• 検索結果がありません。

カロッサのジーベンビュルゲン体験について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "カロッサのジーベンビュルゲン体験について"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

士 日 孝 子 金 は じ め に カロ ッサは1928年2月 29日,の ちに彼 の三度 目の妻 となるヘー トヴィヒ ・ケ ルバ ーに宛てて次の ように書いている。 ジーベ ンビュルゲ ンーー ルーマニアーー ヘの旅 に私 の心 はおおいにそそ ら れてい ます。 この奇跡の ように素晴 らしい土地 を知 らない人には,ぜ ひ一度

訪ねてみることを私は勧めます告

「ジーベ ンビュルゲ ン」Siebenburgenとは,〈 トランシルヴァニア〉地方 を 指す ドイツ語名である。同地方は,ル ーマニアの北西部に位置 し,東 カルパティ ア山脈 と南 カルパテ ィア山脈 に囲まれるように して広がる丘陵地である。 ト ラ ンシルヴァニアは,第 一次世界大戦後 トリアノン条約によってルーマエア領 と なったが,そ れまではず っと永い間ハ ンガリーの領土であった。そこにはハ ン ガ リー人,ル ーマニア人, ドイツ人などが混住 してお り,そ れゆえその地の都 市や村 には三カ国語の名前がつけられていることがある (因みに トランシルヴァ ニ アは,ハ ンガリー語ではエルデーイ Erd61y,ル ーマエア語ではアルデアル Ardealと 呼ばれる)。 カロ ッサは第一次大戦 に軍医 として従軍 した。彼が所属 した連隊は,最 初は 1)Hans CarOssa:Briefe Ⅱ 1919-1936.Herausgegeben von Eva Kampmann― Carossa.

(2)

F r 58 彦 根論叢 第 320号 北 フランスの西部戦線 に送 られたが,1916年 秋以降 しばらくの問,ジ ーベ ンビュ ルゲ ンの地 に,ル ニマニア軍やロシア軍 と戦 うために投入 された。雪が舞 う厳 寒のなかでの山岳戦は,す でに40歳近いカロッサにとって肉体的には大変辛かっ た ようだが,こ の地 との出会い,そ してそこでの様 々な体験 は彼 にとって重要 な意味 をもつ ものだったようで,困 難な境遇 にあ りなが ら,作 家 としての彼 は この時期かえつて普段以上 に生産的だった。すなわち,ジ ーベ ンビュルゲンに おいてカロ ッサは,の ちに彼の代表作のひとつ となる 『ルーマニア日記』の草 稿 を 日々書 きため,ま た 自伝 的作 品 『幼年時代』の執筆 を大幅 に進捗 させ, 「聖者の手の上の町」 を初め とする重要な詩編 もい くつか生み出す ことがで き たのである。 冒頭 に引用 した手紙の前後 を読 む と,当 時 カロッサは創作活動 に行 き詰 ま り を感 じていたことがわかる。そ してその行 き詰 まりを打開するために,彼 はジー ベ ンビュルゲ ンヘの旅 を思いついたのである。あたか も,そ の地へ行けば再び 創作力が湧いて くるとで も考 えているかの ように。それは,な によりも,本 稿 で明 らかにされるようにカロッサにとってジーベ ンビュルゲ ンが彼のそれまで の生涯 において特別 に重要な意味 をもつ土地だったか らである。そ してカロッ サはその地で,彼 の人生 におけるひとつの頂点 に達 したのであ り,ま た作家 と して一段 と高い次元への飛躍 を遂げることもで きたのだった。 本稿 では,カ ロ ッサの生涯 にとって特別 な意味 を担 うジーベ ンビュルゲ ンと の出会い,ま たそこでの様 々な重要な体験の諸相 について,第 一次大戦中に綴 られた彼 の 日記,あ るいはそれが基 となって生 まれた小説 『ルーマニア日記』, さらにはこの時期 に書かれた彼の書簡などを手掛か りに して調査 ・検討 し,そ の地がカロッサ にとってなぜ重要な意味 をもつ ことになったかを考察 してみる ことに したい。 工 荘 厳 なる山岳風景 ジーベ ンビュルゲ ンは,2000メ ー トルを越す急唆な出がい くつ も奪 えるカル パテイア山脈 に囲機 された広大な高原地帯である。カロッサの 日記には,1916

(3)

年秋 , カ ロ ッサ の部 隊が乗 った列車 がハ ンガ リーの大平原 を通過 したあ と, し だい に行 く手 にカルパ テ ィアの前衛 の山並 みが追 つて きた様子 が次 の ように記 され てい る。 i [1916年]10月 19日 眼 を覚 ま した とき最初 に私 の眼 に入 って きたのは,玉 蜀黍畑 の広 が る平原 だ ったが,そ の周 囲 に,い まようや く,紫 色 に染 まった山々が迫 って きてい た。… … 9 時 4 5 分,テ ヴイシュ。…… あいか わ らず玉蜀黍畑 が広 が り,と きお り, 村 が ひ とつ,ぼ つ ん とあ るのが見 える。青 々 と した山並 み,た まに,雪 に少 し覆 われた遠 くの 山の頂 きが眺め られ る。…… …… ・私 たちはパ ライ ドに到着 した。木が生 えていない山々 と,広 葉樹 に 覆 われた山々 とに囲 まれた村 だった。それ らの山並 みのあいだに,新 雪 を被 っ の た 山頂 が い くつ か望 まれ た 。 (TBI,S.226-227) パ ライ ドは, トランシルヴァニア地方の中核都市のひとつマロシュ ・ヴァー シャールヘイ ( これはハ ンガリー語名であ り, ル ーマニア語名は トゥルグ ・ム レシュ, ドイッ語名 はノイマルク トとい う) か ら東 に4 0 キロほどいった ところ にある村である。 この村の北東 には, メ ゼーハバ シュ山 ( 1 7 7 6 メー トル)を 最 高峰 とす るゲルゲーニ山地が運 なってお り, パ ライ ドでカロッサが限に したの はそれに属する山々だった と推察 される。 さて同 日の 日記 は, そ れに続いて, 戦 時 ならではの痛 ましい光景 にカロ ッサ が出会 つたことが記録 されている。 オース トリア軍の担架兵たちがやつて きた。彼 らは, 毛 布 に包 まれた人間 を担架 に乗せて慎重 に運 んで きた。ひとりの担架兵が, 同 じように毛布で く

2)カ ロ ッサの 日記か らの引用 は,Hans Carossa:Tagebdcher 1910-1918。(I.Bd.) Herausgegeben von Eva Kampmann―Carossa.Frankfurt a.M.1986[以下,引 用文の末 尾 にTBIと 略記]に 拠 る。

(4)

