奈良教育大学学術リポジトリNEAR
英語教育における Identification としての和訳法について
著者 宮田 明夫
雑誌名 奈良学芸大学教育研究所紀要
巻 2
ページ 1‑8
発行年 1966‑03‑29
URL http://hdl.handle.net/10105/6103
英語教育における 工aθn七ifi・a七iOゴとしての和訳法について
宮 田 明 夫
(英文学教室)
1. 本 稿 の 趣 旨
日本における英語教育の進展過程は、t h e S i Sとan t i t h e S i Sとの対立であり、その克服
への努力であったと考えられる。すなわち、幕末から明治中期にかけては、一オランダ式発音による「
変則英語」に対する中浜万次郎を中心とした「正則英語」の提唱であり、明冶時代においては、初期 におけるrアメリカ英語」に対する「イギリス英語」の優位性の争いであった。この時期はいずれも
r間接法」の時代であって、これに対してやがてr直接法」の提唱がわが国の英語教育に大きな動揺 を与えた。この発端ぽ耳E.Pa1㎜θrの}r ino ip1θs o f Lang uag e S tudプ
(N ew Y o r k,w o r1ポB o o k c。, 1921) によるものであり、彼の来朝とともに、間Ne w
Me tho d が少なくとも英語教育の理論面では一世を風靡した。英語教育が直接法によって行なわ れるべきものであるという理念は、昭和期を一貫する指導理念となったが、戦後においては、同じ直 接法の範廃の中で、言語学を中心とした動きが活発となった。C.C.肘i e sが0T e邑。h in g
・・dL目… ing Engli・h… F ・ig・L・・guミ9・ (A・・A・帥・,u・i又
。f Michigan Press, 1946) の第1章間。n工e旺n士。g a F⊃rθi騨軸agθ舶an
Aduユt において、従来の直接法との相違点を述べて、より新しい間N・w Metho d を提唱し て以来・日本の英語教育は新しい段階に入っている。
このような指導理念の変遷を通じて英語教育が変転してきたことは事実であるが、㌧英語教育を構成 するいろいろな要素を個々に取り上げてみると、その中には可変的な要素と不可変的な要素があるこ
とが考えられる。たとえば、指導理念や教育技術などは可変的なものであるが、語句のr意味」や「
用法」などは、時代の推移によるそのもの自体の変化を考慮に入れなければ、不可変のものであり、
教授法や教授者に応じて変化すべきものではない。
さて、私がこの小論で取上げようとするのは、英語教育における「意味照合」(町里Paユme r の用語による I d・n t i f i c a t i・n口)の一側面としての「訳し方」の問題である。「翻訳」は一
般にr間接」的な手法であるから、最近の教授法では厳に排除されるのであるが、厳密に言えば、 「 翻訳」であるが故に排除されるのではなく、翻訳が意味照合の中間媒体に用いられるためである。だ
から、最も直接的な意味照合は、 d og をiと・nt i fy するのに現実のr犬」を目撃させたり、
赤色の紙を示してこれが一r e d である、と教示するなどの場合以外にはありえない。しかし実際に は、日本語の言語活動さえ伴わなければ、英語によるr言い換え」や「説明」の場合でも直接法とし て受け入れられている。r意味照合」の方法として「 dOg!は『犬』である」という教え方が間接 法であると断定されるのは、翻訳という中間媒体を通じたという事実以外にはありえないものと言え
る。
英語教育における不可変な要素である「意味」の研究は、直接法万能主義による誤った「翻訳」軽 視の傾向のため、現在の段階では、不満足な状態にある。「訳し方」の大勢は・ r新英和大辞典」(
研究杜昭和2年)以来、ほとんど一歩も前進していないと言える。形式面での教授法の飛躍的前進
の裏面では、古い不合理な因習が依然としてつづいている。
この事実の例証として、「前置詞の訳し方」について考察を進め、「訳し方」の面での問題を討究
