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問題は,あくまで個々の作品の独立した世界であることを十分承知しなが ら,それでも,私はシェイクスピアについてよく考える。とはいっても,私の 興味は伝記的な細部の事実にあるのではなくて,劇作家シェイクスピアが作品 創作に向う姿についてである。エリザベス朝時代,演劇にたずさわる者たちの 社会的地位は,部分的に向上したとはいえ,全体としてはまだまだ低いもので あった。役者芸人は,いわゆる河原乞食や浮浪者の類として蔑まれ,貴顕の人 の庇護を受けない場合は,捕えられ処罰された。有名な1574年の市条令は,そ の法制化である。シェイクスピアはこうした時代に生きた。それ故,自らは劇 団に属して貴人の保護iを受け,ついには著しく成功したものの,ひとりの演劇 人としては,そのように社会の低きに位置づけられた者たちとの仲間意識を常 にもっていたにちがいない。そして,一連の作品はそうした気持の絶好のはけ 口となったであろう。以下は,その具体的な現われをr夏の夜の夢』において 見ようとする試みである。 『夏の夜の夢』には,一読してわかる構成上の特色がある。この劇が枠構造 をもっているということである。劇を堂々とした調子ではじめているシーシュ ースは,第一場が終るのを待たずに姿を消したあと,第四幕第一場まで現われ ない。彼が担うプロットは枠組を構成し,森で恋人たちに起こる混乱からなる 中心的プPットとは,事実上かけ離れたものになっている。普通これは, 『夏 の夜の夢』が,ある貴族の婚礼を祝う余興としてその邸の大広間で上演された ce本稿の一部は,京大英文学会年次大会(1976.11)で口頭発表したものと重複する。祝婚劇であるということから説明される。つまり,シーシュースはその貴:族の 代役であって,ご機嫌うかがいが目的であるために超然とした位置を与えられ ているのだというのである。この点については何ら異存はない。ただ問題は, そのように考えることで,シーシュースは,この作品の中にありながらも,そ の喜劇構造には直接関わりをもたないのが当然のように考えられがちなことで ある。けれども,シーシュースがあくまでこの劇の登場人物であるからには, 彼もまた,その喜劇構造の中で何らかの役割を果していると考えるのが自然な ように思われる。それはどのようなものなのか,この問題を糸口として作品を 調べていくことにしよう。 開幕と同時にヒポリタと現われたシーシュースは,あと数目に迫ったかれら アクション の婚礼について述べている。だが,ここでは,劇的行動はまだ静止しているよ うに見える。それが積極的に動きはじめるのは,次にくるイージーアスの訴え 出の場においてである。この場を満たしている異様な雰囲気は主として,アテ ネの厳格な法の奇妙さからきている。ハーミアは,父親の望むディミートリァ スとの結婚を拒んだ場合の罰について大公シーシュースにきいている。これに 答えた大公は,アテネの法律では,死刑になるか,それとも一生涯世の人とは の 交われぬ尼となるかのどちらかだと告げている(1.1. 65−66)。 この法律の異 様さについて,ピーター・G・ファイアラスは,それはあとに出てくる夜の 森の奇異な出来事を予表する働きをしていると指摘している。しかしこの問題 は,このように説明されるだけで簡単に退けられてはならないように思われ る。 注意深く読むと,その厳しい法律が,故意としか思えないほどしばしば強調 されていることに気づく。たとえば,シェイクスピアはすでに言及したシーシ ュースの台詞の少しあとで,同じ内容の言葉を大公にくり返させている。 1)引用行数は,D. w11s。n編のNew Shakespeare版による。 2) Cf. Peter G. Phialas, Shakespeare’s Ro?nαntic Comeclies(North Carolina二North Carolina U. P., 1966), p. 125.
