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日本紀竟宴和歌左注の「ずよりは」について

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Academic year: 2021

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(1)

ろから生まれた翻訳文法である。 「自」は、 この場合、 ることがわかった。 前稿を書いた時 に、 この例に気付か であるが、 これは、 摸文の「自非ー」を直訳したとこ —ズヨリハの例のあ 古いところで、 確実な資料は、 すべて、 と後にならたいと現はれたい。 国語としては無理な構造 あって、 ーヌヨリハはなく、 ーザルヨリハは、 ずっ ーズヨリ^で ^、 または、 —ザルヨリハと言ひさうなものであるが、 例がいくらも見つかる。 しかし、 限られた没料にしか求 勘詞ズに続く場合は、 ーズヨリ^でなく` ーヌヨリ ーズヨリ^の 用形+接続助詞テ等を受けるのが普通だから、 否定の助 れてゐるが、今昔物語には、 ーズヨリハの形で出て来る。 のに近い。 ヨリは、 体言、 活用語の連体形、 活用語の連 ー・スヨリハは、 わたしは、 数年前、 「助詞ョリのある場合」と題して 平安時代の訓点語を中心に、ーーズヨリハの文法的構造 と意味について、 述ぺたことかある(「国語学六六輯」) ーズヨリ^は、 言はば、 ・ス.^ 間にョリの入り込 んだ形で、 ーズ^と同様、 否定の仮定を表はすか、 | ズ^が、 口語のーナイナラ(ナケ>パ)に当るのに対 ーナイカギリ、 決ッテと言ふ 「自」は、 ズヨリハの形が成立したものと考へられる。 ーズヨリ^は、 乎安中期の訓点資料に先づ現はれ、鎌 倉時代まで続く が、 平安末期辺りから、 訓点語の影響を 受けたと見られる他の没料にも登場して来る.栄華物語や 法華百座法談閣書抄には、 ーズヨリホカの形で用ゐら 嫌倉時代になると、 道元の正法眼蔵に、 められないのは、 やはり国語として無理な構造であった 一般化しにくかったのであら90 ところで、 殺近になって、 古典保存会複製本の「日本 紀党宴和歌」の草仮名文の左注に、 る用法が多いので、 今も「自」をヨリと読んだため、1 モンと読んでよいところであるが、 ヨリに当 「若.荀」に通じて、

日本紀党宴和歌左注の「ずよりは」について

仮定の副詞として用ゐられてゐて、 大坪

(2)

-1-名で書かれたのが本来のもので、 草仮名の方は、 後から 書き変へられたものらしく、 其仮名の「可和可之」 和歌は、 「延喜四年開、 六年宴」の一首で、 (不 A北野本 `に求めると、 次の如くである。 姫天皇」即ち、 神功皇后を題によんだものである。 真仮 のも少くないが、 今の場合に相当する箇所を書紀の原文 「気長足 また、 ちかひていはく、 がしのひの にしにいで、 かはのいしののぼりて、 っ厄し ならずょりは、 としごとのみつぎものをば (句読点・澤点・括弧嫁者) かかじ。」 可者留止毛 のくには この天皇、 新羅にむかひたまふときに、 そのくにの きみおぢわなたきて、 みふねのまへにくだりていはく、 「いまよりのち、 あめっちとともに、‘みむまかひとな らん。 ふねかぢをかはかさず、 むまのくし、 むまのむ ちをたてまつらん。」 といへり。 「ひむ 乾)を「か かし」に誤ってゐる。 左注ぱ、;.この和歌の 背景と った史実、 即ち、 神功皇后が新羅を討伐された 際尺皇軍の威咎の盛んなのに脅えて、新羅王が降伏し. 「あまつ保しにならずよりは」と、 られてゐるのである。 括弧の中は「束から出る日が西に 出で、 川の石か天に昇って墜にならない限り、 毎年の貢 物を欠くやうなことは致しません。」 「天つ星にならずは」 この中に、 ど首は いで、「ならずよりは」と言ったところに、 2 「ならない限り、 決して」と宮ふ強い語気が表現されて ゐて、 今の場合、 敗軍の将の誓ひの首葉として、 いかに も相応しいと思はれる。 日本紀党宴和歌に添へられた草仮名文の左注は、.一般 を訓読して、 に、 その内容が楷紀 記述に忠実なばかりでなく、 書紀 その用語をその士主利用し と見られるも と言ふ意味である。 日月乃行久 波可和可之」 びつきのゆく ほしのやどりは かぢはかはかじ かはるとも しらぎ —・・スヨりハが用ゐ 屋園波 新紐乃国波 加知 年ごとの朝貢を誓ったことを述べてゐるが、

