偶像崇拝の記号論(6) 利用統計を見る
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(2) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻 P67∼74. 偶像崇拝の記号論(6) A Semiotical and Historical Study of Idolatry(6) 滝 口 晴 生 Haruo TAKIGUCHI Ⅳ 中世における聖画像論 1 フランク王国とローマ教会. 東方世界でビザンチン皇帝による聖画像破壊政策が推し進められていたとき、ローマはどうしてい たのだろうか。ローマ教会は、第2ニケーア公会議の時点において、 東方教会との違いはほとんどなかっ た(Noble 156)。この時代の教皇の様子は、『教皇の書』Liber Pontificalis に述べられているが、聖画像. を排斥するという行為は見られない。基本的にはグレゴリウス2世の2つの書簡に見える見解がいわ ば権威ある基準と捉えられていたであろう。そのひとつはセレヌスに与えた書簡で、 そこには聖画像は、 字が読めない信徒が「壁にあるものを見ることで読むことができるように」教会に置くことができるが、 同時に「絵を崇拝するという罪を犯すことのないように」しなければならないとある。もうひとつの 書簡はセクンディヌスという隠者にあてたもので、聖画像を見てキリストへの愛を喚起し、その前に 頭を垂れるが、それは絵を「神として礼拝するのではなく、絵によって思い浮かべるその人を礼拝する」 1すなわち、聖画像は教育的な機能のために教会に置かれて ためであると述べられている(Martin 227)。. よいのであり、その前で敬意を表すことは許される。その行為は聖画像自体を礼拝しているのではなく、 それが表している本体を礼拝しているからである。とはいいながら聖画像の前で頭を垂れる姿を、人々 が目にしたときに、それを通して本体に礼拝しているのか、それ自体を礼拝しているのかは、外から 見ただけではわからない。その姿が聖画像を礼拝するように促すことがありうるとし、聖画像を禁ず るのが聖画像破壊論者の意見である。しかし、8世紀教皇たちは、教会に聖画像を導入することにむ しろ熱心であったといえるだろう。顕著な例として、グレゴリー3世は、732年に礼拝堂を建設したと きに、銀と宝石で飾られたマリア像を導入したし、聖母マリアの記念日に聖像を掲げて行われる行列 を教皇が先導したとされるし、またパウロ1世はローマにある多くの礼拝堂に聖像やモザイクを施し たとされるのである(Noble 125-28)。 前回述べたように、二度にわたる東方での聖画像破壊政策は、第2ニケーア公会議において否定さ れ、聖画像崇敬論が勝利することになった。ところがこの会議の内容がローマ教皇を通して、フラン ク王国に、つまりカール(シャルルマーニュ)に伝わったとき、異議が挙がることとなったのである。 どうして宗教議論に、フランク王国が関わってくるかといえば、これは753年に、イタリア全土をほぼ 手中にしていたランゴバルド王国の脅威から、時のローマ教皇ステファヌス3世が、フランク国王ピ ピン3世に助けを求め、ピピンとその子孫をローマ教会の保護者にするという取り決めを行ったこと から始まっている。この家系のものは「神に対する信仰心のうちに育てられ、聖使徒の仲介のうちに、 その代理者である教皇の手によって聖別された」ことになった。これにより王は一種「司教」のよう な存在となり、公会議に出席し、教会に関する法令も出すことができるようになったのである(ガクソッ ト 115)。教皇は、最初、フランク人は軍事的には強力だが、知的には劣っていて、単に教皇に仕える ものになるだろうと思っていたらしいが、教皇の思惑を裏切って、そこには知的な集団が存在してい たのである(Kolbaba 218)。それは781年、アルクィン(Alcuin c.735-804)をカールが招聘することで. ─ 67 ─.
