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貴州・斡霊山の仏教

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(1)

貴州・斡霊山の仏教

鎌 田

‑ J . 与

4

去 を

中国の名山の中には仏教と深い関係がある山が多い︒その山を開いたとされる缶説上の菩震によってその山は

霊山︑聖地となる︒たとえば迦葉尊者の薙足託︑普賢菩瑳の磯田租山︑文殊菩薩の五台山︑観音菩譲の普陀山︑地

蔵菩薩の九華山などは菩薩との関係によってその山が仏教聖地となっている︒また︑達摩の嵩由︑慧遠の麗山︑

慧龍の曹渓山︑密雲の天童山などは現実に活躍した仏教者によって山が関かれ︑仏教聖地として栄えたのである︒

中国の茜南部︑貴州省にもまた仏教聖地といわれる名山がある︒それは緊霊山︑金鼎山︑党浄山である︒本稿

ではこの中の斡霊山をとりおげて︑論述したいと思う︒

そのためまず最初に貴州の仏教聖地・禁霊山の概況について述べ︑ついで緊霊山弘福寺の現況と霊史を明らか

にし︑次に弘福寺関山の赤松和尚の伝記と思想を述べ︑最後に緊南の禅宗の状況を一不す唯一つの資料である﹁緊

南会澄録﹂に現われた貴州の禅者について述べたいと患う︒

貴州の仏教聖地・禁霊山

貴陽市の吾北︑市街区から一・五キロの距離にあるのが緊南第一山といわれる緊霊山である︒

国際仏教学大学院大学研究紀要第三号平成十二年三月

(2)

貴州・欝霊山の仏教(鎌田)

緊霊山叶)は象王嶺︑壇山︑獅子岩︑白象山︑杖鉢峰︑大羅嶺︑関万岩などの群山よりなっている

c

山上には古樹が多く四季を通じて緑が絶えることがないという︒山中には一︑五

O

O

種以上の薬材が産出するといわれ︑また五O種以上の鳥類︑猪猿が群壊しているという︒風光明娼と相侯って現

在では貴州省唯一の大型公園となっている︒

登山道路は畠りくねって弘福寺の入口に達しているが︑途中には奇岩怪石が多く︑珍らしい古木が見ちれる

c

山頂近くには清の康照十一年(一六七二)に創建された弘福寺がある︒

斡霊山の背後には漏勺泉︑百盈泉とも呼ばれている霊泉がある︒山の前面には顛麟潟︑古仏洞︑洗鉢池などの

古遮が多い︒山の麓には現在︑遊覧地となっている緊霊海がある︒

斡霊山辻景勝の山であったため︑清代の文人たちはこの緊霊山の石壁上に﹁緊霊勝景﹂﹁第一山﹂﹁緊南第一叢

緊霊山の勝跡については﹃緊霊山志﹂巻二の﹁勝概﹂の附図︑出水の条を見ればよい︒

霊山秀水は南海の普詑山︑山右の五台出︑萄中の蛾眉山︑青陽の九蓮出(九華山)であり︑それらの山は聖蹟︑

聖地と称するに倍するという︒緊霊山については次の如く述べている︒

000

彼の緊霊は︑議然として諜出し︑塵表を秀絶す︒悉く富来の大意を豆一︿し︑宜しく抽出御の為に供奉すべし︒山水喪帯し︑勝

緊霊山は西来の大意︑すなわち禅宗によって栄えた勝境であるというのである︒これを見ても斡霊山から仏教

との国縁を取れソ除くことはできないことがわかる︒以下︑﹁緊霊山志﹄の記述によって往時の略的霊山について述

緊霊山は貴陽域の西北三里余りのところに位量する︒杖鉢峰が西に吃立し︑その峯を廼ると︑谷水の譲々とし

(3)

て山の麓を繰る音を開くことができる︒この谷川は檀山清水と呼ばれる︒西蓮蜂が露関し雲際に直入しているの が緊霊山であるという︒

群峰︑剣の如く輪壁をなし︑通道は子廻して登らなけれ認ならない

G

山の入口に楊柳泉という清到な泉が湧き

出しており︑さらに進むと天生石橋がある︒あたりは翠竹が繁茂し︑その背後にある金碧輝憧たる殿関が弘福寺

寺の北に薪をとる樵夫が通れる小径があり︑娼火は稀にしかなく︑薙犬の鳴声のみ聞こえる大羅木村があった

という︒村の前に渓流があり︑その背後に天に向って首をもたげているような獅子巌がある︒この獅子巌の下に

檀山洞があり︑その下の渓流が壇山潤水なのである︒

{玉塔蜂に続いている調子巌に対峠しているのが象王嶺である︒この象王嶺に登ると貴揚の域癒を一望できると

い ︑ っ ︒

中蜂は昆麗閣の背後にある︒そのやや左に宝塔蜂がある︒中峰は一山の主峰であり︑長松繁茂し︑子蜂が属医

北蜂は中鋒の左にあり獅子巌と互いに関連がある︒

三台蜂は象王蜂の東南にあり︑この峰の下には覆鐘山がある

G

鉢孟山は獅子巌の外側にある出で錫鉢蜂と相接している︒

錫杖鋒は象王嶺の外観にあり︑鉢孟山と対持している︒

巌には獅子巌がある︒獅子巌は寺の東北にあって獅子が輪降伏しているような状に見え︑その中に檀山濡がある︒

蛸立しているため登ること誌できない︒

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

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貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

l2Y 

嶺には象王嶺と大羅嶺がある︒象王嶺は寺の右にあり︑頂上に双石があるが︑この嶺は象のようであるので象

王嶺と呼ばれて︑獅子巌と相対峠している︒

大羅嶺は山の菌北に十余呈にわたって盤廻しており︑その最高処から︑上は清鎮を望み︑下は竜里を望むとい

われ︑緊雲山中の﹁貴山富水﹂と称せられている︒

泉には生生泉と聖泉がある︒生生泉は山の左傍にあり︑冬温にして夏涼︑清浩として本の音が絶えることがな

い︒寺の飲料水はこの生生泉に頼っていた︒この泉の上には石壁が扉の如く乾立し︑その下に地塘がある︒この

泡の水は流れ出して濯説に利用されている︒

聖泉は議院泉とも百盈泉とも呼ばれている︒この聖泉について︑貴州巡撫長白愛必達撰の﹃跡的南識略﹂巻一で

十 品 ︑

漏的泉は斡霊山の後に在り︒其の泉︑童夜盈結し︑百を以て度と為す︑名けて聖泉と日う︒亦た百盈と名く︒

と述べられている︒この聖泉は山の後︑二里ばかちのところにある︒甘美なること他の水とまったく異なるとい

う︒水上に亭が建てられている︒

井には楊柳井がある︒寺の前の入口から三百余歩のところにあって︑山から渓流が流れており︑味は甘美で井

の上に榔樹が生えている︒

潤には壇山澗と北澗がある︒壇山澗は︑獅子最の下にあり︑錫杖蜂︑鉢孟蜂の下を縫って省域の百一廓に達して

北痛は大羅渓水とも呼ばれているが︑愚嵐関の下で居畠し︑山の後で盤議している︒

揮には翠竹竜置と称する浬が寺の前方二百余歩のところにあり︑竹奮がこれを覆っている︒水は清測であると

い ︑ っ ︒

(5)