0

得気長足姫天呈 参議大蔵孵正四位下、 平朝臣惟範 なかったのは、 失態であった。 Y

(3)

D訂正増補国史大系本 ス 非・・・・出

下 ルニ ..... 而 中 : B究文板本 •• ・・・・出 デ ....

ズ ヒr ィ^1 ナルニ .. .. 而 ―― ・・ 為 C日本書紀通釈 .... 且

.'

た箇所だけを掲げる。 他の本を見ると、読み方には、 かなり異同がある。必要 力令ハルアモ4ャャ9峨春秋之朝、 ―― ― 2ノカ‘‘トモニッ``+ヘタズ 地祇 共討焉。 訓もある。)

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^ハ羞>ニイツルヒ4う二4プー マタ亥ソ 乍、東 日 更出西、且除

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v

――― カヘ サヵ苓ニナ召ヲヨヒカハノイツノかプ土フム2ム�ヅヽ`う屯Y' 逆流 、及河石昇為一一星辰一‘ テ 返以 (「除」には、 アリ 阿利 ステテ、 ヲ> ャメ ハクレムチノぷるみ 忍 廃 椀鞭之貢、 ―― ― スツの アメノ3‘、天

而殊 > マ チニ ・・・・流・・・・及・・ 汐 ' 一 ―― ・・ ・ ・防 . ... ` -. ,` 象 ャ入 ハ Ji., ... 舜:; 上ー ニ ル

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ヒ ・・・・流・・・・及:

・・・・除 ―― キ ャメ ハ . .... 姦 .. .. . ―― .... 賊 二 ナ>カハ 那 礼 河 ずして いづるはしtらくおく れ 乍・・・・出・・・・且‘・・・・除・・・・流ぅ―― -なるに ・・為1-.... 而 上、瑛文風に改めた C) G岩波・日本古典文学大系本

昇氾

.. 巧:.雙 .;打:峙 ゃらば たるに かき ・・為―-.... 而 ....

....

.. .. ( F岩波文庫・訓読本 為ナ ニニル

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nn. .

II

、一

いたるを .... .及 -_-.. かき ゃめば 幽―-....

9

••••

(比較の便宜 及 び カキ ャ人ハ

.. .. ――― ズパ デ ヒ‘・・・・出サ ―― •9 . ,且 ・・・・除 > ピ ・・・流・・・・及 E朝日・増補六国史本 「為」の左「ナラムヲ(北)」の訓もある。) ....

.. 非〗・・・出一> ....

....

....

ぶ丑・・・・而・・・・表・・見_ .... (「除」の左 「スツ(北)」、「及」の左「オヨヒ(北)」、

(4)

-3-除ク意味。 「且」は、 AとBとを緊ぐ接続詞で、 マクの 二つが纏って「除」に係る。 天神地蕨共討焉 「除」は、 サウイフ拐合ヲ らうか。 「及」は、 甘とげとを繋ぐ接続詞で、 ォョビの意。 この D 前者を思ひ切って簡約したものであることが知られる。 笥約の過程を、 作者に代って辿ってみると、 次の如くな 先.っ、 前件の甘とdとを省略する。 みると 両者の間には、 かたり繁簡の差があり、 後者は