(3) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. 一層充実したものとなった。フランク王国が名実ともに確固たる教会の庇護者であることの象徴的事 件は、800年に、ピピンの後継者であるカールがローマ教皇によって、西ローマ帝国の皇帝として戴冠 を受けたことである。この時教皇はカールを「ローマ人の皇帝」と呼び、その前に「平伏し、彼の衣 服の裾に口づけをした」という(ガクソット 120)。これにより、フランク国王は、ローマ帝国の正統 な後継者となり、カールは自分を「教理の調整者、信仰を誤りから守る擁護者」とみなしたのである(ノ ウルズ 72)。 そのような政治的情勢の中で、フランク人が宗教議論に加わってきたことは当然の成り行きであっ た。その一つの顕著な例は、フランク国王が(ビザンチン皇帝と同じように) 、教会会議を主催すると いうことが生じたことである。『フランク王国年代記』には767年の条項に「ピピン王がジャンティイ (Gentilly)で「三位一体と聖者の像」についての「ローマ人とギリシア人」の教会会議(synod)を催 したとある(Noble 140)。ここにおいてフランク王国は、 「ニケーア信仰信条」の「父より来る」 「聖霊」 という部分に「子からも」( filioque )という句を付け加えていた。これはローマ教会も、東方教会も. 2、以後の東西教会の対立の素となった。そして769年ロー 認めていないことであったので(Noble 144). マ教皇ステファヌス3世が、ローマで教会会議を招集したが、ここにフランク人も参加しているので ある(Noble 145)。 このようにフランク王国とローマ教皇とビザンツ帝国の三つどもえの議論のやり取りが行われるこ とになった。この議論の中で、聖画像に関する部分の議論の経緯を述べることにしよう。フランク王国 が、聖画像に関して議論をするようになるのは、複雑な政治事情が存在する。ビザンチン帝国は、フ ランク王国が取り戻したそのローマ領を、ローマ教会に与えるのではなく、自分のほうに戻すように 交渉しようとしていた。そのためピピンの娘と次のビザンチン皇帝となるレオ5世の結婚を画策した。 ここでフランク王国の主要人物との会合が開かれた。議題は結婚がメインであったが、 ビザンチン側は、 宗教的な議題としてそこに754年の教会議事録、つまり聖画像破壊のそれを持ってきていた。ローマ教 皇は、その関係にくさびを打ち込むために、それとは対立する731年の議事録を同じテーブルに乗せた のである。この宗教問題での亀裂により、結局のところ結婚問題も立ち消えになってしまったのであ る(Noble 142-43)。 次に聖画像の問題が議論されたのは、769年のローマでの教会会議である。もちろんフランク王国か らの使節が出席したことはいうまでもない。この会議の4日目に聖画像が議論され次のことが確認さ れている。 聖画像は崇敬(venerate)されるべきであり、記憶の助けとなり、罪の意識を引き起こし、ヒエレ イアにおける最近の会議[754年の会議のこと]は、 「聖画像を打ち捨てたことで」破門とすべきで あることが同意された。 (Noble 156) ジャンティイの教会会議よりは、ローマという中心地で行われた会議において、ビザンチン教会との 違いが鮮明になったことが、フランク王国とビザンチン帝国との溝を拡げることになったのである。 第2ニケーア公会議に、ローマ教会は使節を送ったが、このときフランク国王は無視された。ニ ケーア公会議の結果を間接的に入手したフランク王国は、フランク人の使節が存在しない会議を認め ず、その結果に反論を行うということになった。この詳細な反論を書いたのが、後にオルレアン司教 となるテオドゥルフ(Theodulf 760?-821)であるといわれている。この文書は『カロリング文書』 (Libri. Carolini )と呼ばれているものである。3. 第2ニケーア公会議で、聖画像崇敬派が勝利し、ローマ教皇の使節が戻ってきて教皇に報告し、教 会の統一と、教皇の権威が確認された。そしてその記録のラテン語訳がカールに送られた。しかしそ の訳はギリシア語の知識が十分でない者によって訳されたらしく(残念ながら現存していない)、カー ル大帝には納得のいくものではなかった。というのもギリシア語では神への礼拝は latreia、聖画像への. ─ 68 ─.
