北斉村落制の成立過程
福 島 繁 次 郎
<配9Φqo乙咬書琴ε話彦℃o一〇,、一 ロ。<ソq2.岸。団口評自ぽ諺m’ 11 雪 起一節 第二節 第三節 第四節 第五節 序 論 党族百家制の成立 士族百家の構成論と元孝友上表の解釈 三二の任用と復夫 河清令と村落制 一斉の社会と村落制の意義 論 .昭和三十一年刊本学紀要に北周村落制孜を発表した①。その一部とし て発表するはずのものが本稿であったが、紙幅の関係で分離の上に分離 して発表する外はなかった。本稿も﹁北斉村落制の成立過程﹂と題して まとめたものであるが、限られた紙数のままに其の一節の﹁党族百家制 の成立﹂をのみ発表することとした。 二士・北周の村落制の成立過程には、まだ解決されていない問題があ る。否、寧ろ誤って解釈されているのである。此の対立した両王朝の村 落制の基盤となったものは、三長制では無くして、其の改装である﹁令 制﹂であるが、 ﹁令制﹂の党族百家の構成論は既に資治通運の解釈以来 未解決の問題である。私は北周村落制孜に於て、eに百家一族党、二十 五家一間里の二葉制の構成を主張した。この結果は⇔に村落官吏とも言 うべき二十五人の特権者を僅かに五人の構成にして、二十人を減省する ことに成功した。日は此の二十人を戸籍上の丁男とすることによって新 たに課調径役兵丁の対象としたものであった。㈲には北周は北斉に比較 して地理的条件に於て、戸口数に於て遙かに劣勢であったが、これによ って国力の充実を企てたと言う事を数字を以て立証した。此の改革は蘇. 紳が後に晴の柱石となった其の子蘇威にもらした言葉でも知る如くに、 変形した苛酷な重税政策であった。従って周到な政治的配慮を必要とし たのであったが、国に改革の対象を村落制の最下の構成の比隣の長にの み限って上位の閥里・族党の長の地位を保証した。改革による村落社会 の不平と混乱とを防止して、従来の三七制の秩序を保持したこと、㈹は 比鄭の組合せは官制からはずしたが、従来の如く自治的運営に委ねて従 前の秩序を保持したもので、やがて黒総の村落制に﹁保﹂の名称で復活. するものとなった。㈲には蘇紳は申韓の政術にも長けた法家的政治家で あるが、当時の祉会に普遍化しつつあった単婚的小家族構成に着眼して 対策を取ったものである事を、戸口の構成の上から、更に叉当時の史料 によって立証した②。 以上の如き黒鍵村落構成の特徴は、私が始めて論断する所であって従. 来の論説と著しく異るものである。かかる特徴は北周社会に於て立証さ れねばならぬものであるが、と同時に其の対立抗争者であり、且叉同じ12 (福島) 程
北i斉村落制の成立過
く北魏末の政治から分離独立した東保護斉の政治・社会に共通的に見る 理由もあって、其の政治の改革に当然反映する理由を持つ。従って此の 方面からも立証されるものであると言うのが私の立論であった。かくし て、北周の蘇紳と全く同一の著書で改革案を上表した者は臨准王孝友 ︵元孝友︶であった。孝友は北見の王族であり、政理に明達した士であ ったとある。東智北斉の社会に特徴的な官僚の風紀の粛正と村落制の改 組が上表の改革論であって、特権階級化した村落官吏を減卜して富国強 兵を企てたものである。富国強兵と言う緊急な国策の下に東西両政権の 企てた改革の著眼が全く同一の対象に向けられているのを見るにつけて も、茎長と言う名に保証されて、村落の豪族は戸口を隠附して、脱税免 役などのあくない脱法行為をしていたのであって、村落を改編して横恣 な豪族を抑制することが国勢培養の根本問題であったのである。これは 北朝政治の一般的方向と合致する政策であった。改革の対象となった 村落制は、孝文帝の玉湯制では無く、其の改制である令制百家党族の 制である。北周・北斉の村落制の改革を正しく理解するためには当然に 其の前行の村落制である令制を正しく理解しなければならない。従来此 の点に全くふれる所が無かったと言えよう。私は北周の二長制、北斉河 清令の前提である元孝友の上表の解釈に就て新たな説を立てて従来の論 説を訂正すると共に、此れらの基盤となった令制百家の構成論に覧ても 従来の説を訂正したのである。併せて大方の叱声をお願いする次第であ る。第一節 党族百家制の成立
一 元孝友上表と令制 元孝友の上表のうちで村落制の改革に関係した部分を挙げると次の如 くである。 孝友明於政理。嘗奏表日、令制百家為二心、二十家為閥、五家為比 鄭。百家之内、有帥二十五、徴発皆免、苦楽不均、羊少狼多、復逃路r 食。此之為弊久 、京暗黒坊、或七八裏、唯綾亘正二史、庶事無閥而茎短州乎。請依旧置三正之名望肇而豪為四聖靴殴肇
間二一、計下情駿+二丁、得+二疋賃絹。歪計暑之戸、応二万余 族、一歳出斗酒、二十四万疋。十五丁出一番兵、旧藩一万六千兵。此. 富国安人之道也。i−︵中略︶1。傭人帥以出兵丁、立坪儲以下穀 食、設賞一因檎姦盗、行典令以示朝章、庶使足食足兵、人信之 ③。 とある。ついで此の上表を、 回付有司遠谷不同。︵魏書巻一八二二二王伝︶ とあって、尚書省の議に付したが異論あって実施されずに終ったと言う のである。元孝友の上表は単なる改革の意見に終ったものであるが、此 の上表中には色々の問題がある。右の史料は、魏書巻一八、太武魔王伝 に見え、北斉書巻二八、元孝友伝、北書巻一六、太武五王伝にも殆ど同 文で見えている。ここに注意すべきは、資治通情巻一五八、大同八年の 条の記載である。これには重要な訂正が加っているが後に詳細に論及す る。先ず右の内容を略述しよう。 第一節は、北魏の﹁令制﹂に百家事書・二十家閥・五家比鄭の村落制 があって、其の首長たる二十五帥は徴発皆免・兼併蚕食の弊害の久しい ことを述べる。 第二節は、京邑諸坊は七八百家という多数戸でも一里正二史という少 人数の組織で足りている。地方村落の組織が簡素化されない筈はない。 第三節は、元孝友の主張する改革案である免一族百家として、 ﹁百家 四間、一間二比﹂とするのが改革の骨子である。一族から十二丁を減省 し、これらから賀絹の徴、兵丁の数を増加して一国安人の政策としょう として、国家全体の合計の数字を示して強調する。 以上が上表の内容である。北魏では填め宗主督護の制が行れ、やがて 孝丈帝太和九年に三長制が創定されるの。 この上表によると三回忌の後﹁ に﹁令制﹂なる村落制があり、更らに臨准王孝友はこれが改革を主張し1 9 5 7 号 6 第 滋 大 紀 要 13 たのであった。ここに孝友の上表の内容を問題とするが、順序として ﹁令制﹂と言われる村落制の成立に就て説くこととする。身長制に関し ては、魏書巻五十三、昌吉伝にも見えるが、同書巻心十、食貨志による と、 魏初不立三長、故民多蔭附。蔭三者皆無官賊。豪彊島町倍於公賦。十 年給事中言沖上言、宜準古川家立一隣長、五隣立一里長、五里立一党 長。感取郷人彊謹話。隣長復一夫、里長二、党長三、所復復面立、余 若民。三重亡葱、則防用、防乏一等。 とある。李沖伝によると.もと士長制の立たない以前には、宗主を立て て督護したが、民の隠冒が多くて五十家三十家を= とする状態であっ たとある。蔭附の者は皆官役を免れる。代って豪彊はこれ等から徴写す るが、その率は公賦に倍するものがあったと。こうした社会で否定制は 校戸・荒径・省賦の役割を果たすもめであって、戸籍を正確に把握する こと、径役を均分すること、賦税を平均することであった。