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資 料
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W.ケネディ『1640年から1799年にいたる イシグラシドの租税ニニその政策と政策思 想にかんする
山 崎 怜
序 文
と】の苔は,1842年払おわる所得税の再課と関税改拳の開賂以後めイングランドの租税政 策ぬ基礎な麗解ずるため紅数年まえになされた研究の1所産である。この研究陀やぎのよ うな期待のもとになされた。、すなわち,もしもそれや;成功するならば,わが現行の税制の なかで偶然的なものに養えるおおくのことな説明するばかりでなく,また租税紅かんする 理論的著書が皮相的にとりあつかってシ、芦とわたし匿ほおもわれる若干の重要なT般的問 題に光を設じるであろうという期待であった。この研究ほ,その期待が作業仮説となった
というかぎりではまったく成功したが,他方では,その時代自身が提供している資料から わたしがなんらかの確信をもってその時代の政策の明瞭な様相を理解しえ.なかったという
かぎりではまったく失敗であった。賃金稼得階級の課税に.かんする政策について,このこ
とはとくに英夫である。先行する時代の歴史がこれらの疑問を解くのに役だつだろうとい う希望をいだいてL,わたしはウィリアム・ピット(WilliamPitt)の時代へさかのぼった。
そこでの資料ほおおくの点でさらに意味深いものであることがわかったが,わたしは依然 としてなんらかの確信をもってそれを全体として解決しえ.ないことに気づいた。実際,
議会の政策の疑点のおおい側面ほより鮮明になったが,解明することほできなかった。こ の困難に直面して−,わたしはふたたび本番でとりあつかわれている時代へさかのぼった。
わたしの信じるところでは,この時代の歴史のうちに,現在まで欠如していた解釈の重要 な要素を発見しうる軋ずであるばかりでなく,また租税配分の恒久的な一腰問題にまつわ ぐるこもぁの解明へのおおぐめでだてをも発見しうるにちがいない。
::ト、
わ左しL淀主■あ替を「戎乱と皐ぶや;,、・それ鯛税の鱒史にたい
W.ケネディ『1640年から1799年にいたるイングランドの租税
−その政策と政策思腰麿かんする1試論・−』(1913)〔上〕
431 −65−
示唆しようとする意図があるからである。この苔は,同時代をとりあつかったダウエル
(Dowell)の著書が租税史であるというのとおなじ意味での租税史ではない。ダウエルは 租税法令の記録を詳細にのべたが,をれらの−・般的傾向をあきらかにするための試みほ比
較的わづかしかなさなかったし,それを説明するために.ほはとんど全然何もなさなかった。
このわたしの本ほダク.エルの記録紅もとづく試論であるが,おおくの点でふかめられてお
り,ことに空位期間と17世紀の直接税にかんしてそうであるだろう。これらの点にかんし てダウエルは不十分である。またこの苔ほ記録のなかにふくまれている政策な解明しよう とし,この政策の背後によこたわる賛否双方の政策思想や動機をも解明しようと試みる。
他方この沓ほまた,将来いつか多分かかれるかも知れないこうした本が租税史である七い うのとおなじ意味での村税史でもない。この書ほ,せいぜいのところそのような歴史書へ の1試論にすぎない。なぜに.そうかといえば,それはたんに.そうした歴史書ほここではつ いでの程度にしかふれられていないおおくの問題を直接にとりあげることが必然的となる だけでなく,また,と.の苔が主として.とりあげた租税配分の問題や基底紅ながれる政治的社 会的政策思想を必然的にとりあげるだろうからである。このような歴史書は,社会史の他 の領域の研究成果との相互交流を求める,現在では入手しえノぬ一定の保証を前提とするで あろう。その保証が欠けて.いるために,この研究の結論もいくぷん暫定的たらざるをえな いのである。
この試論はある種の見地からみれば,租税史にかんする既存の文献の批判なのであるが,
これを出版するにさいして,わたしはそれらの文献にたいし,ことに2っの著書にたいし,
もっともふかい感謝の忠をあらわしたい。1つほステイ−グソ・ダウエルの『租税と税金 の歴史』(ガ喜一5わ′・.γ〃./■rα別離坑抑乙α矧♂二n.方βざ)である。もしこの本が存在しなかったなら ば,わたしのとのような研究を試みることはまったく不可能であったであろう。第2はセ
リグマン(Seligman)教授の『r租税の帰着』(Zntidence ofTdxaiion)(舞3版)である。
この雷の歴史的部分はこの時代のパンフレット文献をとりあつかうの紅絶えず役だったの である。
わたしはまた,この間題の研究途上において同僚や諸先生からいただいたど援助にたい
して心から感謝申しあげたいとおもう。わたしがはじめてこの問題に接近したときぬ指導
してくださったスマーート(Sma【■t)教授,この苔の骨組みができたときの予備的研究と最終
稿を双方とも紅いつもよんでくださり,またおおくの楷示とおおくのはげましの批判をし
てくださったキヤナン(Cannan)教授,おおくの個々の点について率いに.も談論のかわ
432 第40巻 算5号
−・66−
すことのできたブラック(.丁.B.Black)氏,ゴードン(M・D.GoIdon)嬢,およびトーネ ー(R.H.Tawney)氏,また上記の方々をもふくめて一文献にかんして援助をいただいた
クリアソ・ノウルズ(LilianI(nowles)博士,デイグイド・オグ(David Ogg)氏,ス コツt(W.R,Scott)氏,およびアンウイン(Unwin)教授。またわたしはオクリダイア・
パウエル(01ivia Powell)嬢にたいし,印刷の過程において本の面倒をみるという仕事 でおしみない援助をいただいたことにお礼申しあげる。
この試論が直接にその基礎をおく歴史研究は1910−11年と1911⊥12年の学期のLondon Schoolof Economics and PoliticalScienceでのわたしのVヨク研究給費生(Shaw Research Studentship)の期間になされた。またこの研究にもとづく一遍の講義が1913年 のミクルマス学期にそこでおこなわれた。
W.ケネディ
Ⅰ ̄序 説
イングラン下に應いて,租税は,それ自身の本質的問題がはんのわづかしか,かんけいし ていない2つの大きい論争と同一親されるという不幸を痙験した。これらのうちの1つの 大きい方は,租税を賦課する権力の問題をあつかった。これは,法をつくり政府の行政を統 制する機関についてのさら紅広い国家構造上の問題の1部分にすぎない。その主要な側面 にづいて−は,問題は17世紀に議会と議会を時をことに.して制御するように.なった人々に好 都合なよう紅解決された。しかし,その解決はけっしてこの統制機関が援用すべき租税種 類の問題を決定したわけではない。第2の論争は,19世紀の繹2四半期の関税闘争で,保 護および優遇目的のため申開税の使用についてであった。この闘争は,租税は収入目的の ために.のみ課せられるぺしとする自由交易の教義の勝利におぁった。関税の最良の形態に
かんするある種の小さな問題もこれにかんけいしていたことは事実であるが,この論争が 租税の全領域の非常紅せまい部分にのみふれるものであったことはあきらかである。
これらの国家構造上および関税上の問題にたいする関心のために,課税上の本質的問題