(4) 偶像崇拝の記号論(6). (滝口晴生). 崇敬は proskyneis と使い分けていたが、ラテン語訳では、すべてが adoratio とその派生語で訳されてい. 4つまり聖画像は「礼拝する」 たらしい(Noble 181)。 (colere)または「崇拝する」 (adorare)と訳され、 「崇 5そこでカールはアルクィンとテオ 敬する」(veneri)との区別は消えてしまっていたのだと思われる。. ドゥルフの二人に検討を命じた(Noble 159)。その結果が『教会会議に対する詔勅』Capitulare adversus. synodum であり、これはローマ教皇に送られた。同時にテオドゥルフは『カロリング文書』の準備に取. り掛かった。教皇ハドリアヌスは『詔勅』 への反論の手紙を書き、カールに送った。このような状況下で、 794年、フランク王国主催でフランクフルト教会会議が行われることとなったのである。 2『カロリング文書』Libri Carolini における聖画像論 第2ニケーア公会議で、聖画像崇敬派が勝利したのであるが、しかしこの決定にカールは満足して いなかった。問題はこのときのラテン語訳が、きわめて粗雑なものであったということにひとつは原 因があるが、もう一つは、フランク王国は、全面的な聖画像崇敬でもなく、また聖画像破壊でもない 態度を採るようなっていたからである(Noble 159)。794年のフランクフルト教会会議で提出された文書、 いわゆる『カロリング文書』Libri Calorini は、754年のヒエレイア教会会議の聖画像破壊論を否定して. いるが、同時に聖画像崇敬の結論を出した第2ニケーア公会議をも否定しているのである。6この態度は. 文書の序文ではっきりと述べられている。 つまり、先の会議では善き持ち物を廃棄しようとする一方、今回の会議では善き持ち物を悪しき 仕方で用いようと努めた。すなわち前回は教会から装飾物を取り除こうと試み、今回はその装飾 品を礼拝する[adorare]ように決議したのである。 (秋山 158) 序文のこの部分ですでに表明されているように、聖画像は教会の装飾物としては認められている。 第2ニケーア公会議での聖画像論は、ダマスカスのヨアンネスの議論を踏襲したもので、聖画像に 向けられた崇敬は、その本体に伝わるというものであった。すなわち聖画像は聖なる存在とのなんら かのスピリチュアルな関わりを内包しているものと捉えられてきたのである。しかし 『カロリング文書』 は、物質で作られた像は、まずは人間の手による制作物であるとし、その価値とは、それが作られた 物質(たとえば金とか)とそこに具体化された人間の技巧だけであるとする(Chazelle 165) 。つまりそ れは芸術作品であり、聖なるものとスピリチュアルに結びついたものではない。それは、単に場所の 装飾物であるか、過去の事物を思い起こさせる機能しか持たないのである(Chazelle 165) 。したがって 7 それに敬意を表してもそれが表わす本体に伝わるなどということはないとするのである(Martin 235) 。. 他方、『カロリング文書』は、聖画像とは異なるものとして聖別(consacrate)されたものを挙げる。 すなわち聖餐、祈祷器(liturgical vessels)、十字架、聖書、聖櫃(the Ark of the Covenant)である。それ 8よって聖なるものと直 らはあらかじめ神によって「定められ祝福された」ものである(Chazelle 166) 。. 接関わっていると見なされる。ところでそれらはどのように聖なるものと関わりがあるであろうか。祈 祷器は実際に教会で儀式を行うときに用いられ、それがなければ聖なる行為そのものができない。十 字架はその形そのものが救済者によって祝福されている。さらに聖遺品は、聖人と直接触れたもので ある(Chazelle 168)。9要するに、『カロリング文書』においては、聖なるものは、その本体(prototype) との直接的な関係、たとえばそれ自体から発しているとか、接触していたとかそういう関係があるも のである。そういうものは、敬意の対象となるし、またその敬意が伝わるということも考えられると されるのである。 これに対して、人間の手で生み出された作品としての像は、単なる「似ていること」(likeness)とい う一点のみで、本体と関わっており、しかもそれは物質的に似ている部分だけを表わしたものであり、 決して精神的な部分を表わしはしない(Chazelle 172) 。しかしながら同時にそれは「記号」 (sign)でも. ─ 69 ─.
