フェノロサと井上円了
著者名(日)
山口 靜一
雑誌名
井上円了センター年報
号
1
ページ
3-35
発行年
1992-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002590/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja講演
フェノロサと井上円了
﹂吉
1;静
き N.一___▲ 高木宏夫先生から﹃井上円了関係文献年表﹄、﹃井上円了総合研究報告﹄という貴重な資料をいただき大変恐縮 しました。これでは何とか勉強を始めなければと思いながら、さっぱり進んでおりません。本日いったいどのよ うなお話をしてお役に立つことができますやら少し不安です。 前置きとなりますが、私は八年ほど前に﹃フェノロサ﹄という上下二冊の本を三省堂から出しました。フェノ ロサのいろいろな面、東京大学の教師、美術運動、仏教研究、お能とか漢詩などの文学、そういうものをまとめ ようと思いまして頑張った時代がありました。そのときにちょうど出版されたのが、宮本正尊さんの﹃明治仏教 の思潮﹄という本です。これは昭和五十年に出ています。このサブタイトルが﹁井上円了の実績﹂とあり、すぐ に買って読んだわけです。ところが、それにはフェノロサが仏教に帰依した事情と、フェノロサが円了のよき師 であったということだけで、円了との具体的な関係があまり出てこない。 また、宮本先生が資料として使っておられた佐々木月樵の﹃仏教文化と教化﹄、これは大正年間に京都の新聞な どに出されたものをまとめたもののようなんですが、その第十章に﹁明治仏教、文化とその発祥地﹂というのが あった。それを宮本先生の教えに従って読んだところ、やはり円了がフェノロサの門下生であったということし 3か出ていないんです。佐々木月樵さんのお師匠さんであった清沢満之さんが真宗大学、いまの大谷大学でしょう か、そこの学監をしておられたときに、できればフェノロサをアメリカから招いてここで教えてもらいたいもの だと再三言われたと書かれてありました。清沢満之も大学でフェノロサの教えを受けた人であり、フェノロサの 影響力の大きさに驚いたのですがフェノロサ自身のことはあまり出ていかなったのでちょっとがっかりしたんで す。 しかしながら、井上円了は東京大学に入って出るまでずっとフェノロサの薫陶を得ているわけで、何らかの大 きな因縁があるに違いない。フェノロサがいったいどういうことを教えたのか、どういう教科書を使ったのか、 どういう授業の実態であったのかをこれから報告させていただき、その中で何か円了との関係でつながるところ があればと考えた次第です。 資料として三部をお配りしてあります。それぞれ[1のー]、[1の2]、[1の3]、[2のー]、[3のー]、[3 の2]、[4のー]とページが振ってあります︵資料は二十四∼三十五ページに収録︶。 まず[1のー]で、東京大学におけるフェノロサの仕事を左側にずっとたどっていきました。ご承知のように、 東京大学というのはもともとは九段の近くにあったと言われる蕃書調所がその後開成所になり、明治維新を迎え てから大学とか大学南校とかいろいろな名称を変えながら東京開成学校という名前に落ち着いて、それがいまの 一ツ橋にあったと言われています。もう一つは江戸時代の種痘所が医学所と名前を変え、明治維新を越えてから 医学校、大学東校等の名称変更をしながら、東京開成学校とちょうどペアになる形で東京医学校が本郷にできて いた。その東京開成学校と東京医学校が合体して東京大学という学校ができます。これが明治十年です。旧東京 開成学校は東京大学法理文の三学部で、キャンパスはやはり一ツ橋にあった。 4
フェノロサが赴任したのがその翌年、明治十一年です。明治十年から東京大学の理学部に就任した、例の大森 貝塚を発見したことで名高いエドワード・シルベスタ・モースの紹介だということになっています。東京開成学 校の時代には法学部と理学部があって、文学部はなかった。したがって、東京大学になってから文学部ができた んです。この文学部はいまで言うところの英文学とか国文学よりも、明治の役に立つ青年たちを養成しようとい うことで政治学、経済学、哲学といったものを中心にした学部であり、それにくっつけて和漢文学科、これがい まで言うところの文学部でしょうけれども、そういうかたちで発足していました。当然、フェノロサは文学部の 政治学の教授として招聰されたわけです。二十五歳でした。明治十一年の九月に授業を開始しています。担当は 政治学と理財学と哲学でした。 ちょうどその九月に井上円了のほうも東京大学予備門に入っています。予備門の前身は東京英語学校と言って、 そこを卒業してから東京開成学校に入るという規則でしたから、東京大学に入るにはどうしても東京大学予備門 に入らなければいけない。例えば長岡とか名古屋の英語学校を卒業しても東京大学には進学できないという非常 に厳しい学制が敷かれていた。フェノロサは就任の最初の年には予備門の経済学を兼担しているので、もしかす ると円了は入学最初の年に、教員の中にフェノロサの顔を見たことは十分にあるのではないかと思われます。 よくフェノロサのことを書いたものには哲学の教師として赴任したとありますが、正確には政治学なんです。 ただ、政治学と言ってもポリティカル・フィロソフィー、いま訳せば政治哲学と訳すんでしょうか、それから理 財学すなわち今の経済学ですが、ポリティカル・エコノミーとなっています。したがって、フェノロサはもとも とはハーバード大学の哲学科の出身ですから、いまで言うところの政治学や経済学の専門家ではなかったんです が、ポリティカル・フィロソフィーとかポリティカル・エコノミーであれば自分が大学時代に心酔したスペンサー 5 フェノロサと井上円了
哲学で間に合うのではないかということでオーケーしたのではないかと思います。 ここに翌年以降のことも記しておきましたが、二年契約で計四回契約を更新、明治十九年、第四回目の最後に 退職をしているんですが、最初の二年間の月給が三百円です。そのころは小学校の校長先生で月給十円です。そ の給料で家族全員と男女のお手伝いさんを抱えて悠々と生活ができるという時代です。また明治十三年に大学を 出た岡倉天心が文部省に勤めたときの初任給がたしか四十円で、これは官吏の高給を示しています。そのときに 二十五歳の青年に対して金貨三百円という給料。このころの明治政府がいかに西洋諸国に追いつき追い越せとい う大変な意気込みであったかが分かります。それでもフェノロサは年が若いので、月給三百円というのはほかの 御雇い外国人に比べてまだ少ないほうです。第二期目から銀貨三百七十円になります。最初は金貨三百円だった のですが、そのころの金貨と銀貨がどういうふうになっているのかよく分からないんですが、いずれにせよ給料 が七十円上がったと考えていいのではないかと思います。 十二年に﹁ウィリアム・アンダソン工部大学校で古美術コレクション展示﹂と書きましたが、ウィリアム・ア ンダソンという人はイギリス人のお医者さんです。六年ほど前に海軍省に招聰され、海軍病院を管理した。外国 人ですから病院長にはなりませんけど、病院長の格で海軍の軍医たちを育てた人です。大変な美術収集家であり、 在日中に三千点ほどの美術品を買い集めて明治十二年にイギリスに持ち帰り、その大部分を大英博物館に譲渡し ました。大英博物館の現在の日本美術のコレクションの基礎をつくった人です。この人が、自分のコレクション を工部大学校で展示し、かつ講演をした。そこヘフェノロサが出かけている。フェノロサは哲学科の出身で、大 学院も哲学を二年間やりますが、父親がスペイン人という関係からか、就職口が全然ない。そのころは南北戦争 の後で、美術館が各地で続々と造られる。その美術館で職を得たいということで、ちょうどできたばかりのボス 6