したい。
2英語教育の実状とr翻訳」の意義
わが国の英語教育は、教授法の過程から考えると、T ra n s1a t i・n M e t h・d(翻訳教授法)
からはじまってDireo t M・th・d(直接法)の時代に入り、やがて現在のL ingu i st ic M目th o d(言語学的教授法)に至ったと言える。部分的にはI.へR i Gha r d sなどを中心とする P s Yc h o1・g i c a l M日th od (心理学的教授法)を取り入れた方法も用いられており、名称も L呂ngua g e−C・n t r o1M e t h・d (言語制御教授法)、O r a1Ap p・o昌・h(口話式予備教 授法)、Pa t t e・n Pra o t i ce (文型練磨法)など、場合に応じて変っているが、その方法は いずれも、言語学や心理学の原理を直接法に結びつけたものである。さらに最近ではT e a ch i n g
M a.h in・の発達牟著しく視聴覚の教具を補助手段として、英語教育が格都の革新をとげたかφ観 を呈している。
しかし注意深い観察者なら、そのr革新的」な授業の裏面で行なわれている古い、無反省な教授法 の実態を見逃さないと思う。ある教師はO・al Approachの前段階が終ったあとで「このthi・
は『これは』で・a boyは『ひとりの少年』ですよ」と教えており、またある教師は「isという のは『である』という意味で、これを動詞といいます」と説明する。D i r e o t M。七h odが一転し てTr a n s1a t i on Me t h o dに代わるわけであるが、その両者の有機的な連関はほとんど意識し
ていないようにみえる。つまり、前半の授業は「教授法」に基づいて行ない、後半はその余恵に甘え た「非教授法的」授業であ亭。前半がりっぱであれば、後半の形式は自動的に救われるという意識が 前提になっているかのようである。私が観察したかぎりでは、この事実は全国共通のものであり、し かも、授業の一部分だけでも「新らしい」方法を採用一している教師は、それだけで有能教師と目され ている傾向がある。
新教授法と呼ばれているもの1女ぞのどれを取ってみても、本質的には革命的な薮投法であって、
従来の教授法と併存使用を許さない性格のものである。過渡的にはSynth et i o Me七h od(折衷 法)の存在を認めるが、それはあくまで便宜的なものであり、水と油を混合するような形に終る。こ の事実を認めながら、しかも、古い教授法と一の併合が行なわれているのは、日本における英語教育の 抜きがたい実状に曲っている。すなわち、日本語と英語の異質性{外国語教育の目的の多面性、日本
における教育制度の特殊性などである。
英語教育におけるr翻訳」の意義もこの事実に由来する。英米人がドィッ語やフランス語を学習す る場合と違って、日本人にとっては、外国語である英語を日本語に移し換えること自体に、一つの語 学的な意味があると言える。一r o昌e は a swee t−8me11in g f1o er gr ow ing on
呂tb o rny bu・h と理解するよりも、「ばら」のほうが言語的には好都合であり、 brav e は nデt frightθned by danger,pain or suff・ring と置きかえるよりも「勇 敢な」が語感的にすぐれていると考える。翻訳は、多くの場合、原意から逸脱したり修正された意味 を表わすから、このような習慣が英語教育上危険であることは言うまでもないが、不完全なp a・a−
phr a s ing が翻訳以上に不合理であることを多くの教師は知っており、翻訳を避けることをため
らうのである。
