾なき関係性」と定義された「可能性」概念が、ここでは定立後の「物」の「内 的可能性そのもの」とされ確定された「本質」として捉え直されている。バウムガルテン同様カン トは、論理的には「本質」に「現実性」が属するとするのだが15、カントの真意は、決定されたこ の世界の「現存在」から「可能性」を「必然性」と捉え返して「現存在」の決定根拠とする、つま り、反対を排除して「物」が「現存在」として定立されて初めて「本質」も「必然性」として確定 されると考えるところにある。 「本質は一般的に絶対的に必然的と言われるが、しかしより正しくは、 本質は物に絶対必然的に属するといわれるべきだからである」。 例証としてカントは、幾何学的図形(三角形)」の真理性を検証してみせる。ただ問題は、先に「先 行決定根拠」 「生成根拠」に続けて「同一根拠」とも言われていた数学的図形(「三角形」)の真理性 より. ――. 常識的には「分析的」真理. ――. ではなく、経験的な自然定数として認識される、. 「認識根拠」による、物理的対象の真理性だったはずである。 「. …三角形の本質は三辺の連結とされるのだが、この本質はそれ自体としては必然的ではな. い。実際、まともな考え方をする人であれば、三辺がつねに連結されて把握されることがそれ自 体として必然的であるとは言わないであろう。しかし私は、三角形にとってはこのことが必然的 であることを認める。すなわちもし、三角形を思惟すれば、三辺も思惟される。これはあたかも、 もし何かが〔思惟の対象として〕存在すればそれは存在する、というのに等しい。しかし思惟に 対して三辺や囲まれるべき空間の概念等が提示されるのはいかにしてであろうか。つまり、そも そも思惟され得るものがあり、しかる後に結合し、限定し、規定することで何であれ、思惟可能 なものの概念が結果するのは、いかにして可能であろうか。このことは、もし概念において実在 的であるものは何であれ、実在性の源泉である神のうちにないとすれば、全く理解しがたいこと であろう」 見られるとおり、カントが問題にしているのは、思惟における「三角形」の概念そのものの、生 成以前の「実在性」 、すなわち「本質」として「三辺の連結」と述定される以前の、そもそもそうし た主語( 「三角形」)と述語(「三辺の連結」)の定立がそこから可能になり、その命題結合の真理性・ 同一性の保障を含めて、 「思惟」そのものを可能にする「実在性」 ―― の存在性. ――. この世界の「存在」以前. である。 「結果」として「思惟可能なものの概念」を生じる、思惟以前・概念以前. の形而上学的なものをカントは考えている。定立された「三角形」と「三辺の連結」はカントの言 う通り表現としてはそれぞれ固有の文字列だが、それらを可能にする同一のものを指し示す故に、 主語と述語として、同一性命題として定立され、真理命題を構成する。 主語と述語の同一性に基づく真理命題(認識根拠)に対し、そもそもそれを可能にする、 「三角形」 37.
(16) の、図形としての現象以前、図形化以前・感覚以前の形而上学的真理性が、 「先行決定根拠」として の、 「完全ではないまでも発生根拠」としての「実在性」である。そうした先行決定根拠がなければ 「思惟」としての「可能性」も、主語‐述語の「判断」を起点とする発現も としての結合、並びに同一性・真理性の保障も含む発現も. ――. ――. 主語-述語命題. 生起しようのない、形而上学的. 根拠としての真理である。とはいえ、これまでのカントの行論から言えば、あくまでそれは「現象」 の側から慎重にその本質が規定し返されねばならない、 「可能的なもの」としての概念であり. ――. 逆算論法的に物自体としての「三角形」を形而上学領域に実体化して、三角形だけを唯一の発現形 態とすることが許されないだけでなく. ――. 域(自然定数的法則性)とも関係を有する れない. ――. 主語、述語、命題としての定立を通じて、経験的領 ――. それゆえ直ちに「分析的」判断として特権化さ. 形而上学的な真理性である。その限り、数学的命題のステイタスも自然科学的物理. 学的命題のそれと選ぶところはないことになる 16。 以上の論証の後、 「命題Ⅵ」 、すべてのものの可能性そのものに先行して絶対必然的に実在する存 在(者)の、 「現にあること」から遡った必然としての「現存在」性の提示、並びにその待遇として 「命題Ⅷ. 偶然的に存在する如何なるものも、その現存在を先行的に決定する根拠を欠くことはで. きない」の提起の後、カントは次のように言う。 「系. したがって以上の論証から明らかであるように、偶然的なものの存在のみが決定根拠に. よる支えを必要にしていて、唯一の必然的なるものはこの法則を免れている。したがってまた、 この原理が一般化されすぎて、すべての可能的なものの全体がこの原理によって包括されてはな らないのも明らかである。 注解. ここにようやくにして、私の確信する限り確実性の光にくまなく照らしだされた決定. 根拠律の論証がある。