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紫式部32-35番歌についての考察――「文散らし」をめぐって――

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|「文散らし」

をめぐって1

(1) Cふたか 「紫式部集』にお いて、 紫式部の夫・ 宜孝関係 の歌は34 首と 最も数が多く、 家集編纂時における式部の問題意識の大きさを示 している。 この家集は、 56歌と57歌との間を境として、 大きく前 半と後半に分けることができるのだが、 その前半部では、 宜孝の 求婚・結婚生活・死後の哀倍など、 時間の経過に沿って宜孝との 交渉のあらましがた どれる構成になっている。 このことから、 集内部における宜孝関係歌の配列意図の一端が窺われる が、 その ようにして家集の配列に従い、 二人の交渉をたどっていくと、 32 |35の四首の贈答は、 特に印象的な事件として読者の目に映る。 しすめ もとより人の女を得たる人なりけり。 文散らしけ りと聞きて 、「ありし文ども取り集めておこ せずは、 返り事普かじ」と、 言葉にてのみいひやりたれ 上ん しつさ ば、 みなおこすとて、 いみじく怨 じたりければ、 正月 十日ばかりのことなりけり

紫式部集

32|35

番歌についての考察

もせむ うすらひ 32閉ぢたりし上の薄氷解けながらさは絶えねとや山の下水 すかされて、 いと暗うなりたるに、 おこせたる いし2 33東風に解くるばかりを底見ゆる石間の水は絶えば絶えなむ 「今は物も聞こえじ」と、 腹立ちければ、 笑ひて、 返し 34言ひ絶えばさこそは絶えめなにかそのみはらの池をつつみし 夜中ばかりに、 また 35たけからぬ人か ずなみはわきかへりみはらの池に立てどかひ なし この贈答歌群 は、 28

31の、 宜孝が式部に求愛していた頃の歌 群に続くもので、 二人の婚姻が成立して開もないころのものと思 われる。 贈答の時期は、 開嘗に「正月十日ばかり」とあるのを、 暦日によって長保元年(九九九)正月十二日以降同月中旬のこと と算定する木船煎昭氏の説に従 う。式部と宜孝の結婚については 賭説あるが、 家集から推察するところでは、 長徳三年(九九七) 立春に、 父・為時の赴任に従って越前に下向した式部の許 に、

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. 孝 から求愛の文が寄せられ(28歌)、 以後二人の問に交渉が続い て(29131歌•7475歌。なおこの問に式部帰京)、 長徳四年冬に 婚姻が成った(76歌はその直前のもの)と考えるの が、 現在最も 妥当な見解であると思われる。 この婚姻成立時、 二人 の年齢は式部25歳、 宣孝49歳と推定され ^3) ていて、 父娘ほどの年齢の開きが ある 。また宜孝は、『弗卑分脈」 (4l によればすでに三人の要を持ち、 それぞれに子を儲けている上、 家集29の詞書に「近江守の女懸想すと聞く人」と紹介されている ように、 浮薄な性向の人物であった。 それゆえ式部は、 32の詞書 [5l で「もとより人の女を得たる人なりけり」といっているように、 夫となる人の女性関係に不安を残しながらの結婚であった。 したがって、「文散らしけりと聞きてi」に始まる出来事は、 式部がかねてから抱いていた結婚への不安が、 現実になったもの といえる。 ただ、 従来の研究では、 この一件の深刻さを一方では 認めながらも、 この贈答を痴話喧嘩的なものと見たり、 そこに遊 f6) 戯性を指摘するむきが多かった。確 かに、 二人の問に交わされた 歌だけを問題にする限り、 そのような解釈も首肯しうるのである -7) が、「意気の合った夫婦間の趣向とか手練手管の応酬」や、「歌合 戦」といったような位骰付けには 、 や はり疑問が持た れる。そこ で本稿では、「文散らし」に 関する当時の 用例をできるだけ参照 しながら、 式部にとってこの贈答の一件が どのような意味を持っ ていたのかを探っていきたい。 返 し 今はとて返す言の莱拾ひおきておのがものから形見とや見む この贈答が単なる遊戯性で片付けられないことは、{且孝が式部 からの文を 「散らし」たと間いての、 式部の反応に窺われる。 (9) 「散らす」とは、「誰彼に口外する。言いふらす」という意味で、 ここでは宣孝が式部からの文を他人(おそらく他の要たち)に見 せたから、 式部が怒ったのであろう。しか し、「あ りし文ども取 り集めておこせずは、 返り事掛かじ」というのは、 相当な怒りで、 絶縁を宣言するにも等しい抗識である。 なぜなら当時、 恋人からの文を相手に返却するのは、 一般に、 二人の仲が絶える際に行われることであった。 -lo) 師賢朗臣もの言ひわたりける を、 絶えじなど契りて後も また絶えて年ごろになりにけれ ば、 通は しける文を返す とて、 その端に書きつ けてつかはしける 式部命婦 行く末をながれてなにに頼みけん絶えけるものを中川の水 (後拾遺集・雑二) 右大臣、 住まずなりにければ、 かの昔おこせたりける文 どもを取り集めて返すとて、 詠みて贈りける よるかの 典侍藤原因香朝臣 頼めこし言の薬今は返してむわが身ふるれば置き所なし 近院右大臣