翻訳のもつさらに大きな意義は・教授技術の一つとしての必要姓であろうg前述したように、翻訳 は間接的な方法であり、将来の教授法からは抹殺されるべき性質のものであるとは言っても、現実は それほど簡単なものではない。各学校において、新教授法の精神に則しそ、全英語教師が連続してこ の方法を有識的に実施できる場合は、非常にまれであろう。ある年度のあるクラスで、ある教師が実 施できる場合はあるとしても、このような形での実施はかえって有害である場合さえある。生徒の立 場から考えてみた場合、新教授法は効果のあがらない教育となり、ありがた迷惑でさえあろう。日本 におけるこのような特殊性を考えてみると、「章味を日本語に置き換える」作業が依然として亡びな い理由がう草づける。「翻訳」という便法があればこそ、教師は安心して新教授法にとび込んでゆけ るのであり、実験的教育が無効果に怒るのを救うのである。この事実を他の面から考えてみると、日 本語による言い換えは、この事実が表面的に意味しているほどには「間接的」ではない場合があると いうこと、すなわち直接法の補助的手段として「日本語」に頼っても、それほど矛盾を生じない場合 があるということである。
以上の事実から、さらにr翻訳法」(T・。・・1a七h・M・th )の問題に触れておこう。多く の教師はこの問題を考えるさいに、大きな錯誤に陥っている。それは、翻訳法が間接的な語学教育法 だから、直接法に対立する有害な方式であると見なす点である。翻訳そのものは有害無益な方法では ない。直接法のねらいは、意味照合の過程にあるのではなく、直接法を通じてのr言語習慣の形成」
にあると言える。H.E.Paユ㎜・rはこれをFusion(融合)と呼んだが、意味内容の照合には、
場合に応じて種々の方法が可能であることを認めている。「翻訳法」の欠点氏意味照合に日本語を 使用することにあるのでぽなく、ただそれだけにとどまづてF uS i O nへの発展がないということで
ある。
このように検討してゆくと、英語教育における「翻訳」の意義が自動的に割り出されてくる。翻訳 は、意味照合の一手段としてのみ存在価値があり、現在の教育組織下では依然として捨てがたい価値 をもっているということ、ただしこの方法のみに頼る時代はすでに過ぎているということである。
3r翻訳」の問題点
「翻訳」の重要問題点のrつは、 「訳語」のきめ方である。訳語をきめるさい、多くの教師は一定
の慣習に従っている。彼らは、自分が英語入門期以来身につけた訳語法をそのまま自分の生徒に伝授
するのがふつうである。このような伝統的な訳法の典拠は当然r辞書」に承けるが、その辞書弘一
部の改訂は行なっても、訳語法に大きな変革は行なわない。つまり、訳語法は、明治時代も現代も大
差はないわけで、明治時代の訳語の文字と仮名づかいを現代ふうに言い換えたものが現代の訳語法と
なっている。英語教師の多くは、既知の語は伝承した訳語ですまし、未知の語は辞書の訳語を採用し
て急場をしのぐのがふつうだから、訳語の検討が行なわれる機会はなく、英語教育の外形の進展とは
無関係 ノ、訳語は旧態依然たる有様となる。1例をあげておこう。1in七6g・itプという語はr完
全無欠な」状態を意味する語であるが、人間については「正直、誠実で正義感のつよい」状態をあら
わす。情A man of integrity□というのはrまじめ一方な人間」という訳し方が原意に最も
近いと思う。ふつうの辞書では「廉恥の人」「正直な人」などの訳し方を踏襲しているが、「正直な
人」という語意はそA ma n o f i n t e g r i t yという語感からはかなり離れてしまう。
・Prθfθr・という動詞の場合も、中学生向きの辞書てば「好む」という訳語をまずあげているが・
この語の真意は「…のほうがよいと思う」の意味である。
辞書の訳語は、さらに、それが「辞書」であるが故に典型視されるという罪を犯している・しかも その典型がか在り長年月にわたって踏襲され、場合によると、誤った概念が正しい概念として受け継 がれることになる。一JaPan i石θd−En91i日h というのがこれである。この傾向は「語義」よ
りも「用法」に多くみられるが、「発音」「抑揚」などの音声面に至ってば正否の判断が麻痺=してい るかの観さえある。