以上︑﹁緊霊山志﹂の﹁山水﹂の条によって︑かつての緊霊山の状況を‑記したのであるが︑明末から清初にか

けての緊霊山が景勝地であったことがわかる︒この景勝地に来山し寺院を開いたのが赤松和尚であった︒

三︑禁霊山弘福寺の現況と歴史

緊霊山弘福寺は赤松和肖(赤松道鎮︑撞川韓氏︑二ハ三回

17

)

が創建した寺である︒清の康県十一年(一六

七二)春︑赤松和尚は杖を策して緊霊出に来た︒万蜂環議している斡霊山を見て心から歓喜した︒早速入山して

信者の喜捨によって草庵を結び︑この寺を修建するに至ったという

c

赤松和尚は禁霊山の中の杖鉢蜂︑宝塔峰︑象王嶺に固まれた由形の地勢を見て︑その場所を立寺のところと定

めた︒この地は第四紀の氷河期の遺誠一であるといわれる︒入出以来︑六年間を経過した康照十一年(一六七二)︑

弘福寺が創建された︒その後︑三十二年の努力によって究科が完成したのである︒

(

)

弘福寺は中軸隷上に山門殿︑天王殿︑観立呂敷︑大雄宝殿︑義経楼が並び︑その需舗に方丈苑︑尊客寮︑如意寮︑

禅堂︑雲水堂︑戒堂が配置されている︒常住憎の多い持は百余名に達しまさしく貴州の首剰の位置を占めた︒

民居時代には貴州仏教会の所在地であり︑民国十八年(一九二九)には︑果瑳法師が賓州仏学院を創建した︒

新中国或立後には︑壊一法舗が寺務を行い︑自ら耕作して生活じ︑頭詑行を疹した︒

弘福寺は建立以来︑三百年以上もたつが︑弘福寺の発展の歴史の上で最大の貢献者は︑現方丈の慧海法師であ

るといわれる︒彼は一九八七年︑住持となってから︑信信は四散し︑殿宇は荒廃し︑山林は荒れ果てていた弘福

寺を自己の資産などを投げうって︑殿堂を修復し︑出向を改建し︑新たに義経楼︑五冠堂︑禅堂︑方丈苑︑九竜

浴仏石壁(在離)などを造築した

c

蔵経楼についていえば︑その外観が雄偉壮観であるのみならず︑内容も充実︑その中には﹃乾隆大蔵経﹂七千

費舟・緊霊山の仏教(鎌田)

三 E

(6)

貴州・緊霊山の仏教(鎌田) 二百四十巻︑﹁中華大蔵経﹂八十巻︑﹁大正大蔵経﹄八十五巻︑﹁一房出石経﹂二十三巻︑﹁仏蔵輯要﹂四十一巻など

が攻蔵されている︒現在建造されつつある五百羅漢堂も大工事であるが︑この工事が落成すれば貴州仏教界の最

高の殿堂となるという︒

慧海法師はまた僧尼の人材養成に意を用い︑貴州尼衆仏学院︑貴衆憎伽学院を復興し︑十余人の僧を外地の仏

学院に送って学習させた︒さらに貴州全省の仏教寺院の修復に努め四十万元余りも資金を援助したという︒

現在︑弘福寺は貴州省最大の寺誌となり︑貴州省仏教協会の所在地になっている︒慧海法舗は費州省仏教協会

会長︑中国仏教協会常務理事︑貴州省政協委員︑貴陽市人大常委︑弘福寺方丈の要職にある︒弘福寺は国務院が

公布した一四二ケ所の全国重点寺観の一つに指定されている︒

弘福寺の山内の石碑坊には︑中国仏教協会主露であり書法家として有名な趨朴初会長の﹁斡南第一山﹂の金色

の文字が鮮やかである︒また大雄宝殿には釈迦仏と十八羅漢や弥鞍菩薩︑観音菩薩が記られている︒

中央の主建築の左側には出尺亭︑画薦︑男池︑素金館などがあち︑弘福寺の外には︑赤松和前らの塔群︑生生

泉︑月明池︑木亭︑石亭︑望域台などがある︒

弘福寺の三面は山に固まれており︑緑の樹木の下に殿︑塔︑亭︑関などが見え隠れしており︑特に早朝には霧

が漂い︑察課瓶抑揚たる嵐景を見せてくれる︒まさしく弘福寺こそ糞州省の冠であち︑貴州第一の大禅林というこ

次に﹁跡的霊山志﹂巻三の﹁寺院﹂の条に述べられている草創期の弘福寺の各殿宇の状況を述べよう︒

仏殿辻督学趨公などが赤松和尚が草庵を結んでいた持︑山の高所は狭いので寛平なところに仏殻を建てること

を師にすすめ︑それによって仏殿が建立されたという︒後山が崩れて古木の大材があったので︑その大材によっ

て横揺︑奥行き十柱よりなる大殿が完成したという︒

(7)

観音殿は五関ばかりであったが︑兵乱の最中に諺理が行われ︑平提軍曹公夫人貌氏の私財の寄進によって完成

経楼は五間あったが︑清の康隈二十三年(一六八三)冬︑冨家が漠緊地方を平定した時︑総観察公︑擬軍楊公

らが入出して赤松和詣を訪ねた︒察公が和尚に︑この山の叢林は大へん良いが︑左右の山が太だ高く︑その反面

叢林があま与に低す︑ぎるので︑高関を建てた方が良く︑われらが師を共にこの功穂事業を完成させたいと言上し

た︒彼らの資金援助によちまず経楼が落成した︒

経議には四つの経禽が置かれた︒なお経楼下の三間に産が儲けられて法堂としての機龍が整えられ︑そこで説

法︑伝戒が行おれた︒

経撲の高需の下の左右には扇援が設けられた︒霜楼は各三間︑信徒の誤養によって完成した︒上は経楼に接し︑

下は中穀に接している︒

正殿の左右の庸房は各五龍︑赤松和尚の頃には斎堂︑客堂とされていた︒その他の廃房は禅寮であり︑上は中

殻に接し︑下は前殿に接していた︒

法堂は三間計りで︑大殻の右に在った︒藩憲蒋公らが財力を提供し︑憲話公が揖を造り︑貴西道高公が龍の彫

刻を寄贈した︒法堂の中には諸公の額咲がある︒

天王殿辻五謂で︑観音殻の前茜に在った︒正黄棋都競護頼が中心となって創建︑後に督擦中営劉・営孫の二公︑

並びに都圏曹公が拠金して助成した︒左に関帝像調がある︒

大殻の前には厨庫倉があった︒

次に草創期の弘福寺の仏像について述べよう︒仏後についての記載誌﹁緊霊山志﹄巻自にあるので︑それによ

りながら概観しておきたい︒

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

ー乞

(8)