これは李庭 伝に、三長制に関する公卿の討論や李沖の主張、文明太后の裁決の語も あるので明かである。三塁制の持つこの目的は北朝村落制に於ても基本 的な目的であった。三長制の基準となったものは曲礼の村落構成であ る。これは李沖の上言に﹁宜準古﹂と述べてあるし、これを実施した高 祖の詔にも、 隣里郷党之制、所由来久、欲使風教易周家至。︵同上︶ とあるのを見ても明かである。北朝村落捌を一貫する特徴は、周礼の村 落制を軌範としたものであると言うこと、其の始源が三下制に始まると 言うことは、疑問のない事実である。脂漏の上言には、三智制の構成と 三幅の任用と、三面の特権である復夫の制に就て述べている。此の三項 は令制に於ても以下重要な論点となるのであるが、第一に三長制の構成 と﹁令制﹂との関係を述べることとする。 面長制の戸数構成は、 一党百二十五家、 一里二十五家、 一罵言家から なり、墨譜隣三冠の三階級の構成である。これが後の﹁令制﹂では、一 党族百家、一閥二十家、一比儲蓄家の制に改まる。両者は同じく周礼の 制に基くとは言うもののかなりの相違がある。党里隣の名称は、三族・ 閥・比郊の構成となっている。此の別は晴の開皇二年の制に明かであっ て、畿内を族・閥・保と言い、畿外を党・里・保と称している。保は比 隣の如く五家の組合せの異称であるが、ここでは畿内の制は族・闘・比 であり、周礼の六郷の制に関連しているし、畿外の制は党・里・鄭で、 周礼の六遂の制に関連する。ここに﹁令制﹂に閥里の里を欠ぐのは、松 本氏によると、 ﹁京邑諸坊、或七八百家、唯一里正二史﹂とある里の制 が別に在ったから意識的に省かれたものとする解釈がある⑤。 かくて名 称と構成からしては、 ﹁令制﹂は周礼の制に一層近似していて、北斉・ 北周・晴と北朝村落制の基調となった制である。此の点は戸数構成に於 ても言える。由来、中国の農村社会では、百家が構成の基準である。周 礼では前述の如く五家・二十五家・百家の構成である。周礼の成立が漢 代に在るとするは定説であるが、絶代では一里百家の制である。後漢書 巻三八・百官志に、 里有里魁、民有什伍、善悪以告。本注日、里魁掌一里百家、三主十 家、伍主思家、以相検察 とある。無代にも晋書巻二四職官志に﹁県率百家置吏一人﹂とあって、 明かに百家一里の制であった。北朝では﹁令制﹂の後はずっと百家の制 が行れて晴唐に至っているし、南朝でも百家の制であった。此の百家と 共に五家の組合せも古くからあって固定化している。村落の最も近親な 自治的組合せとして、五家は秦漢以来行れているものであった。ここで 注意することは、三長制は五家の組合せに基礎を置くが、漢人社会に固 定化した百家の制を取っていないと言う点である。一党百二十五家の構 成は、五家を単位として五の相乗構成である。五進法の構成である。漢 人社会には例の無い制度であって、宮崎博士の説⑥を引用して松本氏も 述べているが⑦、 これは北方遊牧民族の部族構成と関連した構成法であ る。漢代の旬奴には、什長・百長・船長・万騎の制があり、後の蒙古に
14 (福島) 程 過
成立
の北斉村落制
は、十戸§。昏曽ロ・百戸冨σqロ昌・千戸§冒σqσq9。ロの長があった。北方民 族の部族構成は十進法を取る。三長制の構成方法はこの北方の軍隊構成 の方法に近似している。漢人社会に近親な五家の組合せを基盤として五 進法の構成方法を取ったものに備ならない。孝丈帝は極端な華化政策を 実行するのであるが、その本来の鮮遺族の部族構成を解体して中原化す るとしても、尚、五進法の構成によって部族構成の要素を残したのであ る。漢人の理想とする周礼の村落制と、これを麦配する北人の部族構成 法とを調和させた所に一党百二十五家の特異な村落制が創定されたもの である。これは確かに北方民族の軍事体制と関係があるが、私の研究の 結果から言えば、かかる軍事的支配体制は北魏末期に至って其の存在意 義が失われてしまうまで解組しなかったとも言えるのである。 二十高祖孝文帝が徹底した同化政策を実行し、感謝の政治を理想とし つつも北方民族的な軍事的要素のある村落構成を持つたと言うことは其 の政治に矛盾した興味を持つものであるが、 かかる麦畑体制から﹁令 制﹂の百家党族の制に何時改定されたかと言うことも村落制に対する北 人的関心を立証するものとして同一の興味を持つものである。三旬制か ら﹁令制﹂に改定した時期を何時に解釈するか?と言う点で、政治的。 社会的意味を異にしてくる。即ち﹁令制﹂を単に孝交帝の華化政策の完 成であると・見ると、周年の制の実施と言うことにすぎない。別に農村社 会の変化に対応した三長制の自壊の結果であると見ると、北魏政権の崩 壊と言うことと関連する。私は先学の研究を紹介しつつ﹁令制﹂実施の 時期と其の意義とを論証したい。 二、三長制改定の諸説 改定の時期に関しては明かな記録があるわけでは無い。仁井田博士は その唐令拾遺の週令の史的研究の条で、 ﹁北朝の魏︵北魏・後陣︶では 武帝の神鵬四年・︵︾・∪●心ω日︶に崔浩蕩をして律令を撰せしめ、次いで交 帝の蒸和初、高閥等に勅して更に境論に変更を加え、律令凡八百三十二 章を作ったが、十五年更に議出して翌年︵︾・∪●心㊤N︶之を頒着した。著 名なる土地班給の詔が発布されたのは太和九年であるから、恐らく十六 年頒行の令にはこの新制をも加えたものと思う。野蚕の篇目としては魏 書刑罰志に獄官令・唐六典に後魏職三豊・太平御覧に後魏貼出が見え る﹂とある⑧。三階制も同年制定された均田制とは不可分の制度である から当然に新令として加えられたであろう。従って此の年改定されたと する見方も立つのである。松本善海氏がその論文に、﹁文中に﹁令制﹂と あるところよりみて、太和十六年︵おb。︶四月に新令が頒行せら.れた際で あったろうと思われる巳と述べている研。 ﹁令制﹂実施の年時を最も具 体的に推定したものであるが、氏は最近にも世界歴史事典で四九二年の 改正を再確認している⑩。 この説に対して、志田不動麿氏はその論丈に、仁井田博士の前掲の説 を引用しっっ論を進めて、律令の改正は世宗正始元年︵αO幽︶にも行れ、 魏書巻八に﹁十有二月乙卯、詔塁臣議定律令﹂とあり、魏書巻二十一下 に、丸彫帝の弟の彰城王総などが参与したことをも挙げる。更に刑罰志 ︵魏書巻百十一︶には、孝昌已後法令の改廃が恒なかったことを挙げて、 ﹁孝友の上表当時行われていた﹁令制﹂は少くとも世宗の正始元年︵αO潜︶ 以後のものと見るべきであろう﹂とし、又、魏書巻十九中、任二王澄伝 に、粛宗朝、霊太后の摂政中に﹁利国済民、所子振隠者十条﹂を上奏し た中に町長の旧名による記事があり﹁帥﹂とは言っていない。旧の三岳 が帥の名を以て呼ばれ、郷党制の組織迄も若干改正されるようになった のは、或は刑罰志に見えるように、実は孝昌以後であるかも知れない。 ﹁大体の社会の変化の上から私は暫くこれを粛宗の孝昌以後の改正と見 ることとしよう﹂と言っている⑳。 前説は高祖孝文帝の華化政策と関連した三長制の改定として見るのに 対して、後者は社会変化に伴う村落の再編として見るわけである。異る 観点から全く異った改定の時期を推定したものである。 仁井田博士や松本氏が説かれる如くに、勢和十六年︵おb。︶の新律令の 改定は魏書巻七下、高祖紀に明かである。太和十五年︵蒔旨︶の五月と八1957