(5) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. あるという(Chazelle 173)。つまり本体そのものを部分的に表わすことができる。しかしそれは限定さ れたものである。たとえば聖人像は、聖人の肉体的特徴を表わすが、精神的なものであるその聖人の慈 悲や徳そのものを表わすことはできない。ただ表わすとすれば、肉体的に見える部分での聖人の慈悲や 徳のみであるというのである(Chazelle 175)。そのことはもう一つの意味をもつ。つまり像は、そうい う聖人が実際に存在するということを想起させるということである。像が作られることは、本体の存 在を想像させるからである。このことを『カロリング文書』は問題視する。なぜならば、像は、存在 しないものも、存在しているかのように想起させるからである。すなわち偶像崇拝にいたるからである。 『カロリング文書』における基本的な考え方は、物質から精神的なものには至ることができないとい うことであり、内面に向かうことでのみ直接霊的なものとの接触ができるということである。したがっ て、ニケーアの結論のように、像に向けられた敬意が本体に伝わるということは、物質である以上あり 得ないのである。これができるのはあくまで、 聖別されたもののみである。人間の手で作られた作品は、 あくまで物質であるので、物質があらわすものを超えることができない。このように『カロリング文書』 は、精神的なものと、物質的なものとを厳格に区別する。したがって、神が人間を神に「似せて」作っ たという意味は、肉体ではなく、あくまで、魂なのである(Chazelle 171)。そこから精神的なものを 扱うのは聖別されたものだけが、聖なるものとの接触を可能とし、物質的なものは、それがその物質 的な存在のひとつの記号となることはできるが、つまり精神にひとつの記憶像を刻むことはできるが、 それによって、その存在を思い起こすだけであり、それに対する働きかけを伝達するものではないの である。つまり『カロリング文書』はこの像の考え方において、まったく現代的な意味で像を記号と して捉えていることが了解されるのである。つまり記号の取り扱いは人間の精神的な活動の中だけで 行われるものであり、記号そのものが記号自身を超えてなんらかの作用や力を媒介するということを 10 拒否しているのである。. しかしながら同時に、『カロリング文書』は、聖別されたものが、その物質的存在を超えて、霊的な 作用を行うことができるということを認めているので、要するに、物質それ自体は物質にすぎないが、 霊的作用という、物質を超えて力が物質に働くとき、それは霊的なものになるということになる。神 が指定した物質は霊的であり、そうでない、人間が作り出したものは霊的ではないということになる のである。したがって、十字架は、崇敬の対象であるが、単なる像は、単なる記号であり、その像の 本体を思い起こさせるという機能しかないのであるから、それ自体を崇敬するということはあり得な い。像は「その前でなされた崇拝の姿勢が天国に届くための水路となることはあり得ない」のである (Chazelle 180)。なぜならそれは記号を拝んでいるに過ぎないからである。 以上のように『カロリング文書』は、像崇敬について否定的な考えをしめしており、単に装飾物、あ るいは記念物としてのみ認めるという立場を採っているのである。 3 ルイ敬虔王時代における聖画像論争 このあと9世紀になって第2聖画像破壊運動がビザンツ帝国で起きるが、その影響は限定的であっ たことは前に述べた。この時パスカリス1世がローマ教皇としての意見を述べているが、それをフラ ンク国王に送った記録はない。フランク王国が聖画像論に関して論議を行うのは、聖画像破壊政策を 再び行ったレオ5世の後を継いだミカエル2世がフランク国王ルイに書簡を送ってからのことである。 これには815年の聖画像破壊政策についてはほとんど触れられていない。ミカエルが述べているのは低 い位置に置かれた聖画像を高い位置に置いたということくらいであって、要するに自分が極端な聖画 像破壊論者ではないことを標榜していたのである(Noble 261) 。 しかしフランク王国はその宗教的立場をもう一度確認する必要があると感じたのか、ローマ教皇に. ─ 70 ─.