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

ノ犬、

毘慮仏像は身高六尺六寸にして︑大中丞曹公︑議夫人らが発心し拠金して離造したものである︒その禽卓︑燈

瓶︑雄幌︑播種︑花侯などは臭司(明清時代の接察胃)李公が修造した︒傍にある章駄天一尊辻楚稽月就が湊

(

)

釈迦如来像は僧月航が漠より募化したものであり︑二菩薩像は楚林師が募遣したものである︒寵座は居士李正

芳と室の劉氏が助製したもので︑撫軍曹公と提軍侯公の題額がある︒

観音大士像は信者の李維栢と室の田氏が装修し︑藩司港公超先︑督学超公景福が題額した︒

章駄尊者像は善信士の張廷英が装修︑左右の再概は大司馬落公らが造った︒

天王復は藩呆道将らが拠金して装鯵した︒

弥鞍仏像は僧月航が招来した︒今は天王殿に安置している

G

緊霊山弘福寺の歴史を記したものに﹃郎防霊山志﹄巻六に故録された大司馬王公継文が撰した﹁臥

rd

と︑同巻十一︑﹁芸文上﹂に牧録された賜進士第資政大夫貴州等処承宣布設復司布政捜内壁京堂蒋寅撰の﹁斡霊

山弘福寺碑記﹂とがある︒

まず﹁竪霊山弘福寺記﹂から検討しよう︒撰者の王継文は﹃清史稿﹂巻二百五十六︑列伝西十三に伝があるが︑

王継文は字は在燕︑漢軍譲黄旗入︒顕治中(一六四回

i

六二︑官学士より弘文段編集︑戸部部中を壁︑康県中

(

i

一七二二)︑呉三桂の平定に従い︑雲貴総督になった

c

清の康熊三十年(一六九二︑王継文は漠甫を重議したが︑その翌年︑大司馬蒐公が緊州を巡視して掃号︑王

継文に次のように告げたという︒緊霊山は新しく開いた名勝地であり︑その工事はすでに竣工し︑住持の憎から

寺記を請われたのでここに撰するという︒

西

綿

一水抱藍の景勝の地であるが︑その地に卓錫した禅諦を赤松と

(9)

いい︑臨済宗の人である︒赤松辻萄より楚を霊てこの地に留まり招提を造った︒その後︑制軍察公︑撫軍楊公︑

慕公︑提軍候公らの貴顕名士が弘福寺の拡建に努めた︒その後︑王継文らが復興に努めた︒かくして立派な層楼

模関︑曲桂長廊︑亭院斎舎が完成したという︒

﹁斡霊山志﹂巻十一の﹁芸文﹂に牧録された﹁斡霊山弘福寺碑記﹂も王継文撰の﹁緊霊山弘福寺記﹂と大司小

異であるが﹁緊霊山弘福寺碑記﹂の方が諸殿宇建造の拠金者の人名が多いが︑繁を恐れて省略したい︒

盟︑赤松和尚の伝記と思想

赤松和尚の伝記に関する資料としては︑﹁欝霊山志﹄巻一に牧録されている﹁行実﹂︑二巻に攻録されている

﹁緊霊赤松領禅師塔銘﹂︑及び﹁緊南会燈密巻二に攻録されている﹁貴陽欝霊赤松領禅諒﹂の条などがある︒

松山無動居士察瑳が撰した﹁緊霊赤松領禅師塔銘﹂及び﹁緊甫会燈録﹂巻二に故録された伝記によって赤松和

尚の伝記を述べておきたい

赤松和尚の誇は道領︑字詰赤松︑赤領禅師ともいわれた︒賓の這川(西川省清江流域)の韓氏の子である︒母

は謝氏︑乱世のために緊に入った︒十五歳︑自ら喜んで出家︑遂に南望山に入った︒南望山は貴熊省息蜂県の東

にあわノ︑海抜一七四九・六メートルある山勢雄偉の山で頂上に玄天満がある(﹁中層地名詩典﹂上海辞書出版社︑

O年四月︑六一八頁)︒なお南望山について辻﹁費揚山泉志﹂(﹁説認﹂三種)の中に記録があり︑﹁南望山

竿

(

)

南望山で修行すること数年︑九峰山(福建省高平市︑宋代に廷平書院あち)に到号︑霊薬和尚に参じた︒霊薬

和尚は﹁万法婦この公案を赤松に示した︒﹁万法滞ことは︑着の中頃︑憎肇の撰述とした橘存された﹁宝意

審にある言葉で︑差別の万法が平等一味の理体に揮入するということである

c

ちなみに﹁碧巌録﹄第四十五郎

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

ブ L

(10)

貴州・斡霊山の仏教(鎌田)

<:) 

に﹁超州万法帰この公案がある︒

) (

O)

その後︑白雲酉識を札して披剰し︑敏樹和尚に参じて発明した︒敏揚和尚とは敏樹如相(一六Oi

)

のことで︑﹁緊霊会澄録﹂巻一に伝がある

c

知栢の語録としては﹁敏樹禅師語録﹂一O

巻があるが︑この語録は

道崇の編︑道鎮の録したもので︑清の康熊二十七年(一六八八)︑嘉輿拐厳寺で刊行している︒

﹁緊南会燈録﹂巻一に﹁石降三味敏樹相禅師﹂の伝が牧録されているが︑それによると︑数調は萄の謹刑王氏

の子であり︑赤松和尚と同郷の出身である︒破山和詣に狗子無仏性の話頭で参じて証悟した︒敏樹は斡萄を往来

すること数十余年︑清の康照十一年(一六七二)︑易の慈雲堂で示寂した︒その遺傷は﹁我為法玉︑於法自在︑

来去自由︑縦横無議﹂(記続蔵一四五・七盟六上下)というもので︑その・自由無畿の境界がよく表われている︒

敏樹和高に参じて印証を受けた赤松和尚は三年間の間関を行った後︑緊霊山を開いて行化すること三十余年︑

その道嵐は緊地に振い︑法を得る者︑数十余人という︒

赤松和尚には﹁語録﹂五巻がある︒それは﹃赤松禅師語録﹄といい︑門入寂源が録し︑農黒三十年(一六九一)

