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小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究

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小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の

研究

著者

藤澤 敦

(2)

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小規模墳の消長に基づく

古墳時代政治・社会構造の研究

平成15年度∼17年度 科学研究費補助金(基盤研究(C))

(課題番号15520473)

研究成果報告書

2006(平成18)年3月

研究代表者 藤沢 敦

東北大学大学院文学研究科動を

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小規模境の消長に基づく

古墳時代政治.社会構造の研究

平成15年度∼17年度 科学研究費補助金(基盤研究(C))

(課題番号15520473)

研究成果報告書

2006(平成18)年3月

研究代表者 藤沢 敦

東北大学大学院文学研究科

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緒  口 本書は、平成15-17年度に独立行政法人日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(C)) ′ の交付を受けて実施した研究の成果報告書である。 研究課題名 課題番号 研究代表者 交付決定額 (直接経費) 研究成果 研究発表 (1)論文 (口頭発表) 小規模境の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究 1 5520473 藤 沢  敦(東北大学大学院文学研究科助手) 平成15(2003)年度 1, 500千円 平成16(2004)年度 1, 000千円 平成17(2005)年度 1, 000千円 計  3, 500千円 本 書 藤沢 敦「陸奥の首長墓系譜」 『古墳時代の政治構造』青木書店 133-153貢 2004年5月 藤沢 敦「仙台平野における古墳時代墳墓の階層性と首長層の基盤」 宮城県考古学会平成16年度総会・研究発表会 2004年5月

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序章 研究の目的と本報告書の構成

1990年代以降の古墳時代研究においては、大型の前方後円墳を中心とする、首長墓の消長を基にし た政治史的研究が盛んになった。 『前方後円墳集成』によって全国の前方後円墳を通覧することが可 能となったことや、 『前方後円墳集成』が全国共通の編年を用いたため比較検討が容易になったこと も影響していると思われる。このような、研究の前提となるデータが整理され公表されたことに立脚 し、それを利用した研究が活性化することは、ある意味当然である。しかしながら、かかる政治史的 研究が、首長間の政治的関係の研究に留まるのであれば、やはり問題で残ると言わざるを得ない。 小規模境については、かつては後期群集境が注目され、社会構成史上の重要な転換点として重視さ れた。しかし、中期や前期にも各地で様々な形態の小規模境が発見され調査されるにいたって、群集 墳論の古墳時代研究に占める位置は相対的に低下せざるを得なかった。近年、あらためて古墳時代の 小規模境を検討しようとする動向も見られるようになってきたが、小規模境を素材にした研究が首長 墓研究と比べて活発であるとは言い難い。大和の巨大前方後円墳を始め、各地に築造された大型前方 後円墳を中心とする首長墓の研究が、古墳時代研究に占める意義を否定するものではないが、古墳時 代の開始とともに各地に広く築造される小規模境を軽視することもできない。 また都出比呂志による初期国家論の提唱以降、新たな理論を取り入れつつ、日本列島における国家 成立過程を解明しようとする研究が多数出されてくるようになった。このこと自体は重要な意義を有 するものであるが、古墳時代の政治的結合を支え規定したであろう社会構造の特質を、あわせて検討 していく必要がある。 倭の古墳の大きな特徴は、形態・規模において常に大きな格差を内包することである。古墳時代の 政治支配の構造、あるいはそれを成り立たせる社会構造を解明するためには、 「首長基」 「地域首長墓」 等と呼ばれる、規模の大きな古墳だけを対象にしていては限界がある。小規模墳墓を含めて、格差を 内包する古墳時代首長層の様相を立体的に捉えることが必要である。その意味においても、小規模境 の有する意味は小さくないと言えるであろう。 以上のような観点から本研究では、古墳時代の小規模境に着目し、各地域における小規模境の位置 と意義を検討しようとするものである。そのことは同時に、小規模境を含む古墳時代墳墓の階層的存 在形態の実態を明らかにすることでもある。 この研究目的を踏まえ、基礎的な作業として、地域内部における小規模境の時間的・空間的な消長 の具体的様相を明らかにしていくことが、第-に必要である。このことを通じて、首長基と見なされ ー1

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-る大規模古墳との階層的関係など、小規模境の置かれた位置を検討していかねばならない。本研究で は、東北南部を対象にして、いくつかの地域を取り上げ、ケーススタディを試みた。その成果を第1 章に掲載した。 小規模境は、規模が小さいが故に、後世の破壊を被りやすい。そのため、削平され、現状では確認 できなくなっている例も多い。それらは、発掘調査によって、初めて存在が知られるようになる。大 ′ 規模に調査が実施された場合はともかく、小規模な調査で周溝の一部が確認されただけの場合など、 きめ細かなデータ収集が必要となる。多量に刊行されてきた調査報告書から、小規模境のデータをく まなく拾い上げるには、その地域の動向に精通している必要がある。本研究において、ケーススタデ ィの対象として東北地方南部を取り上げるのは、筆者が日常的に研究フィールドとしており、データ 収集が容易であるということも、大きな理由である。 それと同時に、東北地方南部は、小規模境の研究にとって、他の地域より勝っている点がある。東 北地方南部では、弥生時代に遡る溝で区画された墓は、基本的に存在しない。庄内式期に遡ると思わ れる例が、福島県の会津盆地に少数存在するが、これらは続く前期古墳の波及にかけての、一連の動 きとして評価できる。したがって、古墳時代前期の小規模境を評価していくにあたって、弥生時代か らの伝統という点を考慮しなくて良い。この点において、東北地方南部は、研究上で特別の位置を占 めている。これが、東北地方南部を取り上げる、重要な理由でもある0 本研究では、小規模境の消長を広範囲で比較検討していくことを指向しているが、古墳時代の全期 間に渡って、全ての地域を同じレベルで比較検討することは現実的には難しい。そのため、各地域の 動向を検討する際には、先行研究を多数参照させていただいた。その上で、古墳時代前期の様相につ いて、主に東日本を対象として、検討を試みた。古墳時代の政治構造・社会構造を考える上で、その 出発点となった古墳時代前期の在り方が、特に重要と考えたからである。特に、ほとんど畿内的様相 が兄い出せない、東日本の前期小規模境をどのように考えるかが重要であろう。小規模方形墳と一体 となって展開することの多い、小規模前方後方墳を合わせて、その有する意味について検討を試みた 内容を第2章とした。 このような、既往の調査データに基づく検討とあわせて、本研究においては、宮城県伊具郡丸森町 所在の台町古墳群の測量調査を実施した。台町古墳群の調査成果は、第1章での検討材料でもあり、 その検討内容とも密接に関連する。この測量調査成果の報告を、第3章としてとりまとめた。

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第1章 東北地方南部における小規模境の消長とその位置

1.はじめに 小規模境は、後世の削平で墳丘が残っていない場合が多く、発掘調査の多寡によって、資料の偏り が大きくなる1).そのため、資料の蓄積が進んでいる地域を取り上げて検討する必要があるo 発掘調査事例が多く分析に適している地域として、まず宮城県中部の仙台平野を対象とし、古墳時 代を通じた小規模境の動向を検討する。この検討を軸として、前期に関しては、福島県会津盆地の様 相を検討してみたい。会津盆地は、前期古墳の実態が、東北地方では最も明らかとなってきているこ とがその理由である。古式群集境の出現に関しては、宮城県南部の阿武隈川下流域にある伊具盆地を 取り上げたい。伊具盆地は、第3章に測量調査成果を掲載した台町古墳群をはじめ、 7期以降の調査 事例が多く、この時期の様相がとらえやすいからである。 一本稿は、古墳自体の変遷を検討対象としたものでないので、古墳編年については、基本的にとりあ げない。ただ、主要古墳の変遷過程については、議論の前提として必要であろう。そのため、本章の 対象区域を含む東北地方南部の太平洋側、すなわち古代の陸奥の範囲の主要古墳編年案を、表1-1に 提示しておく。この表および本章の中では、 『前方後円墳集成』の共通編年(広瀬和雄1991)を使用 する。東北地方南部の古墳の変遷と画期について、簡単に要約すると以下のようになる。 東北地方南部においても、定式化した前方後円墳の成立とさほど隔たらない時期に古墳が造られ始 め、程なく東北地方南部の各地-広がる。古墳時代を通じて古墳が分布する範囲の、ほぼ全ての地域 に、前期古墳が築造される。小地域レベルで見ても、かなりの割合で前期古墳が存在する。この前期、 集成編年では1 -4期の古墳は、墳形と規模の点で、大きな格差を含みつつ築造されていく。 続く5 ・ 6期になると、東北地方南部では、一転して古墳築造が衰退していく。同時に、前期には 多数見られた小規模境も造られなくなっていったと考えられる。 7 ・ 8期には、再び古墳が活発に築造されるようになる。特に8期には、古式群集境の盛行によっ て、多数の小規模境が築造される。 9 ・ 10期には、東北地方南部の中で、顕著な地域差が出現する。会津盆地を除く福島県域と、宮城 県南部では活発な古墳築造が続き、全体に小型化するとは言え、前方後円墳も築造される。ところが、 それ以外の地域では、 9 ・ 10期には古墳築造は衰退する。 終末期になると、 9 ・ 10期に古墳築造が衰退した地域を含めて、横穴式石室境や横穴墓が活発に築 造される。この段階では、基本的に竪穴系埋葬施設は姿を消し、横穴式石室境や横穴墓となっている。