(6) 偶像崇拝の記号論(6). (滝口晴生). 使節を送って、会議を招集する許可を得て、825年のパリ協議(the Paris Colloquy)を開いたのである。 この時の文書のうち、会議の詳細に関するものが『教会会議録』Libellus Synodalisと呼ばれるもので. ある。この文書は実は膨大なもので、いちいちその論述をたどることは不可能なので、ノーブルのア ウトラインに従ってその要旨のみを摘出することにする。 この会議録で主張されていることを一言でいえば、聖画像は認められるもので、それを破壊するこ とは間違っているということである。まず聖画像が認められる点については、聖画像に関する伝統的 な事例を挙げて説明する。ノーブルはつぎのように要約している。 最初の引用はエウスビオスの『教会史』にあるキリストの衣服の端を触ることで血が止まらない 病気が治った女のパネアスにある像についての記述である。コンスタンチノスに示されたペテロ とパウロの像についての『シルヴェステルの事績』からのものである。そして、画家が描けるす べてのものについてクリソストムスが語る部分、旧約聖書の場面を見ることの価値についてノラ のパウリヌスが語る部分、像がどのように自分に涙を流させたか、また像がいかに描かれたもの について深く考えさせることができるかをニッサのグレゴリウスが語った部分、そしてさらにア ウグスチヌスが、絵は現物ではないが、どのように現物を心に浮かべさせることができ人々を悔 恨に至らしめることができるかを語った部分が来るのである。 (Noble 270) これらが聖画像承認派が伝統的に挙げるいわば古典的場所(locus classicus)といえるものであろう。. 次に聖画像を破壊することがどういうことになるかに焦点が移る。挙げられた例は要するに聖なる 像を破壊することは、神の譴責を買うことになるという結論である。特に最後にグレゴリウス1世の 引用によって、フランク王国と教皇が同じ伝統を共有していることを示そうとしていることがうかが えるという。それのみならず、その伝統はビザンツ帝国も共有しているので、そこともこの文書はバ ランスを保っているのである(Noble 271)。 また聖画像を否定はしないが、しかしそれを崇拝してはならないとする。崇拝されるのは神のみで あって、被造物を崇拝してはならない。聖画像を正しく使うことは許されるが、 「記憶と愛」のために 聖画像を建てることが、「信仰に弱い」人々に「迷信」に向かわせることにつながらないようにするこ とに特に注意を払わなければならないとする(Noble 273) 。 第3の問題として、聖画像が十字架と同じように扱われることが取り上げられる。しかし十字架は、 キリストとの直接的関係性があり、キリスト教徒の奇跡的かつ根本的シンボルであるので、聖画像と 同列に扱うことはできないとする(Noble 276-77)。 『教会会議録』は、テオドゥルフがしたように聖別されたものとそうでない物質的像という厳密な区 分を行っていない。そのことが像を扱う部分に、像に物質性のみを見るのではなく、像の記号的機能 にいくらか霊的な機能を考える余地を示しているように思われる。 『教会会議録』は『カロリング文書』 よりも、よりニケーアの結論に近づいているように見えるのである。 『カロリング文書』は、聖画像破壊も聖画像崇敬も認めない、いわば中道を採ったのであるが、その 後、西方の独自の聖画像破壊論が単発的ではあるが見られた(Martin 262) 。それらは『カロリング文書』 よりはより聖画像に批判的な意見であった。トリノのクラウディウス(Claudius of Turin)は単身で聖. 画像破壊を行ったといえるだろう。彼は自分の教区の聖画像を撤去させた。そればかりでなく、十字 架すら批判の対象に挙げたのである(Martin 263)。彼は過激で偏狭な意見をはいた。聖者を崇敬する ことは、神に向けられるべき栄誉がそこに含められることになるので、被造物を礼拝することになる。 また十字架が神に接触したことで崇敬されるならば、 「処女の子宮、厩、襁褓、船、ロバ、羊、ライオン、石、 いばら、そしてやり」をも崇敬しなければならなくなると主張した(Martin 266)。つまり、キリスト はロバに乗ってエルサレムに入ったし、「ユダのライオン」とも呼ばれたからであり、もちろんやりで 横腹を貫かれたからである(Noble 293)。とにかく物質が礼拝を媒介することはありえないとする (Noble. ─ 71 ─.