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-(古今集・恋四) 先々通はせたまひける御文とても、今は返したてまつれ たまふとて、 御息所 やれば惜しやらねば人に見えぬぺし泣く泣くもなほ返すま れり(元良親王集) このような用例か ら、 新婚間もない時期に、 夫に対してそれま での文を返却するよう要求することの異様さが理解されると思う。 -11) なお、「源氏物語 j 「浮舟」巻には、 黛からの文を宛先違いを装っ て返却した浮舟に対し、 乳母の右近が、「 殿の御文は、 などて返 したてま つら せたまひつるぞ。 ゅゅしく、 忌みはべるなる もの を」と諫める場面がある。不吉で差し隙りのあることと聞いてお りますのに、 というのだから、 恋文を返すのは、 やはり当時では タプーと考えられていたと思われる。こうしたこと からも、 式部 が、 文の返却を求める自分の行為の意味を知らなかったはずはな いであろう。 また、 式部が宜孝に、「言葉にてのみいひやりたれば」と、 頭のみで抗議の旨 を伝えさせ ていることの意味も誼要である。こ れは大野晋氏のいわれるように、「歌を笞いて送れば、『これまで -12) 手紙をすぺて返せ」といってやる主旨に反する」からだけでは なく、 南波浩氏のいわれるように 、「当時においては、 消息を付 けず、 使いの者の口上だけで伝達するというような行為 は、 無礼 な仕打ちであり、 冷淡さを表わすものであった」ことも、 式部の 意識にあったと思われる。 南波氏も指摘されているが、 このことに関しては、「源氏物語」 「若菜上」の次の場面が参考になる。 女三の宮との結婚第三夜、 宮と 臥している源氏の夢に、 紫の上 が現れる。源氏は驚き、 鶏が嗚くのを待って急ぎ退出するが、 の上は帰ってきた源氏に打ち解けない。源氏はその日、 終日紫の 上の機嫌を取り繕っているうちに、 夜になっても宮の許へは行け なくなってしまった。 孫氏は宮に、「今朝の営にここちあやまり て、 いとなやましうはべれば、 心やすきかたにためらひはぺる」 と、 参れない由の消息を送る。 それに対して、 宮の乳母は、「「さ 間こえさせはべりぬ j とばかり、 言葉に間こえたり」とある。源 氏の見え透いた言い訳への反発であろうが、 乳母の礼を失した振 鍔に、 漉氏は「異なることなの御返りや」 そっけないご返事も あったものよ、 と不快に思ったのである。 したがって、 式部が宜孝に文の返却を、 しかも 口上で要求した のは、 二重の意味で非礼に当る。しかし、 式部がこのように非常 識な行動に出たのは、 決して思慮分別がなかったわけではなく、 そうすることによってまず自分の怒りの所在を強く訴 え、 次に宜 孝の反省を促したいという意図があったものと思われる。絶緑も 辞さず、 という態度であるから、 これは相当強い抗議であった