トン美術館の付属の美術学校に入って油絵の実技の勉強をします。油絵の実技と大学院で勉強した美術史を両立 させて、美術学校あるいは美術館で職を得たいという腹であったらしい。それが東京大学に招聰されて政治学、 哲学を教えることになり、いったんその希望は捨てるんですが、アンダソンの仕事を見てむらむらと美術に対す る関心、美術品蒐集欲がわいてくるわけです。そういうことで、そこに出しました。 次の年に第一回観古美術会が開かれています。当時は極端な西洋崇拝の時代で、日本の古いものは一切だめと 言われた時代ですが、六年ほど前のウィーンの万国博で日本美術が大変評判がよく古美術がすごく高い値段で取 り引きされていることを知っていた若手の官僚たちが中心につくったのが龍池会という古美術の保護育成団体で す。その連中が初めて大がかりな伝統美術の展覧会を政府に開かせることに成功した。これが観古美術会という 展覧会です。 その同じ年の七月から、東京大学の﹃学芸志林﹄という機関誌でフェノロサの﹁世態改進論﹂、これは社会進化 論ですが、この訳載が始まります。このときの卒業生である井上哲次郎、木場貞長、和田垣謙三の三人が訳した もので、どうも大学の講義ではなくて、よそでやった講演を翻訳したもののようですが、大学でやっている政治 学の基礎講義すなわち世態学、今でいう社会学の講義と考えてよいでしょう。この年に文学部の第一期生が卒業 しました。井上哲次郎、岡倉覚三と書きましたが、そのほかに和田垣謙三、木場貞長、これは文部省の官僚とな りました。国府寺新作、この人は哲学館の先生になっています。福富孝季という人は女子師範学校の先生になる んですが、原因不明の割腹自殺をした奇妙な人です。千頭清臣という人は後に東京大学の論理学の先生になりま す。いまひとり中隈敬蔵のちに会計検査院の院長となった大蔵官僚。これらの人たち八人が初めて卒業します。 それが明治十三年です。 7 フ=ノロサと井ヒ円了
この十三年にフェノロサは初めて関西旅行をし、美術に対する関心に拍車がかかります。十四年になると第二 回内国勧業博覧会があります。明治政府の眼目であった﹁富国強兵﹂と﹁殖産興業﹂、この殖産興業のを振興しよ うということで、明治十年、西南戦争の真っ最中に第一回が催され、この年が第二回目です。実はこのときに美 術の展覧会があるんですが、洋画のほうがたくさん出て、日本美術が非常に低調であった。これが日本美術に対 して目が開かれてきたフェノロサにとっては残念でならない。日本美術はいま衰えているけれども、このままで はいけない、西洋美術よりも日本美術のほうが勝っているところがあるという日本の画家たちを激励する演説を 行ったわけです。そのことが翌明治十五年になって有名な﹁美術真説﹂を講演するきっかけになります。 その前に明治十四年には文学部で第二回の学生たち六名が卒業しました。末岡精一、都築馨六、坪井九馬三、 それから後の辰巳小次郎、旧姓松田と言いましたが、この人も哲学館に関係した人です。それから嘉納治五郎。 あとは和漢文学のほうで田中稲城と牧野伸顯が入っていましたが、牧野は中途退学で外国に行きました。従って この六人を卒業させます。この時代になると、文学部というのは哲学と政治学、および理財学すなわち経済学の 三つが三本の柱になっているんですが、それを全部フェノロサが教えています。面白いことには、そのころはこ の三つのうち二つを専攻して卒業することとなっているんです。要するに、主専攻と副専攻というわけです。例 えば、岡倉覚三は政治学と理財学、井上哲次郎は哲学と政治学、嘉納治五郎は政治学と理財学を専攻して卒業し ます。ところが、嘉納治五郎はもう一つフェノロサの哲学も専攻したいということで、卒業してから学士入学で もう一度入り直してフェノロサの哲学を聴いて翌年また卒業したという、フェノロサの申し子のような人なんで す。後に高等師範学校校長となり、また講道館の柔道をやる人ですが、そういうことで特殊な人であったことを 申し添えておきます。 8
この明治十四年に井上円了が文学部哲学科に入学することになります。ところが、明治十四年というのは大変 な年なんです。伊藤博文と大隈重信の権力争いで、国会の早期開設を主張していると巷間伝えられている大隈重 信がついに蹴落とされたという明治十四年の政変があった年で、そのころの学生は初めて迎える政治の季節に大 いに揺れたわけです。 [2のー]を見ていただきたいのですが、明治十四年の哲学科と政治理財学科をひとまとめにして一年生には黒 川雲登、長崎剛十郎、金井延、井上円了、竹村勇次郎、三原経国、河野通章、和漢文学科には三宅直温という人 が入っている。二年生には平沼淑郎、阪谷芳郎その他。和漢文学科の棚橋一郎、この人も哲学館に関係した人で す。三年生には三宅雄二郎がいました。のちの三宅雪嶺ですが、この人も哲学館に関係した人です。そのほかに 穂積八束もいました。四年生は有賀長雄、嘉納治五郎は先ほど言った学士入学です。政治理財学科には天野為之 と高田早苗と山田一郎、ほか一名在籍氏名不詳とあります。 ところが、このクラスにはそのほかに福井彦二郎、この人は後に大阪高商の校長になった人です。市島謙吉、 この人はのちに早稲田にも講師で出ましたが、有名な書誌学者の市島春城です。真崎孝八、それから坪内遣遙が いたんですが、前の年に落第しています。だから四年生にはいませんでしたが、三年生のほうに入っています。 実は、福井、市島、真崎の三人が中途退学をしています。このほか、法学部の学生、卒業生を加えて、かなりの 人数が大隈重信の率いる立憲改進党にさらわれたということで、東京大学としては大変な事件になった。本来東 京大学は官吏養成の機関です。それが民間の、しかも敵陣に走ったということで大変な衝撃があったものと思わ れます。その原因を大学で代議政体論というイギリス式の政治形態を称揚している先生がいるからではないかと いうことで、とばっちりがフェノロサに及びます。 gフェノロサと井上円了
フェノロサは翌年の明治十五年十月に、異例のことですが、学位授与式に外国人教師としては初めて祝辞を依 頼されます。これが何と﹁学生諸君の政治活動を戒める﹂という題でしたので、政府に脅かされてしゃべったん だろうということで民権派から猛烈な反発を食います。しかし﹃学芸志林﹄に全文が出ているのをじっくり読ん でみると大変面白い。というのはフェノロサは本来スペンサー流の社会進化論者ですから、いわゆる民主主義は 専制君主制をひっくり返した勢力がつくるもの。ところが日本のいまの民権運動は一段階前の封建制から一足飛 びに自由民権を求めるところに無理があるのではないか。いま盛んに自由民権を主張する連中はすべて権力指向 の徒ではないのか。そういう権力闘争の場を学生諸君はよく目を開けて見ろ、それに巻き込まれてしまってはい けないのだということを言っているんです。これは大変面白い意見だと思いますが、そういう大学が激動した時 代に井上円了は一年、二年を過ごすわけです。 その十五年のもう一つ大きな出来事があります。観古美術会は第三回目を迎えますが、いまだに一般国民は日 本固有のものに目を向けてくれない。外国がすばらしい、外国のものは何でもいい、日本のものは何でも悪い、 古いものは何でも悪いという風潮を覆すには、国民が崇拝する外国人に日本の長所を主張させるのが得策。明治 の老猶な政治家たちは外国人で日本のものをいいと言ってくれる連中にしゃべらせることによって国民の目を日 本美術に向けさせようと図るんです。それで白羽の矢を立てられたのがフェノロサでした。フェノロサは﹁美術 真説﹂という有名な演説をして、以来日本美術の復興運動に深くかかわるようになります。 次に﹁モース再来日、ビゲロウ同伴﹂と書きましたが、モースは明治十二年にいったん契約満期となって東大 を辞めて帰国します。しかしどうしてもまた日本陶器の蒐集を完成したいということで、この年の六月、友人の ビゲロウを伴ってやって来ます。そして夏にはモースとビゲロウ、フェノロサの三人で東海道を東京から西に下 10
