1.台町古墳群の立地
台町古墳群は、宮城県伊具郡丸森町字台町ほかに所在する(図3‑1)。宮城県遺跡番号10050。宮城 県の史跡に指定されている。標高20mから40mあまりの低丘陵である、台町丘陵一帯に立地する。南 北約700m、東西約400mにわたって、これまでに178基の古墳が確認されており、伊具盆地では最大 の古墳群である。終末期の古墳群を除くと、宮城県域では最大の古墳群でもあり、東北地方を代表す る群集境の一つであると言って良い。現在、古墳群の主要部をめぐる遊歩道や駐車場、解説板などが 整備されている。なお、台町古墳群の周辺には、築造時期が重なる新町古墳群・上片山古墳群・小富 士山古墳が知られており、関連性が指摘されてきた。そのため、これら周辺の古墳群を含めて、広く 台町古墳群と呼称される場合もある。本報告では、周辺古墳群を含めず、台町丘陵に所在する古墳群 のみを指して台町古墳群と呼ぶこととする。
台町古墳群のある丸森町は、宮城県の最も南部に位置し、福島県と接する。この丸森町から、北側 の角田市にかけて広がるのが伊具盆地である。伊具盆地は、古代の伊具郡に相当する。
伊具盆地は、阿武隈山地の北端に位置する(図3‑2)。福島県東部を、中通り地方と浜通り地方に分 ける阿武隈山地は、宮城県域に入ると二つに分かれて北に続き、ともに仙台市南方の丘陵下に没する。
伊具盆地は、この東西二列の山地にはさまれている。この東西両側の山地には、いずれも伊具盆地沿 いに断層が走る。伊具盆地は、これらの断層運動によって中央が落ち込んだ陥没盆地である。周辺の 阿武隈山地は、花南岩が大部分を占め、東側の鹿狼山には粘板岩が分布する他、一部は集塊岩や安山 岩におおわれるo花樹岩は、台町古墳群の箱式石棺の構築材料として多用されている.また粘板岩は、
弥生時代の石包丁の素材として、重要な意味を有している。
盆地内部は、標高150m前後を境にして丘陵性山地と接し、そこから盆地中央に向かって樹枝状に 低丘陵が延びる。この低丘陵を形成するのは、丘陵性山地の地層より新しい、新第三系中新統の堆積 岩で、主として砂岩・泥岩・凝灰岩など軟質の地層で浸食されやすい。段丘地形も見られるが、ごく 部分的に存在するだけである。
伊具盆地の中央には、阿武隈川が流れる。福島県中通り地方を北流し、福島盆地から阿武隈山地の 北端を峡谷を刻んで斜めに横断した阿武隈川は、伊具盆地南部に酉から流入する。阿武隈川は伊具盆 地に流入した後、大きく北に向きを変え、盆地中央を貫き北流する。阿武隈川沿いには沖積地が広が
り、河道沿いに自然堤防を形成し、その背後の低丘陵との間には後背湿地が広がる。阿武隈川は近年
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図3‑1台町古墳群の位置(1/25,000地形図「丸森」を利用)
まで頻繁に氾濫を繰り返しており、現河道の両側の各所に旧河道が観察される。そのため、これら河 道の両側に広がる自然堤防は、複雑な様相を示すo
伊具盆地に流れ込んだ阿武隈川が北に流れを変える付近には、阿武隈川に突き出すように、南から 延びてくる低丘陵地がある。この低丘陵が、台町古墳群が所在する台町丘陵である。台町丘陵の北端 は阿武隈川に面し、その浸食を受け急崖となっている。阿武隈川は、明治末には丘陵の500m程北側
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を流れており、その後丘陵北端は数十mも浸食を受けたという(志間泰治1954)。台町丘陵の東側に は矩子尾州が北流し、阿武隈川に合流している。
2.台町古墳の調査の歴史
台町古墳群には、長い期間に渡る調査の蓄積がある。これまでに発表されてきた調査の報告などを もとにして、調査の歴史を概観しておきたい。
・【志間泰治氏による調査】
台町古墳群が知られるようになったのは、古墳群中で唯一の前方後円墳である20号境が1902年(明 治35年)に乱据され、多数の副葬品が出土した時であったl)o この時の出土品は、一部は個人所蔵に 帰したが、大部分は東京国立博物館に所蔵されることとなった。これを契機として、台町古墳群は学 界に知られるようになった。
その後、副葬品目当てや、石材採取のための乱鋸が相次ぎ、昭和の初め頃までの間に、ほとんどの 古墳が乱据された。これらによって出土した遺物も、昭和初期に相次いだ農村の不景気や凶作等の際 にほとんどが散逸し、所在が判らなくなっていった。
戦後の1949年(昭和24年)以降、このような状態にあった台町古墳群の調査を行われたのが、丸森 町在住の研究者である志間泰治氏であった。志間氏は、東北大学考古学研究室の伊東信雄教授の指導 を受けつつ、独力で調査を進められた。これらの調査による成果は、いくつかの文献によって報告さ れている。
1952年刊の『伊具郡郷土誌』に掲載された「伊具地方の考古学的考察」において、台町古墳群の主 要な古墳が紹介されたのが、最初と思われる(志間泰治1952)。ただし、これは考古資料についての 通史的叙述のため、代表的な資料について触れられるに留まっている。その後、 1954年の『歴史』第
7韓に掲載された調査概報(志間泰治1954、以下では第1韓と呼ぶ)以降、これを含めて3編の概報 が出されている。この内、第2韓については、ガリ版刷のものであり、一般に見ることは難しくなっ ている(志間泰治1955)。第3韓については、ガリ版刷のもの(志間泰治1961a)と、 『東北考古学』
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に掲載されたもの(志間泰治1961b)がある。 『東北考古学』の報告に、台町古墳群全般の説明が冒 頭に付く以外は、調査された古墳の報告文の内容については、両者変わりない。ただし紙幅の関係か らか、掲載されている図面は、両者で若干異なっている。これら3編の概報によって報告されている 古墳を、一覧表にしたものが表3‑1であるD