が無視されがちであった。無視の証拠はあらゆる方面にあらわれている。これらの諸問題
が毎年のように議会でとりあげられる事実にもかかわらず,そこには租税の理論とよぶこ
とのできるものが存在しないということはどおどろくぺきことはない。イングランドの教
科書作者たちは帰着や管理の問題では役にたつ。配分の問題にかんしては,かれらの議論
W..ケネディ『1640年から1799年にいたるイングランドの租税
−その政策と政策思想乾かんする1試論−』(1913)〔上〕
433 ー67−
(1)
は,わづかの例外をのぞけば,はとんど根本的ではないので,かれらは,政治哲学の問題 がからんでいるのだということを認知さえしない。しかし,もっともおどろく
は.,わがイングランド租税史の知識について:われわれが主として依拠している2つの著書 によってあたえられている。ステイー・グン。ダウエルの大冊の歴史(1884年)とシドニー・・バ
(2) ックストン氏による1783年からユ885年にいたるあいだの研究である。双方とも紅,それぞ
れそれなりに非常に価値のたかいものである。しかしげんみつ紅組税問題にかんしていえ ば,それらほ租税立法の事実のあまりばっとしない記録以上にはとんどでるものでほな
(3)
い。かれらがとりあつかっている資料にふくまれている本質的な問題をかたちづくってい るものほイ可かという問題意識さえ.,かれらは示してはいない。ずっと最近になって,セリ
グマン(Selig皿a。)教授は,その帰着理法ふ概観と所得税史において租税史紅貴重な貢献
をなした。が,これらはともに部門研究であり,後者のより部門的でない方も,それがあ つかっている(19世紀の)時代の,−・番明瞭でほないにんても,一・番重要な局面を回避し ている。
(6)′ わが租税史の相対的に皮相な性格は本質的問題の無視の近因であると実際かんがえられ るであろう。なぜなら,これらの問題はむつかしく,はじめはそれらが何なのかさえあき
らかでほないからである。そしてまさに.,このような状況に.おいてこそ,歴史が今日の息
(6)
想常たいしもっともおおくの援助をあたえることができるのである。数世紀にわたって,
これらの問題は何回もおおくの人々忙よってかんがえられてきた。もちろんそれは租識的 にではなくまた全体としてでもなく,1度に1問題づつではあった。古くからの実践と政 策思想を往復して,われわれはそれらのおおくの要素とかんれんをみとおすように.な壱 た。歴史がこのようにして今日のためになした奉仕は,それらの問題の生じた状況が過去 においてほ重要な点でことなっていたという理由に.よって,・そとなわれはしない。なぜな ら,われわれが歴史から求めて言いる奉仕ほ今日において模倣するためのモデルを提供する
(1)イングランドにおけるもっとも著名な例外はエジワ・−ス(EdgewoItIl)教ヨ受であ り,かれはその配分理論をベンサム的功利主義のうえ紅基礎づけている。属加微細加 わ〟′〝αJ(1897),Vii.550朗¢ をみよ。
(2)ダ玩脇机β似如上凸痛f査c5,J7β∂−ヱββ5,2 voIs.,1888.
(3)この批判は中世期紅かんするダウエルの章でほより不十分紅しかあてはまらない。
(4)Shifiing and Zncidence ofTaxaiion,3rd edition,1910;
(5)おそらく,地方税はこの試論の目的とほなっていないといってもよい。
(6)現代紅おいて明瞭に定義され十分に分析されている諸問題の歴史からえられる示唆の
相対的欠如と比べてみよ。たとえば租税帰着の問題。
434 第40巻 葦戸号
ー6β・−
ことではないからである。歴史とは過去を理解し,とりわけ問題の設定とその当代の解決 との間の連関を解明しようとする試みである。そして歴史がこの試みにおいて十分転成功 すれぼするはど,歴史ほ現在の理解に.たいする援助をおおく提供することに.なるが,これ
ほ現在の問題設定がことなって−いたりおなじであったりすることを指示サることに.よって だけではなく,またそれがある一定の点ではおなじでありまたことなるということを指示 することによってでもある。
したがって,この試論では,17世紀と18世紀のイングランドにおいて課税上の本質的な由 題のあるものがいかに.処理されかんがえられたかを理解しようとする試みがなされるであ
ろう。そのうえに,この主題が歴史的財政的研究の現段階において董要であるとかんがえ るなお2っの理由がある。租税の側面でみれば,先行世紀の顕著な特徴を把握することな しにほ,19世紀に.おける課税とそれ紅かんする諸政策思想の歴史を理解することは,事実 上不可能である。そしてこれは,いかなる時代もその先行期の知識なしには評価しえない
という・⊥般的な理由によってばかりでなく,また主として19世紀ほ(われわれの目的に・と っては1799年の近代的所得税の賦課をもって始まるとされてよいが),ある形態の問題に たいして眼を閉じ,その間題のとりあつかいになお影替をあたえている動機や観念を無視 するという特別な傾向をもっていたという固有の理由によ・ろてでもある。歴史的側面から みれは,内乱から18世紀の終りまでのあいだの租税政策は,当時の支配的な地主階級の社 会経済政策の重要な局面であってなお今後解釈されるべき問題である。そしてそれほ当時 の社会的態度,あるいほ実際政治理論とでもよばれるもの,のより広い問題に注意を向け させる利点をもっている一局面であり,この広い問題に・かんしてはこれまで比較的わづか
のことしかなされていないのである。
租税における本質的諸問題は,それらが租税の目的をあつかうか,その配分をあつかう か,また望まれて−いる目的と配分を実際の税金紅よって達成する方法をあつかうか,によ
って3つの部門にわけられるであろう。租税が課せられる目的はお率い。一鬼の共同の 政務を推持するための収入を用隠することは,国家的なものであろうと,あるいは 制限された性格のものであろうと,はと小んどすべての租税の目的であり,大多数のばあい の唯一・の目的であノる。消費の抑制(酒税),ある商業政策の達成(関税),あるいは農業 土地政策の達成(オ−ストヲ▼リヤの地租)はその他の目的の事例であり,この目的だけのた
めか,あるいほ収入目的のためとともにか,租税が課せられる。したがってわれわれはこ
435 W.ケネディ『1640年から1799年にいたるイングランドの租税
−その政策と政策思想にかんする1試論−一月(1913)〔上〕 −6クー の時代の課税目的の問題にかんする政策恩憩状況を考察するであろう。そしてまた,収入
目的以外の目的がどの程度まで実際の租税のなかに具体化されているかに澄志するであろ う。しかし,これらの目的の相対的重要性と,租税教義の他の側面に.たいするその影響を
評価しようとする試みがなされる。が,それらの目的が基礎づけられている基盤にかんす る詳細な議論ほなされないであろう。それはとりわけ重商主義の評価をふくむこ.と紅なろ う。問題の算2のグル−プはMその歴史ぁうちにわれわれの主要な関心があるのだが
−それは社会内の構成員間における租税負担の配分をとりあつかう。配分の問題は,収 入目的のための課税というせまい意味では租税の根本問題である。収入は必然的に租税に
よって確保される。そして−・般的にいえば,収入は,それが唯一・の,あるいほ主要な目的
(7)
でないような租税に・よって確保されるのではない。この問題は2つの部分にわけられる。
第1に,社会の金成員ほ層税を支払うべきか−この間題のせまいかたやでほ,問題ほ,筑