60 彦 根論叢 第 320号 る まれた子供 を片腕 に抱 いて,最 後尾 を歩 いていた。私 たちは何 が あ ったか 尋 ね, そ して恐 ろ しい不幸 が起 こった こ とを知 った。あ る避難民 の家族 が料 理 を しようとして,あ る場所で火 を焚 くと,そ こには火薬の入 つた手欄弾が 置かれていた とい うのだ。爆発 のせいで,母 親 と子供 ひとりが死亡 し,家 族 の他の者たちは重傷 を負 った。 (TBI,S,227) パ ライ ドでカロッサが出会った悲惨 な事件は実際は以上の通 りだったのだが, この ときの体験 は作品 『ルーマエア日記』では,次 の ようにかな り詩的脚色が 施 されて語 られる。 (この箇所 は作品の前半のクライマ ックスのひとつ をなす ものなので,少 々長 くなるが,ご く一部 を省略す るだけで,そ のまま引用 して お く。) オース トリアの担架兵が こちらに向かってやって くるのが見 えた。覆われた 三つの小 さな人体 を担架 にのせて慎重 に運んで くる。それは避難民家族の子 供 たちで,遊 んでいるときに実包の手相弾 を見つけ,そ れの取 り合いをして いるうちに紐 を引 き抜いて しまったのだ。この爆発で,ち ょうど料理のため の火 をつけようとしていた母親が死 に,三 人の子供 は重傷 を負 った。ジーベ ンビュルゲ ン ・ザクセ ン人の祖母は,泣 きなが らこの無言の行列のあ とにつ いてい く。……。その とき突然,太 陽が雲のなかか ら姿 を現 し,高 い山を皓 々 と照 らし出 したので,み んな眼 を見張った。山の麓は岩石が点在する淡緑 色 の牧場で,そ の上 には,入 念 に巻 きつけたかのように,モ ミの生えた細い 地帯がつづ き,そ のなかか ら,雪 を被 って輝 くピラミッ ド型の山頂の偉容が, 青空 に変わ りつつある薄曇 りの空 に奪 えていた。だれ もが この荘厳 な光景 に 心 を奪 われた。あの老婆 さえ黙 つて しまった。そ して私 は といえば一― 私 は,そ の とき,肉 片の飛 び散 った子供 たちの悲惨 な姿がいっぺ んに私の念頭 か ら消 え去 って しまった と白状 して もよい ものだろうか。この悲惨事 も,時 の もたらす大半の出来事 と同 じく,偶 然 に,ま た単 に周縁で起 こった ものに す ぎないかの ように,こ の壮麗 な眺めのなかに溶け去 って しまったこと,一

(5)

方 ,か なた には,昔 か ら私 たちの苦悩 と恐怖 のい っ さい を引 き受 けて きてい る神 秘 な掟 が,霊 たちに守 られ,厳 然 と して作用 してい る と感 じた こ とを自 動 状 して もよいのだろ うか。 (SWI,S.407) 避難民の母親の死や子供 たちの痛 ま しい重傷 は確かに悲 しいことである。 し か しカロ ッサは,「かなたに」舎 える 「雪 を被 って輝 く」「山頂」 を限に した と き,そ の悲 しみ さえ忘れ去 って しまった と,遠 慮がちなが らも告 白す る。「太 陽」の光 を浴びて燦然 と輝 く純 自の頂 きは,こ こでは 〈神的なもの〉の象徴で ある。かなたに屹立す る高山の峰は,永 遠的 ・絶対的な く神 〉の住 まう世界 と い って よいのであ り,そ こは 「神秘 な掟」,生 と死 についての奥深 い法則 が 「厳然 と」支配す る領域 なのである。それは人間に,大 きな恐怖 を引 き起 こす と同時 に,深 い畏敬の念 をも起 こさせ る。地上の人間界の悲劇 も,永 遠で崇高 な く神 的な もの 〉の世界 の顕現 を前 に した ときには,「単 に周縁」的な出来事 と言わざるをえない。それほ ど,遥 かな高みにある厳唆 なる世界は,日 常の世 界 または 日常の時間のなかで起 こるあ らゆる出来事の上 に超然 として存在 して いるのである。 (これは誤解 を受 けかねない発言であるためにカロッサは少々 憚 った言い方 をしているのであるが,彼 が別 に避難民家族の不幸 を軽視 してい るわけではないことは押 さえておかねばならない。この告 白は,そ れまで医師 と して,死 にゆ く者 たちを数多 く見つめて きたカロ ッサが到達 した,個 人の く死 〉と永遠 なる く生命 〉との関係 についての深い洞察 として受け とるべ きな のである。) ジーベ ンビュルゲ ンの高山を巡 るカロ ッサの体験 に関 しては,『ルーマエア 日記』のなかに, もうひとつ忘れてはならない箇所がある。12月12日付の 日記 に見 られる文章である。この 日カロッサの運隊は,ジ メシュ地方最東端の町パ ラー ンカ (ハンガリー とルーマニアの旧国境近 くを流れる トロ トゥシュ川沿い にある町)を 出発 し,そ こか ら南々西の方角 に位置するコーシュテレク村 まで,

3 ) カ ロッサの 「ルーマニア日記』からの引用は,Hans Carossat Samtliche werke.I.Bd. F r a n k f u r t a . M , 1 9 6 2 [ 以下 S W I と 略記] に 拠る。

(6)

62 彦 根論叢 第 320号 谷 に沿 い,列 をな して行軍 してい つたのだが,カ ロ ッサ はその途 中の情景 を次 のように描写 している。 前方に,草 木の生えていない岩壁がそそ り立っているのが見え,そ こでは道 が斜め上方に出がっていた。最後尾 を歩 く私たちがずっと下のひんや りとし た日陰のなかをまだ歩いているとき,先 頭の部隊はもう私たちの頭上高 く, 橙色に近い赤色に照 らされてぃる岩山をのぼって,そ のうしろに姿を消 して い くのが見えた。残照を受けてひときわ明るく輝 く岩山から,背 後の未知の 世界のなかへ踏み込んでい く灰色の人間たちの,従 順で途切れることのない 行列は,い つまでも私たちの視線をとらえて離さなかった。やがて自分たち もあの明るく照 らし出された高い山道に行けるのだと思 うと,み ん、な嬉 しく なり,坂 道をのぼる辛さを忘れた。(SWI,S.485-486) 高山の頂 きは,地 上にあるものとしては,太 陽の光を,夜 が明けたときには 真っ先に浴び,昼 間はその日射 しを最 も強 く受けつづけ,そ して夕暮れ時には 長 く残照を引 きとめて一番最後まで明るく輝 く場所である。すなわち,高 く姿 えたつ 「山」は,大 地の上にあるもののなかで太陽に一番近いところに位置 し, 最 も長いあいだ 〈光〉を浴びつづける特権的な存在なのである。〈光〉は,な によりもまず く神 〉の象徴である。カロッサにとって高山とは,普 段地上の低 い場所で生活せざるをえない人間よりも,永 遠なる 〈神 〉が住む天上に遥かに 近いところに位置 している特別な被造物なのである。この日記に書かれている 「山」の 「背後」,あ るいは 「山」のかなたの天の領域は,神 々 しい く光 〉が つねに明るく降 りそそいでいる空間なのであり,カ ロッサは自分 も早 くそのな かへ入つていき,神 々しい く光〉に包まれることを願 うのである。 カロッサは,ち ょうど同 じ時期の1916年晩秋に,「到達 しえぬと思われた山 頂」 という行で始まる 「山」 を主題にした詩をほぼ完成 させている。この詩に ついてはすでに別稿で詳細な解釈をおこなっている小,本 論文 との関連でいま 4)拙 稿 「カロッサの詩 「到達 しえぬ と思われた山頂…』について」(「彦根論叢」第316号/