c

I I gI C ニ衣=キ 貢ヲ 朝

ーヽヲ

WI B' リテ 河石昇 ――

IB

l-> 阿利那礼河返以逆流、 は、 1' A ―­ 非――東日更出_レ 西 ぃ.つれも、 書紀の本文を正しく理解してゐるとは 思はれない. 私見によれば、 きものである。 ここは次のやうに理解すぺ 内、 Gが比較的筋の通った読み方をしてゐるだけで (サウイフ場合ハ別デアルガ、 ソウデナク 「而」 、A. Bを編めてC妬繋ぐ接続詞で、 の意。 「AJ.Bのや9な状態の下で、 しかも、.Cと言ふ ことがあれば」といふことで、 とこまでが仮定を表はナ 前件。Dは.これを受け工虎誨を述ぺる後件である。 口語訳を すれば、 次のやうにならう。 A束カラ出夕日ガマク.西カラ出ルヤウナ.nトガナク、 甘アリナ>川ガ逆サマニ流レクリ、 汐川ノ石ガ天二昇ッテ星ニナックリスルヤウナ場合ヲ テ) G春秋ノ朝ヲ欠イタリ、 g浣瑕ノ貢ヲ廃メクリックオフパ‘ •• D天神地祗ヨ、 私ヲコラシメテ下サイ。 ただし、 これと 日本紀党宴和歌の左注とを比較して 除イテ、 ンカモ

(5)

次に、後件のDを除き、その代りに、前件のGを否定 に改めて後件とし、結論とする。 っ左 て注 I I

左、庄炉

遭天

注正 閑・・ ←』—--、 のに.=ヵ河 作こ春石 者の秋昇,且更は 簡 ::: 二 ‘約朝 レプ 書さ 一ヲ勾 西 紀れ 、= のた 文形 ー、ト 章を を和 正文 確に に改 理め 解た しも たの 上で であ 巧妙に省略し、見亭に編め上げてゐるのである。もっと も、本妙寺本では、真仮名の和歌の下に、次のやうな漢 1 I :二閑宍

地春 祇秋 共之 討朝 焉→·-ヲ 東日見 [ .且 [河 石孔;→ -星辰7 ぃ.つれにしても、簡約化されて、 之朝貢。」 天皇討――服新殺一之時

これについて、蒲富破摩雄は、 (「国学院雑誌」 中で、 昭和五年二月号し十一月号 漢詩の注に倣って、自ら加へたものであらうと言ってゐ るが もしさぅだとすれば、 を簡約ナるに当って、 「日本紀意宴歌の研究」 作者の平惟範が 左注の作者は、書紀の文章 この割注を参考にしたことも考へ られる。括弧内の文章は、「不ノ乾 11 船柑_」を除けば 私か作者に代って楕約した文章と全く同じだからである。 「非―――東日更 レ西 河石昇 11 星辰 .... 」となったため、初めて、「非」 の`ーアラズ.ハ、またはーアラズヨリ .^と読まれる 桟会が生じたのであって、雀紀の文章のさまでは 「非」 は単にー・スと院まれる他たかったはずである。 ところで、肴紀の訓には、たまたさ、当面の箇所にー ズヨリ^が用ゐられてゐないだけ はなく、書紀全体に (句読点・反点・括弧筆者) 西、河石昇為 1 ー屋辰ー不>乾_一船樟‘―不レ悩 1 一春秋 西 文、の割注がある。 新羅重誓日、 「非――東日出レ

(6)

-5-たものか、 古典保存会複製本に収められた熊本の本妙寺 本がいつ書写されたものかわからないことである。 蒲宮 残念なことは、 日本紀党宴和歌の左注が、 いつ成立し 漢文に親しむことの多かった人たちに は、 意外に身近か