(8) 民は租税を支払うぺきか,ということに.なる。滞2紅,租瀧を支払うべきであるとかんがえ
られた人々甲飢、だに,負担が配分される基準または標準は何か。問題の簡3のグループ は,望まれた種類の租税を実現する方法をとりあつかう。すなわち,必要な収入額をもた
らし,満足のいく方法で負担を配分し,意図された他のすべての目的を満たすような実際的 租税と税制を案出することをとりあつかう。ここでかんけいするおぉくの困難で技術的な 問題ははばつぎのように分頬されるであろう0筒1に・帰着の問題0これほさまざまの租税が 誰のうえに.またどのような割合で負担をかけることに・なるかという問題をとりあつかう。
寛2に.,徴収の問題。これは租税形態と徴税機構と監督とのあいだのかんれんを脱税阻止や 徴収の安価やなどを考慮しつつ,とりあつかう。算3に,租税に・ともなう主要でない問題。
これはつね紅課税にと、もない,また個人的自由や交易抑制などの問題紅かんする思想や偏
見に反する「必要悪」の最小化をとりあつかう。帰着の問題にわれわれはここで直接にかか わるであろう。それはある特定の租税または租裁制度が配分的に公正であるという論議に
(7)かくして,たとえば,消費制限のため紅のみ課せられた酒税ほ(脱税の阻止と両立し ているかぎり),この危険な商品の使用紅比例して国民に支払わせることが意図されてい
るという形式的な意味をのぞいてほまったく配分上の問題をとも寧わない。他方,保護 を碓十・のあるいは主要な目的として課せられた関税のばあいには,全体として−の租税の 配分を調整する点で,保護商品の消費者紅かかる与とに掌る負担な考慮催いれるという 其の志昧に.おいて,配分の問題が考慮されてこもいる「のかも知れない。」しかし本文中 鱒記述は,大抵のばあい,そしてこの時代紅かんしては真実である。
(8)、他の説明がないかぎり,この革論で用いられる「貧者」とほつねに通常の賃金稼得者
を意味し,乞食や真窮の人間をさすのではない。
436 寛40巻 寛5号
疇−・7(7一
おける/ト前提を提供する。課税方法の他の問題の方はもっと附随的にとりあつかわれるで あろう。しかしこの時代に.おいてもっとも朗著であったそれらの局面に注意することが必 要であろう。というのほ,そうしなけれは,この時代の政策が部分的に理解不可能となるで
ノ あろうからであり,また同時に,それはど明白ではないにしてこも,これらの問題の急迫性の
ゆえに,課税当局が望ましいとかんがえた租税目的や租税配分を実現するのにいくぶん失 敗してこいる租税でふつうは満足することを余儀なくされるからである。
課税の単純な計画の例証が,本賀的諸問題の記述をより明確にするであろう。そして同 時に.それほ,17,8世紀の租瀧制度の諸特徴をきわだたせるぺき比較の有用な背景をもた
らすであろう。とりあげるのにもっとも好都合な封画は1860年から1880年にかけて・のイン グランド税制に密接妃照応する。これはすでに・当時の人々に・よって,正確さこ・そちがえ,
(9)
かんがえ.られたものである。この計画の原理はつぎのとおりであった♂すべての人は,貧 者をもふくめて,租税を支払うべきである。租税ほ所得軋正比例して.配分されるぺきであ る。かかる効果を達成するためのはば満足な方法は補完的租税体系によるものであって,
ここでは,個々の租税をとってみれば配分的にk不公正だが,全体としてはその不公正が 相互に相殺しあっているのである。すなわち,一・方でほ,富者とミ.ドルクラスにのみか
かる所得税とある種の小さな租税があり,他方でほ,小数の非常に一般的な消費用の輸入 商品と国内商品にかかる他の関税と消費税があり,これにたいして,貧者ほ富者よりも,
その所得の割合からみて,よりおおくを支払うのである。事実上,これは当時の税制のま ったく正確な説明ではなかったし,またおそらくそれはど十分に定義づけられてもいなか ったであろう。しかし,それほいくぶんばく然とながら支配的である説明であった。さら 紅それは,現在での適用不可能性にもかかわらず,現在もなお十分に知られているものであ
る。そしてまた同時に,そこから前後をながめるのに有効な命題としでとりあつかわれる 資格をもっているはどに・,租税の本質的問題の認識において十分に包括的なものである。
しかし,グラドストクソ(Gladstone)時代にとのように答えられた諸問題が1640年と 1799年のあいだに.いかに処理されたかの考察をすすめるまえ.に,長期議会が継承した税制 の概観を素描することが必要である。
ⅠⅠ長期議会の継承したもの
内乱ほ,およそ3世紀にわたってイングランドを支配してきた財政制度の最終的崩壊を 19)もしもこの断言に.疑問をいだく人があれは,例証と比較の目的のために仮説的計画と
してあげられたものを考察するのがよい。その証明をここで引証するのほ不可能である0
W.ケネディ『1640年から1799年紅いたるイングランドの租税
【 その政策と政策思想にかんする1試論伽』(1913)〔上〕
437 ・−7.7−・
(10〉
もたらした。現代と比較すれは,そのもっともおどろくべき特徴は等質性の欠如である。
現在われわれほ国家支出を,おおくの種々な政務を維持する費用からなりたっている全体 的な1つのものとしてかんがえるし,国家収入を,釣りあいのとれた総額の租税体系に.よっ
てはとんどすぺてがまかなわれるものとしてかんがえている。しかしこの3悦紀のあいだ は,収入も支出もともに.理論上3つの別の部門に分割されており,全収入は合一・した租税
(11)
体系から引きだされたのでほなかった。籍1の部門ほ,王領地と封建的諸特権からの特権収
(12) 入からなり,これは全収入の多様では参るが大部分を構成しており,国家の通常国内行政
費紅あてるものとかんがえられていた。これほ全然租税収入ではなかった。第2の部門は 関税収入からなり,これは,商人の保護と王国の防衛のための「制海権保持」に一つま
(13)
り海軍費に−あてるものとかんがえられていた。この関税ほ,のらにみるように,国税 とはみなされていなかった。寛3の部門は,十全に近代的な意味での直接税収入からなり,
これは,戦争のような特別の国家目的のために議会の承認に.よって通常課税された。
この部門別財政制度の理論ほ,実際上ではある点で実現され,ある点ではしりぞけられ た。しかし租税の見地からすれば,この理論が実行された1つの壷要な点があり,また実 行されなかった別の重要な点がある。関税ほ海軍の維持のために.という表向きの理由で承 認されていたという事実に.もかかわらず,もたらされた収入がそのような用途紅つかわれ
(14)
たと推定する理由はまったくない;関税は実際上国王に.よって,通常単年度収入の1部を もたらすものとしてとりあつかわれ,海軍は通常支出の諸目的の1つとしてとりあつかわ は功 ご用金や専売などの,この時代における特別収入源泉把ついては,Dowell,i.,books
Vi−Viiiい,and W小 Hyde Price,The English劫tent190fMono♪oly.それらはこの 概観では論じないが,その理由は,それらが財政上藍大な意味をもたないこと,および それ匪もまして,それらが,長期議会のうけついだ慣行の1部としてほまったく重要で ほないからである。
a17 Fortescue,qOVernanCeOf England,ed・Pluznzzler,Writtezl1471−6,Chaps.