(7) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. 292)点において、 『カロリング文書』の物質と精神的なものとの厳格な区別をさらに徹底している。 クラウディウスに反論したのは、オルレアンのヨナス(Jonas of Orléan, 780?-843)とパヴィアのドゥ. ンガルス(Dungal of Pavia 820頃活躍)であった。もっとも詳細な反論を書いたのはヨナスであるが、 ノー ブルの要約に基づいて要点を挙げてみよう。基本は『カロリング文書』の中道的立場を受け継ぐもの. であり、クラウディウスの過激な行動を非難している。また像は「装飾と記念」のために作られたと する(297)。しかしクラウディウスが、像に何か聖なるものが存在するということを否定することに は賛同している(297)。また聖人とその聖遺品への崇敬を擁護している(298) 。十字架はもちろん「崇 拝され、崇敬され、大事にされる」ものであり、それはキリストの人間としてまた神としての姿を思 い起こさせるものだとする(298)。また、処女マリアについてもつぎのようにいう。 キリストを生んだ乙女をただ単に崇拝する(adore)のではなく、ふさわしい敬意とともに神の聖 なる母を崇敬する(venerate)し、聖なる至高者への仲介を謹んでお願いするのである。 (301) ヨナスはここで「崇拝」と「崇敬」を区別しているように見えるが、同じマリアが対象であるので、実 際のところ厳密に区別しているようには見えない。おそらくこのような用語の使用が西方では一般的 であったのであろう。 ドゥンガルスは、同じ中道的立場を採りながらも、物質に敬意の伝達力を認めている点で、ダマス カスのヨアンネスの見解に戻っていることになる。彼は聖像に聖遺物とおなじ崇敬を認めているので ある(Noble 309)。 反論者をもう一人挙げておこう。それはベネディクト修道士ワラフリッド・ストラボ(Walafrid Strabo, c. 808-49)である。前二者と同じ立場であるが、彼は、聖画像は美しいものであり、それらは 教会を美しくするという美的視点を再認識し、それを高価値にした(Noble 324)。彼は知性的で論理的 であった。彼が挙げる反証は非常に説得的である。たとえば、もし画像が美しければ、その画像その ものを崇拝するようになるのでは、という意見に対して次のように答える。神はなぜ壮麗な宇宙をつ くり、美しい植物を作ったのか。もしそれらが単純な者たちにそれらを崇めるように導いたとしても。 そうさせるようにするのは悪魔であるが、それでもすべての画像を偶像崇拝だとして、「心が純なもの を呆れさせる」よりはましである、という(Noble 325) 。また「もし画像を破壊するのであれば、神が 人間の手で作られた神殿に住まわれないという根拠で、論理的に教会も破壊するべきだということに なる(Martin 271)。教会も物質で作られているからである。これはクラウディウスの十字架批判に対抗 できる論理であろう。 もう一人の聖画像否定者はリオンのアゴバルド(Agobard of Lyon)である。クラウディウスよりは. 穏健であった。アゴバルドで重要なのは、用語の使用である。彼は聖人と聖遺物には honor を用い、 adorare, colere, venerari はすべて神に対して用いている(Noble 315) 。しかしながら、のちには殉教者を 崇敬する(venerari)ことを認めている(Noble 317) 。彼の主張の根幹は、物質が霊的なものを媒介す ることはないという信念である。「絵は絵にすぎない」のである(Noble 319) 。すなわち聖画像に対し て拝礼する行為はすべて否定しているので『カロリング文書』の立場と同じであろう。 主にフランク王国で行われた論争を見ると、そこで個人的な小規模なものではあっても偶像破壊自 体が行われたという事実が注目される。しかもそれに対する反駁があったということで、東方とはま た異なる議論の進め方が見られたのである。王国の基本は中道であったが、ここでは東方とは異なり キリストを描きうるかという問題よりも、つまりキリスト人間論ではなく、聖別されたものと物質か ら作られたものの区別と、それに対する崇敬のあり方の違いが問題であった。ただここでもその区別 が厳密である場合と曖昧になる場合が見られた。しかし基本は、像を教育的に、また記念的に有用と して認めたのである。そして一般信徒がそれを崇敬するときに過ちに陥らないようにするという配慮 を同時に確認したのである。. ─ 72 ─.