る大蒐集旅行をやって、莫大な美術品を手に入れました。 その翌年、明治十六年には﹁文学部の第四期生、三宅雄二郎らが卒業﹂とありますが、明治十四年度に三年生 であった連中が卒業する。十七年になってフェノロサはついに自分で日本の美術家を養成する組織の鑑画会をつ くります。その年に円了は、一月ですからまだ三年生ですが、哲学会を創立して哲学の書物を原語で読もうとい う会を催している。これは大変面白いことですが、フェノロサはいろいろとドイツの哲学のことをしゃべりまし たが、すべて英訳本を使ったんです。﹃大学今昔談﹄という三宅雪嶺の書いた面白い本が戦後に出て、それによる とフェノロサはドイツ語が分からず、すべて英語でやったんだと書いてあります。ところが明治十七年ごろにな ると東京大学では学生たちがみんなドイツ語を勉強するようになっており、フェノロサ先生よりも原書が読める というかたちになっていました。明治十七年には円了のすぐ上の学級の阪谷芳郎らが卒業します。 その年にフェノロサは初めて長文の美術批評を﹃ジャパン・ウィークリー・メール﹄という横浜で出ている英 字新聞に出します。そのころフランスのジャポニスムの中心であったルイ・ゴンスという人の書いた﹃日本美術﹄ という大変立派な本がありますが、それをこてんぱんにやっつけるんです。要するに、日本の絵は北斎が神様の ようだと言っているけれども、日本では北斎など支流のまた支流、末流である、日本に来もしないでつまらんこ とを言うなということで、いかにもアメリカの青年らしく気負った態度でフランスの美術批評家をやっつけてい る。これも大変面白いものです。 明治十七年十一月に﹁赤松連城と仏教対話﹂と記しておきましたが、赤松連城という人は西本願寺のお坊さん で、しかも数年間のロンドン留学経験のある英語が非常によくできた人です。フェノロサは関西に行くたびによ く話をしていたらしく、たまたま赤松連城が東京に訪ねてきたときに、ビゲロウと一緒に三人で仏教について話 11 フェノロサと井上円了
し合った。初めにフェノロサが、西洋哲学には﹁へーゲルの物みな正反合三つをもってなる弁証法という道理﹂ があるんだと言ってその説明をします。すると連城さんは、そういうことだったら仏教にもあるということで、 有空中の三諦、唯識の偏計所執性依他起性円成実性、天台の空仮中の考え方を説きます。フェノロサがどこまで 理解したかは分かりませんが﹁勢至は智恵を司どり、観音は慈悲を司どり、この智恵と慈悲とを兼有するのが弥 陀である。﹂﹁慈悲という抽象的なものの考え方が仮に形に現れたものが仏像である。﹂要するに、お釈迦様とか阿 弥陀様あるいはその脇侍たちなどを説明しながら、抽象的な理念とそれが形に現れた存在ということを解いたわ けです。するとフェノロサは手をうって驚き、﹁仏教にそのような考え方のあるのを知らなかった﹂、﹁あなたはア リストテレスの哲学を知っているのか。﹂と尋ねた、彼はアリストテレスの形相質料論に通ずるものを直感的に感 じ取ったものと思われます。 それ以来、フェノロサは熱心に仏教研究に取りかかります。一年後の明治十八年にたまたま上京してきた櫻井 敬徳という大津の園城寺、通称三井寺の阿閣梨でしたけれども、この人について仏教を勉強し、とうとうその下 で戒を受けて仏教徒になってしまう。それまでの間に彼が書いた仏教の研究ノートがハーバード大学に残ってい ますが、それを読むと大変面白い。例えば五転説の中で方便究寛すなわち真の教えに導いて他を利するためには どんな外道の姿にもなることができるのだという考え方を記した、その欄外に自分で、﹁キリストも仏陀の化身の 一つ﹂と書きこんでいるんです。その後の彼の美術論、特に仏教美術論では、キリスト教は仏教の一部であると いうことを堂々と述べるようになってきます。 ちょうどそのころ井上円了は卒業しました。卒業式は七月にありましたが、恒例によって学位授与式は十月に なります。そこで円了は総代に指名されて謝辞を読んでいます。2の2、2の3、2の4は﹃官報﹄のコピーで、 12
卒業式と学位授与式の記事ですが、とくに2の4には明治十八年十月三十一日の学位授与式での、総理︵学長︶ の挨拶、文部卿︵文部大臣︶の挨拶に続いて﹁学生総代井上円了謝辞﹂の全文が掲載されました。後で読んでい ただければいいんですが、そういう最も優秀な成績で彼は卒業しています。 以上が非常に簡単に述べました東京大学におけるフェノロサの活動とすれば、次に井上円了が入学したときに どういう友達がいたか。これが資料の2のーで、すでに見ていただきました。ここに書いたものも入れて、円了 の先輩たちを記したわけです。明治十八年が最後で井上円了が哲学科を卒業しますが、翌年の哲学科の卒業生は 日高真実、長沢市蔵、この二人は天折したのでしょうかその後の消息が分かりません。二十年の哲学科の卒業生 が徳永満之すなわち後の清沢満之、岡田良平、この人はちょうど哲学館事件のときに文部大臣だったんじゃない でしょうか。それから梅本順三郎、その翌年が沢柳政太郎という順番で哲学科の後輩たちが続いています。それ が学友たちです。 次に井上円了はどういう学科を学んだかということですが、資料の[1の2]に円了が学んだ学科と先生を記 してみました。このころの資料としては﹃東京大学第何年報﹄﹃東京大学法理文学部一覧﹄というのがあります。 例えば、一番最初の明治十四年第一学年のところに︵東京大学第二年報による︶とありますが、東京大学第二年 報とか第三年報というのは、その年度の終わりに一年間を振り返って年報のかたちで報告をしている。そこには それぞれの教官が、今年は何年生の何を受け持ったか、どういう教科書を使ったか、学生たちの反応はどうであっ たかを文部大臣に報告する﹁申報﹂を含んでいます。したがって、第二年報によると明治十四年度のことがはっ きり分かり、第三年報によると明治十五年の円了が二年生だったときのことがはっきり分かる。ところが残念な ことに、第四年報、第五年報がいくら探してもありません。ずい分探したと思うんですが、考えてみると東洋大 13 フェノロサと井上円了
学の図書館をまだ調べていない。もしや東洋大学の図書館に第四年報と第五年報があれば明治十六年、十七年の ことがはっきり分かります。十六年、十七年は仕方がありませんので、明治十七年に出ている﹃東京大学法理文 学部一覧﹄を見て推定で書きました。三覧﹄というのはその年度の初めに、この学年はこういうことをやります という予告を出すんです。それによって、こういう先生がこういうことを教えたのであろう。そういうことで﹃法 理文学部一覧﹄の明治十八年版があればはっきり分かるんですが、それも手に入らない。ですから四年生のとき のは、明治十七年版の﹃法理文学部一覧﹄の四年生のところを書き写してきました。したがって三年生と四年生 のところは推定の域を出ません。 しかし一年生と二年生の時のことははっきり分かります。まずホートンに英文学を習っています。それから外 山正一、後で文学部長になる社会学をやった人ですが、この人に英語を習っています。教科書はエマソンの﹃カ ルチャー・アンド・ビヘイビア﹄、デクインシーの﹃チャールズ・ラム﹄、マコーレーの﹃英国憲法史﹄です。フェ ノロサが論理学をやっている。ドイツ語は岩佐巌。穂積陳重が法学通論。信夫棄が﹃史記﹄および漢文添削をやっ ている。オットー・ゼンという人がドイツ語をやっている。井上哲次郎は第一回の卒業生ですが、このときは史 学の助教授になっており、フランス史、ギゾーの﹃欧州開化史﹄、それからリポート等を課している。和文学では 飯田武郷が﹃竹取物語﹄と﹃大鏡﹄、第二回の卒業生の末岡精一がやはり史学をやっている。田中稲城も先輩です が、﹃制度通﹄、﹃語彙別記﹄などを読んでいる。千頭徳馬は先ほどの千頭清臣のことではないかと思うんですが、 論理学を初めてやった。現在も同じで、一年生ですからいろんなことをやらなくてはいけません。 二年生になると、英文学では外山正一がシェークスピアの﹃ハムレット﹄、エマソンの同じもの、﹃シビリゼー ション・アート・エロケンス・アンド・ブックス﹄、マコーレーの﹃フレデリック・ザ・グレート﹄を読んでいる。 14