号 6 第滋大紀要
15 月に改定が審議され、 ﹁十六年四月丁亥、頒新律令、大赦天下。﹂とあ る。十七年には参定の官僚に恩詔があった。関係官僚は、漏誕・封琳 ︵講︶、国辱礼︵嬰、高紳︵翌、李沖重︶、発明根︵碧︶、高祐繭¢、崔挺︵一隻李彪︵桐ζ高遵︵藩主・同間︵理な・の伝に
記事があって、事実を立証している。上記の関係官僚の中では、特に李 沖が重用されている。李三三に﹁高祖難自三筆、無不一決焉﹂とある。 漢人出身の最も信頼された李沖が特色ある三長制を創恥したのである。 創回した温和九年︵蔭QQ帆︶は北魏はまだ洛陽遷都の以前である。守旧的な 北族武人の勢力下に在って三章制は制定された。李沖が自ら工夫した漢 胡を調和した村落構成を中国的に改編する条件はまだ備っていなかった と言える。新律令の内容は明かで無いが次帝の世宗正始元年︵αO恥︶に再 び律令改定の詔があって、其の丈に ○ ρO O O Q O O O O O O 先朝垂心典憲、刊革素図、但時属征役、未之詳究、施三時用、論述忠 臣。︵魏書刑罰志︶ とある。孝文帝の新律令の制定に際してたまたま敵役があって、法令は 不完全であったと言うのである。此の事は太和十七年六月乙巳に、職員 令二十一巻を作った詔にも此の法令が不完全であることを述べ、其の理 由として、﹁事迫戎期、未善周悉。﹂とか或は﹁四三磯回、三論所内﹂な どとあって、法令は充全でないから軍役の終った後に再び議定すると述 べている。此の征役は洛陽遷都のために南朝の斉を征伐すると声言して 南下した陽動作戦を意味したものである。太和十六年の新律令が充全で 無かった事と頒嘱しても不徹底であった事は前後の詔で一致して明かで ある。 北方平城の旧人、鄙ち北魏の旧部族人は幸しも頑丈帝の政策に賛成し ていなかったことも事実である。洛陽遷都の前後の事件に最も明かであ って、高祖孝文一い常が極秘に其の計を進めた事情は届書諸説伝や感恩の記 事に甚だ明かである⑲。 三嘆制を改制するとしても守旧的な北辺の勢力 を離れて、叉、征役の混乱をさけて、寧ろ洛陽遷都後に政治の安定の上 に実現することがより妥当な解釈であると言えよう。李沖も﹁陛下方修 周公之制、定早成周﹂と言っているが、洛陽は周公の建設以来、長安に 対する東都として政治的中心であった。洛陽を王都として畿内畿外に分 つことは歴史的にも背景を持つ。日頃理想とする周礼の政治を実現して 漢族の人心に投ずるには理想の地と言わねばならない。かくて三族百家 の令制は、諸般の事情から推して日和十六年の新令には実現したもので は無くて此れ以後に求むべきものとなる。 これに次ぐものは世宗正始元年︵憲︶冬十二月の律令の議定である。 関係官僚は魏書巻六九、震翻伝に最も細しい⑱。彰城馬継.高説王雍. 京諸王愉などの王族から婁翻以下十八名の臣下が名を列ねていて、大規 模な修定であった。・れ等の列伝の中で孫紹伝︵聖書七八北史四六︶に世宗延昌中 ︵望N一㎝︶の上表があって、太和十六年の律令と、正始元年の律令に関し て次の如く述べている。 又先帝時、律令回議、律尋施行、令独不出、十余年 。臣目口之為 体、帥帝王之三三。分三百揆三儀、安置九服之節、経緯三才之倫、包 口触卿之職、措置風化之門、作用賞罰之要、唱道有為之枢機、世法之 大本也。然修令三人、二塁博古、依古撰置、大体可観、比之威令、精 響年配主義之家太用古制三二︵注一本作全︶依寅高祖之塗三尊昇峰誰敢題意有是非哉。以是争︵攣醸久案理。然律令相月
不可要用・都掌贈鐸潔。若令盃、是無典法。︵以下略︶
とある。 此の記録は特に注目すべきものがある。先帝の時とは高祖孝交帝であ る。 ﹁律令並議﹂とあるは太和十六年頒行の新律令に外ならない。一見 この年新律令が共に施行された如くであるが、実は新律のみが施行され たと言うのである。令は世相末の延昌中にも実施されずにいるのであ つ る。 ﹁今律班ち令止まる。事に於て甚だ滞ほる﹂とある今とは言うまで もなく世宗延昌中の孫紹の上表の時である。孝文帝曾和十六年の令も、 宣武帝正始元年の令も共に実施されていない。実施されたのは新律のみ16 (福島) 程
成立過
の北斉村落制
である。聖画の上表は従来の説を否定することとなって内容は重大である るが、他にもこれを援証する史料がある。魏書巻五六に鄭道昭も壮齢正始 元年の律令珊定委員であって、学令の参定を担当した。新令が班布されて も学令の実施されないために其の早急の実施を要請した上表がある。 道昭叉表日一往年冊定律令、謬華々莚、謹依準位修、劇画旧事、参 定式令、事詑封呈。自爾迄今、未蒙報判、但廃学歴年、仁術俺滞、請 む 学令井制、適職施行、使選授有依、生徒可算。詔日、具卿崇脳髄学之 意、良不可言、新令尋班、施行無遠、可書窓思其手無唆雲壌。 とあるし、道昭は更に又上表して、前後累上して未だ一報を蒙らないと して重ねて学制の実施を請うていて、 ﹁難新令未班、請依旧辞置﹂とも 言っている。再三新令の実施を請願したが﹁不報﹂とあって、新令の実 施はなかった。次に魏書巻五八、楊椿町に 椿前為太僕卿日、招引細々、七種牧田三百四十頃、依律処刑五歳。尚 書髭墨隈正始別格、奏椿罪。1一世宗以新律卜書、不振雑用旧制、詔 依三吟、聴以細論。 とある。世宗朝正始の新律が班行されて、其の適用を旧制と区別した例 である。東園の撫軍府司馬楊弓之の著した洛陽伽藍記には、 正始複詔三連金永作通式。軟景︵常景︶共草書侍御史高僧笹羽林監 王元亀、尚書郎祖榮・員外散騎侍郎李瑛之等、撰集其事。世羅太導爆 城王鵬、青州刺史書舗、入墨其者。雨下正科条、商事古今、甚有倫 序篶榔。濡雪蕉匙伽。︵同書巻一︶ とあって、正始元年に律令の審議が行れたが、新令が実施されたと言う 記事はなく、世に行れたのは新律二十篇である。 程樹徳の九朝鳶考、後極律考下の条に、 考高祖律令井議、律尋施行、令独不出、見孫紹伝。世宗時、太常劉芳 忌明令、未及班行、見常景伝。是高祖以後所定諸令、経葛栄、爾朱之 感量未行用也。︵同書・三九一頁︶ とし、高祖以後の誤謬の諸令は北斗末まで実施されなかったと言うので ある。上述の史料からする結論とも一致していて、程樹徳の所論は肯定 しなければならない 先に仁井田博士は高祖孝文帝の太和十六年に新律令を頒喧したが、太 和九年の土地班給の詔も十六年の令に加えたものと解釈している。もし そうだと均田制と一体的な塾長制も亦新定の毒虫の中に加えられていた と解釈されること当然である。しかし此の解釈は上述の結論からしては 誤った解釈であると言う外は無い。程樹徳は九重律考に於て﹁魏以均田 入律﹂︵後外律三下三八二頁︶・している。程氏の此の所強令の実施のなかった 事実と合致する解釈である。仁井田博士や前掲の松本氏の説に対する有 力なる反証であると断定せざるを得ない。 内田吟風博士はその論文﹁北斉律令翻定考﹂に於て、前掲の洛陽伽藍 記を引用して、後魏では正始元年に相当広範囲な律令改修を行ったが、 其の後は最早や律令修正は行わなかった。従って東魏時代に入っても律 令はこの所謂﹁正始律令﹂が施行せられて居ったとしている。それは新 律のみに言い得ることであって、新令は実施されていたのでは無い。内 田博士の洛陽伽藍記の解釈に誤解がある⑭。内田博士は叉その﹁北周の 律令格式に関する雑考﹂なる論文の註文で、党族百家の令制の成立に論 及して、後期の北海令に制定されたものと解釈している⑯。