Vl−Vlll
(1劫 たとえば1610年でほ,関税収入247,釦0ポンドをふくむ推定通常収入461,500ポンドの うちの144,000ポンドである。GaIdineI,月壱\sね′.γ0ノ助字gJα窄d,1603−42,Ⅹ.222.
㈹ 旧特権関税と17世紀の比較的重要性のうすい特権関税がこの目的をもっているとされ たか否かはあきらかではない。通常国王の生存期間だけ議会によって承認される威課金 k.直接にその教義は適用された。たとえば,1Eliz C一20(inProthero,SelectDocuments,
p..26)and16Chas.Ⅰ.C 8小 ピムの不満の陳述紅ついてはまた,Rushwoith,part
iii.vol、i.pp1.21−2
(14)FoIteSCue,p.123,and P工ummer s note,p・232・Debatesin劫rliament,1610
(ed.Gardiner),1608年の戚諜の増額理由に.ついてのソウルズペリの説明はpp・155−・6・
Prothe【0,p。354,Commission tolevyimpositions.1608・
438 第40巻 第5号
−・72−・
れていた。他方,直接税は短期間に.たいしてのみ承認されたので,それはおおかれすくな かれ断続的な出来事の個々の目的のために用意するため課税されるのだという理論に密接 にむすぴついていた。この2つの事情の結果,租税問題に・たいして,今日なれしたしんで いるのとは表面的に非常にことなった態度をうみだすこととなった。租税問題は,適切にい
えは,国家の通常の単年度収入にかんれんしては塵じなか?た。なぜなら,王領地は財産 収入をもたらし,1謁税は周税とほみなされなかったからである。租税問題は.ただ直接税に のみかんれんしており,どのようなときに国家目的のための収入を調達するかというかた らで提起された。しかし今日では,国家収入の大部分が租税から,毎年賦課される租税か ら引きだされている。17世紀の後半期に,これら租税局面の第1から第2への移行がみら れた。
したがって,われわれほつぎのようにたずねなくてほならない。もし関税が国税でなか ったのなら,いかなる種類の租税とかんがえられたのか。また直接税に.おいてはいかなる
方法で租税が禍適されたのが。
関税は,「王国から出入するあらゆる種類の財貨および商品」に.課せられ,これらの商 品の保護という,国王に要請される特定政務のために,輸出入商品に課せられる特殊戚課 金であるといつもかんがえられて.いた。近代的関税は,全般的国家目的のための租税とし
て,市民のうえに(ある輸入品のかれの消費を通じて),1課せられている。16世紀におい ては,関税ほ,課税物品を消費する人々(イングランド人と外国人とをとわず)に.たいし
て−,理論上,その個別利益のために.うたがいもなく国王によってなされた特定政務の代価 またほ手数料として,課せられるものであった。関税ほ道路の通行料とおなじものであっ た。全体としての国民ではなくて,取引される商品が,交易の保護のために・支払うぺきで
あった。したがってここから,輸入品とおなじく輸出品も関税を支払うこと紅なった。
この理論は,ジェ.イムズⅠ世の時代に.,議会の同意なしに.関税を課す国王の権力をめぐっ てなされた論争の記録によって十分にあきらかになる。両者の側ともに,関税を上述のよ
うにみなしていた。ヘイクウィル(Hakewill)のかんがえでは,「普通法は国王が商人の交 易を保護すべきことを期待しでいるのであるから,それはまた,この公共経費の維持 のために,輸出入商品から若干の利得を国王にあたえ.るものである。」しかし,この維持は
(51)
国王の意のままに引きあげられるべきではない確定した戚課金であ去,とかれは主張した。
個 Prothero,pp・343,350のみじかい演説をみよ。
Wuケネディ『1640年から1799年にいたるイングランドの租税
−・その政策と政策思想紅かんする1試論叫▲8(1913)〔上〕
439 −・7Jクーー・
ペイデイズ事件において国王を支持した法廷の裁判長であったフレミング男爵は,おなじ ように.,関税の根拠をのぺたが,商人を保護し交易を規制するためにほ,国王は必要とか
、Ill−
んがえたぼあい関税を変更する権能を必然的にもっている,と論じた。
関税が商人によってでなく「商品から」支払われるとのべられていることが注意されよ う。この区別は意識的に.なされたのである。なぜなら,商人に.よって支払われても,この 租税の負担は実際紅ほこれら商品の消費者にかかるということが十分にみとめられていた からである。国王の特定政務によって確局的にほ利益をうけまたそれ紅たいして支払うと ころのいわば利害関係者は,国の内外の消費者であって,商人ではなかった。1549年に汐
(17)
ヨy・へイルズがかいたように,「商人ほ,もし高価に購入したのなら,それよりも高く転
(18)
売するであろう。」17世紀前半のこの教義のおおくの実例のなかで,フレミソグの判決から のつぎの説明がおそらくもっとも明快であるだろう。
「個々の商人の目的は公共の着でほなぐて,かれ自身の特殊な利益であり,これのみが わもとして商業や取引に従事させる唯一・の手段である。そして威課金はかれにとって存
在しないも同然である。というのは,それに・応じてかれほ商品の価格を引きあげるから である。賦課金ほ千ぶどう紅課せられる。それを買う人ほ.その賦課金のはいった干ぶど
うを買うことに.なる。」
フレミングは威課金が商人に被害をあたえることをまったく認めなかったが,商人はこ め点にかんして,自分たちの利益を主張することが十分に可能惑った。かれらは,戚課金 が自分らの交易を破壊するとか,負担が自分らにかかると主張した。この主張,すなわ ら,威課金が交易を制限するという主張のう■らにふくまれている其実性は,しかしながら,
分りきったことであり,消費者が戚課金を支払うという教義とま・うたく両立しうるものと
u6)Hubert Hall,Customs Revenue of England,i.155はこの演説およびその他の 有益な要約をのせている。王党派の側の理論の他の説明に.ついては,SirJohn Davies,
The Quesiion conceY・ning Zmbositirons・…,1656(Written t.JamesI。),ppn78−
80
椚)A批co鉦γ.ざβ0メ 〃わC∂招沼〃〝ぴ♂αJ〃ノ■蹴s屈βαJ∽0./助gJα〝♂,ed..Limond,
p.33
(18)Staie Trials,ii.390 またqark s judgment,ibid,,ii..386;1629年の関税の帰 着K.ついてのノウイ(Noy)の見解(Ga工diner,OblCit Viil60にあり);貧者の利益 のため紅必諾品を免税しようとする願望の意味。この教義の事例はすべて輸入税にかん けいしていることを指摘すべきである。本文紅おいてほ,わたしはそれを−・般化して輸
出税をもふくませた。
440 第40巻 舘5号
・−アd一
(19)
かんがえられていた。かくしてへンリ−Ⅴ血Ⅰ他の時代に,スターキーの対話のなかの語り手 は,重い関税が原因で,商人たらは「残余の民衆の商品のために働く意志をなくする。か
くて−,われわれほ,われわれがもつかも知れないおおくの物を,いやすくなくとも,われわ れがふつうに.もっているよりもはるかに.ずっと安価に手にいれたほずのおおくの品物をも
(20)
っていない」ということに同意する。こうして,1610年のある演説のなかで,最近の威課 金の不便がつぎのように要約されている。「商人にたいしてはかれらの資産を貧しくさせる
という点で,国王にたいしてほかれの収入を取引の衰微によって−減少声せるという点で,全 人民にたいしてはすぺての商品を過度に高価にするという点で,それがいかに有害である かということはすべての人によって表明されて∴おり,したがって−論じる必要はない0」
関税を租税とみるよりもむしろ手数料ないしは使用料とみなすこの見解の帰結ほ,配分 の問題がこれにかんれんしているとはかんがえられなかったということであった。戚課金 を支払う人々はうけとった特殊個別利益のため紅支払ったのである。この理論が実施され なか。たからといってより不明確であったわけではない。それほ実際,ニ藍の意味で事実 紅合致していなかった。一方では,関税収入は海軍へは充当されヂ,関税は国王の一般的 収入につけくわえるためにのみ,17世紀ほじめの40年肛数回引きあげられてい他方 では.,理論においてこさえ.,関税は海軍をして.交易を保護せしめるためばかりでなく,王国 を防衛するために.も,つまり全般的利益をうるために課せられたのであった。しかしなが