それから史学として社会学と英国憲法史、心理学としてベイル、カーペンター、スペンサーをやっている。哲学 としてフェノロサが世態学、世態学というのは社会学のことですが、井上哲次郎がソシオロジーを世態学と訳す ように頑強に主張していたようです。それに対して外山正一は社会学と訳し、ついに社会学のほうが勝ったよう で、世態学という名称はいまは使われていません。この世態学と近世哲学史とカントの哲学をやったと、文部大 臣に対するフェノロサ申報に出ていました。井上哲次郎が東洋哲学、信夫粟が﹃左伝﹄、英文学のコックスが作文 添削とシェークスピア﹃キング・リア﹄をやっています。 今度は推定ですが、三年生では哲学として外山正一が心理学、近世哲学としてフェノロサがカントとへーゲル とスペンサーの哲学、中村正直が支那哲学と漢文という課目で﹃四書五経﹄、原坦山が印度哲学で﹃維摩経﹄、吉 谷覚寿が﹃八宗綱要﹄と﹃四教義﹄。原坦山は禅宗の僧侶ですが、吉谷先生は東本願寺のお坊さんのようです。そ して井上哲次郎が英語の書物を使った東洋哲学をやっている。多分レッグのものでしょう。おそらく印度哲学と 支那哲学は日本語でやったと思いますが、このころの授業はだいたい外国語で行われていました。 最後の四年生のときですが、だいたい同じです。ただフェノロサの哲学は道義学、審美学という名目になって います。カント、ヒューム、へーゲルの哲学をやった。中村先生の支那哲学は﹃四書五経﹄および老荘の学、印 度哲学の原先生と吉谷先生は前と同じものをやっている。こういうものを井上円了が習っていたということです。 では、どういう教科書を使ったかということですが、[1の3]にフェノロサの使った教科書を一覧として出し ておきました。一年生の論理学として使ったのはウィリアム・ジェボンズの﹃論理学﹄とチャールス・エバレッ トの﹃論理学﹄です。二年生の哲学史はアルバート・シュベーグラーの﹃哲学史概説﹄、フランシス・ボーエンの ﹃近世哲学﹄、ジョージ・ルイスの﹃哲学史﹄です。もちろんシュベーグラーのものも英訳本を使っています。世 15 フェノロサと井上円了
態学としてはハーバート・スペンサーの﹃社会学原理﹄の第一巻、﹃社会静学﹄と訳されていますが﹃ソーシャル. スタティクス﹄、それからルイス・モーガンの﹃アメリカの古代社会﹄もそのまま教科書にしている。 三年になってカントの﹃純粋理性批判﹄、ヒュームの﹃人間悟性論﹄、ウィリアム・ウォレスの訳した﹃へーゲ ル論理学﹄、J・Sこ・\ルの﹃ハミルトン氏の哲学﹄、ハーバート・スペンサーの﹃心理学﹄第二巻を教科書、参 考書にしている。第四学年の道義学、審美学ですが、道義学のほうはヘンリー・シジビックという人の道義学、 倫理学でしょうが、そのほかにスペンサーとかジェレミー・ベンサムなどを使っている。審美学というのはよく 分からないんですが、日本美術にかなり傾倒しているので、美術とは何かということを自分の研究を中心にして 話をしたのではないかと思われますが、はっきりしたことは分かりません。同じ哲学としては外山正一が使った ものとして、二年生と四年生の心理学で使ったのはベイン、カーペンター、マーズレー、アーバクロンビー、ヘッ ケル、スペンサーの書物です。四年になってもダーウィン、ルイス、タイラー、ラボック、レッキー、スペンサー、 フィスク、そのほかミル、スペンサーの新論文を使った。フェノロサはこのほかに三年、四年の理財学、経済学 も教えています。実は政治学はドイツ人のラートゲンという先生に替えられてしまい、理財学だけを三年、四年 に教えていますが、これは専門ではないので苦しかったと思います。ヘンリー・マクラウドの﹃銀行論﹄、ジェボ ンズの﹃貨幣論﹄、ウォルカーの﹃貨幣論﹄、ゴッセンの﹃為替法﹄、サムナーの﹃貨幣史﹄というまったく専門外 のものを読んでは整理して学生に教えるのは並大抵の苦労ではなかったと思うんですが、こういうものを教えて いる。 それでは、どういう授業の実態であったかということなんですが、ここに三宅雄二郎、井上哲次郎、市島謙吉 の回想というのがあるので紹介しておきます。三宅雄二郎という人はフェノロサをちょっと小ばかにして面白半 16
分に評したようなところがあるんですが、学生から見たフェノロサということで大変面白いところがあるので読 んでみます。﹁氏は背は高けれど細形にて顔つきもどことなくきょんとしたるところありて、常には縞の背広を着 し、あっぱれの節にははなはだ立派なる衣装に改むるなり。初めのほどは美髭なくして美服を着するときなど真 にどこぞの若旦那のごとく見えしが、後には願のあたりに長髭を垂れ、きゅうとすましこみ、いと偉そうなる相 貌を現すようになれり。されども町人の風はいまに去る能わずとす。足早にて教場に入り、温雅にて学生に一礼 し、黒色の鞄を机上に置き、冬なればすぐ暖炉に当たり、夏なれば直ちに窓を開け、談話しつつ椅子に掛かり書 物を開き、しばらく目をくるくるして読むかと思えば、突然立って二、三の学生を見つめながら声を張り上げて 講義を始め、一段終わるや終わらぬに分かりたるか分からざるかを問い、もし頭を振りあるいは弁駁を試むるこ とあらば喜色を帯びて更に声調を高くし立て板に水の勢いで説明をなし、白墨を持って塗板に向かい諸所に図形 を書き要点を掲載して学生の顔をきっと眺め、ドゥi・ユー・アンダルスタンドと二、三度も言いつつ机のそば をがたがたと歩み回り手を振り体をかわし種々の物真似をし複雑の理屈を説明するなり。ときには酒落を混じて 笑わしめ、ときには罵署議読にわたり、スペンサーはまったく誤解せりとかミルはかようのことを知らずとかルー イスなどは仕方がないとかいろいろの大言壮語を吐き、学生に向かっても諸君はまだなかなか分からぬと断言す るをはばからざるなり﹂とかなり辛辣です。﹁ただし口説を主とするも、ときによりては椅子に着き次第自著の原 稿を読み聞かせ文字どおりに筆記せしむることあり。また悪口を好むも、先輩の意見を陳述するには最初まず力 を尽くして称揚弁護するを常なりとす﹂。これで見ると、フェノロサは非常に活発な教師だったことが分かります し、予習が十分にできていて、諸説を自家薬籠中のものにした上で教えたようです ドイツ語やフランス語は使えなかったわけで、﹁多く英米の書で講義をしていた。また書名を指定して学生の参 17 フエノロサと井上円了
考に資した。経済学は主としてミルの書を用い、それに自家の批評を加えて講義をした。哲学のうえでは師は進 化主義、いわゆるエボリューショニストであった。ドイツのへーゲルの哲学と英国のスペンサーの哲学とを調和 するというのが目的であった。そして、このへーゲルとスペンサーの二つの哲学は進化主義の一点においてよく 調和し得らるべきもの、またそれが今後哲学の発展の方針であると自ら信じていた﹂。つまり、ドイツの考察的哲 学とイギリスの経験的哲学との調和に研究の方針を置いて講義をしていた。これが井上哲次郎の評です。 市島謙吉は途中退学した人ですが、こういうことを述べております。﹁なおここに逸すべからざるはフェノロサ 先生である。氏は米国の大学を終えるとすぐに日本に来たのであるが、この人の頭脳はいかにも明晰で、この人 にひとたび教わると深い印象を残した。この人は大学に多く重要な科目を担当し、哲学、社会学、経済学、政治 学のごときはみな氏の担任であった。その教授法は本を読んだり読ませたりするのではなく、講義の草稿を自ら 作ってそれを筆記させたもので、それが簡にして要を得たから学生の頭脳には深く入った﹂。これがフェノロサの 講義の実態であったと思います。 それでは講義の内容はどうかというと、これは学年試験の問題から、ある程度推測できます。ここに[3のー] とあるのがそれです。これは一番最後に記したように﹃東京大学法理文学部一覧﹄の明治十三、十四年版です。 ですから井上円了が習った哲学史ではありません。その前か前の年です。ただ同じようにシュベーグラーの哲学 史を教科書にしていますから、だいたい同じであろう。 十四間あって、全部やらせるのではなくて、何番と何番をやれ、あとは選択でいくつやれということのようで す。﹃東京大学法理文学部一覧﹄には英語の問題とその当時の日本語訳をくっつけて出してあります。大変面白い 訳文で、これだけ読んでいても面白い。 18