に刊行したものである︒本語録は臨済宗︑敏樟如椙法婦の︑赤松道領の語録である︒上堂・小参・示衆・法語・

拾領・掲・雑著・詩・書関・仏事・行実を集録したもので︑﹃中華大義経﹂第二輯第一百五十五冊︑嘉盤ハ続蔵E

録の中に﹁清道領説・寂源録﹂として牧録されている︒

﹃中華大蔵経﹂本には清の法秀撰の﹁序﹂︑および清の段務書の﹁序﹂が冒襲にある︒﹃語録﹂

の内容は次の如

上堂

法語︑拾類︑渇︑雑著

(11)

巻西巻五書問︑仏事︑行実

巻一に詰﹁金貴揚府寿世禅民語録﹂と題されて上堂の法語が牧録されている︒上堂とは法堂に上り説法するこ

とで︑堂は法堂のことである︒古くは毎日朝晩行われたが︑後には回節上堂︑五参上堂など定時の朝行われた

G

襲参︑大参︑普説︑陸座などの説法がある︒巻一で上堂を請うた人々には︑露弟髪李海道︑察浄願居士︑李鎮台︑

浄月李居士︑自壇越︑緩遠将軍察公︑撫軍王公大檀越︑大中丞慕公︑藩憲将公︑関台社公︑築課大一欝龍公︑域守

中軍安公︑省参禅師︑威清門衆居土︑広東街明魁黄居士︑浄祥蘇居士︑浄尚陶居士︑頴川︑松巌二大部らの大檀

越︑居士︑糞鎮︑禅師︑大部らがあった︒

巻二において上堂を請うた人々には︑惑抱禅師︑劉撞越︑林抱伊従等の居士︑広東街楊梅居士︑諌士街居士︑松

月上座︑浄敵襲居士︑張浄輪︑芳斌朱居士︑惇居士︑致中禅入︑藩憲椅大檀越︑国台王公︑嵩巌大師︑行届監院︑

李鎮台︑藩ムロ荷公︑王鎮台︑巣憲曹公︑嵩巌大諦らがあり︑巻末に﹁示衆﹂十二言がある︒その中の二言をあ︑げ

ト で つ ︒

六根清浄更精勤︒一念淳然超劫塵︒莫向外辺尋仏果︒単求自己本来入︒

六根清浄にして更に精勤せよ︒一念揮然として劫塵を超ゆ︒外辺に向って仏果を尋ねること莫れ︒単に自己

乾坤枚在一掌中︒放出円明満太空︒市今不知何若比︒看来天地体皆司︒

乾坤一掌の中に牧在す︒円明を放出し太空に満たす

c

而今︑知らず何ぞ此の若きを︑看来れば天地の体︑皆

貴州・斡霊山の仏教(鎌田)

(12)

貴州・欝霊山の仏教(鎌田)

前の一首は六根を渚誇にして更に精勤することを述べている︒一念発心すれば︑長い間の塵労を超越すること

ができる︒悟りを外に向って求めてはならない︒自己自身の中にそれを求めよと説いている︒

後の一言は︑乾坤大地ほこの掌中にある︒円明の気を放出して虚空に遍請させなければならない︒この只今こ

そ︑それが現成しているのだ

G

よく見れば天地の体も自己も虚空も全く一体なのであるという︒

この二つの示衆を見ても︑赤松和尚の只者でなかった境涯がわかる︒それは虚空とともに生きた禅者の風格で

ある︒彼が若い時︑九峰山で五年間の間関をしたことがこのような気力を充実させた弾者たり得たといえよう︒

ちなみに関関とは︑門を関じ︑一切の来客を断って修行のために穏棲することである︒食事も外部から運んでも

らい︑一歩も庵室から外に出ることなく︑ひたすら坐禅や読経に浸頭することをいう︒

﹃緊霊赤松領禅師語録﹂巻三に辻﹁法一語﹂が牧録されており︑示大中丞王公︑示我和関大壇越︑示酉星白壇越︑

人︑示慈容善人持充︑示碧松禅入︑一不大潤居士が牧録されている︒

次に﹁拾領﹂として女子入定︑勘破婆子︑婆子境庵︑撤手商婦などの公案が牧められている︒

次に﹁贈倦﹂があち︑それは贈仏燈禅入︑贈慈忍禅入︑贈松庵禅入︑贈鶴声監院︑贈嵩岩大師︑贈良遂更号仏

み ん

遂︑鰭惑抱禅師︑贈海雲禅人︑贈大之大語︑超大林禅入︑贈鶴樹禅入︑贈天台省参禅師︑示懐元待者︑示震害持

者︑一不山獄雲侍者︑示宝印禅入︑示緊谷禅入︑示泰寧禅入︑示泰然禅入︑勉実参禅入︑示可也禅者︑勉達塩禅入︑

贈悟空禅入︑贈宝月禅入︑勉帰元禅入︑贈瑞徴楊檀越︑贈竜庵居士︑勉従仏居士︑勉心宗居士︑贈公夏詞宗︑贈

淡也檎詞宗︑電師吉屠士︑贈善権岩士︑贈誇円善人︑贈仏月居士︑勉浄月居士︑贈浮孝居士︑贈李公大檀越︑一不

繁明居士︑鰭浄敵居士︑示仏意居士︑答仏宗大徳拾花曹渓意旨︑示瑞貞屠士︑贈宗明居士︑示仏貞居士︑贈紫岩

居士︑勉修来居士︑贈霊源居士︑贈祇霞居士︑贈大陸居士︑贈聖林居士︑勉賢林居士︑島子頴居士︑示双林善人︑

(13)

詩宗襲名︑勉純素居士︑贈明遠語宗︑示霊黙居士︑贈昇嚢居士︑示顕校居士︑示王宮壁衆居士︑贈来源居士であ

これを見ると︑多くの居士︑禅入などに法語を贈っていることがわかる︒これらのなかに﹁勉賢林居士﹂など る ︒

と﹁勉﹂という字があるが︑これは勉励せよという意味がある︒たとえば雲門宗の宗担である雲門文僅(八六回ー

九四九)の是非子見ると次のように述べられている︒

汝︑当に知るべし︒或は能く吾が誠を遵行せば︑別ち仏法をして流通し︑天神︑摂衛して︑西患に負かず︑

置に益存らしむべし︒或は此に違わば︑五口が巻属に非ず︒勉持せよ︑勉持せよ(﹁雲門亘真禅師広録﹂巻下)︒

この一文の意味は﹁どうか次のことをよく知ってもらいたい︒自分の遺識をよく守れば仏法は末代まで流通し︑

天神の加護が得られ︑回患に背くことなく︑世に役立つであろう︒もし︑自分の遺識に背けば︑自分の春属では

ない︒よく勉強せよ︑よく勉動せよ﹂ということである︒恐ちく﹁赤松領禅師語録﹄巻三に牧録されている﹁勉﹂

の字は﹁雲門広録﹄と同じく﹁勉持﹂の意味ではないかと思う︒

たとえば勉賢林居士に与えた一匂を次にかかげよう︒

念頭提起待相対︑不比尋常身口意︒仏口仏心行仏事︑自黙超入如来地︒

念頭提起する時は相い対するも︑尋常の身口意に比べられず︒仏口仏心行仏の事にして︑自然に如来地に超

この意味は︑念頭に起る持辻︑あらゆるものが相い対して起っているものである︒しかし︑弘の身口意は尋常

の身口意と比較を絶するものであり︑身口意はそのまま仏口︑仏心︑行仏となるのであり︑かくして岳然に如来

地に超入することができるという

c

貴州・斡霊中の仏教(鎌田)