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- 3 -(●前方後円墳 ■前方後方墳 ○円墳 記号の後ろの数値は規模を示す) 会津盆地 劔中 通 育 b 暈 (b 揺 負 盆 儼ツ ; >ツ 漢 通 北 )Y トx岔zツ 剞蜻苺ス野 劔 R ゙ 胆 釈 坂 舒ツ 塩 偃 劔僮"ツ 伊 「 亘 仙 下 メ _イ 川 俟 戟 兀B 地 兀B 部 B 2 堤 佝ゆ J一. 一コ 偃r 柿 ガ 蘇 ● 46 日 ガ 森 ● 50 蘇 北 1 ロ ち l■ 41 育 秤 山 1 1ヲ ● 47 亀鎮 ケ守 森森 ●■ 12755 儁 r ツ c 佛 ツ C" 2 +ツ 3R + 3r r ,イ ツ コ 凭ノ 2Rリ徨 キイ 、 s" 天 秤 負 ■ 40 皮 JTtl エ 蔵 蘇 ● 46 灰 塚 山 ● 61 佇 炅 C" 隻 ケ 作 山 ● 84 冏イ 壺 2 リb 3b r 撮 フイ C 戻 銭 2 A コ:i 津 大 塚 ●山 114 倚r 撮 sR ; ,ツ ツ Sr 剽 柿 堂 ■ 67 山 塚 ■ 66 大 黒 3 田 中 舟 蘇 山 ■ 70 ? 幵 ツ jR ツ R vイ 仂「 ツ 長 泉 守 慕 山 ● 65 B 8b ツ uイ マツ ヒB 8メ ィ9" ツ Sr 俎hャ ネ 愑 c虻 ,ケfイ ク o C S 逮 見 塚 ● 110 ケ )]イ 3i,ケ7 ノ,イ ニ イ S 娯 イ C 釘 5 良 井 前 ノ 山 ● 36 舒r ツ & ツ 侘2 H ツ 3 佝 ,ツ ,イ イ 3b 澱 大 45 天 王 冰" 瓶 豚7 ネ5" 方 豚7 T「 62 毘名 念 儿 7 塚 山 劍ハ J「 刄P 盛 メ > 領 権 剄ケ取 温門大 剴 寺 2 剪h 價b 刹T● ツ 現 R 南董塚 ツ ● ーヲ 凵 ゥ,イ 剴c56 冩 ● イ 塚○山 ツ 54 刎 ○ 21 1 ツ 6縱b J「 8 ,イ ツ Cb 凵 42 都 64 イ 32 ○50● 40、90 冩 S 御 ツ CR 出 崎 山 3 ⊂⊃ J号 ● 21 磨 山 1 ロ J号 ● 22 兜 塚 ● 二約 塚75 ● 約 30 伜" イ S 唐 鍛 袷 山 4 ⊂コ 一号 ● 21 大 塩 1 号塚 ●畑 38● 48 仍メ ,イ ツ S"綯 真 守 20 l::コ 一号 ● 28.5 塚 ○ 約 30 湯 大 壇竜大 2ケ仏 下号塚15 絵●●号 塚2749● ●35 72 棉 木 塚 ● 42 横 辛 1 ち ● 30 ム ロ 町 20 E= 守 ● 27 ウ 表ト1陸奥の主要古墳編年表

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2.仙台平野における小規模墳の分布と変遷

(1)検討の方法 仙台平野の古墳時代墳墓は、実態の明確でないものもあるが、およそ140ヶ所以上で確認されてい る。前述した古墳変遷の推移に基づいて大きく区分した上で、それぞれの時期における、墳墓の階層 性と分布のあり方を検討するo前述のように、ラ・ 6期と9 ・10期には、仙台平野では築造される古 墳が少なくなる。そのため、 1-4期(前期)、 7・ 8期、終末期の3段階に分けて、様相を見てい くこととする。各時期における分布状況を比較するため、これまでに知られている古墳時代墳墓を全 てリストアップした上で、各時期における墳墓の分布図を作成した2)o圏l-1-図卜4が、作成した分 布図である。図卜1は、仙台平野で知られている、古墳時代墳墓を全て掲載したものである。 墳墓の階層性を検討する際に重要となる、仙台平野の前方後円墳・前方後方墳については、次に一 覧表を掲げておく。 表1-2 仙台平野の前方後円墳・前方後方墳 古墳名 兒リニ 規模 倬隸「 雷神山古墳 _クホ8鈴Zメ 168m 滴ッ「 遠見塚古墳 _クホ8鈴Zメ 114m 滴ッ「 名取大塚山古墳 _クホ8鈴Zメ 90m 度ッ「 兜塚古墳 僵 zx、ネニ フ9Zメ 約75m 嶋ッ「 宮山古墳 _クホ9_ケZメ 70--75m モ8ッ「 薬師堂古墳 _クホ9_ケZメ 65m モHッ「 山居古墳 _クホ9_ケZメ 約60m モHッ「 額音塚古墳 _クホ9_ケZメ 約60m モ(ッ「 高館山古墳 _クホ9_ケZモ 約55m 儻9k 裏町古墳 _クホ8鈴Zメ 約50m 度ッ「 弁財天古墳跡 _クホ8鈴Zモ 約50m 儻9k 箕輪A地区3号墳 _クホ9_ケZモ 約45m ッ」 山居北古墳 _クホ9_ケZメ 40m モHッ「 かめ塚古墳 _クホ8鈴Zメ 39.5m ッ「 塞ノ窪17号墳 _クホ8鈴Zメ 32m 嶋ッィ決ラ 三本塚古墳 _クホ8鈴Zモ 約30m 儻9k 二塚古墳 _クホ8鈴Zメ 約30m 嶋ッ」 安久東古墳 _クホ9_ケZメ 24m ッ「

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園丁2 き砂瀬切l〓aSr+か叫痴昇fe剖蓋0)痴帥a)冷却

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図1-4 LdJ叶SF甥(;計【+か帯沸盗叫痴・轟/rht桝o)吟封

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-¢-(2) 1-4期(前期) 仙台平野における前期段階(1-4期)の墳墓は、後述する会津盆地の例も参照すると、おおむね 次のような3段階に区分できる。 a)60m以上の大型墳 仙台平野では、雷神山古墳(前方後円墳・ 168m) ・遠見塚古墳(前方後円墳・ 110m)が傑出した規模 ′ であるほか、飯野坂古墳群に60-80mの前方後方墳が4基存在する。 b) 40m∼60m程度の中型墳 飯野坂古墳群の山居北古墳(前方後方墳・ 40m)とかめ塚古墳(前方後円墳・ 39. 5m)が相当するだ ろう3)。会津盆地では、このクラスの前方後円墳・前方後方墳が比較的多く存在するが、仙台平野で は少数に留まる。 C) 35m以下の小型墳 ・前方後方墳としては、墳長約24mの安久東遺跡の前方後方墳(前方後方形周溝墓)があげられるだ けで、他は方墳・円墳、あるいは方形周溝墓・円形周溝墓と呼ばれるものだけである。 仙台平野では、中規模とした40m前後の規模を有する古墳は少ないが、 60m以上を越える大規模境 と、小規模境の格差は明確であるo大規模境は前方後円墳・前方後方墳がほとんどを占めるのに対し て、小規模境では方墳・円墳が大多数であるo これらの前期段階の墳墓分布を示したのが図1-2である。図中で、大きな丸で示したのは、大規模 境と、複数の古墳が集中している場所である。 前期の小規模境は、次の10ヶ所で確認されている。 【多賀城市多賀城跡五万崎地区】 (方形周溝墓2基) 多賀城跡の第30次調査で、方形周溝墓が2基検出されている。規模は15m程度のものである(宮城 県多賀城跡調査研究所1978) o 【仙台市沼向遺跡】 (方墳3基・方形周溝墓6基以上) 沼向遺跡では、多くの調査が実施されており、ここでは報告書が刊行された第1 -3次調査の成果 をもとに見ておきたい(佐藤甲二ほか2000)。その後の調査でも、多数の古墳が検出されている(仙 台市教育委員会2004)o浜堤上の遺跡で、同時期の集落の南東側に、古墳が築造された区域が存在す ることが判明している。第1-3次調査では、 4号墳(10-ll.6m)と5号境(12.8-14.7m)の2 基の方墳が検出されており、いずれからも木棺直葬の主体部が発見されている。方形周溝墓が4基発 見されており、 5-10m程度の大きさである。これら以外に円墳が3基検出されているが、時期が下