ら,交易の保護は,強調された側面であり,この理論は17世紀の後半を通じて依然として 影響力をもらつづけてこいた。
しかし関税は収入目的で課せられたけれども一理論上は交易保護のため,実際上は一・Ll
般目的のため・−,それは他方まったくことなる性格の考慮に・よっても部分的に・規制さ
ug)Thomas Starkey,Englandin the Reign ofKing Henr.γthe Eighih,ed・
Cowper,p.141。
伽)5才α≠βT′・よαJぶ,iiい480・コペットに.よればイエルグァ−トンがなしたものだといい,
ガ−デイナ−把.よればホワイトロックがなしたものだという議会での演説(ク♪‖ Cオ才・・ii・
77nl.)。コベットのテキストでほあきらかに減少とすべきところを「増加」となっている。
つぎをもみよ。Salisbury,s speechin Debaiesi n PaYliament,1610,p・158り 関税 の帰着の問題はその主要な点で現実的虹理解されていたということはあきらかである。
しかしほのめかされた2点の一層性についての正確な近代的説明,すなわら,しばらく は商人が新税によってかならず被害をうけるということは,のぺられていない。保護関 税のさまざまの効果にかんする論議もわたしは確認していない。
C21)たとえば,1635,Books of Raies,prefacedletter patent.p・・2;and1608,
Impositions,Prothe【0,p、354小17世紀の税率表は,ロンドンでほGoldsmiths Library,
South:Kensington(Professor Foxwell scollection)でもっとも便利よくみられる。
亜1 W.ケネヂィ『1640年から1799年把.いたるイングランドの租凝 二mその政策と政策思想にかんする1試論−』(1913)〔上〕
・−75−
(22)
れて−いた。戚課の記録は,まもられるべき2っの原則が一般にうけいれられたことを示し でいる。傑1の原則は消費者への輸入税の影響にかんしてであり,人民の必需品ほ除外さ
(23)
れるべきであるということを規則としていた。このようにして1608年の賦課への指示書は,
人民への不便または苦情をさけるためにつぎのような特別な命令をあたえていた。「わが 国民の.食料と生活維持に必要であるようないっさいの輸入商品(たとえば,小麦;ライ麦,
大麦,麦芽,カラス麦,大豆,エンドク,バター,チー・ズ,たら類,まだら,黒だら,に しん,/J\いわし,たら,あらゆる種類の塩,あらゆる種類ゐ家きん)の免税と除外…。」
(24)
ソールズベリはこれらの戚課を擁護したが,注意深くつぎのことを指摘している。すなわ ち,商人との会談において採用された警告の1つは「−いかなる食料品,軍用品あるいは王 国の防衛に必要なものは,輸入税を支払うペきではない」ということだった,と○そして
(25)
フレミングは,ペイデイズ事件において:,粒食であり必斉の食料でもあるとして干ぶどう
への威課軋反対する論議を反駁したが,それは,千ぶどうが逆に「立派な美味なもの」で あり,ワインが不必要であるのとおなじように干ぶどうも不必要であると指摘することに よっでであった。もちろん事実上,塩と魚(こ.れらはかんぜん紅は免税されて言いなかった が,旧ポンド税を非常に低く課せられていた)以外に輸入された必需品ほはんのすこしし かなかったにちがいない。そして輸入品−・般を馨修品とみなす傾向があり,また必需品と
は「こ.の国内の虚業と土地から生じたもの」であるとみなす傾向があった。したがって,
輸入税を支払っているのほ,「非常にわづかの上品な人々と,もっとも立派な最大の資産
(2¢)
を有する人々だけであった。一」
この必需品免税の原則ほ,租税によって威課せられた負担の配分に.おける1原則とはか 位2)長期議会の政策が確証をあたえている。GilesGreene,DeclarationinVindi?ati0
〃メ■β卯・Jよ−〃∽β扉,…1647,E、・405(8),pp・4−5をみよ。
C23)Letter patent to Salisbury,28thJuly1608,aS Set Outin one of 5th Septe−
mber1610,prefaced to1610Book of Rates(513,a.38).Prothero,p。354紅ほ 原文の省略されたものがある。
旧劇 加∂αf♂5g乃PαγJオα桝¢乃f,1610,p.157.
(姻 5fα≠βrγ窟αJ.ざ,ii… 390−1
榊 一撒■dい1604年の税率表に.よれば,塩税の課税評価は1プッレユノレ紅つき8ぺンス
(White とSpanish),および6ぺソス(BayとFrench)であった。税率は1610年に 上昇しなかったが,1635年には50%ひきあげられ,1642年紅もとの水準へ引きさげられ た。実質価格ほイングランド東部で1シリング6ペンス以上であり,ミドランドで2シ
リング6ぺンスに近かったから,6ぺンスと8ぺンスでの名目5%課税は,実際上わづ
か1%から2%であった。RogeI・S,j茄\ざ才.げAgγ∠c..,Ⅴり430,441り 魚類庭.ついても
同様であった。
弟40巻 第5号
・− 76− 442
んがえられなかったけれども,貧者免税のために.採用され,配分上の含意とあきらかに境
(27)
を接していた。それはのちになって−,必需品への内国消費税をとおしての貧者課税を非難 するために.,人々の訴えた教義であった。
関税における第2の規制原則ほ,交易政策であって.,生産者への関税の効果をとりあつ かっていた。1国の産業的社会的利益のために.,外国貿易の方向を規制する必要があると
(28)
いうかんがえ.は,16世紀および17世紀に発生して.いた。人民を仕事につかせるほずの原料
(29)
の輸入を促進し輸出を阻止すること,外国の否修品や競争製品の輸入を組止すること,お よびわれわれの剰余生産物の輸出を促進すること,これらがこの教義のもっとも重要な側 面であった。こうした考慮ほ実際関税率に.影響をあたえたのであって,それほ1610年の税
(BO)
率表からあきらかであるが,その影響の程度を計算することほむつかしい。しかしながら,
交易の方向に影轡をあたえようとする目的が,収入を調達するという目的に比べて小さい
(31)
ものであ・うたということほ,はとんどうたがいな
このようにして,特定政務または利益のためのということが関税の主要な側面であった が,関税はたんにそれだけのものとしてはみなされなかった。それはまた交易政策の道具 であった。1798年に課せられた特別護送税のうちに示唆に.とむ類推がみいだされる。その
($2)
ときまで関税はながらく−・般租税とみなされていたのであった。その年にI法令が議会を 通過したが,その目的は,戦争の継続中護衛を用意することによって.イこの王国の交易を
よりよく保護するため」であり,また「■ぁたえられた保護紀要する特別支出を調達するた
($3)
めに」輸出品輸入品の双方に偲課金を課するためであった。したがって第1の意図は,汐
位Ⅵ これは,配分的負担の観念を利益課税方式へ引きいれるものとい?てよヤ、。鉄道運賃 におけ為旅客の負担原理をかんがえよ。
C28)Starkey s Dialogue,ppl、93−4;Hales Commonweal,pp一ト 61・−2,65−6,68;
KingJanesI・,Basilikon Doron1599(Edinburgh),p・59;Bac9n,Essay oq Seditions and Troubles(WOrks,ed・Spedding,Vit410);Thomas Fuller,Hol.y and PYOfdne State,1642,book一・ii巾Chaph17.・Cf Bodin,L,eS Si.xlivres dela Rbbublique(Engl tr Knowles,1606,pp。662−3).