(14)

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

1m 

次に﹁雑著﹂が牧録されている︒この中に誌参禅弱︑念仏掲︑掛鐘︑布袋和尚︑天童密担︑双桂部翁︑慈雲老

和尚︑継岐山何居士︑天童掃密雲悟桓塔︑慈雲掃先老和尚塔がある︒

このなかの﹁念仏信﹂では次のように述べられている︒

念仏渇

参禅共念仏両処︑一心居了却心頭事︒関王不奈渠念仏与参禅和融一処︒看津然方及第自在︑期還天参禅念仏

真実︒坐断再頭岩一︒忽然著破娘生輪廻生死了畢︒

な ん ぞ

参禅と念仏共に再処なれども︑一心に居し了らば却って心頭の事なり︒関王︑奈渠念仏と参禅と一処に和一瓢

せざるや︒看よ葎然として方に自在に及第すれば︑即ち天に還りて参禅と念仏は真実なり︒再頭を坐断して

一に屠す︒忽然として娘生の輪廻を看破して生死了畢す︒

参禅と念仏は二つのものであるが︑それは一心の事である︒閤魔王が念仏と参禅を一に和融しないのは誤りで

ある︒自在の境地に入れば︑参禅と念仏はどちちも莫実であることがわか号︑参禅と念仏の二つを坐断して︑生

まれつきの輪廻を断じて生死の一大事を罷ることができるという︒

念仏と参禅をひとつとみる禅浄一致の思想にもとづいた掲文であるが︑念仏と参禅を坐断して一真実を官了す

るという臨済禅者の気焼がこの﹁念仏億﹂に現われているのではないか︒

次の﹁語録﹂巻酉は赤松和尚の詩文が牧録されている︒法秀の﹁序﹂によると︑赤松和詣は士大夫と詩文を剖

唱していたという︒林泉隠逸の士でなければ︑このような詩文を作らなかったのである︒

その詩題には︑夏

5

漠中間友遊太和宮樹下︑挽潅余曹老先生︑春日送別魯公体檀越︑答孟陽熊檀越登山韻︑贈

へ ん

別金壇越︑次下司馬遊東山韻︑贈臭憲高護法仏栄註︑次謹牧州魚声韻︑同友人斌得月下諒渓声︑援史春元間道韻︑

次登山韻︑送中丞曹公堰帰億雨有懐︑友人至出題以贈之︑送別在臣楊檀越遷楚黄郡丞︑J味桂鰭友︑建遊山客︑部

(15)

夏孝東韻︑春日間一誌︑友人過訪賦贈︑次用春元夜賞菊韻︑春日次剖張詞宗過訪不遇譲︑籍別乾御一乗二禅入︑間

友人登大悲関望武侯踊などの外︑四十四首の詩文が録されている︒

檀越︑禅入︑和尚︑士大夫などの醐詩のみでなく︑昌然の愚景を詠んだ﹁菊﹂﹁春日﹂﹁花朝﹂などの自然詩も

ある︒たとえば﹁春日﹂の詩は次の如くである︒

春勝山川緑︒連天風雨速︒隔林聴暁鐘︒破霧鳥声出︒

さかん

春勝にして山川緑なれノ︒天に連な与て風雨速し

G

林を隔てて暁鐘を聴く︒霧を破ちて鳥声出づ︒

緊霊山の春の風光がよく詠まれている︒春︑山刑は緑に覆われ︑風雨に打たれている︒林を橋てて暁の鐘の音を

聴いたり︑窮霧を破る鳥の声を聴いているのどかな山寺の輯が詠まれている

G

最後の﹃語録﹂巻五には﹁書問﹂が攻録されている︒その書簡の題には︑復祇林羅居士︑復張貢元︑復部元書︑

謝制軍察大壇越︑謝謙憲玉大檀越︑復張経公︑復王鎮台︑寄法兄天穏和尚︑復白壇越︑寄博違法兄︑謝九峰題中

和尚︑復客間関蔵経童皆︑法叔丈老和尚啓︑寄察堂大師︑寿王操軍啓︑一不文一法孫などがある︒この中の﹁復﹂と

あるのは報答であり¥答書をいい︑﹁謝﹂は礼を言うことであり︑﹁寄﹂詰寄信であり︑手紙を送ることをいう︒

﹁垣間録﹂巻五の巻末には﹁仏事﹂と﹁行自﹂が牧録されている︒﹁仏事﹂とは亡僧や亡壇越のための仏事であり︑

例えば﹁心持和尚の為に禽前上供﹂﹁白雲西老和尚の為に起禽﹂﹁西竺和尚のために入禽﹂﹁越壇越恭入の為に起

最後の﹁行田﹂と題されたものは赤松和尚の行歴を述べたものである

G

九蜂山における﹁万法帰一︑一婦何処﹂

の公案修行などの状況が述べられている︒

最後に斡霊山の法援を付嘱された者について述べると﹁緊霊山志﹂巻八の﹁付嘱﹂の条に︑酒・己の義思山で

開法した大拙明震︑演省大理府の文殊寺で開法した若虚明実︑行局常密︑楚の平渓紫気山に住した雲石海源︑省

(

)

ヨ三

(16)

貴州・緊霊山の仏教(鎌冨)

拙浄定︑難足出金頂の迦葉殿に住した覚妻︑平越に住した霊鶴堆億の名が掲げられており︑さらに言座となった

乾御弘源︑座元となった塞脹浄和︑および岐山浄林荷岩士の三人の伝が攻録されている︒

五︑﹃臨岳山南会燈録﹂に牧録された貴陽の禅者

﹁大自本続蔵経﹄の中に﹁斡南会燈録﹂入巻(記続義経一四五︑以下﹁会燈録﹂と略称)という書物が故録さ

れている︒本書は善一如純の著である︒従来の伝灯録が多くは江指(江蘇省・漸江省)諸省に居住した人達のも

ので︑緊州(貴州省)におけるものは全く攻録されていないことから︑著者自ら禁州の諸都を遍歴して︑明より

清代に至る禁地諸家一一九人の語録を牧集し編録したものである︒

巻首に清の康照四十一年(一七O二)十二月の程春麹の序︑翌四十二年(一七O

)