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【仙台市中在家南遺跡】 (方形周溝墓4基) 方形周溝墓4基が検出されている。規模は7-10m以下のものである(工藤哲司ほか1996、工藤哲 司1997)0 【仙台市藤田新田遺跡】 (方形周溝墓2基) 前期の集落の南西端から、 2基の方形周溝墓が検出されている(岩見和泰ほか1994)。いずれも規 ′ 模は、 10m弱である。 【仙台市原遺跡】 (方墳1基・方形周溝墓3基) 原遺跡は、奮窯焼成の埴輪が伴う7 ・ 8期の円墳からなる古墳群であるが、それらに接して15mX 14mの方墳(12号墳)と、 7-10mの方形周溝墓2基(8号墳・ sD4一)が発見されている。方墳か らは、長さ5.45mの粘土郭が発見されている(平間亮輔1998、佐藤洋・主浜光朗1999、仙台市教育委 員会2000)0 .【仙台市戸ノ内遺跡】 (方墳1基) 17×15mの方形周溝墓1基が検出されている。周港内の壁面に振られた土坑に、土師器壷が据えら れて発見されている(主浜光朗・渡部弘美1984)。周囲から住居跡も発見されており、いずれの出土 土師器も、古墳時代前期の早い時期に遡るものである(主浜光朗・渡部弘美1984)。 【仙台市安久東遺跡】 (前方後方形周溝墓1基) 前方後方形の集溝墓が1基発見されている(土岐山武1980)。後世の溝で破壊されている部分が多 いが、墳長24m程度と考えられる。周囲から、ほぼ同時期の住居跡も発見されている。 【名取市西野田遺跡】 (円形周溝墓2基) 前期の集落に接して、 2基の円形周溝墓が発見されている(丹羽茂ほか1974)。規模は、 ll-13m である。確実に遺構に伴う遺物がないが、 2号円形周溝は古代の第14号住居跡に切られていることか ら、古墳時代前期の集落に伴う墓である可能性が高い4)。 【名取市今熊野遺跡・箕輪A地区古墳群】 (前方後方墳? 1基・方墳2基・方形周溝墓11基) 今熊野遺跡と箕輪A地区古墳群(鴻ノ巣古墳群)は隣接しているが、集落をはさんで今熊野遺跡の 方形周溝墓は山手側に、箕輪A地区古墳群は平野側の段丘崖の縁に立地する。箕輪A地区古墳群では、 墳長40m程度の前方後方墳の可能性がある3号境と、 1号墳(23m) ・ 2号墳(20m)の2基の方墳 がある(宮城県教育委員会1973)。今熊野遺跡からは11基の方形集溝墓が発見されており、最も大き な1号で16×18.4m、小さなものは7m程度のものがある(丹羽茂1985)。 【名取市宇賀崎古墳群・五郎市遺跡】 (方墳5基・方形周溝墓7基・円形周溝墓1基) 宇賀崎1号境は、辺長約20mの方墳で、粘土郭の主体部が2基発見されており(氏家和典・太田昭 ll

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-夫1980)、前期後半の築造と考えられる。宇賀崎2-5号境は未調査であるが、 1号墳よりは規模が 小さくなる。五郎市遺跡の方形周溝墓と円形周溝墓とされるものは7-12m程度の大きさで、宇賀崎 5号境にすぐ隣接するところから分布しており、本来は一連の古墳群と考えるべきであろう(恵美昌 之ほか1985-1987)。 これら以外にも、やや規模が大きくなるものの、南北30m ・東西23mの方墳である、名取市天神塚 ′ 古墳(恵美昌之ほか1981)も含めることができるかも知れない。また、前方後方墳5基からなる飯野 坂古墳群にも、小規模な方墳が2基存在する(恵美昌之・菅井仁1986)0 これらの小規模境は、名取市域の丘陵地帯においては、比較的密度が濃いということは指摘できる が、ある特定の区域に偏って分布している訳ではない。小規模境が、仙台平野のほぼ全域にわたって、 広範に分布していることが重要である。これらのほとんどは、発振調査によって初めて確認されたも のであり、今後調査が進展するならば、その分布は、より濃密になっていくことは間違いない。 .古墳時代前期の時間幅は、 100年以上に及ぶと考えられ、これら小規模境の全てが、同時に築造さ れていった訳ではない。しかし、首長墓で良く想定されるように、一つの系譜にまとめられる墳墓が、 場所を変えつつ築造されていったという姿を、小規模境にあてはめるのは無理であろう。仙台平野の 各地域で、小規模境を築造する基盤が存在したと考えるべきである。 (3) 7・8期 この時期の仙台平野の古墳については、以前に規模ごとに分けて墳丘と外部施設を中心に比較を試 みたことがある(藤沢敦1997)。その際にも指摘したが、次の3段階に区分して考えることができる であろう。 a)50m以上の前方後円墳・帆立貝形古墳・円墳 名取大塚山古墳(前方後円墳・ 90m) ・兜塚古墳(帆立貝形古墳・約75m) ・裏町古墳(前方後円墳・ 約50m)などがあげられ、他に円墳か帆立貝形古墳、あるいは造出付の円墳の可能性があるものも存 在する。 b) 30-40m程度の前方後円墳や30m前後の円墳 大野田古墳群の春日社古墳や鳥居塚古墳などが上げられる。 C)20数m程度以下の円墳 この規模の古墳は、多数が確認されている。特に8期においては、これらの小規模境からなる、古 式群集境が造営されるようになる。

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古墳の規模の上での格差は、前期ほどは甚だしくない。特に、中規模境と小規模境との差は明確では 無くなる。一応、前述のように、 20数m以下の円墳を、小規模境として考えておきたい。 仙台平野では、この時期の古墳には、奪窯焼成の埴輪が伴うことがほとんどで、発掘調査が行われ ていなくても、埴輪が採集されている場合が多く、確認が比較的容易である。埴輪の検討などで幾度 か取り上げてもいるので、個々の例について詳述することは避けるが、前期段階と同様に、仙台平野 ′ のほぼ全域において当該期の小規模境が築造されていることが確認できる(図卜3)。小規模円墳を中 心とする群集境は、 10ヶ所以上で確認されており、その被葬者の基盤が、前期と同様に、さほど広く ない領域を基盤としていたことを示している。また大野田古墳群のように、前期段階よりは、一つの 古墳群に造られる′」、規模境の数が大幅に増大する例5)が出現することに注目しておきたい。 (4)終末期 ・終末期には、横穴式石室を有する円墳や、横穴墓が濃密に分布するo仙台平野のみならず宮城県域 は、横穴墓が盛行する地域であり、それに対して横穴式石室を有する古墳は少ない。そのため、墳丘 規模での格差は顕在化し難い。規模の面でや傑出する古墳は、直径32mの仙台市法領塚古墳(氏家和 典1972)があげられる程度である。 終末期には、前期や7 ・ 8期に多数見られた、沖積平野に立地する小規模境は少なくなっている(図 卜4)。その一方で、横穴墓はほぼくまなくと言って良いほど、平地に接する低丘陵や段丘に多数築造 されている。その分布密度は、きわめて高いと言える。かつて多数築造されていた小規模境が築造さ れなくなるというよりは、横穴墓という墳墓形態に転換したと考えるべきであろう。そのため、沖積 平野で小規模境が少なくなることは、丘陵地帯-墳墓を造る場所を移動させていった結果と見た方が 良いであろう。ただ終末期になると、築造される墳墓そのものの数が大幅に増加しており、古墳や横 穴墓に埋葬される人々の範囲が拡大していることも明らかであるD ( 5 )小規模境の分布から見た古墳時代首長層の基盤 仙台平野の古墳時代墳墓の分布を、 3段階に分けて見てきた。古墳築造が衰退する5 ・ 6期と9 ・ 10期はともかく、小規模境が築造される時期においては、それらは特定の区域に限定されるのではな いことが明らかである。前期以来、常に仙台平野の全域にわたって、広範囲に分布するということを 確認できる。このような小規模墳の分布を踏まえて、小規模境に埋葬された被葬者が、どのような範 囲を基盤としていたのかを考えるならば、その範囲をさほど広く考えることは無理である。 仙台平野においては、集落遺跡や、それと同時に営まれた小規模墳墓群の全体が明らかとなった例