(7)

その 内容 を簡単 に ま とめ るな ら,そ の詩 において 「山」 は,ま ず第一 には,彼 の行 く手 に立 ちはだか る,克 服せ ねばな らない困難 な障害 の象徴 と して登場 し てきたといえる。 しか し同時に,そ の詩でも 「山」はやはり太陽の光を最 も強 く浴びる場所 としてとらえられ,神 の世界に最 も近 く位置 し,そ して世界の根 源的な秘密までが啓示 されるポジティヴな空間とも見なされていた。そこでは 「山」は,困 難な障害を表す ものであ りなが ら,光 に満ちた神々しい領域でも あるという意味で,両 義的な象徴 として扱われていたということができるので ある。 高い 「山」はカロッサの文学活動の初期からすでに,深 い意味が込められて 頻繁に登場する詩的モテイー フのひとつだった。たとえば,彼 が公表 した詩の なかでは最 も早い時期 (1898年)に 成立 した詩 「神秘の星」で も,冒 頭から 「高い山並み」が登場する。 目覚め よ 恋 人 よ ! 聞 いてお くれ 私 の夢 を一― 私 は あ る高い山並 みの前 に 君 と立 うていた 切 りたった原始の岩壁か らなる巨大 な山々の前 に。 ひとつの小径が通 じていた 大 きく裂 けた暗黒の峡谷へ と。 すみやかに夜がお とずれた。 最 も高い峰々だけが な お も赫 らんで窒 えていた。 小径の脇か ら遠 くの方へ と 恐 ろ しい深淵が 岡J強な岩あごを開けひろげていた。…… 5 ) ( C G , S . 4 0 ) この詩では,人 間が普段暮 らす場所は,太 陽の光があまり射 し込んでこない 暗い 「峡谷」であ り, 「恐ろしい深淵」であるのに対 し, そ の遥か上方に唆険 に釜える 「高い峰々」は, す でに低い谷底では暗 くなっている時間にもなお太 \1998年,所 収)参 照。

5)カ ロ ッサの詩作 品か らの引用 は,Hans Carossa:Gedichte.Die Verbffentlichungen zu Lebzeiten und Gedichte aus dern Nachia恩. Herausgegeben und ko■llnentiert von E v a K a m p m a n n ―C a r o s s a . F r a n k f u r t a c M . u n d L e i p z i g 1 9 9 5 [ 以下 C G と 略記] に 拠 る。

(8)

6 4 彦 根論叢 第 3 2 0 号

陽の光を受けて 「

赫々」と輝きつづけているとうたわれている。ここには,カ

ロッサにとって 「山」と 「

谷」というふたつの詩的象徴が対脈的な意味をもつ

こ とが はつ き りと示 されてい る古暗い谷底 の人 間界 と明 るい光 を浴 びつづ ける 山頂 の世界 との対 比 は,カ ロ ッサ文学 の ライ ト ・モテ ィー フの ひ とつ なのであ る。 同様 の対比 は,そ のほかに も,「山々の峰が赫 らむ」 とい う出だ しか ら始 ま り,「遥か高 くの 火 に溢 れる山頂か ら,/私 の頭上 遥 かな ところか ら,最 初の鋭 い 日射 しが/谷 のなかへ と笑い裂 ける……」 とい う詩行 をもつ 「朝の道 行 き」 において も見 ることがで きる。 (CG,S,37-39) 生涯 にわたって く光 〉を憧 れ求めた詩人 カロ ッサ に とって,高 い 「山」 は 〈光 〉を,最 も多 く,ま た強 く,純 粋 に浴びている場所であった。むろん,山 の上 に浮かぶ 〈雲 〉や,高 山の大空 を自由に飛翔する鷲などの く鳥 〉たちも, 太陽の光 に近づ くことので きるもの として,カ ロッサの場合,神 聖なる領域 に 存在す る被造物の象徴 となっている。 しか し,人 間 と同 じく大地に足 を縛 りつ けられた存在であ りなが ら,そ れで も大地の底か らすっ くと舎えたつ高い 「山」 は,最 初か ら空中に浮遊 している 〈雲 〉や く鳥 〉とは違 った意味で,カ ロッサ にとって特別 に重要な詩的象徴 なのである。 カロ ッサが生涯のほとんどを過 ごしたバイエルン地方は,ヨ Tロ ッパ ・アル プスに近 く,ア ルプスの高い峰々は,バ イエルンの他の山地 ともども,彼 にとっ ては 日頃か ら親 しく,身 近 にある ものだった。 またそれ らの山々は,〈光 〉と の関係 か ら,彼 にとってつねに強い憧憬の対象で もあ り,彼 の詩の最 も大切な モテ ィーフで もあった。ジーベ ンビュルゲ ンヘやって きたカロッサは,故 郷の アルプスの山々 と似 た荘厳 な雰囲気 を もつ同地の山岳風景 を眼 に して驚いた

1916年

10月29日付の彼の日記には,「この地方の風景はオーバーバイエルン

地方を想い起こさせる」(TBI,S.234)と 記されている〕。 自 分の故郷の

出々によく似た,峻 厳で,崇 高さを漂わせる山岳風景に出会ったカロッサは,

なつかしさや嬉 しさを覚えたことだろう。しかし,そ れ以上に,戦 争という絶

望に陥りがちな暗鬱とした状況のなかにあって, ときおり眺められたジーベン

(9)