98 Upon that day either prepare to die For disobedience to your father’s will, Or else to wed Demetrius as he would, Or on Diana’s altar to protest For aye austerity and single life. (1. 1. 86−90) 岬 あるいはまた,叔母の家への逃避行をハーミアに打ち明けているライサンダー は,その理由を,“the sharp Athenian Iaw”(1.1.!62)から逃れるためだと説 いている。かれらの駈落計画は,イージーアスが結婚に頑固に反対することか ら直接生れたものではないのである。実際,夜の森の奇妙な出来事のあと,シ ェイクスピアは,もう一度ライサンダーに逃亡の同じ理由を告白させること で,アテネの苛酷な法のもつ重要性に注意を向けさせている。 Our intent Was to be gone from Athens...where we might, Without the peril of the Athenian law一 (4.1.150−152) これ以外にも,先に述べたイージーアスの訴え出の場の終りに,大広間を離 れようとするシーシュースは,今一度ハーミアに,ディミートリアスを選ばな かった場合の罰について念を押している。注目すべきは,これまでと違って, アテネの法律は決して曲げられないという言葉が挿まれていることである。 For you, fair Hermia, look you arm yourself To fit your fancies to your father’s will; Or else the law of Athens yields you up (Which by no means we may extenuate) To death, or to a vow of single life. (1.1.117−121)
ここには,アテネの支配者であるシーシュースにはその法律を緩めることので きないそれなりの理由があることが暗示されている。まさにその理由のため に,大公はハーミアの願いを容れて,情け深い寛大な処置をこの段階でとるこ とができないのである。 他方,この劇では,アテネの法の異様さと並行して,直接に間接にさまざま の方法で,秩序あるいは階位の存在が強調されている。人間の世界は,大公を その頂点として,次に貴族たちを,さらに底辺に職人たちをもつ,ピラミッド 型のヒエラルキーを提示している。ここで我々は,エリザベス朝の階級社会で は,大工や洋服屋といった職人たちがその最下層に位置づけられていたことを き 思い起こすべきである。この事実を考え合わせると,人間の世界の階層構成 に,当時の社会の構造がそのまま現われていることが知られよう。また,職人 たちの中で最も主要な役割を果たすボトム(Bottom)という名は,本来紡いだ かせ 糸を巻く棟のしんを表わすが,この点から見ると,それが社会の底をも象徴し ているということがわかるであろう。ライオン役も自分がやろうとするボトム に,ピーター・クウィンスは,彼のようにひどく稔ったら奥方様や貴婦人達を 驚かせて,自分たちが絞り首にされかねないとたしなめている(1. 2. 69−71) が,この少々大げさな言葉も,一面の深刻な現実を反映しているのである。 人間の世界の階層構造は,より単純な形で妖精たちの世界にも見られる。妖 精の王オベロンや女王ティ画一ニアの下にはパックがおり,さらにその下には 他の妖精たちが位置している。このことを我々にたやすく気づかせるように, シーシュースとティターニア,オベロンとヒポリタそれぞれの関係が灰めかさ れ,妖精世界と人間世界のピラミッドの頂点の部分が直接重ねられている。テ ィターニアは,ヒポリタへの愛を種にオベロンを省め,逆にオベロンは,ティ ターニアのシーシュースとの関係について非難し返している。 How canst thou thus for shame, Titania, 3) Cf. L. Withington (ed,), Elizabethan England: Fronz “A Description of Eng− land” By IViZliam Harrison (London: Walter Scott, 1935), p. 13.