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はなく、当時の集落に居住した人々と小規模墳に埋葬された人数の比較を具体的に行うことのできる 事例はないo しかし、全ての集落成員が小規模墳に埋葬された訳ではないことは明らかである.一定 の限定された人々が、これら小規模境に埋葬されたと見るべきである。また小規模境には、集落に隣 接して営まれた例も多数存在するが、一方で全ての集落遺跡に小規模境が伴っている訳でもない。 以上の状況を踏まえるならば、小規模境の被葬者が、さほど広くない日常的な農業生産の単位とな ′ る共同社会を、造営の基盤としていたと考えて大過ないであろう。集落の規模にも左右されると考え られるが、 1 -数ヶ所程度の集落遺跡によって形成される共同社会を想定するのが妥当であろう。そ の中でも限定された人々のみが埋葬されたと考えられることから、小規模境は、かかる日常的な農業 生産の単位となる共同社会を代表する支配階層の墓であると考えられるo・前期の墳墓に現れた階層性 を踏まえるならば、この基本となる単位をいくつか統合する形で、中規模あるいは大規模な古墳が存 在すると見て良いであろう。 .また近年の調査の進展によって、前期の小規模境と、 7-8期の小規模境が、同一場所に築造され ている例があることが判明してきた。このことが最も明確に判るのが、仙台市の原遺跡古墳群である (図1-5)。原遺跡では、粘土郭を有する方墳である12号境が前期に築造される。遺物などは出土して いないが、さらに小規模な方墳である8号境とSD4も、同じく前期に築造された可能性が高い。 S D4は、溝の向きが隣接する12号境に近く、連続して築造された可能性を考えて良いだろうD一方、 11基発見されている円墳は、いずれも宰窯焼成の埴輪が伴っており、 TK208型式期からTK47型式 期にかけての時期におさまるものと考えられる。前期の小規模方墳が造られていた場所に、 7 ・ 8期 の小規模円墳が造られていったことは間違いない6).会津盆地の出崎山古墳群や鍛冶山古墳群では、 8ないし9期の小規模前方後円墳が築造されており、前期の古墳と同じ古墳群を構成する。このよう な事例は、小規模境に埋葬された被葬者の基盤が、本質的に変わっていないことを、強く示唆するも のであろうo

3.会津盆地における前期古墳の階層構造と小規模境の位置

( 1 )会津盆地の前期古墳の階層構造 会津盆地では、前期古墳の調査が、近年大きく進展した。表1-3に会津盆地の前期と考えられる前 方後円墳・前方後方墳の一覧を示したo おおむね、墳長が35m以下のもの、 40-70mのもの、 80m以 上のものに区分することができる。 35m以下の前方後円墳・前方後方墳に、方形・円形の小規模なも のをあわせて、小規模境ととらえておきたい。これらの中でも特に小規模なものは、周溝墓と呼ばれ

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ー15 -古墳名i所在地l埠.形l規模l備考 1-4期(一部5-6期の可能一性あるもの含む) 亀ケ森古墳 ,8゙(岔*ツ 前方後円墳 #vメ 会津大塚山古墳- ,8 鉙 前方復円主任 Fメ -箕山古墳 8*ク/ 鉙 前方復円≠女? 冩 モ 堂ケ作山古墳 ,8 鉙 前方後円墳 塔Fメ 田中舟森山古墳 dヲニノ*ツ 前方後方!女? 田 モs モ 野焼土密輸 灰塚山古墳 舒ノ ル_ク 前方復円圭車 田 &メ *gLIJf* ,8 鉙 前方後円墳 冩 c メ 鎮守森吉輯 ,8゙(岔*ツ 肯行方後方圭を 鉄R メ Eヨガ森古林 ,8゙(岔*ツ 前方後円墳 鉄 メ 高寺山古墳 ,8゙(岔*ツ 前方後円墳 冩 C メ 督神山1-号境 ,8゙(岔*ツ 前方後円妹 鼎vメ 虚空蔵森古墳 舒ノ ル_ク 前方復円境 鼎fメ 杵ガ森古墳 ,8゙(岔*ツ 前方後円墳 鼎R綰メ 薄∼尺古t■ gヨニノ*ツ 前方後方墳 鼎 Vメ 森⇒ヒ1号境 8 ゙(岔*ツ 前方後方叫′ 鼎 紮メ 天手中免1号墳 舒ノ ル_ク 前方後方墳? 張C メ 出崎山2-冒-墳 ,8ヤィ,h岔*ツ 前方後方墳 6メ 宮東1-号一基 ,8゙(岔*ツ 前方後円形周‡拝基 メ 出崎山7号境 ,9m Nx岔*ツ 前方後円墳 宝6メ 田村山古墳 7 檠,9 「 前方後円墳? fメ 出崎山1-早.輯 殆H゙(岔*ツ 前方後方墳 Vメ 男壬生2号基 8 . . ゥ*ツ 前方後方形周経基 B綏メ 十ナLI暮3-号土井 dヲニノ*ツ 前方後方!女 2繙メ 稲荷塚6号基 ネァh゙(岔*ツ 前方後方形周経基 5 Vメ 男壬生4号基 垪゙(岔*ツ 前方後方形周沸甚 メ 屋敷7号基 ,8 鉙 書打方後方形周嫌基 e fメ 男埋3号基 「鞐(岔*ツ R メ 官東2号基 Kリ岔*ツ 前方後方形周‡井基 B綰メ 稲荷塚5号基 ,8゙(岔*ツ 前方後方形周沸基 B綏メ 稲荷塚3号基 ,8゙(岔*ツ 前方後方形周溝基 2繙メ 稲荷塚2号基 8*ク K(岔*ツ 前方後方形周溝墓 &メ 男埋5-号一基 ,8゙(岔*ツ &メ 稲荷壌10号基 ,8゙(岔*ツ 甘1万後方形周決ま 賑メ 石俳古墳 ,8 鉙 ? 賑メ 育lj技石棺 表ト3 会津盆地における前期の前方後円墳・前方後方墳の規模一覧表

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叶⑳

雷二 二貰 ;'

鳩丘部(1) 周堀内(2-7) ?_  1,Ocrn 1/8 図ト7 福島県会津坂下町杵ヶ森古墳・稲荷塚遺跡(吉田博行1995より) 図1-8 福島県会津坂下町宮東遺跡(和田聡ほか1990より) -

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17 -ることの多いものである。 それぞれの規模の古墳が、どのような空間的・時間的分布のもとにあるのかを、いま少し詳細に見 るために、会津盆地をさらに小地域に区分する。図卜6に示したように、地形や古墳分布をもとに、 会津若松、塩川、喜多方、会津坂下の四つの小地域に区分することができる丁)。これらの中で、近年 大きく調査が進展したのが坂下地域である。坂下地域の、前期と考えられる前方後円墳・前方後方墳 ′ は、 20基を数える8)。この内、 80m以上の大規模なものは、亀ヶ森古墳1基だけである。 40-70mの 中規模なものは杵ヶ森古墳(46m)、臼ケ森古墳(50m)、森北1号墳(41m)、雷神山1号墳(47m)、 鎮守森古墳(55m)の5基となる。臼ケ森古墳と雷神山1号境の編年的位置については、不確定な部 分が多く残っているが、これら5基の古墳が継起的に築造されたと考え一ることも可能であり、一つの 系譜を形成すると見ることもできるo これらより規模の点で傑出する大規模な古墳としては、亀ヶ森 古墳が1基あるだけで、 4期に築造されている。 一方、 35m以下の小規模境は、丘陵上の小規模な古墳と、低地に造られた周溝墓と呼ばれるものが ある。前方後円形・前方後方形のものを規模の点で比較すると、周溝墓と呼ばれるものに、より小規 模なものが多いという傾向はあるものの、両者に明確な差は兄いだせない。低地に造られ、後世の削 平によって溝だけが残存した小規模境が、周溝墓と呼ばれるものと考えるべきであり、両者に本質的 な差異は存在しないと考える。 小型の方墳あるいは円墳が、小型の前方後円墳・前方後方墳の周囲に築造される例も多い。図1-7 に杵ヶ森古墳・稲荷塚遺跡(吉田博行1995)、図卜8に官東遺跡(和田聡ほか1990)の例を提示した。 これらの遺跡で見られる小型の前方後円墳や前方後方墳は、周囲に存在する方形境や円形境と、規模 の点で類似することは明らかであろう。前方部の存在を別にするならば、両者にはほとんど差違は兄 い出し難い。 これらの小規模境の築造時期であるが、稲荷塚遺跡、宮東遺跡、男壇遺跡については、明確にその 出現と終鳶の時期を画することは難しいものの、おおむね1-2期にかけて築造されていると考えら れる。また、丘陵上には、出崎山古墳群があり、前期には2基の前方後方墳と1基の前方後円墳が築 造されている(生江芳徳1977)。平地の古墳のほとんどは、発掘調査によって初めて知られるように なったものであり、同様の例がまだ多く存在することが予想される。したがって、このような小規模 境は、それぞれ築造時期が重なりながら展開していたと考えられる。会津盆地の他の小地域では、坂 下地域ほど調査が進んでいないため、小規模境の実態はあまり明確でないが、例えば塩川地域の十九 壇3号境と周囲の方墳(中村五郎ほか1973)などが、これに相当するものと考えられる。

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(2)小規模境の占める位置 会津盆地の前期古墳には、このように三つの位相が認められる。これら異なる位相を有する古墳の 被葬者が、会津盆地の中でどのような位置を占めたのかを検討する中から、小規模墳の位置を次に考 えてみたい。小規模境の分布状況と、複数の古墳群が併行しながら存続している状況から、小規模境 の被葬者の基盤は、さしたる広がりを持っていないと考えて良い。仙台平野で見たのと同じように、 ′ 比較的狭い領域を基盤としていたと考えざるを得ないであろう。 中規模の前方後円墳・前方後方墳に埋葬された被葬者は、より広域の利害を代表した人物と考えら れる。その範囲は、小規模境に反映された個々の基盤を越え、それらをいくつか統合した広がりを持 っていたと考えられる。坂下地域では、一つの系譜が抽出できることから、この範囲が相当すると考 えられる。会津盆地の他の小地域でも、それぞれで複数の系譜は認め難いD したがって、古墳時代前 期の会津盆地は、会津若松・塩川・喜多方・会津坂下の、少なくとも四つの小地域ごとに、それぞれ の範囲を基盤とする中規模の首長墓の系譜が存在したことになる。 会津若松地域では、飯盛山古墳(60m)、堂ヶ作山古墳(84m)、会津大塚山古墳(104m)と、規 模の大きな前方後円墳の系譜が続く。墳形や規模が不明であるが、石悌古墳と-箕山古墳を含めると、 5基の中規模ないし大規模古墳による系譜が続くものと考えられる。飯盛山古墳は、この中ではやや 規模が小さいが、 1期に遡るとすると、この時期では会津盆地で最大の古墳となる。 2 ・ 3期の堂ヶ 作山古墳と会津大塚山古墳も、会津盆地では他の古墳を傑出する規模である。石傭古墳と一笑山古墳 の規模が明らかでないが、 4期には最大規模の古墳は、坂下地域の亀ヶ森古墳(130m)に移ってい る。このような大規模古墳は、同時期に複数が築造されることはなく、盆地全体で一基だけであると 見て良いだろう。その被葬者には、会津盆地全体を代表した人物が想定される。 このように会津盆地の前期古墳は、規模における階層性に応じて、その被葬者の基盤となる領域の 広がりが対応していると考えられる。小規模境の分布は、その中でも最も基本となる単位に対応した ものであると考えることができるであろう。 4.伊具盆地における群集境の分布とその基盤 (1)伊具盆地における7 ・ 8期の古墳群 宮城県南部の阿武隈川下流域にあたる伊具盆地においては、前期段階の小規模墳は、ほとんど知ら れていない。直径約30mの円墳である西屋敷1号墳(藤沢敦・大友喜助1992)や、横倉古墳群の関ノ 内古墳(横倉64号境、角田市教育委員会1978)があげられる程度である。例数の稀少さは、沖積平野 -

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19 -の発振調査事例がさほど多くないことも関係しているものと思われ、前期については検討が難しい。 一方、 7期以降の古墳は、低丘陵地帯を中心に多数知られており、調査された事例も多数ある9㌧ 次に阿武隈川下流域の伊具盆地を例に、この時期の古墳群の分布を見てみよう。 7 ・ 8期に築造さ れたもの、あるいはその可能性があるものとしては、次の8古墳群があげられる。 【角田市遠山崎古墳群】 (5基) ′ 現在は4基の円墳が確認できるoその内の2基は、径15-20mで、 1基は10m程度、もう1基はさ らに小規模なものである。調査は行われておらず、出土遺物も知られていないため、年代は確定でき ない。最も規模の大きなものは、墳頂平坦面が明確な、整った裁頭円墳である。このことから、竪穴 系埋葬施設を有する可能性があると思われ、 7 ・ 8期に遡る可能性があるものと思われる。 【角田市横倉古墳群】 (91基、内1基は前方後円墳) 南北2・5kn、東西2knに渡る範囲に、確認されただけで91基の古墳が分布し、多くの支群に分ける ことができる(図卜9)。横倉古墳群では、たびたび調査が実施されてきており、それらの調査成果を 概観したことが以前にあるので、詳細はそちらにゆずることとする(藤沢敦・大友喜助1992)。古墳 時代前期に遡る可能性がある関ノ内古墳(横倉64号墳)も知られている。前方後円墳である吉ノ内古 墳(横倉7号墳)は、出土遺物がなく、詳細な時期は判明していない。吉ノ内1号墳(横倉54号墳) は、木棺直葬の3基の主体部があり、比較的多くの副葬品が出土した。これらから、 TK208型式か らTK23型式にかけての時期に築造されたと考えられる。この吉の内1号墳とほぼ同じ頃には、松崎 古墳(横倉60号墳・埴輪有)や戸の内1号墳(横倉83号墳)が築造されていったことが明らかとなっ ている。また、 18号墳・宮地古墳(21号墳)にも埴輪が伴っており、東北地方南部における埴輪の盛 行時期から、ほぼ同じころに築造された可能性が高い。 7 ・ 8期に築造されたことが確実な古墳は、 古墳群の広い範囲に点在しており、この時期に並行して複数の支群で古墳築造が進められていったと 考えられる。 【角田市長泉寺古墳群】 (約20基、内1基は前期の前方後円墳) 前方後円墳である長泉寺4号墳(長泉寺裏山古墳)は、墳丘形態から前期に遡る可能性が高い。他 には、長泉寺8号境が1984年に発振調査されている(遠藤久七1984)。遺存状態は良くなかったが、 径13mの円墳で、墳丘から土師器高林と石製模造品が出土しており、これらからTK23型式期に築造 されたものと考えられる(藤沢敦・大友喜助1992)。 【角田市鯉沼古墳群】 (8基) 1号境が発振調査されている(志間泰治1959)。径22m、高さ4m程の円墳である。墳頂で箱式石

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BglTg 叫其滑泳B]75赤恥叫痴戦時斗国(観芳・汁桝1992i:ア翁RLJL5.000)

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ていた。円筒埴輪は奮窯焼成で、外面調整はタテハケのみのものである(藤沢敦・大友喜助1992)a 円筒埴輪の特徴から、 7 ・ 8期に築造されたものと考えられる。 【丸森町宮後古墳群】 (8基) 古墳群中で最大の1号境は、径21mで、埴輪が伴っている(志間泰治1984)。詳細が判明するよう な埴輪は知られていないが、東北地方南部における埴輪の盛行時期が7 ・ 8期であることから、この ′ 時期に築造された可能性が高い。 【丸森町台町古墳群】 (178基、内1基は前方後円墳) 台町古墳群については、本報告書の第3章に、これまでの調査成果や測量調査成果を掲載している ので、詳細はそちらを参照していただきたい。古墳群形成の初期は、少なくともTK23型式期に遡り、 この時期までには1号墳・ 2号境と103号境が築造されている。両者はかなり隔たって存在しており、 古墳群形成の当初より、複数の造営単位が存在したことは間違いない。 ・【丸森町小斎古墳群】 (12基) 篠崎丘陵と呼ばれる低丘陵の尾根上に、 12基の円墳がある。この篠崎丘陵の北から北東に隣接する 小佐田の丘陵にも、十数基の円墳が所在する(遠藤久七1984)。篠崎丘陵上の円墳には、直径30m近 いものもある。これまでに調査はなされておらず、出土遺物も知られていないため、築造時期は不明 である。ただ、同じ丘陵に6世紀後半から7世紀前半の遺物を出土した篠崎横穴墓群(志間泰治ほか 1982)があり、小斎古墳群はそれより先行する可能性が高い。やや規模の大きな円墳を惰矢として、 群形成が進められたとすると、伊具盆地の7 ・ 8期の古墳群と類似することとなり、当期に築造され た可能性があると考えられる。 【角田市間野田古墳と周辺の古墳】 角田市の枝野地区には、間野田古墳・館島田古墳群・新墓古墳が近接して存在する。間野田古墳は 径30mほどの円墳と考えられる、円筒埴輪が採集されている(藤沢敦・大友幸助1992)。円筒埴輪は、 口唇部直下に凸帯がめぐる、筆者が天王壇古墳系列と呼ぶもので(藤沢敦2002)、 TK208型式を前後 する時期の築造と考えられる。館島田古墳群は、数基の円墳からなり、その内の1基(館島田古墳) が1967年に調査されている。径20mの円墳で、勾玉形の石製模造品1点と臼玉40点が出土している(逮 藤久七1984)。東北地方南部の石製模造品の様相から、 7 ・ 8期の間に築造されたと考えられる。新 墓古墳は、径27,5m程度、高さ約4mの円墳で、埴輪が伴っている。詳細が判明するような埴輪は知 られていないが、東北地方南部における埴輪の盛行時期が7 ・ 8期であることから、この時期に築造 された可能性が高い。

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った可能性は高いと見なして良いであろう0 8古墳群の内、横倉古墳群と台町古墳群は、いくつかの 造営単位に分かれる可能性が高く、この時期にも古墳群内の複数ヶ所において古墳築造がなされてい ることは間違いない。したがって、伊具盆地全体で見るならば、少なく見積もっても、 10近い造営単 位が存在したこととなる。 (2)古墳群の分布と造営の基盤 伊具盆地の7 ・ 8基の古墳群の分布を示したのが、図ト10である。盆地内部の沖積平野には、樹枝 状に低丘陵がのびている。そのそれぞれの先端近くに、 7 ・ 8期の古墳群が造営されていることが判 る。古墳群相互の距離は、 1km余りしか離れていない場合がほとんどである。特に、盆地西側の模倉 古墳群から官後古墳群に至る範囲は、西から東-延びてくる小丘陵ごとに、古墳群が築造されている 様相が明確であるo ・伊具盆地では、古墳時代の集落遺跡の調査事例が少なく、これらの古墳群と集落遺跡の対応関係を 検討することはできる状況にない。伊具盆地を流れる阿武隈川は、近年まで頻繁に氾濫を繰り返して おり、現河道の両側の各所に旧河道が確認されているQこのことから阿武隈川に近接する区域は、自 然堤防が良好に発達した場所以外は、不安定な区域であったと考えられる。したがって古墳時代には、 樹枝状に延びる低丘陵に近い低湿地、あるいは安定した自然堤防に按する低湿地が、主要な農業生産 域であったと考えられる。このような状況を踏まえ、伊具盆地の規模から考えると、 7 ・ 8期の並立 する古墳群を支えた造営単位の基盤を、大きく見ることは不可能である。 このようなあり方は、仙台平野の各時期の小規模境が広範に造られる様相や、会津盆地で見た前期 の小規模境が並立して分布する様相と、根本的な違いは認められない。会津盆地でも、規模の大きな 古墳は見られなくなるものの、小規模円墳は8期を中心に多数築造されており(菊地芳朗1999)、同様 の様相ととらえることができる。 この伊具盆地や会津盆地では、 7 ・ 8期には多数の小規模境が並立する一方で、傑出した規模の古 墳が安定した首長墓系譜を形成する例は見られない。伊具盆地では、それぞれの古墳群において、群 形成の端緒となる古墳に、やや規模の大きな円墳が見られ、それだけが埴輪を有している場合が多い。 しかし、それらの築造時期は近接している。横倉古墳群に吉ノ内古墳という前方後円墳が存在するが、 埴輪を有しておらず、やや築造時期が古くなる可能性が高い。そうであると、各古墳群の形成の端緒 には、やや規模の大きな古墳が築造されるが、それら相互に顕著な格差は存在せず、以後比較的均質 な古墳群が並立して築造されていく。

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5.結語 これまでいくつかの地域を対象として見てきたが、共通する特徴は、小規模境が5 ・ 6期以外にお いては、広範に築造されているということである。仙台平野の事例をもとに検討したように、小規模 境は、日常的な農業生産の単位となる共同社会を代表する支配階層の基であると考えられる。しかも この性格は、 7 ・ 8期以降になっても、本質的な変化は想定し難い。このような小規模境に埋葬され ′ た支配階層こそが、日常的な農業生産の維持管理と結びつき、そういう点では直接的な経済的基盤に 対峠した人物であったと考えられる。このような階層を、ここでは下位首長層と呼んでおきたい。 その上で、小規模境と中規模以上の古墳の関係について、主に前期を素材にして見ておきたい。 東北地方南部においては、中規模境や大規模境の築造される場所は、仙台平野の飯野坂古墳群のよ うに一ヶ所に固定されている場合もあるが、会津盆地の坂下地域の中規模境のように、特定の場所に 固定されず、移動していく場合も多い。中規模以上の前方後円墳・前方後方墳が、 1 ・ 2基程度しか 存在せず、安定した首長基系譜がたどれない地域も多い。 また墳形の面から見るならば、飯野坂古墳群では墳形が漸移的に変化していく過程がたどれる可能 性があるものの、これは例外的な事例と言える。会津盆地の会津若松地域における前期大型前方後円 墳や、阿武隈川下流域の大規模前方後円墳では(図卜11)、墳丘形態や外部施設などの面で、それぞ れが個性的で相互の関係をとらえ発い(藤沢敦2000 ・ 2001)。このことは、一旦各地域で採用された 墳丘型式が、それぞれの地域内で変化していったのではなく、前方後円墳・前方後方墳が築造される 度に、新たな墳丘型式を取り入れた結果と考えられる。 このように、中規模以上の前方後円墳・前方後方墳には、その一回性・非連続性や不安定性が顕著 である。これら中規模以上の古墳に埋葬された被葬者を、上位首長層と呼んでおきたいが、これらの 上位首長層の地位が、特定の勢力によって安定して維持されてはいなかったことが伺える。上位首長 層と下位首長層の区分は流動的で、その時々の状況の中で、広域を代表する上位首長層の担い手は、 下位首長層の中で移り変わっていった状況を想定した方が、古墳の動態には整合的であるように思わ れる。 図卜12に、名取市塞ノ窪古墳群の分布図を示した(恵美昌之・菅井仁1990)。 1号境が7期以降で は東北地方南部で最大となる名取大塚山古墳である。塞ノ窪古墳群には、横穴式石室を伴う終末期に 下る古墳も含まれているが、多くは名取大塚山古墳に後続して築造されていったものと考えられる。 名取大塚山古墳以外には、墳長32mの前方後円墳である17号墳(十石上古墳)が1基存在するが、そ れ以外は直径20数m以下の円墳だけであるo あたかも、大規模前方後円墳である名取大塚山古墳が、

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中小円墳に埋没していくかのうような様相が見て取れる。このことは、最大規模の前方後円墳に埋葬 された名取大塚山古墳の後継者が、中小規模の古墳しか築造し得ていないことを示す。この点も、大 規模境の被葬者と中小規模の被葬者の間に、本質的な差異が存在しなかったことを示していると考え られる。 東北地方南部の小規模墳を検討してきたが、古墳時代の地域支配の基本的な単位は、日常的な農業 ′ 生産の単位となる共同社会であり、その代表者である下位首長層であると考えられた。これらの下位 首長層は、様々な必需物資の入手をはじめ、共同社会を維持するためには、広域の首長層間のネット ワークに参入することが必要であった。その際に、個々の共同体の枠を越え、それらを統合する上位 首長層が必要とされたと考えることができよう。 仙台平野や伊具盆地で見た7 ・ 8期の古墳群の様相は、それら古墳群の被葬者の基盤が、前期と基 本的に変わらない、日常的な農業生産の単位となる共同体であったことを示している。しかし、被葬 者の基盤が前期と基本的に変わらないとしても、それらの代表者たる首長層を政治的に編成する構造 が、前期と同じとは限らない。 5 ・ 6期には小規模墳の築造が著しく衰退する。この断絶をはさんで いることは、両者の築造契機が同一ではないことを強く示唆する。また7 ・ 8期の新たな古墳築造の 端緒となる古墳には、奪窯焼成の埴輪が伴うことが多い。東北地方南部においては、これより前の段 階では、埴輪はきわめて限定的にしか波及しておらず、野焼きの埴輪は4古墳で知られているにすぎ ない(藤沢敦2002)。これらの埴輪の波及にあたっては、奪窯焼成という新しい技術を有した工人集 団の関与が不可欠である。そのため、それらの埴輪をもたらしたより先進地域との関係が不可欠であ ったことを示している。この点から考えても、自立的な古墳築造の復活ではあり得ない。上からの、 新たな再編成と考えるべきである。 7 ・ 8期の小規模円墳からなる古墳群には、宮城県仙台市の大野田古墳群、丸森町の台町古墳群の ように、前期よりはるかに多くの古墳が結集する例が出現する。このことは、古墳に埋葬される範囲 が拡大したことを示すと同時に、同一の古墳群での造墓活動に結集していったことを示しているo こ の点については別個に検討が必要な課題であるが、日常生活の基盤となる共同社会に変化はなくとも、 それらの代表者たる首長層間の関係に変化がもたらされていることを確認しておきたい。それは、中 央政権の側からすれば、末端の共同社会の代表たる下位首長層を、いかにして支配しつなぎ止めてい くかという政治的編成の構造を、時期ごとに移り変わる内外情勢の中で、転換させていくことであっ たと考えられる。

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《第1章 註》 1)本章は、当研究の成果としてすでに発表した「陸奥の首長墓系譜」 (『古墳時代の政治構造』青木書店、 133 -153頁、 2004年)と、 2004年5月の宮城県考古学会平成16年度総会・研究発表会で口頭発表した「仙台平野に おける古墳時代墳墓の階層性と首長層の基盤」の内容をもとに、再構成したものである。なお古墳時代の小規 模墳墓を取り上げる際には、それを古墳と呼ぶか周溝墓と呼ぶかという問題がある。一つは、墳丘も低いと考 ′ えられる周溝墓と呼ばれることの多いものを、典型的な高塚古墳と同様にとらえるか、分離するかという問題 である。しかし、両者は漸進的に変化していき、その中で明瞭に区別することは難しいであろう。また、小規 模墳には、弥生時代からの伝統をひく墳墓が含まれる場合がある。その場合、弥生時代のものと、古墳時代の ものとに、大きな違いが現れない場合もある。しかし東北地方南部の場合、弥生時代に溝で区画された墓が存 在しないため、いずれも前期古墳の波及の中でもたらされて築造されたと考えられる。本報告では、個々の遺 跡についての記載では、報告された名称を使用するが、全体的な検討の際には、周溝墓とされるものも含めて、 全て古墳として記載する。なお、本稿で示す規模は、溝で囲まれた内部の規模を使うこととする。 2)図1-1-図1-4の古墳墓の分布図は「カシミール3D」を使用して作成した。その際、東北大学考古学研究 室大学院生(当時・現在考古学研究室助手)の菅野智則氏に御協力を得た。データ入力に際しては、工藤久美 子氏の御協力をいただいた。 3)前期の中規模クラスに相当する可能性があるものとしては、高館山古墳と箕輪A地区3号墳(鴻の巣3号 墳)がある。高館山古墳については、中世高館城の範囲内に立地するため、これを古墳と見るか、城館の施設 と見るか、現状ではどちらの可能性も否定できない。箕輪A地区3号境は、現状では方墳が2基並んだような 形態である。本来は前方後方墳で後に削平されたのか、もともと方墳が並んでいたのか、判断ができない。 4)酉野田遺跡の円形周溝墓と同様に、古墳時代前期の集落に伴う例としては、岩沼市北原遺跡で検出された 1号円形周溝(12.5m)と2号円形周溝(22m)がある(小村田達也ほか1993)。しかし北原遺跡の場合、 2号 円形周溝が前期の住居を多数切って築造されており、年代が下る可能性が高いと考え含めなかった。 5)大野田古墳群では、これまでに鳥居塚古墳(前方後円墳) ・春日社古墳(前方後円墳?) ・五反田古墳(円 墳) ・王ノ壇古墳(円墳) ・大野田1-26号墳(円墳)の、合計30基が確認されている(長島栄一1982、結城慎 一・藤沢敦1987、渡連誠・竹田幸司2000、小川淳一・高橋綾子2000)。これら以外にも、墳丘を有せず主体部の みが確認されているものもある。大野田古墳群は、ほとんどが削平されており、今後の調査でその数は更に増 加する可能性がある。 6)仙台市沼向遺跡も、同様の例になる可能性がある。沼向遺跡1-3次調査では、古墳時代前期の方墳・方 形周溝墓と接して、円墳が築造されている(佐藤甲二ほか2000)。これらの円墳は、出土遺物で確実に時期決定 できる状態ではないが、 7 ・ 8期に下る土師器などが周溝から出土している場合もあり、時期の異なる古墳が

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- 29 -同じ場所に築造された可能性が考えられる。 7)北会津村と新鶴村に小規模な古墳が多数存在するが、実態がほとんど判っていない。新鶴・北会津として、 一つの/J、地域に区分できるかもしれない。 8)高寺山古墳も坂下町域に入るが、この古墳は坂下町とは逆の、西側の只見川流域を基盤としていた可能性 が高いため、除外しておく。 ′ 9)伊具盆地における、古墳時代墳墓の調査事例については、以前にも概観しておいたことがある(藤沢敦・ 大友喜助1992、藤沢敦1998b)。 《第1章 引用・参考文献》 伊東信雄(1950) 「かめ塚古墳」 『宮城県文化財調査報告書』第1集18頁 岩見和泰ほか(1994) 『藤田新田遺跡』宮城県文化財調査報告書第163集 氏家和典(1972) 『仙台市南小泉法領塚古墳』仙台市文化財報告書第5集 氏家和典・太田昭夫(1980) 「宇賀崎1号墳」 『金剛寺貝塚・宇賀崎貝塚・宇賀崎1号墳』 宮城県文化財調査報告書第67集183-216貢 氏家和典(1988) 『東北古代史の基礎的研究』東北プリント 恵美昌之ほか(1981) 『昭和55年度文化財調査年報』名取市文化財調査報告書第10集 恵美昌之ほか(1985 ・ 1986 ・ 1987) 『愛鳥東部丘陵遺跡群詳細分布調査報告書Ⅰ ・ Ⅱ ・ Ⅲ』 名取市文化財調査報告書第15 ・ 16 ・ 18集 恵美昌之・菅井仁(1986) 『史跡飯野坂古墳群』名取市文化財調査報告書第17集 恵美昌之・菅井仁(1990) 『愛鳥東部丘陵遺跡群詳細分布調査報告書Ⅴ 塞ノ窪古墳群の測量調査』 名取市文化財調査報告書第26集 遠藤久七(1984) 「第四章古墳時代」 『角田市史1 通史編(上)』 371-440頁 角田市 小川淳一・高橋綾子(2000) 『王ノ壇遺跡-都市計画街路「川内・柳生線」関連遺跡一発振調査報告書Ⅰ 』 仙台市文化財報告書第249集 角田市教育委貞会(1978) 『卯ノ崎一号墳・関ノ内古墳発掘調査報告書』角田市教育委員会 菊地芳朗(1999) 「古墳の諸段階と地域権力ー会津若松市域の古墳を中心に-」 『会津若松市史研究』創刊号 8-29頁 会津若松市 工藤哲司ほか(1996) 『中在家南遺跡他 仙台市荒井土地区画整理事業関係遺跡発掘調査報告書』 仙台市文化財調査報告書第213集

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-藤沢敦(1998a ) 「仙台平野における埴輪樹立古墳の墳丘と外部施設」 『東北文化研究室紀要』第39集 左1 -17頁 東北大学文学部東北文化研究室 藤沢 敦(1998b) 「阿武隈川下流域の古墳と社会」 『考古学の方法』第2号 32-35頁 東北大学文学部考古学研究会 藤沢 教(2000) 「阿武隈川下流域の前方後円墳(その1)」 『宮城考古学』第2号 35-44頁 宮城県考古学会 / 藤沢 教(2001) 「阿武隈川下流域の前方後円墳(その2)」 『宮城考古学』第3号 31-52頁 宮城県考古学会 藤沢 敦(2002) 「東北地方の円筒埴輪一客窯焼成埴輪の波及と生産-」 『埴輪研究会誌』第6号17-42頁 埴輪研究会 藤原妃敏・菊地芳朗(1997) 「会津大塚山古墳 南棺と北棺」 『福島県立博物館紀要』第11号1-24頁 福島県立博物館 古川一明(1993) 「山の神遺跡」 『下草古城跡ほか』宮城県文化財調査報告書第154集124-134頁 宮城県教育委員会(1973) 『金剛寺貝塚・今熊野遺跡調査概報』宮城県文化財調査報告書第33集 宮城県多賀城跡調査研究所(1978) 『多賀城跡一昭和52年度発掘調査概報-』多賀城跡調査研究所年報1977 結城慎一・藤沢敦(1987) 『大野田古墳群春日社古墳・鳥居塚古墳発振調査報告書』仙台市文化財報告書第108集 吉田博行(1995) 『杵ヶ森古墳・稲荷塚遺跡発掘調査報告書』会津坂下町文化財調査報告書第33集 吉田博行ほか(1999) 『森北古墳群』創価大学・会津坂下町教育委員会 渡遵誠・竹田幸司(2000) 『大野田古墳群・王ノ壇遺跡・六反田遺跡一仙台市富沢駅周辺区画整理事業関係遺跡 発掘調査報告書Ⅰ -』仙台市文化財報告書第243集 和田聡ほか(1990) 『男壇遺跡・宮東遺跡・中西遺跡』会津坂下町文化財調査報告書第16集

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第2章 古墳時代墳墓における小規模境の占める意味

1.東北南部における前期小規模墳の広がり

第1章においては、東北地方南部における小規模境の展開と、その基盤を検討してきた,調査が進 展している地域を検討対象にしたが、それ以外の地域においても、古墳時代前期に小規模境が普遍的 に存在したと考えるべきであろう。例えば、福島県中通地方の郡山市域では、東丸山遺跡(鈴木雄三 1987)三ツ担古墳群(高松俊雄1984)、山中日照田遺跡(高松俊雄1982)などで、前期の小規模境が 確認されているo発振調査が多数実施されている地域では、かなりの割合で、このような前期小規模 境が確認されるようになっている。 前期の前方後円墳・前方後方墳が分布する北限は、太平洋側では宮城県の大崎平野地域であること が知られている。ところが小規模境の分布は、更に北の、迫川流域にまで広がっているD 栗原市(旧 高清水町)東館遺跡(加藤道男1980)、栗原市(旧志波姫町)鶴ノ丸遺跡(手塚均1981、図2-1)、栗 原市(旧志波姫町)宇南遺跡(斎藤吉弘1979)などで方形周溝墓が検出されており、同時期の住居跡 も隣接して発見されている。この迫川流域で、将来前方後円墳や前方後方墳が発見される可能性は皆 無とは言えないものの、前方後円墳などの大規模・中規模古墳より、小規模境の方が広い分布を見せ ている。 東北地方南部の各地域における、小規模境と中規模以上の前方後円墳・前方後方墳の波及時期の前 後関係については、必ずしも明確になっていない場合が多い。大きく見るならば、一連の過程の中で の動向と見ることができるであろう。序章でも述べたように、東北地方南部は、小規模境の研究にと って、特別の位置を占めている。東北地方南部では、庄内式後半期に相当すると考えられる時期に、 会津盆地に少数の区画墓が見られるが、続く前期古墳の波及にかけての一連の動きとして評価できる。 これ以外には、溝で区画された墓は、全く存在していないo このことは、これら小規模境の評価にあ たって、弥生時代からの伝統を考慮する必要性がないこと意味する。したがって、東北地方南部に古 墳が波及するという大きな画期にあたっては、異なる規模の古墳が階層性をもって、セットで波及し ているということができる。前方後円墳の成立を、何らかの政治的関係を表現するシステムの成立と するならば、このシステムには、小規模境に埋葬された下位首長層の広範な参与が不可欠なものであ ったことを示すものと言えよう。言い換えれば、上位首長層間の関係だけでは、もともと機能し得な いものであったのではないかという疑問を持たざるを得ない。

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-35-2.前期小規模境の広がりとその占める位置 東北地方南部で見られたような、古墳時代前期に小規模境が広範囲に展開する様相は、東日本でも 広くあてはまるものと考えられる。図2-2に、千葉県佐倉市飯合作遺跡の古墳分布図を示しておいた。 飯合作遺跡は、前期の小規模前方後方墳が、小規模方墳を伴って築造されることが明確になった初期 の例である。その後、同様の例は、関東地方の各地で報告が相次ぎ、今日では特段珍しいものではな / くなってきている1)0 特に千葉県域においては、台地上の遺跡群のほぼ全域が調査されるような事例が存在する。その調 査成果を基に、弥生時代中期から古墳時代を通じた、小規模境の消長が詳細に検討されるに至ってい る(小沢洋1998)。とりわけ注目されるのは、千葉市おゆみ野におけるく古墳時代の集落と古墳の関 係から、 「生活域を共有する村落に直接付随し、それと一体の古墳群が存在する」ことを指摘した田 中裕の研究である(田中裕2002)。具体的な考古資料に立脚して導き出された、 「村落の伝統的な領域 が保持され続けた可能性」は、古墳時代の小規模境の基盤を考える上で、極めて重要であろう。第1 章の検討では、仙台平野の小規模境が、 1 -数ヶ所の集落遺跡で形成される共同社会を基盤として築 造された可能性を指摘したが、千葉県域の研究事例と対比させて考えることができるであろう。 古墳時代前期の小規模境は、東日本に限られる訳ではない。中規模以上の古墳に随伴して築造され た例を含めると、各地に広く存在していたと考えることができる。北候芳隆は、 「小規模墳丘を構築 し、そこに葬られる階層の人々がじつは前方後円(方)境を登場させた主体者」である可能性を指摘し ている(北候芳隆2000)。これは、小規模境の築造基盤という点からではなく、前方後円(方)境と小 規模境の共存関係や、副葬品の共通性などをもとに導き出されたものであるが、前期小規模境の普遍 的存在を重視しなければならないという指摘は首肯しうる。 3.東日本の小規模前方後方墳と小規模方墳 東日本では、前方後方墳が小規模方墳と一体となって築造されていくこと多い.前方後方墳につい ては、規模と分布の両面から、その築造状況を検討したことがある(藤沢敦2004)。大規模前方後方 墳は、畿内以西に集中するが、対照的に墳長35m以下の小規模前方後方墳は、東海・北陸・関東・東 北に集中することを指摘した(図2-3)。このような小規模前方後方墳が、小規模方墳と一体になって 築造されていく。 小規模な前方後方墳が東海地方を出自とし、定式化した前方後円墳出現以前に、畿内より東の地域 に分布を拡大していることが、かねてより指摘されてきた(赤塚次郎1989・ 1992a ・ 1992b ・ 1996)0

参照

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