ビュルゲ ンの純 白にまぶ しく輝 く山々の頂 きは, 彼 に, 陰 惨 な戦争 とは対極の 世界, す なわち神 々 しい く光 〉の世界が永遠 に存在 していることをつねに想起 させて くれる ものだったのである。 のちにカロッサは, ジ ーベ ンビュルゲ ンの高い山々をただ遠 くか ら畏れ と憧 れ をもって眺めているだけでな く, 前 線 に赴 くために非常 に辛い思いをしてそ れらの上に登 らねばならないこともあった。その点では,「出」はカロッサに とって彼の前に立ちはだかる困難 さを暗示するものでもあった。だが,そ の困 難さを越えたところには,す なわち,高 い山々のかなたには,彼 が″いから希求 していた く光 〉に満ちた世界があつたのであ り,「出」は彼 にとって最終的に は明るい希望を象徴するものにほかならなかった。カロッサの日記や作品 『ルー マエア日記』に数多 く見出される高い 「出」への言及は,以 上のような視点か ら,彼 の文学世界を構成する最 も重要な詩的形象のひとつとして改めて留意さ れる必要があるといえよう。 田 彫 刻が施 された門 ジーベ ンビュルゲ ン地方は,フ ォークロアの宝庫である。そこは地勢的に閉 ざされた場所 に位置 していたため,ご く最近 まで,非 常 に古い伝統文化,ま た 独特 な風俗習慣が豊富 に残 っていた。カロッサ も,ジ ーベ ンビュルゲ ンに行 っ た とき,そ の地の さまざまな伝統文化 に大いに興味 をそそ られたらしく,日 記 において も 『ルーマエア日記』中で も繰 り返 し,そ の地で出会った独 自のフォー クロアの素晴 らしさを話題 に している。女性 たちが丹誠 こめて刺繍 した美 しい 布地,住 民 たちの華麗 な衣装,家 の壁 に飾 られた きれいに色塗 られた皿など, カロッサはそれ らの見事 さにそのつ ど驚 き感心 している。 しか し,ジ ーベ ンビュ ルゲ ンで出会 ったフォークロアのなかで彼 にとって最 も印象深かったのは,同 地の家々の前 に建つ立派 な 「門」 だつた。いわゆる くセーケイの門〉と呼ばれ る ものである。カロッサは1916年10月22日,パ ライ ドか ら南 々東へ30キロほど 離れているセ ン トレー レク村 (ルーマニア語名はビセ リカニ)へ 向かって行軍 す るさい,通 過す る村 々の家の前 に建 っている豪華 な門に限 を見張る。当 日の

(10)

66 彦 根論叢 第 320号 彼 の 日記 には,こ う書 き留め られている。 どの村の家々 も,作 りが優美だ。 まず,中 庭へ入るための低い門か らして, それ 自体が,小 さなこば板で葺いた屋根 をもつ建物 になっている。屋根のす ぐ下 には丸い穴がい くつか開いていて,屋 根全体が鳩小屋 として使 われてい ることがわかる。その両端 には小 さな円錐形の浮 き彫 りがあ り,そ の上には 半月の形 も彫 り出 されていた。 (TBI,S.228-229) 翌朝セ ン トレー レク村 を出発 し,地 方都市セーケイ ・ウ ドヴァルヘイ (ルー マニア語名オ ドルヘイウ ・セクイエスク)を 通 り過 ぎ,オ ル トエルヴェに向か う途上で,カ ロッサはふたたび立派な門を見かける。以下は,110月23日の 日記 中の一節。 私 たちはまた も例の門を見 た。枠の部分 は,ア ラベスク模様や文字が実 に美 しく浮 き彫 りされ,色 塗 られていた。 また扉の上 には,優 美な格子がついて いた。彩色 された唐革模様のなかに,白 い蝋燭が立てられた青い燭台がふた つ刻 まれていた。(TBI,S.230) 細 かい彫刻が施 され,美 しく彩色 された木製の問は, トランシルヴァニアを 代表する注 目すべ き伝統遺産のひとつ といってよい。その地の住民 は,自 分の 屋敷の入 日の門を,多 くの金 と手間をかけ,で きるだけ大 きく立派 に築 こうと する。そ うするのは,門 は彼 らにとって く富 〉のシンボルであ り,ま た忍び寄っ て くる悪魔 を家のなかに入れないための く魔除け〉の役 目も果たす と彼 らが信 じているか らである。この門に施 される浮 き彫 りのモティーフとして多いのは, 花 や鳥,蔓 植物,縄 目模様 などである。 さて,『ルーマニア日記』 にもこの見事 な屋敷門が登場する箇所がある (10月 21日の 日記)。小説の主人公 は,セ ン トレー レク村の古い農家 に宿泊すること になるのだが,こ の農家 を次の ように描写 していた。

(11)

屋敷のいたるところが朽 ち,崩 れかかっている。それだけに,真 新 しくて, 装飾がふんだんに施 されている屋敷門がいっそ う目立う。門には,高 い幅広 の扉が取 りつけ られてお り,そ の扉はほっそ りと優美な格子の部分 と,美 し く彫刻 され,色 塗 られた平板 の部分 とか ら出来ている。平板の部分 には,青 い燭台が ひとつ彫 られていて,燭 台の両側 にも,動 物や植物の渦巻 き模様が 隙間な く彫 り出されている。燭台 には,炎 が橙色 に塗 られた蝋燭が一本立っ てい る。その蝋燭 に緑色 の蛇が一匹,か らみついている。(SWI,S.412) トランシルヴァニアを訪ねた人たちの報告 によれば,門 の装飾に蛇が彫 られ

ることも

時々あるということ

であるとだが,カロッサの本物の日記には,蛇の

浮 き彫 りがあったことは書かれていない。では,緑 に色塗 られた 「蛇」は, 『ルーマエア日記』の他の箇所でも頻繁に見 られるような,作 者による創作な のだろうか。 しか し,門 の彫刻のモティーフとして多用されている縄の模様が, 蛇の形によく似ているので,そ れを主人公が蛇 として受け取ったという可能性 も考えられる。ともあれ,確 かなのは,カ ロッサがこの箇所で蛇を是非 とも登 場させたいという気持を抱いていたことであり,ま た,蛇 が登場することによっ てこの小説の説得力が実際に増 していることである。どういうことかといえば, それは,こ の小説の扉部分に記 されたモ ットー 「蛇の日から光を奪え !」 (s WI,S,392)と の関係による。このモットーは作品中に登場する兵士グラヴイー ナの手紙のなかに書かれていた言葉 とされるのだが,「蛇」は戦争あるいは恐 怖や困難を表す象徴であ り,一 方 「光」は例によって,神 聖なもの,ま た希望 や真実の象徴である。すなわち,そ のモ ットーは,戦 争 という死の恐怖に満ち た至難の状況にあっても,人 はそのなかから真実を獲得する強固な意志 と勇気 を持たなければならない, という小説全体のテーマを凝縮 して表現 しているの である。一― 要するに,小 説の根本主題を明示するモットーに 「光」 と 「蛇」 6)み やこうせい 『ルーマエアの小 さな村から 素 顔の生活誌』 日本放送出版協会 1990年, または南原実 「ルーマニア幻想紀行」 (雑誌 『現代思想』1975年7月号所収)な どを参照。