c

登音便

c

促音便 般には用ゐられることの少かったー・スヨリ^も、 平素 ^は、 漠文を読むための理解語槃から、 進んで、 草仮名 ゐたと言ふことになる。 左注の作者にと って ー' ズヨリ この語を用ゐ た のは、 雲紀を読ん で、無意識 の 内に七の 訓の影響を受けたとか、 意識的に模倣しようとしたとか いふのでは な く、 かねて、 省紀以外の漢籟や仏典を統ん で身に付けてゐたものを、 自己の自由た選択において用 文を書くための表現語奨にたってゐたものと見える。 た言葉だったのであらう。 Aイ音便(キ↓イ)おいて(置)、 ひ、 お厄いなる(大)、 Bウ音使・ して 、 さいはら(先払) 拿↓イ)ばいで(剥 ) 、 (ク↓ウ)たうして(無)、 9るわしう (ヒ↓ウ)おとうと、 さらうど、 とふたま ., .. ふ(間給)(へ↓ウ)つかうまつりて ・(ヒ↓フ)いふしく(甘) . (ミ↓ム)•おほむとき、 ぉ既むため、 おほむぞ、 をんなご、 むころに (ル↓ン)なた.9 2語頭のウ(またはム)の脱落 1音便 らう か。) さうすると、 日本紀究宴和歌の左注の作者が 紀の訓には相応しくないものとして忌避されたためであ ヨリいが、平安時代に成立した翻訳文法であるため、 書 (ーズ この訓が見えないのである。 「自非ー,」の襟文そのも のがない上に、 「非. l も、 ーアラズ^、 アラザレバ等 と読まれ、 ーズヨリ^とは読まれてゐない。 (モ↓ム)ね おほんかみ、 -6-破摩雄は、 前記論文の中で、 党宴歌を集めて、 左注を加 へたものは、 藤原顕輔であら9とし、 本妙寺本の鐘者に , ついては、 祓嵯峨天皇の皇子、 宗尊親王とナる寺伝を、 そのまt認めた。 西宮一民氏も、 最近この問題に触れら 「日本上代 の文章と れ、 禰宮の顕舗説に焚意を表してゐられる( 表記」昭和四十五年J° 風間誉房fl 今、 固語学の立場から、 時代を推定する手懸りとなる ものを求めると 、 次のやうなものがある。

(7)

は、早くから用ゐられて、 一般化してゐたが、 へから転 内) 4動詞の活用 .. ・(上二段↓四段)よるこばず 5助動詞の活用 (使役ッf↓サッム)い(射)さしめたまふ 6助動詞の変化, (推盈ム↓モ)むまも(生さむ) 7接続助詞の炭ひのあるガ。 ふりけるが く匂A 8誼点記号 む3A ①キ・ギから転ずるイ音便、 ク・ヒから転ずるウ音便 も砂ヽ お◎A ↓フ)とふたまふ(間給) (フ↓ウ)かうち(河 ヒ)もちひがたし、 (ヒ↓ヰ)さかゐ(境) (ヒ て(据)きのすへ(末)そへに(接続詞) (ヰ↓ かはかじ (不乾) (エ↓へ)ゆへに(故)、 ウバフ↓.^ブ 合奪) 3仮名遣ひの混乱 (^↓ワ)うるわしう、さわ(沢)、 すへ (ワ↓ハ) エム 畜一 尼の転ず 「イフッルガ(言)」P‘ ずるウ音便は、余り古いところには例がない。ッカヘマ そのムがウとなったも ツル↓ッカムマヅルと撥音化し、 ので、東大寺図吝舘蔵大般涅槃経平安末期点に、 等の例がある^ (得ム、 ムは推量助動詞) ロ(苦)をネウコロニ、 をエフ、ナムヂ(郷)をナウチとした例がある。� 次に、 ヒの促音化は、私見によれば、平安初期の末に 始まるやうであるが、これをフと記した確かな例は、白 ィウ/ク 氏文集天永四年点に「君 」.竜光院蔵大砒膚蓮那経供養 次第法琉康乎二年点に「ィブッ(言)」、竜光院蔵大批 械遮那成仏神変加持経天喜六年点に、 また、摂音使の内、ミ・モの転ずるm音と、 る.n音とを、ムと零表記とで区別してゐるのは、平安初 期以来の表記法に従ったものである。 ウバフ ②諾頭のウ(またはム)が脱落して、 ムバフ)がバフとなる例には、西大寺蔵不空緑索神呪心 経寛徳二年点に「吸奪スヒ.ハAレ」がある。 ③仮名逍の混乱の内、ハ↓ワは初期から、 ↓へ、フ↓ウは中期から始ま?たが、 ワ↓ハ、 ネムゴ (または 工 石山寺