次に自序並に凡倒︑昌録を攻め︑第入巻の終りに一編者たる善一如純の機縁︑語要を録している︒﹁続補﹂では︑

更に聖可玉の法鋼︑続澄︑無理の二禅師︑及び霊林門法婦の心性禅師の三名を録しているが︑これは後入の添加

したものといわれる

G

﹁緊高会燈録﹂の著者︑禅一如純(生浸年不詳)は禁(貴州省)習安の人で︑俗姓は張氏︒十七哉︑法海寺の

霊光を札して披剃した︒雲鷲山の頂相和尚を札し受具して後︑天台月経に参じ︑のち松山帰山に上り善権達位を札

してその法を嗣いだ

c

O年諸方を遍遊し︑天竜山普徳寺に開法し︑さらに松山帰山普光寺に住し︑

その後︑普語寺に再往した︒康熊西十二年(一七O

三)﹁斡南会燈録﹄八巻を著した︒なお輩出一如純には﹁善一

純禅師語録﹂三巻︑﹁善一純善師続録﹂一巻がある︒

﹁善一部純語録﹂の超撰の序によると︑かつては緊地に仏法なしと開いているが︑今は禁地に仏法なしとは云

えないという︒如純は緊の人である︒旦ハ・越・楚・萄を循参し名望の宗匠よれソ教えを受けて緊に嬉るや︑習安の

(17)

道搭は︑金調然として知純を推戴したという︒顛純は法を善権位より得︑善権位は月韓了を嗣ぎ︑丹櫨了は丈雪酵

を調ぎ︑丈雪醇は破山明を嗣ぎ︑被山明は天童梧を調いでおり︑その源流は清潔にして一大叢林の繁茂となって

善一如純の法系をたどると︑天童円培︑破山海明︑丈雪通酔︑月瞳徹了︑善権達位︑善一如純となる︒

i

一六四こは号は密雲︑常州(江蘇省)宜興の入︒二十九歳︑幻有正伝に従って祝髪︒

万暦三

O

O一乙︑常州竜池院の監院となる︒一自錦棺山を過ぎて露然として大悟した︒三十九年(一六

一こ二月︑四十六裁にして正伝の衣鉢を嗣いだ︒天誓三年(一六二三)天台山通玄寺に移ち︑四年三月︑嘉輿

(斯江省)海塩の広慧寺に移り︑崇禎三年(一六三

O )

三月︑福州(福建省)の黄栗山万福寺に住し︑さらに明

州(漸江省)育王山広利寺を経て天童山景徳寺に移る︒崇禎十四年(一六回こ金陵大報恩寺に住した︒同十五

年通玄寺に掃り七月七百示寂した︒垂寿七十七︒(﹁五燈議統﹂巻二四︑﹁五鐙全書﹄巻六四)︒

破山海明(一五九七i一六六六)は号は破山︒罫(西川省)の入︒十九歳で出家︒破頭山に数年住し︑博山元

来に参じてのち︑密雲円借に参じてその法を闘いだ︒崇禎二年(一六二九)嘉木(漸江省)の東塔に住し︑その

後︑諸方の寺剰に生した(﹃破山禅師年譜﹂︑﹁五鐙援統﹂巻二四︑﹃五燈全書﹂巻六五)︒

丈雪通酔(一六一

Oi

一六三九)は字は丈雪︑内江(西川省)の入︒落髪後︑密雲円悟に参じた︒具戒の後︑

万蜂の破山海明に参じて印可を受けた︒康照二年(一六六三)或都(四川省)の昭覚寺に往した(﹁緊詩紀略﹂

)

ちなみに﹁緊詩紀略﹂巻三二に﹁丈雪大師通酔十七首﹂と題して︑寄雪菅兄︑万竹道中︑避兵有感︑準紫霞山

義吉仏地坐有感︑山居二言︑示堆乾禅人二昔︑示知非禅入︑送半矯弾人︑示水︑心禅入︑次太崖何居士韻︑示大乱

禅入︑臥雲南油︑汀声︑石頭山︑山居などの詩が牧録されている︒通辞が櫓人でありながら詩人であったことがわ

貴州・禁霊出の仏教(謙田)

= 

(18)

貴州・竪霊山の仏教(鎌田)

月瞳徹了(一六一四i二ハ六六)は萄の重慶の入︒宝山によって剃髪︒破雪や象産性誕に参じた後︑丈雪通辞

に印可された︒後︑漠(雲南省)の静陰・南明・竜泉・玉泉等に歴住した(﹁錦江禅燈﹂巻二二︑﹁臥阿南会澄録﹂

)

善権達金(一六一八i一六八四)は楚北の入︒十三歳の時父母を失い︑のち安頼舟(貴州省)の観音調に太虚

和尚を礼して出家した︒後︑月瞳徹了の印証を受け︑安高の万寿寺︑普安(貴州省)の松山帰寺等に歴住した

(

)

棟垣は明末における緊南の法一未定石かかげている

c

きりしない七人以外は︑破山︑浮石︑木陳︑漢月の屈派で皆︑天童告の法孫であるという︒その中の僧の出身地

について法緊の出身者のみでなく︑萄の出身者が最も多いという︒

陳垣によれば︑﹁緊南会澄録﹂に牧録された緊僧の中では︑萄入が十中の七︑入を占めており︑それは﹃雲南

院志﹂に故載された﹁仏釈﹂の中の僧の中で︑漠南に遊方した僧では易僧が多いのと同じであるという︒仏教史

において萄(西川省)と湊(雲南省)︑緊(責州省)は密接な関連があったことがわかる︒

以下﹁会燈録﹂の中に記載された多くの斡地で活躍した僧の中から︑現在︑貴州省の省都であり︑緊霊山のあ

る貴陽において活躍した僧を選び︑その伝記を紹介したいと思う︒

緊霊出弘福寺の法系は︑弘福寺に記録された資料があったと思われるが︑現在の段階では弘福寺の法系図を見

ることができないので︑明末から渚初にかけて活躍した貴陽に住した僧の伝記を調査する以外方法がない︒そこ

で唯一の貴重な資料として残されている﹁会楚録﹄を黒いて︑音(揚における僧人の活躍状況を述べたいと思う︒

貴揚の僧人たちは必ず緊霊山の仏教に多少なりとも影響を受けたか︑あるいは与えたので誌ないかと思われる

(19)