シュベーグラーの哲学史というのはデカルトに始まってへーゲルに終わっているので、だいたいその順番で並 んでいると思うんですが、[3の2]はこの十四間を私が整理したものです。一番最初に哲学と科学の相違点、哲 学の目的を質問している。二番目としてデカルトの近代哲学史における地位、三番目にデカルトからスピノザに 至る哲学思想、経験論哲学とロック、ヒュームのことに及んでいる。次にライプニッツからカントに至る哲学思 想、そして﹃純粋理性批判﹄の大要と時間・空間の認識、カントの先験的論理学、範疇論、先験的弁証法、カン トからフィヒテに至る哲学思想、フィヒテからシェリングを経てへーゲルに至る哲学思想、へーゲル論理学の存 在論と本質論、へーゲル精神哲学の絶対精神論と過去の哲学論との関係、エッセンシャル・デュアリティーの問 題とドイツ観念論哲学、スペンサーの進化論哲学とへーゲルとの相互補完性、そして最後に生物進化論と社会進 化論との関係とへーゲル史観について述べよ。これが大凡のところのフェノロサの哲学史の筋ではなかったかと いうのが、この試験問題によって分かるような気がします。 しかし試験問題ではいま一つはっきりしない。フェノロサに習った学生でノートを取ったものがいるのではな いか、そのノートを見れば分かるんじゃないかということで、実はずっと以前に坪内雄蔵が取ったノートが発表 されました。これはいまでも早稲田の演劇博物館が所蔵しているそうです。柳田泉さんが昭和十四年に﹃若き坪 内適遙﹄という本の中で述べられているんですが、当時遣遙は耳からの英語が苦手だったようです。フェノロサ のしゃべっていることが全然聞き取れず、ついていけない、書けない、誤字脱字ばかりで、そのノートからは何 を習ったのかまったく分からんというのが結論です。 その後、井上円了の一年先輩に当たる阪谷芳郎の哲学史と理財学のノートが発見されています。一九七三年二 月に発行された﹃季刊社会思想史﹄の第二巻第四号に、甲南大学の杉原四郎先生が﹁フェノロサの東京大学講義、 1gフエノロサと井上円了
阪谷芳郎の筆記ノートを中心として﹂という論文を発表されて、このフェノロサのノートの写真と内容をかなり 詳しく紹介されています。現物は国会図書館の憲政史料館にあります。これは途中から始まっているんですが、 カントの純粋理性批判の序言から始まり、先験的分析論、先験的弁証法に関する過程を解説してある。次に実践 理性批判と判断力批判の内容にちょっと触れている。それからフィヒテのエゴの哲学、シェリングのアイデンティ ティーの哲学、へーゲルの弁証法の論理学、スペンサーの社会進化論に及び、結論としてヘーゲルとスペンサー の相互補完性と両者の総合をうたっているということで、試験問題から推定したフェノロサの哲学史の講義はた ぶん当たっていると思われます。 一九八二年には、金井延のノートが秋山ひささんによって神戸女学院から﹃フェノロサの社会学講義﹄という タイトルで発行されました。秋山さんは日本フェノロサ学会の会員ですが、フェノロサとエズラ・パウンドに関 するマニュスクリプトが一番多く残っているイェール大学のバイネキー・ライブラリーで、フェノロサの資料を 探していた。そのときにギャラップさんというキュレーターが、昔私もお世話になって、私のときにはその話を してくれなかったのですが、そう言えばフェノロサの講義ノートがあるよと持ってきた。それで見てみたら、全 部写真に撮ってあるんですが、何とフェノロサの論理学、社会学、哲学史、へーゲル論理学の四つの完全原稿が ある。このフォトコピーはピアソンという教授がイェールにいて、その教授に東大の先生が寄贈したものだと言 うんです。東大の先生はだれかというと、経済学部の嘉治真三先生なんです。その嘉治先生に尋ねると、亡くなっ た木村健康教授にノートを見せてもらい、それをコピーしてピアソン教授に送った記憶があると言われた。それ から秋山さんは懸命になって木村先生のご親族やご遺族、土屋清先生、河合栄治郎教授のご遺族等、あちらこち らに当たったらしいんですが、ついに本物の所在が分からない。そして写真のコピーだけがイェール大学に残っ 20
ている。その中で秋山さんの最も関心のあった社会学の講義だけを復刻刊行したわけです。 金井延という人は大変英語のできる人で、実にきれいに書いています。阪谷芳郎もそうですが、坪内先生とは 違うみたいです。内容はまったくスペンサー社会学です。原始社会からどのようにして、弱肉強食とか適者生存 といういわゆる社会進化を経て現在に至っているかということでさきに触れた﹃世態改進論﹄と重複していると ころもあるようです。 秋山さんが後のところで面白いことを述べています。というのは、金井延という人は大変まじめな人で、後に 社会政策学者になり東大の経済学部の先生になりますが、この中にこういうことが書いてあります。﹁金井は少年 のころから英語に興味を持ち早くに英語に熟達していたから、英語による講義はそれほど苦労ではなかったであ ろう。当時は英米人のみならず、洋行帰りの日本人教授の講義も英語でなされていたようである。もちろん語学 力だけで首席を続けることはできない。金井は予備門時代と違って、大学時代は教室の講義に精励したと言われ ているが、彼のノートはそのことをよく物語っている。﹂金井延は井上円了と同級生です。明治十四年に一年に入 りました。黒川、長崎、金井、井上円了と並んでおり、すぐ隣の同級生でした。 ﹁彼は教室で筆記したものを後に補筆しながら清書したらしく、ノートのどこにも書き損じがない。講義に出席 できなかった日は印をつけて、この文は井上、あるいは三宅のノートを写した﹂。この井上というのは、秋山さん は井上哲次郎と註してありますが、哲次郎はもう先生ですから、明らかに井上円了です。三宅は三宅雄二郎であ ろう、中には、﹁この講義は教授自身の書いたノートから写したという註のついた日付の分もあり、彼がフェノロ サから講義ノートを借りていることもわかる。フェノロサが学生にノートを気安く貸しているという事実は、金 井の熱意もさることながら、フェノロサの人柄の一端を知ることができる﹂と書いてあるんです。自分が苦心し 21 フェノロサと井上円了
てまとめたノートは学生にはなかなか見せられないんじゃないかと思いますが、それを快く見せて、学生の聴講 ノートを完壁なものにしている。これはなかなか出来ないことだと思います。 そういうことで、実は気になって仕方がないのが前に針生清人先生からコピーをいただいた﹃井上円了英文ノー ト﹄です。あのノートに出ていることはほとんどが、フェノロサの挙げた人たちの文章なり解説です。これを﹁稿 録﹂として解読された喜多川さんのご苦労は多としたい。また喜多川さんの言われるように円了がこれだけ勉強 したのは偉いんだと。たしかに偉いと思いますが、あの中で円了が自分で勉強したところと、先生の講義や解説 を英文で筆記したところを分けなければいけないという仕事がこれから残るんじゃないか。それには金井ノート のほかの部分、すなわちヘーゲル論理学を含む﹁思想の法則﹂および﹁哲学史﹂の講義ノートが早い時機に翻刻 出版されると良いのですが、秋山先生は﹃社会学議義﹄を出した後はなかなか発表していただけない。持ってい らっしゃるのか、あるいはこれだけ写してきて、ほかはまだイェール大学にあるのか。イェール大学のバイネ キー・ライブラリーは行ってもコピーはしてくれず全部鉛筆で書き写さなければいけないので大変なところなん ですが、それを全部やらなければ井上円了ノートの性質というものが分からないのではないかと考えます。 先ほど申しましたように円了は卒業式で謝辞を読んでいるんですが、明治十五年には山田一郎という、後で﹃天 下一の記者﹄という言行録の出た人ですが、﹁生らは今人生の花﹂というだけの、三行半のふざけた謝辞を読んだ ことを回想録で述べております。明治十六年には鶴原定吉が謝辞を述べたことが分かりますが、謝辞の内容は全 然伝わっていません。この人は外交官から日銀理事、大阪市長などを歴任して代議士になった人です。官報に謝 辞が出たのは井上円了が初めてです。官報に謝辞が出るというのは、それまでのようにただ単に卒業生が互選し て総代を選んだのではなくて、大学当局が指名をする、あるいは少なくとも承認を得ている。しかもそれが文学 22