元孝友上表 の内容と博士の所説からすれば、後期の北樹令とは当然に世宗正始元年 の新令と言うことになる。若し此の事が合理的に論証されるならば元孝 友上表の解釈に於ても、北魏の職長制の改定と言う点に立ても、其の理 解に甚だ都合がよいのであるが、内田博士の説を肯定するには上述の困 難がある。 内田博士の説かれる如く﹁正始律令﹂に申国的な党族百家制が修定さ れていたと考えられなくも無い。それは孫紹の上表丈に見える正姶新令 の特色である。 ﹁令を修める人は皆博古、古に依って監置す﹂とあり、 ﹁主議の家太だ古制を用う﹂とある。孫紹によると新令の制定委員はす べて古制に通じ古制を採用したと言うのである。そして﹁若し令を古制7 5 9 1 号 6 第 要 滋 大 紀 17 のままに準拠すると、高祖の遺制もこのために改廃しなければならない し、古制と言う理由で法令に就て論議する者もなくなるであろう﹂と言 うのである。孫紹も律令の議定委員の一人であった。此の論からすると 明かに新令に対する批判者となっている。議定者の彰城王艦や高潔奴髭 らは王族として其の立場は重きをなすが、議定の中心人物は漢人出身の 劉芳であった。劉史伝に 芳斜酌古今為参議之ま其隻脚荘多芳意也。︵魏書巻五五︶ とある。花型は漢楚元王の後とされ彰城の劉族であるから代表的漢人官 僚で、儒学に明く古制の主張者であったことは其の伝に明かである。孫 紹の言う古制の内容は明かでないが、孝文帝によって宣明され、其の 後、北朝政治の一般的な傾向である儒教的政治思想からして周漢の古制 に関係したものであることは明かと言える⑯。世宗正始新令はこうした 特色を持つのである。党族百家制がその令丈に修定されていたと考えて も不都合は無いのである。ただ、それを確実に立証するものが無く、 ﹁正始律令﹂が東魏に於て実施されていたことが合理的に実証されない 限り、元孝友上表文の﹁令制百家為乱撃﹂とある令文を正始の新令であ るとして論拠とすることも出来ないからである。此の点から内田博士の 前掲論文の註丈はそのままには承認し難いのである。 高祖の太和十六年の律令は搾汁のために欠点があって、世宗正始律令 の修定となった。古制を基準とした正始令がその多数の人物の議定にか かわらず実施されないのには理由がなければならない。孫紹は批判をし つつも﹁若令不輸、是無観法﹂と言って新令の実施の必要を力説してい るのである。しかしそれが実施されなかった事実がそのままに立証する 如く、古制即ち純粋に中国的な令制を実施することに障害となる強い反 対勢力が存在したことを示している。孝丈帝の遺制であり、漢画の特色 を調和させた三長制が其のままに永続したに就ては、右のような政治的 推移と関連して永続したのである。三吉制の改組、即ち党族百家制の出 現は、北上の支配体制が腐敗して、村落祉会の秩序が混乱し、三瀬制の 存在が有名無実化したと言うよりは、かえって其の残骸が悪の温床とな って、民衆の苦悩、豪族の横恣が甚しくなって、村落政治の弊害となっ た時に三長制に代って中国的な村落制が実現したのでは無いだろうか。 世宗正始の新令があっても粛宗朝にわたって三正・三世、或は党里隣と ある署長制の記事が明かに存在する。これは次に論及することである が、志田氏が三長制の改定を世宗正始以後としたのは理由は明かでない がその高説を肯定しなければならない。改定の理由を孝文帝の華化政策 のためとしたり、洛陽遷都による漢族文化の尊重に帰する如きは全く常 識論を出でないものと言える。 三 世宗朝の令制と三正 沈家本は令を解釈して 令者上敷下之詞、命令・教令・号令、其様同。法令則著悪書策、奉還 一心、令甲令乙是也。︵沈家本、律令一︶⑰ と言っておる。唐法に律令格式の別があり、艶書にもあるが、唐六典巻 六、尚書刑部の条に 凡律以正刑定罪、令以設盆立制、格以禁違正邪、式母様物式事。 と定義している。律は刑法であり令は憲法行政法民法にもあたり共に根 本法である。北魏では太祖道武帝の天職元年︵ωりG。︶に崔玄伯が総裁で律 令を撰し、世祖太武帝の神領四年︵蔭ωH︶に司徒崔浩に引して律令を改定 した。高祖は律令を不備として高論等に命じて旧悪の修改を命じ太和元 年︵ミ刈︶に群臣と律令を議定している。更に太和十六年︵心りb。︶には再び 律令を改定して班諒した。しかし新令は征役の際とて不備であって実施 されなかったことは前論の如くである。世嫡正始元年︵蜘O偽︶の新律令は 太和十六年の律令の不備に適意した大規模の修定であった。魏書で令の ・とを附馬糞審︵礼志一︶・か、呈示律A泉為翻︵璽・か准律令以 明麗︵刑罰志︶・かの語があって架法た・にかわることは無い.魏令の 内容として晋の官道令に対して今皇朝官婚星面従︵礼義四︶・ある官令は 太和+九年に品令・あるもので︵繁、世宗朝の現行の官零である。
18 (福島) 程 過 立 成 の 制 落
斉村
北 太和+奉に瞥令二+一巻︵縞祖︶があ戦世虐蒙平元年︵切。・・︶の現行法 に獄官令があり︵刑罰志︶、又世宗行謹之法︵鶴王︶・は考課令であ軌 正始元年律令に学令があった。元孝友伝に見える令制百家一族とある令 制も魏令であるが、世宗の正始令の一部として解釈出来ないか? と言 うことである。令制とある用例は魏書巻七八、胃鏡恵伝に見える。世宗 朝に任城王澄は不遇の立場におかれ、七月七日文武官を北園に集会し て、馬射せんとした事があるが、張普恵がこれを諌めた語に﹁七日越 戯、令制無之﹂と言っており、澄の答えに、丈武は人の巴戦であるとし て、 ﹁宣可於常芸之間諜須令制乎﹂とある。ここに在る令制とは世三朝 の現行令を指したものである。内田博士の説く如くに正始律令が盲動の 時代まで施行されたと解釈すると此の令制は正始令である。それには孫 紹伝の記事が問題となる。程樹徳の説の如く高祖以後定めた諸令は東魏 まで実施されなかったと解釈すると令制は高祖初期の律令となるが、東 魏元孝友の上表の令制と一致した律令であったとしても、其の間に覚族 百家制の如くに令の部分的な改訂が行れたこととなる。令制の制は基本 的な重要さを持つ語ではない。辞令には令の意義に別個の規定がある。 依公式金三后及皇李行令。︵二一二一五四八頁﹀ とある。三后及び皇太子の発する政令のことを令と言った。魏令には公 式令の如き明確な規定は無いがこれに該当する用例には乏しくない。高 闊伝に太皇太后+八条之令︵魏書五四︶とある。内容は明かでない叢令であ る。高祖の文明太后令は高閥伝にも見えているし其の例に乏しくない。 粛宗の霊太后令も経論の如くその用例は多い。黒鍵太后や霊太后の如き 権力者の政令は絶大な政治力を持つのである。魏書巻十三、皇后列伝、 宣武霊皇后胡氏の条に 及粛呈黙坐、尊后為皇太妃、単組為皇太后、臨朝郵政、猶称殿下、下 令行事、後改令嗣詔。翠臣上書日、陛下自称堅調。 とある。粛宗︵蟄①−呂QQ︶野上で即位と共に霊太后が臨朝聴欧のことは、 粛宗本紀︵魏書巻九︶に見えている。 ﹁半開奏請皇太后、草卒称制﹂と あって、霊太后が摂政して万機を裁決するに至った。 ﹁下灘行事﹂とか ﹁一朝称制﹂とある如くに霊太后の政令が天子の詔勅による政令と同じ 嚢を持つが、令・詔・は明かに区別があった。張慧伝︵魏書巻七八︶に神 亀元年四月、霊太后の父、司徒胡国珍が麗じたので相国太上秦公を追贈 した。