(8)

がある。また、法華百座法談聞書抄に「地獄ーーヰテ 生心地観経古点(中田博士によれば、院政期の加点) ムを用ゐるのは、院政期に入ってからのことらしく、今 昔物語に「万斎ヲ清; Vム 」(一一[/)があり、小林芳 規博士によれば、猿投神 蔵古文孝経建久六年点に「射 イサ>ム」、猿投神 文選正 校本に「壺ックナ‘v ⑧重点の誓き方は、元永本古今和歌集や書陵部蔵大乗 とも見られるやうである。 ば、なづくといへり。」 のtfは、格助詞とも、接続助詞 うぶや妬うのはをふけりけ るが 、ふきあはせられざりけれ ⑥イツムをイサッムと言ふやうに、シムの代bにサン や大鏡に、 その例が指摘されてゐるが、左注の「これ Wョロコプは、古くは上二段活用であったが、平安中 期から四段に活用ナるものが現はれ、この方が次第に一 m 般化した。興聖寺蔵大唐西城記乎安中期点に「所レ ルn 」、石山寺蔵守護国界主陀羅尼経平安中期点に 3 ロコ 整」、醍醐寺蔵金剛頂珠伽修習砒廣遮那三 「喜 摩地 寛弘九年 点に 娯ョロコハしめょ」、立 寺蔵 メた士 」「令レ るを ョロコハ 法蓮牽経寛治移点忙「不レ ヘ喜

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^」 ある 見る のは、院政期に入っからのことA言はれ、今昔物語

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格助詞の から接続助詞の が派生し、確実な例を 中期の初めに、 ム・モを相ひ通じて用ゐることが 「も」に改めたのかも知れない。訓点語 蔵成唯識給寛仁四年点に「須 モチヒ 」が、石山寺蔵大 」があり、 (くら)ヒ 般涅槃経治安四年点に「位 は、仁和寺瓶金剛頂珠伽護摩儀軌正暦二年点(康和五年 移点)に「額 ヒクヰ 」、光明院菜緊悉地紐羅経承保元年 点に 「費ツキャ がある たものとすれば、 .使役と受身の相違はあるが、無意味な サの入り込んでゐるところが、今と同じである. 、草仮名では、同じ「ん」を、 ムにもモにも 用ゐてゐ るので、原本ではムであった「ん を、転写の際に、 と読み誤って、 あったが、今は時代が隔ってゐるので、 と見ることはでさないであらう。 それと同じ現象 . 8 奈良時代に例があるが、平安時代以後なくたった。ただ ⑥ムマモのや9に、推量の助動詞ムをモと言ふことは、 ヒ↓ヰ イカサレテ」とあるのが、 イカ> 1 アをイカサレテと言っ

(9)

作者を蕨原顕輔に擬したのと、 時代的には一致するので すなはち、 院政初期までと見られよう。 彊富破摩雄が、 のそれと大体同じである。 以上の諸点を考へ合せると、 本妙寺本は、 院政期の書 て、 日本紀党宴和歌の成立も、 それ以前と言ふことにな るが、 問隅は「いさしめたまふ」である»今のところ、 ら、 これが原本通りだとすれば、 日本紀克宴和歌の左注 の成立は、 本妙寺本の書写を遡ること速からぬ時代、同様な例は、 今昔物語以前に求められないやうであるか 時代士で引き下げる必要はあるまいと考へられる。 従っ 写と見てよく下 寺伝の如く宗尊親王の箪蹟として、 鎌倉 な例として、 注目すべきものと考へられる。 院政期前半の草仮名文に用ゐられたーズヨリハ 確実 ある。 つまり、 日本紀党宴和歌左注の「ずよりは」は、 (本稿は、 昭和四十六年五月二十一日、 天理大学で 開かれた訓点語学会の研究発表会で口述した原稿 に、 若千加砥したものである C) ー岡山大学法文学部教授ー

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