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ところで、 当時、 恋文が当 事者以外の者に読まれ ること がな かったわけではない。 当時の日記や物語、 私家集の類を見ると、 男から女への恋文を、 結婚に発言権を持つ女の親(あるいはその親代り)が見るのは普 通のことであったし、 また女君付きの女房 が、 男から女君への恋 文を見たり、 時にはその返事を代箪したりというのも、 よくあっ たことである。 . ただ、 女から男への文を、 男が他の女(要ないし愛人)に見せ る場合となると、 少し平情が違ってくる。男の要同士が顔を合わ せることのない当時、 文は書き手の人柄や教養を判断させる材料 になるから、 文を見る側の女は、 見られる 側の女よりも優位に立 つことになるといえる。 そこには、 次に見るような男の思惑が働 くこともあったようである。 異女の文を、 要の「見む」と言ひけるに、 見せざりけ れば、 怨みけるに、 その文の裏に 普きつけてつかは しけ る . . よみ人しらず これはかく怨み所もなきもの をうしろめたくは思はざらなん (後撰集・恋二) この例では、 男が愛人からの文を 見せなかった ので怨んだ妻に 対し、 男はその文の裏に歌を嘗き付けて与えた、 とあるから、 も 3 ちろん要はその文の中身を見たのであろう。 男の歌は、 この文は あな たが怨みに 思う筋合のものではないから、 不安を覚えないで ほしい、 と愛人の存在に嫉妬する要をなだめるものである。 ここ で男が愛人の文を見 せたの は、 要に対して秘密を持たない意志を 示すとともに、 他人の文を見ることによる心 理的なうしろめたさ を利用して、巧妙に要の嫉妬を押さえようとする思惑もあったの であろう。 これと似た例とし て、「源氏物語」「澪様」「松風」巻で、 源氏 が紫の上に明石の君からの文を、 完全にではないが、 見せる場面 を挙げることができる。明石から帰京後の源氏 は、 ますます紫の 上への愛情が増して、 他の 要たちの許に通うことも少なくなる。 紫の上がいつも側にいるの で、 源氏は明石の君からの文も開すこ とができず、 紫の上にそれとな く見せる。「澪標」では宛名だけ を見せ、「松風」では文を広げたまま、 紫の上の見るにまかせる。 これが 源氏のジェスチュアであることはいうまでもないが、 そこ には、 二人が秘密の ない仲であることを示し、 紫の上の嫉妬をな n­ だめる意図があったと思われる。 ここで宜孝の場合、 式部の文を他の要たちに見せた意図は、 家 集の記述のみからは明らかにし がたい。 ただ、 式部の知らないと ころで、 策者が先に述ぺたような事情があったことも、 ーつには 想像される。 またもう―つには、 宜孝はそうすること で、 自分の虚栄心を洞 | 16