台町古墳群の南西約1kmには新町古墳群(円墳17基)、南南東約1knには、上片山古墳群(円墳15
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塞)と小富士山南古墳(円墳2基)が存在する。いずれも、台町古墳群と重なる時期に形成された古 墳群で、台町古墳群との関係が指摘されてきた。これらも志間氏が調査を行っており、台町古墳群の 調査概報でも一部が報告されているo また上片山古墳群についてはガリ版刷の概要報告があり(志間 泰治1966)、新町古墳群については自費出版による報告書が刊行されている(志間泰治1976)。この新 町古墳群の報告書に、台町古墳群・新町古墳群・上片山古墳群・小富士山南古墳の、個々の古墳の位 置を縮尺1/10, 000の地図に落とした分布図が掲載されている(図3‑4)o また宮城県史の考古資料編と
して出された『宮城賄史34』においても、台町古墳群の分布図が掲載されている(図3‑3、伊東信雄 ほか編1981)。この『宮城解史34』では、台町古墳群の解説文は、志間氏が担当されている。刊行は1 981年であるが、解説が執筆されたのは1976年のこととされている2)。ただ、いずれにおいても古墳 番号は付されておらず、どの古墳が何号境に相当するのかは、これらの分布図では判明しない。また、
後述する、 1990年に実施された阿武隈川築堤工事に伴う175‑178号境の調査の報告書においても、以 前に公表されていた分布図をもとに作成されたと思われる、縮尺1/10,000の地図を使った分布図が掲 載されている(図3‑5、古川一明1991)。
台町古墳群の古墳の数については、調査の進展によって修正されたものと思われ、 『伊具郡郷土誌』
では182基、最初の概報では167基、新町古墳群の報告では175基となっている。県史に掲載された志 間氏による遺跡解説では174基、 『丸森町史』では177基となっている。
【出土遺物】
台町古墳群は、戦前にほとんどが乱据されていたため、志間氏の調査で出土した遺物は極めて少な い。概報で記載されるとともに、実測図が提示されているものもある。乱操によって出土した遺物に ついては、地元の個人所蔵のものも追跡調査され、報告がなされているものもある。東京国立博物館 の所蔵となった20号墳出土遺物も、概報第2韓において報告されている。出土遺物についても、概報 で報告されているものについて、表3‑1の一覧に中に示した.
また20号境から出土した副葬品については、東京国立博物館の図録にほとんどの資料の写真が掲載 されている(東京国立博物館編1968)。また、鏡とガラス小玉を除く遺物については、藤沢があらた
台町古墳群で埴輪が伴うものは、 103号墳だけである。この103号墳からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪
・人物埴輪(男性・女性) ・馬形埴輪4)が出土している。これらの内、完形に復元された女子像は、
志間氏報告に写真が掲載されている他(志間泰治1954)、様々な書籍や図録に写真が掲載されている。
この女子像と若干の埴輪片は志間氏が保管されているが、それら以外の埴輪は東北大学考古学研究室 が保管している。東北大学が保管している埴輪の内、円筒埴輪の主要なものと、人物埴輪の男子像、
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小型の猪の頭部破片、同じく小型の刀の柄部破片が、東北大学の図録で写真が公表されている(東北 大学考古学研究室編1982)。猪と刀の柄は、大きさから見て、人物埴輪に付けられていたものと考え
られる。また円筒埴輪の一部については、藤沢が実測図を公表している(藤沢敦1992)。
【宮城県による測量調査】
1970年前後には、宮城県にも大規模開発が及ぶようになり、それに対処するため、文化財保護行政 の体制整備も進められていく。そのような中で、県内の主要古墳の測量調査が、宮城県教育委員会に よって1970年1月以降進められていったoその一環として、台町古墳群の測量調査も実施されている。
台町古墳群の測量調査は、 1970年3月に実施されており、初期に実施された調査であった。これらの 測量調査成果は、宮城県文化財調査報告書第53集において、 9古墳(秤)の測量図がまとめて報告され
た(図3‑6、宮城県教育委員会1978)0
報告された台町古墳群の測量図は、縮尺1/500、 50cmコンターである。原図は縮尺1/200で作製され ている。測量された範囲は、台町古墳群の全域にわたるものではない。古墳が密集する区域の、ほぼ 半分近くの範囲が調査されている。
【168号境の調査】
前記した志間氏による学術調査以後には、開発に伴う事前調査も行われている。
1974年には、町道拡幅工事に伴い、 168号境の調査が行われているo 丸森町が調査主体となり、志 間泰治・斎藤良治の両氏が担当者となって調査が行われた。タイプ印刷の報告が、志間氏の名前で作 成されている(志間泰治1974)。町道拡幅によって削平される墳丘部分のみの調査であった。直径12 mの円墳で、主体部は横穴式石室である。石室も、調査されたのは、羨道の一部分のみであった。遺 物は、墳丘積土から土師器細片が数点出土しただけであるo
【175‑178号境の調査】
1990年には、阿武隈川築堤工事に伴い、新たに発見された175‑178号境の調査が、丸森町教育委員 会と宮城県教育委員会によって実施された(古川一明1991)。この1990年の調査以前に知られていた 古墳は、ほとんどが丘陵の尾根上か、緩い斜面に立地する。しかしこの時の調査で発見された古墳は、
丘陵の急斜面の裾近くに立地している。現状では墳丘の高まりがほとんど認められず地膨れ程度であ
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