このような観点から、英語教師の正しい態度がつねに要求される。教師は訳し方の伝統に盲従する のでなく、伝統を背景としながらもその上に立って正否を判断する態度が必要である。文の読解には、
与えられた訳語だけでなく、創造された訳語が適用されるべきであり・場合によると「典型」を修正 すべきである。
4. 「訳し方」の検討一前置詞の場合
「訳し方」の基本的な面ば前項で述べたが、工aent ifi cat i onとしての「訳語法」には、も うつの側面があることを注意すべきだ。この場合には、訳語が学習者に対する意味照合の手段とな るだけでなく、その訳語を前提として、その語のもつ別種の用法に対しても手がかりとならねぱなら ないという点である。つまり、訳語の「応用性」がひろくなけれぱならないという点である。たとえ ば、一。■θar watθr の。■θarを「きれいな」と訳すのは、この場合の訳語としては妥当であ るが、oiθarが「きれいな」なら!cユθan watθr の。■θanも「きれい衣」ではないかとい
6ことにたる。訳語の「応用性」や「発展性」から言えば「きれいな」ば不適当であり、Cユearば
「清澄な」oユθanぱ「清潔な」という語感を植えつけて拾く必要がある。こうして拾げば、中学生 でも一Cユθar rO O皿 が誤りで=Cユθan r OO皿 が正しいという判断がつくし、一〇ユθar at一 皿。8Pherθ の差異もわかる。個々の面での妥当性だけでなく、ひろい応用性に目をつけて訳語を
くふうすることが英語教育ではとくに要求される。
さて、初級の学習者にとって、複雑難解な用法をもつのは前置詞であろう。文法書には基本前置詞 として37種、やや高級なものをふくめると42種の前置詞を配列して解説する。そのそれぞれにい くつかの用法差があり、したがって前置詞そのものの訳し方も異看ってくる。(正確に言うと、前置 詞そのものの「訳し方」という表現は誤りであって、前置詞とそのあとに伴なう名詞(相当語)とを 合体して意味単位とするのが当然である。しかし、学習者にとっては、前置詞のはたらきを「訳語」
に置き換えて理解する習慣がつよいから、ここでは便宜的に、前置詞だけを切離してその訳し方を検 討することにする。)いくつかの用法がある申で、慣習的には、電On を「の上に」一in を「の 中に」のように、代表的な訳例が固定して香り、初学者はこの固定訳を中心にして文意を探る作業を するのがふっうである。
私はこのような「固定訳」(以下これをr定訳」という)のいくつかに疑問をもっている。幾十年 にわたって使われてきた「訳し方」であるだけに、それぞれ、長所をもってばいるけれども、必ずし も最善ではない。以下、このよう広定訳の改変を提唱するわけであるが、心ある英語教育関係者諸氏 のご賛同をいただけれぱ幸いである。
1. onについて
onの定訳は「の上に」である。この訳し方ば on thθaθ8k (机の上に) on thθ
5trθet (街上で),a s car on thθfao8 (顔の」=のきず)などの場合はうまくい く。しかしその他の用例ではほとんど成功しない。私の案は「に触(ふ)れて」である。}Thθrθ i S a bOOk On thθdeSk: ぱ「机にふれて本がある」→「机に本がのっている」のよう
な理解過程でこれを応用するわけである。他の用例を示すと一一My homθis on thθouト skirτs o f08aka: 「私の家ば大阪の町はずれ(ふれて)ある」(近接をあらわす場合)、
岨A fユy is waユk ing on the cθi■ing三,「蝿(ばえ)が天井にふれて歩いている」
(付着をあらわす場合)、 HθユaアOn血i8baCk: 「彼は背中(を地面に)ふれて横たわ った」→「彼はあ歩むげに寝た」(支持・支点をあらわす場合)、一一He t aユkθa o n thθ
Subコe Ct: 「彼はその題目にふれて語った」(関係をあらわす場合)などさまざまに応用できる。