100 Glance at my credit with Hippolyta, Knowing 1 know thy love to Theseus? (2.1.74−76) これにとどまらず,シェイクスピアは,宇宙の秩序の存在を暗示するために, 最高位を占める者に起こる悶着が天地の異変の原因となっていることを伝えて いる。妖精の王と女王のけんかのために,自然全体が複雑に混乱した状態に陥 っている様子がティタ一覧アによって描かれている。 Contagious fogs: which falling in the land, Hath every pelting river made so proud That they have overborne their continents. (2.1.90−92) 於 今← 今← 今← 幹 Therefore the moon, the governess of floods, Pale in her anger, washes all the air, That rheumatie diseases do abound. (2.1.103−105) ここでシェイクスピアは,高位にいる人間だけでなく妖精たちにも宇宙的秩 序の存在を暗示する役割をさせているのである。彼は,妖精世界の秩序に注意 を向けさせようとしているのではなく,人間世界を含んだ宇宙的な秩序と,大 公を最高位にもつ階位構造を間接的に強調しているのである。実際,ティター ニァが伝えている自然界の混乱にもかかわらず,シーシュースはじめ宮廷のだ れもが,そうした現象に気づいていないし,病で苦しんでもいない。 このようにアテネの法律の厳格さを考えるコンテキストが与えられると,シ ーシュースがハーミアの懇願に応じて法を曲げられない理由が灰見えてくる。 そもそも,ハーミアに罰が課せられるのは,彼女がディミートリアスとの結婚 を拒絶するためというよりは,それを望む父親の命に彼女が従わないためであ る。というのは,ここで,父と娘の関係は,より大きな秩序あるいは階位構造 の,いわばミニチュア版なのであって,その親と娘の関係に見られる小さな秩
序の否定は,最高位に大公が存在するより大きな秩序の否定を意味するからで ある。ハーミアの願いを聞き入れることは,シーシュースにとっては,自らが よっている秩序を底辺から否定することになるのである。恋愛や結婚に関連し て死刑やそれに近い苛酷な罰が法で定められているのは,その秩序の保全のた めなのである。だから,シェイクスピアが,ハーミアへの罰の可能性につい て,ヒエラルキーの頂点に立つシーシュースに告げさせていることには意味深 長な含みがあるといえる。 森での不思議な夜のあと,恋人たちは,シーシュースの狩りの一行に起こさ れ,自分たちの恋の混乱が解決されていることに気づく。ライサンダーは以前 のようにハーミアを愛し,ディミートリアスは古い恋入のもとへ戻っている。 この時,イージーアスが法の執行を求めるが,シーシL一スは二人を許し,若 い恋人たちの二組の婚礼も自分のものといっしょに行われることを宣言してい る。ここでシーシュースは,ハーミアに慈悲の心あるいは寛大さを示したこと になっているが,たとえそれが恵み深さという名のもとに正当化されようと も,父の命に背いたハーミアを許すことによって,結局のところ自らがその頂 点に君臨する秩序を支持する基盤を根本的に否定したことになっている。すで に触れたように,シェイクスピアはシーシュースを中心的プロットとは直接的 には関係をもたぬ枠構造の中に置いた。このためにシーーシュースは,一貫して 最後まで,超然とした位置に存在することになっている。そして我々の観点か らすると,この超然さこそ,シーシュースの恵み深さによってもたらされたこ の劇のめでたい結末を,その根本的な意味に気づいていないシーシュース自身 への絶妙の皮肉りとするための不可欠の要素となっているのである。このよう にして,シーシュースはこの劇の喜劇構造の中へ取り込まれる。そこでは,シ ーシュースが超然と存在すればするほど,それだけ,いわば皮肉のポテンシャ ル・エナジーは増すことになるわけである。この意味で,シェイクスピアは, 貴族になぞらえた伝説上の人物を登場させるというコンヴェンションを逆手に とったことになる。そして,シーシュースにその立脚する秩序の原理を事実上 自ら否定させることによって,秩序の上に立つ人間の自己矛盾を示して,階
102 層構造の存在自体への批判を行ったのである。 シェイクスピアのこうした意図は,この劇における宮廷愛の取り扱いを調べ ることでさらに裏づけされる。結果的にシーシュースに痛烈な皮肉を浴びせる 原動力となっているのは,ハーミアとライサンダーとの情熱的な愛であるが, それは中世ロマンスに見られる愛と対照化されている。夜の森で展開される恋 人たちの大混乱について特徴的なことは,女の恋人たちの方は,“love−juice” (3.2.37)によって何ら変化を受けていないということである。この事実は, 一方的に男の態度の変化を示す必要性を暗示している。そしてここにこそ,男 女間の情熱的な愛とは対照的な宮廷愛を展開するために森でのエピソードが仕 組んであると主張しうる根拠がある。具体的には,ハーミアを愛していた二人 の男が,“love−juice”の力によって対象をヘレナに換えるというものである。 ヘレナの方はほんとうはディミートリアスを愛しているが,これまで少しも相 手にされなかった彼女が突然ディミートリアスとライサンダーの二人に求愛さ れたので,からかわれたと思い,むしろ超然とした態度をとることになる。こ れ故に,結果として二人の男が一方的に彼女を崇めたてまつることになる。そ の こに宮廷愛のパターン,すなわちC・S・ルイスの指摘する,女性への恋する 男の一方的な奉仕という,主君と家来との関係に似た愛の形を提示しうるシチ ュエーションが存在するのである。宮廷愛の暗示をシェイクスピアが十分意識 していたことは,彼が求愛の特殊な形だけをもち込んでいるばかりでなく,ヘ レナの容姿に特色を与えていることでもわかる。ハーミアとヘレナの顔貌の好 対照は,この劇を演じた劇団にそうした特徴をもった二人の少年役者がいたか の らだろうと推測できるかもしれないが,我々の見方から眺め直すと,二人同時 に求愛されているヘレナの特徴は,色白で,ブロンドで,背も高いという宮廷 愛における美人の典型的タイプであることに気づくであろう。しかし,そのヘ レナが求愛されることになったのは,もともとオベロソの指図不足からパック 4) Cf. C. S. Lewis, The Allegory of Love (Oxford: Oxford U. P., 1936), p. 2. 5) Cf. Thomas M. Parrott, ShakesPearean Comedy (Oxford: Oxford U. P., 1949), p. 130.