部哲学科の井上円了であるということは、主任教授フェノロサが円了を卒業生の中で最も高く評価していた証拠 だと思われます。[4のー]に、新学士氏名、総理、これは今の学長のことですが、その祝辞、円了の謝辞を載せ た明治十八年十一月二日の﹃官報﹄を転載しました。 哲学館でフェノロサを招いて講義をしたという記録もありませんから、両者の具体的な関連がなかなかつかめ ない。ただ円了のその後の実績、例えば哲学館を創設したときの旨趣というのがあります。この間いただいた﹃百 年史﹄によりますと、哲学館というのは大学に入る余裕のない人たち、あるいは原文を読む暇のない人たちのた めに、哲学的な思考がいかに重要であるかを教えるためにつくったものだと述べられている。ということは、円 了という人は東京大学の四年間において、哲学というものに対して何ものにも代えがたい意義を見出したのだと 考えることができる。また、それがすべてフェノロサによって開眼せられたるものだと考えて間違いはないであ ろう。同じ哲学館の開設旨趣の中で、ここで教える学科は論理学、心理学、倫理学、社会学、宗教学、政理、こ れはポリティカル・エコノミー、政法、これはポリティカル・フィロソフィーだと思うんですが、および中世哲 学、西洋諸哲学を研修するんだとありますが、これはみんなフェノロサが教えたものです。ですから、おそらく フェノロサに開眼され哲学的思考、それを一般大衆に普及しようという使命を感じたのではないか。円了の生涯 にわたる哲学の通俗講義、南船北馬の講演旅行に、私はフェノロサの影響を思わずにいられません。いろいろな 書物にフェノロサのことを﹁円了の最もよき師﹂と書いてありますが、そのへんにフェノロサと円了との、密接 な師弟関係を見たいと思います。以上です。ご清聴ありがとうございました。 23 フ;ノロサと井上円了
学位授与式を報じた『官報』 [4の1] 一 m ’ u ’ 一 L 一 一 第三閃堕歩兵留向︵貨斐︶ 近爾歩兵 三〇怜
塑ー
誓翼一 1門西1 is lコ EIM 望即旦 訴菖旦 1机㎡1 近衛工歩ー餐糞一
曇責︷ 栢19几 鑓嵩︷ 一撰三○
○東京大學阜位授奥式︵突郎省柵窒 理観爽四患部ノ卒嵩隼生=學位授輿式ヲ癖行匂り當日丈部卿以下文 部省各書記官升ユ同省所轄皐按長等臨場レ叉來賓晶ハ佐々木泰賄小 滞陸軍巾將伊東海軍中將英圃公使共ノ他内外人無慮二百人許昌レテ 共ノ式ノ次第升二皐位詑阜位授輿人名大皐穂理及丈部卿ノ帆酢皐生學 事
東京大學昌於./一咋三十一日法 縞仰ハノ酎卿皿所ハ去ユノふ即レ 午後一時一同着席O同三十分東京大皐縞理加藤弘之前畢年卒業ノ 阜生へ皐位肥ヲ捜典レ了,テ帆酢ヲ遠フO丈部卿伯爵大木喬任就 酢ヲ遠フo阜生一名鵠代トレテ謝欝ヲ娼フ 皐位肥 何某何皐科ヲ修メ定期ヲ歴テ共業ヲ卒へ考試威完レ乃予力掌ル所 ノ楕工偵,授クル=何集士ノ位ヲ以テス爾後優得令名ノ此位エ周 匂ル者ハ永ク汝ノ互L肩二蹄セン田一テ宙ホ京大座・ノ即ヲ鈴レ予ノ名ヲ 暑㌢テ以タ之ヲ誼ス 明治十八年十月川一日 東京大息丁絢理從四位動三等加層弘之印東褒篇理駕。之,巾蜘編舗駆予鋭鶏繧旦
學士姓名 法學士ノ分 法學科 5順井甑聯十凸族窩緩燗捨生ハ 稲島縣派†民馬場原咋洞 山︻口縣士硅顕 松岡郁之進東京府卒民輝野平太郎 長崎撫平民荘清吹郎岡山縫盤穀苦鴨騨醗細禦鷲蟹族太.保太ヱ
理竪芝分 ⋮ 肇科石川縣士族諜時敬愛知縣士族熊綴之介麹亙 科 岡山縣士族裸井廉 石川縣士族早鯖信太郎 純正化畢科 ⋮ 愛知縣士族堀鎖之丞 大坂府卒民松井元治郎 慮用化皐科 東⋮籠響馬纂縣騨照酬竃9糟科土蔓
第七百三就 明治十八年十一月二日 七 24堕璽岳 科 畜知肺士族和国萬睦 地質學科 静閥瓢士族本多畠行 岩 手螺士族多田臼宏 採鎮冶金皐科 鹿見島厩士族山田直矢 山 形縣士族田島暗雄 間阜士之分 書阜科・山ロ縣士族柏村貞一 東京府士族輝・井次郎 京都府卒民 静岡縣苧馬杉則知 京都府卒民井上卒造 京都府卒民澤邊保雄 民佐野響静岡縣士族天谷千松 頼島願卒民高木友枝長野瓢士 愛 族星野秀太節 徳島縣卒民鎌田備太恥 東京府士族奥田埴有 知縣中民稻野舘三節・騨馬瓢士族菅谷秀治顧井練士族噌摺貞宙 宮崎縣士族日膚和卒 佐賀聯士族原曼氏 友●士ノ分 哲●科新潤顧亭昆井上凹了 政治皐理財阜科静周瓢卒艮金 鹿見島縣井婿鹿見島懸士族長崎賄十節 埼玉縣士族急川雲登 士族三原題■ 瞭鴎孫士.族木間六節 篇理就欝 田テ弁頗各■公使閣下丼内外貴紳緒君工自ス 今日ハ我東京大●第七回ノ阜位授輿ヲ行フノ三.テ本厚ユ蟄テ 一貸中最モ賀ス︵ゼノ眠圓トス而レテ此憂唱賀スヘヤ覗日‘際レ 開下賭暑∼ノ青ハ臨ヲ民⇔ウスルハ太血甲ノ最唱漿トスル所ナ,■■テ謝ス﹂ 我東京大隼ハ我歌府ノ保譜ノ庫キト内外敢官ノ訓敢ユ秩掌スルト 昌由’現ユ厭米賭天皐ユ於テ日・ル所ノ鰭大昂科ヲ我゜昌貢,テ群 材ヲ薫陶ス〃﹁ポナー且,前後欧米各圃へ涙遣セル所ノ留皐生唱 漸次鱒朝レテ從凍外口敢師丸負櫓●.ル學科ヲ掘任ス九昌至,ヤレ ︵釦肌←∧且苧ハ鵬肌4嘘工清居昌右凹フ﹁トハナレ, 明治+二年以來今日工至ル迄木學工爺テ學位ヲ授ケ’ル卒業生無 慮四百四拾豊人ニレテ共内諸官省二束仕シ或ハ學校数員トナ’成 ハ猪工商禽肚工入,或ハ新側ノ椙軌⇒從事レ其他代言入トナ,開 粟書いゾレw者等鶴楡ナ,ト雄要ス化工今日W川ノ業傍ヲnフサ ル者殆,コレアヲス但レ是苓ノ輩年歯酬串干三+前後エシデ加フ ル昌當務ノ日猶哉ヤヲ以ア未タ杜曾二薪然頭角ヲァジハサスト錐 更工幾星霜ヲ纒・昌至,ハ八朝エァ・ト野昌ア・ト、二φタク漸次 杜曾昌勢カヲ占▲ 一一至ゾンー必ス 本庖▼田宏寸大皇士叩科ヲ修▲ル者四百四拾二人其他舌典ば習科回書漢 書ノニ課生別課法孚生書學生襲輻︵生打ユ携科生合レ’7八百九拾九 ハ 入欝千三百四芭人・;赤皆散年ノ薯用ノ材トこノ望・ ’ル輪ノナ, 次ユ令臥ノ新晶士琳子ユ告’膳子力多年,勉拳ユ由テ竜エ今日4 党祭ヲ得ル゜ぬ亘,’ルヲ誕レ併匂テ肺来猶今日ノ志ヲ失ハスシテ 基−大成’粛匂〆?ヲ鷲ル・ 女部卿凪欝 本日余此場゜エ臨司阜位授輿ノ式ヲ皐ケ緒子力勘皐ノ威績ヲ置ス夫 レ皐高キ者ハ共責亦大ナ,故呂今・’以往余力緒子工望▲玩更■ 大ナ,サルヲ得ス爾をテ譜子亦茶,増デ以テ共頃占所昌副︵9ル 可ヵ,ス諸子島メ●ヤ 阜生抱代井上圓了謝欝 文部卿闇下東音Ψ大隼抱理間下升工内外ノ紳士語君 本月本日槙理閣下内外ノ貴顎紳士ヲ招随.レテ生等四十七名ノ膚メ ェ學位授泉ノ典ヲ皐ケ,〃何ノ先藁力之昌加へv生等一肯以’典 肇三管◆ル^ζヤ伏テ惟ルユ塑覧昌大阜ヲ眠ケ︽材タ 宵㌢以チ皇蓮ヲ量盛昌㌢世描ヲ憐張匂Vトス共寓世ノ慮ヲナス賞 エ況ウレ’且,直タト爾フヘレ生等含奉業ノ幸ヲ得ル唱ノ声︾ ㌢テ共盛慮ト絶理閣下ノ啓辿及匂敢授賭君ノ鰐導レ栖由,?〃ぬ ナシ而レテ今更昌學士’榮位ヲ鳥ウス生好漫學窃昌自,負荷ユ醇 へ◆ルヲ塊夕然レ■閣下ノ此奉アルハ冑ユ生等本栗ノ今日ヲ就ス w−・竃ユァ,スレテ鑑ク消来二期スル所アルヲ知ル生等釦阿プ之 ユ雪翼ルノ方ヲ思ハサヲンヤ今ヨ,レテ後茶,刻普勉働レチ夙夜 共位昌属スルパ質任ヲ全:y︾・然ラス芸生等共名ヲ有スル 唱共寅ヲ失フ毫ノナリ故ユ此位ノ葡喝生等ユ周方w以上ハ飽∨テ 實効ヲ立テ自’識サ、ルヘカラス目家閲明ノ晩⇒ハ鼻海ノ穆ヲ執 テ仰路ヲ啓ヤ天下多事ノタ]ハ轍ヲ履・塚ユ當テ89勉ス貨寡吻レ テハ之ヲ媛・ル⇒丹繍ノ勲ヲ以プ・時渦・﹀ハ之ヲ洞スェ精肺ノ 水ヲ以ノ・朝エア・・能・共カヲ端レ野ニアル晶ク共身ヲ致レ 地退肋晦=唯世16文運ヲ興起・ア大晶■家工篇ス所ア>Vーヲ 方▲ルノさ此ノ如ク昌レア生悟始メ’皐士ノ漿位昌爵スルノ柏務 フ小ウシ01竺ア今日ノ盛意・豆スヘレト信・聯力邸懐ヲ堪へ’胞 25 フェノロサと井上円了
