彦
根 回
オロ 力し ヽ 彦根 は私 に とって青春 の対描である。若 き青年講師 として着任のため彦根駅 に降 り立 ったのは,昭 和28年 4月 初めのことであった。私 は28オ,結 婚 して 1 年 目の妻 とともに,大学差 し回 しの車 で桜花爛漫の花の トンネル を くぐって学 合 に到着 した 日の こ とはい まだに鮮烈な記憶 として脳裏に蘇 って くる。 多 くの 方々の御厚意によって与えられたこの場所 で,今 こそ研究の基礎 を回めなけれ ばならない と覚悟 して,少 なか らず緊張 を覚 えた ものである。当時の学部には 大学院 を出て間 もない私 に とって,雲 の上の存在 であった鈴々たる教授 たちが きら星の ご とく居並 び,学 界で重 きをなす業績 を次々 と世に問 うてお られたか らである。専 門の分野では 日本経済史の江頭恒治教授や西洋経済史の白杉庄一 郎教授がお られた。江頭教授はつ とに 『高野山寺領荘 園の研究』や 『日本荘園 経済史論』等の著書によって,経 済学畑では数少 ない荘園史の研究者 として知 られ,京 都大学の本庄栄治郎氏の指導 を受け られた実証主義 を堅持 して,そ の 立場 で経済史学の方法論 に関す る本庄 ・土屋 (喬雄)論 争に参加 された。一方 では作 田荘一氏の影響 を強 く受けて,意 志経済 と自然経済の理論による経済史 学の体系化 を試み 『経済史原論』 を公けにされた。 その後私がかな り長い期間 大学で講ず ることになった経済史概論の基本的発想の一つの柱 はこの著書に負 うところが大 であった。 白杉教授は本来経済学史 ・思想史 を専 門 となさってお られたが,そ れ らの分野 と密接 な関係においてイギ リス近代経済史に も造詣が 深 く,私 ども経済史専攻者に とっては,関 西大学の矢 口孝次郎氏 とともに大塚 史学批判の一方の雄 として活躍 してお られた とい う印象がつ よい。 この白杉教 授がそれ まで担 当 してお られた西洋経済史の授業 を,私 が引 き継 ぐ羽 目になっ たのであるか ら, 日夜身の細 る思いでその方面の勉強に多 くの時間 を費や した 丸 敏 田 原8 第 300号発刊記念 (第301号) ものである。お まけに もう一つの授業科 目が外国経済書講読 (英語)で あった か ら, 日本経済史専攻 で 日本の古文書の収集 と解読に多 くの労力 を割かなけれ ばならない立場 にあった当時の私 に とってはかな り苛酷な毎 日であった。 しか しこの時期 の苦心は有 り難いことに後になって大 きく報われ ることとなった。 後に 自分 な りの一般経済史 を組み立てた り,英 国ケンブ リッジ大学に留学 した 時に どれだけ役立 ったことか計 りしれない。 まさに 「若 い時の苦労は買 ってで もせ よ」 とい うのは この ことか と実感 した ものである。 もともと私 は史料館要員 として必要 とされたらしく,授 業のかたわら創設間 もない史料館の仕事 に携わることとなった。私が史料館事業に関与 した経緯に つ いては,別 の ところで述べている(『史料館研究紀要』)ので,こ こでは省 くこ とにす るが,史 料館の史料収集のために毎週 1回 か ら 2回 の割合 で滋賀県下の 史料調査 に歩 きまわっている間に,神 崎郡五個荘町の村々に割山 (入会 山の分 割利用形態)に 関す る史料が豊富に残 されているのに気付 いた。 これがその後 次第に範囲 を拡げて,全 国的に割 山の史料 を求めて行脚 し,入 会制度の解体過 程,言い換 えれば林野におけ る私的土地所有の成立過程 を追究す る契機 となっ た。 また豊富な村々の近世史料 を次々 と見ている間に,近 世の村落には封建的 支配の論理 のほかに,村 には村 自体の生活論理 とい うものがあることを知 り, この両者の対立 と調和の中に江戸期 の農民が生 きていた と考 えるようになった。 そ して特にそれ まで研究が不十分 であると私が感 じた後者,す なわち村 自体 の 生活論理 を明 らかにす るこ とに関心 を抱 くこととなった。何れに して もささや か ではあるが,私 の研究の上台は彦根 に勤務 させ て頂いたお蔭で築 くことがで きた といって も過言ではない。 この点で も私 は20代の末か ら40代の半ば まで と い う人生で最 も大切 な時期 によ くぞ彦根で過 ごさせて頂いたもの と嬉 しく,ほっ ている。 大学 自体 も専 門学校力│ら昇格 して新制大学になったばか りで,清 新の気が渡 っているように感 じられた。同種 の大学すなわち経済学部 と教育学部 とか ら成 る大学が全国の旧高等商業学校 の所在地に多数 で きていたが,お 互いにその特 色 を競 vヽ,大 学 としての内容充実 に努めていた。誕生 したばか りの初々 しい雰