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-足させた、 という側面もあったこと が想像できる。式部の文は、 婚前の交際の頃のものと思わ れるが、 前述した、 宜孝が求愛して いた頃の歌群28|31によっ て、 それを見ていきたい。 28歌は、•長徳三年(九九七)立春、 越前の国府にいた式部の許 に、 宜孝から 「春風に氷が解けるように、 あなたもそろそろ私に 打ち解けてもいい時期だ」と言ってき たのに 対し、 式部が「春な しらね れど白嶺のみゆ きいやつもり解く べきほどのいつ となきかな」 と、 突き放すかのような態度で答えたものである。 29歌では、 式 部に求愛する一方、 近江の守の娘にも言い寄っていた宣孝 が、 「私に二心はない」と再三言い送るの で、 式部は「みづうみに友 4 よぶ干烏ことならば八十の湊に声絶えなせそ 」、 同じことならあ ちこちの女性に声をかけ回ったらいかが 、 と 皮肉っている。30歌 は、 海人が薪を伐り出して積み上 げ、 海辺で塩を焼く絵を描いて 宜孝に見立て、「よもの海に塩焼く 海人の心からやくとはかかる なげきをやつむ」という歌を涼えて贈ったものである。歌の衷の 意味が、 宣孝の浮気心を椰挽するものであることはいうまでもな い。 31歌 では、 文の上に朱をぽたぽたと垂らして、「私の涙の色 を見てくださ い」と訴えた宜孝のせっか くの趣向も、「くれなゐ の涙ぞいとどうとまるるうつる 心の色に見ゆれば」 と、 あっさり 切り返されている。 紙幅の関係で、 式部歌の技巧についてまでは首及できなかった が、 このように見てくると、 宜孝が式部のオ気あふれる歌や趣向 を、 他の要たちに自慢したくなったことは想像できる。「相模集 l を見ると、 男が相模の文を他人に見せたり、 その歌稿を持ち出し たりした事実があったことが分かるが、 これは相模の歌人として の名声によるものである。宜孝 も、 見せて自分が恥をかくような 文なら、 他人に見せた りはしないだろうから、「文散らし」が式 部の才能を高く評価していたことによる行為との可能性も指摘で きる 。 しかし、 このようにして他人に文を見せられた女の側の嘆きや 屈辱感は、 想像に難くない。彼女たちの中には、 胸―つには余る 思いを、 歌に託して男に訴える者もいた。 人のもとに文つかはしける男、 人に見せけりと聞きて、 つかはしける (よみ人しらず) みなせ みな人に文見せけりな水無瀬河そのわ たりこそまづは浅けれ (後撰集・雑三) この例は、 自分の文を他の女に 見せた男の心浅さをなじったもの である。 また「相模集 j には、「人の知るぺきにもあらぬことを、 あら 残りなく文より はじめて顕はす と聞く人に、 懲りずまに取り寄 ょひい せて、 宵居の手習に書きっくる」との詞書で、「いかにせむ葛の 裏吹く秋風に下菜の露の隠れなき身を」以下、 初句と第五句をそ れぞれ「いかにせむ」「隠れなき身を」で統一した一巡の歌九首

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返し しかし、 女の側からのこのような訴えを、 男がまともに取り合 うことは、 まずなかったようである。 いかなることか間きけむ、 人のもとより あだにさは散りける言の業につけて人の心を嵐とぞ見る がある。 返し あだにまだ散りも慣らはぬ言の葉を嵐の風によそへざらなむ (範永集) 文どもあだあだしう 散らすと聞きし 人を、 本意なしと怨 みたりしかば、 かれより 常盤山露ももらさぬ 1 言の葉の色なるさまにいかで散るらむ 色変へぬ常盤なりせば言の葉を風につけても散らさましやは (相模集) 女から怨まれて、 素直に反省するほどの男な ら、 最初から文を他 人に見せたりなどしないであろう。こうした用例を見ても分かる ように、、男はあるいはしらを切り、 あるいは開き直り、 といった 態度で女に応じている。 紫式部の楊合も、 文を返せとの式部の抗議に対し、 宜孝は開き 直って「みなおこす」と、 その通りにしてきた。し かも、「いみ じく怨じたりしかば」とあるから、 おそらく怨み言を連ねた文を 添えていたのであろう。 式部の、「ありし文どもi返り事菌かじ」という言薬は、 挺返 せば、 自分の文が返却されたら宣孝に返事を書くということにな る。 しかし、 絶縁が成立してからの返事はありえないか ら、 式部 の言葉は明らかに矛盾している。宜孝はそれを逆手にとって、 こ ちらは絶縁しても結構と居直り、 式部に揺さぶりをかけてきた。 結局式部 が、「返り事書かじ」の前首を自ら述えて歌を脳ったの は、 宜孝の加えた圧力に屈したことを意 味するといえる。 喧 ‘ 鈴木日出男氏も指摘されている力 ここで通常の男女間の贈答 歌の場合とは屎なり、 式部の方から宜孝に歌を詠み贈っているこ とに注意したい。28|31の式部歌がみな、 宣孝への返しであると 考えられるのに、 なぜ新婚間もないこの時期 に、 式部が宜孝に歌 を贈らなければならなかったのか。 そこには、 一度はただことば (日常語)で、 怒りを包まずに伝えたことが宜孝の態度を硬化さ せた以上、 歌によってでなければ、 宣孝の心を、 自分につなぎと めることはできないとする式部の判断があったのだろうと思われ る 。 式部が宜孝に贈った32歌は 、「二人の間の淡い陥たりが解け、 ひそかに愛情を交わすようになったのに、 それで は二人の仲も絶 えてしまえとおっしゃるのですか」という意味である。文を返せ と強硬な姿勢だった式部も、 ここではすっかり折れて、 宜孝に和 解を求めようと下手に出ている。 その態度に宜孝は「すかされ (機娘を取られ)」て、「いと暗うなりたる」頃に歌を返してきた。 18