[3の2]「哲学史」講義の概要 …哲学史の問題は、前年度と内容はほとんど変らないが、かなり整備され、 あたかも14問がそのまま、下記の14章から成る講義内容を示すものの如くで ある。 1.哲学と科学の相違点、哲学の目的 2.デカルトの近代哲学史に占める地位 3.デカルトからスピノザに至る哲学思想 4.経験論哲学とロック、ヒューム 5.ライプニッツからカントに至る哲学思想 6.カント「純粋理性批判」の大要と時間・空間の認識 7.カントのTranscendental Logic, Categories, Transcendental Dialectic について 8.カントからフィヒテに至る哲学思想 9.フィヒテからシェリングを経てヘーゲルに至る哲学思想 10.ヘーゲル論理学の存在論と本質論 11.へ一ゲル精神哲学の絶対精神論と過去の哲学論との関係 12.Essential Dualityの問題とドイツ観念論哲学 13.スペンサーの進化論哲学、ヘーゲルとの相互補完性 14.生物進化論と社会進化論との関係とヘーゲル史観 以上、拙稿「東京大学におけるフェノロサ(4)一担当学科と講義内容」(1974 年3月『埼玉大学紀要・外国語学文学篇』Vol.7)より。 26
へ一ゲル氏ハ如何ナル方法ヲ以テセルリング派哲学中ノ錯誤ヲ彰明シタリ シヤ 第十 関係トハ如何ナル者ナリヤ 関係ナル者ハ都テ感覚二由テ知ルコトヲ得ヘキ者二非サルコトヲ証明セヨ 関係ナル者ハ都テ如何ナル状態ヲ以テ存在スルモノナリトナスヤ 現今世上二流布スル所ノ知識相対ノ理ヲ論破セヨ 第十一 ヘーゲル氏力当初其哲学ヲ創立セント企ツル地位ヨリ観ヲ下スニ当 テ荷モ正当完全ノ哲学ナルト認識スヘキ者ハ必ズ種々ノ功用ヲ備ヘサルヘ カラス面シテ其功用中特二緊要ナルハ何々ナリヤへ一ゲル氏ハ如何ナル方 法ヲ以テ其自ラ創立セント企ツル所ノ哲学ヲシテ是等ノ功用ヲ備ヘシメン ト試タリシヤ へ一ゲル氏ノ所謂絶対ナル意義如何 絶対ナル者ハ吾人又之ヲ思想トモ称スルコトヲ得ルハ如何ナル理由ニヨリ テナリヤ 第十二 今ヤ旋テ初メカント氏力其哲学ヲ創立セント企ツル日ヨリ以降ノ哲 学史上ノ沿革ヲ考フルニ当リカント派とフヒヒテ派セルリング派及ヒヘー ゲル派ノ哲学ハ各々夫ノ物我相関ノ大理ナル問題二如何ナル関係ヲ有スル 者ナリト認ムヘキヤヲ明示シ且ツ右諸派ノ哲学史ヨリ得ル所ノ真理ト其内 二存スル所ノ謬想トヲ分別セヨ 第十三 スペンセル氏力其哲学ヲ創立セントスルニ当リ時々依拠トスル所ノ 地位二前後相同シカラザル者三ツアリ何々ナリヤ 同氏力理学上二於テ論スル所ノ進化ノ理ハ是等ノ地位ノ為二動カサルルコ トアリヤ 理論上ヨリ云ヘハスペンセル派ノ哲学ハへ一ゲル派ノ哲学ヲ補歓スル為二 必ス無カルベカラサル者ナリトスルノ理由如何 第十四 実用理学ノ点ヨリ論スルトキハ進化ノ哲理ノ短処ナリトセザルヘカ ラザル所ノ者ハ何ナリヤ ヘーゲル派ノ哲学ハ此短処ヲ補フコトヲ得ヘキヤ 史学上ノ現象ヲ弁析セントスルニ当リヘーゲル派ノ哲学ノ未タ尽サザル所 ト認ムル件ハ何ナリヤ 理論上ヨリ見ルモ実際上ヨリ見ルモ史学上二表現スル所ノ人性ハ之ヲニ様 二弁析スルコトヲ得ベク且ツ然スルハ緊要必須ノ事ナリト為ス理由ヲ明示 セヨ 『東京大学法理文学部一覧』明治13−14版より。 27 フェノロサと井上円了
ロック氏力当初其哲学ヲ創起スルニ方テ起頭トナセシ所ノ者ト所謂究寛問 題トノ関係井ニデカルト氏力同問題ノ体裁ヲ変易シテ申明セシ所ノ者トノ 関係如何 ヒューム派ノ哲学トロック派ノ哲学トノ関係如何 経験論ヲ論理法二追随シテ推シ究ムルトキハ結局如何ナル地位二達スルコ トヲ免レザル者ナリヤ 経験論ノ根本ノ闘典トナスベキ者ヲ明晰二指示セヨ 第五 ライプニッツ氏所説ノ智識ノ資質二係ル理論ノ大要ヲ簡短二陳述セヨ 何等ノ理由ヲ以テライプニッツ氏ハ物我相間ノ大理ヲ解釈スルコトヲ得ザ リシヤ カント派ノ哲学ハ其古学派ノ哲学ノ統ヲ承ケシ者ナリト認ムルハ如何ナル 理由ヲ以テナリヤ 同氏ノ哲学ヲ称シテ批評哲学トイフハ吾人今之ヲ見テ如何ナル旨趣アルモ ノト為スカ 第六 カント氏力著ス所ノ純理批評中二於テ問題トナス所ノ者ノ大要ヲ陳述 セヨ 空間ナル者ハ吾人ノ直覚力二由テ知ル所ニシテ概念力二由テ知ル所二非サ ルコトヲ証明セヨ 右ノ事実ヲ解釈センニハ先ツ時間及ヒ空間二就テ如何ナル理論ヲ立ルヲ緊 要トスルヤ 第七 カント氏ハ其所謂超越論法中二如何ナル意義ヲ包含セシメタルカ 吾人カカント氏ハ所謂類叙ナル者ヲ客観界二於テ用フルコトヲ得ルハ何等 権理アルヲ以テナリヤ 吾人バカント氏ノ所謂超越敏弁法二追随シテ深疑ヲ推シ究ムルトキ終二如 何ナル地位二達スルコトヲ免レザル者ナリヤ 第八 カント派ノ哲学ノ全体ヲ考察スルニ当リ其中前後矛盾スル所アリト認 ムルハ何等ノ点二在リヤ 同氏ノ哲学中斯ク前後矛盾スル所アルニヨリ終ニフヒヒテ氏ヲシテ其論駁 ヲ逞ウシ以テ自家ノ哲学ヲ創立スルヲ得セシムルニ至リシ理由ハ如何 フヒヒテ派ノ哲学中ノ特殊情境ノ緊要ナル者ハ何々ナルヤ 同氏ノ哲学ハ猶吾人ヲ満足セシムル能ハザル所以ノ理ハ何ソヤ 第九 哲学史中フヒヒテ派ノ哲学ヨリセルリング派ノ哲学二遷レル景況ヲ明 述セヨ セルリング派ノ哲学ハ現二夫ノ物我相間ノ大理ヲ解析シ得ヘキ地位二近ツ キシコト前代諸派ノ哲学ヨリモ数歩ナリト認ムルハ何ノ故ヲ以テナリヤ 28
Kant, Fichte, Schelling, and Hegel respect{vely to the question of Essential Quality(Dualityの誤記か 筆者註), distinguishing the valid elements contributed by each, and the misconceptions of each、 13.What are the three different philosophical positions which Spencer virtually adopts from time to time?Is his scientific doctrine of Evolu− tion in any way affected by them?Why is Spencer needed, from the theoretical point of view, to supplement Hegel? 14.What is the defect of the Philosophy of Evolution from the point of view of Practical Science? Can Hegel supply this defect?What is the weakness of the Hegelian interpretation of HistoryP Show the possibil・ ity and the absolute necessity, both theoretical and practical, of a two−fold interpretation of human nature in history. 第一 哲学中ノ問題ハ総テコレヲ如何ナル究寛問題中二包含セシムベキヤ 理学ハ此問題ヲ解析セントスルニ当ツテ吾人ノ補助トナルコトヲ得ルモノ ナリヤ 此問題ヲ以テ究寛ノ問題トリト為スハ其決シテ僅々一流派ノ哲学中ヨリ出 ツル仮設二非サルコトヲ証明セヨ 然シテ斯ノ如キ問題ノ在スルコトハ古来世ノ哲学者流ノ認識スル所ナリシ ヤ 其故如何 第ニ デカルト氏ノ教旨ハ哲学史上ニー大変動ヲ来シテ近世哲学ノ翅楚トナ リシバ如何ナル理由ヲ以テナリヤ 同氏ノ所謂我思故我存ナル者ハ夫ノ究寛問題二如何ナル関係ヲ有スルヤ デカルト氏原定ノ仮設中後来同氏ノ究寛問題ノ申明ヲ誤マラシメ且ツ其遠 クヘーゲル氏二至ルニ及ンテ始メテ局ヲ結ヒシ所ノ近世哲学史中ノー変動 ノ起因トナリシ仮設ハ何ナリヤ右ノ外二又デカルト氏ノ仮設ニシテ近世哲 学史中ノ第一学派ヲ興スノ原因トナリシ者ハ何ナリヤ 第三 哲学史中二於テデカルト派ノ哲学ヨリスパイノザ派ノ哲学二移レル界 点ハ何ノ処二在リヤ スパイノザ氏力説ク所ノ本体ノ理ヲ批評セヨ第一学派中ノ至大閾漏ニシテ 終二第二学派ノ徒ヲシテ哲学上更ニー種特別ノ見解ヲ立テシムルニ至レル 所以ノ者ハ何ナリヤ 第二学派ノ三区ハ如何二分別スルコトヲ得ルヤ 第四 哲学者ヲシテ経験論ヲ唱ヘシムルノ動機トナリシ者ハ何ナリヤ 2g フェノロサと井上円了