(12)

68 彦 根論叢 第 320号 が登場 していることから,作 品中においても,「光」を発する 「炎」のそばに, 「蛇」が姿を現す必要があったのではないかと考えられるのである。 同じく 『ルーマニア日記』の10月21日の日記には,主 人公が宿泊先の農家の 主婦から,屋 敷門用の装飾模様がスケッチされている紙片を見せてもらったこ とが記録 されている。そのスケッチは彼の想像力を強 くそそ り,彼 はそれを模 写 しようとする。以下は,そ れに関する記述である。 背景にジーベ ンビュルゲン風の堂々とした家を描 くのは,あ る程度 うまく いった。だが,前 景の門の部分では,蛇 が蝋燭の炎の芯をかみ切 り,歯 のあ いだにくわえて運び去っているように描いてしまった。そこで,そ の下に私 は,以 前グラヴイーナの手紙のなかで読んだ 「蛇の日から光を奪え !」 とい う文句 を書 き添えた。食卓仲間はみんな笑って,林 檎酒がそうとう私の頭の なかにまわったな,と 言つた。(SWI,S.414) く光 〉と く蛇 〉はカロッサ文学の中核 をなす主題に属するが,故 郷から遠 く 離れてジーベンビュルゲンにやってきたカロッサがその地の村の家々の 「門」 に美 しい浮 き彫 りの蝋燭の 「炎」や 「蛇」―― あるいは蛇によく似たもの一一 を発見 したことは,彼 にとっては思いもよらぬ喜びだったことだろう。壮麗 な 「門」 とそこに彫 り出された文様は,彼 にその土地への親近感を懐かせる大 きな契機のひとつ となったのではないか。 Ⅳ ネ ズの木 ジーベ ンビュルゲ ンの風景 を代表する樹木 といえば,モ ミの木 とい うことに なる。モ ミの木 はその地 にふんだんに生えてお り,住 民たちはそれを聖 なる木 と見 な している。そのほか,同 地方の樹木 として多 く見 られるのは, トウヒや ブナやカシな どである。ネズ Wach01derは ,カ ルパ ティア山脈付近の亜高山 7 ) 帯 にはよ く見 られる木 だ とい うことだが, そ うだ として も, い たるところで圧 7)Die Siebenbiirger Sachsen― Lexikon(Kraft Verlag 1993), S.547, S.563.

(13)

倒 的 に目立つ ような樹木では決 してない。だが,カ ロッサがジーベ ンビュルゲ ンに滞在 中,日 記で繰 り返 し言及 しているのは,あ るいは作品 『ルーマニア日 記』 においてほぼ独 占的に登場 している樹木は,モ ミや トウヒ,ブ ナ,カ シな どではな く,〈ネズ 〉なのである。 最 も印象的なのは,『ルーマニア日記』の最後 に近い部分 に出て くる,兵 士 グラヴイーナが書いた とされる詩編中の一節である。 我 らを して築か しめ よ,キ シュハ ヴァシュ山に塚 を。霜 に覆われた岩原やネ ズの野 に,戦 死者のための墓標 を。(SWI,S。 498) これ と類似 した一節は,こ の詩編中において もう一度登場 している (SWI, S.500)。 さらには,上 記の詩句 は作 品中でその前 に も,グ ラヴイ‐ナの手紙 文の一節 として断片的な形で引用 されていた (SWI,S,473)。 また,次 の ような表現 も同詩編 に見 られる。 やがてすべては単 に前奏 曲となる。我 らはみな,朽 ち果ての道 を辿 るのだ。 死せ る者の手,そ れを,青 み をおび暗然 としたネズの枝で覆 え。 (SWI, S.499) カロ ッサの1916年の 日記 をのぞいてみて も,樹 木 としてはほとんどネズばか りが登場するといってよい。そのなかのほんのい くつかを次 に抜 き出 してお く。 霜の降 りたネズの野 を長いあいだ行軍。 [ 1 1 月2 日 ] ( T B I , S . 2 3 9 ) 墓の周 りで,違 しいが優美 な姿の小 さなハ ンガリー馬が ときお リネズの茂み に首 を突 つ込んでは枝 をもぎとっていた。[11月6日 ](TBI,S.244) 蔓植物 に巻 きつかれたネズの森が広が る平 らな山頂 に向かって,太 陽が沈ん でい く。 [ 1 1 月7 日 ] ( T B I , S 。 2 4 6 ) 丘の頂上 には, 岩 がひとつ, 冠 の ように載 っていて, そ の周 りをネズの森が

(14)

70 彦 根論叢 第 320号 取 り巻 いていた。 [11月9日 ](TBI,S.248) ネズは,ヒ ノキ科の常緑木で,日 本語ではネズ ミサシ (鼠刺 し)と も呼ばれ る。その別名 は,葉 が針状で硬 く,触 ると痛いので,ネ ズ ミの出没する穴や通 り道にその尖 つた葉 を置いてネズ ミを防いだ ところか らつけられたといわれる。 ジーベ ンビュルゲ ンに生 えているネズは, 日本で見 られるネズ とは少 し違 つた くセイ ヨウネズ 〉Heidewacholderである (セイヨウネズの球果は,蒸 留酒 ジ ンの香 りづ けに使 われることが よく知 られている。またそれは古来 より薬 とし て も利用 されて きた)。 さて,カ ロ ッサの眼が ジーベ ンビュルゲ ンで特 にこのネズの木 ばか りに向け られ,ま た作 品中で もネズがいわば特別扱いを受けて登場 しているのは,ネ ズ の硬 くて細長 く,鋭 く尖 つた針状の葉がす冬の暗鬱 とした山岳戦の,人 を拒絶 す るような厳 しい状況 を最 もよく表す とカロッサが考 えたか らではないだろう か。たえず死の恐怖 にさらされた前線での困難 な生活,雪 舞 う厳寒の冬 山のな かでの辛いテ ン ト生活,そ れ らジーベ ンビュルゲ ンにおける生存の非常 な厳 し さを,樹 木 とい う象徴で最 もよく表現で きるものが,カ ロッサにとっては,と 働 げとげしい葉をもつネズの木だったのだろう。日記中でも作品においても,果 味深いことに,ネ ズは多 くの場所で,「霜」や原始の 「岩」,岩 塊,あ るいは 「墓」や 「死」 という言葉のす く`近 くに,ま たそれらと一緒になった形で登場 している。そのことからしても,先 端が鋭 く尖 り,人 を厳 しく拒絶するネズの 木の葉は,ジ ーベンビュルゲンの冬の容赦のない厳 しさ,戦 争の冷酷さ,さ ら には 〈死 〉の恐怖などを最 もよく暗示する詩的象徴 としてカロッサに格別の注 目を浴び,ま た作品中に繰 り返 し登場 させ られたと推察されるのである。 しか し,ネ ズは人間を終始拒絶 しつづけるだけのものではない。先ほど引用 した 『ルーマニア日記』の終結部の詩編では,ネ ズの野が 「死者」を埋葬する 8 ) 1 1 月5 日付の日記には,ネ ズの葉だけでなく,そ の 「回い根」までもが, カ ロッサがキャ ンプ地のテントの中で横になって寝ているときに 「意地悪 くも」彼の 「肋骨に突きあたつ て」彼を苦 しめる, という記述が見られる (TBI,S.242)。 また,こ れとよく似た文 章は 「ルーマニア日記]中 (11月7日の日記)に も見られる (SWI,S.436)。