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-おそらく式部は、 それまで心を焦られながら待っていたであろう から、 今夜の 訪れがないと分かりきった時間に届いた文には、 安 堵とともに落胆もあったに述いない。 33の宜孝歌は、「打ち解 けていたのは私ばかりで、 あなたの愛 情は底が見えたから、 あなたとの仲など絶えるなら絶えてしまっ ても構わない」というものである。賀任転嫁もはなはだしい、 と いったところだが、 こうして宜孝が返歌を贈 ってきた以上、 最悪 .の事態は回避されたわけである。「今は物も聞こえじ」とあるの は、 おそらく宜孝が33歌に派えた付言で`「腹立ち」とはいって も言紫の上での演技に過ぎない。 というのは、「もう何もいわな い」といいながら返事を賠ってくるのは、「返り賽省かじ」とい いながら、 結局自分で歌を贈ってきた式部に対する皮肉に他なら ないからである。 式部が「笑ひて」とあるのは、 この拗ねた子供のようなポーズ がおかしかったのであろう。式部が34歌 で、 先程とは打って変っ た態度を示しているのも、 このように宣孝が式部に、 歌で切り返 す余地を残しているからである。「もう何もいわない、 絶交だと おっしゃるなら、 その通り絶交するのがよろしゅうございましょ 、 う 。 あなたがお腹立ちだからといって遠慮などするものですか」。 このように、 絶交の資任を相手に転嫁するのは、 式部が宜孝の造 り口をそのまま真似たのであろう。今度はこちらの分が悪くなっ たと見た宜孝は、「夜中ばかり 」、 夜更けに返歌を贈 る(35歌)。 「立派でもない、 人数にも入らない私 は、 いきりたって腹を立て てみても、 何の甲斐もないことです」。宜孝は、 滑稽を装った降 参のジェスチュアによって、 事態の収拾をつけている。 ここでの宜孝の対処の仕方には、 ①式部の抗餓に対し、 その意 図を逆手にとって応じる構えを見せている点、②式部の和解に応 じる文を届 ける時間を遅らせている点、③自分を卑下し、 降参を 装って事態の収拾を図った点など、不自然なまでの余裕を指摘で きる。 また、 一件の発靖となった宣孝の行為の問題が閑却され、 式部は自ら折れて和解を求めた手前、 それを再度追及できないよ うになっ ている点にも、 意図的なものが感じられる。 .. これらのことから判断すれば、 宣孝の「文散らし」の意図は、 他の要たちの機嫌を取り繕うと か、 自分の虚栄心を満足させると いうより、 他ならぬ式部に向けられたものだったと思われる 。 だ としたら、 宜孝はなぜこのようなことをしたかということになる -16) が、 それには、 次に挙げる「蛸蛉日記」の例が 参考となるのでは ないだろうか。 道絹母が兼家と結婚した翌年のこと、 二人の間には八月末に男 子が生れ、 その頃の兼家の愛惜は細やかであるように見えた。 だ が九月のある日、 彼 女は兼家が置き忘れていった文箱の中から、 他の女に宛てた恋文を発見してしまう。彼女は思いがけないこと