(8) 偶像崇拝の記号論(6). (滝口晴生). 西方キリスト世界、フランク王国における聖画像論争は、ノーブルの言葉を用いれば「さざ波的論争」 であって、その後半に関しては、ローマ教会はほとんど傍観していただけである。というのもその問 題は「すでに出し尽くされていた」からである(313)。カロリング朝のこれらの聖画像論争はキリス ト教西方世界の中では、すぐに重要ではないものとなった、というのも「西方キリスト教にとって関 心事ではない問題を提起したからではなく、民衆の信仰とラテン神学と典礼の発展がすでに聖人の礼 拝とそれにまつわる祭具を宗教体系に一体化していたから」であり、『カロリング文書』も都合よく忘 れ去られたのである(Jones 83) 。そして聖画像が満ちあふれる12世紀がやってくる。 12世紀、聖画像が一挙に増加したもっとも重要な要因は「私的また共同体的寄進というシステム」 であった。寄進というものがいわば「善行」を意味すると考えられたので、競って寄進が行われ、同時 に礼拝堂やそこに設置される聖画像がまたたくまに増えたということになるのである。また聖人にちな んだ宗教的なギルドが組織され、基金をあつめ、聖人崇拝を広めると同時に聖画像を寄進したのである。 これにより、 「像や絵画、窓やモザイク」が教会や礼拝堂を満たした。同時にそれは平信徒がいわば「代 理的に教会の霊的活動にあずかる」ことを意味し、教会と平信徒の「経済的な自己利益」とが相互に 結びついたために、宗教美術に攻撃を加えることは、その地域の人々の多大な部分の精神的のみならず、 財政的な利益に脅威を与えることになったのである。そのことが聖画像崇敬の現状維持を多くの人が 認めることになり、宗教改革時代の聖画像破壊が進むのを押しとどめる役割を果たしたのである(Jones 87-88)。 14、15世紀になると聖画像の視覚的質が向上し、より人々の感情的反応を呼び起こすようなものと なり(Jones 88)、我々がヨーロッパ中世の教会に通常見出す世界が現前することとなったのである。 *本研究は、JSPS科研費23520293の助成を受けたものです。. 1. セクンディヌス宛書簡のほうは、グレゴリウス自身の筆であるかどうか疑われているが、画像に関す. る部分が加筆であることは間違いないらしい。ジャンティイの教会会議ではこれが持ち出されたが、 『カ ロリング文書』ではこれの引用を避けている(シュミット 52-53) 。 2. ローマ教会は11世紀になって採用するようになった(Noble 144) 。. 3. 正式には『カロリング朝王の教会会議反論』Opus Caroli Regis contra Synodum とするのが正しいという. が(Noble 158)、本稿では通称の『カロリング文書』をそのまま使うことにする。 4. 秋山によれば『カロリング文書』では、 「神のみが礼拝されるべき」 (adorandus et colendus)とされている。. 秋山はその一部を翻訳しているが、colere は「崇敬」 、venerari は「尊敬」 、adorare は「礼拝」と訳すこ とにするとしているが(154)、colereは英語の worship にあたり、 「礼拝する」という意味とおもわれる. ので、本稿では adorare は「崇拝する」、colere は「礼拝する」と訳す。また第2ニケーア公会議が認め. た聖画像への venerari は「崇敬」と訳す。もちろん『カロリング文書』では、 「崇拝」や「礼拝」は神 のみに向けられる行為とされ、聖画像への「崇敬」も禁じている。. 5「画像を礼拝する」という表現が何度も『カロリング文書』には見える。 6『カロリング文書』は、ヒエレイアの会議も、ニケーアの会議も、公会議として認めていない(秋山. 159)。 7「像を崇拝することにためらう者には普通で実によく知られたことであるが、それは像への敬意が、. 像があらわしている同じ形(本体)に伝わることができると信じ主張することである。どのように伝わ るのか、またそもそも伝わるのかは、理性では認識できないし、教父たちの言葉の証言によっても認め られていないのである。」 Usitatissimum et oppido familiarissimum illis, qui in adorandis imaginibus aestuant,. ─ 73 ─.