(15)

場所 と して選 ばれ,ま た死者 の 「手」 をネズの枝 で 「覆 え」 ともうたわれてい た。 ネズ は,一 方 で は人 間 を冷酷 に拒否す る ものであるが,死 者 に とっては, 埋 葬 された場所 の周 りにそれがあ るこ とに よって,獣 たちが死者 の肉体 を食 い 荒 らすのを防いで くれるという点で,彼 らを守る味方でもあった。昔ゲルマン 人たちのあいだでは,ネ ズの枝が,悪 霊たちから人間を守るものとして,家 の 玄関の上に掛けられていたという。また現在でも,ネ ズの木が墓地に植えられ ることがあるが,そ れはやは り死者を守ってくれると見なされているからだと 考えられる。 こうしてネズは,一 方では人間を寄せつけない冷酷な厳 しさの象徴でありな が ら,他 方では人間を守って くれる大切な木でもあるということで,両 義的な 象徴 となる。一一 だが,そ のネズの象徴の両義性 については本稿の結論部で もう一度触れることにして,そ の前に,カ ロッサにとって重要な意味をもって いたジーベンビュルゲンの貴重な特産品について述べてお くことにしたい。 V 黄 金 『ルーマニア日記』の10月20日付の記述のなかに,小 説の主人公の息子ヴイ ルヘルムが書いた手紙 として,次 のような文章が引用されている。 休暇をもらった人が,お 父 さんはジーベンビュルゲンに行ったとこっそ り教 えて くれました。それでぼくはうれしいのです。そちらのほうには山や川に 金があ ります。ォスカー ・アベルが地理の時間にそう習ったと言ってました。 持てるだけ取って,ぼ くに持ってきて ください。金はぼ くにはたいへん役立 つものなのです。(SWI,S.409-410) これをうけて,主 人公は12月10日付の日記でこう書 き記 している。 小石があまりに美 しく金色に輝いていたものだから,私 はヴイルヘルムの短 い手紙を思い出 した。わが子へのおみやげにと思って,と くに光 り輝いてい

(16)

72 彦 根論議 第 320号 る小 石 を二つ三つ拾 いあげた。だが, 拾 つてみ る と光 はす っか り消 え失せ て い た。それで も私 はい くつか ポケ ッ トの なかに入 れ た。父親が黄金 のかわ り に石 を持 って帰 った と して も, 幼 い息子 に とつて決 して損 になる ことはない だろうか ら。 ( S W I i S . 4 8 4 ) ジーベ ンビュルゲ ン地方は,ヨ ーロッパでは,古 代 ローマ時代からよく知 ら れた産金地のひとつだつた。そこは,ロ ーマ帝国時代 には露天掘 りで採鉱がお こなわれるほど豊かに金が とれた場所であ り,現 在で もローマ時代 に遡 る鉱津 の出があちこちに残 つていると とくに西 トルダ地方の丘陵地で金が多 くとれた ようで,ハ ンガリー領 だつた時代 には同地方は 「トルダ・アラエ ヨシユ」 とい う県名で呼 ばれていた (「アラニ ヨシユ」 とは 「金 に富む」 とい う意)。ヴイル ヘルムが友だちか ら教わつたとお り,ジ ーベ ンビュルゲン地方は金が大量 に埋 蔵 されている場所 として, ヨーロッパ中に広 く知 られていたのである。 上 に引用 した 『ルーマニア日記』中の二箇所 は,と もすれば,な んで もない 箇所 としてその まま読 み流 されて しまうか もしれない。だが,『ルーマニア日 記』が さまざまな象徴 の糸によって複雑 に織 りあげ られた作品であることを思 い出すなら,こ こにおいて も,な にげない言葉の背後 に深い意味が隠 されてい ることに気づ くのである。「金」 は,な によ りも永久 に美 しい輝 きを失 わない ことか ら,永 遠 に輝 きつづ ける く太陽 〉,あ るいは く光 〉の象徴 である。それ はまた不変の く真実 〉の象徴で もあ り,さ らには,な かなか容易 には手 に入 ら ない もの,普 段は隠されている貴重な宝物の比喩で もある。ここで も,そ ういっ た意味が込め られて く金 〉が登場 していると考 えるべ きなのである。 上のふたつの引用箇所 に秘め られた意味 を推察することはそれほど難 しくは ない。すなわち,こ こでカロッサは,ジ ーベ ンビュルゲ ンで彼が探 し求めてい たのは,実 は本物の 「黄金」 な どではな く,彼 にとつてなによりも大事 なもの, 9)木 村尚三郎監修 「原色図録 金 の世界』東洋経済新報社 シュ ・カーロイ 『トランシルヴアニア そ の歴史 と文化』 も参照。 1984年,22頁参照。また,コ ー (田代文雄監訳)恒 文社 1991年

(17)

す なわ ち, 容 易 には見 出す こ とも獲得 す る こ ともで きない く真 実 〉の く光 〉で あることを言おうとしているのだろう。カロッサにとってジーベンビュルゲン は 「金」ならぬ く光〉=く 真実〉が豊かに隠されている場所なのである。ふた つの引用箇所は,カ ロッサが,息 子が期待 しているような現実の く金〉は持っ て帰れないにしても,そ れ以上に価値のある,世 界を統べる根源的な く真実〉 をジャベ ンビュルゲンで見つけて持ち帰ることを示唆 しているといえる。 Ⅵ 結 論 カロ ッサが ジーベ ンビュルゲ ン地方での困難 な戦い に投入 された とき,か えっ て彼 の創作力が著 しく高 まった こ とは最初 に も述べ た。 この時期 ,彼 は長年取 り組んできた長詩 「聖者の手の上の町」 を完成 させ,『ルーマニア日記』の草 稿 も多 く書 きため,ま た,の ちに 『幼年時代』 として発表 される自伝的作品の 執筆 もおおいに捗ったのである。肉体的にも精神的にも辛い戦場にいるときに は,普 通なら創作活動は停滞 してしまうはずだが,カ ロッサの場合はどうして 逆だつたのだろうか。 その疑間に答えるためのヒントになるような文章が,カ ロッサの1916年10月 24日付の日記に見出される。 まった くの人里離れた場所,新 しい体験の連続,そ して重要で危険なことが ますます近 くに追ってきているということが,私 に,過 去をあたかも山頂か ら見おろすかのように,一 度に振 り返つて見渡すことを可能にしてくれる。 自作の詩を思い出そうとしたが,た だ真実なものだけが記憶に甦って くるこ とができた。(TBI, S.232) 同様のことは,1916年12月8日 付のマリーア ・デームハルター宛ての書簡で も述べ られている。 私はいま,こ れ以上ないほどの激動のさなかにいると感 じています。にもか