(29)たとえば,綿花,綿糸,生糸,原麻(1610,Booh ofRates,preface pp.3q4)
(3籾ノ働d一・,♪αSS∠ク乃・AIso∂β∂αねs∠花戸αノ・J∠α∽β〝才,1610,p..157.容体禁止政策の観念 が賦課に・たいして小さい影響をおよばしたかも知れないということほかんがえられる が,この点は実際上無視しうる。
(31)この間遊はのち紅論じられる。
(32)38Geo.ⅠⅠⅠ..cい 76
脚 船舶紅たいしてもおなじである。
W.ケネディ『1640年から1799年にル、たるイングランドの租税 一仙その政策と政策思想常.かんする1試論−⊥』(1913)〔上〕
−77−
443
(34)
ヨー汐・ロウズ(George Rose)から知られるように.,全輸出入品にたいして2…5%の賦 課金を課すことにあったのは自然であった。しかし,それ以来交易上の考慮が提起され,
均一覗率は交易政策の理念によって制約された。そし七,たとえば,ヨーロッパ向けの輸 出品税は,外国人がわれわれよりもそとで安売りすることに対抗するために.0・5%に制限 された。しかしながら,輸入必需品免税のスデコ.アート王朝的原則はこの護送税のうちに は再現しなかった。
内乱以前においてのげんみつな意味に.おける国税の本質的問題があらわれているのは臨 時の直接税把おいて:であった。これらの租税ほ−・般的国家目的のための収入を調達するた
($5)
めにのみ課せられ,また負担が社会の名成員紅配分するゐ紅依拠すべき標準をつねに確定 した。理論的用語を使用すれば,それらほ能力税であり,公共経費を負担しうるさまざま の個人のある種の能力概念に.応じて公共負担せ配分すべしということであった。そしてか
(36)
かる観点から,それらの税は考察されたのであった。
17世紀初頭匿承認されて−いた直接税は,15分の1、税と10分の1税および特別上納金
(37)
(Subsidy)であった。当時これらは両方ともに.陳腐化した税であり,実際上は,正式法令に かかれて:いる方法とは非常にことなったしかたで賦課されて:いた。実際の威課方法紅かん する体系的研究はいまだなされていないが,幸いに.して,諸法令から容易紅みいだしうる
伽)7Ⅶグβ卯J拍弼♂〝ねγγ忍♂g∠∫才βγ(Deb工ett)≡.68,156(16仙May1798)・ロウズは大 蔵省紅おけるピットの番記官のひとりであ・今年。
朗 これらの法令の前文(たとえば1Eユk・C 21in P工Otbe工0,pl・27)およびフオ・−
タスキ、ユ.一に.よる事実の確認(Chap V阜iiedいPlummer,p・127)をみよ。Latimer,
First Sermon to King Edward VZI(Everyman ed.,p〟83);Thomas Becon,Caie,
Chism(ed J.・Ayre,p。308−9)小 鮒
ガさ∫ねr.γ,iv,337,444−6。またMiss M.D..GoIdon,C〃J/βC如〝0ノ■且妹クルわ翫.γ(TI■an$
of RoyalHist,Socy.,1910,Pp,,145−9);Gibbon,The OrdeY・OfEqualiiie,1604,
8226,C.14,♪α5ざよ研;A刀ぬ印御.Sβ7Jo〝Cカg邦g fゐβか∠椚ね㍑路即行鋸抽=紬痛如,t・
JamesI.,attrib
p.5).能力の観念はおそらく,人体の諸器管との甑比に.おいて個人と階級とをみる有機 的職能的社会観から生じたのであろうということを示唆しておく価値がある(第Ⅴ茸を みよ)。このDiscou工■Se咋いう。「この特別上納金の生命ほ,有機的自然体の各界管や部 分把おけるよう紅,政治体紅おいても,頭首への叫・定の等比的比例的貢納に.あるd・そし
て,その各部分の力と能力,力蒐と才能に応じで。」
即ご用金とチヤ−ルズⅠ世の船税ほ,ここでの論議を要求しうるはど十分な程度紅「法
規」(はnOn)の1部ではなかった。船税紅ついては,Miss GoIdonの論文をみよ。それ
は配分政深を鮮明に引きだしている。
寛40巻 第5号 444
−7β・−
ところの,まもるべきものと企図された戚課方式は,はるかにずっと興味ふかいものであ る。現実の租税を課税権の意図に合致させておくことに継続的でかなりかんぜんな成功を おさめたのは,やっと19世紀になってからである。初期の時代においては通常生起したこと
といえば,新税はほじめかなり正確に威課されるが,やがて−ぐらつきはじめ後にほ非常に 欠陥のおおい型に陳腐化していき,ついに.は収入があまりにもすくなくなるか,改革の可能 性があまりにも遠のき,あたらしく効率的で公正な租税を導入しようという試みはなされ るのであるが,この税も徐々に順次おなじような過程をたどるのであった。・その結果,長期 議会が継承した公正な課税の慣行を理解するためには,17世紀初頭の実際の課税方法をみ るよりも,種々の時代の諸法令の意図を観察する方が重要である。このようにして,われ われは過去3世紀払わたる意図された配分の方針についての大ざっばな観念を,まず配分 の標準に.かんして,次に免税に.かんして,うるこ.とができるであろう。
15分の1税およぴ10分の1税として1334年に.慣習化した租税は,13世紀を通じて発展
(88)
し,14也紀のほじめまでには,初期の部分的な諸租税にとって.かわつていた。それは,衣服
(さ9) (40) や武具などの個人財産をのぞくあらゆる種類の動産への租税であった。土地の所有者,商
人,貧農すべてがなんらかの種類の租税を支払った。このことは1295年と1301年に印刷さ
(41)
れた2つのコクルチ.ェスタ一明細苔が示しているとおりである。このようにして,1295年 に.ネイロンドのサイモソ丹那(おそらく国教信徒)はミランドに.あるかれの荘園の小麦,
(42) カヲ.ス麦,牡牛,役畜,雌牛,羊について支払い,1ブー・メソ皮業者は(a)小麦,大麦,
カラス麦,豚,(b)ナ・メレ皮材料および器具,(ぢ)雑多の家財について,また1貧者
(陶工ヒ.ユ.−・ゴク)は1頭の雌牛のと1頭の牡牛の子に.ついて支払った。
1334年以後,各管区の貢納が定額に固定されてからほ,実際の賦課方式についでおおく は知られていない。それは地域の差異紅よってうたがいもなくまちまちであった。そして この租税はさいごには実際上不動産にたいする地方税(localIate)になってしまったと
髄)Dowell,i・76,95・ここおよび他の個所での言及はDowell,s戌ざねγ・一γ の初版匿.よ つている。
餉 Dowell,i.78
極0)たとえば,1232,■Grant of a Fortieth(Foedera,L 207);1297,Grant of an Eighth anda Fifth(PaYl‖ RollS,i・239);1307,Twentieth and Fifteenth(P〃rl.