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に呆然とするが、 せめて見たことだ けで も知らせようと、 文の端 に歌を書き付ける。それは、「うたがはしほかに渡せる文みれば ここやとだえにならむとすらむ」と、 兼家に新しい通い所ができ て、 訪れが途絶えることへの不安を形にしたものであった。果し て十月の末頃、 兼家が三夜糀けて訪れないことがあったが、 兼家 は結婚の ことは口に出さず、 平気な顔でいる。 しかしある日のタ 方、 彼女の許を辞去する兼家の様子が不審なの で、 彼女は召使に 後をつけさせると、 兼家の車は「町の小路なるそこそこになむ、 'とまりたまひぬる」と いうことであっ た。彼女はこれによって、 兼家の新しい通い所が、 町の小路に住む女であったことを知るの である 。 この経緯を見る限り、 兼家が彼女の許に文箱 を匿き忘れたのは、 偶然とは思われない。兼家に は、 後に結婚することになる愛人の 存在を、 研前にそれとなく知らせようとする意図があったのだろ う。 そこに出産して間もない彼女への配慮が窺われるが、 一方で は、 文を盗み見たことによ る罪悪感を利用して、 巧妙に彼女の嫉 妬を押さえていることも知られる。 . 宜孝の「文散らし」には、 兼家が道綱母に巧妙に愛人の存在を 受け入れさせたような事情があったのではないだろうか。 式部に 熱心に求愛しでいた宜孝は、 婚姻が成立してからも、 愛情を示そ うと、 しばらくの間は夜離れなく式部の許へ通っていたと思われ る。 だが、 前述したように、 すでに三人の要があった宜孝とし て は、 新しく加えた要を、 いつまでも特別扱いすることは無理だっ たに述いない。 元の要 たちの忍従にも限度があろうし、 やがて式 部への訪れが少なくなることは、 はっきりしていたと思われる。 そこで宜孝は、 なるぺく早い段階で、 この事実を式部に受け入 れさせる機会を窺っていたのだろう。 その ために、 わざと式部か らの文を他の要たちに見せ、 噂を問いた式部が逆上して抗議して くる言莱尻をとらえて、 自分にとって式部は数ある要のうちの一 人にすぎないから、 絶縁も構わないとの認識を示したのであろう。 宜孝はこのことによって、 式部に巧妙に一夫多要の現実を押し付 けたのである。 それは有無を言 わせぬやり方に見えるが、 夜離れ が避けられないのであれば、 後になって愛情の衰えからそうなっ たと解釈されるよりは、 この方がよいとの判断があったのかも知 れない。 また宜孝は、 決して式部を精神的に 追い詰めているわけ ではなく、 式部を笑わせたり、 歌によって切り返す余地を残す配 -17 〉 慇も忘れていないのである。 式部としても、 この宜孝の裁蓋は 認めるしかなかったであ ろう。 ただ、 28|31の歌のやり とりに見られるように、 式部を 一人の人 間として対等に扱ってくれていると信じてい た宜孝に、 急に狐切 られた恩いはあったに述いない。 32歌の詞書に、「も とより人の 女を得たる人なりけり」とあったの は、 自分にとって宜孝はただ 一人の夫であるのに 、 宜孝にとって自分は数ある要のうちの一人 に過ぎなかったことを、 この一件で現実とし て思 い知らされたこ 20

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-32式郁 33

34式部 とへの漢きを示唆していると思うのである。 ..さて、今まで 「文散らし」の一件が、式部にとってどのような 意味を持っていたのかを考察してきた。そこでは、家集の記述が 筒潔に過ぎるのと、式部の立場の反映であるため、「文散らし」 に関する当時の用例をできるだけ参照しながら、式部・宜孝双方 の立場に照明を当てるよう努めた 。その結果からいえぱ、箪者は 通説のように、この贈答歌群を痴話喧嘩と か遊戯性といった観点 だけでとらえることは できないのである。 月‘そは力りを_ -i _ えば 確かにこの陪答歌群は、ここに図示したように、歌ことばの上 では対応しているように見える。だがそこには同時に、二人の仲 が絶 える絶えないに執 苅する式部(34歌)と、そこから問題をそ らそうと する宜孝(35歌)という構図も読み取れる。これは結局、 .節者が先述したような、二人の結婚に対する姿勢の相違を浮かぴ 上がらせているのであり、そこでは、附答以前の感情の創駈が、 そのまま陪答の場にも持ち越されているのだと いえよう。 鈴木日出男氏は この贈答歌群 について、「二 人の心の絶望的な

e)