禄泰覚書

破山海明︑密雲円悟の法を嗣いだ臨済宗の弟子には︑象崖性廷︑敏樹如栢があるが︑この敏樟如相の法系の中

には︑貴州で活躍した石肝中華天語道崇︑思南中和天潟正印︑思南安化頴秀真梧︑安頼長寿天語壊︑江口香山聖

符道越︑貴陽輿国禄薬覚甫︑貴筑華光聖園道行︑儒橋署一百台浄空性明︑貴陽緊霊赤松道領︑儒橋福雲天機道通︑天

既一廓などがあるが︑これらの僧の中で費陽で活躍したのは弘福寺関山赤松道領と禄萎覚甫の二人である︒

禄萎覚甫の伝は﹃会澄録﹂巻こにある︒覚甫は賓の張氏の子である︒禁地において披潤︑党行和詣より具足戒

を受け︑ついで敏樹和尚に参じて印証を受けた︒仏誕日上堂︑元旦一不衆などの法語が録されている︒

赤松道鎮の法嗣には︑指揮黒愚大拙捧震︑貴問販雲石明源︑略的茜乾御宏源がある︒

敏樹如梧の髄法者である天乱廓の弟子に︑習安玉丹語聖弘正があるが︑その弟子に貴陽玉竜鏡天宗照がある︒

宗照の伝は﹁会澄録﹂巻七の語重正禅師法嗣の条下に牧録されている︒宗照辻本郡王氏の子︑母は陳氏︒貴筑の

蓮花寺において披剃︒﹃禅関策進﹂を関し無字の公案を参究した︒語聖和尚より得法後︑貴州の玉竜に弘法寺を

大慈悟度破山海明の調法者の一人で貴州で活躍したのが安頗静楽霊穏印文である︒印文は貴州の安煩婿静楽羅に住した︒

この印文の法系には貴陽で活躍した入が多い︒

大慈信度の伝法﹃会澄録﹂巻三の霊穏文禅師法嗣の条下に牧録されているが︑伝記はまったく不明であち︑上

堂の法語のみが攻載されている︒

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

ブ L

(20)

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

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梅渓福度霊語文禅師法舗の下に貴揚東山梅渓度禅師がある︒﹁会燈録﹄巻三によると︑梅渓福度(一六三七

i?)

は茜

萄氷川︑張氏の子︑母は呉氏︒父とともに斡地に入って東山の知如和尚を札して薙髪︑潤浪和尚の下で受戒し︑

その後︑礼隠和尚の下で具定戒を︑つけて印証を受けた︒漠・緊で開法行化した︒嗣法者に貴陽東山紹南真解と習

安南山法甫照潤らがある︒語録として﹁東山梅渓禅師語録﹂一O巻があり︑﹁語録前﹂の中に﹁行由﹂があるの

で詳細な伝記がわかる︒彼は二十五歳︑緊の賓室観音寺に到り︑霊隠文の付嘱を受けた︒はじめ蓬菜︑水興援に住

し︑ついで康熊七年(一六六人)忠義院︑同二年二六六三)安竜華光寺︑雲高蒙化府等覚寺︑同一五年(一六

七六)玉爵誌︑同一八年(一六七九)宗州観音関︑同一八年(一六七九)普安沼市(西川省)円通寺︑同三二年

(一六九三)安竜吉祥庵などに歴住したという︒

霞章海偉

梅渓福度の調法者の一入︑貴揚霞章海毒の伝辻﹁会燈録﹂巻六の梅渓度禅師法婦の下にある︒震章海書誌思南

劉氏の子︒東出梅渓和尚を礼して蓬染︒具足戒を受けた後︑霊隠老人に参じたが︑霊隠は梅渓和尚に師事するよ

うにすすめた︒海偉は梅渓の下で修行︑その後︑漠・緊を来往すること数十余年︑監院識に任ぜられた︒

紹南真解

貴揚東山紹南真解の伝は﹁会燈録﹂巻六の梅渓度禅師法嗣の条下にある

G

真解は滞南︑京都の唐氏の子︒乱世の

ため緊に入ち観音寺に寓し︑震章を礼して剃髪︑梅渓老人の待者とな号︑具戒の後入室し関情した︒

しゃ︿ぐ

安腰静楽霊隠印文の鼠法者の一人に密参山があるが︑その弟子に貴陽指月燥既がある︒彼の伝は﹁会燈録﹂巻

七に密参山禅師法調として牧録されている︒燥院は漢の曲靖の許氏の子︒本郡天竺寺において覚清和尚を札して

(21)

剃髪︑密山和尚に参じて印可を受けた︒

普済大関

遵義雷同門丈雪遥酔の門下に安鐘玉泉丹瞳徹了があり︑その門下に普安松山帰善権達位があり︑さらにその門下に

費揚観音済大関がある︒

普済大関の伝は﹁会燈録﹂巻入の善権位禅師法掘の条下に伝せられている︒大関は安南陳氏の子︒松山帰善権和

語嵩伝喬

破山海明の踊法者の一入に雪腎替があるが︑その弟子に貴陽西山語嵩伝喬がある︒

語嵩伝喬の伝は﹃会燈録﹄巻二の雪管欝禅師法嗣の条下に政録されている︒伝喬は茜萄宋氏の子︒幼にして父

母を喪い祖母に育てられた︒二十三歳の時︑祖母が没したので︑本境の白鶴庵において性空老宿に札して出家し

た︒破雪和尚より具戒して騒動すること六年︑後に重慶の長破呆和尚の印可を受け︑さらに緊に入り雪膏替の法

を嗣いだ︒後︑斡の牟尼山報居寺︑関西山伝法寺︑黒州(海南省)徳山の乾明寺などに墜往した︒没するや西出

鳳恩池畔に塔が建てられた︒

宗風仏定語崇偉喬の法嗣の一人に貴陽酉山宗嵐仏定がある︒

宗風仏定の伝は﹁会燈録﹂巻五にある︒思南(貴州省)任氏の子︒二十三歳︑都勾観音寺の蜂池和尚より祝髪︑

諸方に遍参し︑楚の議出養拙和尚を礼したが︑機縁契わず︑江瀬へ行き︑天童へ行き密祖に参じたがまた契わず︑

病によって郷里に婦ち南望山に住し︑後︑語崇和尚より印註を受けた︒富山山において円寂︑本山の茜に塔が建て

貴州・緊霊山の仏教(鎌田)

(22)

貴州・斡霊山の仏教(鎌田)