「の上に」が長い間の習慣にたっているわれわれにとって、これを「にふれて」と変えることに は 種の低抗意識がぱたらくことぱ事実であるが、中学初年級の生徒にはこの種の抵抗はありえ広 いはずである。問題は「にふれて」と「の」=に」とどちらがIaθnt if iCat iO nの手段として 便利で応用性がひろいかということだと思う。
2 atについて
atの定訳は「において」である。この訳し方の「拾いて」は不必要で、これがあるためにかえ って誤解が生じる。私の案はrに」である。一一Hθ i臼nowユi ving at a s皿a■ユtowd r彼ば今小さい町に住んでいる」(点・位置)、 I gO t O Sユeθp atθユeVθn: 「私は
十一時に寝る」(時間)、間亘θ i8900d at araWin9: r彼ば絵をかくことにうまい」
(従事)、!!Hθwas at hi日wi t8 end3 「彼ば彼の知恵のばしにあった」→丁彼は途方 にくれていた」(状態)など、各種の用法を検討してみると「巻いて」は有害無益な用語で、当然 「に」または「で」にすべきだ。
3. inについて
inの定訳はrの申に」である。inの用法は非常に多様であるから、onやatほどには語訳 が容易でない。しかしWithinやintOとまぎれないために、また語義の本旨から考えても、r 「の中に」ば不適当だ。 「にはいって」が定訳であるべきだと思う。この語義の変化訳として「の
中に」を与えるべきである。!一Hθ is in bea: r彼ば寝床にはいっている」(場所・位置)
一 Hθ i臼in g o o a hθaユt辻 r彼はよい健康状態に(ばいって)いる」(状態)、 工 ユエ コOin γOu inアOur wOrk: 「私はあなたの仕事にばいってあなたに加わりましょう」r・
「私はあなたの仕事に協力しましょう」(活動・従事)・!a皿an in bユaCk =躁衣にはい っている男」→「黒衣の男」(着用)、一十NO thing i8yθt in皿y S ight三「まだ何も 私の視界にぱいっていない」(範囲)、在とと応用できる。指導の順序から言えば、入門期には rにはいって」とまず教え、次には「にはいって」の「に」だと教示すれば簡便に在る。しかもその
のほうが訳語の応用性がひろくなる・
4. intoについて
intOの定訳は「の中へ」である。この訳し方には前項のiI1とほとんど見わけがつか庄いため 生徒にしばしば誤解を生じる。intoぱinと違って、動く状態、結果として生じる状態をあらわ すのであるから、inの「はいって」に対し「ばいりこんで」が定訳になるべきだと思う。す在わ ち、!Hθwθnt into thθhou日θl r彼はその家へばいりこんだ」、 They皿a kθ
fユOur into brθad二 r彼らば小麦粉をパ!に作りこむ」→r小麦粉を使ってパンを作る」、
一Thθcatθrp i■■or turn8into a加ttθrf■y:,「毛虫が変化して蝶というもの にはいりこむ」→「毛虫が蝶に変化する」などと在る。ただし、intoの用法ぱ・「の中へ」の訳 し方でも同じだが、いわゆるr直訳」てば自然在意味が表現できない用例が多く・これを統一的な
訳語ですますのば危険である。intoの用法の典型は簡go int0 80工nθpユacθ の‡う在用 法であるとみなし、その面で訳語をきめるのがよいと思う。
5 a1〕ovθについて
定訳はrの上に」であるが、辞書によってはrより上に」と在っている場合もある。これは当然 そうあるぺきで、rより上に」「より高く」「より大きく」在とが原義である。たとえば、!!Thθ aθroPユanθ i日abov e the cユ。uds3 「飛行機は雲より高いところにある」、間Ther眺 a wat erfaユエabovθthθbridgθ3 「その橋より上流に滝がある」、.一 John is abovθaユエ the othθr boys in hi6 o■a8s= 「ジョンは他の同級生よりも(頭
脳が)上だ」のように用いる。「の上に」とrより上に」の差はこんなふうに意味の明確度に関係
する。