彦根回想 9 囲気の中で,何 事 もこれか ら創造 してい くのだ とい う元気にみちあふれた時期 であったように思 う。 それぞれの学科 ごとに個性的な学風 を具 えた教授 たちが 論陣 を張 り,学 問的に頗 る活気があったことは,機 関誌 『彦根論叢』が他 に先 駆けて月刊 で発行 されたことによって もうなづ け よう。教授 たちはまた学生の 教育 ・指導に も熱心で,旧 制の大学で比較的 自由放任の教育 を受けて きた私等 か ら見れば,懇 切丁寧な厚生 ・補導の体制が とられていたように思 う。私 も大 学紛争の時期 にかけて補導委員の任 にあたっていたが,時 には構 いす ぎて,紛 争の種 になったこ ともあるようだ。 こ うした大学の在 り方に対 して学生の反応 も活発 であった。私が関与 した範囲では学生の掲示物に関す る許可制や学 内生 協の管理 をめ ぐる学生 とのや りとりには,随 分疲労 と困惑 を感 じたが,今 に し て思 えば当時の学生が持 っていた熱気には懐か しさを感 じさせ るものがある。 私が若 くて気安かったせ い もあったのか,講 義 中または講義後に質問す る者 も 多 く, と くに江頭ゼ ミや私のゼ ミの学生は当時私が居住 していた陵水会館 に し ょっちゅう訪ねて来ては,長 談義 を重ね る者がいた。江頭ゼ ミには私 も毎時間 陪席 していたが,卒 論作成の手伝 いをした り,江 頭先生はこわいか ら, これ を 渡 しておいて くれ とメッセンジャー ボー イの役割 をさせ られ ることもあった。 わがゼ ミ生の ご ときは授業の空 き時間つぶ しにだべ りに来 る者 もいて, 自分の 研究確立に汲々 としていた当時の私 に とってはいささか迷惑に感 じたことなき に しも非ずであった。 しか し真剣に勉強のことや人生観 。世界観 を論 じて,率 直に疑間 をぶ っつけて くる者が 多 く,講 師か ら助教授時代の私 に とって,大 変 手応 えのあ る学生 との関わ りであった。 なに しろこじん まりとした街 に建つ こ じん ま りとした大学の ことであるか ら, 自転車 ・下駄履 きで昼 といわず夜 とい わず,ひ ょっこ り気楽 にや って くるとい うあの雰囲気は大都市のマ ンモス大学 にはない貴重な ものであった。阪神大震災に際 して も私の身辺 を一番気遣 って れたのは,滋 賀大学の卒業生であったの も,お そらくこのような家庭的な教官 と学生の間柄の中で,お 互 いの青春時代 をお くったせ いではなかったか と,今 感謝の気持 ちで当時 を振 り返 っている。 私が当初住 んでいたのは陵水会館 であった。昭和28年着任当時,江 頭学部長
10 第 300号発刊記念 (第301号) の もとで学務委員 を務めてお られた森順次教授の御配慮で,宿 直室 を生活の場 とし,玄 関に向かって左側の‐室 を書斎兼研究室 として使用 させ て頂 くことと なった。初めはそれ程長居 をす るつ もりではなか ったが,何 時の間にか13年間 もここに住み続け るこ とになった。余程居心地が よか ったのであろ うか。私の 知 らぬ ところで饗盛 を買 っていたか もしれないが,裏 庭 (西側)の 偲聖寮食堂 か ら見 えるところに 2坪 程の荒地 を開墾 して,隠 元豆や トマ トを栽培 し,そ の 横 にスバル とい う玩具 のような軽 自動車 をとめていた。な りは小 さ くて可愛い 車 であったが,私 の史料調査 にはフルに活動 して くれた。宿直代 わ りに もなる か らと言って くれ る方 もあ り,そ れ をよいことに して,つ い居座 って しまった。 迷惑 された方々には今更 なが らではあるが,お 詫びをしたい気持 である。当時 陵水会館 には陵水会の事務室があ り,福 田さん とい う,か つて戦時中に配属 将 校 であった方が陵水会専属 で事務 をとってお られ,私 たちもお世話になった。 学生が下履 きで館 内に立入 り,油 をひいた廊下に足跡 をつけ ると,厳 しく叱っ てお られたのが印象に残 っている。 ここでの暮 らしは前に述べ た通 り,学 生 と の コ ミュニケー ションには絶好であったが,彦 根 に住みなが ら街の人々 とのお 付 き合 いはほ とん どない隔絶 した生活であった。 この後金亀町の官合に移 った が,そ こで も官合住 まいの先生や その御家族の方々にお付 き合 いの範囲は限 ら れていた。 しか しそれで も陵水会館 を出てす ぐ右手は大学の裏 門になっていて, 門を出て左 に とればす ぐ三叉路があって,右 手の角 に学生が よ くいった食堂が あ り,そ の手前には実直 な表具屋 さんが住 んでいて,史 料館 の古文書の裏打で 大変お世話になった。裏 門界隈の雰囲気はいまだに懐か しい。 まこ とに彦根 は山あ り,川 あ り,湖 あ り, 自然に恵 まれた,静 かな城下町で あった。今 は どうなっているのだろ うか。 ときたま訪ね る機会 はあるのだが, かつての静かで澄んだ街 の空気が どうなっているか まで感 じとる暇 もな く彦根 を後にす る時が きて しまうのがなん として も残念である。今年は最後に勤めた 私立大学 も退職 したので,久 し振 りにゆっ くり訪ねて,今 は亡 き先生がたや, 今 は実業の世 界の第一線 で活躍 している卒業生諸君の若 き日の夢の跡 を偲ぶ と ともに,彦 根 に残 された古 き良 き時代の名残 を探 ってみたい と思 っている。