Rolls,i.442);1322,Tenth and Sixth(in Dowe11,i.259).
舶 Parl‖Rolls,i。228Seq.,243seq.,abbreviatedin Dowell,i.251よeq.
(42)P.236,CfL1301,p一・259(Dominus Robert11S,in manez−io suo).
W巾ケネディ『1640年から1799年にいたるイングランドの租税
−その政策と政策思想にかんする1試論−』(19笹)〔上〕
445 − 7ク ー
(43) (44)
いわれている。と紅かく,それは全国標準で戚課されなくなり,16世紀には,その税収は 1国の富とまったく不釣りあいになった。
配分標準の重要な1変化が満足すべき全国的値按税へのつぎの試みの特質を鮮明にして いる。動産にかわって所得が,納税者の大部分のばあい紅おけ■る梗準となった。−地主,
ヨーマン(コピー・ホクルダーをふくむ),聖職者,官職保持者,賃金稼得者がそうである。
動産(および純資本の意味における動産)は依然として商人,職人とおそらく小作人につ
(45) いての標準であった。15世紀紅あらわれた一・時的な特別地租でほ,年佃イ直に課税され,1488
(46)
年には上にのべたような叫般税を課そうとする試みは不成功に.おわった。へンリー・ⅤⅠⅠⅠ世 のもとでこの試みは成功し,特別上納金(Subsidy)−とよばれた岬はあたらしい配
(47) 分方式をあらわしている。税率規定は初期の諸法令では相当に区々であったが,イリザべ
鵬)Dowell,iu 97;Cannan,Htsior.y ofLocalRates,13−14;Prothero,Intro−
d11Ction,pり1ⅩⅩⅩi
舶 これを阻止しようとする試みがなくもない。たとえば,1463,劫γJ..メわJJぶ.Ⅴ.・497 Q5)Dowell,book v… Chap…i… partiii.,and book vi.chap.ii… をみよ。あるばあ
い紅ほ官職の年価値もまた課税された。たとえば,1435年と1450年(ppり124,127)・これ らの租税は15分の1税および10分の1税を補完するものとしてさまざまの機会に認可され た。
極朝 夕α㌢・Jり 点クJJぶ,Vi..421and Dowell,i・169.
㈲ 土地に課税されたこれらのものは,1514年(6HりⅤⅠⅠⅠ・Cい26),1523年(14&15臥ⅤⅠⅠⅠ、C・
16)および1540年(32H.ⅤⅠⅠⅠ…C・50)においてほ,コピー・ホクルダ1−のほか紅随意ホクル ダーせもふくんでいた。しかしイリザペス時代までに,随意ホクルダ−は除外された
(1Eliz.c.21,in Prothero,p..30)…牧師は(聖職者たちに・より特別に承認された特別 上納金に.よって)永久10分の1税への遺をひらく聖職昇進の査定額匿応じて,そ・の昇進 のためにかれが毎年支出す卑金紙に.つき,1ポンド紅たいし4レリングの割合で支払っ た。(32H小ⅤⅠⅠILC…23,andcf 5Eliz・・C.29,inProthero,p.54)。1年紅20v グの年給賃金稼得者は1514年紅1ポンドあたり6ぺソスを支払い,1523年に年間20シリン グの日雇または過雇または年雇賃金稼得者はひとりあたり4ぺソスを支払った。1544年
(37H巾ⅤⅠⅠⅠ.c.25,§5)には年雇い賃金稼得者ほ,40シリングを稼いでいるときに のみ(そのときは1ポンド紅つき2シリング)課税された。その後ほ1年紅.5ポンドを稼 いでいる官吏のみが支払うべきとされた(たとえばPr・Otbe【・0,pい30)。のちの特別上 納金今は土地の「純」(矧頭)年価値紅課税する条項をふくまなかったが,この意味にお ける実質所得の概念が租税目的紅とって珍らしくなかったことは,1488年の法令(只野Ju 助JJ5,Vi.421)からあきらかである。この法令は「当該土地から地代,謝金,その他 の出費を」毎年控除することを規定している。また「純」(√J♂αγ)年価値紅課税するこ とを規定した1534年の法令からも,おなじことがあきらかであろう(軍6HⅤⅠⅠⅠ・・C19)。
動産税が課せられたのほ,鋳貨,負金属用品,商品,「土地からきりはなされた穀物と葉っ
ぱ」,家具,などに「くわえて」それらの債権,「から引くことの」それらの債務であっ
た。6H VIII.c.26,14&15H ⅤⅠⅠⅠ.cい16,and Prothero,p・29をみよ。
446 第40巻第5号
ーβクー
ス時代までにそれは事実上固定され,特別上納金の税率ほ所得にたいして.課税されるもの
へ.は所得1ポンドにつき4シ′リング,動産にたいして課税されるものへは純資本1ポンド に.たいして2シ′リング8ぺソスであった。
勤寒が依然として商人やその他の人々にたいする戚課の標準であったのほ,うたがいも なくかれらの資力を測定する他の方法がなかったからである。もっとも,動産がなぜ庭上 述の税率で課税されるぺきであったのかを理鰍するのは困難である。実際上は,動産は大 部分租税をのがれたといわれている。しかし,¶商人紅かんしてこさえ.,所得に応じる課税の 理念が17世紀初頭にほ珍らしくなくなりつつあったというととはあきらかである。1628年
(4る)
のさる貨幣徴収釘画ほ,10%の利子で貨幣を貸しているすべての人は利子から10分の1ぺ この租税を支払うべきこ
(49) の手引き1635年版のなかで,著者ほ,貧者にたいしかれの財産を評価するばあい,「この
ような財産は購入された土地の価値に応じて評価されることが合理的であるよう紅おもわ れる。すなわち,資財または財産の100ポンドは土地の年価値5ないしは6ポンドとして 評価されるペきである」とかんがえた。
(50)
ノ−ワォ・−・クのある小行政区のために印刷された特別上納金台帳は,初期の諸法令の規 定を実施しようとする試魂がなされたことを示している。しかしイリザベス時代において
すで紅,この租税はあまりにも不平等であり,かつ陳腐化した戚課であったので,それほ塊定
(さ11
されていた配分方式とは非常にわづかのかんれんしかもっていなかった。地方査定宮や委 員がその割りあてを公正に配分しようとしていたとき,かれらの心中に存在していたよう におもわれる標準は,一・般的能力またほ資力といういまだ定義づけのない流動的な標準で
あった。この標準紅おいては所得が主要な要素であクたと推定すべき十分な理由はある。
(62)
しかし,身分的支出や大家族の支出もまた考慮紅いれられた。ギボン(Gibbon)のこと
㈹ S.P・D.(1628),126,47
@9)MichaelDalton,Countr.yJusiice,1635,p・136・つぎをみよ。Cannan,mSior.y げエβ(αJ点αf♂ざ,pp85−7・