(18)

74 彦 根論叢 第 320号 か わ らず ―― 私 が東 部 戦線 に移 って きてか ら,非 常 に奇妙 な こ とに 一一 私 の心 は まった く落 ち着 き払 つてい るのです 。…… 私 が この雄大 な風 景 の な かでの恐 ろ しい戦 い を経験 して以来,私 は 自分 自身 を発見 したかの ようです。 1 0 ) 私はいま,私 の人生を,あ たかも山頂から見おろすように見ています。 また 『ルーマニア日記』中にある次の重要な一節 も引 き合いに出す必要があ るだろう。 生 と死がす ぐに隣 り合っている緊迫 したときには,私 たち人間の本性 を形作 る元素は強固にされ,純 化 されるようなのだ。そ して,粗 悪な鉛の鐘が,純 粋な酸素のなかに浸 されるとたちまち銀の鐘にも似た響 きを出 しはじめるよ うに,そ の凝縮 された時間のなかでは,だ れもがその人固有の響 きをもって 語 りはじめるのだ。(SWI,S.498) これらの言葉からわかるように,カ ロッサがジーベンビュルゲンの戦場のさ なかにあって逆に創作が活発になったのは,ま ず,日 常の世界から遠 く離れ, 神々 しい高山が奪える 「雄大な風景」のなかに身を置いたこと,ま た,死 の恐 怖がたえずつ きまとう危機的状況をい くつ も経験 してい くことにより,彼 の生 から余分なものが削 ぎ取 られ,同 時に感覚 も鋭敏に研 ぎ澄まされ,そ れまで日 常生活のなかで見失ってしまっていた本来の 「自分 自身」を再 「発見」できた こと,さ らには,極 度に緊迫 した日々を送ることを通 じて彼の生命力が異常に 凝集 ・高揚 し,自 分の人生を 「あたかも山頂から見おろすように見」ることが 可能な特権的な境地に達することができたことなどに因るのである。ジーベン ビュルゲンにおいてカロッサの人生はひとつの重要なピークを迎えた。彼はそ れまでの人生のすべての行程 を一望のもとに見渡 し,総 括することができた。 また,死 と 「す く`に隣 り合っ」た危機的な状況のなかにあったために,彼 の作

10)Hans carossa:Briefe 1 1886-1918.Herausgegeben von Eva Kampmann― Carossa. Frankfurt a.A/1.1978, S.129.

(19)

品 に混 ざ り込 んでいた爽雑物が 自然 と消滅 してい き,本 質的で 「真実な」部分 だけが残 った。それによって彼の創作活動 は大いなる進捗 を見せ,作 家 として も一段 の飛躍 を遂げた。ジーベ ンビュルゲ ンの戦場で過 ご した時期 は,作 家カ ロ ッサ にとって,彼 のなかに潜んでいる文学的能力 を全開にさせることがで き た点で彼 の生涯で も特 に充実 した輝か しい時期のひとつ となったのである。 ただ し,こ こで誤解 してはならないのは,単 に戦場 にいるというだけでは, カロ ッサの創作活動が特別 に活発 になったわけではないことである。カロッサ は東部戦線のあるジーベ ンビュルゲ ンヘ送 られる前 には,北 フランスの西部戦 線 に投入 されていた。そこで もカロッサは忙 しい軍務の合間をぬって執筆の作 業 に取 り組んではいた。 しか し,北 フランスでは彼 の創作力はジーベ ンビュル ゲ ンにいた ときほど高 まってはいないのである。北 フランスの戦場はどこまで も平 らな荒涼 とした泥炭地帯がつづ く場所であつた。そこの風景はカロッサに とって,よ そ よそ しく親 しめない ものだったと一__方 ,ジ ーベ ンビュルゲ ン には,光 を浴 びて純 白に輝 く高い山々が姿 えていた。その超越的な神々 しさは カロ ッサ をいつ も深 く感動 させ,勇 気づけた。 もちろん,そ れ らの山は彼 に対 してつねに友好的だった とはいえない。先 にも述べ た とお り,カ ロッサは尾根 上 にある前線 に赴 くために幾たびかそれ らの急唆な山の上 に登 らねばならない ことがあった。すでに若 くはない彼 にとって,そ れは肉体的には非常 に辛い も のだった。その意味ではジーベ ンビュルゲ ンの山々は彼 にとって,確 かに一方 では,克 服 しなければならない困難 さの象徴で もあった。 しか し, もう一方で は,そ の地で ときお り望 むことので きる明るい光 に照 らされた純 自の山頂の神 々 しい姿がカロッサ に大 きな希望 を与えて くれるものであることは,変 わ りが なかった。高山の 「神秘」 に満 ちた 「偉容」 を,悲 惨 な事件がつづ く戦場の 日 々のなかで,ふ と限にするとき,ま たのちにはその近 くまで実際に登 っていっ て,そ こで広大 な眺望 を得つつ,山 頂 ならではの太陽の強烈 な日射 しを浴びた 11)た とえば 「ルーマニア日記』の冒頭部分,「・・…。ここは私たちのようなものにはとても 住めたところではない。それほどによそよそ しいのだ,ど の木 も,そ の石 も。……どれも みな,私 たちに懐か しい気持 を呼び起こしてはくれない し,そ の心の内を私たちに明かす こともないのだ。」 (SWI,S.393-394)な どを参照。

(20)