movement of Modern Philosophy as far as Hegel?What further assump− tion of DesCartes conditions the First School in Modern Philosophy? 3.What was the point of transition from DesCartes to Spinoza? Criticize Spinoza’s doctrine of substance. What main defect of the First School opened a new point of view for the Second?What is the three−fold subdivision of the Second∼ 4.What is the conditioning motive of Empiricism? Show the relation of Locke’s starting・point to the ultimate problem, and to DesCartes’ version of it. What is the relation of Hume to Locke, What is the logical outcome of Empiricism?Point out clearly the radical defect of Empiri・ cism. 5.Give a brief sketch of Leibnitz’s theory of the nature of knowledge. Why was Leibnitz not able to explain the Essential Duality?In what way is the Kantian system the outcome of previous Philosophy? ls there any significance for as in calling it the‘℃ritica1”Philosophy? 6.Give an outline of Kant’s problem in his Critique. Prove that space is an intuition and not a conception. What theory with regard to space and time is necessary in order to explain the facts? 7.What does Kant mean by Transcendental Logic?What right have we to make an objective use of the Categories? What is the skeptical result of the Transcendental Dialectic? 8.What is the innate contradiction of the Kantian system as a whole? How did it open the way for Fichte? What are the essential pecuiiarities of the Fichtean Philosopby? Why does it fail to be satisfactory? 9.Describe the transition from Fichte to Schelling. What decided advance is made by Schelling toward solving the Quality?In what way does Hegel exhibit the failure of Schelling’s system? 10.What is a Relation?Prove that the knowledge of relations cannot arise from sensation. What kind of an existence must be predicated of the relations?Refute the modern doctrine of Relativity. 11.What are the several essential conditions to be satisfied by a valid system, as seen from the point of view of Hegel’s beginning?In what way does Hegel attempt to satisfy these condition? What is the meaning of Hegel’s absolute?In what sense can we call it“Thought”? 12.Now, going back to the starting−point of Kant, show the relation of 30
哲学科 政治学理財学科 和漢文学科 在籍2名(氏名不詳) 平沼淑郎・阪谷芳郎・土子金四郎・藤山裕二・中川恒次郎・ 久米金弥・浜田健次郎・春日秀朗・添田寿一・加藤彰廉・ 本間栄三郎・原川権平 棚橋一郎 明治14年度第3学年 哲学科 三宅雄二郎 政治学理財学科 穂積八束・梅若誠太郎・木村竹次郎・荻原朝之助・鶴原定 吉・坪内雄蔵・中原貞七・堤礼吉郎・小川忠武・前川亀次 郎・杉江輔人・在籍1名(氏名不詳) 和漢文学科 在籍者なし 明治14年度第4学年 哲学科 有賀長雄・嘉納治五郎(学士入学) 政治学理財学科 天野為之・高田早苗・山田一郎・在籍1名(氏名不詳) 和漢文学科 在籍者なし 明治18年7月東京大学文学部哲学科卒 明治19年7月帝国大学文科大学哲学科卒 明治20年7月帝国大学文科大学哲学科卒 明治21年7月帝国大学文科大学哲学科卒 井上円了 日高真実・長沢市蔵 徳永(清沢)満之・岡田良平・梅 本順三郎 沢柳政太郎 [3の1]フェノロサ出題・試験問題 第2学年「哲学史」明治13年6月施行 1.Under what ultimate problem must every question in Philosophy be included?Is Science capable of helping in the solution of this problem? Show that the statement of this problem as ultimate is not a mere assumption of one form or system of Philosophy. However, has this problem been generally recognized? Why? 2.How did DesCartes open the movement of Modern Philosophy?What relation has the“Cogito ergo sum”to the ultimate problem?What assumption of DesCartes misstates the problem, and conditions the 31 フェノロサと井上Fl了