距難をかたどっ」たものとされる力そこまでいかなくとも、式

部にとってこの陥答 が、おた がいの愛惰を確認しあう行為からほ ど遠かったことは、容易に察せ られる。そして、ここで式部が宜 孝の真実の愛情を確かめえない事情は、家集後半部で語られる宜 孝の夜離れや前渡りを用意するも ので る。「蛸蛉日記」にも通 じる世界であるが、当時ご大多森の下で、このような苦しみを味 わう女性が多かったことは、筆者 が事新しく述ぺるまでもない。 「文散らし」の一件は、こうした当時特有の結婚形態の中から起 こったものであり、それを背供としたこの間答歌群も、 そこでの 男女異なった立場を考想において初めて、その本質が理解できる と思うのである。 1本稿において「紫式部集」の本文は、新渭日本古典集成「紫式部日 記・紫式部集」に拠った。その底本は古本系の陽明文庫本で、歌数 山首である。 2『紫式部集の解釈と論考』(笠間苔院81.11) 3萩谷朴氏の説による。「紫式邸日記全注釈 l (角川密店73.3)下巻参 4 「導卑分朕]によると、宜字は藤原源猷女、平李明女、藉原朝成女を 淡としていた。 この一文は、31歌の左注であると同峙に、32歌の詞むでもある

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この附答についての主要な説を挙げると、 消水好子氏「この何首かの やりとりのうちに、 父親ほどの年齢の夫と娘のような淡の位霞が入れ 換って、 式部のほうに、 母親がきかぬ子を叱ったりおだてたりする気 配が出てきている」(岩波新酋「紫式部」⑬.4 )、 木船瓜昭氏「深刻 陰湿どころか、 歌合戦の典趣と横知と技巧とを存分に楽しんで陽気で、 心はずんでいる」(前掲避、 市波浩氏「式部がこれほど首いたいこと をズパズバ首っても、 それを大きく包容してくれた宜孝であったこと に、 式部も潤足していたことだろう。二人の附答 は、 火花の散る喧嘩 をしているようでありながら、 おたがいの気持を確かめ合い、愛情を 確認し合っているものであった」(「紫式部集全評釈」笠間苔院83. 6)、 重松倍弘氏「ただこのいさかいの歌だけを見る と、 オ女式部の 面目を造憾なく発揮して、 宜孝を手玉にとっていて、 まことに而白 い」(『源氏物語研究菜昏>紫式部と源氏物語 j 風間密房5.10)など、 痴話喧嘩や遊戯性で解釈するのが通説化している。 7 波浩氏前掲困 8 2 に同じ。 9 岩波古訴辞典・補訂版」 . 10 以下、 勅撰集・私家集の本文の引用はR磁震国歌大観」に拠ったが、 絞解の便立を考慮して、 表記を私に改めた。 n以下、 日詑氏物括 j の本文の引用は、新潮日本古典集成本に拠った。 12 古典を統む14源氏物栢 j (岩波由店84.5)

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波浩氏前掲告 M の上はこの他にも、 末摘花から源氏への文(玉製)、 王墓から源氏 への文(行幸)、 女三の宮から源氏への文(若菜上)を見ている。 6 18 17 16 15 氏の最も身近にいる湛の特権であり、 源氏に煎んじられていたことを 窺わせる。 「囚文泉』82.10特別企画「紫式部梨全歌肝釈」 「蜻蛉日記」の本文には、 新潮日本古典集成本を使用した。 このことに関しては、 稲質敬二氏が「新婚早々の新年、 しばらくのIIU は一夜もかかさず式部の所へ泊まった宜孝は、 +日ごろともなると他 の女性のごきげんもとらねばならない。その日数をかせぐために、手 紙を他の女に見せたの見せなかったのという情報を、 わざと式部の方 へ流して腹を立てさせ、「絶える j の「絶えない」の というやりとり で間をもたせつつ、 実は他の女の所でこの受侶•発信の業務を椛けて いたということかもしれない」(「日本の作家12源氏の作者 紫式部」 新典社82.11)と想像されているのも参考になろう。 15に同じ。 (わたなペ 研究室受贈図書雑誌目録口 愛媛国文と教育(愛媛大学教育学部国語国文学会) 王朝文学研究誌(大阪教育大学大学院古典文学研究室) 号•第五号 王朝文学史稿(王朝文学史研究会) 第十九号 大阪青山短大国文(大阪青山短期大学国文学会) 第十号 大阪椋蔭女子大学論集(大阪椋蔭女子大学) 第31号 大谷女子大国文(大谷女子大学国文学会) 第24号 けん 第四 第26号 岡山大学文学研究科修士謀程二年) 22

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