諫議大夫張酵母は皇后の父に太上の号を称する例の無いことを挙 げて其の不可を論じた際に﹁皇太后称令以繋勅下﹂とか﹁天子空聾、太 后軍令﹂と論じている。任二王澄が ﹁前代太后亦蕃茄詔﹂と反論して いる。王公重書の卿サ及び五品以上を召集して討議せしめた時の事で あり、 魏書に三后に令とあるは撰者魏収の考え方では無く、 区別のあ った事実に即したものである。 耳漏は霊太后を尊崇してこの事件の翌 神亀二年︵α一り︶には特に弔して令を改めて詔を称せしめている。書志 ︵講燐︶や刑罰志︵桐噌︶には煕平元年から神亀元年にかけて霊太后令の 例が多い。令の内容であるが、臨朝称制であるから各般の政令にわたる は言うまでも無いが刑罰志︵魏書巻百十一︶に煕平中︵盟OI刈︶廷尉卿 装延僑の上言に対して、 霊太后令日、景暉領事恩宥、何下墨加横罪。云々 とし、又、尚書令任城王澄の上奏に対して 尚書令任城王序奏、案諸州中正亦非品、令所載叉無禄笹。一三太后 令準中正。 、 とある。これ等は律令の.規定を臨時の霊太后令で補訂せしめた一例であ る。高祖孝丈帝の時、李下は三長之制を創案して献議した際、 ﹁交明太 后覧尊称善、引見公卿議之﹂どあるし、公卿の討議の結果を裁決したの も文明太后であった。この際、軍鶏太后令との語は無いが実質は文明太 后令によるものである。従って霊太后令による三長制の修定があったと しても令そのものの用例から、又、文明太后の例に徴しても不都合の無 いことである。ただ令制百家の令を直ちに霊太后令と関係せしめて考え 難いことである。令制はどこまでも律令の令と解すべきであづて、三后 の令には、太皇太后令とか文明太后令とかの如くに令の発源者の名を附7 5 9 1 号 6 第 要 紀 大 滋 19 しているのであって、霊太后令と無い限り令制百家の令制は律令の令と 解釈する外は無いであろう。 令制党族百家の令制は律令の令であるとしても霊太后令による修定は あり得る。令制百家の成立を三長制の推移に見て問題を明かにしたい。 魏書巻五三、李沖伝には 沖以三正治民、所由来臨、青身創立三長之制、而上之。 とある。沖の言う﹁三正﹂は町長制以前の制度であるが周礼の比長・閾 晋・族師を指したものか否か明かで無いが、戸長制は周礼に則ったとあ るからそう考える外は無い。孝文帝の時代には三長の用例に乏しくな い。創定のままの三論と解すべきである。世宗の時代には世宗本紀︵魏 騰)
ノ景明二年︵§九旦畿内の夫を徴発して京師三百二+三坊導
いたことを載せている。広藩王嘉︵魏書巻一八︶が上表して ︵嘉表︶ 乞発三正復丁長講活量。錐有暫労、姦盗煽止。詔従量。 とあるし、追入景伝︵農書八八︶にも世如上宋世景が済州刺史に任ぜら れた時に 県史三正及諸細民、到即逸玉、無早晩嘉節。 ﹂ともある。二例ともに三面と言わずして三正とある。此の点に注意して 正始令の特徴と関連して考え合せると、李沖の称した三正と同じく虚礼 の制に復元して修定した結果であるとも考え得る。かかる推定に立つと 元孝友が﹁令制百家立党族。−請依旧置三正之名不改﹂とある三正の 内容とも一連の関係が出来て一致したものに考え得る。従って令制百家 制は世宗正始元年の新令によると言えるのである。内田博士の説とも一 致して問題の解決が可能となる。しかし一には前論の如く正始令が実施 されたと言うことには反証があること、二には次の粛翠霞には士長制の 記録があって三正とは無く、寧ろ三長制の改定を考え得ないからである。 矢張り三正は三長であって、党里隣を意味したものと解釈する外は無 い。三正の乱丁とある鉱夫の制の存在も一審と言える。 次には粛宗朝の例である。三野制の秩序の破壊と関係した史料が多い。 四、粛宗朝三長制の破壊 粛南朝に於ける正長の記録は、魏書巻百十四の聴唖志、巻十九の任三 王澄伝、巻七六の焔魔伝、巻七八の張普藩王、巻八二の霊気伝に見えて いる。これだけでも三長制の存在は否定することは出来ないが、北道政 治の崩壊期に入ることとて三長制には政治の素乱と社会の混乱とがその ままに反映した記事が多い。要するに地方の荒廃を其のままに実証して いる。魏書巻百十四釈老志に、 つ 煕平二年春、霊太后楽日、一私度之僧、皆由三長、罪不及己、容多. 隠濫。自今有一人私度、皆以違旨論。隣長為首、里党各相降︼等。 とある。粛宗煕平二年︵朝ミ︶、霊太后は詔を称することなしに令を称した ことは上述の如くである。此の年の霊太后令によって地方州郡県鎮の度 僧の数を規定し、度僧私度僧に関する規定違犯者の刑罰を定めたのであ る。律令に関する臨時の法律である。三三を尊皇隣と明示したことは三 長制の創定されたままの構成である何よりの証拠と言える。霊太后令は 度僧と私度僧とを限定して其の弊害を改粛することに在るのであって、 党里下に対して族閥比の構成があるとすれば当然に其の地域 畿内の 地域にも一様に論ぜられねばならない内容と言える。全国一様に規定し た法令である点からその構成地域を除外した表現をとることはあり得な いことである。先に世宗景明二年︵切OH︶の三正に復夫の制があり、今、 党里言三長の構成を述べている。盆立制は孝文索出和九年︵幽cQα︶から皇 宗朝に至るまで改制は無かったと言う外は無い。 魏書巻十九、任城南澄伝に澄は戸政改革の十条の意見を上表した。こ の内容は李安民伝︵響に 煕平元年心任城王薄葉請底魚、復選前沢、成一時之盛事、鑑定薬舗茂 典。 とあって、煕平元年︵盟①︶の事とあり、その内容は時人の注目する所の ものであった事がわかり、三尊に関する弊害もあげている。20 (福島) 程 過 立 成 の 制 落 村 斉 北 又奏利国済民、里馬振挙者十条。一日、律度量衡、公私不同、所宜一 之。二日、吟興学校、以明瀦防之法。三日、宜興鞍上絶、各挙所知。 四日、五調之外、 一重煩多、任民之力、不過三日。五日、臨民之官、 皆須予防以族賞罰。六日、逃亡曲事、去来久者、若非伎作、任聴即 住。七日、辺垂逃走、豊実陥没、皆須虹鱒。三囲及近親、若実隠之、 徴其代輸。不隠勿論。八日、工商世業之戸、復徴租調、無以堪済。今 請逸興、使専罪業。九日、三長禁忌、不鰻重越。相領戸不満者、随近 井合。十日、羽林虎責、辺方有事、暫可赴戦、常成宜遣雪見代之。霊 太后下土奏、百寮議之。事有同否。 とある。この上奏拡霊太后の摂政中のことであるが、澄は﹁神亀二年 墓、年五十三﹂とあって上表後三年にして没している。三長に関係した 改革事項は第七条と、第九条である。特に九条に注意せねばならぬ。九 条は三帰の権力の拡大行使を禁止し、戸数不足の場合には其の構成を便 宜縮小井合し得ることを内容としたものである。何れにしても三長制は 破壊しつつあったのである。強力な塾長は隔越して他の構成に権力を行 使する兼併蚕食の傾向が見られるし、構成の戸数は減少して存在が無意 味となり、近接の組織に統合するを便とする傾向に在ったと言える。か かる傾向では、五家・二十五家・百二十五家の整然たる戸数は維持出来 ないから自ら構成戸数に凹凸が出来て、三長制設置の構成は失われてい たのである。尚書令任城王澄の上表であるから全国的な傾向であって、 澄はこれに対応して合法的な便法を立てて自壊する村落制に暫定的な秩 序を立てようとしたものである。これはやがて村落制の再編成と結合す るものであって、旧制の三三制に代って、其の縮小された戸数構成の町 民百家の﹁令制﹂が実現するに至るものと言えるのである。