7 6 彦 根論叢 第 320号 とき,カ ロッサは 日々積 もり重 なった疲労がいっぺんに消 え去 り,生 への希望 と勇気が力強 く湧 いて くるの を感 じた ことだろ う。 カロ ッサの 日記 あるいは 『ルーマニア日記』 に く高山〉が繰 り返 し登場するのは,彼 にとって,そ れが 克服す るのが至難 な絶望的状況 を表す象徴であ りなが ら,同 時にそ うした状況 のなかにあって も希望が確子 として存在 しつづけていることをたえず想起 させ る働 きをもっていたか らなのである。 同 じように,「ネズ」がカロッサのジーベ ンピュルゲン滞在時の日記 または 『ルーマエア日記』にひときわ印象深い仕方で頻繁に登場するのも,そ れが戦 争のもつ厳 しさ,人 間に対する拒絶性 を暗示するとともに,死 者を守って くれ る点では味方でもあるという両義的な存在であることによる。ネズの木 も一方 で人間を拒否 しながら,他 方では人間を守るのであ り,そ の意味では,ジ ーベ ンビュルゲンに隼える 「山」 と同じ役割を担っているといえよう。 「蛇」 も同様であ り,そ れは,戦 争の恐ろしさと残忍さを暗示すると同時に, 一―ヨーロッパを初めとして世界各地の伝説で 「蛇」は財宝を見張る動物とさ れていることか ら一― また黄金の宝=〈 真実 〉の在 り処 を示す存在 としても 見なされるのである。カロッサの作品中には蛇が しばしば登場するが,い ずれ の場合でも,恐 怖の対象ではあ りながら,決 して忌み嫌われるといったような 1 2 ) 扱いは受けていない。 Fル ーマニア日記』のテーマを凝縮 して表現 している 例の扉上のモ ットーは,「蛇の日から光を奪え !」であつた。これは,「光」= 〈真実 〉は恐ろしい戦争 という 「蛇の口」のなかに勇敢に飛び込んでいかなけ れば獲得で きないことを述べているのだが,角 度を変えて読むなら,く真実〉 を見つけようとするなら 「蛇」力ざ棲んでいる場所にいけばよいのだということ 12)た とえば,1913年 に書かれた詩 「先祖の女」では,蛇 は次のようにうたわれている。 「賢明にも蛇は い つ もの隠された痕を辿って/み ずからの暗い棲み処に降 りゆ く。/そ こには 凹 んだ石の下に/お まえが埋めた宝がある。/… …/蛇 は 宝 物の上で そ の 蕎 をは ぐくむ。/毎 夜 蛇 は宝の周 りに身体 を巻 きつけ/魔 力 を強める環のかたちにな る。/と きお り黄金の宝が 高 く硬い音をたてる。」 (CG,S,55) 引 用中にある 「お まえ」 とは,霊 となって力百ッサの家を守っている 「先祖の女」を指す。彼女 と蛇 とは互 いによく理解 しあい,蛇 は彼女が埋めた 「黄金の宝」 を見張つてくれる存在なのである。 この詩からもわかるように,蛇 はカロッサ文学において決 してネガティヴな扱いはされて いない。

(21)

を示唆 してい る ともい え よう。 カ ロ ッサ は,彼 に く真 実 〉を発見 させ て くれた地,豊 か な創作力 を湧 出 させ た地 ,彼 の代 表作 『ルーマニ ア 日記』 を生 み出 させ た地 であ るジーベ ンビュル ゲ ンの こ とを,生 涯忘 れ る こ とはなか った。彼 は,創 作 に行 き詰 まった とき, また真 実 を見失 いそ うになった とき,冒 頭 の書簡 で見 た ように,ジ ーベ ンビュ ルゲ ンの こ とを思 い出 していたのであ る。 カロ ッサ はいつの 日にかその地 を再 訪 したい と熱望 してい た。 だが,そ の願 い はつい に実現 す るこ とはなか った告 カロ ッサはたえず旅 をしつづけるようなタイプの作家ではなかった。医師 と しての 日々の義務 を呆たさねばならなかったことがその一因であろう。 とはい え,イ タリアには生涯 を通 じて十数回訪れている。イタリアは彼の祖先の出身 地であ り,そ うでな くとも,太 陽の明るい光が燦々 と降 りそそ く`南国イタリア は,〈光 〉を求めつづ けた詩人 カロッサ にとって,バ イエル ンに次 ぐ第二の故 郷 ともい うべ き土地であった。晩年 カロッサは,自 身のイタリアヘの旅の思い 出を 『イタリアの手記』 という作品にまとめて もいる。けれども,ジ ーベ ンビュ ルゲ ンは,わ ずか一度 しか行 かなかった とはいえ,カ ロッサの人生にとって, イタリアに優 るとも劣 らない重要な土地だった。太陽が明る く輝 く穏和 なイタ リアが,す でに く光 〉に満たされた国であ り,い うならばそれはカロッサの希 求 している ものがすで に実現 されている場所であるのに対 し,暗 鬱 な冬のジー ベ ンビュルゲ ンは,戦 争のような絶望 と困難が支配する逆境のなかにあっても 人間はなお も 〈光 〉や希望 を見出す ことがで きることをカロッサに最 もよく保 証 して くれる土地 だか らである。神 々 しい 「高 山」力ざ窒 え,「ネズ」 の野が広 が り,「蛇」が門に彫 り出 され,豊 富 な 「金」が眠る とされるジーベ ンビュル ゲ ンの地は,カ ロッサ にとって重要な文学的象徴 に満 ち,ま た深い暗間のなか 13)た だ し,1940年 10月末 に朗読旅行のためにブカレス トヘ飛行機で向か う途中,カ ロッサ は上空か らカルパティア山脈 を眺めることだけはで きた。1940年10月29日付のアルフレー ト ・クー ビー ン宛 て書簡で,カ ロッサ はその ときの ことを次の ように報告 している。「快 晴 に恵 まれ,私 は限下 にカルパ テ ィアの森林地帯 を一望 に収めることがで きま した。24年 前 この地 に送 られた私 は,大 隊 とともに山を次か ら次へ と越 えさせ られたので した。……」

(Hans CarOssat Briefe ll1 1937-1956.Herausgegeben von Eva Kampmann― Carossa. Frankfurt a.M,1981,S.132.)

(22)

78 彦 根論叢 第 320号

に も 〈光 〉が常在 してい る こ とを確信 させ る 「奇跡 の ように素晴 ら しい土地」 と して,カ ロ ッサ に とって忘 れが たい特別 な場所 となったのであ る。

参照

関連したドキュメント

最後に要望ですが、A 会員と B 会員は基本的にニーズが違うと思います。特に B 会 員は学童クラブと言われているところだと思うので、時間は

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

共通点が多い 2 。そのようなことを考えあわせ ると、リードの因果論は結局、・ヒュームの因果

点から見たときに、 債務者に、 複数債権者の有する債権額を考慮することなく弁済することを可能にしているものとしては、

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

だけでなく, 「家賃だけでなくいろいろな面 に気をつけることが大切」など「生活全体を 考えて住居を選ぶ」ということに気づいた生

以上の基準を仮に想定し得るが︑おそらくこの基準によっても︑小売市場事件は合憲と考えることができよう︒

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい