• 検索結果がありません。

対応関係がとらえられる古墳のみ、図3‑14に古墳番号を記入したo 測量図がない部分で、志間氏報告 の測量図から位置関係を復元できるものについては、あわせて位置を示した。また103号境は、 『新町 古墳群』で示された分布図に位置を示した。

【20号墳の形態と規模】

台町古墳群では唯一の前方後円墳である20号境は、かつて乱掘によって多数の副葬品が出土した。

これらの副葬品から、 6世紀後半頃の築造と考えられる。これは、宮城県内の前方後円墳としては、

最も下るものであるo また、内部主体は横穴式石室の可能性が高く、宮城県内では最も早い時期に導 入された横穴式石室の一つと考えられる。このように台町20号境は、小規模ではあるものの、重要な 位置を占める古墳である。そこで、今回の測量調査成果に基づき、その形態と規模について、やや詳

しく検討したい。

後円部の東側から復円部の南をまわり、南側くびれ部にいたる範囲は、墳裾の傾斜変換線が比較的 明瞭である。おおむね標高38.00mのあたりに墳裾があると考えて、大きな問題はないと思われる0 前方部南側の側辺では、 37. 75mの等高線まで方向がそろっており、前方部の墳裾が後円部より低く なっていくことは確実と思われる。問題は、前方部前端がどこまで下っていくのかである。前方部前 端は、明瞭な傾斜変換線が認められず、墳裾の位置が明確ではない。前方部前端のコーナーは、両側 とも明確ではなく、墳丘の土が流出している可能性も考えられる。それでも、前方部前端の南側隅は、

標高37.75mの等高線までは、比較的明瞭に屈曲していく。これらの点から、前方部前端も37.75m前 後に墳裾がくると考えるのが一つの案であるo 一方、前方部前端では、標高37.00mの等高線から下 側で、等高線の間隔がやや広くなり、等高線の走る方向も不規則になる。そのため、前方部前端は、

37.00m前後まで墳裾が下ってくる可能性も否定できないo 一応ここでは、 37. 75m前後に前方部前端 を想定しておきたい。

前方部北側から北側くびれ部、復円部北側にかけては、遊歩道の設置によって改変されている可能 性もあり、明確ではない。ただし、遊歩道が本来の地形を大きく変えるようなものではないことは確 実であり、遊歩道との境に近いところが墳裾と考えておきたい。南側と比べると、墳裾の高さは、 1 m程度高い部分ができることとなる。

後円部墳頂には、径約5m、深さ1m強の、大規模な落ち込みが存在し、乱盗によるものと思われ る。この周囲は、掘り出された土によって、本来より高くなっている可能性がある。前方部墳頂にも、

ややくぼんだ場所があり、乱振されている可能性がある。そのため、本来の高さとは変わっている可 能性もあるが、後円部の高さは後端から測って約3m、前方部の高さは前端から約2mとなる。墳頂 平坦面は、乱据により判然としない上、排出土で改変されている可能性も高い。現状の様相からは、

‑ 65 ‑

径9m程度と思われる。

以上の検討をもとに墳丘の推定復元したのが図3‑15である。前方部前端が、本来は主軸に直交して いたものと想定して作成したものが、図3‑15のAである。これに基づくと、 20号境の推定規模は、次 の通りとなる。

墳長28m、前方部の向きは磁北から107.5度西に傾くo

復円部径20m、後円部墳頂径約9m、後円部後端からの後円部の高さ約3m、

前方部長10m、くびれ部幅11m、前方部前端幅13m、前方部前端からの前方部の高さ約2m。

後円部頂と前方部項の高低差は前方部が約1 m低い。

一方、地形に制約され、主軸とはずれて造られている部分も存在する.と想定して、等高線の方向を 活かした形で墳形を復元したものが、図3‑15のBである。この場合でも、規模はAの場合とほとんど 変わらないこととなる。

6.台町古墳群の築造時期

台町古墳群は、かつての乱掘によって、副葬品はほとんど残されていなかった。墳丘が広範囲に調 査されたのは、開発行為の事前調査として実施された175号境や176号境などだけであり、外表遺物が 知られているものも少ないo埴輪が樹立されていたのは、 103号墳だけであるD このような状況のた め、個々の古墳の詳細な築造時期を検討することは難しく、断片的な資料から推定を重ねざるを得な い場合も多いが、可能な限り築造時期を検討し古墳群の存続年代を考えてみたい。

台町103号境の円筒埴輪には2条凸帯と3条凸帯がある。奪窯焼成で、外面調整はタテハケのみの ものが大多数を占めるが、 3条凸帯のものには、最上段にヨコ方向のハケを施すものもある(藤沢敦 1992)。円筒埴輪の凸帯には、押圧技法が用いられたことが確認できるものもあり、押圧の際に使わ れた板の端があたった痕跡である「板端圧痕」が見られる個体もある(藤沢敦2003)。人物埴輪が男 女とも見られることも含めて考えると、おおむねTK23型式を前後する時期を想定することが妥当で あろう。なお、 103号境では、墳丘基部に円筒埴輪列があり、 「封土の酉5mの処より埴輪土偶の破片 が一塊となって出土」し、 「更にその西方数mのところから動物埴輪、円筒埴輪が見つかっている」

とされている(志間泰治1954)。この報告から、人物埴輪や動物埴輪を樹立した、円筒埴輪で囲まれ た区画が、西側に付属していた可能性が高い。したがって103号境は、造出付の円墳となる可能性が 考えられるであろう。

実測図などの資料は提示されていないが、 「南小泉式の土師器高杯脚部」が出土していると報告さ

れている古墳がある。 1号墳2号石棺の外側すぐ傍らから出土した土師器と、 2号墳磯床の石敷きと その傍らから出土したものであるo南小泉式の高杯は、杯部が同時期の杯や鉢とは異なる高杯特有の 形で、脚部形態も特有のものである。このタイプの高林は、細部の造作が退化しつつも、続く引田式 まで存在する。その後、佐平林式併行期以降になると、高杯の杯部は同時期の杯と同じ形になり、杯 に脚を付けた形態に転換する。したがって、報告されている「南小泉式の土師器高杯脚部」は、下っ

ても引田式期までにおさまる可能性が高い。引田式は、その新段階が、おおむねTK23型式に併行す ると考えられる(藤沢敦1992)。この点から、 1号境と2号境は、 TK23型式期までに築造されてい た可能性が高いと考えられる。

この1号墳・ 2号境と埴輪が伴う103号境は、 200m以上離れた地点にあり、 TK23型式期には、複 数ヶ所で古墳の築造が始められていたと考えられる。古墳群形成の始まりが、 5世紀に遡ることは確 実であろう。

・6世紀の例としては、 175号境と176号墳があげられる(古川一明1991)。出土遺物の検討から、 6 世紀中葉を前後する時期が想定されており、妥当な見解であると考えられる。また、 119号墳出土の 土師器杯は、その形態から6世紀代に遡るものと考えられる。

唯一の前方後円墳である20号境については、出土遣物の実測調査の際に若干の検討を試みた(藤沢 敦2001)。これらの遺物の内、鉄剣については、他の古墳の遺物が混入している可能性もあるので、

別にして再検討が必要である。しかし詳細な年代を決定できる遺物が少なく、横穴式石室と思われる ことから、追葬があった可能性も考慮しなければならない。それでも、刀の鍔が含まれている点から は、さほど遡らせることは無理である。一方で、前方後円墳であることや、鏡が副葬されていること から、 7世紀に下らせることも難しい。おおむね、 TK43型式からTK209型式の間に築造されたと 考えておくのが穏当であろう。

宮城県域での横穴式石室の導入は、この台町古墳群とその周辺が最も早い。台町20号墳以外に6世 紀代に遡る横穴式石室としては、新町古墳群の宮ノ脇4号境があげられる(志間泰治1976)。宮ノ脇

4号境の石室出土の刀は、写真で報告された3点が、いずれも片関の大振りの直刀であることから、

6世紀代に遡るものと考えられる(古川一明・藤沢敦1989)。これらを嘱矢として、台町古墳群周辺 では横穴式石室が導入されていったものと考えられる。

台町古墳群には、 20号墳以外にも横穴式石室を有する古墳は多い。これらは、副葬品が知られてい る例がきわめて少なく、築造時期を確定することは難しい。年代の基準となる例がほとんどないこと から、横穴式石室の変遷も、充分明らかにできる状態ではない。しかし、 20号境などが横穴式石室の 初期の例とすると、それ以外の横穴式石室を有する古墳の多くは、 20号境より下るものと思われ、 7

‑ 67 ‑

世紀に下るものも存在することは確実であろう。

以上の検討から、台町古墳群では、 5世紀後半頃から7世紀に入るまで、古墳が築造され続けたも のと考えられる。このように長期に渡る造墓活動の累積が、現在見るような大規模群集境を成立させ た理由の一つであると言えるだろう。

7.台町古墳群の築造過程

本報告の最後に、台町古墳群がどのような過程を経て形成されていったのかを、おおまかにではあ るが検討してみたい0

7世紀初頭以降、宮城県域では、竪穴系埋葬施設が姿を消し、横穴式石室か横穴墓に移り変わって 行くことが知られている。前述のように、 20号境は横穴式石室と思われ、 6世紀後半代に遡る可能性 がある。一方、竪穴系埋葬施設は、木棺直葬であった175号境の調査成果から、 6世紀中葉頃まで使 われていたことは間違いない。台町古墳群では6世紀後半代のいずれかの時期に、竪穴系埋葬施設か

ら横穴式石室‑転換していったものと考えられる。この転換期をはさんで、主体部の種類によって、

大まかな時期を推定できる。そこで、古墳番号が対比可能な古墳と、今回測量調査を実施した古墳を 対象にして、竪穴系埋葬施設と横穴式石室の分布を示したのが図3‑16であるo

竪穴系埋葬施設としたものには、箱式石棺・磯床・木棺直葬がある。また、トレンチを設けて発掘 調査がなされたにもかかわらず、主体部が検出されていない古墳は、木棺直葬であったの可能性が考 えられる。少なくとも、横穴式石室でないことは確実である。そのため、発掘調査で主体部が検出さ れていない古墳も、竪穴系埋葬施設であったと推定した。横穴式石室は、報告されている古墳以外に も、石室が露出している古墳があり、それらを加えている。トーンをかけていないものは、どちらと も判別できない古墳である。

図3‑16を見ると、竪穴系埋葬施設と横穴式石室の古墳が混在していることが明白である。北部の1 号境の周辺は、竪穴系埋葬施設がほとんどを占めるが、 20号墳周辺から南東にかけては、まさしく両 者が混在していると言って良い。横穴式石室の古墳は、それまでに築造された古墳の間に、割り込む

ようにして築造されていったと考えざるを得ない。

このような状況から、台町古墳群においては、時期によって、古墳が築造される区域が移り変わっ ていく訳ではないことが判明するo古墳群の各所において、同時並行的に古墳築造が進められていっ たことを示す。古墳群形成の初期においても、 1号墳・ 2号境と埴輪が伴う103号境は、 200m以上離 れた地点にあり、複数ヶ所で古墳の築造が始められていたことは確実である。箱式石棺が検出されて

関連したドキュメント