組織の併 合、即ち三惑制縮小の理由となったものは、領戸の不足であるが、其の 理由は何に在るのであろうか。もとより其の原因を任城王澄は明かにし ているわけではないが、政治の棄乱と社会の不安動揺によるものである 事は明かである。澄の上奏した十項目の内容はすべて政治の欠陥を述べ たものであるが、其の原因は明かにしていないとしても欠陥の桶っ一つ が無関係な政治的・機会的現象であるのでは無い。綜合的に関連した政 治的欠陥が進展して北魏政権の崩壊をもたらす結果となるものである が、其の進行過程に於て同時的に表面化した欠陥の種々相であった。従 って此の種々相を関連的に解釈して横長捌自壊の理由をも本質的に理解 し得ると言えるであろう。そこで注意すべき社会的現象は、六条と七条 とに述べてある民の逃亡と代輸と言うことである。民の逃亡には種々の 原因があろうが、澄の上奏に見るものは、五条にあげた臨民之官、即ち 地方官吏の弊政と、四条と八条とに在る政府の農民搾取とが二大原因と して見ることが出来よう。過刻な課調と掛襟とは最も農昆の苦痛となる ものであるが、時に世業の商工業の戸は租調の徴収を受けたが貢納し得 ないのであり、免税を必要とする状態に立ち至っていたのである。之に 加えて宮僚の不正は農工商民の苦悩をより深刻としたのである。特に第 一条に、度量衡の不統一をあげて其の統一の必要を上表しているのはこ れが不正の根源となって、庶民の経済生活を苦しめることの甚しかった が故である。任城王塊茎時で、澄の知遇を受けた諌煙太遅霜普恵︵蹴 燐七︶が上擁して、農民に課した過刻な綿麻の調高祖が周礼に従って 度量衡を改定したが、以後漸く又乱れて百姓の怨嵯は朝野に聞こえると 言う状態となった事⑱、そして其の間にある官吏の不正な行為とを痛論 している。官僚は自らの不正には寛大であるが農民に対しては、 む 若一疋之濫、一斤之悪、則鞭戸主、連三長。 とある。農民の罪は三長に及ぶ連帯責任であったと言う。民の逃亡は自 らあり得ることであり、艦長は自存のために自ら漁網とならざるを得な かった。三長制の破壊は帰する所里民圧迫が重大な原因と言える。此の 張普恵の上疏は神亀元年︵鰹Q。︶と思われ、澄は尚書令であって、澄の上 表と殆ど時を同じくする。普恵は又﹁表論時政得失﹂ともあって、弊政 を論じているが、二日、審法度、平野尺、調租務軽、賦役務省。﹂とあ って、澄が一条に度量衡の統一を述べ、四条に五調⑲の詩話与しないこ
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1 号 6 第 要 紀 大 滋 21 と、径役を三日以内に限る、とした事と全く一致するものがあり、八条 の商工民の租調の場合も同様である。政府の経済的収奪が過重で、深刻 な社会問題を農工商の庶民階級に引き起していた事を知るのである。か くて弊政は逃亡を生み、逃戸者の為の過酷な代輸はこれを負担する残留 民を更らに逃亡せしめる。三長制の組織の破壊はかくして増大し、組織 の整理縮小が緊急の政治問題と化したのが、九条の﹁相領戸不満者、随 近二合﹂とあるもので、臨時の便法を対策として主張したのである。 第二に戸口減少の理由となるものは、村落社会を支配する豪族の蚕食 兼併であると言おねばならない。これに関連して任城塁澄の上奏の九条 に、 ﹁三長禁姦、不得隔越﹂と論じている。此の頃の三長が豪族の独占 となっていた事実は、後にも論及する指墨︵魏書巻八二︶の上表に、 む む 今之三長、皆是長門葦北為之。 と言っている。三長の者にも推移があり弱者は没して三聖は村落祉会の 豪門の独占する所となった。かかる豪族三長がその権力を行使するに当 って隔越してはならない、と言うのであって、この隔越の用例は魏書巻 百十、食貨志に、 ﹁諸一人口分、正従正、倍従陣、不得道越他畔﹂とあ って、一人の所有地が他畔の隔越した地域に及ぶことを禁じた田制の規 定の用例である。自己の支配地域から隔越した他の地域の構成に権力を 行使する、蚕食兼併の越権的不正を禁止せんとしたものである。豪族の 不法な権力の行使は自然に兼併の弊害を生じて戸口を蔭附する。戸籍面 から戸口が減少して公理の収入はこの為めに阻害されるが、豪族の徴敏 はこれに反して甚しい結果となる。かかる蔭附の傾向は魏初以来行れた 豪族間の通弊であった。三長制の制定された理由は此の点に在った。前 述の釈老志の度僧、私度僧は三長の間に行れた変形した脱税の不正行為 を立証するものである。霊太后は度僧の無制限な増大が歩調の無制限な 減少となる点から州郡県鎮にわたって其の数を制限したのである。度 僧に対して私度僧がある。奴碑の私度僧が流行して此の弊害が甚しかっ た。・霊太后は ﹁自今奴碑悉不聴出家﹂ として絶対禁止を令したのであ る。諸王親貴、僧尼なども盛に奴脾の私度を行っていたが、私度僧は 皆目長が原因であったとある。三長は村落の座配者であるが、彼等が 私度僧を作る原因となっていたとあるは興味深い。三長は其の罪が己に 及ばないものであるから多くの隠濫を犯して、多数の私度僧を作ってい たのであった。 これらが問題となるのは、実は課調、町役を免かれる のが目的であって、仏法信仰が真意でない点に在る。こうした弊害は三. 長制を創長した太和十年頃から既に起っている。魏書巻百十四、釈台志. に 太和十年冬有司遊走、前被勅、以勒籍傷心、愚民僥倖、仮称入道、以・ 避寒課。其無籍僧尼、罷遺還俗。 とある。三雲に対する処罰規定が無いままに課調径役を避ける脱法行為. をここに見出して、三長は隠濫を極めたのである。霊太后令として三長. 処罰の政令となった。農村野晒を麦配する総長、或は広く豪彊は色々の 形で村落を蚕食して、国家の基盤を蝕ばんでいたのであった。霊太后の 令制となり、澄の上表に徴しても三長制は改革すべき限度に達していた と言わねばならぬ。煕平二年の詔に﹁豊里不実、早使糾案﹂とあるが、 戸口の不正確さが]般化していた証左である。この詔は、同年次の構成﹂ 戸数の破壊と言う澄の上表とも、三長自身の村落社会を破壊する弊害と も一致したものである。 粛宗朝、北魏の農村社会の乱れは以上によって其の︸端を埋解し得る が、これを振粛する筈の官吏が既に其の人を得ていなかったとある。地 方行政に於て村落を統括する県の持つ意義は重大であるが、三二に直接 する知県たる者に人を得ていなかったと言うのである。北史巻五五、元 丈遙伝に、 斉因魏、宰県多用厩濫。 とあるが、北下の宰県は多く避難の如き卑賎者であったと言うのであ る。此の事は粛宗孝昌二年︵αb。①︶、吏部民中豊雄の上疏に細しい。辛雄 は神亀末から停年制で官吏を任用し、鈴衡に其の人を得ないため地方敢22, (福島) 程 過 立 成 の 制 落 村 斉 北 治の乱れたことと頻繁な行雨の反乱のために一家死亡流離する者十室の 中九の状態で.あることを述べて、かかる地方政治を改革するために底流 県令に人を得なければならないと説く。 蓋助陛下治天下者、惟在直垂、最須簡並並康国道。但郡県選挙、由来 共軽貴游僑ま重器些宜改轟紅痛官。︵魏書巻七七︶ とある。郡守県令が厩役の如き卑賎な出身者であるため門閥俊才の士は 此れ等と比肩する事を恥としたと言うのである。官吏に人を得ないでは 地方政治の安定は難しいが、わけて門閥崇尚の豪族社会に在っては、卑 賎な官吏では地方の重鎮となるは不可能であって、地方豪彊に対する圧 力は殆ど期待し難いのが一般の傾向であったと言えよう。