実行慧真

貴揚西山宗鼠仏定の織法者に費陽西山実行慧真と貴揚西山無滅慧頴がある︒

実行慧棄の伝は﹁会燈録﹂巻七の宗風定禅師法嗣の条下に伝せられている︒慧真は西安葛氏の子︒宗風和尚を

礼し濡髪し具足戒を受け︑さらに印証を受けた︒

無滅慧頴の伝は不明であり︑宗風和尚の印可を受けたのみとある︒

蒼竜道語

語嵩伝喬の棋に貴筑双嵩眉仏海があり︑その属に貴陽慈雲蒼竜道語がある︒

蒼竜道語の伝辻﹁会燈録﹂巻七の嵩君海持師法嗣の条下に伝せられている︒

蒼竜道語は江南︑謹安長氏の子︒斡の西山の語嵩老人を札して薙髪︑具足戒を受け嵩眉和尚に参じて印可を受

け︑慈雲寺に住した︒世寿七十︑信畿四十で没した︒

行之顕篤

そのほか破山海明の法系には属さず︑木陳道惑の法編︑芥庵環の弟子に貴陽乾明行之顕駕がある︒

一行之顕篤の伝は﹃会燈録﹂巻三の平陽下芥庵禅師法嗣の条下にある︒顕篤は西萄李氏の子︒乱世によって斡に

入り余山禅舗を札して祝髪︑遍参し江南に遊び蒋山に至り︑芥羅和尚に参じて印証を受けた︒

祖融法印

そのほか壁林門下で貴楊で活躍した僧に賓陽観吾党行伝性︑貴陽輿冨担融法印︑貴陽白雲西識清見らがある︒

祖諒法印の伝は﹁会澄録﹂巻七の曹洞三十一世雲門下第四代︑月印慶禅舗法嗣の﹁宿士類﹂の条下にある︒祖

融法印は易の李氏の子︒披髪は未詳であるが︑華山三味和尚より良一ハ足戒を受けた︒明の万暦年間(一五七三i

六一五)紫衣を下賜された︒興国寺に住して老いを追え︑疾なくして坐説した︒世寿六十三︑常議記さず︒

(23)

党行伝性

交行伝性の伝もまた﹃会燈録﹄巻七の曹混三十一世雲間下第西代の﹁宿士数﹂の条下にある︒発行伝性は普揚

の入︑会域興国寺において祖融和詣を札して披剃︑具足戒を受けて衣鉢を伝え︑初め枇ロ出土すに︑後︑観音寺に往

して終った

G

寿

西識清見

貴揚自雲酉識清見の伝も﹁会燈録﹂巻七の曹洞三十一世雲門下第四代の条下にある︒

西識清見は楚の王氏の子︒法中和尚によって披剃︑﹁金関経﹂を持請した︒霊薬和尚に参じて印証を受けた

c

妻陽自雲寺に開法し︑終老した︒

慧林知英最後に楚眼嚢に嗣法した貴陽法華慧林知英について述べよう

G

慧林如芙の伝は﹁会燈録﹂巻七の楚眼嚢禅師法嗣の条下にある︒慧林如芙は揮州(湖南省長沙市)梁氏の子︒

漸江の天童寺において心志和尚より剃髪︒後︑行騨して楚に帰り︑潟山において具足戒をうけ︑後︑楚謀嚢より

印可を受けた︒後︑馬苗の宝華寺に住し︑ついで法華寺に遷り︑寺を再建した︒金城高関の衆が師の徳を慕い大

貴州省の北部に革命の聖地といわれる遵義市がある︒明の万震二十九年三六O二︑掻州宣慰司が震かれ︑

西別に属していた︒治所は現在の遵義市である遵義府で︑道義府の境域は︑遵義市︑栴梓・緩陽・仁懐・正安・

赤水・羽水などの信用であった︒清の嘉正七年(一七二九)費問に嘉した(﹃辞海﹂地理分冊︑二九一真︒上海辞

貴州・斡霊山の仏教(鎌田)

(24)

貴州・賠霊山の仏教(鎌田)

巨 ヨ

)

遵義は西川省と貴州省を結ぶ交通の要俸であり︑西川省の成都から資陽︑資中︑中江︑隆日目︑謹県︑続渓を経

て糞州省に入号︑赤水︑羽水︑槙梓を経ると遵義に達する︒また納渓から叙永︑畢節︑緊西︑溝鎮を経ると貴陽

に達する︒このように西川省と遵義︑貴揚は極めて密接な交通路によって連絡していたのである︒もちろん道路

には山為り江ありで往還は容易ではなかったと思われるが︑交通路があり︑政治的︑経済的にも西山川省と深い関

係があったことがわかち︑遵義が西川に婦罵していた時期があったことも苦言できる︒

このため貴州の仏教は西川の仏教からの伝入と︑雲甫や湖南からの弘教の流入の経蕗があったと思われるが︑

﹁臥阿南会燈録﹂の僧人たちの十中の八・九が西川出身偉であったことを考えると︑臣民の仏教が貴州へ伝入した

こと辻明らかな事実である︒本論文において実揚の繁霊山の仏教を述べたのはその一端を明らかにするためであっ

従来︑中国仏教史の研究というと︑楕唐時代までは主として長安︑洛陽を中心とする黄海流域の仏教の研究に た ︒

重点が置かれた︒五代になると江蘇︑新江や福建︑広東の仏教も視野に入り︑宋代以後︑禅宗の全量期になると︑

江南地方はもちろん︑江西︑湖南︑海北の仏教が研究対象として重複されるに至った︒しかし︑貴州とか雲甫の

( 一 回 )

仏教についてはほとんど顧みられることはなかった︒研究書としては擦垣氏の﹁明李漢緊仏教考﹄(中華書局︑

一九八九年四月)があるにすぎない︒この書誌抗日戦争の持期に書かれたもので︑明末清初の雲・貴両省の仏教

の発展情況を述べた希有の書である︒

(

)

私は中毘仏教史の全体像を理解するためには地方の仏教史や仏教の文物に深い関係を持つことが必要不可訣で

あることを痛感しており︑将来は地方の仏教史や仏教文物についての著述を書きたいと考えている︒その一環と

して本論文において貴州の仏教を取り上げた次第である

c

参照

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第一章 ブッダの涅槃と葬儀 第二章 舎利八分伝説の検証 第三章 仏塔の原語 第四章 仏塔の起源 第五章 仏塔の構造と供養法 第六章 仏舎利塔以前の仏塔 第二部

を世に間うて一世を風塵した︒梅屋が﹁明詩一たび関って宋詩鳴る﹂

医師の臨床研修については、医療法等の一部を改正する法律(平成 12 年法律第 141 号。以下 「改正法」という。 )による医師法(昭和 23

治山実施設計業務(久住山地区ほか3) 大分県竹田市久住町地内ほか

○ (公社)日本医師会に委託し、次のような取組等を実施 女性医師の就業等に係る実情把握調査の実施 (平成21年度~28年度 延べ

白山中居神社を中心に白山信仰と共に生き た社家・社人 (神社に仕えた人々) の村でし

〔付記〕

「社会人基礎力」とは、 「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な 力」として、経済産業省が 2006