醐 Walter・Rye,RoughMatmals.fbraHistoryoftheHundYIedofNorihErbin−
gカα雛(NoIfolk),pa王tii
61)つぎをみよ。Latimer,Sermons(Everyman ed一p 261);Rye;Gibbon;Dis−
α㈲柑♂7血那血里r れ毎n雛よ那加α柁+(./■〃z♂5〟∂ぶ査d.γ;Dowell,iい1965β甘い;Best s
Farming Book(Surtees Society),pp.85−91;Considerations touching Trade 紗∠摘」動㌧血ねの路β鋸〃zβ彪〝g ・S点βぴβ乃〟β……1641〔E.148し1)〕,pp.12ニー13;and
OJd PβγJ≠α椚β〝ね′・一γガまぶね′・.γ,ivい 446
(52)Dowell,i…199;Gibbon,pp.23−4・
Ⅴ.ケネディ『1640年から1799年にいたるイングランドの租税
−その政策と政策思想紅かんする1試論−−』(1913)〔上〕
・−βJ−
447
ばでいえこば,「査定官ほある人把.・その能力紅応じていかに課税するかを正しく決定するま え紅,かれの家族め費用を調べてみるペきである…L‥〉。」
(ユニー\
配分基準紅かんする16・40年での慣行はこのようなものであった。いっさいめ人が租税を 支払うペきかいなかの問題にらいては岬層不確定であった。Lしかし転がら1点紅ついては きわめて明白である。富者か土地潰族および汐.ェン寸りのいずれかが全租税を支払うペき であるという慣行はまったく存在しなかった。小土地所有者(イングランドほ主にこ.れら
の人々紅よってなりたっていた)はつねに諸相税法で課税され,事実上17世紀紅は特別上 納金を支払ったのであ畠。重要問題は,主として資金疫依存していた労働貧民(小さな土 地所有権を有するものもたないものもあ、ろた)の処置であ・らた。13世紀と14世紀の動産課 税は,免税点を規定していたとほいえ,それが非常に偲ふったので,おおくのたぶん大部 分の貧民をふくむこと紅なっていた。これは,コクルチ.i,スター(CoIchester)課税から みてあきらかである。1295年明細晋の免税点は7シ′リングであり,このよう紅して課税の 対象となった人々の動産ほつぎのようなものだった。ウォルタラス・ファージングは疲年
1頑で5シ′リング,牡牛の子1頭で2シ/リング。クカルタラス・.エイト・ノククは雌牛1 頭で5レリング,カラス麦1クか−トで2シリング。ジ′ヨク人ニーズ・バングアイは染色 材紅つきアンリング。クイルヘルマス・モクレンデイリアスは小麦,カラス麦,豚1頭で 7シリング4ぺソス。免税点は変化したが,14世紀には,カクソティで10シ′リング,タク
(54)
y,バラー,旧デイミL−・シで6シ′リング,が大体の平均であった。非常紅貧しいものだけ
が免税されていたと推測するのは容易である。どのくらいながいあいだ貧民が15分の1税
し65)
と20分の1税を支払いつづけたかということほさだかでない。しかし,16世紀の特別上納 金に.さぎだつ時代においてかれらに課税したというよく知られた事例が,1377年,1379年お
(56)
よぴ1380年紅緊急の要請紅よって課せられた人頭税紅おいてあらわれている。第1のもの
(53)14他紀と17世紀のあいだのイングラソドの直接税にわいてここでのべられた説明は,
セリグマン教授のあたえた説明とはいくぶんちがっている(且∫∫α.卵∠−〝乃.据琉♂ゐ,5地 edりpp。43−7,and Zncome Tax,ppl.47−9)。15分の1税と10分の1税と特別上納金 を一・般財産税患たは物産我と財産税の結合物として−えがくことは,あたしたは誤解をま ねくものであるよう紅おもわれるし,このため紅セリグマン教授ほ17世紀の直接税の意 味と,それ紅たいするピットの所得税のかんけいとを理解しえなくなっているようにお
もわれる。以下の論談をみよ。
甜1322年(Dowe王王,i.262をみよ)と1332年(撤rJ・jおJ/∫,ii)の免税点。
脚 土地の年価値に.たいしてほ10シリングの,財産紅たいしてほ3ボンド6シ′リング8ぺ ソスの新免税点を導入しようと試みた1463年の琴可状(♪α′J…P〃JJざ,Ⅴ・497)をみよ。
髄)Doweli,i..1025βヴ
448 第40巻 第5号
−・・&2−−
ほ,14才以上のすべでの人間に課せられた1レリングの撃純な人頭税であった。舗2と錐 3のものは差率的であったが,1379年のでほ4ペンスの,1380年のでは1シ′リングの貧者 への人頭税をふくんでいた。特別上納金ゐ方をみるとき,分岐線は16世紀の中頃紅ひかれ るべきである。その時期より以前では,年間20シ′リング以上の負金を稼ぐ人々はさまざま
(57) (58)
の機会に課税された。かぐて,1523年紅ほ16才以上の人間で日給または週給または年給を うけとるものは年価値20シリングないしはそれ以上について4ぺンスを支払うべきである とされたo そして,ノ−一戸・アL−ゼyガム(North Erpinghan)の記録からあきらか
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なことは,この規定が実施されたということであり,またこの規定が大多数の労働者紅適 用されえたということであるが,労働者の賃金は当時おそらくこの額よりもずっと高かっ
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たことである。1544年に免税点ほ年雇用紅、ついて40シ′リングに引きあげられたが,これ はなお多数の労働者を捕捉していた。しかし1552−・53年から,賃金は痔別上納金をはっき
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りと免除された。それ以後,貧者は免税されたといっていいであろう。というのは,賃金 稼得者にくわえて,土地またほ官職を有する人は年価値20シリングまで,動産は3ポンドま
で,寺禄は年間6ポンド13シ′リング4ぺソスまで,法律紅よって特別紅免税されたからで
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ある。また免税点はおそらく実際にはもっとずっと高かったことであろう。貧者を捕捉し
ょぅとする折紅ふれてのひそかな試みを別紅すれ還;特別上納金は中産階級とジ.エントリ
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への租税となった。
したがって数世紀の流れを通じて二,貧者課税紅かんしてなんらの−・致した慣行ほなかっ
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