地方豪族は其 の専恣な勢力を維持するために、かえって地望のうすい卑騰な官僚を歓 迎したのが実情であって、北台から北斉にわたって卑賎な新令のbつい たのはここに理由があったと言える。世宗以来、中央政府に内争があっ て地方統制は弱まるが、粛宗末には辛雄の上疏に見る如く地方.政治は極 端に素乱する。其の中間に在るのが任城王澄の上表であって、二条に教. 化や羅宇の法を説き、五条で臨民之官の賞罰を論じたのは地方官僚の粛 正が目的である。官僚や豪族は脚長制の秩序を破壊こそすれ存続する政 治は無かったと言える。任城王澄の三長制に対する対策の理由は明かに していないが、其の十条の上表に指摘した諸弊害は関連して三献制自壊 の理﹁由を理解するに足るものである。 世智正始元年新律令は古制が復活したのであるが、高祖の遺制を守る 勢力によって新令は実施されなかった事を述べた。粛宗初期に霊太后令 制により、任城王澄の上表によって三長制の改正は行れるべき状態に至 っていた。今や高祖孝文帝の遺制はもはや並並の変化に対応し得なくな った。固型化した高祖の遺制の改革を最も強く主張した者が張普恵であ る。其の上表に、
密書ハ纂嚢郵貯有不便於電動鐸︵醜馨
とある。張普恵の上表は、世宗の律令改正以来支持する者の多い一つの 8 政治改革の主張であった。二化恵は魚鋤太夫として最も自由に主張し得 る地位に在ったし、尚書令任城蹟澄とは政治的に表裏一体の関係に在っ た。改革派の中心人物として危機に立つ政治の改革を具体的に主張した のが任二王澄と張普恵の一派であった。霊太后令として、三長制の改定 は祉会的にも政治的にも実現せねばならない時期に至っていたのであっ た。しかし澄の意見が必しも実現したと言えないことは、 霊太后下落翠蓋議之。事高否。︵前出︶ とある。廟議に異論あって実現したとは思われない。其の後三冠制を改 定したとの記録も無い。 神亀こ年︵儲り︶任城王室は没するが、やがて北嶺の政局は混乱︼途に 向う.正光元年︵高慮太后は元叉︵諒羅黎︶や認の一派に北宮に 幽閉されて政治は彼等の破壊するままとなり、局面は急転する。六年の 後、孝昌元年︵認切︶再び三朝称制の地位に復活する。朝政は増々乱れて 太后一派は粛宗を毒殺して三歳の釦を擁立する。外にも反乱相継ぎ、杜 洛周・葛栄・爾朱栄などは其の勢力の強大なものであった。繭朱は君側 の妊を除︽を名として洛陽に入り、百官王公闘士二三余人を虐殺し、は ては太后と幼主とを黄河に沈めたとある。時に武泰元年︵駅boQQ︶である。 政治の混乱祉会の動揺は目に見るものがある。此の間、長長制の改定の 如きはあり得ないが、地方村落の状態は如何であったであろうか? 魏 書巻八二、常景伝に杜洛周の反乱当時の座長の記事がある。 杜温熱反於嬉野。一景表一i頃来窮達、不尽彊壮。今之三瀬、皆是, 豪直立丁為之。今権発為兵。粛宗従之。1最適府録事参定心智成、 発鼎氾陽一二長之丘ハ、 以守白虹門。 とある。杜洛周の反は孝昌元年︵qbo切︶である。この時の曹長は二丁の豪 門が独占していたと言うのである。強者生存であって、地方の混乱と共 に豪族中心の社会と化していたのである。一城王澄の上表に徴しても三・ 長の弊害は増々増[大したものと言える。常並が﹁今之三遍﹂と言ったの は旧制の三遷の対比とも考えられ、磯城竃違の上表の後に改定のあったレ7
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1 号 ハ0一 第 大 紀 要 滋 h23 ことも考えられなくは無いが其の確証は無い。此の時の村落の情況を一。 層明かにしたも.のは、孝昌二年︵切羽。①︶に吏部一中辛雄の上疏した交に在 る。辛雄によると、高祖頃世宗の政治が粛宗に至って乱れて兵乱の起る に杢つたのは、神亀末以来停年制を作って官吏の任用が悪い結果である として、海鞘汚吏は地方政治を乱し農村を破壊しているとして、官吏鈴 衡の立場から時弊を論じている。蓋し官授に人を得ないから百姓は其の 命に堪えないで夷夏となく、相率いて反乱をなすに至ったと言うのであ る。 甲皮穣役不均、臨調違謬、箕敏盈門、 囚執町道、 二聖明詔、寝巻不 遵、画一之法、懸而不用。︵魏書巻七七︶ とある。法令の行れない無政府の農村は強者生存の混乱と化している。 当今天下黙止、久経書賊、父死兄亡、子弟倫陥、流離五苦、,十室而 九。白骨不異孤諜皿財勢尽、無足卒歳。︵同・辛磁場︶ とある。兵乱の結果、一家の死亡分散する者は﹁十室繁昌﹂とある。こ うした風は全困的であって、世宗朝の全張の戸口が激減したこ.とを魏書 巻百六上地形志は次の如くに伝える。 孝昌之際、乱離尤甚。恒代而北、尽為丘櫨、烏鳴已西、煙火断絶。斉 方全趙、死恥乱麻。於是生民耗減、愚将大半。 とある。今、ここに地形志によって人口の動態を多く論証するを要しな い。地方の破壊は一読して面白である。村落の編成と人口の実態とは︼ 体のものである。三長之制が旧状の如く秩序整然としてあるべくも無い が、さりとで北魏政権にはもはや村落の再編を実施して国力の集中をは かる如き統制的政治力は見るべくも無いのである。 五、孝畠以後の三三制 以上の論証の結果、三長之制は高宗・世宗・粛宗の三朝の間は修定は なく永続したものと言う外はない。志田氏が三長制の改定年次を解釈し て、粛宗孝昌以後のこととしたのは、其の理由を明かにしていないが、 根拠のあることは上述の如くである。志田氏は粛宗の孝昌年間以.後とす る理由を次の魏書巻百十一、刑罰志に求めている。 む げ 孝昌已後、天下滑乱、法令不恒、或寛或猛。 とあるをあげる。この法令を律のみの.変改と解釈せずに律令共に時に応. じて変改したものとして、令制党族百家の改制を孝昌以後に想定したの である。志田氏の言う法令の改変が律令の根本法の改.定も臨時に行れた とする解釈は前掲の内田博士や程樹徳氏などの解釈とは相反する説であ る。内田博士の説︵世宗正始律令が東魏まで施行されたとの説︶にも同 調出来ないが、志田氏が﹁法令不恒﹂を解釈して臨時律令改廃の説にも 同調することが出来ない。同条に並記した東魏の侍申孫騰の上言を理解 するなら此の照明かと言える。,孫騰は﹁律令之外、更訂余条﹂とあって 根本法たる律令以外に多くの法令を作って獄訟が多く起つたことを述べ ると共に、一切の厳選を廃して律令を遵奉すべきを論じたのであった。 む む 請諸犯盗之人、悉准律令、以明恒憲、庶使刑殺折衷、不得脚本従末。 詔覇気。︵翻 とある。内田博士の説には承服し難い点もあるが、北魏から東畑にかけ て律令の根本法は動くことなく、それだけでは混乱した社会の秩序が維 持出来なかったから律令以外に臨時の条令を立てたと言われるのは、孫 縢の上言に照らして正しいとせねばならぬ。叉、律のみに関しては世宗 正始律が一貫して根本律であったことは上掲の東魏の楊街商の言う所と も一致しているのである。 律令以外の土定の法令を格と称して、出血脩の絶塵元年︵後、永煕元 年と改めた︶︵軌も◎N︶に新定之格を定めている。 太昌元年五月丁未、又詔日、理有一準、則民無旧観、法啓二門、則吏 多威福。前主為律、後主為令、歴世永久、実用滋章O非所以準的庶 む む む 品、陛防万物。可令執事之官、四晶以上、集於三省、取諸死恥、議定 む 一途。其不可施用者、当局停記。新定之格、冤名旧制相連、壷鐙約 三無焼玉滞。︵魏書巻十︻︶24 (福島) 程 過 立 成 の 制 落