(9) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. hoc est, ut credant et asserant imaginis honorem in eandem formam posse transire, cuius imago est. Quod quidem quomodo fieri valeat et utrum fieri valeat, nulla ratione percipitur nec divinorum eloquioruni testimoniis adprobatur (Bastgen 136). 8. 聖人の聖遺物は直接挙げられていないが、 『カロリング文書』はこれらと同等に扱っているので、議論. はそれが含められたものとして考える必要があるという(Chazelle 166) 。 9「聖人自身の肉体に、あるいはその肉体の近くにあった」. circa corpora fuisse... (Bastgen 154). 10. quia aut in corporibus, eorundem sanctorum aut. ノーブルは、『カロリング文書』は、グレゴリウスの有名な意見、すなわち絵は文字を読むことがで. きないものの文字であるとする像の教育的価値も認めたくないようだという(222) 。. Works Cited Bastgen, Hubert, ed. Libri Caroline sive Caroli Magni Capitulare de imaginibus. Momumenta Germaniae Historia, Legum sectio 3, Concillia tomi 2, supplementum. Hanover: Impensis Bibliopoli Hahniani, 1924. Web. Chazelle, Celia. "Matter, Spirit, and Image in the Libri Carolini." Recherches Augustiennes 21(1986): 163-184. Jones, William R.. Art and Christian Piety: Iconoclasm in Medieval Europe.. The Image and the Word:. Confrontations in Judaism, Christianity and Islam. Ed. Joseph Gutmann. Missoula, Montana: Scholars, 1977. 75-105. Kolbaba, Tia M.. Latin and Greek Christians.. Early Medieval Christianities, c. 600-c. 1100. Ed. Thomas F. X.. Noble and Julia M. H. Smith. The Cambridge History of Christianity. Vol. 3. Cambridge: Cambridge UP, 2008. 213-29. Martin, Edward James. A History of the Iconoclastic Controversy. 1930; rpt. New York: AMS, 1978. Noble, Thomas F. X. Images, Iconoclasm, and the Carolingians. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 2009. 秋山学.「『カロリング文書』 (Libri Carolini)翻訳・解題」 『西洋美術研究 No.6 特集イコノクラスム』 .東京: 三 元社, 2001. 154-61. ガクソット, P.『フランス人の歴史 1』.林田遼右, 下野喜朗訳. 東京: みすず書房, 1972. シュミット, ジャン=クロード.『中世の聖なるイメージと身体 キリスト教における信仰と実践』 .小池寿子訳. 東京: 刀水書房, 2015. ノウルズ, M. D.『キリスト教史3 中世キリスト教の成立』 .上智大学中世思想研究所編訳. 東京: 平凡社, 1996.. ─ 74 ─.
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