… すなわち第一に、真理の領域における決定根拠律の普遍性は現存在に対しても同様に拡大され 得るように思えたのではあるが、しかし私は真理の根拠と現存在の根拠とを注意深く区別せねば ならなかった。その理由は、もし何ものも真でなければ、つまり決定根拠なしには述語は主語に 属さないのであれば、述語〔の一つと考えられる〕現存在もまた決定根拠なしには存在しないで あろうことが帰結するからである。しかしながら真理を確定するには先行決定根拠は必要ではな く、主語と述語の間の同一性で充分であるのは確立されている。とはいえ現にあること〔現存在〕 に関しては先行決定根拠が問題になり、もしそれがなければ、存在者は絶対必然的に現存在する ことになる。またもし現存在が偶然的であれば、私が異論の余地なく示したように、決定根拠が 先行せねばならない。したがって、源そのものから取り出されることで、私の考えに拠れば、真 理がより純粋に現われるのである」. (Ⅰ397f.). カントの考えでは、同一律に基づいて、それだけで成立すると考えられている真理命題も、その 成立以前に、先ず「主語」が「反対を排除」してそこから定立される形而上学的実在性すなわち「可 能的なもの」に基づいていなければならず、それを基準、すなわち「決定根拠」として、 「述語」も 「主語」に同一のものとして属することができる。そうである限り 38. ――. 真理命題は主語と述語.
(17) の同一性だけで成立すると通常考えられているが. ――. それが指し示すその「発現」の「先行決. 定根拠」、すなわち決定された「可能的なもの」の「必然性」に関わっていなければならない。「決 定根拠」が不要というのなら、先に命題Ⅷによって否定的に論証されていた通り、存在者全てが絶 対必然的に現存在することになるゆえに、ここから主語‐述語の同一性だけで成立すると考えられ ている真理命題は、全て「偶然的」なものとして、そうであるかぎりその「現存在」としての「定 立」「発現」においてその「先行決定根拠」、即ち形而上学的次元における「可能性そのもの」―― 「源」. ――. に関わっていなければならないのであり、それによってカントは、命題次元におけ. る「認識根拠」の真理性の根拠を間接的に担保しているのである。 これまでのところで明らかなように、カントは「物質」 「表象」 「数学」のみならず「主語」 「述語」 すなわち言語、命題、命題の真理性に到るまで、その「定立」「発現」に注目し、「現にあること」 から遡ってその「決定根拠」を、形而上学レベルでの存在以前的な「可能的なもの」の次元におけ る「反対の排除」 、それによる確定、「必然性」への転換、その「現存在」への「生成」として考察 している。言い換えれば、 「決定根拠」としての「存在」は、反対の排除を通じて「必然性」に転換 される以前は、存在以前的な「可能的なもの」として. ―― 「発現」した「現存在」、あるいは「述. 語」の規定、あるいは確定された絶対必然的なものとしての「本質」から遡られた「思惟可能なも の」とは区別される. ――. 発現する言語命題の偶然的組み合わせ全てがそれにより担保され(ク. ルージウス的な「認識根拠」の間接的担保)、また決定された「現にあること」から遡って決定され た「現存在」としての主語‐述語命題の同一性、真理性の根拠がその形而上学的な「可能性」 「可能 的なもの」の確定された無矛盾性によって担保される、「源」である。 カントの観るところ. ――. ライプニッツの形而上学的力学的世界観構図の延長上で. ――. こ. の世界の「発現」は、形而上学レベルでの「可能的なもの」 (力学においては「力」と称されてきた もの)の論理的無矛盾性(根本原理・矛盾律による反対の排除)を経て確定、定立されており(故 にその結果として最善)、決定された発現から遡る限り、その「可能的なもの」の真理性(無矛盾的 な必然性)によってその「現存在」が根拠づけられていることになる。それがカントの言う、「形而 上学的認識の第一原理」である。 続く「命題Ⅸ」以下「自由意志」論を巡るカントの議論展開も、同様に以上の「決定根拠律」の 理論に基づいているが最早詳細は省き、ここでは「命題Ⅷ」の先の引用部分に続く、 「注解」末尾の 議論を引いておく。カント哲学の後の理論展開、批判哲学の展開にとって興味深い内容 量の概念、無限判断論、物自体の概念への発展の可能性. ――. ――. 負. が窺えるからである。. 「もしあるものが根拠を持たなければ、無がそのものの根拠であろう。したがって、無がなに ものかであることになる。これは矛盾している。このように進められる議論は然し、むしろ次の ように立てられるべきであった。もし存在者に根拠がなければ、存在者の根拠は無、言い換えれ ば非存在者である。この点は私は両手をあげて賛成する。というのも、もしいかなる根拠もない のであれば、根拠には非存在者の概念が対応するだろうからである。したがって存在者に、それ に対してどんな概念も対応しない根拠だけが指示され得るとしたら、確かに存在者はいかなる根 39.