北斉村
とある。 魏書地形志には魏末の人口の記録を次の如くに述べている。 永安末年、胡賊入洛、官司文章、散棄者多。 とあって、永安末︵切Q。O︶言訳栄が洛陽に入城して後の官司の状態である。 地形志の戸口の記録は東魏武定之世︵罐Q。i朝O︶の戸口数である。地形志 には又永安︵紹QQ一算O︶以後、永煕年間︵αωbQlG。蒔︶の縮籍を伝えている。 む 其論陥諸州県、拠永熈翌翌。 とある。先触の割注にも永煕の年号が見えている。孝甲信︵αωbo一窃も◎幽︶ の時に法令の制定があり、戸籍の調査があったとすれば、村落の事実に 徴して再構成が行われ、此の時に三長制の修定があったかも知れない。 律令の根本的な改編と言うこととは別である。 粛宗孝日日元年の常景⋮上表の後、三長の記録は北史劇五五、孫塞伝︵北 斉書巻二四︶に見えている。東三孝聖帝天平三年︵αω①︶高歓の長子高山 は郵都に入って言霊帝を輔佐するが、この時の事として 時大括人為軍士。逃隠者身重主人・部長・守令、罪以大紫、没年家。 於是所獲甚衆。 とある。次に臨潅王孝友の令制党族百家の制である。資治通鑑巻百五十 八には斉の大同八年、東魏孝静帝の興和四年︵qお︶の事件に繋ぐ。孝静 帝の時に実施されているのはこの令制百家の党族制であり、元孝友はこ れが改革を企てたものである。従って孫塞伝の三二も亦同一の内容であ ることは言うまでも無い。元孝友は三長の弊害が徴発皆免・蚕食兼併で ある事を言い、 ﹁断篇為弊久 ﹂と言っているのであり、両者の社会的 弊害の共通であることや党族百家制が久しく存在したと言う事実からも 両者の一致は決して不当な解釈であるのでは無い。 人群は志.田部の説の如くに令制では帥二十五とあって帥と称して三長 とも三正とも称してない事を以て士族百家の令制の特色であると反論す り む む るかも知れない。志田氏は﹁粛宗の初期までは三下の旧名をとどめてい て﹁帥﹂とは言っていないから、帥というようになったのは其の後の事﹂ とし、帥の名称と党族百家の構成の改正とを関連して重視している。陣 し志田氏は孝昌元年の罪質の言う三冬や天平三年の孫塞の言う三郎の﹁用 例に注意されなかった如くである。帥は戸口兵丁の統率者などに附して 一般的に使用されている。一党族百家の構成の首長の一人一人を帥と称 したものであって、一般的な用例と異ることは無い。管長・三正と言え ば三段階構成の村落制の首長を統一的に称したものであると共に、転じ て村落制の構成組織を意味するに至ったのである。かかる意味で三野と 言う用例を見ないのである。党族百家制の特長として帥の語にこだわる ことを要しない。しかし元孝友が 請依翌翌三正之名不改。 とあるのは一応注意しなければならない。旧とは元孝友の改正案である 一族百家、軍閥・一華二比の案に対したものであるから、令制の覚族・ 閻∵比隣の構成と名称を指したものである。従って改革案は族・閥・比. の名称と構成を存置し、此の前提の下に無理な改革案を主張したのであ るが、要するに、旧制は党族百家の令制であり、此れを三正と言い、或 は孫塞伝の如く三長とも言ったのであった。三長或は三正とあることが 直ちに太和九年の三長之制であるとは言えない理由である。 六、結 甑胸口 党族百家の令制が孝一二太和十六年︵癖りbの︶の新令であると解釈するこ とは諸般の条件から否定される。世宗正姶元年︵αO蒔︶の新律令は大規模 な改修であり、古制に則して修正した。この斬修定の令交として成立し た事は考えられ、恐らくそうであったであろう。ただ新令は直ちに実施 されなかったから党族百家制も世話以後の実施と解釈する外は無い。次 の皇宗の史料はこれを実証している。党族百家制の実施が政治的に社会 的に最も熟した時期は神亀年間︵蟄QQ占︶で、尚書令澄と霊太后に期待 する条件に在ったが、俄かな政局の転換と共に否定的であり、其の実現 を立証するものが無い。かくて史料的には粛宗末の孝昌︵α卜。α−bo¶︶以後7 5 9 1 号 6 第 要 紀 大 滋 から東魏孝皇帝の天平三年︵αωO︶以前に其の実施を求めることとなる。 孝武帝の論評年間︵闘GQb◎一蒔︶の緑野と関連して一時期として推定するこ とも出来よう。皇族・閻∵比隣の構成は⑳周礼に軌範を取ること言うま でもない。所謂﹁正始令﹂の古制の内容をなすものと考えることが出来 て最も関連のあるものである。従って党族百家制の新冠の問題は、北魏 から東亜にかけて行れた律令が問題であって、律は世宗正始律であるこ と明かであるが令が不明である。これには前論の如く内田博士の説があ るが、其の所論には反証があって未だ確論と言えない。此の根本問題が 解決されると党族制の修定年次も自ら解決の端緒を得るであろう。 以上の論述から三長之制は北幸政権が崩壊して地方の統制を失うまで 持ちつづけたと言えるのであって、北方民族的特色を自壊するまで、更 改しなかったと言う事は興奮ある点である⑳。 附記 本論稿は昭和三十一年度科学研究費による共同研究の研究集会で発表し た一部である。 ⑬ 魏書巻六九、震爆撃によると、蓑繰・常敷・下墨・主導・侯堅圃.高練. 邪苗・程霊軋・王元亀・祖螢・宋世景・李班之・公孫崇・彰城王事・高陽王 権・京二王愉・劉芳・元麗・李詔・鄭道昭・王都等である。魏書巻六七、崔﹂ 光伝には﹁彰城翠雲以下公卿朝士儒学才冠者三十人議定律令﹂とある。大規 模のものであった。 ⑭史林巻舌九の四号、二八i五二頁。 ⑮東洋史研究十巻の五号 ⑯魏書巻七七、辛雄伝に、高祖孝交皇帝 選三代華墨礼、採二二之典法、 一世宗重光継軌、毎念章修、云々とある。 ⑰清沈家本撰、沈寄縁先生遺書所収。 ⑲ 魏書巻三下、太和十九年条、六月戊午詔改長尺大斗依塾代制度上之天下。 同巻九、粛宗煕平二年正月庚寅、詔中尉元匡考定権衡。 ⑲胡三省註、平調謂調粟・調吊及雑調也とある五調の五は三の誤か。 ⑳党族百家、閻二十家、比隣五家を、次節で論及するコ閥里二十五家説﹂ とするのも此の点から一つの論拠を得る。 ⑳ 東洋学報第二十巻の二号に清水泰次博士の﹁北魏均田考﹂がある。三長制 と均田制の考察に示唆に富む論文である。 25 註 ① 昭和什一年滋賀大学学芸学部紀要第五号、拙著﹁北周村落制放﹂、 史潮第 五九・六〇合併暑、 一〇六頁、拙論。 ② 宋書巻八二、周朗伝、魏書巻七一、斐植伝、日知録巻一三、分居。 ③申略文は、王侯官僚の妻妾を限って風紀の粛正を企てた記事。 ④志田不動麿氏﹁北魏三長制制定年代放略﹂︵歴史学研究三の六︶ ⑤松本善海氏﹁郷保組織を中心としたる唐代の村政﹂︵史学雑誌五三の三︶ ⑥宮崎市定博士著﹁東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会﹂︵二の 三、北魏拓蹟部族文明化の意義︶ 一〇四頁。 ⑦松本氏前掲論文、七冊−六頁。 ⑧仁井田陞博士﹁唐令拾遺﹂八一九頁、二一七頁。 尚、博士の唐代の郷保制度︵歴史学研究穴の十︶を参照。 ⑨松本氏前掲論文、七六頁。 ⑩世界歴史事典、巻二十、郷保制度の項目。 ⑪志田不動麿氏﹁北朝時代の郷党制﹂︵史潮五の二︶八−九頁。志田氏の唐代 郷党制の研究︵社会経済史学五の十一︶を参照。 ⑫﹁資治通鑑﹂巻百三十八、永明十一年の条。