によって問違って使われた“love−juice”という外的力のためであり,彼女の方 でもその愛を本気にしないので,宮廷愛はここにその形式だけをうつされ,コ ミカルに風刺されていることになる。そして,これまではライサンダーと相思 相愛の仲であり,ディミートリアスにも愛されていたハーミアが,背の低い, 色黒の,宮廷愛の美人とは逆のタイプであるというところに,シェイクスピア が宮廷愛の不自然さに意図的に挑戦しようとする態度がうかがえる。 より詳しく探すと,ヘレナにライサンダーが愛を告白する第二幕第二場の終 りや,彼女に二人の男が同時に迫る第三幕第二場において,滑稽な形で提示さ れた中世ロマンスの愛のパロディーがしばしば認められる。ライサンダーは自 分の精神に,その愛と力を「ヘレナを崇めその騎士とならんがために」(“To honour Helen and to be her knight”(2.2.152))用いよと命じているが,彼 は明らかにヘレナを主君に,自らをそれに仕える騎士とみなしている。また, 目覚めたばかりのディミートリアスがヘレナの容貌や肌の白さを描くのに用い ている比較法は,中世Pマンス特有のものである。 To what,皿y love, shall I cQmpare thine eyne? Crystal is muddy. O, how ripe in show Thy lips, those kissing cherries, tempting grow! That pure congea16d white, high Taurus’ snow, Fanned with the eastern wind, turns to a crosv, When thou hold’st up thy hand. (3.2.138−143) このように,森での中心的エピソードにおいて,シェイクスピアは宮廷愛を徹 底的に風刺しているのである。 ところで,宮廷愛が批判の対象となる場合に注意すべきは,それは特別な愛 の概念についての批判であるばかりか,それを生み出した土壌・社会への批判 でもあるということだ。シェイクスピアが行おうとしているのもまさにこのこ とである。
104 宮廷愛では,女性は恋する男から主君あるいは神のごとく崇拝される,いわ ゆる「愛の封建化」(‘afeudalisation of love’)が見られるが,これは宮廷愛が 生れた中世の封建制度下に生きた現実の女性の状況を伝えてはいない。実際に は,女性は父親あるいはそれに類する者によって,品物のように扱われ政略的 に結婚させられた。女性は強いられたがんじがらめの結婚制度のうちに拘束さ れていたのであり,だからこそ逆に,文学で姦通を主とした宮廷愛が開花した のでもあった。恋愛が結婚へと完成するハーミアとライサンダーの場合と違っ て,中世の封建社会の結婚は恋愛とは無縁なものだったのである。そして,そ うした中世の結婚のあり方は,ほぼ同じ形で,シェイクスピアの時代にも引き 継がれていたのである。ということになると,宮廷愛の風刺を通じてシェイク スピアが試みたことは,彼の時代にも続いていた不自然な結婚のあり様と,な によりもそれを生み出し支えている縦型の社会構造への批判だということにな る。それは,イージーアスの命にハーミアを従わせようとすることへの批判で あり,イージーアスを上へと辿ればそこにシーシュースがいることはいうまで もない。 シーシュースの結婚を祝って職人たちによって上演されている劇中劇も同じ 目的のために意図されている。劇中劇のピラマスとシスビの物語は,その愛の 形式の点でハーミアとライサンダーの情熱的な愛の話と類似している。ピラマ スとシスビの悲話では,相思の二人は「憎き壁」(“vile Wall”(5.1.131))によ って邪魔されているが,この壁は,ハーミアとライサンダーの恋におけるイー ジーアスやシーシェースの存在と対応している。もともと「憎き壁」の妨害に よって起ったといえるピラマスとシスビの悲劇的死は,ハーミアとライサンダ ーにありえた悲惨な結末を暗示している。こうした意味では,劇中劇の内容は ピラマスとシスビの物語であると共に,ハーミアとライサンダーの愛とそれに 対する妨害についての描写と批判だと考え.られる。けれども,シーシュースは もちろんこのことに気づかない。おもしろいのは,劇中劇を観る者たちの中で この芝居の上演に最も好意的であるのが,間接的に批判を受けているシーシュ ースだということである。その芝居の馬鹿馬鹿しさを指摘するヒポリタに対し