(18) 拠も必要としないであろう。これは仮定に帰着する。こうして、現れると思われていた矛盾に至 らない。私の主張の証拠として例を挙げたい。このような議論の仕方であれば、私は次のことも 敢えて論証出来たであろう。最初の人間もある父親から生まれた。というのも、彼が〔父親から〕 生まれたのでは無いとしよう。彼を産んだのは無であろう。したがって最初の人間は無から生ま れたことになる。これは矛盾しているから、最初の人間が誰かから生まれたことが認められねば ならない。この論証のごまかしを避けるのは難しくはない。もし彼が〔誰かから〕生まれたので なければ、無が彼を産んだのである。つまり、最初の人間を産んだと考えられているものは、無 あるいは非存在者である。これ以上に確実なことはない。然しこの命題が間違って換位されると、 全く誤った意味になる」. (Ⅰ397f.). カントの議論は「主語」がその発現に際して指示するものに向けられている。「根拠」の否定は、 根拠が存在しない、のではなく、根拠として「非存在」という「可能性」が指示されていることを 意味し、 「非存在」という「可能性」概念は存在という概念同様、反対の排除を通じて成立する。故 にそれは端的な無、すなわち存在の否定、ではない。 「最初の人間」は、 「無」すなわち「非存在者」 という「可能性」から生まれてくるのである。 「力」の概念がその発現態である「運動」からだけ逆算的に措定されてはならないとされていた ように、「存在」概念と同様その反対である「無」も「現存在」から逆算的に遡及されてはならず、 それが定立された「可能性」 「可能的なもの」に向かわなければならない。単に主語述語の結合を否 定するだけの意味とは区別して、述語「無」すなわち「非存在」の「先行決定根拠」、「可能的なも の」が意味するものが考えられなければならないのである。起源の問いが考えさせているものは、 この世界の存在の反対である無を超えた、無限の領域での、この世界の存在を生み出すもとになる、 異なる意味における「実在性」 ―― 「現存在」がそこから生じてくる「必然性」 「真理性」とし ての「可能性そのもの」、その「現存在」以前として「非存在」としての「無」、すなわち「無限」 の広大な領域. ――. である17。. ライプニッツの形而上学的世界観から認識の根本原理を考察してきたカントは、起源への問いか ら「発現」 ―― 三章. としての「世界」 ――. の展開の根本原理として、 「継起」論を展開する。 「第. 決定根拠律から得られる、帰結においてきわめて豊かな形而上学的認識のための二つの原理. が得られる」は、時間論、空間論である。 「一. 継起の原理. 命題Ⅻ. 他の実体と結合している実体に対してのみ変化が生じ得る。これらの実体の相互的依. 存関係が状態の相互的変化を決定する。 したがって、すべての外的変化を免れて孤絶している単純実体があれば、それ自体、全く不変 的である。 同様、他の実体との結合によって複合されている実体において、もしこの関係が変化しなけれ ば、いかなる内的状態の変化もそのうちに生じえない。したがって、一切の運動を免れている世 界では(というのも運動は結合の変化の現象だから)、実体の内的状態に於いて如何なる継起も全 40.
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