て,シーシュースは,想像力によって芝居の展開を享受できることを述べてい る一‘‘The best in this kind are but shadows:and the worst are no worse, if imagination amend them.”(5.1.210−211)。彼は職人たちの馬鹿げた演技 を楽しみながらも,その芝居をつまるところ悲劇として見ようとしていること が,劇終了後の彼のからかいの言葉にも暗示されている一“Marry, if he that writ it had played Pyramus and hanged himse工f in Thisby’s garter, it would have been a fine tragedy.”(5.1.356−357)。シーシュ・・一・」〈は劇中劇の悲話の 展開に好意的であることによって,ピラマスとシスビの場合は「憎き壁」が, ハーミアとライサンダーにおいては,自ら頂点に立つ階層秩序が恋人たちの悲 劇を生みうることを認めたかたちになっている。そのようにして彼は,自分で は知らずに秩序への批判に参与したことになる。 シーシュースの気づかない自己矛盾はこれにとどまらない。情熱的な愛を貫 かんとするハーミアに父親の意志に従うように告げているシーシュース自身, 実は,同質の愛をヒポリタに対して示していたのである。 Hippoiyta, 1 wooed thee with my sword, And won thy love doiRg thee injttries: (1.1.16−17) 彼の情熱的な気持は,冒頭の結婚を待ちわびる言葉一“0,methinks how slow This old moon wanes!she lingers my desires,…”一にも,その名残りが見ら れる。ここに,シーシュースという秩序を支配する者の内部に,皮肉にもその 秩序を根底から揺り動かすものが存在しているという矛盾がある。このように してシーシュースは,幾重にも風刺されているのである。 以上見てきたように,若い恋人たちの情熱的な愛をよりどころとして社会の 階層的秩序を批判し,同質の愛をその秩序を統轄する者の内にも存在させるこ とで,階層構造と人間とのコミカルな結びつきをシェイクスピアは伝えようと したのである。そのようにして彼は,人間を階層構造という秩序の中に配列す ることの不合理さを訴えているのである。演劇活動を行うために自らは貴人の
106 庇護を受けざるをえなかったシェイクスピアが,社会の低きに置かれた多くの 同じ演劇人の思いをこめて,作品に示した劇作家としての意地をここに見る気 がする。はじめに述べたように,r夏の夜の夢』はもともと貴族の結婚の余興 として書かれ上演された祝婚劇であった。はじめて上演された結婚の祝宴の席 には,シーシュースにうつされた当の貴族をはじめ,エリザベス朝のヒエラル キーを積極的に支えていた高い階層を構成する者たちがいたはずである。そう いう人たちにとって,シェイクスピアのささやかな批判・風刺は油断のならな いものであったろう。ささやかなと書いたのは,シェイクスピアがかれらに露 骨な挑戦をしょうとしているわけではないからである。彼はこの劇に『夏の夜 の夢』という題をつけている。この劇全体が所詮ひとつの夢であり,虚構で あり,芝居だというのである。しかし考えてみると,一方で痛烈な批判・風刺 を提出しながら,他方で,これはお芝居にすぎませんとぬけぬけといっての けるシェイクスピアは,なかなかどうしてしたたかな劇作家だというほかはな いo